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真の愛のある皆様、アロハです。愛です。というか、明けまくってしまいましたが、明けましておめでとうございます。
いやー、2023年ですねーと言いながら、アホ毛が気になって、アホ毛をなでなで収めようとしてるんですけど、
いやー、年末年始ね、皆さんどんなふうにお過ごしでしたでしょうか?
私はほんとね、クリスマスからね、TTGでね、徹底的にグーたらゴロゴロするという感じで、
やっぱりこのね、タロットの学びもね、滞っていたんですけど、
まあ今年初ということでね、何かしらちょっとカードをね、引いてみました。
で、2023年の運勢とかね、なんかどういうことになるか聞いてみようかと思ったんですけど、
まあちょっとね、そうじゃなくて、なんかこう私今ですね、なんだろうな、
いろんなことがあるじゃないですか、皆さん。皆さんそれぞれ自分の運命みたいなものをね、生きていて、
それは自分で選んだことという、なんだろうな、魂が選んだ筋書きとかブループリントとか、
そういう運命みたいなものがあって、それをね、自分自身が選んで、
まあ意識的にしろ無意識的にしろ選んで、それを生きているわけで、
それをね、これ見てくださっているお優しい方々なんかは特にね、
それを、なんだろうな、勝手に定められているものっていうよりは、
自分の意思でね、選び取って想像しているっていう、
そういうふうに向き合っていらっしゃると思うんですよね、自分自身の人生と。
私もそうなんですけど、でもやっぱりなんかこうね、ままならぬように思えることがあったり、
立ち行かぬように思えることがあったり、
すべてね、そのように思っているっていうことなんですけど、本当は。
そういうふうにね、思うようなことがあったりすると、
なんかこう、どうしたもんかなっていうかね、
なんだろう、この出来事は何を私に教えようとしてくれているんだろうとか、
なんでこんなことが起こっているんだろうとか、
なぜ私はこれを選んでいるんだろうとか、
そういうふうにね、立ち止まって考えることってあるよなって思うんですよね。
私はなんか、まさに今日そんな気分ででしてね、
本当に気分だと思うんですけどね、これ。
体温とかね、お腹の空腹具合とかそういう気分だと思うんですけど、
そういう気分だったので、そういう人生、自分が選んだ運命において、
しかしなぜこれが起こるのかしらっていうような、
なんでこんな気持ちになるんだろうなっていうようなことが起こった時に、
それをどういうふうにね、捉えていけばいいのか、
それは何を教えてくれているのかなっていうことをちょっと聞いてみました。
前置きが長くなりましたが、
こちら。
ということで、吊るされた男ですね。
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これ、吊るされた男っていうと、
刑に悪いことをして、
罰として逆さずりの刑を受けているのかという感じがするんですけど、
でもまあこれ、そんなに良いも悪いもないんですけど、タロットって。
罰として苦行をさせられているというよりは、
この人の顔を見てもらうとね、
あんまり苦しそうじゃないというか、清々しい顔をしているんですよね。
この貼り付けというか逆さずりの刑になっているこの木もね、
テイジー型の木も、すごいめっちゃ葉っぱがザワザワ生えているんですよね。
すごい生命力、生きている木なんですよね。
生きている木に吊るされていて、
この吊るされた人も自ら吊るされているっていう、
意識的にしろ無意識的にしろ。
なので、このカードの基本的な意味としては、
視点を変えるっていうことなんですよね。
逆さになることで見えてくる、逆さになって初めて見えてくる世界があるっていう。
だから、自ら吊るされてみるっていうことももちろんあるし、
自らの意思ではなく何かが起こった、
起こってしまったっていう状況を受け入れて、
受け入れた時に初めて見えてくる気づきがあったり学びがあったりする。
故に彼の頭の後ろには五光が光っているわけなんですよね。
なので、この頭の後ろの五光、光の輪は、
栄光とか栄誉の印ですっていうふうに説明書にも書いてある通りなんですけどね。
価値観が変わる、ひっくり返る。
そんな吊るされ人です。
まさに自分が選んだ運命の中で何かが起きた時に、
どういうふうに感じていけばよろしいのかっていうのに、
本当にふさわしいカードだなというふうに思ったりします。
これもいつものタルトの称号をチラッと読んでみたんですけど、
この人は何かというと、もちろん私たち自身なんですけど、
地上における神様、あるいは神様にとっての人間であるっていうようなことなんですよね。
何かというと、この人は地上にいながら、地の重力に支配されていないんですよね。
逆さになっているわけですから。
何の重力、何の引力に支配されているかというと、
天からの引力に支配されているっていうことらしいんですよね。
足が吊るされているから天に向かってますよね。
だから天の引力を生きている男らしいんですよね。
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だからこの吊るされた男の隠れた意味というのは、
真の信仰、本当の信仰という意味があるんです。
純教とも言えるんですけど、
純教というとキリスト教、宗教、自分が自ら信じるもののために命を捧げるということなんですけど、
この人はまだ死んでいないんですよね。
でも生きている間に自らの命を天に捧げている状態。
だから真の信仰ということなんですよね。
あとキリスト教の聖書の中でイエス・キリストが水の上を歩く奇跡という物語というか、
シーンがあると思うんですけど、
その時に私自身が引力ですというふうなこと。
私自身が引力である。
恐れないでくださいと。
私はここにありますというようなことをイエスさんが言ったとか言わないとか、
言ったとか言わないとかって聖書に書いてあるんですけど、
私自身が引力ですとイエス・キリストが言ったと。
それはどういう意味かというと、
天の引力に自らをつなぐ。
それで地上に肉体を持って生きている人間なので地球の引力。
お腹で地球の引力に肉体を下ろしながらも、
天の引力に心を捧げる、従うというね。
そういう生き方を示してくれているのがこの吊るされた男さんなんですよね。
そうなんですよね。
だから太陽に引きつけられて、
私たちも私たちの星も引力が生まれて、
私たち自身もそうだし、地球とかいろんなあらゆる惑星、
太陽さんを巡って、太陽さんの引力をもとにゴルゴル軌道を、
美しい奇跡的な軌道を描いているわけなんですけれども。
なので私たちも地上の重力というものに支えられながら、
でもこの精神というものは天の引力、宇宙のね。
ほんとすごいじゃないですか。
いつも言うけど、星の惑星の奇跡とか軌道とかね。
ああいう本当に大いなる存在みたいなものが、
私たちの世界の中にもあって、
私たち自身の細胞の一粒一粒が実は、
天の引力に引きつけられている作用をしているんだけども、
普段はこの足を地上につけているから、
それがわからなかったりするんですよね。
なんだけど何かが起きて、
何かがいつもと違うこととか思うようにならないこととか、
こうだったと思ったのに違うぞというようなことが起きた時に、
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私たちってカオスに落ちるって、
秩序から本当に落ちるっていう風な言い方をよくするんですけど、
そういう風にカオスに落ちた時に、
私たちってとりあえずこの状態になるわけなんですよね。
最初はこの人も嫌だとか言って、
下ろせとか言ってジタバタしてたかもしれないんですけど、
そのうちそこに身を任せて見ることで見える世界がある。
そしてその見える世界を見せてくれている、
その天の引力、天の存在っていうものに気づく。
そしてこの人は吊るされた男、
そして私たちはまた新しく生まれ直すっていう、
その繰り返しだと思うんですよね。
本当にずっと秩序というかずっと平和の中、
ずっと幸せというものの中に生きていたら、
本当の幸せの意味とか本当の平和の意味っていうのが、
もしかしたらわからないかもしれないし、
その天の意思とか天の引力っていうものに気づかないまま、
ただただ地上を這う生き物とかしているかもしれない。
なのでたびたびこの状態に私たちは晒されるということなんですよね。
まあさあ、とはいえこれ足も痛いだろうしさ、
頭も血も昇るしね、大変なことだと思うんですけど、
これ象徴的にそれが描かれているんだけども、
だからこそこの人それを受け入れて身を任せたこの人もね、
頭の後ろにはこの光の輪が輝くっていうね、
神教者の栄光ですよね。
まあ孤独な作業ですよね、これ本当に。
みんなで一緒に吊るされるわけじゃないしさ、
本当に孤独ですよね。
誰かに相談できるわけでもないし、
なんか一人でね、天と地の間にね、
全くもっていつもとひっくり返った視点の中でね、
晒されているっていうね、暴れてもね。
暴れれば暴れるほどこの足がね、
足のロープが食い込むし、
頭がね、クラクラしちゃうし。
だからすごく孤独な作業なんですよね。
まあでもね、私たちはしばしばそのような状態に陥る。
でも陥るっていう風に考えるか、
まあそれをね、来たぞ来たぞじゃないけど、
今こういう状態であるなっていう風に認識することで、
全くこうね、見える世界はね。
こんなのね、
神様意地悪って思うか、
神様意地悪なんでこんな目にあうって思うか、
ちょっとこの逆さの世界からどういうものがね、見えるだろうか。
逆さになった目からどういう世界がね、
見えてくるだろうっていう風に考えることで、
全くね、受け取るものが違ってくるし、
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このカオスをそのように、
カオスに陥った時にそのように、
この吊るされ人のように、
それを受け入れ、
自分自身を信じるっていうこととか、
この状態になったという天の意思を信じるっていうね、
その真の信仰を生きることで、
そのカオスっていう状態からまた新しいね、
地図上に変えることができる。
生まれ直すことができる。
そのために本当に必要なイニシエーションなんですよね。
イニシエーションがないと、
やっぱり私たち次の段階に行けないので、
イニシエーションですよね。
はい、で、
普通ね、人間って、
一つすごい印象的だったのが、
すみません、ブレスユーと自分で言うんですけど、
普通自分で、
地に足つけて生きている人たちは、
普通は私たちって何か思考を
最初に考えたり感じたりして、
そして、
合同に移すこれだったらどうなるかなとか、
これだったら何が得なことあるかな、
どんなリスクがあるかな、
どんな気持ちがするかな、
じゃあこれやってみようみたいなね、
最後にアクションが来るっていう風に、
人間の行動に移すまでの過程って、
普通そうなんですけど、
普通思考感情ね、
そして行動に移すってことなんですけど、
どういう過程でこの吊るし人の
この状態になったのかっていうのは、
人それぞれ、
私たち一人一人ですからそれぞれだと思うんですけど、
まず吊るされてみるっていうね、
吊るされていることを認める、
まず吊らされてみる、
まず吊るされるっていう行動が最初にあると、
何のために吊るされるかとか、
まず吊るされてみる、
それは自分自身を絶対的に信じるということだし、
天の意思っていうものを100%信じるということ、
まさに殉教、
真の信仰なんですけど、
この中で、
聖書のお話も入ってて、
アブラハムさんのね、
旧約聖書のアブラハムさんのお話が書いてあって、
アブラハムっていうのは、
私もアブラハムには七人の子って、
あの曲がね、
あの曲が思い浮かぶんですけど、
アブラハムさんっていうのは、
簡単にストーリーを言うと、
結構年老いてからね、
平和に自分の生まれ育った国に住んでたんですけど、
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そこをいきなり神様の声を受け取って、
生まれて育った国を離れて、
もう砂漠に行きなさいと、砂漠に入りなさいと、
そこを旅して、
いろんな彼の受難というか、
いろんな冒険のストーリーが始まってくるんですよ。
あらゆる受難を受けるんですよね。
どんな受難が起こっても、
どんな困難なことが起こっても、
神の声に従うということを、
そこにどうなるとか、
ちょっと危ないんじゃないとか、
そういう思考とか感情とかも一切抜きにして、
神の声に降りてきた。
常に何も挟まずに、
行動に移してきたわけなんですよね。
それで何が起きたかというと、
その都度ね、
神様からの栄光とか、
祝福を受け取ったりとか、
それでもまたそれで終わりではなくて、
また次の神の声があって、
それに従って苦難があって、
また新しい祝福があって、
そういうのをずっと繰り返してきたわけなんですよね。
それが何になったかというと、
彼自身の家族とか、
新しい国の繁栄があったりとか、
そういったことで、
アブラハムさんの何世代にも渡る子孫とか、
国への祝福がずっと続いたわけなんですよね。
人類を救済したという、
元祖人類救済のね、
働きをしたのがアブラハムさんなんですけど、
そのアブラハムさんのような、
意思というか行動、
まず吊るされる、
まず自分の声というか、
神の天の引力に従う、
それがどうなるかとか、
そういうものは一切挟まずに、
それを受け入れるというね、
そういう意義というかね、
偉大ですよね。
なかなか私たちね、
悪あがきしちゃったりとか、
いいですよ、悪あがきしてもね、
人間だものってことで。
最後の最後には、
信仰を受け取ってみる、
そこの世界からどういうふうに、
そこの視点からどういうふうに見えるか、
ということを受け入れてみることで、
次に出現してくる世界も全く違ってくる、
ということなんですよね。
一体どこに連れて行かれるみたいなね、
すごいオーダーするんですよ、神様がまたさ。
すごい、ちょっと読んでほしいんですけど、
旧約聖書めちゃくちゃなんかね、
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スペクタクルか、
すごいオーダーするんですよね、神様がまた。
なんでそんなこと言ったんだけど、
でもそれでもね、次にどこに行くのかとか、
何が起こるのかとか分からないけど、
それは自分自身の命がその点に期待されている、
ということの確固たる信頼がね、
あるからできることなんですよね。
見えないものへの確固たる信頼。
もう自分の想像とか、自分の考えとかいうものを
超えてるわけなんですよね、その信頼、
見えないもののね、意思っていうのは。
だからこそ、神の声に従うというか、
どこに行くかも分からないけれども、
そこに向かっていくということをやり続けたっていう。
私たちもね、そういう、
アブラハムさんの子孫というか、
神の子のね、別にキリスト教でもキリスト教じゃなくても、
人間みんなね、
同じ種からね、
分け入った、我々みんなね、
子孫だと思うので、私たちみんな神様をね、
うちに持っているので、
私たち自身もそういうアブラハムさんのようなね、
行動を本当はね、できるわけなんですよね。
これができるわけなんですよね。
だから、
頑張ろう。
頑張ろうっていうか、
私の意思っていうものをね、
天の意思に変えていくっていうことが、
やっぱり必要なんだなっていう風に、
改めて思ったんですよね。
本物の信仰。
神様って自分自身ですからね。
神様って自分自身っていうさ、
さらっと言ってるけど、
本当にもうって感じですよね。
本当にもうですよ。
とりあえずね、
聖なる地球のカードが、
これね、マトリョーシカちゃんのように、
自分自身の中にこういう風にね、
本当の自分自身がここに眠っているっていうね、
それをピュアなこの子供の目でね、
もう一度思い出すっていうことをやっていく。
どんどん塗り重ねられているので、
地上のルールとか、それこそ重力みたいなものに
塗り重ねられていて、
これが当たり前だとか、こうやってやるのが正解だとか、
これが成功だとか、これが幸せだとか、
いろんなものに塗り固められていて、
それはそれで一理あるんですけれども、
でもいざね、こういう風に何か起こってカオスになったりとか、
吊るされる人の状態になった時に、
それが自分の常識とか世間の常識みたいなものが、
一旦全部ひっくり返るみたいなことがあって、
その時に何をね、より白にしていけばいいのかっていうと、
やっぱり天の意思であり、
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自分自身の中にね、
ある本当の自分、本当の自分自身、
本当の本当の自分自身っていうものを、
もう一度見つけ直していくっていう、
それをより白にしていくっていうことなんですよね。
うーん、
それしかないもんね、だってね。
それしかないっすよ、本当に。
誰の声とかね、考えて考えて、
自分自身の中ではなくて、
ど真ん中に背負われている何か命のね、
源みたいなものを信じていく、
生きていくっていうことしかないなっていう風にね、
思います。
何があったっていう感じですけど。
そして、聖なる気化学のカードは、
デバインフェミニンでした。
21番、私の誕生日ですよね。
女性性と男性性のお話とかも、
これから何百年か、何万年かか、
女性性の時代だとかいう風にもね、
言いますけど、真の女性性っていうのは、
真の男性性が極まって転じて、
真の女性性になっていくっていう。
真の男性性も真の女性性が極まって、
真の男性性に転じていくっていう、
本当に引用をね、あれがぐるぐる回転しているわけなんですけど、
この文脈で言うと、
聖なるフェミニンっていうのは、
女性男性とかそういう、
あれではなくて、一人一人の中にある
女性性と男性性であるんですけど、
真の女性性っていうのは、
新しい男性性と女性性っていうのは、
新鮮な男性性が促されて初めて
小分け渡し開き受け入れることができる
っていう風に書いてあるんですよね。
なので、本当にね、
何だろう、両輪みたいなものが必要で、
このね、1万年か何百年かは、
ちょっとその辺、俺覚えなんですけど、
この長い期間、私たちは男性性原理みたいなものを主軸に
動いていて、女性性っていうものがね、
ちょっと後回しになっていた部分もあるんですけど、
でも、男性性っていうのもね、地上で生きていくために、
こうやって安全なお家作ったり、
社会、秩序、政治、形作って、
平和な生活を守ったり、
寒くても温かいお部屋にいれる、
暑くても涼しいお部屋にいられる食べ物も供給されるみたいなね、
そういう風に人類って、
いろんな貧困とか戦争とかまだまだあるんですけれども、
でも全体的で見れば、本当に、
豊かさの度合いっていうのはとか、
人が死んじゃう割合っていうのは、
どんどん減っているし、安全で、
ちゃんと教育を受けていけるっていう、
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そういう割合も大きく見ればね、
進化しているわけなんですよね。
嘆くことばかりではないっていうね。
でも、それをもっとこれからの時代、
さらに加速していくためには、
やっぱりその男性性の原理みたいなものを、
足がかりに、
天と大地に足をしっかりつけて、
感受性とか感性とか直感とか、
なんだかわからないけどこう感じるの、
みたいなことだとか、
その天の意思みたいなね、
なんだかわからないけど神様の声には従う、
そういう需要性っていう、
それを受け入れる、
それを感じて進むっていうようなことをやっていく。
目に見えないものとのつながり、
人と人とのつながりとか、
お金とか数字に換算できないけど、
とっても大事で美しいものっていうものを、
どんどん信じていくっていうことが、
とっても大事なんだろうなって。
これもさ、この通された男もめちゃくちゃ需要的ですからね、
戦車とかで全然需要じゃないですか。
なんかね、どうしようもないっていうね、
どうしようもないと捉えるのか、
それともね、
受け取る、それを受け入れているという風にね、
私は完全にこの状態を受け入れているっていう風に、
取るのかっていうと、
またね、全然、
そういう感じでね、
縮まってきますよね。
はい、で、最後のカラーのカードはアンバー。
黄金のこの琥珀の炎、炎のように見えるが、
アウェイクン・イヤー・クリエイティビティということで、
想像性を高めようってことですよね。
クリエイティビティって別にね、
アートとかさ、芸術とか音楽とかっていうものだけじゃなくて、
私たち自身がね、
自分自身の人生をどういう風に作っていくかっていう、
そういう想像性でもあるし、
自分自身とのコネクションとか、
誰か、相手との出会う人との応援をどういう風に
つなげていくかっていうことも
クリエイティビティだと思うんですよね。
なので、それをいかにして目覚めさせていくかっていうことで、
起きる出来事、
間違ってくる。
そういうね、本当にね、
そうなんですよね。
僕のファイアーでございます。
リレーションシップとかね、
自分自身とのつながり。
それってね、フェミニーっていうかね、
女性性が得意なところだったりしますよね。
駆け引きなしに、
ただ楽しいとか、ただ心地よいとか、
ただあざざかいとか、
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そういう感覚に従うっていうか、
そういうね、何だろう、
孫徳ではなくて、快か不快かみたいな、
心が喜ぶか喜ばないかみたいなことで、
つながりを作っていったりとか、
自分自身の日々を創造していく、
選択していくっていうことは、
フェミニーっていう概念と
あるなあと思いました。
というわけでね、今年もね、
きっといろんなことがなあって、
いろんなことがね、あると思うんですけど、
私も皆さんもね、フラクタルですから。
愛のフラクタルですから。
でもね、大丈夫です。
大丈夫ですということで、
きっとこういうふうな状態になることもあるんだけども、
だからこそ、私たちはより優しく、
より美しく、より強く生まれ変わっていけるのであって、
だからこそ、このね、
私たちの後ろね、後ろ頭に光る光の輪っていうのは、
どんどんどんどん、これをね、経験、このイニシエーション、
この吊るされ人っていうイニシエーションを経験することで、
どんどんどんどんこの光の輪がね、
よりね、大きく美しく強くね、
輝いていくっていうようなね、
一年になるんじゃないでしょうかって、別に2023年の
運命の一枚ではないですけど、
そんな気分です。
気分で終わらせるっていう。
というわけで、今年もどうぞよろしくお願いいたします。
天使さんとともに。
皆さんの愛する全ての人にとって、
愛と光あふれる一年となりますように。
なりますようにっていうか、なります。
はい、断言。
というわけでね、今年もどうぞよろしくお願いします。
ではでは、今日はこの辺で失礼します。
ばいばーい。