こんにちは、田代です。
こんにちは、堀です。
Advanced Therapist エピソード39本目ということで、今回はちょっと、最近は教育とか、前回ものづくりとか、
そういう仕組み的な話も結構多かったので、改めてもうちょっと内面というかですね、そういうところにも触れて話していけたらなと思います。
内面と言うと、なかなかどこをターゲットにするかというのは難しいところでもあると思うんですけども、
一つは事故と言われる、自分自身というのが一体何なのかというところを見ていくということを、
多くの人がどういう形でやっていくのかなというところに結構僕は興味があるんですね。
個人的にはずっと事故を追い続けている人間ですので、いろいろな意味で事故なのにいろいろな分節があるというか、レイヤーがあるというか、
田代さんが事故ということを捉えていくとすると、どんな学問だとか、どんな考え方とかの立ち位置で考えることが多いですか?
でもやっぱり、もともと医療とか教育みたいなところが仕事的には興味があってというところなので、
学問的に考えるとそういうところですし、あとはうちのおじいちゃんがデザイン的な仕事をしていたというのもあって、
クリエイティブな方面というかそういうところも興味があったので、何か自分の根っこの部分というか分からないですけど、
学問的に考えるとかいうと、その辺から起点に考えることが多いかなと。
おそらく僕自身が事故という問いを持ち始めたきっかけは、やっぱり死ぬことを子供心に知った頃からだと思うんですね。
自分自身が死んでしまうということの怖さというところから、
自分自身は何かというところを、小学校4,5年くらいの時によくテレビなんかを見てて、
もちろん一つは死ぬというような映像を怖いと思ったということ。
でもこれって事件とか事故とかちょっと遠いシーンだったんですけども、
自分と近しい年代の子が病気になって死ぬとかというドラマを見た時に、
これはもう忘れないですけど、こっち来いUFOというやつがあって、
確かに白血病の子供の話だったと思うんですよ。
それに自分自身がある種共感してしまうというか、
もし自分だったらどうだというところで、その日に夜寝れなくなったんですよね。
それは単純に死ぬことが怖いっていうところの生まれだったんですけど、
それをもし言語化できるんだとすると、事故の死というのは一体何なのかというところを捉えていたんだと思うんですね。
それはドラマの中では友達も死ぬわけですし、自分も死ぬわけなんですよ。
友達が死ぬっていうのは事故の死ではないんだけれども、それも怖いんですよね。
同時に事故の死というのも怖くなるというところが、
僕自身のかなり内面的あるいは基礎的な問いなんですよ。
そういうのって何ですか。
自分自身はあんまりそういう記憶はなくて、
でもちょうど最近も大学時代の同級生で、
物理学系の本とかよく読む友人と話してた時に、
その人も小さい時に死ぬっていうのがすごい怖かった記憶があって、
今でもいろいろ本を読むのはそこが原点になってそうだなみたいな話は言ってましたね。
なので我々に決められたルールが一つだけあるとすれば、
生きていると必ず死ぬっていうルールがあるわけで、
このルール以外の人は不幸になるとか幸せになるとか、
多くのルールは持っていないけれども、
その全てにおいて死が常にあると。
なので人間が時間を考える時っていうのは、
つまり仏教でいう生老病死と言われる、
生きるとおいて病んで死ぬというこの一連の流れというものは、
時間性の中にあるわけですよね。
時間的存在である我々というのは必ず死に向かっているという、
この条件を超えられないんだとするとどう受け入れるか、
というところが僕の内面的な問いの基本的な部分です。
そうですね。どのぐらいですかね。
小さい時に死に対する恐怖を強く感じるっていう。
自分はあんまりそういうふうなことを、
幸せだったのかもしれないですけど、
感じずに生きてきたっていうところなんですけど。
なんか本当に感受性がその部分に引っ張られたのは何かわからないです。
ネットでこっちこいUFOって調べたら、
1989年のドラマだから僕が12歳の時なんですね。
小6の時にこれを見てかなり引っ張られてしまったというところはあります。
小学校6年生の時の自分がなぜこんなに死に引っ張られたかというのは、
全く思い出せないんですけども、
もちろんその前にもいろいろなことは思ってたと思うんですね。
だけどもこのドラマが頭の中にこびりついているっていうこと自体は、
小学生が白血病になって苦しみながら死んでいく。
ここは苦しみながらっていうところが一つで、
怖さっていうのを引っ張ってきたとは思うんですけれども。
何でしょうね。
そうですね。
でも多分自分も死の怖さみたいなことはあまり記憶ないですけど、
なんだかんだやっぱり時代中盤とかになってくると、
人間は何歳まで生きれるのかみたいな、
あと残り数十年っていうか、
そのぐらいなのかみたいなことを考えると、
この間で何ができるかなとか何がしたいかなみたいなことは考え始めてたような記憶は何とにかあります。
そうですね。
なので時間制のことを考えると、
みんな死の逆算から物事を考えるわけですね。
これギリシャ語でメメントモリっていうわけですけども、
死を思えっていうことですけども、
死を思っての行動というのは、
かなり人間の多くの人たちがやってきたことであるし、
なので死というものを超越させていくと、
自由に動けるようになる。
これがおそらく宗教なんですよ。
死の扱いを宗教はかなりしっかりと扱ってきて、
だからキリスト教であれば天国に行けるっていう発想。
古代の仏教というとなかなか難しいですが、
少なくとも浄土神宗なんかっていうのは、
いわゆる阿弥陀如来の初の花の場所に行けるわけですよね。
もしくはそれよりも古い場合となると、
輪廻転生というのがあって、
また何か生き物に戻れるとかっていう、
いろいろな死んだ時の解釈っていうのが宗教として作ってるわけですね。
これイズラムも天国に行けるわけですけども、
天国に行けるんだったら安心じゃんっていうこの感覚が、
歴史上人間をものすごく支配してきたわけですよね。
だけど現在の日本に全ての人って、
天国をあるかもしれないが、おそらくないって思ってるわけですよね。
それで生きる死ぬっていうこと自体の解釈っていうのはかなり変わってきてるだろうなと。
あるいは20年で死んでた人もいれば、
今は100まで生きる時代になってきたので、
時間軸というものが大きく動いてるっていうこともあるだろうと思います。
寿命とか病があっても長く生きれるような、
生きれなかった時代もあると思うんで、
死の認識っていうのは全然違うかなと思いますし。
自分の話だと、数十年とか生きていく中で、
やっぱり仕事を占める割合がめちゃめちゃ多いから、
その仕事が苦しすぎると良くないし、
できるだけ楽しく感じつつ、
世の中に価値があることもできたらいいかなみたいなことを考えてたのが、
多分医療とか教育に興味持ったきっかけかなと思ったんで。
死っていうのは誰しも訪れるけど、
その間で何するかみたいなことを、
どういう点で考えていくと良いのかなというか、
どのタイプがあるのかなとちょっと思いましたね、その宗教以外。
その現代においての死のターンというか、死の捉え方で、
その病気というものは、
それこそもう100年前、200年前から考えたら、
かなり克服してきてるわけですよね。
だけれどもストレスだとか、
心に来るような問題というものは新たに生まれてきてて、
例えば、もちろんこれは何て言うでしょう、
それを悪く言うわけではないですけど、
いじめだとか、色々な社会的なストレスだとかって、
究極は逃げれるはずなんですよね。
だから死というものとの直接の繋がりというものが見えないんだけれども、
人間というのは何故かその状況というのに絡み取られて、
死を選ばざるを得ないような状況というのが起きてくるという、
結構特殊な生き物だと思うんですよ。
猫を追い込めていっても、
自死することというのは多分ないんですよ。
逃げるんですよね。
それを自死する生き物というのが、
もしかしたら虫とかそういうのはいろいろいるのかもしれませんけども、
哺乳類に少なくともいないんですよね。
だから人間の社会というものによって起きるものなのか、
この特性というのは何だろうかという、
要は本来は生きたいはずなんですよ。
でも生きれないという状態を、
精神的な判断で行うということ自体が、
すごい特殊な生き物だなというふうにいつも思うんですね。
同じ生き物でも、
人間以外の動物であれば、
まず生存本能が先立つような感じはあるかもしれないですけど、
人間もそれはあるとはいえ、
何か社会的な影響なのか、
言葉は使えるかどうかとかも含めて、
自主みたいな行動を取るというのは特徴的だと思うんで、
その辺からもだんだん人とはみたいなことが見えてくるんじゃないかと。
同時に、我々は生きていることに対して、
なぜ頑張らなければいけないかという問いも出てくるわけですよ。
究極はどうせ死ぬのに、
なんで例えば若いうちから勉強して努力しなさいとか、
本当に一生懸命仕事しなさいとか、
理学療法士だったら自己検査しなさいとか、
世のため人のためになりなさいって、
個人の人生においては、あんまり何でもいいじゃんと思うわけ。
それはもちろん、どうせ長く生きるっていうところに、
より楽な選択ができるようにという、
社会的な意味としては理解できるんですよ。
だけども、心の中にあまり贅沢な気持ちを持たなければ、
楽に生きれるはずなんですよ。
社会とも一緒にならなくていいし、
社会の中に入ったら、先ほどの自私の問題も起きるわけじゃないですか。
我々が求めているものっていうのは、
一体何なのか。
そこが事故に繋がってくると思うんですけども、
自分が求めているもの、
あるいは自分ってのは一体何なのかっていうものが、
ちゃんと見えてこないと、
今言ったような問いに答えられないと思うんですよね。
このあたりとしろさん、
何かしら自分の中にある存在意義だとか、
あるいは自分自身の役割とか、
自分について考えることって何かあったりしますか。
どこまで語るのかなって感じですけど、
誰しもいつ死ぬかわからないしっていうところもあれば、
結局人生、死ぬまでの暇つぶしだよねみたいな、
そういう感じもなくはないですけど、
それでもやっぱり生きているのであれば、
ただ自分の欲を満たすだけっていうよりは、
誰かのためになることもしておいたほうが、
自分の満足感も高まるし、
いいなっていうのもあるので、
理科的なところと理工的なところ、
混ぜて考えているのかなっていう感じですかね。
今の人のためになったらなぜ満足するんでしょうか。
それも人のためというか、
自分はできるだけ自由にいきたいなって思ってると思うんですけど、
自分一人で自由に時間を使えてとか、
自由な行動をできたら自分は満足かもしれないですけど、
結局それをするためにも周りの人の影響っていうのも
大きくあるかなと思いますし、
自分が居心地いい空間にするためには、
人も居心地よく生きているのも重要だろうからっていうのも含めて、
周りのことも考えているかなと思います。
もうちょっと深めていくと、
自由とはどういうふうに定義づけますか。
自由、そうですよね。
一日の過ごし方でいうと、
俗な感じですけど、
夜、好きな時間に寝て、
朝も目覚ましかけずに起きて、
ご飯とかもゆっくり食べて、
気心知れた人と関わりつつ、
誰か人の役にもなつことをして、
生きるために必要なお金も得られて、
今で言えば家族との時間を持ててみたいなところが、
そういう一日を過ごせたら自分は満足かなとは思うので、
そうじゃない要素が入ってくると不自由に感じると思うんですけど、
そういうためには、
周りで関わっている人との関係性も必要だから、
一旦、自分が感じている自由な一日の過ごし方でいうとそんな感じですかね。
今の自由、あるいは自分のやりたいところっていうのは、
決して難しくないじゃないですか。
もちろん多くの人が何を求めているかというのは一旦置いておいても、
田代さんにおいての生活っていうものは、
日々続くものということがあったとしても、
そんなに難易度が高くないということだと思うんですけども、
じゃあなぜその難易度が高くないことを達成するために努力しているんですか。
そうですね、
自分の後は何だろう、
以前もストレングスファインダーみたいな話もあったんですけど、
学習欲というか知的好奇心が高いタイプというか、
新しいことを学び続けたいみたいなものはあったりするので、
日中過ごす中でも日々ワクワク感を感じたいというか、
それをやるために結構頑張っているみたいなのはあるかもしれないですけど、
そういう自由な時間を過ごすためには仕事の仕方とか、
個人的に今独立して働いているというのもそういう理由はありますし、
その中でも今まで解決できていない世の中の課題とかも解決していきたいというか、
そこは根っこにあるとは思うので、
どういうところが理由になっているかというのは、
はっきり今は言い動かしきれない感じもしますね。
結構なので、自分がなぜ生きるかと言われると、
まあまあ難しくて、多くの人たちが生かされているとかという表現もしたりするわけですよね。
この生かされているというのは、じゃあ誰に生かされているかということが、
身も蓋もない言い方をすれば単に社会に生かされているだけだというふうになるわけですけども、
同時に我々は神によって生かされているというふうに考えている人たちというのが、
世界中を見るとかなり多いわけですよね。
だけど日本人というのは、その感覚というのが薄いのは薄いんですよ。
ただ、全体的にそっちの方が多くいるというのが、今世界のあり方なわけです。
だから海外なんか、特にインドなんかに行くと、お前の宗教は何だってよく質問されたりする。
つまり何を信じてるんだっていうことが聞かれるわけですね。
日本人何信じてますかというふうに問われると、一瞬困るんですよ。
その信じてるということ自体は、それを信仰しているだとか、それ自体に影響を受けているということなんですけども、
我々日本人って信仰がないわけでもないし、信じていないわけではないけれども、
それを具体化されるとちょっと困ってしまうっていうことがあったりするっていう。
田代さんは信仰みたいなのあったりしますか。
それもちょっと考える機会はあるんですけど、
でもやっぱり西洋的な、宗教でいう何かを信仰するみたいなとこはちょっと違う感じはしますし、
そういう意味だと矢をよろず的な、いろんなとこに神がいてっていうのがしっくりくるかなとかはありますし、
どうなんですかね。何か特定の信仰があるっていうわけではないですけど、
信仰するとか信じるみたいなのはまだよくわからないかもしれないですね。
例えば、先祖とかっていう概念はわりと強く持ったりしますか。
そうですね。そんなにすごい家系図があってずっと歴史を連綿とたどってみたいなのはないですけど、
赤参りは行くとか、そういう思いがける一世代、二世代前ぐらいまでは意識しながら生きてるとは思いますね。
日本人に昔からある一つの宗教形態でいうと、先祖崇拝というのがすごく強いんですよね。
それは仏教が入ってくる以前の神道と言われるものからもある、そのため大きな墓を作ったりするわけですよね。
これは日本だけではなく古代文明なんかには特徴なわけですね。
ピラミッドを作ったりだとかっていう。でも、大きなお墓を作るっていうのが全ての国で行われてるわけでもない。
ただ日本はピラミッドじゃないですけど古墳なんかを作ってきている民族ですよね。
中国は、例えば神の始皇帝は平和王を作りましたけど、各王様がめちゃくちゃでっかいピラミッドみたいなのを作ってる感じはそうでもないんですよね。
日本がそういう神道というものを作ってるのは、一つは死んだ人たちというものを崇拝する。
そしてそれを脈々とやっていくという先祖崇拝ということ自体を行っていますし、今もやはりお墓というものを大切にするという。
これは仏教との関係にも結びついてきていますけれども、先祖に関する考え方というのがものすごく強いのが、
アジア圏というのが儒教もそれが強いので、神道、儒教、仏教というのは先祖崇拝が強いんですよね。
だから本来はもしかしたらインストールされているとすれば、我々は先祖のものをインストールする。
なので名前とかも先祖影響ってすごい受けるんですね。
これキリスト教圏の人たちって名前にそういう影響を受けないっていう風に言うんですよ。
だから聖書の中の名前をつけることが多いですよね。
だからこれは先祖ではなくて、我々は宗教的な影響があるとすれば先祖に関わる名前をつけるというのは、いわゆる先祖崇拝になってきますし、
キリスト教の人たちというのは聖書の名前をつけるというのはキリスト教崇拝のところに影響しているわけですよね。
だから結構古くから先祖というものに関しては何かしらのイメージを持っていたりするかもしれません。
草場の陰からおばあちゃんが身を守っているみたいな。
これはキリスト教にはないらしいですね。
そういう意味では先祖崇拝的なところはあるかもしれないですし、
あと一応自分の会社は日本の神話から名前を取ってきていたりとか、
自分が住んでいる兵庫県西宮神社のエベスさんみたいなところは過去からも信仰されていたというところかなと思いますけど、
一応信仰という言葉に一番近いところで言うと神道とか神話とか神社みたいなところが個人的には一番短いかなという気がしますね。
それも個人が例えば信仰するきっかけとかってやっぱり神秘的体験だとか神秘的な話だとか、
あるいは家族からの話とかっていうのがすごく影響を受けやすいらしいんですよ。
僕自身あんまり神秘的体験とかっていうのもないですし、
強い信仰がないんですよね。それが逆に言うと困っているというか。
信仰があったら楽なのにって思っちゃうんですよね。
かといって信仰した先で神がこう言ったっていうような話をいろいろされたとしても論破したくなっちゃうんですよね。
論破というのはいわゆる2千何百年前に書かれた聖書の解釈と現代の科学の解釈だと、
それは現代の科学の方が一定数の真実性があるから勝っちゃうっていうあまり生産的ではない論破になっちゃうんですけども、
神がこう言ったって言うけど神って誰ですかってどうしても聞きたくなるんですよね。
だけどもそれに本当に納得したら僕はそれを信仰するんかなと思ったりもするわけですよ。
そうですよね。自分もすごいそういう神秘体験的な強い信仰があるっていうよりは、
なんとなく巡り巡って今こういうふうになってるっていうか、
結局人だったりとかその土地の縁の中でつながりながら今こうなってるなっていう感じなんで、
縁みたいなものっていうのは仏教的な考え方?
縁は仏教の話。なので仏教的っていう形になってくると、
仏教はやっぱりもともと学問という形でできてるのもあって、
その宗教なのか学問なのかっていうところが扱いづらいっていうとおりになるんですけど、
かなりやっぱりうちにこもりますよね、仏教は。
何か神という座標を置いて、その座標から自分が見えているっていう形を見るんではなくて、
自分と何かのバランスなんかで見るんですよね。
だから縁なんかもそうで、その天秤の端にある自分の立ち位置と相手の立ち位置とか、
それが相手が人とは限らないんですけども、
何かしらの対象とのバランスを取るというところを強く意識する宗教なので、
僕なんかは面白いけれども、中傷概念が強すぎて受け入れられづらいというのも受け入れられづらいし、
反逆心経なんか見てても、結局AイコールB、BイコールCっていう風に繋いでいって全部イコールじゃんっていう話になる。
確かにそれは答えとしては、AイコールCまで繋がっていくと楽にはなってくるんですけど、
なんでそう言えるんですかの説明はよくわからなくなってくるわけですよ。
なのでどういう風に自分をその宗派の中の理解に結びつけていくっていうのかは難しい。
ただこれがあると内面的な落差というのは出てくるんですよね。
要は先ほどちょっと比喩的に言いましたけど何かしらの座標を持つってことなんですよ。
神様の価値観の座標を持ったら自分がやっていることが良いことと悪いことという風に分けられると。
だけどその座標がなかったら良いこと悪いことが何かわからないんですよね。
社会的に決められたものも実は神様座標で決められていることが多かったりするわけですよね。
要はなぜ人を殺してはならないかっていうような問いに関しても、
今は法律的っていうような部分も言えるかもしれませんけど、宗教的にも言えるわけですよね。
ただ生物学的には無理なんですよ。
それは原初に戻れば戻るだけ人を殺してはいけないという理由が作れないっていう非常に社会的な意味としてのもの。
その座標をどこに置くかっていうところはちゃんと持っておいた方がいいよなといつも思いながら僕は座標を持てないことを苦しんでいます。
そうですね。そういう意味だと自分も特定の信仰があるっていうわけでもないので、
何かに座標を持つというよりも結局バランスを見ながら今だったらこうしようかなっていうのを
自分の中で可能な限り納得できることを行動しているのが日々っていう感じなので、
そうですね。こういうのはどう考えていったらいいのかなと思いますけど。
なので例えば日本人でそういった座標を持っていないようでもってはいるんですけども、
その代わりに今度は例えば血液型信仰だとか、
星座とかエトとかっていうのはあれかもしれませんけど血液型強いですね。
古い人はエトの信仰を持ってますよね。
だから要はパターニングをしたいんだということで、
この人ってこんな人だよねっていうパターニングは誰しもがやっぱりしたいわけですよ。
たしろさんってこんな人ですもんねっていうことを本人に言わなくても自分の中で思っておくと
たしろさんへの接し方とか、あるいは違う人の接し方とかっていうのは
そのパターンに合わせて接していくっていうことがあると。
それが4パターンだったらすごい楽だからあるなというのは思います。
そうですね。
最近だと MBTI とかいろいろ流行ったりしてますけど、
個人的には結局人それぞれ違うからあんまりパターン分けするの難しいんじゃないとは思ったりしますけど、
どうなんでしょう。
何か得点の目的があればそういうパターン分けすることで、
でもスポーツとかイメージするとこういうゲームの中で勝つためにはこういう特性があった方が強いよねみたいなのがあったりするんで、
目的次第ではそういうパターン分けも有効かもしれないなと思いました。
パターンっていう言い方がいいのか修正という言い方がいいのかわからないんですけど、
僕はそれこそいつだったかな、
修士科なんかの時にライオンの狩りの方法のテレビを見ていて、
人間というのは結局修正を持って生きているんだみたいな発表をして、
先生に怒られた記憶があるんですよ。
人間というのはもっと自由なもんだと。
結局我々は全てにおいて修正というものに取り囲まれていて、
その修正の中から一部の自由度を持ち込んでいるみたいな話をしたんですよ。
そうしたらもっと人間というのは自由だって言って、
それが僕未だに消せないんですよ。
それはもちろん先生が間違っている正しいとかではなくて、
修正の部分というところに何かしらのエッセンスを持ち込んでいるだけではないか。
つまりこれは今僕がやっている研究でもそうなんですけど、
形式値というのがあって、その上に熟達値が乗ってくるというのはそれにも近いんですけども、
もう何か考えずにパターニングで動いていることっていうことがほとんどであって、
それから逸脱していることに関して我々は考えているに過ぎないと。
だからこのパターンの理解というものが自分の理解に最も近づく。
だからどんなものが好きとか、どんなものが嫌いとかっていうのはかなりパターニングがあるはずなんですよ。
それは血液型とかっていうことではなくて、
肯定的なものもあれば先天的なものもあるだろうということで、
僕は自分自身を遺伝子検査もして遺伝子のパターンを見たりだとか、
あとはクリフトンストレングスで自分のメンタリティの強み、資質の部分を見たりだとか、
結構パターニングするんですよ。
だから自分はこのパターンっていう落としどころを一つ持っておくっていうところ、
それが科学信仰といえば信仰なんですよね。
ただ科学自体は僕はどちらかというと斜めのところから見ているので絶対的に信仰はしていないんですけれども、
さあ何を信じますかねという。
そうですね。
自分もどっちかっていうと20代までは科学的な研究とかをすることが多かったんで、
科学についてしっかり学んでいけば何か自分の中での正しい考え方っていうか理解が深まるんじゃないかなと思ってた感じですけど、
なかなかそれだけでも難しいなっていう感じで今30代半ばっていうところなんで、
まさに何を信じるかっていうのを迷っている感じはあります。
だからそういう意味だと言葉っていうよりも結局身体感覚として言語化しきれない何かでも
自分が感じている部分とかそこが最終判断になるのかなみたいなことも最近思ったりするんですけど。
なので私を見ていくってなった時に、要は今どちらかというと僕の立ち位置は本質論にいるわけですね。
本質的な事故がいるっていう立ち位置に立って話しているわけですけども、
結構本質論って否定的な人たちも多いんですよね。本質はないっていう。
でも本質がないとなってきたらでもパターンは本質に持っていくこともできるじゃんといろいろ思ったりとかして、
いろいろ悩み続けるというところであるんだけれども、
少なくとも自分のためというところの立ち位置に入っていく方が、いろいろな理由づけはしやすいということがありますよね。
じゃあ改めてやっぱり事故って誰なんでしょうっていうところに帰っていく。
つまり田代さんと同じように考える事故性を持っている人もいれば、そうは思わない人たちもいるわけですね。
それはパターンがあるのか、習性があるのか、結局事故って何ですかっていうところを結構深めていかなきゃいけないなと今思っているところです。
そうですね、そういう意味で自分の中だと、これまでスポーツとか関わってきた中でもスポーツの種類によってもある程度特性は違うのかなみたいなのはありますし、
これまであまり宗教とか触れてこなかったのもあるんで、日本人的な感性だとこうだけど、
特にキリスト教とかイスラムとか一神教的な考え方の人が個人的にはよくわからない部分が大きいんです。
その辺の勉強をしていたりしてますけど、それも一つのパターンみたいなところかなと思いますし、
自分に近しい人以外の人の考え方を理解していくと、自分もいろんな人と関わりやすくなるから、
いいかなというふうに勧めてますけどね、最近の。
事故の部分を掘り下げていくと、本来自分のことなのにそれがだんだんわからなくなってくる。
この落とし穴は常に面白い問いなんですよね。
なので我々だけではなくて、これを聞いてくださっている人たちっていうのに、あえてあなたって誰ですかって常に問いかけたい気はするんです。
同じように、信仰のものであったりだとか、過去の経験であったりだとか、自分自身がしたいことだとか、自分自身がしたくないことだとか、
そういったものをできるだけ多く言語化していくっていうことが大切だろうなと思いながら、
さらに事故っていうものを、そこがあくまでもスタート地点としてどういうふうに語るかっていうところなのかなとは思ってます。
そうですね。
事故とはみたいなところも、自分の悩みを見つめていくっていうのもあれば、
最近はちょっと周りで自分とは違うというか、これまで触れていかなかった価値観を知ることで、逆に自分が見えてくるみたいなこともあるかなとは思うので、
最近そっちをやってますけど。
つまり座標を持つということですね。
他の座標からの比較的事故っていう、それはあえて違う言い方をしたい。
比較的事故と絶対的事故っていうものを分けとかなければいけないというのが僕の基本的な概念なんですよ。
比較的事故っていうのは確かに言い表しやすいんですよ。
この人と比べたらこうだっていう。
例えば見かけなんかもそうですよね。
身長がこの人に比べてこれだけ高い、これだけ低いとかっていうことは言えるでしょう。
ただそれはあくまでも観察できる比較であって、観察的なさそうなものが結構ありそうな気がするんですよね。
だからそれを放り込んでいくっていうのはここでやるのはなかなか難しいと思いますけれども、
そのあたりもちょっと僕個人はずっと見ていくっていうタイプですね。
なんでさっきの言うと比較的っていうよりは絶対的な事故とはみたいなことを森先生の中ではずっと考えているっていう。
そうですそうです。
比較的事故は状況に応じて何と比較するかで見えてくるので、質問に対して答えれるとかいうことは結構できるわけですよ。
だけどあなたって誰ですかって言われたとき以下答えれないってことです。
そうですよね。難しくなっていましたね。
なのでぜひ皆さんに問いたいのはあなたって誰ですかっていうことを問いたいなと今思ってます。
ちょっと聞いていただいた方は改めて考えてみてもらって。
1週間考えていただいて。
後半部分また話していくとすると、そこは一旦また理学療法士とかセラピスト的な事故みたいなところから考えていくと良さそうですか。
もうちょっと田代さんにどんどん質問をしながら、田代さんの事故を掘っていこうかなと思ってます。
自分探し的な話をしながらまた話を深めていけたらなと思います。
ありがとうございます。
ありがとうございました。