1. 広告を楽しむ『アドバタラヂオ』
  2. #210 それはまるで、踊る企画..
2024-08-01 45:03

#210 それはまるで、踊る企画御殿!?福里真一さんがクリエイターとして育った環境 #コピーライター #広告ウヒョー

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アドバタラヂオをいつも楽しく聴いてくださってありがとうございます。 パーソナイティーの富永誠です。
今回のエピソードは、前回に引き続き福里真一さんをゲストに招いて、 広告業界に入られたその後を皆さんにお届けしたいと思います。
今回もめちゃくちゃ面白い内容となっておりますので、ぜひお楽しみください。 それではどうぞ。
第2クリエイティブディレクション局に配属されて、 その時は第1とか、当時第1から第5まで分かりませんけど、その時は
第2クリエイティブディレクション局というところなんですけど、 多分須永さんとかもまだ知らない、入り船ビルとか分かります?
入り船ビルは分からないです。 当時電通が築地と入り船に2カ所に拠点が分かれていて、
築地にクリエイティブで言うとエースが全員いるっていうので、 築地に第1CD局と第4CD局っていうのがあって、そこに当時で言うと三浦竹彦さんというグループがJR東海の
クリスマスエクスプレスとか何々エクスプレスみたいなことをやってたり、 佐々木さんも岡さんも佐藤雅彦さんも古川優弥さんも全員4CD局っていうところにいて、
なんやかんややっていて、一方入り船という離れ小島みたいなところがあって、 そこはビルの形からして呪われたビルで、
要は何かっていうとそのビルのところに建っている家が立ち向かなかったんですよ、最後まで。 その分、家の分ビルの形がくり抜かれている形になってて、
なんか変なんですね。それでそもそもの入り口からもう何か 建られているビルみたいな感じがしている中、ここに第2CD局と第3CD局というのがあって、
当時入り船電気館と呼ばれてたんですけど、そこにあるクライアントさんが 東芝さん、NECさん、松下さん、ひたちさんっていう電気系の企業が、
今言った企業たちって、今はそんなに広告バンバンやってないかもしれないですけど、 当時はやっぱり日本の電気会社ってものすごい勢いがあったので、
割とその館にいる人たちはどっかしらの電気の会社をやるっていうそういう流れでしたね。 そこの電気のところ、たくさんやっていらっしゃったんですか?
私はそういう意味ではNECさんを担当する部署にいたので、そこでNECというと佐藤雅彦さんという人が、
その人は築地の4CD局の人ではあるんですけど、どういう流れがあったのか、2CD局にあったNECの仕事をやってて、
代表作はバザールでござるという、バザールでござる、バザールでござるっていうね、これを聞いてる方、ご存知でしょうか?
03:08
90年代の代表する広告なんですけど、私はバザールでござるもちょっとだけ絡んではいたんですけど、主には文豪というですね、ワープロというものがありまして、
若者たち、ワープロという機械は知ってますでしょうか?パソコンが出る前にですね、ワードプロセッサーというワープロという文字だけが打てる機械というものがありまして、
それもそれなりにいっぱい世の中に売れる商品としてあって、NECという会社は文豪というワープロを出していて、それのタレントさんが野村博信さんという人が出てて、
そのCMも佐藤雅彦さんがプランナーとして担当していて、その作業の下についたというのが新卒のタイミングで、私だから2人の方についてるんですけど、
NECの文豪で佐藤雅彦さんと、フジフイルムの仕事で田中徹さんという方がいて、田中徹さんというのはちなみに当時、レーモン小暮の映るんですという商品、
皆さんご存知でしょうか、若者たちよ。最近またZ世代で復活と言われてますけど、映るんですというのも当時ものすごい売れてて、レーモンの映るんですというCMも結構ヒットCMだったんですけど、
とか水木有栖さんが出ているフィルムのCMですね。フィルムわかりますでしょうか。
はい、デジカメないですよ、まだその時代はね。というお二人の下についてクリエイティブの仕事がスタートしたということです。
ちなみに佐藤雅彦さんは電通に当時は所属されていましたが、今東京芸大の教授をされているんですね。田中徹さんは今はサイバーエージェントという会社で確かクリエイティブの統括みたいな感じでされているのではないかという浅い情報ですけども、多分そうじゃないかなみたいな感じでお届けしております。
すごい、想像たるお二人の下につかれたんですね。
そうですね、とにかく良かったことがあるとしたらお二人がもう全く似てなかったので、でも一つ自慢することがあるとしたら、
そもそも佐藤雅彦さんの下で仕事をすることになったきっかけというのが、文豪というワープロのラジオCMというのがあって、
そのラジオCMをいつも書いてた先輩が、佐藤さんじゃない先輩が書いてた人がちょうど夏休みでいないから、誰か他の人が書かなければいけないというので、
そこで親友社員でやることもないから、お前も書いてみろって言って、だから完全に生まれて初めて書いた文豪のラジオCMというのが巡り巡って佐藤さんがそれを見て、
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彼は天才だって言って、彼を呼んでくださいって言って私呼ばれまして、で佐藤さんにラジオCMとても面白かったですとかなんか言われて、
一緒にこれから仕事をやりましょうとか言われて、佐藤さんのその作業に入ることになったんで、すごい天才なのかもみたいな、
そう言われちゃったよみたいな感じで喜んでたんですけど、そこから3年間ぐらい佐藤さんの下にその作業をやってましたけど、その後一度たりとも褒められなかったし、
最後3年後ぐらいにタクシーで隣り合って座りながら、福里くんはさ、やる気はあるんだよねって言われて、
やる気はあるんですけどね、みたいなことでお別れになったっていう、結局通用しなかったってことなのかな、最初はね殺送と呼ばれていったんですけど、全然通用しなかったんですけど、
でその佐藤さんがクリエイティブディレクター、プランナーとしていて、その下に福田さんがいて、アイデアを出して、その佐藤さんが思い切る企画に対してのピースとしての福田さんの企画みたいなことはあったんですか?
はいはい、いい質問ですね。まず佐藤さんの企画っていうのは結構集めるんですね。
でその集める人たちっていうのは別にクリエイティブとは限ってなくて、アイデアを出す人なら全員会議室に入っていいですと、アイデアを出さない人は出ててくださいっていうので、うちの増美さんっていう金津佐藤雅彦さんと組んでらしたプランナーの方がいて、その方は間違いなく入っていて、
あともうちょっと私よりも先輩のコピーライターの方とか、プロデューサーであってもアイデアを出す人はそこにいてもいいとか、何なら営業であってもアイデアを出す人はいてもいいっていう状態になってて、ただ見てるだけの人は出てってください、CDであってもアイデアを出さないなら出てってくださいって言って、本当に外で徹夜でずっとCDが待ってたりするんですよ。
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全員やって、そこはもう何も思いつきませんでしたって絶対に言えないんですよ。それはもうそんなこと言うぐらいなら死んだ方がマシぐらいの空気が漂ってるんです。だから何かは必ず思いつかなきゃいけなくて、でもそれは最悪CMの企画になってなくても出演者のアイデアとか誰々が出るのがいいと思いますとかだったり、商品カットはこうするのがいいと思いますとかそういうことでもいいんですけど、
何かはとにかく思いつかなければいけないっていうのをもうだから12時ぐらいから一通りやって、じゃあまた3分測りますって言って、はい3分経ちました。福里さんは何を思いつきましたかとか言って、それをもう延々とやっていって、あともう一個あったのは佐藤さんがトイレに行って会議室に帰ってきた瞬間にバッって開けて、福里さんすごいアイデアを思いついたらしいですね、それはどんなアイデアですかって言われて、
すぐに答えるっていう、そうそれもだからその時にあんまり頭で考えるんじゃなくて、瞬発力でその時パッと言ったことにもしかするといいアイデアがあるかもしれないみたいな、多分ことなんだと思うんですけどみたいなことだったり、
あとこれも有名かもしれないですけどテレビに白い紙を貼ってみんなでじっと見て何が見えてきましたかって言って、
それを言っていくとか、そういうことをもう企画の出し方も含め企画になってて、それを延々とやって、そうすると何かもう毎日寝てないから佐藤さん眠くなってきて、すいません30分だけ寝かせてくださいとか言って隣の会議室に寝に行くんですよ、
その間も我々は考えて企画をしてて、30分ぐらい経ったところで内野さんがちょっとじゃあ佐藤さんを起こしに行きますねとか言って会議室に行って戻ってきて、佐藤さんがあと30分だけ寝たいとおっしゃっていますみたいなことでまた企画をして、
それでまあわからないけど1時間とか1時間半とか出て戻ってきて、寝てる間に何かいい企画は思いつきましたかとか言われて、我々それなりにその間も企画してるから、なんかこれなんかいいんじゃないかっていう話に我々の中でなってましたみたいなことを言いながらいくつか、うん、なるほど、ここはちょっといいですね、ここかわいいとかなんかいろいろちょっとなんか一通りちゃんと聞いてはくれるんですよ。
12:03
聞いてはくれるんですけど、それと関係あるのかどうかわかんないんですけど、じゃあこういうのはどうでしょうって言って佐藤さんが突然これこれこうなってこうなってこうなってこうなるんですみたいな企画を言うんですよ、それが素晴らしいんですね。
それであのこっちはなんか鳥肌が立つみたいな感じで、素晴らしいですね佐藤さんみたいなことになって、じゃあもうその時点だから明け方になってて、10時からプレゼンとかだったりするわけですよ、じゃあプレゼン物を作りましょうとか言って、で佐藤さんと内野さんが絵を描いてコンテを描いて、当時マック上で作るわけじゃないですからねコンテをね、
だから手書きでまず絵を描いて、そのキャプションとかセリフとかも手書きで書いて、でそれをプレゼン物にするんですけど、佐藤さんはコンテのコマの大きさ全部同じ大きさにするんですね、だから長くなるんですよ。
でその時にめくって何ページかに渡るっていうのは許されなくて、必ずセロテープで貼って巻物にしていくんですねコンテを。でその時になんかそこもなんでそうだったのかよくわかんないんですけど、巻物にした時になんか左右がちょっと佐藤さんの感覚からすると長いっていうのがあって、両サイドを切るっていう作業が発生するんですよ。
それの担当が私で、カッターでとにかく紙をシャーシャーとか言って切りまくって、開け方シャーシャーとか言って切りまくって、そしてこうセロテープで貼って一枚の巻物状のコンテを必死になって作るみたいな、
すごいですね。
それをまあよなよなやるみたいな感じですね。
僕も佐藤雅彦さんという方には会ったこともないですし、動画でも動いてる佐藤雅彦を見たことがないので、
そうなんですか。
ないんですよ、イメージとして。
いわゆるその新入社員入って佐藤さんにトレーニング、そういった回数を重ねていって学ばれていったっていうのが一つの側面ですよね。
学べない。
学べないです。あまりにも、だから今も言った通り、何らか我々が企画しててそれを見ていることとかは、佐藤さんの中では何か作用はしてるんだと思うんですけど、
これがあったからこれを思いついたみたいなことは分かんなかった。
急に思いついてる。一回寝るのは絶対重要なんだろうなとは思ったんですね。
いろんな情報がインプットされた中で一回寝て、やっぱり起きてきて思いつくことが多かったから、
15:02
それは重要なんだろうなとは思ったんですけど、その企画でのジャンプが大きすぎて、
そのよなよなやってる打ち合わせがどう機能してるかとかはちょっと分かんなくて、
だからそういう意味ではあんまり全く参考にならないというか、
でも佐藤さん以降、佐藤さんみたいなCMって一本もないでしょ。
だから真似できないんですよ。あの領域というか、違う土地に立ってる感じというか、
どんなに登ってもあの土地には行き着かない異世界というか、違う世界線なのか分からないですけど、
っていう感じで、だから企画に関してはほぼ学べなくて、
学べることがあったとしたら、それは良いか悪いかは別として、
佐藤さんってクライアントさんに何か佐藤さんの企画とは言っても、
全然そのままで撮るなんてことは全然ないんですね。
やっぱり広告主そんな甘いものじゃなくて、こういう要素を入れてほしいとか、
ここが入れてないみたいなことを結構言うんですよ。
その時に佐藤さんはそれをクリアするのがすごい好きなんですね。
もともと数学の問題を解くみたいな、そういう感覚で企画もやっているところがあるから、
そういう条件を言われると嬉しくなるみたいなところがあって、
それでその条件を見事なまでに1個のコンテの中でクリアして、
それでおっしゃられたここのポイントはここにクリアしています。
ここはここでクリアしていますみたいなことをすごい嬉しそうに言って、
佐藤さんさすがですみたいなことになるのがすごく好きな方だから、
その良くも悪くも影響としてはすごくクライアントから言われたことを、
割とこういうことを聞くじゃないですけど、取り入れるっていうのはちょっと影響を受けているっていう。
その過程を聞くともうこれで押し通すっていうような感じかなと思いきや、
実はその後のオーダーに応えていくのも楽しかったです。
応えていくんですよ。
すごいですねそれは。
結構ね。
佐藤さんの話は盛りだくさんなんですが、他にももし影響を受けた。
そうそう、それでもう一方が田中徹さんという方で、田中徹さんに一番感謝しているのは、
任せるところはすごく任せてくれる方なので、まず企画に関して言うと、
すごく田中さんがいいってなったら、若手社員の企画でも提案してくれるっていう意味では、
佐藤さんの場合は、さっきそういうことは言いましたけど、
多少私が考えた断片が生きた企画もなくはないんですけど、
でもやっぱり全部が佐藤さんの最終的には企画になるから、
18:01
自分の実績には一切ならないわけなんですけど、田中さんはいいって思えば提案してくれるから、
そういう自分の企画を提案してもらえるっていう、ある種責任感というか、
ほら若手って打ち合わせで盛り上がったり、
バッカだな、通るわけないだろうみたいなことで満足しちゃいがちですけど、
田中さんの作業の場合は頑張れば提案してもらえる可能性があるっていうところがあって、
それは良かったっていうところと、あと企画書とかも私が書くんですよ。
だから企画書から提案まで全部自分がやるっていう、
それを田中さんがチェックするっていう、割と大きく任せてくれるっていうところがあったので、
それがもう佐藤さんと真逆で。
そうですね、確かに主体性は生まれますよね、やっぱり田中さんの進め方と。
主体性生まれますね。
それは全然違うな。
そうですね。
いやすごい、そんなお二人に揉まれながら。
揉まれながら。
期間的にはそれはもう3年。
そうですね、佐藤さんは多分3年ぐらいで、それも佐藤さんについた最初の頃に、
本当に才能がある人というのは3年以内に必ず出てくるんです、みたいなこと言われて。
あれ?3年経ってるぞ、みたいな感じで全然出てきてないな、みたいな感じにはなったんですけど。
田中徹さんはその後も結局、もしかすると後で話すのかもしれないですけど、
ファンス界を一緒に立ち上げているわけですから、もうちょっと末長くお付き合いしましたね。
なるほど、なるほど。
田中さんって電通にお入りになって、電通所属というのは何年いらっしゃったんですか?
9年間かな。
9年?
9年ぐらいなんですね。
9年間。
やばいイメージ。
なるほど。
その9年の間にこれまでいっぱいお仕事している中で、先ほど話したお正月おつそうとか、
トミリー・ジョーンズの内藤ジョーンズとか、リボン・トヨタウンと、あとマックですか、あとユニクロライフトウェアと、
これ今全部、僕の記憶が正しければ全部が佐々木裕さんのCDですよね。
そうですね。
ものすごく佐々木裕さんといっぱいお仕事されているなという、それも電通の9年の時代から佐々木さんとお仕事されていたという。
それを説明しましょう。
解説してもらいましょう。
私が入社したのが1992年で、5年目の時にカタログハウスの通販生活というCMで、
TCCという東京コピーライターズクラブの最高新人賞というのを取りまして、
それで、これもう行けちゃうのか?みたいな。
僕の時代来ちゃったのか?みたいな。
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来ちゃったのか?みたいな感じになったんですけど、あまりのCMの内容の暗さにより、
私自身もまず人間として暗い。会社の中、電通の中で浮いている。浮いているとか沈んでいる。
しかもその暗いと思ってた奴が本当にね、もう嫌だこんな生活っていう。
いろんな人の生活の絶望を描いていくシリーズだったから、
最高新人賞は取ったものの、暗いやつが案の定暗いCMを作ったみたいな。
あいつはヤバいみたいなことになって、ますます仕事がなくなって。
最高新人賞取ったのに逆になったんですか?
ますますなくなって、そもそもね、これもすごい大事なことなんですけど、
若手に仕事が来るか来ないかっていうのは、実力ももちろんあると思うんですけど、愛嬌なんですよ。
そうですね。
愛嬌なんです。
どのくらいもそうですよね。
若手に仕事が来るかどうか愛嬌だから、それは私ゼロだったので、
今考えると来ないものは当然。
当時は逆恨みしてましたけどね。
もう逆にさせて。
当時は逆恨みしてましたけど、当然で、ただでさえ仕事がない中、
さらに暗いCMで最高新人賞を取った。
1999年という、最高新人賞97年ね。
99年という年に何が起きたかというと、
たくさんのCMが出てきて、
たくさんのCMが出てきて、
たくさんのCMが出てきて、
たくさんのCMが出てきて、
たくさんのCMが出てきて、
たくさんのCMが出てきて、
たくさんのCMが出てきて、
たくさんのCMが出てきて、
何が起きたかというと、
タグボートというものが電通から独立していなくなったという事件が起きたんですね。
その時に佐々木博さんという、
日本を代表する、電通を当時代表するクリエイティブディレクターの仕事の大半は、
タグボートに行った岡さんだったり、
田田拓さんだったり、阿蘇さんだったり、川口さんだったり、
その人たちがメインで佐々木さんの仕事をやってたんですよ。
その人たちが一気にいなくなったから、
佐々木さんの仕事をやる人が一気にいなくなったんですよ。
99年という年に。
いろんな人を、そこから佐々木さんが特会1回というと、
言葉悪いですけど、
いろいろ皆さんが辛い目に遭っている状態みたいな。
沢本さんも多分そのタイミングで佐々木さんに呼ばれていると思うんですけど、
その年にローソンの競合プレゼンテーションというのがあって、
ローソンって90年代、ずっと箱報道のクロスさんという方が、
ローソン通り物語みたいな、ローソンの店を中心とした街の人たちのお話みたいなことで、
24:01
素晴らしい名作CMいっぱいやってて、箱報道さんの画像だったんですけど、
競合で初めて佐々木さんが電通から出て勝って、それでローソンをやるってなったんですけど、
なかなか佐々木さんが満足いく企画が、競合に勝ってるんだから、勝った企画をやればいいんですけど、
なんか知らないけど、もっといいものにできるはずだみたいな状態になってたらしくて、
それでプランナー他にいないのかみたいなことになったらしい。
その時に、あるプロデューサーの人が、あそこに暗くて何も仕事がなくているやつがいるから、
そいつを呼んでみますかみたいなことを言ってくれて、
佐々木さんもなんとなく私の印象っていうのがあったらしくて、
そんな暗いやつ嫌だよみたいなことになってたらしいんですけど、
でも他にも人もいないからみたいなことで、
ある日ね、金曜日に電話がかかってきてプロデューサーからね、
それで土曜日の3時から佐々木さんのデスクの前でローソンの打ち合わせがあるから、
それに言ってください、じゃあピッみたいなことになって、
それで言ったんですけど、すでに参加している先輩のクリエイターも何人かいるわけですけど、
非常に鈍慮されていて、
それで佐々木さんがちょっと遅れて、3時に遅れてやってくるわけで、
あなたが福里さんですかみたいな、よろしくお願いしますみたいな、
じゃあ福里君に今までの企画を見せてあげてくださいとか言ったら、
本にも書いたことなんですけど、今までの企画が人力では持てないぐらいの量になっていて、
プロダクションの人が台車に乗せてゴロゴロゴロゴロとかやって、
山のようなプレゼンブツがやってきて、
それを見せてあげてくださいって言うから私が見て、
どれもこれも結構素晴らしい企画で、
佐々木さんがトイレか何かに行った間に先輩のクリエイターに、
これ何がダメなんですかとか言うと、
分からないんだよ、広瀬にしか分からないんだよ、みたいなことを皆さんおっしゃっていて、
なんか僕ドヨーンと、
その時に私が何も企画をオリエンも受けてないんだけど、
何も持っていかないのもちょっとまずいかもしれない、立場的にまずいかもしれないというので、
100年の孤独っていう企画を持っていきまして、
これはとあるもう滅びそうになっている町に一軒のローソンができて、
そのことで町が活気づいて、
100年間繁栄するんだけど、
100年後には何もなかったように消え去るみたいな、
なんかそういう話で、最初その町の支配者の葬式から始まるっていう、
27:06
グランディング徹底してますね。
長年その町を支配した有力者の葬式から始まって、
その中心をなくした町がどうなるのかみたいなところに、
さっそうと一軒のローソンが立ってみたいな、
そういう話なんですけど、
それを見た笹木さんが非常に喜びまして、
なんだこれは暗いな、
こんな暗い企画は見たことがありません、
みたいなことで、
非常に喜んでくださいまして、
そこからローソンの企画に入って、
それが笹木さんとの初めての出会いで、
ローソンの企画に入って、
それもその後もなんやかんやあって、
省略しますけど、
簡単に言うと一回決まってた企画がクライアントさんの事情で、
ひっくり返ってゼロからやり直したみたいなときに、
もう振り返ったら先輩クリエイターが誰もいなくなっているみたいなことで、
最後だから私だけ残ったっていう企画をする人としては、
っていう状態になって、
最終的にどういう企画になったかっていうと、
小西木さんがミスターローソンで、
ローソン村長選挙に立候補するっていう話になって、
ローソン村長選挙の公約みたいなのを発表するっていうところから始まるシリーズを、
わかんない2,3年ぐらいやったのかな、
なんかやったんですけど、
ちなみにでもそれの一本目って、
本当に街の有力者が死ぬところから始まったんです。
そこは残ってる。
大好きやったんですね。
中村克夫さんっていう老人が、
この街を託すのはあの男しかいないとか病床で言って、
そこに小西木がインサートされてくるみたいな、
そこから始まってるんで、
一応最初に出した企画は残ってはいる。
僕も佐々木さんの仕事でついてたのが、
やっぱり福里さん、沢本さん、ゴンパさんみたいな感じのサイクル、
印象がすごく、
後々ゴンパさんは一緒に、
佐々木さんと新型と一緒に参加されてありましたけど、
すごくその印象がありますね。
残ったんですね。
最後まで立ってたっていう。
そうなんですよ。本当におっしゃる通りですね。
ぼーっとしてたら残ってたんですよね。
それからの配信、すごいですよ、やっぱり。
ずっと話題作をやってらっしゃって、
新人賞取ってから沈んで、
そこの佐々木さんと出会えるきっかけで、
急浮上してっていうような流れだったんです。
だからそこはやっぱり、
30:01
自分に対する評価が自分の中で低かったので、
佐々木さんにいろいろボロクソに言われたり、
企画を何度もやり直させられたりしても、
いやいやまあそうですよねと。
だって何も今までも大したもの作れてないし、
全然ダメなわけだから、
ダメって言われるのは当然だよなみたいな。
ちょっとでもプライドがあったり、
ちゃんと成果を今すでに上げてる人とかだったら、
なんかやってられるかみたいに。
なんてもおかしくないんですけど、
そこは一番適した人材だったっていうか。
入社してからある意味変わらなかったんですね。
伝通を選んだ時もやっぱりそうだったじゃないですか。
気持ちとしてどうしてくれる。
とにかく社会人として通用しないだろうっていう前提から入ってるから、
それはそうですね。
ずっとそういうことですもんね、コピーライターになられてから。
そうなんですよ。
コピーライターも目指してもいないしね、もともとね。
すごいですね、だから立ってられたっていう。
そんな福田さんでも独立されるっていうことを動かれるわけですよね。
それもですね、動いてないんですよ。
その話をしますと、
要は佐々木さんとの出会いが99年じゃないですか。
2000年に日本コカ・コーラのジョージアの競合プレゼンというのがありまして、
これは伝通だけじゃなくて伝通博報道、当時マッキャンさんとか何社か競合プレイになって、
これはCD田中徹さんという方ですね。
私が考えた明日があるさという企画に競合プレイで決まりまして、
その時点で伝通のままではこの仕事ができませんということになって、
何かっていうと外資系企業って一業種一社ということで、
同じジャンルの商品を同じ広告会社でできないというルールがあって、
当時ネスレの缶コーヒーを伝通でやってたので、
コカ・コーラの缶コーヒーは伝通ではできないということになって、
外資系ってそこの切り分け厳しいんですね。
それでまず営業は、だから明日があるさって伝通じゃないんですよ代理店。
ビーコンコミュニケーションズなんですけど、
伝通の常事や担当の営業たちはみんなビーコンに出向になって、
ビーコンでやるっていうことになって、伝通も出資してる会社なんでなって、
クリエイティブチームどうするんだってなって、
一回我々伝通テックっていう伝通の子会社に出向になったんですよ。
その子会社っていうことで伝通じゃないよっていうことでやれみたいなことになってたんですけど、
33:05
それに生じたというか、そのチャンスを生かした田中徹さんっていうCDが、
だったら自分たちに会社を作らせてくださいみたいなことを、
多分うまく伝通に掛け合ったんだと思うんですけど、
常事やをやるために出向してたクリエイティブチームが、
そのまま田中徹さんの作る会社に移動するっていうことが、
我々の知らないところで、着々と進行していまして、
とにかくそうなったらしいみたいなことになって、
社内クリエイティブブティックみたいな。
伝通が作る社内クリエイティブブティックを、田中徹さん中心に作るみたいな流れになってて、
当然私、明日があるさのメインプランナーなので、
明日があるさをやるために作られる会社に、私が行かないってありえないわけなんですけど、
なんで伝通をやめて、田中徹さんの会社に入らなきゃいけないんだみたいなのがあるわけですよ。
大手企業から言ってみればね。
そうなるのかなみたいな感じで、あやふやな態度をとっていたら、
田中さんから疲労のイタリアンレストランに呼び出されて、
一対一で、どうするんだ福里みたいだけど、どうするんですかねみたいなゴニョゴニョ言ってたら、
最後、福里、来るのか来ないのかどっちなんだとか言われて、行きます。
行きます。田中さんの会社に行きますっていうので、入ることになったのがワンスカイという。
そうなんですね。なるほど。
ワンスカイという会社は、もともとはジョージアの明日があるさっていうキャンペーンをやるために、
そのチームで作った会社。
会社なんですね。
作ったというか、作ってもらったというか。
その時にワンスカイさんでできて、与乳伝通さんでいうところのクリエイティブブティック構想っていうのが、
確か一番最初に始まって、そこからいろんなクリエイティブディレクターの方が、
どんどんクリエイティブブティックを作り始める。
4,5社ポンポンポンポンってできたっていう印象がありますね。
2001年がワンスカイで、それが第1弾だったんですけど、2003年に新型ですね。
クリエイティブな都合でできたのが多分その2社で、
他、伝通都合でできてる会社っていうのも2,3社ありますよね。
そういう意味だと、さっきお話しあったタグボートさんがワーって抜けた。
それとはまたちょっと形を変えて。
伝通資本っていうことで形は違うんですけど、ただ影響は当然されてるでしょうね。
36:03
やっぱり99年に早速タグボートが独立して、
確かにクリエイターって本当に大きい会社にずっと所属してた方がいいのだろうかとか、
逆に言うと伝通側から見たら、これほっとくとどんどん出てっちゃう人がいるんだとしたら、
伝通で作ってあげた方がその枠内に留められるわけだからいいかもしれないとか、
タグボートが一個のきっかけになってることは間違いないでしょうね。
それこそまさに今ってまたそのブームが来てるじゃないですか。
皆さんクリエイターの方々が独立して、
っていう流れはやっぱり福沢さんも第二波的なタイミングでやったことの連なっている歴史なのかもしれないですね。
何もやってないんだけどね。
そっかそっか。
福沢さんがやったってことは何もやってないんだよね。
お使いは田中徹さんのお勧めでなったんですけど、
ただなってみたらもうそれは本当にラッキーだったと思っていて、
やっぱりデイン2というクリエイターだけで何百人もいる中で、
しかも暗い人間である私がいくらジタバタしてもなかなか、
しかも大きい会社って最後までわからなかったんですけど、
川の流れみたいなものがあって、
真ん中の流れてるところにいる人はずっと気持ちよく流れていくんですけど、
一回淀みに入った人は永遠にそこから出れないんですよ。
それって必ずしも実力とかっていうだけのことでもなくて、
なんかそういう流れに乗るか乗らないかっていうのが、
だからわかるんでしょうね。
わかる人はわかるから流れに乗れるんでしょうけど、
私は最後までわからなかったので、
ずっとこの波も何も立たない水たまりのところにずっといたんですけど、
っていう状態になってもおかしくない、
そんな私がワンスカイっていう場に行ったことによって、
例えば副里っていう人がジョージェという明日があるさをやってるらしいとか、
他にもこれこれをやってるのがワンスカイの副里らしいみたいに、
やっぱり顔が見えてくるっていうのがあって、
それもすごく自分にとっては良かったと思いますし、
あと人間関係的にも関わる人数が同じ会社の人たちと、
なんか私だから、伝通の最後にいた部で、
舞会っていうね、だから忘年会みたいなのがあって、
カラオケに行って、その部の高齢が最後にみんなで輪になって踊ろう、歌い踊るっていうので、
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全員でこう輪になって肩を組んで、
おー、輪になって踊ろう、副里もやろうよ、やろうよ、
分かりました、やりましょう、みたいなのをやってたわけですけど、
そんなことももうやらなくても。
心が削られるようなことも。
別にそこまで嫌いではあるんだけど。
あとワンスカイって、今社長って深谷さんじゃない?
今はもうそうです。
社長。
今はもうそうです。
そうなんですね。
前まではなんか違う方が。
それに関して言うと、ワンスカイの歴史を言うと、
まず2001年に電通グループの会社として立ち上がりましたよ。
そこはジョージアの明日があるさをやるためのメンバーで、
ウェブを担当している内山さんという人と、一緒にやってたコピーライターの原田睦子さんという人と、
デスクの人と何人かでやってて、
5年経ったところで田中徹さんたちというか、私以外の全員が辞めて、
電通から完全独立した自分たちの会社を作るよみたいなGTっていう会社を作られて、
私一人の会社としてワンスカイが残りましたよと。
でもまだ引き続き電通グループの会社で、そこから2017年までその形が続いて、
2018年から電通から独立して、私の会社ということで立ち上がって今に至るというそういう流れですね。
後ろ向いたらいなくなってたわけですよね。
いなくなってたね。
繰り返してるんですね。やっぱりそういうシチュエーションというか。
でもラッキーだったんだよね。
やっぱり3,4人の会社とはいえ、そこでの人間関係もみどつく。
一人になったら人間関係の悩み何もないんだからね。
エピソード1個目でめちゃくちゃ聞いてるんで、
最後この章で総括して聞きたいところが書いてあるんですけど、
電通という会社にコミュニケーションを学びたいと思って入社して、
いろんな変遷を経て独立されて、現在はどう思われてるんですか?
やっぱり変わったんですか?草津さんは学生の時から今というコミュニケーションについて。
どうなんでしょうね。コミュニケーションについて。どうなんだろう。
でもなかなか自分ではわかんないですけど、友達はいないかもしれないですね。
42:07
そこは変わらないです。
いないかもしれない。
でも明るくなったとかないんですか?
明るくなったのかな。
でもやっぱり広告の仕事のいいところは、
自分が苦手なことは自分でやらなくてもいいっていう。
周りに優秀な人がいっぱいいたりするから、
だから広告作りでも当然ものすごいコミュニケーション能力が必要な場面とかあると思うんですけど、
そういうところはなるべく自分でやらないようにして、
基本的にはこの年になるまで広告の企画をやり続けるっていうのは、
もうやや少数派になってきてる年代に入ってますけど、
そこはやっぱり自分が一番好きな部分でもあるし、
そのコミュニケーション能力が低くてもできることではあるから、
そこをちゃんとやろうっていうところで、
それ以降の広告を作り始めると結構コミュニケーション能力って必要とされる部分もあるんですけど、
そこが高い人になるべく委ねていくみたいな、
それで意外とここまでは来れちゃったぞみたいな。
すごいな。
そういうことですかね。
次のエピソードでお仕事について、
プランニングするっていうところを掘り下げていきたいと思うんですけども、
初回からすごいボリュームいただいてるんですけど、
ぜひ告知あれば、この回からもお願いできたらと思います。
告知と言っても何もないので、
私が出演しておりますYouTubeチャンネル広告右表というものがありまして、
兄弟チャンネルと言っても過言ではないですね。
アドバターラジオさんとね。
毎回右表と心を動かされた広告を紹介するYouTubeチャンネルになっておりまして、
どなた様でも無料で視聴できるチャンネルですね。
これがアップされる時期にもよるんですけど、
例えばで言うと東京コピーライターズクラブが年に1回やってるTCC賞の受賞結果というのを、
審査委員長の磯島拓也さんを招いて、
その受賞作について解説してもらうという回がアップ。
もうすぐされるか、もうされたかぐらいの時期だと思いますので、
それもなかなか見応えがある回になっているかと思いますので、
ぜひご覧いただければと思います。
ありがとうございます。
じゃあ今回のエピソードは一旦こちらで切って、また次のエピソードも楽しみにしてください。
ありがとうございました。
ありがとうございます。
45:03

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