00:05
どうも、アドバタラヂオはじまりです。
砂原でございます。
富永誠です。
よろしくお願いします。
この番組は、広告大好きな2人が広告に関わる出来事や出会いを通して、
聴いている皆さんに、広告に興味を持ってもらい、広告を好きになってもらいたい、
そんな広告人学をお届けするラジオです。
よろしくお願いします。
というところでですね、今回、開局してちょうど100回エピソードだと、
本日11月7日が100回目ということだね。
そうなんです。
これまでここに関わる様々な職種のご紹介、我々の普段の生活で発見した広告的トピック、
CM、MV、OH、いろいろ話しておりますが、
その中でゲストとして新米広告屋さん、広告オタク、広告クリエイターさん、俳優さん、
紹介してきましたが、
この100回を記念してお越しいただいておりますと、
私は広告オタクにしては、超本人と言っても過言ではない。
永遠にこの方の社外古文ということで、やらさせてもらっているわけですけれども、
CMディレクター歴40年、東北新社古文で、
エグゼフティブクリエイティブディレクターの長島信也さんです。
本日はよろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
長島でございます。
お邪魔しております。
いや、よろしくお願いします。
本当にちょっと緊張しています。
誰よりも緊張します。
えー何?
いつもタメ口聞いてんの?
ねえ。
ここへ来て急に。
ギョギョくなってもしょうがない。
えーよ、もうほんまに。
あれ、お二人久しぶりですか?お会いするの。
いや、
何かな?
数ヶ月前に渋谷の道玄坂の飲み屋さんでバッタリとお会いさせて頂いたりとか、
おたか。
あとこの前のコピーライターのイベントの時にすれ違いましたね。
TCC。
すれ違ったんですね。
すれ違いました。
はい。
なるほど。
改めてすなけんさんから長島信也さんをご紹介いただきたいなと。
僕が紹介すると。
来るんですもんね、だって。
紹介しないとやっぱり来るんですよ。
そうですね。
では軽く説明させて頂きます。
まず最初にですね、信也さんの代表的な仕事を含めてですね、ご紹介させて頂きます。
日清カップヌードルのハングリー、ホンダステップワゴンですね、
あとサントリーのだから、燃焼機アミノシキ、イエモン。
最近ですとリクルートのエアペイト、エアワーク、赤水ハウスの企業CMなどを演出されております。
その中でカンヌ国際国際、現在のカンヌライオンズであるとか、そちらでグランプリとか、
アメリカのIBAの最高賞などを多数受賞されています。
03:00
その他ですね、トークシン社の取締役、専務副社長、社長を歴任されて、
2022年の6月に退任されて、現在は同社の顧問、ECDとしてされていると。
最近ではトークシン社のユニットであるONDOでCMディレクターとしての活躍、
更新の育成にも力を入れらっしゃるという方でございます。
台本そのまま読んでます。
あのね、言いたいことはたくさんあるんだけど、これふざけられないのよ。
これはちゃんと読めないと。
で、俺がちゃんとしてるからっていうところを見て、お前がクスクス笑うなっていうのがまた腹立ちんだけどさ。
いつもはこんなにちゃんとしてないの。
ご紹介するときはちゃんとしてます。
してますけど、こいつがいちいちクスクスしてるのが腹立つっていうだけで大丈夫でございます。
普段の砂がくんね。
という活躍されていて、今は40年間トークシン社という会社で企画演出をされていたところ、
今は外のお仕事もできるような環境になったという方でございます。
そうですね、普通は油が乗ってきたらね、やっぱりフリーランスになって外の仕事とかやるんですけどもね、
僕はずっと一つの会社はグループがあるんで、二番工房とソーダコミュニケーションズと、
3社やけれどもね、だけど同じグループの中でしか生きていなかったという形なんですよね。
だから初めて今外のグループ以外の仕事をやり始めているっていう状況ですね。
その話はぜひ後ほど。
後ほどね、後ほどありますからね。
まずはこんな有名な中島さんと砂瀬さんがなぜ知り合ったのかっていう。
カイツマンで言いますよ。
23年くらい前ですかね、22年くらい前に丸三角四角展っていうのがあったんです。
浅羽勝美さん、長友さん、青葉さんという3人の方がいらっしゃって、
それの展覧会が新橋のG8というところであったんですけども、
そこの3名の方のイメージビデオというか、そのビデオを新谷さんが演出されていて、
で、それのオープニングパーティーで僕は何のアートディレクションとかデザインのことを何にも知らなかったんですけど、
軽ノリでそのオープニングパーティーに行ったんですね。
そこの展覧会というのはインビテーションが必要、招待状が必要であるとかっていうのがなかったんですよ。
そこに行ったときに、もうそろそろ帰ろうかなと出口のところで、おじさんとぶつかったんですよ。
帰りしなですよ。帰りしなにぶつかったんです。酒も飲んでるし。
そしたら、肩ぶつかったらすいませんとかごめんなさいとかいろいろ言う言葉あるじゃないですか。
06:04
そのときに僕はすいませんって言ったんですよ。
その真っ赤な顔をしたおじさんが肩ぶつかったら、僕の目を見て言った一言が、君は何者だって言われたんですよ。
これ僕5回ぐらい聞いてるんですけど。
中島さんこれ本当ですか?
うーん、言うだとしたら君は何者だとは言ってないと思うけどね、君は何者やねん。
そう言ってると思うけどね。
楽しく話してください。
面白かったんだよね。トークショーを聞いていて、ギャラリーG8のもう一つのギャラリーのほうだった2会場があって、
そのもう一つのリクルートのギャラリーでトークショーをやっていて、
そのトークショーの会場で朝場先生も3方がですね、トークをしているんですけども、
粛々と一人異常にウケてるやつがいて、ウケてるのは良いことなんですよね。
すごいウケてるの一人で。桜みたいにウケてるわけですよね。
で、なんか変な面白いやついるなと思って、でぶつかった表紙にこの子だと思って、
ぶつかったから君は何者やねんって言ったんじゃなくて、なんかウケ方が尋常じゃないと、
普通のやつ違うなこいつはと思って、一体どういう立場の人なのか、何関係なのかね、
それが知りたかったんやね。
ずっとトークショー中、ものすごいバカウケ人いる。
バラエティーとかでウケてるおばちゃんいるやん。あれの男版ですよ。
大声出して笑ってるからさ、でもレスポンスが良いのは良いことだから、
黙って聞いてるよりもウケてるということは、なかなか良い反射神経してるんちゃうかなと思いながらね、
たまたまぶつかったんで。そういうように自分も好奇心があったから、
君は何やねんって。誰やねんって。
今これ伺ったから中島さんが声をかけた理由分かりましたけど、
津田圭さんからの話を聞く限り、中島さんめっちゃ怖ぇと分かっちゃう。
お前何者だと。
クセ者っていうふうなことではない。今の言い方だと、クセ者。
どっから入ったんだよ。
やっと分かりましたよ。
09:01
そこでお会いさせていただいて、お名刺をいただいて、
当時専門学校の時の雑誌編集課っていうところで卒業政策を作る。
CMの話で新谷さんにインタビューさせていただくっていうのがあって、
そこから色々交流させていただいたんですね。
東北新社にも報告も悪ないと言われて、下でフォームがあるからそれ持ってって書けって言われて、
お会いさせていただいて、今だから言えますよ。
たおやかな世界ですからね。3次試験まで通してくれましたからね、僕のこと。
本当ですか?何者か聞いた。
3次まで行って、そこから当時6時とか7時くらいまであったんですよ。
東北新社って。
企画演出部のディレクターとかプランナー試験ね。
そうです。
実技があるやつやから。
それで6時か7時の手前のボスキャラで自分が出てくるから、そこまでは通してやると。
そこまでは通してあげるから。
本当にお前が才能あったら最後のボスキャラの手前で俺が出てくるから、そこまでいいやって。
そしたら僕はそこまで才能がないですから、行けなかったから、残念やなって言われましたから。
中島さんは辿り着かなかった?
辿り着かなかったよ。
その時はえ?と思いました。
プロ野球にエントリーするために高支援級のやつがいっぱい受けてるってことですよね。
だから普段からそのトレーニングを積んでるというぐらいの世界だったんで、ちょっとかわいそうでしたね。
いきなりやっても練習ができてないから、時間内に何々作れっていうことを。
トレーニングですもんね。
だからうちの会社入ってくる今でも活躍してるディレクターの中には一浪して入る子もいるからね。
ちゃんと準備をしてっていう。
一年間勉強してきて、今売れてる岩崎雄介君は一回受けて落ちて砂犬みたいに。
当時はもうちんぷんかんぷんだったんですけどもね。
一年間彼は肉体労働をしてね、修行を積んで企画についても多分勉強してきたんやろうね。
一浪して受けた時は受かったからね。
今の4,5年あるやんか、新卒って。
長い時間新卒とするから。
だから結構そういうね、よその会社に入った人も新卒で受けてくるみたいなね。
そういうこともありますよね。
砂犬君の時は一発勝負やったけども。
同期誰が入ったんやろな。
多分その時チェンコ。
塚越君ね。
塚越君ね。
同期ですからね。
12:00
そうかそうか。
彼はね、たま火の時から映像作ってたりして、相当面白いの作ってたからね。
肩がね、だいぶ。
なるほどね。
そういうのがありまして、あいなく残念。
残念やったな。
あいなく残念ですね。
それからいろいろあって、しなさんと二人で飲む機会があって。
僕は文章を書くのが好きだと。
広告ミーハーだと。
僕はコピーライターになってみたいっていう話をしちゃったんですよ。
言うてたな。
酔っ払ってますから。
しなさんだけ今だったらどっかコピーライターの事務所入れたよって今だったらびっくりするぐらいなこと言うわけ。
まあまあそうですね。
よう分かってないというか。
言って、そしてしなさんがお前はちょっと違う。
またはずれなことを俺に言って。
それはそんな就職先のことをあっせんしろなんて言うんじゃないってことだと思ってたんですよ。
おいお前と。
そしたらお前はコピーライター向きじゃないって言われた。
今お前がたまにこうやって喋ってると、あのCMってしなさんが言った時、
それコピーライターあの人です。
あのCDあの人ですっていうのを僕はすっかり知ってたわけ。
こいつはって思ったらしくて。
今広告業界に必要なのはコピーライターも必要だけど全体に必要なのはジャーナリズムが必要だよって言われた。
広告ジャーナリズムというものが必要だと思ってたんだよね。
そしてその時にお前はタイミングがいいって言われた。
今あるそういうところから独立して自分一人でやってる女性がいるからそこにデッジボーコン行けと言われて。
編集者というかね。
いわゆるそういうジャーナリスト、広告ジャーナリストでベテランの女性がいて。
あの大手のところにいたんだけども、飛び出して自分であるニュースペーパーを作っていくということをやるタイミングだったよね。
そこで僕もジャーって言ったら大丈夫だと。
わしがちょっとあれしとくから。
こういう若者がいるからもしよかったらデッジボーコンに行かせてもいいかっていうのを一発連絡するのもなしやあらしやみたいな話をしてくださって。
僕はそこの歌手に8年間世話になって今がありますね。
デッジボーコンしたんだもんね。
当然プロでもなんでもないし、ジャーナリズムって言っても文章を書くのは好きかもしれないけれどもやってきたわけではないんで。
ただ彼女に言ったのはやる気だけはあるしものすごく広告のこと好きやから絶対向いてると思うと。
だからやっぱり広告のこと好きすぎて広告の作り手になるにはちょっと違うんちゃうかなっていう。
15:04
やっぱり広告のことの好きすぎがすごいから全体いろんなクリエイターとかいろんな作品についてものすごい関心持ってて興味持ってるからね。
それを活かした方がいいなと僕は思ったよね。
慣れなくはないと思うのコピーライター。
そこそこコピーライターとして仕事をしていくことも不可能なことではないと思うんだけども。
もっともっと向いてるんじゃないかな。
普通コピーライターになりたい人ってそんなに人のこと研究してないからね。
最近特に先輩のことを研究するヤング少ない。
やっぱりああいう人になりたいなっていう大人がいないのかもしれませんけどね。
僕らの時は必ずあるベンチマークとして先輩の中でああいう人になりたいなっていうね。
めちゃめちゃその人のことを研究してどうやったらああいう人になれるかなということを考えるという。
どっちかというと分かりやすい形だったけども。
今のコピーライターの人はあわよくば有名になりたいとかあるかもしれないけど本当にちゃんとコピーを書いていくことで自分の道を開いていきたいっていう。
結構コピー純粋主義な人が結構多いよね。
ミーハーじゃなくてね。
そこらへんはミーハーの塊だったからね。
このミーハーの塊は一個性というよりもっといろんな個性の間に泳ぎまくる方が面白いだろうと思ったね。
このアドバタラジオも人格の人って入れてるのは砂犬さんがやっぱり人側に興味をめちゃくちゃ持ってらっしゃるから。
そういうところもあったので実際に人脈も。
その時の8年間もあるし、手前からもう深夜さんを追っかけてたからね。
ファンだったわけですね。
ファンですよワンフー。
ずっと追っかけてるから。
当時本当によくやったなと思うし、電話されてなんか変なのが来てますって言ったらオナーじゃないかなっていうくらいまで追っかけてたから。
本当に。
優しいですよ。
またあの若造きたらウィウィウィってやってくれるから。
またそのウィウィウィが本当はこっち来るなんてウィウィウィだったかもしれないけど、俺もいい人だと思ったら手振っちゃうから。
っていうくらいだったから。
深夜さんについてると、深夜さんの横でどうもとかやってると周りの偉い人たちが、深夜さんの知り合いなんだってまたよくしてくれるんですよね。
全く何者でもないのに。
あいつは誰だよ。
あいつは誰なんだみたいな。
っていうのが本当にもう感謝、今の僕がこの広告の色々と話せるのは深夜さんの方です。
でも広告サミットの時とか、あれもその8年間の中だよね。
18:04
そうです。
結構やっぱりいろんなクリエイターにさ、可愛がられてたよな。
そうですね。
チョコマカ動く。チョコマカ君っていうのは柳井道彦がつけたんやったっけな。
そうね。
チョコマカって言ったね。
チョコマカにやらせよう。チョコマカに聞いてみようと。
そういう、もう一度気づいたんですね。
あの時は確かね、柳井さんとゴンパさんがそう言ってくれたのかな。
学生の時に僕が言われてたニックネームを、なんかどっからか引っ張ってきたの。
そうなんや。
それで広告サミットって十何年前にあったんだけど、
それのクロージングパーティーを青山のあそこであったんだけど、
その時にたまたま僕が一番最後に会場入りしちゃったんですよ。
あそこで。
みんなでカンパーイってやる瞬間にチーンって。
一番最後のケースみたいな感じで。
そしたらゴンパさんがチョコマカ来たって言った瞬間にみんな爆笑したんですよ。
クリエイターの集まりだから、
そうやってその間を飛び回る人なんかいないわけよ。
だからクリエイターはもうそれぞれな感じでやってるんだけど、
だからみんなに知られてて、みんなのマスコット的な。
当時チョコマカくん、砂犬もね、
オッサンじゃなかったもんね。
そうですね。
ヤングだったし。
みんなが可愛がられる感じでした。
それでそのいわゆる広告ジャーナリズムというか、
みんな知ってたから師匠が厳しいこともね、よく頑張ってるということで、
一定の認められはしていたよね、有名なクリエイターたちに。
そうですね。
というか、
やっぱりね、
やっぱりね、
やっぱりね、
やっぱりね、
やっぱりね、
認められはしていたよね、有名なクリエイターたちに。
そうですね。
という流れがあるから、僕は足を向けて寝られない。
いやいやいや、僕何もしてない。
僕何もしてないやんか。
ほんまに。
今の砂犬さん語る上ではもう欠かせない。
もちろんですよ。
だからいつもよりも声が大きいんですよ。
何を言うてんねん。
そんなことないやろ。
砂犬さん紹介してもしょうがない。
そうそう、いけない。また喋っちゃった。
いやいや、いいよいいよ。
聴いてる人は面白い。
そう。
そうやって僕の人となりが分かっていくやんか。
それが演じ合うの。
ありがとうございます。
じわじわ分かればいい。
じわじわ分かればいい。
中島真也さんの話をちょっと伺いたいなと。
これも、
今実際にアドタイでも執筆をされていらっしゃると思いますが、
21:01
コラムを毎週月曜日に更新されている中でも
拝見させていただいております。
おかけになっていらっしゃると思いますが、
さまざまないろんなところで擦っているネタかもしれませんが、
これは聞きたいんです。
中島真也さんがCMディレクターを目指したきっかけでというところを
お話しいただければなと思っております。
はい。
CMディレクターを目指したのは、
CMディレクターを目指せと言われたからね。
目指すつもり全然なかったし、
その前にプロダクション東北新社に入って、
プロダクションマネージャーという仕事を知って、
これは面白いなと、
俺に合ってるなというふうに思ってね。
なんでかというと、その前にやっていたのがデザイン。
デザインをやっていて、デザイナーになるのかどうかというのがあるんだけど、
もうデザインを勉強しているとね、
そのデザインの作業がもう一つ苦手というか、
センスがそんなにないし、
要はものすごくめんどくさかったの、デザインの仕事。
今と違って、マックもあれへんし、
今もみんな聞いたらびっくりするけども、
本当に文字を一枚一枚写真食事というので打って、
書体を打って、文字の時間を一応知って、
それに合わせて、
それをトレースして、
大体の全体像を頭に描いて、
印刷屋さんに発注をして、
そこで発注したものでいろいろと修正を加えて、
これは今でもみなさんやっておられることですけども、
出来上がりというものは、
今のパソコンマックが、
いろいろなデザインを作っているんですけども、
出来上がりというものは、
今のパソコンマックがあると、
目の前でこんな感じで作れるよなってあるやんか。
それがない世界で、すごい職人技やったわけね。
作業に入る前には手をきれいに洗って、
定規をきれいにティッシュで拭いて、
本当に社協をするかのごとく、
精神統一をして線を一本一本引いていくと。
こういうもんだろうなと思ってやってたんだけども、
それが嫌で嫌でしょうがない。
そこでデザイナーを目指して行くのもいいけれども、
とりあえずデザイナー職でしか、
美術大学ですから、
デザイナー職が一番受けやすかったので、
受けるわけですけども、
そもそも受けるということになったのも、
変なきっかけから、
24:01
本当は受けずに、
美術の予備校、研究所があって、
そこの給料がなかなか良かったんですよね。
週に3回行くだけで、
普通の会社の初任給ぐらいはもらえていたので、
これはいいなと思って、
これをやりながらアルバイトをしながら、
アルバイトは何をするかというと、アルバイトのデザイン。
デザイン事務所的なものを作って、
音楽をやっていたからね。
粛々とデビューを目指して、
デビューするのに一番早いのは、
ヤマハのポピュラーソングコンテストね。
ポップコン。
ポップコンと言われる所にエントリーをして、
そこで賞を取るのが早かったので、
ヤマハの楽器店でそれを募集をしていたので、
そのポップコン周りの楽器店の出すチラシのデザインとかを
やっていたんですよね。
僕とタマテ君という人と、
小林君という人とやっていたんですね。
だからそんな感じでやろうと思ったけど、
ちょっとあるきっかけで、
就活をすることになり、
なった時に広告会社のデザイナー職、
広告会社は父が行っていたもので、
そこを受けてみようということになり、
そうするといい感じで通っていくのだが、
父の反対とも言われているし、
もともともルールがあったとも言われているんだけど、
憎しんは入れてはいけないみたいなね。
今でもあるんじゃないかと思いますけどね。
デザイナーで受けているから、
父が言うんですよね。
どうか知り合いの知っている関係のデザイン会社に
紹介してあげるから、
君は辞退しなさいと。
全然入る気満々じゃなかったんでね。
それでもいいかと思って。
ところがやっぱりさっきも言ったみたいに、
デザインね、あんまり好きじゃないじゃないですか。
めんどくさいじゃないですか。
これはすごいめんどくさいと思う。
なので、それが見破られてましてね。
その会社ではですね、広告会社では、
面接官に見破られてて、
君はデザインをやってもダメだよと。
バレたかと。
君はね、面白い。
でも面白いから、
デザイナー職で入るんだけれども、
テレビの方に進めばいいと思う。
テレビ、全然ピンとこなかった。
テレビの方だ。
番組とかかなと思ったんだけれども、
コマーシャルだって言って、
コマーシャルを作っている東北新社という会社に
入りなさいということで、
紹介していただいて、入れていただいて。
27:00
入って何をするところか分からない。
まず入った時に、創業者から、
君は制作がやりたいのかと言われた。
広告会社ってさ、営業と制作じゃないですか。
はい、僕制作です。
OK。
分かった、じゃあ制作にしてやると言って、
制作振興の仕事に入ることになったんですよね。
これはなかなか、
手を綺麗に洗ったり定規を綺麗に拭いたりしなくてもいい。
大声で走り回って、
どなっていればいい。
真逆の。
これは向いていると。
これで一本立ちして、
そのうちプロデューサーみたいになっていくんやなと。
というふうに思っていたのが元々だったのですが、
それもまた広告会社の、
僕を面接したクリエイター、CDの方にバレて、
君って何やってるんだと。
君はディレクターにならなきゃダメだと。
入って分かったんです。
ディレクターっていう仕事があるってね。
ディレクターってこういう人たちがやるんだと。
僕、製作時代に市川純さんとか関口菊秀さんとか、
川崎徹さんの現場には行けなかったんだけどね。
すごいディレクターを見ていて、
こういう仕事があんねんなと。
俺とは関係がないと思ってたんだけども、
ディレクターになるんだって言われて、
うちの会社の企画演出部、
めちゃめちゃ怖い先輩がいるということを聞いてたし、
実際僕見たことあるけどめちゃめちゃ怖くて、
あそこに行ったら終わりだと思ってたから、
ディレクターにならへんじゃなくて、
そこに行きたくなかった。
その先輩が怖かった。
それでルーム長の人に、
僕、製作やっていきたいんですけど、
あんまり企画演出部に行きたくないんですよって言ったら、
ルーム長の方が、
中島くんよくわかるんだけど、
これ会社の命令だからね。
えーって言って。
それで企画演出部に入って、
君はだから、
なんでディレクターを目指したかっていうと、
目指せって言われたから。
目指したと。
もう入ったらしょうがないですよね。
そこで修行を積んで、
スタートするしかなくて。
ただアイデアを考えるのは嫌いじゃなかったんで、
デザイナー職で受けた広告会社の試験でもね、
カラークリップってあるじゃないですか。
クリップのカラークリップってあるじゃないですか。
クリップのカラー版が、
これの広告を作れって言って、
みんなね、すごいグラフィックを作ってるんですよ。
それのね。
僕はちょっとデザインあんまり苦手やったから、
30:00
グラフィック作るというよりも、
そのカラークリップ一色一色の物語を作って、
彼女からさよならの手紙をもらった、
僕は青色のクリップで、
その手紙を止めたって言って、
彼女が去っていく絵が描いてあるみたいな、
そういう話をいくつも作って出したのよ。
これはね、プランナーやね。
そうですね。
そうですね。
だからその広告会社の人もね、
このプランナー向きちゃうかなって思ったんやと思うけども、
企画考えるのは面白かったんで、
そのディレクターの見習い、
カバン持ちをやりながら、
企画でね、ちょっとずつ、
このCMのディレクションの世界に入っていったっていうのがね、
いきさつですよね。
もうディレクターとしてはね、
何にもできないわけだから、
やっぱり昔は、
大瀬田の映画研究会とか、
演劇をやっていましたとかね、
映画を実際に撮ってましたみたいな人が、
特に映画に関しては、
演劇畑の人がね、
CMの演出家になることも結構多かったですよね。
そういうのは全然もう、
やっていないし、
映画青年でもないし、
ただね、
思い返すと、
高校の1年の時と高校の2年の時に、
映画を撮ってるんですよね。
高校の1年の時は、
自分がブルース・リーの真似をして、
ヌンチャクを振り回す、
それをクイーンの、
炎のロックンロールという曲に合わせて、
暴れるっていう、
映画を撮ってるんですよね。
どこにあるか知らんけど。
高校の2年の時には、
僕が桃太郎の役になって、
頑張れ桃太郎って言って、
現代の悪をやっつけるみたいな、
桃太郎の役をやっているっていう、
映画を撮ってるんですよね。
監督をしたのか、
出演?
演出より出演。
3年の時には、
超文化という、
中国の話を、
これは劇をやりました。
あれは演出やってたのかな。
中3の時は、
確かに、
月光仮面が出てくる、
レインボーマンとかが出てくる、
ロミオと一緒に、
ロミオと一緒に、
レインボーマンとかが出てくる、
ロミオとジュリエット。
これを演出をやってたね。
だから、やってなかったわけではない。
でも、大学からは、
デザインということだったから。
だから、そういうことではないとは、
思っていたんだけど、
そういうことで、
CMディレクターを、
目指すことになった、
ということなんでね。
だから、
全然、
今も、
今年の、
2022年になるまでは、
33:02
正直、自分の人生は、
自分で決めてきていない。
今、
2022年の7月から、
決め始めているんですね。
6月の終わりに決め始めました。
初めて自分で、
自分の進路を決めました。
そういう意味においてですけども、
漢字の中島真也から、
ひらがなの中島真也にしたじゃないですか。
それって、
演出も、
後、そういう公演とかも、
そういうのも全部、
ひらがなの中島真也で統一する、
という感じにしたんですか?
いや、あのー、
別に役所には届け出てないんだけど、
ただ、
これ、すながくんに、
2000年に書いた、
色紙があるけれども、
これを見ていただいたら、
わかるように、
その時からすでにね、
サインはひらがななんですよ。
このサイン、変わってないと思うけど、
今もね、
ひらがななんです。
で、
この時から、
漢字四文字中島真也っていうのは、
どこか、
末路が悲しいという、
僕が小学校の時に読んだ、
生命判断の本のことが、
頭に刻まれていて、
あれ、そうやな。
あの本、おとんが買ってなかったら、
俺、人生変わってない。
どうかな。
これはね、
早くひらがなにした方がいいなとは、
思ってはいたんやろうね。
でも、現実問題ね。
これからだから、
ディレクターとしての、
ブランド、
オフィス、中島真也オフィス、
名刺、
使っていただけるところでは、
中島真也ひらがなで使っていただいて、
いや、漢字じゃないんです。
そんなこと言うよ。
役所で書くときに、
そこでひらがなにはしないんですけれども、
あ、もう漢字やめたんです。
っていうことではない。
一応、
法律上は漢字ですけど、
功績上は漢字ですけども、
自分のブランドとしては、
中島真也ひらがなでいきたいな。
芸名というかね、
新しい筆名というかね、
そういう形でいこうというふうに。
ここ、新規一点で、
やっぱり漢字四文字の会社で、
漢字四文字の僕だったじゃないですか。
そうですね。
漢字が多すぎるよね。
やっぱりさ、
いいよね。
漢字じゃない会社。
アルファベットのAを、
アルファベットのAOIとかね、
サイバーエージェント、
ギークピクチャーズ。
僕、会社入ったときもね、
だいたいかっこいい会社、
TYO、
36:01
CMランド、
あったんですよね。
で、漢字の会社は意外と少なくて、
まだ、青井プロモーションは青井の漢字を使っていて、
二番工房、
東北新社、
意外とあとは、だいたいピラミッドも、
TYO企画、今でも漢字じゃない。
TYOとは仲良しですね。
仲良しですね。
それはそうですけどね、
そんなこともあって、
ちょっと一回、
新規一点、
古井中島新屋っていうね、
ブランドネームを一回も、
すごく会社とも一体化して、
中島新社とも、
東北新屋とも言われていたからね。
僕も聞いたことあります。
僕も聞いたことあります。
そこら辺が、
そこで一回ちょっと線を引いてみようということでね、
はい。
当然、これまで、
僕をここまで押し上げてくれた名前であるとか、
会社名であるとかには、
ものすごく感謝はあるんですけど、
これからね、
作品を見ていくときには、
それをわざわざ引き継がないように、
ひらがなににした、
気持ちの真意ですね。
なるほど。
ありがとうございます。
ありますよ、
あの本ね、
どこかにありますよ、
生命判断の本。
本当にね。
僕、小学校に読んだ、
小学校のとき読んだやつでね、
小学校で生命判断の本、
読んだんですか?
読んだんです。
小学校のとき読んだやつでね、
小学校で生命判断の本。
父親の本棚にあったんですよ、
それでね、
これはと思ってね、
これです。
野杖陳平さん。
出た、カッパブックス。
野杖陳平。
ちょっと待ってね。
英雄解決運ということなんですよね。
はい。
不幸、解決、豪欠と言われる人物が多いのは確かだが、
どうも悲劇的暗示を免れません。
不運、非運というより、
自信過剰が災いするように思います。
生地、実力、才能があるだけに、
独りよがりで暴走するのかもしれません。
都閣、末路は寂しいのです。
だからこそ英雄運と言えるのかもしれません。
男女とも家族縁は薄い方です。
配偶者との縁もかんばしくなく、
過去の栄光を夢見ながら
寂しい晩年を送るということになりがちです。
嫌でしょ、これ。
嫌ですね。
すごいですね。
嫌ですよね。
心当たりあるところはあるんですか?
いや、これからじゃないですか。
晩年って。
これからコース変えたいなと思って。
これは嫌だ。
これはひらがなにしますよね。
39:01
これはひらくよ。
インターネットで生命判断したら、
ひらがなは大吉まくりなのよ。
この漢字四文字は大凶まくりなの。
大凶でよくここまで頑張ってきた。
そうですよ。
これだと思いますよね。
なるほど。
すごいですね。
これで職業は個性を生かした仕事で成功します。
ほうほうほう。
まず政治家。
次に小説家、評論家、詩人、
その他文筆業一般、
作曲家、画家。
いろんなことが巨大しましたけど。
職人になるなら、
寿司職人板前だった。
まあいいや。
これを小学校の時に読んだんですよ。
これ本が出たのが、
生命判断なんていうのは、
これ中国から来てるやつだから、
古くならない。
古くならない。
昭和42年に出てますから、
だから3年生ですね。
の時にあった本ですから、
5年生ぐらいで読んだんやと思いますわ。
いやーえらいこっちゃなと思います。
いやー。
ありがとうございます。
ということで、
これから晩年に突入するということで、
寂しい晩年になりたくないなということで、
ひらがなに変えました。
これが1本目ですからね。
1本目ですよ。
中島さんのお仕事の話も話していきたいので。
いきます。
もう行くの?このまま?
いやいや、1回切ります。
この回が11月7日の月曜日に配信を予定しております。
実はですね、
11月12日に配信を予定しております。
11月12日土曜日に、
渋谷のバックタウンカフェというところで、
アドバタラジオ開局2周年記念のリアルイベントを行うことになっております。
おめでとうございます。
ありがとうございます。
今回は100回目の記念ゲスト。
ありがとう。
その週にリアルイベント2周年記念、
ハロー!3年目っていうイベントになります。
いやー、元気やな。
本当に負けてたっていうか、僕ら全然。
いやいや、元気やわ。
というのを、すみません。
告知で発信していただきました。
これが100回目です。
その週の土曜日に、
ハロー!3年目?
ハロー!3年目。
アドバタラジオ開局2周年記念をやります。
42:00
それと、この11月7日月曜日ですが、
新谷さんもアドタイというメディアで、
毎週月曜日に新谷さんがコラムを毎週月曜日に更新しておりますので、
そちらも併せて、ぜひご覧いただければ幸いでございますので。
11月7日は盛りだくさんですね。
一応ですけど、ちょっと分かりませんけど、
前話何回とかまだ決まってないんですよね。
あれですね。
もうね、とにかく思いつくまま書いてますので、
全然全体の構成なく、どういう結論になっていくかもまだ見えない。
かしこまりました。
全部今までのやつ読ませて、めちゃくちゃ面白い。
ですので、ぜひお読みいただけますと幸いでございます。
ありがとう。
ですので、まず第1本分終了いたします。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
休憩しましょうね。
今後の募集も随時発信しておりますので、
ぜひこの機会に後綿ラジオのツイッターアカウントをフォローしてください。
一緒に楽しいラジオにしていきましょう。
よろしくお願いします。