越境総対話クエストの紹介
はい、じゃあゆるりと、特に前置きちょっとしますか。
越境と競争を掛け合わせた越境総対話クエストということで、今回3回目?第1回目がニンジラークの白砂さんと、
2回目がプライズ4期でも活躍されている渡辺良一さんです。意識の発達を研究された方ですね。
今回竹近さんということで、お二人の紹介の前に改めて、本日も緩い司会を私、安部が務めさせていただきます。
本日のゲスト役の待井君と一緒に、academistプライズの3期で異分野交流のプロジェクトを行ってまして、このラジオもその一環としての取り組みとして始まったものになってます。
この番組は、様々な領域の探究家が集いて、自分のこだわりある視点や互いに相手の探究を意味付けし合う対話番組です。
共通の関心であったりとか、問いを見出して、最終的に新たな視点を自分の探究に持ち帰ってもらうことを目論む、探究者の探究者による探究者のための番組を目指しています。
というわけで、今回のお二人のご紹介というところで、一人目はいつも喋っているいろんな生物の姿形に見せられ、現在は分子生物学の資産学ですかね。
進化をとらえていようとしている、待井君です。
よろしくお願いします。
待井です。進化の探究をやってます。
今日は楽しみにしてます。
はい、お願いします。
今回もう一人ですね、竹近さんということで、アカデミストプライズ4期で活躍されているので、詳しくはそちらのプロフィールページに皆さん飛んで見ていただければと思うんですけれども、ちょっとだけ自己紹介お願いできますでしょうか。
はい、ありがとうございます。
アカデミストプライズ第4期で、普段は京都大学の教育学研究科というところで博士後期課程1年生をやってます。林武地科と言います。
大きく言うと心理学をやっていて、その中でも研究テーマが宗教、特に日本の宗教なので、日本の複雑で曖昧な宗教性とかを考えながら、どうやって、いろんな人が多様性を保ちながら平和に生きていくかみたいなことを考えてます。よろしくお願いします。
お願いします。
よろしくお願いします。
ちょっと形式バッター。
はい。
使用させました。
同じような感じなので、ここからどうですかね。待ちに振っても大丈夫ですか。
そうですね。一応、この2人の研究内容をもとにAIを用いて、2人の設定アイディアというものをいくつか考えてもらっているので、そこから話をスタートできればいいかなと思うんですけど、それが一応このツリーに貼ってあるので、皆さんもしよければぜひ見てください。
で、そうですね。どれが気になるかな。
はやしさんも何か気になるのとかありました?前回もやってて、実は話してないけど。
そうですね。ちょっと待ってくださいね。ツリーを探しに。
わかるよ。僕もツリーを探してる。
そうなんだ。じゃあどうしよう。
これを。
これかな。
もう一回。もう一回貼ればいいのかな。
今日ちょうど第2回の渡辺さんの回のやつを聞いてたんですよ。
ありがとうございます。
で、いやなんかどんな感じのこと話せばいいのかなと思って聞いてたんですけど、やっぱりそこで一番最初の方に話されてたその多様性をどういうふうに渡辺さんとまちりさんが研究されているのかっていうので、そもそも多様性ってなんだろうみたいな話をされてたような記憶があるんですけど。
そうですね。
なんかまあ話し始めとしてそこら辺のことちょっとお話できたらいいなと思って。
そうですね。じゃあ僕の考えている多様性というか、僕の分野の視点から見た多様性についてじゃあ簡単に話そうかなと思うんですけど。
やっぱり生き物って全部で何百万種類もいると思う。微生物とかも含めてはもっともっといっぱいいると思うんですけど、その一つ一つってすごい多様で、さらにそれらが一つの生態系の中で相互作用しながらうまく生きてる。
っていうのがやっぱり僕が一番生き物に見せられているところになってます。
で、例えば僕の研究してるシクリットっていう魚が出ているんですけども、魚っていうのはなんでじゃあ研究してるのかっていうと、すごい多様な、つまり種がいっぱいいるような分類になっているんですね。
シクリットはあんま聞いたことないと思うんですけど、東アフリカっていう湖に大体3000種類ぐらいのシクリット、世界中に3000種類、東アフリカだけでも3つの湖にそれぞれ数百種類ずつのシクリットっていう魚がいて、
それらが一つの大きな湖の中でどういうふうに生きているのか、あるいはどういうふうにしてそうした多様性っていうのが保たれて、あるいは喪失してきたのかっていうのが結構うちのラボでの一個大きい研究点になってます。
宗教と心理学の視点
もう別に種が増えるとか多様になるっていうことに、そんなに理由ってなさそうな感じがするんですよね。
例えば適応ってすごい、どっちかっていうと洗練されていく過程というか、適応できなかった種が絶滅していってどんどんすごいものが残っていくみたいなイメージを持っている人が多いと思うんですけど、
じゃあなんでその中でその多様なものがずっと維持され続け、あるいはもっとどんどんどんどん増えていっているのか、そういうのが結構うちの分野の面白いところかなっていう感じですね。こんな感じで。
いやー面白いですね。
宗教の多様性はいかがですか。
そうですね、やっぱり前回の渡辺さんの話を聞いてても、心理学ってやっぱりある種再現性とか一般化可能性みたいなところに割とアイデンティティを持ってやってきたところがあると思うので、
例えば宗教だったらキリスト教の研究が多いんですけど、キリスト教の研究をキリスト教の参加者のデータを元にして、
作られた理論とか体系だったモデルみたいなものがキリスト教以外の宗教信仰してる人にも同じことが言えるよねみたいな前提を持って多分心理学はやってきたはずなんですね。
でもまあ、だんだんそんなはずないよねっていう当たり前の話になってきて、そもそも前提となる文化も違うし言語も違うし歴史も違うのに、それを一般化可能だというふうに捉えること自体があまりロジカルではないというところで、
そういう心理学のトレンドから見ても最近はキリスト教以外の宗教に焦点を当てるとか、そもそも宗教を信仰してない無宗教と呼ばれる人たちに対してフォーカスを当てて、今までやってきたこととのギャップを確かめるみたいな作業が
最近、最近と言ってもここ何20年とか30年とか行われてきているっていう感じですね。
一つなんか単純な疑問なのかも素朴な疑問なんですけど、その心理学で例えば統計的なのかこういう人がこういう時人はこういう判断をするとかこういう人が多いっていうものが例えば一つ研究があったとして、
それに宗教観とかその文化っていうのがどういうふうに影響を与えるのかなって今聞いてて思ってて、なんかそういう例とかってあります?例えばこれが覆ったみたいな。
そうですね。
なんかまあすごく古典的な宗教観、宗教観ってなると一気にちょっと難しくなるような気はするんですけど、
例えば心理学でよく出てくる概念として自己肯定感みたいなとか自尊心みたいな感情があるんですけど、
この自尊心を高く保つためには確固たる自分を持っていることが大切みたいなふうに西洋の心理学では言われてきて、
自分が世の中を見るときに抱いている信念とか世の中はこうあるべきだみたいな考えっていうものが時間をかけてだんだんと強固なものになっていって、
そうすることで確固たる自分が気づかれれば、要はブレが少ないので自尊心が上がるみたいな話があるんですけど、要は事故一貫性みたいなものが高くなればなるほど自尊心が高くなるっていうことが言われてきて、
それは確かにキリスト教的な文脈で見るとすごく当たり前のことなんですけど、特に東アジアの仏教とか儒教とかに代表されるような宗教観がある国ではむしろこの事故一貫性みたいなものが結構低くて、
人付き合いの中で自分を定義したりとか、自分がいる状況とか環境によって自分の考えとかそういったものが変わると思っている人が多いので、そういった地域では西洋の文脈から見ると事故一貫性がすごい低くて、
ゆえに自尊心も低くなるだろうっていう風な見方ができると思うんですけど、実際にはそうはなってない。
なので、もともと西洋が見てた自尊心のメカニズムっていうものが足りない部分があって、
そういうのはアジアのデータを集めるとか、他にも南アメリカのデータを集めるとかをしていくと、だんだん足りないところが徐々にわかっていくみたいな。
なるほど、めっちゃわかりやすい。
よかった。
確かにね、自尊心みたいなもの、質問ばかりで申し訳ない。
それを聞くと、自尊心というものそもそもが違うのかなっていう疑問をしてきて、
例えば、西洋の人が自尊心だと思っていることと、東アジアの人が自尊心だと思っていることがそもそも違うとかもあるんですかね。
いや、もう全然あると思います。
心理学だとよく、例えばアメリカで作られた質問紙、アンケートみたいなものをそのまま日本でやってもうまくいかないみたいなことがあって、
そのうまくいかないっていうのは、もともとアメリカで作られた質問紙で、
例えば自尊心だったら3つぐらい大切なことがあるよっていうふうに大切な回の概念があるとして、
日本で同じ質問紙をやると、1つの概念は全く重要じゃないとか、そういうふうなことがあるんですね。
面白いね。
海外の尺度って心理学で言うんですけど、海外で作られた、例えば自尊心でもいいし、不安傾向でもいいし、欲打つの傾向でもいいし、
僕がやってるような宗教がどれだけ大事だと思うかみたいなものでもいいんですけど、そういったものを日本に持ってきたときに、
そもそも、さっき言ってたような、自尊心の概念が違うっていう可能性もありますね。
そっか。なるほどね。
そもそも、何だろうな、単純に質問紙の得点傾向、回答の傾向が違うみたいなこともあって、
日本人は全体的に、自分の感情を乗っけにくいとか、真ん中の選択肢を選びやすいとかっていうのがあるので、
そういった質問、方法論上の誤差っていうか間違いも考慮しなきゃいけないんですけど、全然概念が違うってこともありえます。
なるほどね。でも、そうすると、どこまでが人が共通して持ってるというか、感覚とかはかなり共通。
もちろん、色々ありはするものの、比較的多くの人が似た感覚を持っているんじゃないかなというふうに思うんですけど、
例えば、自尊心とか結構抽象度の高いものになってくると、難しいな、なんて表現すればいいか難しいけど、何がそれを決めてるというか、どこからがイメージ的にはソフトとハードみたいな。
どこからがソフトで、どこからがハードなんだろうなって今思っちゃいます。
いやー、それ難しい、もったい。
いやいや、例えばシクリットでも、すごい性格が全然違うんですよ、その種によって。
例えば、実は今日はシクリット1匹死んじゃったんですけど、そのシクリットは本当に悲しい。1年ぐらい育てて死んじゃった。悲しいんですけど。
その子は本当に臆病で、その種のシクリットって本当に臆病で、吹奏に入れて飼ってても、ちょっとした物音とかでピューンって飛び出していっちゃって、頭打って死んじゃうとか、そういうすっごい怖がりの子もいれば、
逆に岩場とかに生息しているコケを食う奴らっていうのは、結構縄張り意識が強くて、そいつらは本当にすごい喧嘩し合って、一晩同じステーションにいるときと、もう次の日には殺し合いで死んじゃうみたいな。
そういう奴もいて、本当に性格もピンキリで。
でも確かに、一応シクリットってそれらをまとめて呼ぶには、例えば分子のデータを使ったりとか、携帯のデータから、一応これはシクリットですよっていうのを括ってる場合がいる。
だから論拠なんていうか、決め言ってるところがそこにある。
そうですね、だから人間だとそういう遺伝的な情報とか、ゲノム的な情報で分けると倫理的な問題もあるし、あまりに要素が多いとかっていうこともあると思うんですけど、
倫理学もいろんな側面から人間を見てるんですけど、
例えば、すごい不安傾向が強い人とそうじゃない人を分けるときに、質問紙とかそういう尺度みたいなのを使って、何点以上の人はすごい不安傾向あるよねとか、何点以下の人は不安傾向が全然ないよねとか、その間にいる人たちは平均点ぐらいだよねみたいなふうに言うと思うんですけど、
日本人の中でそれを見るのか、日本人と北米人とかを比べるのかっていう視点によって、やっぱり全然見方が違うので、
どこにその研究者の視点があるのかっていうことを割とすり合わせてから議論しないといけないっていうか、文系っぽいところの難しさの一つだとは思うんですけど、客観的な指標もあんまり客観的じゃないことがあるので。
だから多様性っていうのも、多様性自体も何をもって多様とするかとかね、難しいですよね。
確かに、確かに。
宗教と文化の関係
なんか面白いなと思ったのは、スクリプトとか特に進化の分野、特に集団遺伝学とかそういう学問の分野って、結構その理由、例えば多様化が起こる理由みたいのをちょっと歴史に乗せようとするんですよね、最終的な結論として。
例えば、ある元々同じ種だったものが2種に分かれた。それぞれの種でそれぞれの特徴が獲得されていった。
逆に言うと、今現在から見ると、もともと2種がいて、それらはどうだった?なんでこういうふうな違いがあるんだろう?っていうことを考えると、もともとは1種で、そこから何かの重要な変異があって分かれたんだろう?で、その重要な変異は何だろう?っていうような研究の方向性というか、そういうふうな流れでやるんですけど。
例えば、その歴史とかに何か落ちたりするんですかね?その違い。例えば、西洋と日本の違いっていうのが何だろう?それも宗教に落とそうとしているのが、はやすさんってことなのかな?
いや、どうですかね。これも難しいですね。宗教に落とすっていう方法も一つですし、そもそもなんでそういう宗教とか宗教的な考えが生まれたのかっていうのを、その歴史的な背景に落として理解するっていう、両方あると思うんですね。
例えば、なんか狩猟文化かどうかとか、稲作がどうかみたいな話とかがあったりして、稲作文化、農業文化のところは、そのコミュニティ全体で考えをしなきゃいけないとか、
コミュニティ同士で、農家さんは何人かいっぱいいて、その人たち同士で価格の整理をしなきゃいけないとか、悪天候とかに対して対処しなきゃいけないみたいな状況があって、
そういう人たちからすると、必然と周りの人と協調してくださなきゃいけないみたいな環境的な要因があったので、そういった文化にいる人は、集団主義的というか、協調的な性格になったんじゃないかとか。
あとは、自然災害が多い地域の人は、自然災害が起きた後って結構スピリチュアルな感じになったりとか、何かしらの意味をネガティブなイベントに対して付与するみたいな働きが結構どこの国でもあるんですけど、
日本はそれで言うと自然災害がすごい多い国だったので、多い国なんですけど、起こる自然災害は場所によって結構多様なので、その場所ごとに民間伝承的に作られたストーリーとかナラティブみたいなものがあって、
それが今の民間伝承的な雰囲気を色濃く残す原因になってるんじゃないかとか、そういう話があるので、そういう宗教が一番最初からあったという見方もできなくはないんですけど、
他の環境的な要因とか遺伝的な要因と結びつけて論じるっていうことのほうが最近はメジャーじゃないかなっていう。
自己決定感の低下
なるほどね。
じゃあここで阿部くん、何かある?
ありがとう。
3つ、どれでもいいですけど、まずシンプルに魚というか人間以外の宗教ってあり得るのかっていう問いが一つと、これは町井くどみさんにつけた問い。
もう一つが、自己決定感の話で、僕今は組織開発とか人材育成みたいなところで働いてるんですけど、
日本の大企業の社員の自己決定感が低いんじゃないかっていう感覚で、キャリア自立っていうキーワードだったりとか、キャリアオーナーシップみたいな、
自分のキャリアを自分で選んでいくとか、自分の目の前の仕事が何につながってどんな善なるものに向かっているのかみたいな、
そこに対して自分が向かっている感覚とか、そういったものが低いみたいに言われていて、これは日本の特徴なのか、海外でもそういえばキャリアオーナーシップとかって言ってるのかなみたいな、妄想しながら聞いてました。
日本の大企業だったり、労働みたいな、かける自己決定感みたいなテーマ感。
もう一つが、自然災害の宗教。
前にこのラジオの打ち合わせで伺ったかもしれないですけど、どういう目的観で宗教ってそもそも生まれてきたのかっていうのは、研究者界隈の中でどういう認識なのかな。
説明不可能なものに対してやっぱり不安であったり、何かしら、得体の知れない世界や対象に対して、とにかく何か説明を設けるっていうことで不安を和らげるとか、そこら辺のまとめると、
なので魚かける人間以外に宗教はあるのかってところと、あと自己決定感みたいなものが大企業かける組織だったり、日本の大企業みたいなところと、
あともう一つが宗教がそもそも何で出てきたのかって、この3つで興味があるものを適当にピックアップしていただければと思います。
進化と宗教の対比
じゃあ、3つ目を聞きたいです、僕も。
宗教は一般的な。
そうですね、どういう目的、そうですね、進化心理学的な観点から言えば、一つは適用っていうことになると思いますね。
なので、今おっしゃってくださったような不確実な世の中に対して、ある種一貫した世界観を提供するっていう役割を、宗教が長いことになってきたので、
そういった人生の審判的な存在として機能するっていうのがまず1個ありますよね。
で、もうちょっとなんか抽象的な概念っていうと、宗教、ほとんどの宗教は、この地球で起こることに対して、何でそれが起こるべきかみたいな、
目的論的な議論を多くすると思ってるんですね。
だから、人生で何で悪いことが起きるのかとか、何で戦争が起きるのかとか、何で悲しいことが起きるのかとか、
そういったネガティブなイベントに対して、何で起きるべきかってそのべき論を唱えて理解を促すっていう役割があると思うんですけど、
心理学のちょっと昔の研究では、そもそも人間はこういう目的論的な話の方が受け入れられる認知的なコストが低いみたいな話があって、
例えば、まちりさんが研究されてる進化の文脈で言うと、何でそういうふうに進化するべきかっていうことはあんまり議論されない、もしくは議論されるべきでないっていう雰囲気があるのかなと勝手に思ってる。
いや、その通りです。
宗教はその家は真逆なことをやってて、神様がいる理由はなぜかっていうと、神様がいないと説明しにくいとか、いたほうが都合がいいっていうふうに、っていうふうな論理を持ち出したりすると思うんですね。
これは攻撃したいとかそういうことじゃないんですけど、そういうふうに言われてると。
そっちの方が基本的に人間は受け入れやすいみたいな話があって、子供とか8歳ぐらいの子とかに、何でそういう悪い出来事が起こるのみたいなふうに聞いたりすると、
その悪いことが起きるとそこから人生訓を学べるとか失敗から学ぶことができるとか、人の気持ちがわかるようになるからみたいな目的を答えるっていう傾向があって、それは年齢を重ねれば重ねるほどその傾向が減ったりとか、
科学的な教育を受ければ受けるほどそういった傾向が減ったりとか、逆に認知症とかアラツハイマーとかになって、そういった科学的なロジカルというかそういった議論が難しくなればなるほどまた目的論的な方向に吸い寄せられていくみたいなことがあるというふうに言われてるので、
単純にその楽っていう可能性もあるんですよね。
で、特に最近の科学はその楽さからちゃんと抜け出しなさいっていう姿勢を持ってると思うので、
だんだん宗教を信じる人が少なくなってきたりとか、もうちょっとそんなこと考えても仕方がないっていう、カントとかの思想がちょっと浸透してきたのが、一因になってるかなという印象があります。
宗教と自己決定感。宗教を信じれてる状態って自己決定感ってあるんですかね。
この間ちょっとラジオ前に話して、企業でも宗教に必要な要素って、偶像と経典と、大企業運営にもミッションビジョンバリューみたいな経典と、
あと偶像として何かを、マスコットがなんですけどな。
そういう自分が愛してるものとか目指してるものみたいなものを、過去たるものが一旦借り置きでもいいからあると向かいやすいみたいな話あるじゃないですか。
そこら辺やっぱミッションビジョンバリューがあると自己決定感が上がるみたいなのと、宗教があると自己決定感がむしろ下がる。
ここは結構難しいポイントで、さっき言った文化性が結構変わってくるところだと個人的には考えて今はそういう研究をしたりしてるんですけど、
自己決定感とか自己効力感とかそういった話で、確かにその宗教を信じてると、人生の中で起こるすべての出来事に対して一貫した考え方みたいなものが、思考のフレームワークが提供されるんですよね。
例えばキリスト教とかだと。
で、そういった過去たるものがあるというふうに思えれば、もちろんそういった自己決定感みたいなものとかっていうのは上がる可能性があるんですけど、
東アジアでは、これ前の打ち合わせの時にお話したかもしれないんですけど、弁償法的な思考とか弁償法的自己感とかっていう概念があって、
これは曖昧なものとか矛盾してる概念とかをそのまま自分の中に落とし込んで、ちょっとフラフラっとさせとける能力みたいなものが東アジアの人は結構高いっていうふうに言われてて。
いや、ほんとそう思う。
で、そういう能力が高いと、例えば自己決定感が低いとか、自己一貫性が低いみたいな議論になって、さっき言った損失がどうのみたいな話も繋がってくるんですけど、
でもそれが別に悪いわけじゃないと思うので、単純に文化差としてあるだけで、その欧米の価値基準に照らし合わせればそれは悪いとかネガティブなことなのかもしれないけれど、僕ら日本人から見るとそれは別に当たり前のことで、むしろ欧米人の方がなんか本当にそんな自分のことを信じれてるのかみたいなふうに思っちゃうっていうのもあると思うんで、
そういった文化差もコールすると一概に綺麗な相関が言えるみたいな話ではないと思うんですけど、でも何にせよその宗教とか、例えば宗教じゃなくても科学を信仰してるっていう人に対しても、
要はその一貫した思考のフレームワークを持ってると、いろんな問題に直面したときに解決しやすいっていうのはあると思うので、それが宗教かどうかっていうことよりかは、もうちょっと抽象的にそれが世界観かどうかとか、そういったことに関係してくるはずですね。思想とかもその一部かもしれないですね。
そうか。なんかちょっと方眼関係が、素人目をセールされてきた感じがするし、多分さっきの曖昧なままキープしていける力って、わからない、非科学的かもしれないですけど、でもやっぱり多くの日本の企業人ってそういう感じだよねっていう言説が、
やっぱ、はびこってるから広まってる中で、それが別に良い悪いでもなく、その状態ならその状態でそれを突き抜けるというか、どういうふうにそれを受け入れていけばいいんだろうなっていうちょっと個人的な葛藤がありつつ、多分多くのビジネスマンはそこらへんが気になって、
気になりそうだなっていうテーマだなと思いながら聞いてました。一方でまちぃくんの生物目線からの。
はいはい。2つ面白いと思った点があって、1つは目的、論的に落とし込まないっていうところ。
落とし、宗教は目的を、疑問を、今うまく答えられない疑問をうまいストーリー、うまいストーリーってちょっとあれだけど、ストーリーで説明するっていう、1つの目的があるっていう話だったんですけど、
やっぱ進化は結構、それとは一番遠いところに行きたいんです。行きたいんですねって感じとしてそう思っていて、やっぱりなんでも説明、ある種ずるいというか、なんでこんな素晴らしいことが起きたんだろう。
それは人が進化してきたからだよみたいな、なんか全部それで片付いちゃうんですよ。それはやっぱり進化生物学者の僕としてはちょっと避けたくて、大事なこととしてはやっぱり進化は進歩ではなくて、あくまで結果、あくまで現象。
集団ある生き物が昔から今にかけてどう変わったかを見てる。それが変わったら全部進化。例えば絶滅してもまあそれもそれで進化だし、ある目を退化させたとしてもそれはそれで進化だし。進歩的に捉えられちゃってるっていう節があって、進化のことが。
それはすごい危ない思想というか、優勢思想とかにも備わってくるよくない思想なんですね。なのでやっぱり、そこは宗教的なところとは一線を引かなきゃいけないところなのかなっていう。
別にそれいいっちゃいいんですけど、でもそうするとやっぱり進化でわかってきたメカニズムっていうのを悪用しようみたいな。例えば、昔やられてたように人をまびいて天才だけを集めて子供を作ったら天才が生まれてくるんじゃないかみたいな。
そういう悪用する人たちが出てきたっていう歴史があって、やっぱりそういうのがそこは一線引かなきゃいけないなって今思ってます。
あと、何かありますかコメント。
いやもう、難しいですね。その考えはやっぱりすごくわかるし、科学の一般的な考えだと思うんですよ。特にこの200年ぐらいは。
なので、だからこそ心理学でも宗教の研究って一時期やられてなくて、それは心理学をある種科学としてちゃんと成り立たせるためには、そういう言ってしまえばそれっぽいストーリーみたいなものとなるべく距離を取りたいみたいな気持ちが心理学者の中にあって、
2000年とかぐらいまで本当に宗教の研究ってのは全然やられてなかったみたいなところもあるので、その気持ちはやっぱり、一研究をしているものとしてもすごくわかりますよね。
そのバランス感って結構難しくて。
いやそうですよね。
宗教心理学の探求
宗教心理学をやってるっていうと、このように神様がいるのかいないのかを研究してるっていうふうに思われることがたまにあるんですけど、
宗教心理学は、そういう実存的な問題とか神の存在証明をしようっていう学問ではなくて、なんである人は神様がいるって信じてたり、ある人は信じてなかったりとか、
どういう人がすごく宗教に傾倒するか、もしくは宗教を忌避するかみたいな、宗教ではなくて宗教性とか宗教的な心みたいなものに焦点を当てるのが宗教心理学なので、
その上手いバランス感っていうのを宗教心理学やってる人はみんなちょっと保ちながらやってるっていう感じがあるんで、すごく進化生物学とかやってる人にあんまり嫌われたくないなって。
嫌われ、そういうのじゃないですよ。
お互い多分理解できてないポイントとかもあるような気がして、僕らはたくさん話したりするからなんとなく共通の理解が得られてると思うんですけど、結構多分意外と交わらないと思うんで、この2つは。
逆にちょっと敬遠しがちまである、わかんないけど。
進化論の教科書見て必ず最初に創造説と進化論っていう対比から始まることが多いので、そこを対比されちゃうとやっぱ違うものなんだっていう感じがしちゃいますね。
そうですね。
マチリ君の2つ目の気になったポイントに行く前に、せっかくなので研究者の内面もほじくり回してやろうということで。
宗教信仰ってやっぱりかなり繊細なバランス覚悟を求められるイメージだろうなって本当に思ってたんで、そこに特攻していった、原体験かわからないですけどモチベーションを差し支えなければ、どういう経緯で興味を持っていったのかっていうのを。
そうですね。
原体験は大切な体験は2つあって、1つはなんでそもそも宗教に興味を持ったかっていうところなんですけど、小学校6年生ぐらいから中学3年生までタイのバンコクに住んでて、
そこでは仏教徒の人がたくさん多くて、それまで宗教の影響とかはあんまり日本にいても感じなかったんですけど、がっつり人口のほとんどの人が仏教徒で、街中歩いててもお寺たくさんあるし、お坊さん歩いてるし、
お寺、ほこらみたいなのが街中にたくさんあるんですけど、それを見つけたら大人の人は立ち止まって、お祈りみたいな、するんですね。
そういうのを見て、タイ人の人ってすごい優しくて、僕はかなり引き目に見てるかもしれないですけど、結構平和に暮らしてるなみたいなイメージがあって、日本に住んでると、それこそ信仰宗教の悪いイメージみたいなのって宗教に対して抱きがちだと思うんですけど、
ある人はそこでタイに住んだことによって、宗教のポジティブなイメージみたいなものが得られたり、大学時代、アメリカの大学に行ったんですけど、サウジアラビア人の子たちとすごい仲良くて、彼らイスラム教なんですけど、そこでイスラム教の考えとか、神様を信じるってどういう感じなのかとかすごいめっちゃ聞いたりしてて、
彼らがすごい優しく彼らの考えを教えてくれたりとかしたので、自分も宗教に割と近い距離にいたっていうところで、そもそも宗教に興味を持ったっていうのが一つですね。
宗教心理に特攻した理由は、実はあんまり宗教心理に特攻しようと大学卒業時には思ってなくて、それはアメリカにいるとやっぱり宗教の話題ってちょっとタブー視されてるんですね。
で、特にキリスト教以外の話になると余計もうちょっと話さないみたいな人が多かったんですけど、多かったので、なんかあんまり表立って研究とかできないかなと思って、
ちょっと分野をそれた医師決定とか、もうちょっと別の社会心理学の分野に、大学院生活を送ろうかなと思って、大学院の院士を受けたんですね。
で、その院士の面接の時に、今の指導教官である先生が結構鋭い人で、本当は君何したいの?みたいな風に聞かれて、ここに書いてあるのはなんか、筋は通ってるんだけど、
なんかこういう研究を何でしたくなったのか、そのきっかけは何?みたいな風に聞かれて、きっかけはその宗教的な現体験があるので、宗教の研究したいんですけど、なかなかそういうのも難しいかなっていう話をしたら、
その先生が、研究者としてやっていくには、自分の一番関心のあることを研究しないとダメだから、君は宗教やりなさいっていう風に言ってくれて、それで大学院入ってからは、堂々と宗教の研究しようみたいな感じです。
生物と宗教の比較
バランス感覚で取るためにっていうことじゃないですけど、僕が所属したのは認知心理学っていう分野だったので、割と定量的な方法を使いながら、なるべく科学的に宗教を研究するっていう手法を取ってるラボでもあったので、上手いことなんとなくバランスが取れてるかなと思ってるっていう感じです。
その先生のお名前をお伺いすることが可能でしょうか。
野村道夫先生という先生です。
野村道夫先生がそうです。
野村先生、最高なんで。
ありがとうございます。
いやー、壮絶なストーリー。
じゃあ僕の2つ目の話に行ってもいいですか。
ごめんなさい。すごいあっさりに。
大丈夫です。野村先生今調べようと思ってたから。
ごめんなさい。
阿部くんの1つ目の質問。
宗教性みたいのがある生き物はいるのかっていうことは結構ずっと考えてたんだけど、今話を聞きながら。
はっきりとそうだっていう生き物は多分いないんじゃないかなと思います。
例えばイルカとかはすごい社会性があって。
イルカ、シャチ、ゲイ類とかね。すごい社会性があってよくコミュニケーションとって。
群れで獲物を追いかけるときにすごいコミュニケーションとって。
追い詰めてうまく漁をするとかはあるけども。
宗教とかはあるかなって言われると、
固体群、集団の間でこういう狩りをしやすいとか、こういうふうに動きやすいとか、こういう傾向があるっていうのはあるかもしれないですけど、
それを宗教と言えば固体群と言われるとまた違うような。
ただ面白いと思ったのは、群れを作る生き物っていうのはもちろんすごくたくさんいて、
宗教的なものが、どう他の生物に対して宗教的にするかは難しいと思うけど、
それらしきものが生まれてきてもいいのになーって思ったけど、
類人猿とか人に近い生き物はあんまり効かないですね、と思った。
僕の知ってる限りでは。
でも不確実性への対処とかはすごいあるだろうし、他の生き物でもね。
認知的なリソースをどこにどう配分するとか、そういう研究はされてるし、
確かになんでないんだろうなーとは思ったっていう話題でした。
なんかこれ他の生き物にはない、こういう理由なんじゃないかっていうの思いつくのありますか?
難しいです。なんかあるかな。
なんか本とか読むと言語とか、あと心理学で言う心の理論っていう、
相手の気持ちになって考えられる能力みたいな話があって、
そういったものが宗教を生み出すのに非常に重要であるとか、
あとはサピエンス全史とかでも言われてたような、
嘘とかゴシップみたいなものとか、抽象的な概念を人の間で共有できるかみたいなものが
わりとベースの能力になってたりするって話があるので、
それを考えると類人猿だとしても、そこまでちゃんとした心の理論とか、
抽象的な考えをするのは難しいから、人間に特有だという考えを。
一方でアカデミストの工藤さんから、死者を弔う的な行動は象とか猿とかにもあった気がする。
猿はわかんないけど、象は聞いたことあるけど、
でも社会はやっぱりあるんですよ、生き物には。
シクリットだって、例えばシクリットで日本の研究でされたのが八つ当たりをするっていうのがあって、
ジュリド・クロミスっていうシクリットのマゾクなんですけど、
そのシクリットが大きい個体と中くらいの個体と小さい個体を同じ水槽で飼ってると、
すごい喧嘩をする人なので、大きい個体が中くらいの個体を小にするんですね。
お前あっち行けよみたいな。
ちょっとあまり言葉、セリフは長くないけど、あっち行けよみたいな。
そうすると、中くらいの個体は小さい個体に対して何もされてないのに、お前も行けよみたいな。
つまり八つ当たりをするっていうことがシクリットで知られていたりとか、
あと本当に、いわゆる人がするような行動って結構魚とかでもよく観察されてるし、
日本の靴垣先生っていう先生のグループがよく研究されているんですけど、
何だろうね。
宗教と社会的背景
やっぱ抽象的なものを認識するとか、そういう力なのかな。
ちなみにどういうふうに、さっきちょこっと災害の後に宗教っぽいものが生まれてくるみたいな話があったと思うんですけど、
やっぱりどんな宗教もそういうふうにして生まれてきてるんですか?
どんな宗教もって言うと難しいですけど、
僕が、皆さんがよく聞くような宗教は結構そういう側面があると思います。
それはキリスト教、そういう側面があるっていうのは、
キリスト教だったら、そういうふうに表だってもちろん言わないですけど、
機能としてはほとんどの宗教がそういう機能を果たしてると思いますね。
でも、これまた別の話題になっちゃうんですけど、
1個気になったのは、すごい広まる宗教、
例えばキリスト教とかは全世界に多くの人たちが信仰してるけども、
一方ですごい民族的な、小さい集団の中でしか信仰されてない宗教っていうのもあるじゃないですか。
そういうのはどういう違いがあるんですか?
これは結構、まだデータが足りないような気がするんですけど、
宗教は結構政治に使われてきた歴史があるので、
単純に政治の力が強いっていう見方もあるんですね。
例えば、キリスト教が全然流行らない国として、
日本と中国が挙げられることがあるんですけど、
逆に韓国は結構流行ってるんですよね、キリスト教が。
東アジアは東アジアなのに、なんで日本と中国では流行らないかっていうので、
これはあんまりデータで明らかになってるってことではないと思うんですけど、
日本はそもそもすごく貧富の差があるわけでもないし、
社会インフラがだいたい中程度とか高程度に整っていたりして、
生きていてあんまりネガティブなイベントが、
例えばアメリカみたいな国に比べると少ないので、
感情強度としては低いみたいなことが理由と言われたりするんですね。
中国はそれで言うと日本より貧富の差が激しかったり、
都市部とそうじゃないところでの経済とか社会インフラの差がすごいあるというふうな状況で、
なんで流行らないかっていうと、
一つは政治的に統制されてるからっていう議論とかもあったりして、
どこまでそれが正しいかわからないんですけど、
割と環境的な要因もあれば、政治的な要因もあるし、
キリスト教はローマ帝国との関連が深いので、
かなりそのヨーロッパ地域の、
今ヨーロッパと僕らが呼んでるようなところでは割と浸透した考えになってますし、
日本は単純にその大陸じゃないので、
島国だからちょっと特殊な考えを持ってるとかいろいろあると思うんですけど、
そういう地域的な問題とか政治的な問題もかなり大きいとは思いますね。
めちゃくちゃいろいろな要因が複雑に絡んでる。
そうですね、時代のトレンドみたいなもの多分あって、
日本の禅とかって流行ったと思うんですけど、
禅とか仏教的な思想がアメリカですごい復興した時期とか、
それこそヒッピーの文化が流行った時期とか、
社会の情勢に沿うような形で宗教的なトレンドみたいなものもあったりして、
最近は全体的な傾向として伝統的なキリスト教とか、
そういったものから割と人々が離れていって、
キリスト教の、例えば愛がすごく大切だよみたいな考えは受け入れるけど、
週末とか創世記のことに関しては、
あまり信じていないみたいな人とかもいたりするので、
割とみんな主者選択して、
自分の中で宗教を作り上げるみたいなトレンドも今は来てるかなと思います。
なるほどね。
やっぱめっちゃ複雑ですね。
そうですね。
宗教、竹近さんから見て、大企業など、
いろんな共同体それぞれ信仰心みたいなものはあると思うんですけど、
例えば企業って他の共同体と比べてめちゃくちゃ無茶ぶりな質問ですけど、
どういうものに見えてます?
そうですね、難しいですね。
難しいですよね。
宗教にもいろいろあると思うので、
例えば、唯一心がいるような宗教と企業の違いは、
企業はどっちかっていうと、リヴァイアさんっぽいっていうか、
みんなが集まって大きな一つの共同体になってるけど、
それはあんまりトップダウン的ではないイメージがあるんですね。
スタートアップとかであればちょっとまた違うと思うんですけど、
大企業だと基本的には会社のすべてを肯定してるわけじゃないけど、
宗教と企業の違い
いいと思うポイントとか賛成するポイントとか、
そういったものがあって協力をしているっていう。
別に社長をすごい絶対視したり、
その会社のビジョンを絶対視してるっていうわけではあんまりない気がするので、
ほとんどの大企業は。
うん。
それで言うと、そういうキリスト教とかユダヤ教とかイスラム教みたいな、
絶対心がいるような宗教とはちょっと様相が違いますよね。
うん。
で、難しいですね。あんまり自分が普段考えてないことなので。
そうですよね。
なんかその、多分、ピラミッド構造な組織感から、
だから部長と課長だったら部長の方が上で、
部長がどういう世界を描いてるかわかんないけど、
とにかく上から降りてきたから課長がやるみたいな。
うん。
だからそういう、イス決定システムと何だろう、宗教かな。
なんかイス決定システム、問いが立たないな。
問いが立たなくて、リスナーの皆さんに恐縮なんですけど、
ちゃんとリスナーの。
いやいや、じゃあ俺回り込んで。
はい、どうぞ。
はい、お願いします。
なんかちょっと組織、阿部くんが組織論とかに寄ってるからなのかもしれないけど、
結構、宗教って基本的な人っていう一種の生き物の中で、
いろんなバリエーションがあるってことだと思うんだけど、
生き物の社会の中でも結構いろんなバリエーションがあって、
例えば、蟻とか蜂とかの社会は結構女王、
女王が一強かと思いきや、実はそうでもないみたいな。
あれはね、本当に面白くて複雑なんだけど、
やっぱり蟻のワーカーっていうんだけど、
子育てをする働き蟻たちって、自分では卵を産まないんだよね。
でも逆に考えると、
逆に考えると、それってその働き蟻の子供が作られないわけだから、
どうやってその働き蟻になるぞっていう仕組みが進化してきたのかっていうのは、
すごい難しい問いだったんだよ、昔まで。
そこで血縁っていうのを考えた人がいて、
女王蟻とその働き蟻っていうのは血縁関係にあると。
だから働き蟻、女王蟻がたくさん卵を産めるのを手伝えれば、
遺伝子としては自分の血は残っていくみたいな、
ある種、女王蟻を手伝うっていうわけじゃなくて、
ある種、自分の働き蟻からすれば、
女王蟻は自分の子供、ちょっと遠い子供をたくさん産む機械。
機械じゃないけど、そういうものとして見てるんじゃないかっていう考えがあって。
結構データも実はそうで、
女王蟻が雄を産む比率と雌を産む比率っていうのを数えてる人がいて、
ほとんど雌を産むんだけど、
女王蟻的には雄も産んだ方が自分の血っていうのがよく広がるんだよね。
その血縁についてよく考えると。
一方で働き蟻は雄は産まない方が、
雌だけを産んでもらった方が、
そこにはもう一個仕組みがあるんだけど、
自分の血がよく広がるという、
女王と蟻の間で対立があって。
ある種のアリでは、
雌が、女王が産んだ雄の卵っていうのを外に捨てちゃうんだよね。
自分で生育をコントロールしてる。
そういう、
それぞれ利己的に、
自分の遺伝子を増やそうとしてるんじゃないかっていう考えなんだけど、
全然脱線しちゃったけど、
とりあえず、
アリとかみたいな社会もあったりとか、
アリとかも意外と、
自立ベンチさん的というか、
トップダウン的?どっちなんだろう。
いろんな社会あるよなと思って、動物たちに。
確かに。それで言うと大器用はそっちに近いような気がしますよね。
うんうん。
各々が自己の利益を最大化。
うん。
なんか、
例えばキリスト教だと一番大切なのは、
神と自分の一対一の対話みたいなものとか、
関係みたいなものが前提としてあって、
その上で、
教会とかのコミュニティが作られるっていう感じなので、
いわゆるその、
なんだろうな、
教会がないと信仰が成り立たないってことは絶対になくて、
理屈的には、
信仰はあるけど教会はないっていうのは別に、
問題ないって言うとあれですけど、
一番大切なところではあんまり問題にならないんですよね。
うん。
なので、
例えばクリスチャンのカップルが結婚すると、
その家に2人のクリスチャンがいることになると思うんですけど、
2人以上いれば一応教会っていうふうにみなすことができるっていう、
派閥というか、そういう方たちもいるので、
コミュニティが欠如してても宗教っていうのは、
キリスト教だけで言うと、
成り立つはずですね。
仏教もそれに近いっていうか、
どこまでシンボルとの関係を重要視しているかはあんまり詳しくここでは言えないんですけど、
少なくとも自分の中で自制的にどれだけ考えられるかみたいなところは重要なので、
やっぱりそのコミュニティがなかったとしてもある程度宗教としての体裁は保てるはずなので、
それはなんていうか、いわゆる大企業とは違うというか、
課長がいなければ平社員もいないし、
部長がいなければ課長もいろいろ何もできないっていう。
で、その一番ピラミッドの上に社長とかCXOみたいな人たちがいると思うんですけど、
別に彼らもなんていうか、ある種取り替え可能である場合が多いので、
それやっぱり一概に同じとは言えないような気もしますよね。
もちろん学ぶことはたくさんあると思いますし、
宗教のそういうコミュニティ的な側面をうまく抽象化して生かすみたいなことも、
はもちろんできると思うんですけど、
やっぱり完全に同一なアナロジーっていうふうには言えないと思うので。
進化の起源への探求
うーむ。
そうっすよね。
ちょっと話出てください。
これも一つだけ、一つだけっていうか、一個聞きたいことがあって、
進化でもいいですし、この世の始まりでもいいんですけど、
原因となるものがあって、その現象として結果が出てくるっていう考えに立つと、
原因の原因の原因のみたいなふうに戻っていけるじゃないですか。
で、その一番最初の原因みたいなものとか、進化の一番最初とか、
この世ができた一番最初とかに行ったときに、
宗教はそこを神っていうふうに定義したりとか、
孔子の生命体だというふうに言ったりするんですけど、
進化生物学とかにおいて、
まずそもそも一番最初の原因を突き止めるっていうことに魅力があるのかっていうことと、
一番最初がもし分かったときに、
その研究分野にいる人とか、その研究成果を受け取った人たちが、
単純に事実として、これが一番最初の原因なんだって思うだけじゃなくて、
なんでこれから始まってるんだろうとか、なんでこの時期に始まったんだろうみたいな、
ある種目的論的な疑問っていうのが生まれないのかっていうのが疑問で、
今日たまたま読んでた本に、
サルトルって、割と無心論的な論客として名が挙げられると思うんですけど、
サルトルも基本的には無心論なんだけど、
一番原因の方を考えれば考えるほど、
何かしらの目的とか意義とか、そういったことを考えざるを得ないみたいな告白をしてるっていうふうに書いてあって、
こういった問題に対して科学とか、パチリさんとかがどういうふうに向き合っていくべきだと思ってるのか聞きたいという、
ちょっと難しい。
いやいやいや、とても大事な視点だと思います。
まずそこの始まりを知りたいのかっていうところについてなんですけど、
それはみんな知りたいと思ってると思います。
少なくとも生命の起源に関する本っていうのはたくさん出てますし、
みんなそれについてすごく議論しています。
もうちょっと狭いスケールで、
例えば種の起源、種がどうして生まれるのかっていうところについても、
まだうまく説明つかないんですけど、
僕が例えば種の起源、
例えば2種がどういう過程で1種から2種に分かれてきたのかという始まりのところについて、
例えば論文を出したとしたら相当大きな研究成果になる。
すごい魅力的なテーマですね。
やっぱり僕らの立場としては、
基本的にはHowに答えようという立場にいます。
なので、どうやってそれができたのか、
どうやったらそういうことが起こり得るのか、
そのHowの立場で基本的には答えていく。
メカニズムですよね、いわゆる。
メカニズムはわかるけど、なぜそれが起こったのか。
究極的な要因については、
少なくとも僕はわかんないんじゃないかなというふうに思っています。
っていうのもやっぱり歴史に近いので、進化って。
で、すごい偶然っていうのもすごい大事にするんですよ、進化学の分野では。
科学と宗教の対話
例えばというか、そのゲノムで、
人だと30億円必要でありますけど、
そのうちのほとんどの変異っていうのは、
有利でも不利でもない偶然のたまたま、
中立、有利でも不利でもない変異なんだっていうことに提唱した人が、
日本人のすごい有名な方なんですけど、この分野では。
なのでそこにあんまり理由を追い求めなさすぎても、
追い求めすぎなくてもいいんじゃないかなっていう立場ではあります。
それがたまたまそうだったっていうことで、
逆にその色をつけすぎる。
例えばそれが有利だったから広がったんだって、やっぱりみんな思いたいんですよね。
みんな、例えば全然違う生き物がいたときに、
そういうふうな形になるのが有利だったんだ。
そういうふうな色鮮やかになるのが有利だったんだっていうふうに、
説明をつけたいっていう気持ちはもちろんあって、
実際にそれで説明がつくことも非常にたくさんあるにはあるんですけど、
例えば変とこない子がいたときに、
それが中立で生じたっていうふうに思っても別に僕はいいのかなって。
やっぱりそれはなぜか歴史なので、
そういうふうな、
例えばですけど、その種が分かれたときには有利だったかもしれないけど、
今は別に何でもない。
ただその形の名残が残っているだけっていうこともたくさんあって、
例えばクジラに足の骨の痕跡があるんですけど、
それはあんまり使われて、今は使われてないんじゃないかなっていうふうに、
つまり痕跡としてただ残っているだけなんじゃないかなっていうふうに考えられてますし、
それがたまたま残っているだけっていうふうに思ってもいいのかなって思いますね。
そうですよね。
だから、なんでこの質問したかっていうと、
結構、さっきHowに答える立場ってすごいいい言葉だなと思ったんですけど、
科学って割となぜっていう疑問に答えるものだというふうに認識されていて、
それはある人らしいんですけど、
なぜっていう言葉には、
How的なメカニズムのなぜもあれば、
何の目的でみたいな意味のなぜもあると思うので、
何の目的でっていう方に、
いくら議論したとしても、議論している個々人の前提ですよね。
世界の見方とか、思考のフレームワークによって議論が行き詰まってしまうっていうことが、
例えば宗教戦争とか宗教的な紛争を見ててもすごくよく見られる。
そこを、科学であれば明治的に、
そのメカニズムのところだけで科学的なデータを持ってきて、
ちゃんと議論しましょうっていう話でうまくいくんですけど、
政治的な話とか宗教的な話とか、
もっと抽象的に人生の幸福とか多様性みたいな話になると、
前提の擦り合わせが全くうまくいってない状態で議論していって、
この越境その逆っていうか、
どちらもただ自分のコミュニティの殻に帰っていってしまうみたいな対話がたくさんあるので、
そういったメカニズムをちゃんと話しているのであって、
そこからの解釈については、
ある種ちょっとエンタメレベルで話しているっていう議論の仕方も、
特に思想とか宗教観とかが異なる人たちの間では重要なんじゃないかっていう、
なんとなくの意見があったので、
あれから見ると多分全然違う考えを持ってそうな、
マチーサンと僕みたいな人たちがどういう風なところで、
ちゃんと共同しながら、議論しながら共同できるのかみたいなところをちょっと探れればいいなと思ってたので、
そこら辺が分かって嬉しいっていう。
まあそうですよね。やっぱり、もちろん生物学4つのなぜっていうのがあって、
その中の一つに究極要因っていう。
越境の意義
なんでそういうこと、例えば、すごい高く飛ぶ蝶々がいたときになんで高く飛ぶのかっていう、
それに答えようとする研究もたくさんあって、
それはそれですごい素晴らしい研究成果だと思うんですけど、
まあやっぱり結構難しいですよね、そもそも。
科学ですね、答えようとすると。
そうですね。
まあだから、今思ったのは、
科学を突き進めていくことで、例えば宗教戦争とか対立とかにどう向き合えるっていうか、
何ができるんだろうなって今ちょっと思ってます。
そうですね。
なんか、さっき大学院試を受けたときの話で、
宗教っていう話題がタブーなんじゃないかと僕が思ったって話をしたんですけど、
僕は、これは僕の性格かもしれないんですけど、
議論のテーマにタブーはないと思ってて、
ちょっと危ないぐらい僕は宗教の話でもそこら辺でぶちゃくちゃ喋れるし、
政治の話でもこういう考えの違う人と議論するのが好きなんですけど、
やっぱり前回の打ち合わせのときもお話しさせていただいた、
好奇心みたいなものってすごい大切な要因としてあって、
自分と違うっていうことがそもそも面白いって感じれるかどうかとか、
そういうようなセッティングに人をちゃんと持っていけるかとか、
っていうのが一個考えれることかなと思ってて、
変に大きなラベル付けをして、そこで相手のことはもう興味ないみたいな風になると、
やっぱりもったいないこともたくさんあるし、
社会の構造としてもあんまりよろしくないと個人的には思ってるので、
多様性の問題にしても、他の宗教の問題にしても、
まあちょっと面白さを持つっていうか、
さっきその前提が違うと話にならない可能性もあるっていうのも含めて、
前提全然違うね、面白いもちゃんと思えるかどうかっていうのが結構。
間違いない。
それはやっぱり自分の現体験も、
それも今日ちょっと考えてることはやっぱり全然違うけど、
でもなんかめっちゃ盛り上がることもたくさんあるし、
議論したりして、その後親友みたいになれる可能性もやっぱり全然あるので。
なんかそこの成功体験どうやって増やしていけるといいんだろうなって、
越境というものをよく扱っていこうとした感じですよね。
成功体験の重要性
多分なんかそういう異質なものとなんかよく分からないけど、
議論した結果、何かしら知らない自分の価値観が相対化されて、
新しいものが見えるってところまでいくっていう成功体験がないと、
なんか多分期待値が持ててるから多分話し続けられるわけじゃないですか。
異質なものを楽しもうと思う。
そこで結構やばい話かもしれないですけど、
研究者の異文野学祭、異文野交流に参加する人の動機づけ研究っていうので、
大きく2つあって、1つはシンプルに過去成功体験があって、
そういう異文野交流会に参加した結果、
そういう小さな成功体験があったので、
リピーターと初期参入者と全く同じ考えで、
じゃあ初期参入者は何で参加してきたのかって言ったら、
たまたま友人がその異文野交流会の主催者とかであったりして、
全く異文野交流会自体には興味を持ってないけれども、
友達に連れてかれて参加しましたっていう、
別の評価軸ですよね、友人への信頼とか、
全く異文野交流とは全く別の評価軸から参入した結果、
小さな成功体験があってみたいなっていう感じで、
そういう場作りをどう設計していけるのか、
スケールさせていけるのかって。
でも1個思うのは、自分の専門性がないとあんまり越境って難しいなと思ってて、
専門性っていうのは知識とかだけじゃなかったり、
スキルだけじゃないと思うんですけど、
自分の出自の専門性とかでもいいと思うんですね。
自分がどういう環境で育ってきたかとか、
例えばすごい都心部で育ってきた人と、
郊外のところとか田舎で育った人が、
お互いの生活環境とかを面白がって交流するとかでも全然いいと思うんですけど、
割とその均一性みたいなものが美徳として、
学校とかで教えられたりするっていう影響もあると思うんですけど、
お互いの共通点を浅く話すっていうのは、
僕はあんまり興味がないっていうか、あんまり良くないなと思ってて、
例えば僕とマチーさんがお話しするときに、
本当はその進化生物学の立場と、
僕は別にすごいそういうわけではないですけど、
例えば宗教で言われているような想像論的な立場をぶつけると、
面白い話ができるけど、
お互いにそこを情報しあって、
小手先の会話をいくらしても、
越境にはならないと思うので、
割とお互いの言うことを長い間聞く時間があったりとか、
自分のことを話すみたいな時間がすごく必要かなと思ってて、
なので、研究者同士の対話とかで、
例えば学会でお話しするとか、
いろんな研究者の人がその場に集まってお話しするってあると思うんですけど、
あんまりそういうことってできてないような気がしてるので、
特に高校の授業とかでそういうのってすごく難しいし、
自己開示能力とかも必要なので、
なかなかうまくいかないと思うんですけど、
やっぱりもうちょっと相手の深いところまで、
ちゃんとお話ししてあげる、
それは今回の場であれば、
阿部さんが引き出してくれたような気がしてるので、
こういう3人で話すっていうか、
遊びの要素と議論
MCの人1人いて、お互いの深いところちゃんと聞いて、
っていうのは結構いい形な気がしてます。
じゃあ深いところを対象化して外化できるっていうところがやっぱり一方、
ハードルあるよなって、
自分が何したいとか何に興味関心持ってるのかとかが、
そもそも外化できるかどうかみたいなところなので、
アカデミストというクラウドファンディングにわざわざ登録してくる人々は、
みんななぜ自分がその研究をしたいのかというところまで、
自ら語れる人たちが多いという、
そういう人々が集まったプラットフォームだと認識しておりますので、
引き続きいろんな人を巻き込んでいきたいと思っております。
ぜひぜひ。
集結の方に強引に向かっていこうとしてるんですけど。
いやでもこの議論はまた別枠でしたいなと思います。
例えば、やっぱ多様性とか越境とかを扱ってる人たちとかと、
これは一つワントピックで、
もう少し人集めてできたらいいなと思いました。
思っております。
まちぃくんはいかがですか?
最後の阿部くんの疑問についてずっと最後考えてたけど、
これはもう俺がずっと思ってることだけど、
その遊び的な要素。
やっぱそれを楽しもう。
楽しむ姿勢というか、
それを一種の。
遊びって言うとちょっと言葉が良くないかもしれないんだけど、
進化の文学でも、
例えばすごい強い選択圧っていうか、
すごい強く、
まあ、
例えばすごい強い外来種が入ってきたときとかって、
すごい多くの種が絶滅して、
本当にスペシャリストだけが生き残るみたいな世界線なんだよね。
一方で、
じゃあなんで逆に多様性ってどうやって起こっていくのかっていうと、
もう本当に、
例えば別々の集団がごっちゃになって、
すごいぐちゃぐちゃの集団ができて、
で、ある程度はそのニッチに空きがあるというか、
いろんなところにまだ増えられる余裕があるみたいな、
そういうある種の遊びがあるときに、
多様化が進むんじゃないかなと俺は思っていて、
それとまたその好奇心ベースの遊びっていうのはちょっと違うかもしれないんだけど、
でもそこの言葉が同じふうに使われ方をするっていうのもすごいずっと前から気になってて、
だから結構余裕というか、
同じ言葉が使われてっていうのは何と何?
つまりプレイする遊ぶっていうのと、
余裕があるっていう遊び。
そうそう。
でも結局は同じゆとりがあって、
なんか進む方向があるというか、
ちょっとうまく言葉にできないけど、
ある状況っていうのを作らないといけないんだよなって思いました。
ちょっとあんまりフワッとしたことはない。
遊びというのは我々の越境考える時のテーマ感なので、
ここで出していただいて思い出しました。
何回も安倍くんと話していますが。
じゃあ最後、林さん。
遊びに絡んで宗教かける遊びで。
そんな遊ばなくていいよ。
難しいですね。
遊びにするとタブーな話ってないと思うというか、
タブーな議論だったとしても、
ちょっと遊びだよねっていうふうに心持ちを持っていれば、
いろんなことが議論できるし、
これから先は結構そういう今まで目を背けてきた話をどんどんしていかなきゃいけない。
思想も前提となる、なんか世界観も違う人たちと、
そういう話をしていかなきゃいけない時代になっていると思うので、
今後もぜひこういった越境相的対話をたくさんの人とできたらいいなと思います。
していただければと思います。
見守っております。
ありがとうございます。
めっちゃ綺麗になってたじゃん。
では、アカデミストの工藤さんにルーム立って頂いて、
運営して頂いたので、ありがとうございました。
ありがとうございました、アカデミストさんもありがとうございます。
はい、ありがとうございます。
はい では本日は以上で失礼いたします
ありがとうございます
はい ありがとうございまーす