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チャイムが鳴っているんですね。 そうなんですよ。うちの大学チャイムが鳴っています。
すごい、8時、夜の8時になるんですよ。 ねえ、すごい時間になりますよね。
何弦なんだこれ、6弦か7弦か、何弦なんでしょうね、よくわかんないけど。
あっ、北島さん。 こんにちは、北島です。
あ、よろしくお願いします。 こんにちは、よろしくお願いします。
よろしくお願いします、academistの阿部です。
こんにちは、北島です。 よろしくお願いします。
では、今日多分話していくうちに、スペース、どんどんリスナーさん増えていきますので、
はい。 ゆるゆると始まっていければと思いますので。
そうですね、わかりました。 僕も初めて、あれなんで、とりあえず何か試みなんで。
そうですよね。 試みなんで、はい。
ちなみに今、北島さんは、ラボから。
そうですね、今ラボの会議室に1人で座って話しています。
ありがとうございます。
では、UJアカデミストコラボの海外留学されている研究者の方の体験談スペース、第3弾になりましたが。
はい。
じゃあまずは赤城さんから。
はい、そうですね。改めまして、海外日本人研究者ネットワークUJA理事で、現職は福岡工業大学生命環境科学科で教員をしております赤城と申します。
で、普段UJAでは若手の海外留学促進の活動をしていて、例えば学会なんかで学生さんやポストク向けに海外留学の進めっていうのを開催してみたり、あるいは日本の雑誌で実験医学さんなんかにちょっとした寄稿を投稿したりしています。
で、そんな活動の中でUJAが出しているUJAガゼットという情報誌があるんですけれども、今回そちらに寄稿していただいた方にTwitterをスペーシーズを使ってインタビューをするという企画がアカデミストさんと一緒に始まりました。
で、今回は第3号で記事を寄稿していただいた北島さんにお願いをしまして、今日は北島さんに来ていただきました。
それでは北島さん、ぜひ自己紹介お願いします。
自己紹介。私自身は2015年から2020年まで、ボストンのダナファーバーがん研究所というところに留学していました。
それまでは金沢にいたんですけれども、そこからボストンに5年間いて、今2020年の途中から東京のがん研究会がん研究所というところで研究員をやっております。
ありがとうございます。
海外留学の経緯
ではそうですね、北島さんにまずは留学するまでの経緯。
経緯ですか。
はい、お伺いしたい。
それは意識というか、それとも女性向けみたいな具体的なことですかね。
意識が芽生えるところから。
意識ですか。具体的に何かのイベントがあって留学したいっていう、いきなり変わったってことではないですけど、
やっぱりその研究の世界に入って、だんだん学位は京都大学の医学研究科というところで取得したんですけど、周りは優秀な先輩がと思いましたし、やっぱりそういうところに何となく時間をかけて憧れを持っていったっていうのが強いですね。
ですのでその学位取得前から、いつか留学はしたいなというモチベーションを持ってずっとやってました。
ただ現実的にはその学位取った後に金沢大学の方に赴任してしばし除去というか、ポストドック的なことをやってたんですけども、そこで縁あって、というかその期間ずっと、
留学するための奨学金とか得るチャンスとか、あとは何かあればポストンとは決めてなかったですけど、どっかに行ってインタビューを受けるチャンスみたいなのを伺いつつの数年間という感じでした。
なるほど。実は僕も前任校が金沢大学の医学部で、北島さんとはかぶってたんですよね。
そうですね。
多分何回か飲みに行ったりしたり、あるいは北陸生化学会なんかで一緒に口頭発表なんかしたことがあったかなと思うんですけれども、金沢には何年いたんでしたっけ。
金沢には最終的には5年弱ですね。
結構いたんですよ。
でもその頃から、金沢にいた頃から留学先を探してたって感じでした。
現実的に探し始めたのは、中頃から。やっぱり最初は着任したばかりは、そうは言ってもやっぱり目先の下ばっかからその次のことを探して、心の奥にしまいつつも、
そこでなんとなく仕事が出そうとか、なんとなく目処が立つっていうときに、やっぱり次のステップを考えた際にってなると、やっぱり色々と見てましたね。
そろそろ行こうかなと思って探し始めて、実際にじゃあおいでって言って、ラボが決まるまで、時間的にどれくらいかかりましたね。
現実的に僕が具体的に行動を移したのは、新学日か何かで海外に出張というか旅費みたいなのを当たってですね、それは本来学会に行く旅費とかそういったものを本来目的としているものだったと思うんですけど、
ボストンに滞在する機会を、ボストンというか、それは助成金で海外に行けるってことになったときに、そのいる期間に、とにかく行くんで話を聞いてくれっていう感じでメールを送りまくって、
それが一番最初だったんですね。大体あんまり返信は来ないので、最初あんまり要領を掴んでないので、そこをどうしたら来るかなとか、例えばちょっと知人の名前を出してみるとか、そういうのをやりつつ、行くってなると、
それまではメールはしたことがあったんですけど、基本的には全然うまくいかなくて、ただ行くんでちょっと話を聞いてくれっていうと、途端に会ってくれるぐらいの人がやっぱりいて、それでもう本当に兄弟時代の先輩がボストンで留学してたので、ちょっと家に居候をするような形で、何人会ったんですかね、本当たくさんのPIの人に会わせてもらいました。
で、その中の一人に結局いいよっていうふうに言ってもらってたのが最初ですね。でもそこから原理的に1年半ぐらいはそこのラボに行くまでかかってるんで、だから具体的な行動からその留学の着任っていう意味で言うと、1年半はないしは2年とかそういうところになりますかね。
ありがとうございます。あまり僕から聞いちゃうのもあれなんで、安部さんからもどうぞお願いします。
いやなんかすごいその、なんというか、つてがあってというわけではなくて、もうガッツというか。
私の場合はいろんなケースがあると思うし、MDの場合は結構異曲のとか先輩のとかいろいろ聞いたりする。僕の場合ちょっとそういう具体的に何か誰かの後輩で入るとか紹介もないわけじゃないんですよ。
だからそうやってボストンの中に知り合いがいたり、するっていう意味では普通で、なんかわかんないですけど関係性はあったんですけど、直接そのどこかのラボに紹介してもらうとかそういうのはなかったので、本当にラッキーだったとしか思えない。
つまりそういう、殴り込みみたいな形でメールを送りまくって、なんか捕まって、拾ってもらったという意識が非常に強くて、なので、それは返すと頑張ろうという気力にも当時なりましたし。
なるほど、なんかそのメールを送る時の送り先の選び方とか、コツみたいなのってあるんですか?
コツっていうほど成功してないんで、あまりないですけど、まず最初はやっぱり研究に自分の興味のある分野で、あと私自身が指示していた学位の時、学位研究の時に一緒に指導教官だった高橋千明先生というんですけど、
彼がボストンにいたっていうのもあって、ボストンは素晴らしいよみたいなことをすごい言ってくれたっていうのがあって、まず場所としてはそこを選んだんですけど、たぶんものすごい数のラボがあって、でも徹底的にホームページを見ました。
でもやっぱりそこで、じゃあ自分に興味がある、そして目にいくのはどうしてもパブリケーションのある有名なラボ、じゃあそこによくわからない奴がメールしたところで、じゃあ成功はなかなかしないっていうのが最初の壁ではあった。
そうなんですよね。難しいですよね。
はい。なので、本当に知識もないというか、やっぱりボストンってすごい大きなラボもあるけど、そういう大きなラボにいきなり殴り込みで行くっていうのはちょっと無理がある。
無理というか、やっぱり本当にそういうところに行きたいんだったら、やっぱりちょっと外ぼれを埋めるような形を何かしら取っていってから行かないと、一回メールしちゃって断られたらもう二度目を遅れにくいっていうのがあるので、そういうのは僕自身の反省でもない。
ボストンでの研究活動
結果的に失敗したと思ってないんで反省とはならないですけど、まあ経験としてそういうのはあるかなと思います。
自分の場合、結果的に本当に独立したての、私自身あった時はまだ30代後半ぐらい気合でしたけど、本当たまたま人材求むみたいな感じ。
ボストンのラボってものすごい大きなラボがいっぱいあると思う。
たぶん若手の人ってやっぱり人がちょっと集まりにくいところがあると思う。つまりみんなその大御所のところにアプライする一方で、独立したての人は意外と優秀な子育てを欲しいと本人は思っていても、あんまりアプライが来ないっていうところもまあ一部には多分あると思うんですね。
そういうところはもちろん賭けにもなるんですけど、僕自身はすごくそれがなんかもう本当ラッキーとしか言わないんですけど、うまくハマってくれたなっていう感じなんですね。
その点がUJガジェットにも書いてあって伺いたかったんですけど、EIが30後半かなり若い方でしたよね。
そうですね。
その若さでやっぱりアメリカで独立できるっていうからには、きっと優秀だったんだろうなと思うんですけれども。
いや本当そうだと思います。僕なんかが言うのもおこがましいですね。
その時北島さんが行った時はボス独は北島さん一人だったんですか?
いや違います。私が行った時は2人でした。僕含めて。
2人目。
はい、2人目。で、トータルででもほとんど2人目、3人目、なんか一瞬なんかいた人がいるっていう話もあったんで。
ただまあ事実上実動してるのは2人目って感じです。本当にその何か論文を書くというか、ちゃんとしたボス独として実動してるのは2人目っていう感じで。
で、まあ議官さんが1人いてっていう感じで、部屋も本当事実上1個か2つしかない。
小さな培養室と1個部屋があるっていうぐらいでしたね。
で、そこで私自身が入った2015年に、僕含めて3人来たんですね。
なるほど。
はいはい。で、その3人でずっと。
そのうちの1人は議官さんですか?
あ、すいません、違います。1人は議官さんがいて、僕の前に1人ボス独がいたんですけど、その人はまあ僕が入るときにはもうほぼいない状態で。
だからもう行った瞬間、私と議官とデイブっていうかボス独みたいな話。
その3人ね。
で、そこにプラスアルファ2人、ボス独が2015年に来て、で、ボス独が3人体制になったんですよ、私がいたとき。
で、何かちょっとその最初に1人ボス独がちょっとキャンサーディスカバリーっていうその業界でリーダーシーン出して、たぶんちょっといい予算が当たったんだと思うんですけど。
そういうタイミングも私ちょっとラッキーで、だからその私とプラス2人。
で、まあその2人も私以外の2人も今あのボストンとかフィラデルフィアでも研究室持っているので非常に優秀な2人と。
僕と僕とっていうのが並べるんですけど、その3人で本当に仲間として3、4年間やってっていう感じですね。
大体似たような世代の人たちでした?
そうですそうです。
じゃあいいですね。
私とほぼ同い年か1個、はい、ほぼほぼ同じです。
じゃあ何かいろいろね、気もあって面白かったですね、きっとね。
いや本当にそうです。
で、まずボスの性格がものすごい良かったんで、やっぱそういうのって必然的に全体に伝わっていくので、やっぱそれが本当に楽しかったですね。
で、今でも連絡取り合ってますし。
いいですね。
はい。
なんかそういうアットフォームなラボで。
いやそうなんですよ。
いや本当にその、でもこれは本当入ってみないとわかんないことってたぶんいっぱいあると思うので。
そうなんですよね。
それはもう本当だからさっきから繰り返してますけど、もうラッキーだったなと本当に思っているんです。
なんかその、海外留学ってこともあるし、小さなラボっていうところで、なんか結構どちらもすごくこう、なんていうか特徴的な経験をされているのかな。
そうなんですかね。
僕にとってはこう、きっと自分だけなんで、それが一つって感じなんですけど。
そうです、確かに。
まあまあ一般的にそのダナファーバーっていう岩研究所すごい巨大なんですけど、そこにいる日本人のポスドックの中では、やっぱ入り方としては多分特殊な方だったかもしれないですね。
そういうなんか殴り込みみたいな感じで言ってますし。
はい。
日本との研究環境の違い
なんかその日本でのそれまでの研究環境との違いってどういったところだったか。
それは、やっぱ小さいラボだったんで、思ったほど何かものすごく研究設備が一気に良くなったって感じはむしろ全くしなかったです。正直なところ。
どっちかというと日本ってすごく物も綺麗だし、物と機械も新しいし。
だからやっぱ人が何でしょうね、活気を持っていないと言うと日本が活気ないみたいだから。
でもやっぱりそのラボ一つにしろ、何か変わったところ、何なんだろう。
まあラボはそうかもしれないですけど、研究所と見てして考えたときに。
それはもう決定的に違いますし。
その共通機器とかね。
はい、もちろんそれはありますし。
例えば何かちょっと何かわからないことがある、新しいことを始めたいってときに、ちょっと知ってるとかじゃなくて本気の専門家みたいなのがやっぱり探せば必ずどこかにいたので。
あとコンピューテーショナルな解析とかが私たちの業界必須になってきたときに、
そうですね、ブロードインスティュートとかちょっとわかんないかもしれない、そういう何か大きな世界的にも有名な施設とかと近かったりするので、
本当に研究自体はものすごくそういう意味では進みましたし、やっぱボスの何ていうんですかね、推進力みたいなのがすごかったですね、やっぱり。
実談力ってね。
そうか、あのエリアはダナファーバー、他にどんな研究所があるんでしたっけ?
いやもういっぱいありすぎて、あれですよ、ダナファーバーキャンサーインスティュートとか、ポストンチルドレンソースさんとか、
ポリガムウェメンズ、エスイスライル、ブロードインスティュートにホワイトヘッドとか、もういっぱいありますね、MITとハーバードの本学と。
それがかなり近距離にあるわけですよね、簡単に行ける?
簡単というか、廊下で繋がっています。
そうですよね。だから、そういう研究所が集積しているところって、まだそんな日本ってないから。
いや、あのクラスで集積しているのは土地もないんじゃないですか。
例えば、神戸の島とかを全部それにしちゃえば、ひょっとしたらどうなるか。
広いですね。
そういう環境っていうのは、やっぱり日本では味わえない環境というか。
いや、本当に本当に集中できますよね。自分がごっとうできるというか。
そうですよね。
それは良かったです、とても。
じゃあちょっと、非生活というか。
非生活ですか。
もちろんもちろん。
留学された時っていうのは、単身で留学する?
私自身、最初はそうでした。
一人で、でも半年後ぐらいに妻と息子が来てくれたんで、最初の半年ぐらいはきったないシェアハウスで生き延びてるって感じでした。
で、さっき居候をさせてもらってたっていう、インタビューの時にちょっと滞在させてもらった先輩が日本に帰国されるっていうことで、そこのマンションを引き継ぐ形で家族呼んで住むっていう感じで。
半年ぐらい、なんで半年会えたのか、今すぐに思い出せないですけど。
息子の関係とか妻の仕事の関係とかそういったことだと思うんですけど。
その時、お子さんはいくつぐらいでした?
2歳です。
そうなんだ。実はね、僕も全く似たような境遇でしたね。
僕もロサンゼルスでしたけれども、最初僕だけ渡米して、僕の場合2、3ヶ月だったかな。2、3ヶ月間一人暮らしして、で後から妻と息子が来てくれて、でやっぱり息子は当時2歳だったので。
全く一緒ですね。
もう一緒ですね。立ち上げの時は一人の方がもしかしたら身軽かもしれないですよね。
それもそうかもしれないですね。でも末裕だったし、雪もすごかったし。
雪ね、ボストンは確かに寒いし雪が。
そうです、そうです。
確かにそうだ。
ちょっと季節のいい頃に。
そうですね、半年経って夏に来て、来ました。
やっぱ家族がいると、すごい楽しみでしたね当時。一緒にいる時はそんなに思わないつもりですけど、だいたいそういうもんだと思うんですよ。
普通のありがたみって忘れていくもんですけど、やっぱ離れた時に、やっぱ来てほしいなっていう気持ちはすごく強かったですね、あの頃は。
じゃあそのご家族と一緒のボストン生活っていうところでは、結構楽しい生活を。
楽しかったです。
やっぱりこう、ずっとアメリカにっていう気持ちも半分、でもいつか日本に帰るかなっていう気持ちも半分だったりすると、やっぱ期限があると思うと、やっぱいろんなとこ行こうって気にもなってくるし、
息子にもいい経験させてあげれたんじゃないかなと思ってますよね。
最初から5年っていう。
全然それは決めてなくて、もう本当に4年目ぐらいで、ビザがJ1ビザっていうのは5年間、アメリカの場合マックスだって、それを更新するか、
でもやっぱもう日本に帰った方が家族的にもいいかなとか、いろんなことを考えて、5年に最終的にもう更新せずにっていうことなので、別に最初から5年間とか決めてたわけでは全くないですね。
なるほど、じゃあその何年か過ごすうちに、5年で日本に戻ろうって。
そうですね、やっぱ30代の、帰るならやっぱ30代のうちに帰った方が、自分が仕事する上でもいろいろ若手枠とか予算が取りやすいとかいろいろあるので、そういう打算でちょっとあったかもしれないですね。
そうすると最初の立ち上げとして、こっち側で基盤を築く際に、多分H1ビザに更新しちゃうと多分またずっと楽しかったんで、正直帰る理由が他に何も思いつかないくらい楽しかったので。
だからたぶん更新しちゃうとずっと痛い可能性もありますけど。
その可能性はありますよね。
幸い家族も気に入ってたので、つまり妻とかがもし帰りたい帰りたいってなってると、なかなか長続きしないと思うんですけど、幸いそうじゃなかったので、そういった可能性はありましたけど。
なるほど、じゃあその日本に戻ろうかなっていうのは。
結局さっきのどうやって留学行きたくなりましたっていうのはきっかけみたいじゃないですか、何かひとつきっかけがあって急にっていうよりは段々とそういう感じになってったんですかね。
やっぱりひとつあるのは英語のネックみたいなのが多少あった気がします、今思うと。
だからつまりこれを自分の将来をものすごく展望したときに、仕事をこなすことはする自信は結構ついてましたけど、自分から生み出していく力みたいなのって結構大変だろうなっていうのをなんとなくイメージしてたかもしれないな、そういうのは多少あったと思います。
自分のキャリアをとか、人と学生さんとかが入ってきたときに本当に丁寧に何か自分の思いみたいなのを伝えるっていうのとか、そういったところっていうのはひょっとしたら日本であった方がハッピーかなとかそういうのはあったかもしれないですね。
そうですよね。
やっぱりうちもそうだったけど、楽しいんですよねアメリカってね。
家族がハッピーだとね、それで自分もハッピーだし、でまた仕事も研究所が大きいといろんなところとコラボもできて仕事も進むから、
そうですね。
この状態が一生続くんだったらもうずっとここでも。
本当そうです。自分が歳を取らないんだったら永遠にあそこにいたかったですけど。
そうなんですよね。
自分の年齢とか子供の年長とかね。
そうなんですよ。子供が全然漢字を書けないとかそういうのとか。
そうなんですね。
あれのことがストップした、時間がストップしてくれればずっといたかった。
日本語ですけど、はい。
そうですね。
帰ろうってなってから、どうやって日本での次のキャリアっていうのを探していたんですか?
そうですか、それは帰ろうってなった時に結局妻が一瞬で仕事が決まったんですね。
僕の方がまだ、僕はでももうギリギリまでいたかったんで、その直後、
妻を一人帰って東京で仕事があって、私はまだいたかったし、妻は最小だったんで、
僕と息子と二人でちょっとボストンにいたんですけど。
そうなんだ、息子さんすごい。
そうなんですよ。それでそうなった時に、でもどう考えたって東京にしか帰れないと思ったんで、
本当にガンでガン研究しかしかもできないしってなった時にもう限られたところしかないんで、
つまり国立ガンセンターとか今就職先のガン研有明とかですけど、
そういうところの知り合いの手でセミナーをさせてもらったりっていう感じかな。
もうでも本当それしかしてないです。
なのでもう場所がすごく決まってたんで、もう一転勝負みたいな感じでやりました。
なるほど。
でもね、場所から考えてちゃんと決められたっていうのはやっぱりちゃんと業績もあって、
アメリカでの生活
アメリカでの活動が評価されたっていうことだから、良かったですよね、希望の場所がちゃんと。
まあそうです、それは本当にありがたかったです。すんなり決まってくれて。
今日ご参加の方でもせっかくなので北島さんに聞いてみたいこととか、
留学考えてるんだけど相談したいとかあったら、ぜひコメントとか、
あとは挙手をいただければ。
もうこんな時間なんですね。
そうなんです、あっという間なんです。
初めてやると30分も持つかなと思うんだけど、始めちゃうとあっという間に終わっちゃうんです。
そうですね。
もしコメントとか質問がなければ、
ざっくり簡単にアメリカでやられた研究の内容をちょろっと教えていただけたらなと思います。
アメリカでの研究内容ですか。
どれぐらい専門性を話すのがいいのかちょっと分かってないんですけど、
ざっくり言うと肺がんの研究なんですけど、
肺がんの中でも特定の、
なんて説明したらいいんだろうな。
免疫チェック、それぐらい話しかけられない。
大学院生とかポスドクさん、これから留学したいと思ってるような人向けの話なんじゃないですか。
そうなんですね。
肺がんケーラスっていう遺伝子が変異している肺がんの中での研究をしてたんですけど、
その中で当時2015年が僕が留学した時に、
それこそ本庄先生がノーベル賞を取られたPD-1の治療薬の臨床試験がものすごく走ってた時代で、
そのケーラスの変異型肺がんの中に一部PD-1、免疫チェックポイントが効かない連中がいるっていうことが分かったんですけど、
それに対する研究、そこに焦点を当てて、
なんで効かないのか、どういう連中が効かないのかっていうことを一定レベル解明って言うとちょっとおがましいんですけど、
その辺が評価されていくつかどんどん書かせてもらったっていう感じですね。
そこの分析上とか、あるいはそれをどうやって克服までは行けてないんですけど、
ここの細胞内シグナルがおかしくなっているので免疫チェックポイントに対して抵抗性があるんじゃないかと、
じゃあそこを特定の薬剤を使って回復させればある程度効くようになるよ、
そういったような研究を留学時代もまた今も引き続きやっているって感じですね。
なるほど。これはマウスでの話ですか?
人の臨床検体を使っていますし、もちろん実際に実験をトライアンドエラーを繰り返すような細胞だったりマウスだったりしますし、
なかなか好きなタイミングで切除して染色とかいうわけにはいかないので、
基本的にはその例ですけど、やっぱり最終的に人の臨床情報と紐づけた回復をするためにはやっぱり臨床検査。
そこら辺が非常に強くて、例えばそれを準備しようと思ったら、
ケイラスの肺腺癌で遺伝子のステータスがわかっているのがダナファーバーとかでもパッと、
当時日本80何検体、当時その遺伝子検査の情報が紐づいて、
日本で国立がんセンターを中心に開始されていますけども、2015年当時からそれが確立されていましたので、
そういう風になってくると本当に早かったです。
家族とのボストンでの生活
この辺がちょっとさっき漏れましたけど、向こうで研究したときの環境の違いだったかもしれないですね。
国としてのシステムはそろそろ成熟してましたね、そういう点では。
質問が来ましたね。
今、大輔さんからなんですが、今私の子供が5歳と2歳です。
日本から移動する準備で一番大変だったことは何でしょうか。
現地の学校の手配、住む場所の手配、病院、保険、車の移動、お連れでの準備などなど。
なんか全部大変そうですね。
そうですね、でもなんか多分本当にえいやって感じで行っちゃって、後から後から考えていった感じだからな。
まず車とかは全然ボストンはいらなかったので持っていませんでしたし、家とかも先輩の引き継いじゃったからな。
まあでも学校ですかね、学校とかはやっぱりよく考えましたね。
そうですね。
家賃とかが相当高いので、特に今とかはやっぱりその現実的にそのリソース生活があってもそれに収入が追いつかないことがあると思うんで。
そこですね、どこに留学するかにも。
そのプラン、やっぱりボストンとかだったら30万近い家賃をボロアパートでも取られたりもするので、それを現実的に折り合いをつけていく作業かなと思います。
答えになってるかな。
今こちらでリストアップされたものの中だったら一番現実的な問題っていうのはやっぱりお金なような気がしますよね。
はいはい、そうですね。
海外での生活費と保育園費用
特にボストンとかカリフォルニア行っちゃうと平気で月30万、日本円で30万円とかのアパート代を払っていかないといけないとか。
そうですね、あとそうだ、だから奥さんが働くか働かないかとか、そういうことにもよるんでしょうけど、やっぱり子供が小さいと保育園のお金がベラボーに高いですよね。
そうですよね。
僕も2、3歳の時にそれも30万かかってましたし、一人。
一人30万?
一人30万、僕2千、そうですね、30万くらいかかってましたね。
幼稚園というか、キンダーじゃないや。
キンダーに入る前ですね。
プレスクールですね。
そう、デイケアはそれくらいかかりましたね。
それは大変な額ですね。
いきなりキンダーに入るとゼロになるんで、ほんとその瞬間解放されるという。
そうですよね。
もう一人立派な収入を稼いでくる、そのもう稼ぎ頭みたいな気分で送り出してましたね。
行ってこいって感じでした。
そういうところがどこに入学するかってかなり変化してくるので、難しいですね。
確かに大輔さんもすごい、特に西海岸は生活が成り立たないです。
月日が100万円超えそう。
そうですよね。
日本からの経済的サポートと奨学金
ちなみに北島さんはその当時給与っていうのは日本からですか?
私はありがたいことに一応奨学金をずっと日本からもらっていたんですけど、
その時のレート、ドルに換算しても7ファーバーの最低給料が届かなかったんで、
それを申請するとその差額っていうのをもらってました。
ですのでアメリカの収入と日本への収入と合わせ合わせみたいな感じでした。
そういう制度もあるんですね。
制度なのか、そのボスっていうか彼がそういうふうにサポートしてくれたのか、
でも基本的には7ファーバーにこと限って言うと、
何かそれよりも安い給料で雇うということは基本的に認められてない。
そうなんですよね。研究所のルールですよね。
はいはい。
そうですよね。で結構なんかこう、
研究者の方留学したいという方からご相談いただくのは、
その最低給与に満たないからそこに留学できないっていう。
そうなんですよ。だから海外学信とか、
日本のいろいろな代表的なお金というか奨学金でも、
今の円安の状況からするとそれ満たないと。
なのでそこをサポートしてくれないといけないっていう、
なんかちょっと良くない状況になってて、
向こうはお金を、世界中から人が来るわけで、
わざわざそんな人を雇わなくてもいいわけじゃないですか、向こうからすると。
だからそれを打ち勝つには、
自分にそこを打ち勝つために何か利点がいったりもする可能性があるので、
せっかく日本も人材を海外に出したいって言って奨学金作ってるのに、
結局最低賃金にも満たないっていうのは、
なんかちょっと悲しいなっていう感じは、はい思ってます。
幸い、ちょうど切り替えの時期でそこまでうるさくはなかったんですよ。
まだまだアジア人とかが正直、
ほとんど無給に仕掛けて働いてるとかいう環境もあったりはしたんですけど、
それが良くないってことで、
多分あれからもう6年、7年とずいぶん8年が経ってますんで、
だいぶ状況は違うでしょうね。
なのでそこは、はい。
はい。
というわけであっという間に30分が過ぎてしまったので、
早いでしょ。
本当ですね。
いやいや、司会の方が話を振ってくれて、
前からいろいろと話せました。
いやまだまだちょっと聞きたいことがたくさんあるんですが、
またぜひちょっと研究のお話についてもまた別の機会に。
そうですね。
研究はそれぐらいこう深く、
どんどん差を上げるんですか、あると思う。
つまりそのどれぐらいの話をというのが。
そうですね。
また何か機会があれば、いつまでもお伺いしてください。
はい。
よろしくお願いします。
では赤城さんから何か最後告知などありますか。
今日は北島さんを追い探しながらありがとうございました。
ありがとうございます。
なんやかんやでもしかしたらもう10年以上会ってなかったような気がしますけれども、
こういう形でね、再会できてよかったかなと思います。
UJでは引き続きこのUJガジェットに投稿していただいた方に
個別にお願いをして、こういった形でインタビューをしていこうと
引き続き思っております。
現在今探しているところでして、
もしUJガジェットもすでに書いているので、
ぜひ私インタビューお願いしますっていう方がもしおられましたら、
ぜひ声をかけていただけたらなと思います。
また次の方決まり次第すぐに告知したいと思います。
次回もぜひ楽しみにしておいてください。
はい、ありがとうございます。
ではまた海外留学ちょっと興味あるとかっていう方いらっしゃったら、
ぜひですね、UJで検索していただいて、
UJガジェット本当にいろんな留学経験がたくさん載ってますので、
ぜひご覧いただければと思います。
それでは本日お聞きの皆さんも北島さわかぎさんもどうもありがとうございました。
ありがとうございました。
はい、おやすみなさい。
お願いします。