メンバーの経歴と活動
みなさんは先生術をされている人です。
僕らもワクワクしてますね。
全員一人一人見ていこうかと思っています。
いつからいらっしゃっているんですか?
年末から一度来て、それから年始にもう一度来て、 今回3回目ぐらいですね。
よろしくお願いします。
今回は、高生年科学館後、それぞれがどういう働き方をして、 アナログとして指導する手前の段階の話を伺って、
それぞれのメンバーがどういう特技を持っているとか、 どういうテイストを持っているとか、という背景を知る手掛かりにしたいなと思いまして。
どうしましょうか、
さだむさん、うさみさん、三原さん、岩谷さん、それぞれ個別に、
ざっくり、大学院を修了した後にどういう道に進んだ、 そこには自分のどういう得意な分野が背景としてあったか、
みたいなのを、一人ずつ簡単にまず伺ってもいいですか。
そうですね、どうしましょう、順番はどうしますかね。
お任せしますよ。 普通に僕から大丈夫。
僕は高生年科学館をやってた時が、ちょうど
僕は博士課程、大学院の博士課程をやっていた時期なんですが、
その後、博士課程を修了して、
九州大学の芸術工学の大学の中で、松熊先生という先生が、
映像とか、ゲームとか、その周りについて研究されている先生なんですけど、
ちょうど新しく福岡市と
一緒に産学館のプロジェクトをやらないかっていう話が出ていて、 それがシリアスゲームプロジェクトって言って、
エンターテインメントだけではなくて、社会貢献とか福祉とか、いろんなそういうもののためにゲームを
適用するっていうものなんですけど、シリアスゲームっていうのは。 そのシリアスゲームを作るプロジェクトっていうのを立ち上げようとしていて、
そこにスタッフとして入らないかってお誘いを受けて、 学術研究員として、いわゆるポスドクって言われるものですけど、
ドクター後に研究室で働いて、給料をもらいながらスタッフとして働くっていう形の。
大抵の出所としては福岡市のお金から給料をもらって、 具体的には長尾病院っていうリハビリ用の病院、リハビリ病院があるんですけど、
その長尾病院さんと一緒に、長尾病院はリハビリって基本的にはリハビリテーションって骨折した人がとかそういうイメージを持たれると思うんですけど、
ほとんどの患者さんは脳卒中の患者さんなんですよね。 脳卒中から復帰するためのリハビリテーションを受けている患者さん向けに、
結構多くは高齢者の方が多いんですけど、そういう方々のためにリハビリ用のゲームっていうのを作れないかっていうので作ってました。
その起立の森っていうゲームを作ったんですけど、
それはリハビリの現場に行って、いろいろどういうことをゲームにするかっていうのを作業療法士さんとかと一緒にリサーチをしてたんですけど、
その中でも特に長尾病院さんが起立訓練っていう
エクササイズを推奨されていて、それは本当にスポーツにおける筋トレみたいな感じで、めちゃめちゃ基礎的な訓練なんですけど、
起立って全身を動かす訓練なんで、一日200回ぐらいやられるのを推奨されてるんですけど、高齢者の人たちが一日200回立って座って延々と繰り返すって、
筋トレと一緒でめちゃくちゃきついしつまんないトレーニングなんですよね。
そこがすごく重要で、いろんなバランスとかいろんなアクティビティみたいなのがある中でも、そこの筋トレにあたる部分をしてもらうのが一番大事なんじゃないかっていうのを
長尾病院の先生がおっしゃって、それで起立訓練をゲームにするようなものを作ろうって言って作ってましたね。
だから、起立の森で検索すれば今でも出てくるかなとは思いますが、
そこのゲームを作って、リハビリを起立の森を作ってくださいね。
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こっちに持ってこないと、この画面が共有できないとか。
あ、こっちにコピーがあるか。
ここにありましたね。
共有できてるかな。
はい、起立の森っていう形をしたいと思います。
ちょっとこれ、たぶんニューバージョンになってて、僕らがやってた以降にいろいろバージョンアップしたりしてるっぽい気がしますが、
大枠はほとんど一緒ですね。
見えてない。
見えてない。
リハビリテーションゲームの開発
画面共有を開始しましたって文字だけ出てきて。
なんか停止しましたって出てる。
一回停止して、一回共有します。
ネットで調べる。
そうですね。
調べて頂いちゃったから。
けど停止しましたって出る。
これ何だろう。
成功ITソリューションっていうところの。
たぶん、拡張画面にしてたらダメだったな。
ちょっと僕らに見えないのがあれなんで、一回ミラーリングしようかな。
今見えてます。
そうですよね。ちょっと待ってください。
ミラーリングにします。
高齢者の人たちが起立訓練をして、
一番最初はちょうどWeFitっていうのが出てた時だったんで、
体重計みたいなやつの上に立ってもらって立ち座りみたいなのを判定してたんですけど、
体重計の段差であっても高齢者の人たちに結構危険があるっていうこともあり、
途中からKinectが出てきたんで、Kinectのセンサーを使って立ち座りっていうのをセンシングして、
立ったタイミングでどんどん木が成長していくみたいな、
そういうような。
プレイするごとにスタンプ的なのが出たりとか、
あと週刊ランキングが出たりとか、
そういうので、ゲーム的要素で切りつくっていうのを、
松熊先生の名前がありますが、
そういうようなものを作ってましたね。
作ってた中で、
副業的にやっぱりずっと、
古生科学館の延長線上のというか、
自分が博士課程の時とかにもやってたエリアワードとか、
そういった分野でのアクティビティっていうのも並行してやっていて、
ニューヨークの方に住んでる友人のアーティストとかを呼んで、
一緒にワークショップをしたりとか、
そういうワークショップを山口にあるYCAMっていう施設があるんですけど、
そっちの方に結構いろんなアーティストが来る時があって、
そのアーティストが山口に来る時って大体福岡を経営したりするんで、
せっかく来るなら福岡の方にも来てワークショップしないって声をかけさせてもらって、
YCAMと連携してそっちの方でやった後にこっちの方でやろうとか、
そういうのをやりつつ、そういう活動をしたりはしてました。
ただその部分って、大学の方は副業ができないんで、
完全にボランティアベースでやってはいたんですけど、
そういうのをあれこれやっていく中で、
こっちの方で得られたこういうインサイトというか、
今まではほとんど自分の作品の制作って、
社会とのつながりっていうのをほとんど感じない形で、
あくまで個人のアート活動として、
作品制作っていうのを行ってたんですけど、
そこが社会に貢献するつながりが作れるんだっていうような、
そのインサイトを得たのはやっぱり、
リハビリシーンゲームみたいなのを作ってたのは、
大きなインサイトを得ることができたかなと思います。
アート活動と社会貢献
プラスでそういう社会問題とかいろんな問題に対して、
力を寄せながら問題解決に当たっていくんじゃなくて、
あくまで楽しいっていう、
笑顔になりながら夢中になっていくのが、
そういうアクティビティが結果として、
社会貢献とかそういうものにつながっていくっていうのを、
そういうのっていいよなっていうのを思ったのは、
ここの辺のプロジェクトがすごく大きな影響を自分に与えているのかなっていう気はします。
はい、すみません。
ただ、自分のやっぱりアーティストとしての、
何のしがらみもない純粋な興味の部分っていうのは、
やっぱり副業としてやって、ボランティアベースでやってた、
そういう活動だったり研究だったりっていうのが割と、
やっぱり自分の興味の中心にあったんで、
どんどんどんどん自分の本当にやりたいことと、
仕事としてやってることのズレみたいなのを、
少し感じていた部分もあり、
で、このまんま大学で研究職としてやっていくのかな、
どうなのかなっていうのを考えたときに、
自分はやっぱり大学の研究でずっとやっていくよりも、
外に出て、もうちょっと作るっていう部分を、
大学の中にいるよりも早いサイクルで、
どんどん作っていきたいっていう欲求が、
この辺りに高まっていたのを思い出しますね。
期間としてはどのくらい、その2009年の、
そうですね、2009年度なんで、
2010年から、2009年の10月からだったかな、
そのくらいからまだ働いてたような気がするんですけど、
2012年の4月にラボを立ち上げてるんで、
約2、3年ぐらいだったと思いますね、
ぐらいそれをやってて、
途中からは、そういうのやりたいっていう熱が、
すごい自分の中で高まったっていうのもあり、
毎週火曜日に火曜会っていって、
いろんな、その後あのラボを立ち上げるメンバーとかも含め、
いろんな人を集めて、
その大学の一室を申請も出さずに入ってた気がするんだけど、
申請出してたかもしれないな、
ちょっとその辺覚えてないけど、
そこを使って、
みんなが今やってることとかをプレゼンテーション形式で、
なんか自分が興味持ってるものとかを、
プレゼンテーション形式でワーッとみんなで共有していくっていう、
サロン的なものですかね。
そういうのを開催して、
毎週火曜日にそれを集まってたんですけど、
そこで集まってたのが母体となって、
その後、あのラボになっていきました。
流れとしてはそんな感じですね。
じゃあその2009年の10月から2012年の4月ぐらいの間は、
その旗描きとしては、
学術研究員としてその制作に参加するのと、
ご自身のホラーのティアベースで何か企画したり、
自分で制作したりっていうのと並行してやってたのが、
その3年ぐらいっていう。
そうですね。
じゃあ今のサダムさんぐらいの感じで、
もう3名にもちょっと説明を、
そのあのラボ立ち上げまでのことをお話しいただいてもいいですか。
はい、じゃあ僕行きましょうか。
お願いします。
2009年に終始を出まして、
それから福岡にあるゲームの開発会社にプログラマーとして入社しました。
そこの会社は100人、
僕が入社した当時で80人ぐらいだったんですけど、
そこでプログラマーとして3年間働いてたんですが、
その期間に、さっきサダムさんからあった歌謡会に参加してたりとか、
あとは趣味でというか好奇心から、
サダムさんがやってたシリアスゲームプロジェクトの方の一部、
簡単な手伝いというか、何て言うんでしょうねあれは。
ちょっと業務の助けになりそうなツールを作るみたいなことをやってたんですよね。
で、その歌謡会から派生して会社作るぞという話が始まった時に、
ちょうどその会社の方でも、
そろそろ辞めようかなみたいな風に僕思ってたので、
ちょうどタイミングが合致したので、
そのタイミングで辞めてアナログを始めたという感じですね。
多分サダムさんの任期が終わるタイミングと一緒だったんですよね。
サダムさん、画面共有消してもらいます。
ちょっとね、しゃべりにくい。
多分ね、僕、任期だったかもしれないけど、
どこかの時点でも、新しく会社立てたいっすっていうのを
つくま先生に言って、
そこに結構企業支援的なのをやってたりもしてたんで、
前田先生っていう先生が特にその辺りをやってたんだった気がするけど、
じゃあ立てるまでにどういうことをやっていきたいのかっていうのを
プレゼンテーションにまとめて見せてみろみたいなのを前田先生に言われて、
大学でのアート系研究室の活動
そういうのをつくるみたいなのをあれこれやってた気がしますね。
ちょうど多分そこのシェアスゲームプロジェクトのリハビリ用のゲームっていうのが
ある程度一段落して、ただゲームとしてちゃんとリリースするよって話が
決まったぐらいのタイミングだったと思いますけど、
それぐらいからラボが立ち上がったのを覚えてます。
岩谷さんはもともと大学の学部生だったり、
修士課程でどういったところを専門にやってて、
それがプログラマーとしてゲーム開発の会社に行くっていう道に
繋がっていったのかっていうのをざっと伺ってもいいですか。
僕は音響設計学科で、そのまま院も佐田さんと同じですけど、
音文化学部講座というところに中村先生に指示していたんですけど、
学校のいわゆる勉強は得意の方だったんですね。
音響設計学科のそういう勉強ができる人の進路って、
音響機器のメーカーとか音響の設計とか楽器作りとか、
いわゆる音響の花形みたいな道があるんですけど、
そういうところに行くのだろうなとなんとなく思ってたんですけど、
うちの学校は学部の4年生の時に研究室配属が決まって、
僕は終始までは行くつもりだったので、
終始でまた研究室を選択できる機会があるんですよね。
入り直すわけなので。
なのでちょっと違うことをやってみようと思って、
アート系の研究室を選んで入ったんですよね。
入ってみたらなんか面白くて、そのまま終始まで続けてしまって、
その流れのままそのようなことをずっと今まで10年やってるという感じなんですけど。
少しだけそこの研究室の背景を言うと、
中村茂信先生っていう先生が僕らの研究室の先生だったんですけど、
現代音楽の作曲家の先生で、
そこの中村先生のところにいた生徒としては、
特に音を中心としたメディアアート系の人たちが集まる研究室だったんですね。
僕らの先輩で言うとサインウェブオーケストラっていうグループをやっている
ジョーカズヒロ先生、今九州大学の芸工大の先生をやってる人とか、
あとホリオカンカさんっていう、
それも結構メディアアート系で割と音を中心にしたパフォーマンスをしている
アーティストの方とかがいらっしゃった研究室なんですけど、
そういった流れの音系のメディア、
特にホリオカンカさんとかは、
学生の時からMAX MSTっていう、
そっち方面のプログラムとかをする音響系のアーティストが使っているツールみたいなのを作るソフトウェアがあるんですけど、
そのMAXのコミュニティみたいなのを結構運営されてた人で、
それのワークショップとかで学部大都さんとか、
得意直さんとか、
いろんなその辺りの、その後メディアアート方面で活躍する人たちが一同に介したようなグループ、
あの辺りにすごく近い2人で活動している人ですね。
ラボへの参加とさまざまな仕事
そういったところとすごい近いところのことを学生時代にやってたっていうところが前提としてあります。
ありがとうございます。
その研究室でいろいろ作る中で、
プログラミングっていうのは面白いぞっていうのはもうちょっと前から興味としてはあったんですけど、
ただプログラミングが面白いっていうだけではなくて、
自分で考えたものを実現するのが面白いのだなっていう自分の趣向性にその中で気づきまして、
そういうことがプログラミングを手段として面白いものを作る、
自分で考えて作るっていうことができそうなところってなんだろうなと考えた結果、
ゲーム開発っていうところに行ったという流れですね。
シリアスゲームプロジェクトの方向にSADAMさんが進む時に、
そういう意見交換だったり、ゲームに関してプログラミングでどういうものができるかみたいなことを話したりっていうのはもうその頃からされていました。
そうですね。
でもその当時思い返すと、別に就職してすぐそんなゲームについてめちゃくちゃわかった人になるわけではないので、
そんな中でゲーム会社で働いている人として、大学のシリアスゲームの開発の現場に出脱するっていうことを、
井の中のカワウソ的な姿勢でやってしまっていたなっていうふうに振り返ると思うんですけど。
でも楽しかったですね、その時期の話は。
結構その会社でやっていることと、そのシリアスゲームプロジェクトで、
このゲームの方向性が重なる部分と違う部分とっていうのがあって、
それがどういうふうに両方から得るものがありましたか?
そうですね。似ている部分としては、やっぱりプレイヤーというかユーザーというかお客さんは、
開発者のことを知らないわけですよね。開発の都合とかを知らなくて、
例えばWeFitのバランスボードとかKinectとかが何が得意で何が苦手かとか、
センサーがどこにあるからこれはやっても反応しないとか、
そんなことって当然ですけど全く知らない状態なわけですよね。
そんな中、ゲームソフトっていうのをリリースして、
お客さん一人一人にこれはこうやって動かすんですよみたいなサポートが当然できないんですけど、
そこでどうやって分かりやすく伝えられるかとか、
期待通り動いてくれないということを、期待通りお客さんが操作してくれないということを前提に置いて、
どんな気遣いを込めるべきなのかみたいなことをやらなきゃというのが多分、
どちらも共通していた話かなと思いますね。
すみません、質問を忘れて決まったんですが。
今本当に伺いたかったようなところ、それぞれ違う、
会社のやってることだからこういうことが得られた、
シリアスゲームプロジェクトも見たからこういうことが得られた、
みたいなのがそれぞれあったりとかないんですかね。
会社の方ではですね、分業をしてるんですよね、
80人もいた会社で、
ゲームソフト一本の開発を全体をやるところなので、
プログラマーもいれば、デザイナーもいて、プランナーもいて、
サウンドエンジニアも社内にいたので、
結構、総合的にできる会社だったんですよね。
その中で新人として入って、
さっきも言った、ユーザーがどのように遊んでくれるのかっていうことは、
僕入社してすぐ、だから自分が作ったゲームに関してのフィードバックなんて、
どこにもないわけですよね。
だからそこで耐えるのってやっぱり先輩だったりするわけですけど、
シリアスゲームプロジェクトの方は、ある程度開発が進んだら、
病院に実際に持って行ってテストプレイしてもらってっていうことをやって、
地下にフィードバックを得て改善していくっていうプロセスがあるっていうのが、
やっぱり大きく違うところで、
それぞれ良し悪しあるよなっていうのと、
今質問されて思ったことですけど、
今の業務にも両方通じるところがありますね。
それこそプロジェクトによって、
そういうユーザーとの距離感とか対面の場合もあるし、
リリースしたもの、
例えばその空間にお客さんがどう来て何をしてくれるかっていうのは、
もう岩谷さんが見えないところで進んでるっていう場合も両方あるっていうことですね。
そうですね。
プロジェクトや仕事のプレゼン
展示のものとかだと、
お客さんが想定外のことをして、
うまく楽しんでもらえないみたいな事態を、
歯を食いしばって見ているしかないみたいなことも結構あるわけですよね。
そういう場面があるのが、
よくも悪くも面白いところだなと思います。
ありがとうございます。
じゃあ、
いはらさんかうさみさんかも、
今と同じようなことをしてもらってもいいですかね。
はい。
うさみ君で。
はい。
じゃあお願いします。
えっと、
この生年終わってからだと、
白紙号を僕撮ろうとして、
それがすごい実験的なアニメーションの研究で白紙号を撮ったんですよね。
そこから大変すぎて、
そんなに卒業後のことをあまり考えていなくて、
一番その時やりたかったことって、
結局、
後世年科学科の流れで、
コンテンツをひたすら作りたい時期だったんですよ。
だから、
そのまま大学の先生にお願いして、
ちょっと部屋を借りていたんですよね、
ずっと。
そこのこもってずっと作品作りしてたんで、
それがもう体に染み付いてて、
そこから1,2年ぐらいは、
ずっとそこで別の実験なり作品なりを作るっていうのをやってましたね、
しばらく。
えっと、
大学入ってからずっとバイトは、
紙面デザインのバイトをしてて、
とか、
外部とロゴマーク作ったりとか、
アニメーション、
結婚式のちょっとしたアニメーションみたいな、
オープニングアニメーションみたいなものも結構たくさん作ってたんですよ。
その流れで、
職はこんな感じでなんとかなってて、
いわゆるフリーランスみたいな状態に、
卒業したらそのままなって、
やりたいことも紙面もあるし、
実験アニメーションもあるし、
インタラクティブ系も企画がすごい楽しかったんで、
その辺の企画をいっぱい作ってたりとか、
やること自体はめちゃくちゃいろいろあって、
別に特に目標がなく2年間ぐらい過ごして、
そういう倉庫に行ったうちに、
会合に参加しないかみたいなのがあったんで、
それも並行して参加してたら、
いつの間にかラボに入ったみたいな感じですね。
あそこの平尾のあそこに、
スペース持ってたでしょ?
ファミコンのアプリ的な。
大谷さんの隣の。
大谷さんの隣、借りてやってたけど、
あそこはそんなに作ってない。
そんなにバイトしてただけ。
あそこでフリーで何か作ってたってわけじゃないんだ。
っていう話だったけど、
意外と寒すぎて、
全然集中できなかったっていうのがあって、
あのラボに入って、
ようやく今までやってきたこと全部仕事になるってことは分かって、
分かっててしかやってたけど、
よりちゃんと何か企画を、
仕事としてちゃんとやるみたいな方向になって、
まあ今も全然変わらず、
それに工作みたいなのが加わったぐらいで、
やってることは変わんないなぁみたいな。
片橋さんの時はアニメーション作家だったの?
アニメーション作家って言ってたけど、
やってることはそこまでアニメーションだけではありません。
そうそう、仕事の比率としては全然アニメーションはあんなのがなかったですよね。
地面デザインが多かったかな。
そんな感じです。
その白紙家庭に行って、
実験的なアニメーションっていうのは、
例えば具体的にどういうものを作ろうとしたっていうのがありましたか?
高生年でもやってたのは断面アニメーション、
あれ的なものと、
あとコマ撮りアニメーションのいろんな表現を、
体系的にいろいろ作ってたんで、
新しい表現はどんなものかなっていうのをずっとやってます。
どう変わったの?
それでその白紙家庭終了の時は最後、
作品で卒業制作みたいな形で何か作って終わりっていう感じですか?
そうですね、作品はザラッと早めにできてたんですけど、
ひたすら文章を書く、
昨日の練習みたいなことをやってました。
歌謡会に参加し始めた時には、
やっぱりそこでもプレゼン、
どういうふうな研究をして、
みたいなプレゼンをするっていう場になっていた感じですか?
何かというと、
各々がプロジェクトとか仕事とかを持ってきて、
それをみんなでやるとか考えるとかいうことをやってました。
本当にもう社会的に、
なって活動してる人とかも含め、
自分がやってることがこんなことですよっていうのとか、
自分が最近やった面白いことってこういうものですよ、
とかいうプレゼンテーションをして、
それでそこの中で相談があったりしたら、
じゃあそれをみんなでやってみようか、
みたいなのを言ったりとか、
そういう場だったよね、
そういうのがあって、
本当にサロンみたいな感じ?
そうですね、完全にサロンみたいな感じだったと思います。
うさみ君はさっきのに加えて言うと、
高生年科学館の時にキャラクターを作ったりとか、
漫画を作ったりとか、
その辺の、僕から見ると、
世界観をドンと作ってしまうのが、
すごい上手いというか、
世界観を作ってしまうというか、
すごい上手いというか、
世界観を作る人だなというのは当時から思っていましたね。
手法として、
斬新な面白いことをやるという部分もあり、
アニメーションと言いつつも、
全然アニメーションだけに
露出せずいろんなことをやるという部分もありつつなんですけど、
プラスでそういう、
なんか一つドンと
世界観を作って、
その中でマルチメディアで、
漫画とかデザインとかロゴとか、
作品の中のアニメーションであるとか、
いろんな手法を用いて、
一つの世界観みたいなのを
体現していくのが上手だなというのは当時から思っていました。
そうですね、一緒に
あのラボ初期とかから
よく案件があって、
どういう世界であるかみたいなところを
結構考えたり、
ゲームの
インタラクションのデザインみたいなところも
専門じゃないけど、
考えるのは結構好きでやったりとか、
もともとゲームの解説本をずっと読んでいる
幼少期だったから、
ゲームをやるより解説本を読んで、
設定とかを研究したり、
ゲームデザインとかを学んでいたり、
そういうのが今でも多分生きていく
仕事になっているなみたいな。
そういう解説本から、
そのゲームの背景を知ることに
むしろ興味があったみたいな。
そうですね、コンテンツを作る
どうやったら面白く作れるかとか、
背景もストーリーもそうなんですけど、
メタ的に
見るみたいな。
よくある
ドラえもんの仕組みはこうだ
みたいなのが科学のあれとかに
ここの部分が電子炉になっているとか
そういうのがあるじゃないですか。
ロボット大図鑑みたいな。
よくある。
表に見える部分だけではなくて、
その裏にこういう設定があるんだよ
みたいな。
そういう意味での世界観ですね。
上手なのかなって思いますね。
好きですね。
すみません、プラスで
当時少し僕が聞いていた情報では
うさぎ君に関しては
一人で活動しているときはやっぱり
すごく
金銭的には生活的に苦しい
という部分があったのが
あのラボでみんなとやったことで
そこの部分が楽になったみたいなのが
当時聞いていたかなと思いました。
金銭ベースでやっていないですよね。
そこが。
表現の研究をしていたの。
個人でやっていると
多分やっぱり結構
大変な部分はあったのかなと
外から見て少し
もともと僕は金銭的に
やばい家ですからね。
その辺はあんまり関係ない。
気にしてはいない。
大変ではあるけど。
岩谷さんはちなみに
ゲーム会社からあのラボへというのは
金銭的なところでの心配とかはあまりなく
なかったですね。
当時僕一人みだったので
収入としてはもちろん減ったんですけど
そんなに大幅に減ったわけでもなかったし
あんまり生活の
グレードを上げてたわけでもなく
普通に学生時代みたいな生活をしたまんまだったので
少なくなってもいいかなというのと
あんまり重視してなかったですね。
状況が許したというのもあって
楽しいことをやりたいなというのが一番だったので
僕もその部分はそうですね。
今でも僕は金銭感が
壊れてるんですけど
全くそういう部分での心配は
何一つなかった気がします。
もちろん僕もだいぶ減ったは減ったんだ
と思いますけど
今でもそうですけど自分の給料がいくらなのか
自分で分かってないですからね。
それで
いけない部分もあるんでしょうけど
いはら君にすごい助けられてますね。
今と同じ流れでちょっといはらさんにも
電話してるのかな
案件の電話をしてるかもしれないんで
電話が終わったりします。
前回話したのがちょっと覚えてないですけど
会社始めるときに会社が
いつ潰れても大丈夫だという
イメージを
みんな持っとこうみたいなことは約束ごとにはしてましたね。
それはありましたね。
次回に立ち上げの時頃の話とかもするかもしれないんですけど
会社としてはすごい
個々に能力があるってのは分かりきってて
会社があってもなくても
個々で成立するっていうのは分かってたんで
会社を立ち上げる上で
明確にこういう商品を売ろうとか
こういうビジネスを始めようっていうものが
あったわけでもなかったんで
それぞれに手にスキルを持ってる人たちが集まれば
なんだかできるだろうっていう
謎の自負みたいなのによって
始めたっていうところがあるんで
いつ消滅したとしても
個々の人たちはそれぞれに
持てるんじゃないかっていう共通の意識がある
僕は実際に
1年持てばいいなと思ってた
思いがありますね。
別の言い方をすると
会社の維持を目的にしてはいけないみたいな
意識ですね。
僕はそんなこと思ってませんでしたけどね。
さすがに原くん。
大学院から
アボまでの流れを座るといかがってもいいですか?
そうですね。
広告代理店での経験
僕は宇佐美と同じように
画像設計学科というところで
同じ研究室に行って
デザイン系を学んでいたんですけど
学部では就活せずに
委員まで行って
優秀高生年科学館とか
いろいろ作ったり
遊びつつやってきて
就職としては
東京の方の広告代理店
なんですけど
トヨタのハウスエージェンシーで
広告代理店に入社しまして
そこから東京に
引っ越し
卒業してアノラボをやるまでの3年間
そこにいました。
東京の代理店
で
CMとかプロモーションビデオとか
レクサスと
トヨタと大発という
トヨタのブランドなんですけど
ヤフーのアナの企画したり
カタログの撮影でスタジオ行ったり
プロモーションビデオの
編集で編集して行ったり
みたいなことをずっと
先輩方についていきながら
学んでたっていう感じですね。
で
トヨタ市と
トヨタ市っていうところが
本社にあるんで
東京と名古屋と
トヨタ市みたいな感じで結構出張とかもしながら
楽しんでたっていう感じです。
その時は
どこかジャンルというか
メディア
技法に特化したデザイナーというよりも
クライアントの取りまとめと
制作会社への手配みたいな感じで
全然手を動かすよりも口を動かす
っていうような感じで
どっちかというと
現場っていうよりは
スタジオに行っても
照明さんが動いてて
カメラマンさんだし
動いててっていうのを後ろで立ったまま
じーっと見てるっていう
プロデューサー、マネージメントみたいな
そっちの方に近いですね。
クリエイティブディレクターと呼ばれる人がいて
その人と一緒に
ご飯をおごってもらったりとか
しながら後ろで偉そうに立ってる人たちの
うちの一人みたいな感じになってました。
そういうので
楽しくはやってたんですけど
きっかけというか
最初入社したときに
自分の10年後を
考えたければ
10年上の先輩を見たらいいよ
っていうふうに先輩に言われたんですけど
10年後に
全然魅力的に見えなくて
代理店だし
しかも
規模的に電波区の
もう1個下ぐらいに来るぐらいの
ところで
10年後の人たちが
全然魅力的に見えなくて
やっぱり
仕事に困ってるわけでもなく
すごくぬるい
悪く言えばぬるい
めちゃくちゃ安定してる
っていうところで
そこまで努力しなくても
やれちゃう
っていう風土だったので
ちょっと違うなと
思ってたんですよね
すごく楽ですごく楽しいんですけど
そこの点だけがちょっと違ってて
2年くらいしてたときに
いろんなところに入れるもんなんで
スタジオとか土日とか
夜とか深夜とか
クリエイティブ業界で24時間くらいやってたりするんで
それに全部つきっきりでついていってたりとか
就職とかもバンバンついていってたりとかしてたら
残業代が100時間超えてて
それでめちゃくちゃ怒られたんですよね
いよいよだってこれ必要じゃないですかとか
いよいよ学びたいんでとか
全然許してもらえなくて
20時間に抑えろとか
働くなみたいな感じで
やるなの方向にかなり言われ出すようになってて
ちょっとそれは違うんじゃないかな
別にお金もらわなくても行きたいぐらいなところ
だったりするんで
それを言われてきたときに
このままちょっとこれは多分やれないし
やってったら多分これ自分が腐っていくだろうな
みたいなところもあって
それがちょっと2年くらい経ったときだったんですけど
そういうところとかもあって
そろそろ違うかなみたいなところで
次を探すという
アノラボの立ち上げ
次を探すって考えるよりも
高生年やってたときのメンバー
思い出して
みんなでいつかやりたいよねとかって言ってたし
ちょっとみんな誘って
会社とか起こせばいいんじゃないかなみたいな感じで
とりあえず
サムさんに電話したんですよ
今ちょうどそれやってるよみたいな感じで
じゃあそれをやりましょうよみたいな感じで
そこに行くっていうのを
考えたんですね
ちょうどそれが
東北の震災があった後ぐらいに
広告業界が全て動かなくなったんですよ
広告業界が全て動かなくなったんですよ
全部ACのCMばっかり流れてた
しかも電力爆風とかやって東京が真っ暗になってた
時期で
ほぼ休業状態で
お休みとかもやり放題だったんで
2、3週間こっち福岡に帰ってきたときに
ちょっとみんなで会ってみて
具体的に
次の3月
4月からやりましょうみたいなところを
友人たちとの共同プロジェクト
4人で集まったんだっけ
5、6人いたっけ
集まった記憶があるんだけど
伊原くんから電話があったタイミングはよく覚えてて
みんなで
伊原くんは東京にいて
僕らは福岡にいたんで
伊原くんは来てなかったんですよね
来てないっていうか
全然あれを知らない
かようかいのメンバーで
大自然っていう居酒屋に
飲みに行ってたときにちょうど
福原くんから電話がかかって
新しくやるなら入りたいんだけど
そういうのやってますかね
なんでちょうど今やってるよ
そういう話になったのが覚えてますね
おっちゃんもいたのかな
帰ってきて
1回飲んで4月から
12月ぐらいに退職届け
出して
3月は有給使ってこっちに引っ越して
来て
3月は登記とか
事務所探したりとか
会社の立ち上げの書類作ったり
資本金とか
諸手続きをやって
4月に立ち上げ
立ち上げついでに4月に結婚も
したんで
結婚式行って最初は働かずに
羽生院に行ってたりしてました
ちょうどそういう
仕事辞めて新しく
会社作るとしに結婚って
すげーなって思う
全然
同時並行で
ここの
ラボのスペースは
いはらくんの奥さんのお父さんが
不動産の会社をやってて
そこの遊んでた物件
みたいなのに入らせてもらったっていう経緯があるんで
場所っていうのを選定する上でも
いはらくんがかなり中心
というかほとんど
会社を立ち上げるっていうところに関する議論は
ほぼいはらくんが全部やってた
イメージがありますが
誰もやらないんだもん
いはらさんが
立つといいなと思ってた
立ったとき
本当に立つんだと思った
誰かが立てたんですよ
誰かがこっそり立ててたんですよ
いはらさんは
画像設計学科に行って
それで委員になって
っていう流れから
さっきの10年後の話じゃないですけど
仕事をしてどういう風に自分のスキルを活かして
自分のキャリアを直していこう
みたいなイメージがありましたか
単純に
CMとか好きだったので
CM作りたいなと思って
広報代理店に入って
面白ければ別にそのまんま
CM作りとか
目指してもよかったんでしょうけど
そこが
他にもいっぱい
作れるものあるんだなとか
大手になればなるほど
自分の関われる領域ってちっちゃくなるんだな
みたいな実感が東京であったので
そこがなければ
単純に大学のときは
CM作りたいなぐらいのことで
しかなかったですね
ラポの立ち上げのときは10年後とかまでは
全然思い浮かべれなかったんですけど
何かしら楽しいことを
やりたいなと思っていて
自分たちが好きなものを好きなように
作るには権力が必要だなと思って
権力っていう言い方が
合ってるか分からないですけど
信用力だとか
金的な金銭力だとか
全部ひっくるめて自分たちが
思ったものを作れるような
パワーが必要だと思ったので
会社の規模だったり実績だったり
っていうものを積み重ねていって
当初は自分たちで科学館みたいなのを
作りたいよねっていうようなことを
夢見てやってたっていう感じかな
立ち上げのときに思い描いてた未来
ですね
ありがとうございます
個人がちょっと
見えてきたというか
お待たせしていた
高青年科学館の
割とまとまってきてはいるんですけど
そこからどうつなげるかをイメージしないと
難しいなっていう
だいぶ進んでいて
もう本当に
この2,3日中には送りできますので
ありがとうございます
かなりコアの部分だったりするので
その後のいろんなプロジェクトだったり
最終的には
日常の隣っていう
コラボレーションと価値観の統一
あそことどういう繋がりがあるんだろう
っていう部分とか
見えたときに初めて見えてくるものみたいな
結構あるだろうなっていう気がして
現段階で出してもらった後にまたそういうのも
いろいろお話ししてそれから振り返ったときに
なるほどねってなることみたいなのも
結構出てくるんじゃないかなと思ってます
現段階ですごいまとめづらい
だろうなと思いながら
インタビューの後もそれ絶対まとまらないだろうな
って思ってたんですけど
ありがとうございます
じゃあ今日は今のお話まで
また今回のもとに
一度文章読んでいただいて
ラボ立ち上げて
今日の続きを次に伺えたらと思うので
またメールで
やり取りをさせてください
ありがとうございます
月に1回なのか2回なのかこういうインタビュー
させてもらって
記事化していくっていうのを
継続させてもらえるとありがたいなと思ってます
最終目標はやっぱり
個々の記事が開会化されていくっていうのも
すごく成果としてあると思うんですけど
最終的にはそこの全体のコミュニティの
価値観とか
哲学みたいなものが見えてくるといいなっていうのは
ふんわりとした目標としてあるので
そこに向けて
ふんわりと続けていければなと思っております
了解します
ありがとうございます
じゃあ
今日は以上で
ありがとうございました
引き続きよろしくお願いします
ありがとうございました
お疲れ様です
動物園ありますか
動物園をやりますとね