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おはようございます、こんにちは、こんばんは。
このポッドキャストは、フリーランスとして活動する実の姉と弟が、お互いの近況報告がてら、イルクをしゃべりするポッドキャストです。
なあなあ、またね、お便りが来てましたよ。
やったね。え?どなたから?
あの、この間さ、お便りくれとったユミナさんからね。
え?またくれたの?
あのね、お返事?なんかお返事みたいになってるんだけど。
ちょっと待ってさ、読んでもいい?
はいはい、ぜひぜひ。
先日お便りを紹介していただいたユミナです。もちろん聞いてました。
ちょうどその日は、たまにはお昼に聞こうと休憩時間に聞き始めたので、私の名前が出たところから、もう脳内パニックでした。周りは静かに黙食中。
お便りを読んでいただいたことも嬉しかったですが、気持ちが伝わってお二人が喜んでくださったことが本当に嬉しかったです。こちらこそありがとうございました。というお便りが聞き取れました。
すごいね。なんかこの人はさ、本当にさ、また別に狙ってやってるわけじゃないと思うけどさ、喜ばいい都合さをしてくれる。
いやー、なんかね、こう、何て言うんだろうな、その気持ちを伝えるのがさ、すごい上手な人だよね。
上手、本当に。こんなにストレートにね、嬉しさを伝えてくれるとこっちも嬉しくなっちゃうよっていうのが本当に最大の嬉しさ。
ねー、なんかあれだったよね、その、病院?
そうね、医療チームとかのお仕事をしてるっていう話だったね。
あのー、っていう話だったから、きっとさ、なんかその、美容者さんにも優しい人なんだろうなーと思いながら。
なんかこう、ありがとうございました、ありがとうございました、ずっと続きそうな感じがしちゃうよね。
平和な世界や。
素晴らしい、こんな世界があるとは。ネットにも。
いや、本当だよ。僕、ネット始めて良かったね。
いやー、今回もありがとうございました。
はい、ありがとうございました。
でですね、ちょっとそんなことは全然想定しちゃなくて、今日はちょっとまた全然違う話をね、しようと思ってるんだけども、
年末年始にですね、毎年ちょっとまとまった時間が取れるから、本をね、読んだり映画を見たりしてることが多いんですけども、
その中でね、ちょっと今回印象に残った本があって、その話をしたいなと思ってるんですよね。
題して、文人という概念って縁やけど。
文人っていうワード。
いきたいと思います。
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で、この本、この文人という概念、ワードは後ほど説明するんやけども、読んだ本がね、作家の平野圭一郎さんっていう人が、小説をメインで書かれてるんやけど、
エッセイというか、思想書とか批評みたいなものを書いてて、
これ一番最初に読んだのは確かね、かっこいいとは何かっていう本があって、かっこいいっていう言葉で人々は何を表しているのだろうかみたいな本があって、それ結構おもろくて、
そっから小説も読んだりしてるんやけど、その人の比較的新しい本で、私とは何かっていうね、タイトルの新書があって、
それを年末に読んだわけですよ。
で、その中でね、メインのタイトルは私とは何かで、サブタイトルに個人から文人がいるというのがある。
この分ける人ね。
で、文人というのがある。
文人ってなんか初めて聞いたけど、造語じゃなくて、辞書とかに載ってる言葉なんかね、これ。
造語だと思うな、多分。
あ、ほんとだ。文人って調べると、平野さんの本が一番最初に出てくるね。
で、その本の出張をざっくりと言うと、自分とは何か、行くだけあった人とは何かというふうに問われたときに、
ついなんかさ、統一感のある一人としての唯一の自分とか、本当の自分みたいなものを想定しがちやん。
まあそうね、一人だしね。
そうそうそう。でも、そうじゃないんじゃないのっていうのが平野さんの主張なわけよ。
どういうこと?
あの、例えばな、この間の恋バラの話でそのままの話題が出てたんやけどさ、
学校の友達撮るときの自分と家族と接するときの自分と違うやん、みたいな話して。
そうね。
で、そういう場面に遭遇したときに、一方が仮初めの姿で、もう一方が本当の自分みたいに捉えがちやけど、
でも、平野さん曰く、人は他者と関わる中で個別にね、パーソナリティを築いているものであって、
その相対として個人っていうふわっとした括りがあるんじゃないのっていうのを平野さんの考え、主張してることだよね。
だから、そもそも本当の自分という軸は中心にあるわけじゃなくて、
他者と関わる中で、例えば学校に居るときの自分、家族撮るときの自分っていう、
違う人と関わる中で生まれる別の人格のネットワークがその人を構成しているんだ。
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で、そのネットワークの一つ一つの点、濃度みたいなものが文人なんだというふうな話なんですよね。
なるほどね。結構なんかこの話って、特に相手に合わせちゃうんですよねみたいな、
人ほどアイデンティティーがないって悩む人って少なくないと思うよ。
相手に合わせすぎて切り口変えてたら、本当の自分って何なんだっけみたいな。
だからその本当の自分っていうのを想定しがちだけど、そもそもそんなもんないんじゃないかと。
なるほどね。
だから複数の顔があって当たり前というか。
これはなんかあれだね、アイデンティティ迷子って悩みがなくなるとか、
これも自分だしって受け入れられるのは、生きるのが楽になりそうだね。
まさにね、そういう話で。
で、俺がこの考え方に魅力的やなって思ったのが、
例えばある環境において自分を悲観的に捉えているとき、
例えば人とソリが合わないとか、
学校とか自分が属するコミュニティーの中で周囲にいる人とノリが合わないとか、
どうしても自分を責めちゃうというか、
私はダメなんだとか、私がもっと頑張らなきゃって考えがちやけど、
でもそれって上司なり、学校とか会社とかにいるときの自分と、
いるときの分人を悲観的というか、あんまり好きじゃないという風に整理できて、
それ以外の好意的に捉える別の分人、
例えば家族といるとき、友達といるとき、パートナーといるときとかね、
そっちをもっと注視すればネットワーク全体としては、
自分という人間をポジティブに捉えられるんじゃないかみたいな、
風なことを考えてたの、読んでて。
なるほどね、なんかあれだね、
サードプレイスが必要みたいなのが考え方に通じてくんだね。
で、あともう一個魅力的なのが、
結局その分人っていうのは、
自分と他者のコミュニケーションを通じてしか生まれないから、
分人は自分だけのものじゃないわけよ。
俺だけで姉ちゃんと接するときの俺がおるわけじゃなくて、
姉ちゃんがおるからこそ、
そのときの俺がおるわけで、
だから、もしその自分のことを嫌いやったら、
それって俺だけのせいじゃなくて、姉ちゃんのせいに。
責任を逃れられるというか、
全てを自分で背負い込まれていいっていう風な意味でも、
魅力的な考え方だなと思ったよね。
確かに、初めの自分のアイデンティティーは一つとか、
本当の自分みたいな考え方をすると、
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全て自分のことだから自分のことはコントロールできるって思いがちだけど、
社会の中で生きるのに、
全部自分で決められるって思うこと自体は思い上がりなのかもしれない。
そうね。
そうかもね、本当に。
マイケル・サンデル先生の最近の本に、
結局ラッキーなんだよねみたいな、
恵まれてる人っていうのは努力だけじゃないんだよねみたいな、
その自己責任論に対するアンチテーゼみたいな話とか、
俺本は読んでないんだけどね、
そういう本を出してたらしたけど、
まあそういうことにも関係してくると思うよね。
あとロマンチックな文脈で言うとさ、
小説とか映画とかで、
あなたといる時の私が好き、自分が好きとかっていうセリフあるやん。
あれも結構すんなり腹落ちするよね。
その人と一緒に作る文人が好きってことだからさ。
なるほどね。
だからそれってつまり、
相手とのコミュニケーションの中で生まれる自分というか文人が好きなわけだから、
それって二人で作るものだから、
それで確かにパートナーとして相応しい相手なのかもねっていう解釈ができるなと思ってね。
なるほどね。
相手によって自分の好きな自分が一人。
まさにそういうこと。
でもそう考えるとさ、
さっき自分のことはコントロールできないっていう話をしたけど、
唯一できるとしたら好きな相手を、環境を選ぶことよね。
そうやね。
あとその人に自分がどう働きかけるかっていうところまでは自分の力でどうにか。
どういう反応が返ってくるかまではコントロールできるけど。
思ったような反応が返ってこなかったら、
この人とは、この人と付き合っている時の自分は好きになれないから、
ちょっと距離を取ろうみたいな。
適切な距離感が生まれてくる。
そうそう。
なるほどね。
特に密室というか、強制的に所属するコミュニティってあるじゃない。
会社とか学校とか。
そうやね。
その割合が大きくなってくると、どうしてもそっちに考えが行きがちになっちゃうじゃない。
そうそう。
メタ認知的な鳥の目で自分のことを俯瞰してみることが習慣になってないと、
ネガティブな方に転がりがちになりそう。
よく打つ病院に陥りやすい人の特徴みたいな話とかでも、
真面目で責任感があって、よく言われる特徴としてあるけど、
そういうの結局強制的に得さざるを得ないコミュニティで、
自己肯定感が低いと、結局それ以外の分陣を作る機会がないからさ。
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自分自身を肯定的に捉えられなくなっちゃうっていうふうな解釈もできるなと思って。
確かに、毎度自分の仕事の話になってあれなんだけどさ、
ワークキャリアでコミュニティがいくつか全国にあるんだけど、
この間今まで受講してくれた人とかにアンケート取った時に、
すごいコミュニティがいいとか、ここにいる人たちは優しいっていう声が長所として多かったのよ。
文化として、まず相手のことを否定しないとか、やってることを応援するみたいな文化があるから、
単にいわゆる一般社会と比べて、イージーな感じがするから優しいと言われてるのかなって思ったんだけど、
この話を見ると、もしかしたら今まで強制的に属してきたコミュニティから離れて、
ワークキャリアの中に入ることで、好きな自分が見つけられた人が多いから、
そういう意見が出てきたっていう可能性がある。
ちょっと納得した。
特別新しい概念を提唱してるわけでもなくて、
確かにそうよね、みたいな納得感が本全体を通してあった。
賢い人やな。
ほんまにその通りよ。
ちょっと話がずれるんだけど、
例えば個性の捉え方もちょっと変わるというか、
同じ文人が、複数ある文人がネットワークを構築して、
一人の人間ができてると考えるとさ、
同じ人と同じ時間、同じ内容のやり取りをしてる人、
自分以外にこの世の中に誰も一人としておらんやん。
っていう意味では、一人の中にある文人まで、
ちゃんと細かく見てみると、
誰にでも個性ってあり得るわけや。
かつひなさんが言ってたのは、
人同士のコミュニケーションだけじゃなくて、
本だとか映画だとか、
芸術作品みたいなものとか、
無生物とのコミュニケーションの中にも文人が作られるし、
かつそこでそういったコンテンツに触れることで、
文人が変わると、それ以外の、
繋がってるネットワーク内の他の文人にも影響を与えられる、
みたいな話があったから、
個性って言うのは、自分じゃ普通やし、特に取り柄もないし、
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みたいに思ってる人も、
いやいや、本当に綺麗事じゃなくて、
やっぱり一人一人で唯一無二な存在だよね、
ちょっと論理的に考えられるっていう。
なるほどね、確かに。
個性って言うと、
特別な存在みたいな感じになりがちだけど、
職業的な意味での聴衆が、
特に学校とかではね、
個性として語られることが多いなと思って、
職業的の意味するところとしては、
生産活動に繋がる個性っていう意味で言ってるんやけど、
例えば人前で喋るのが上手いだとか、
決断力があるだとか、
一つのことに集中できるとか、
あと基礎的なことって体が強いとかも多分そうだったり、
運動ができるとかも含めて、
それって結局、社会にとって都合のいい個性というか、
人前であんまり喋れないっていうのも個性なのに、
それは個性として認めてくれないみたいな話があるわけや。
で、ちょっと気になってですね、
辞書を引いてみたんやね。
いいですね。
大辞令を引いてみると、
個性とこの国はね、
ある個人を特徴づけている性質、性格、その人固有の特性という記述があるね。
特性を引いてみたんやね。
そしたら、あるものに特別に備わっている性質、
特有の性質、特質。
特別って何かなと思って、
どんどん穴に入っていったけど、
特別は他と特別に区別されているさま。
単に区別の話なんやなと思って。
それが別に社会、
社会的にポジティブかネガティブかっていうのは、
個性という言葉の定義上は特にないのに、
いい個性、悪い個性みたいなものは勝手に生まれちゃってるなっていうふうに思うんだよね。
なんかあれだね、個性っていう言葉が便利に使われちゃってるのかもしれないね。
本当は判断基準とかが近いのかもしれないね。
これは好き、これは嫌い、これは得意、これは苦手みたいな、
判断基準って人によって絶対違うじゃないか。
そこが個性になってくるのであって、
社会がうまく回るためのキーワードとしてただ便利に使われているだけで、
そう考えるとちょっと気楽になるね。
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っていうところですね。
いいですね、これは。
私は好きな考え方だった。
ちょっとバカにされがちな、自分探しの旅ってあるやん。
インド行ったりするやつね。
俺も二十歳になるとき一人で旅行行ったんですけど。
沢木幸太郎の深夜特急に影響されました。
いいですね、若い人。
19から20のときっていう話もあったんやけど、
でもそれもいつも自分がいる環境とは違う人と交流するって考えると、
つまり新しい文人を作るプロセスって考えると、
あんなかけ間違った表現とも言えるわけよね。
自分探しというか、新しい自分を作っているって感じなのかな、どっちかっていうと。
確かにね。
いろんなことがあって、これも例えばそうやな、あれもそうやなっていうのがポンポンとつながってくる感じが、
前に関した間の思想ともちょっと近い体験があったね。
確かに。
なんか今この話しててさ、
新しい人とか、コンテンツではないんだけど、
内省する中でも文人が見つかることってあるんじゃないかなと思って。
最近ね、新しい文人を見つけたと思うのよ。
すごいね、すごい解釈が早い。
理解が早いね。
私、仕事から誰かとコミュニケーションすることが多いし、
それが好きだから、自分は比較的人の近くにいるとか、
交流していたい人だと思ってたんだけど、
俺もそう思ってたわ。
でも実はね、新年から結構ね、この間のエピソードでも話したけど、結構忙しくて、
自宅でね、仕事することが多くなったんよ。
で、ちょっと働き方もタイムスケジュール組み直して、
一番この自宅で仕事するのに集中できる環境ってなんだろうっていうのを最近模索してるんだけど。
いいですね、ちょっと新年ぽいね。
そうでしょ。
で、結構これが自分に合ってんだって思ったのは、
BGM。
今普段ね、エアポッド使ってるんだけど、
イヤホンよりもスピーカーから流した方が集中できるとか、
それは結構ね、共感できるかも。
最低限絶対あったかい。
20度以上の気温があるとか、
あとは部屋着でいいとか、一日。
マジで?俺それ無理やわ。
私ね、起きてそのまんま働きたいんでね。
それできるんやったらいいよね。
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あとね、移動が結構自分の中でネックになったことに気づいた。
それは何?時間を消費しちゃってるっていう意味?
それもあるし、時間を消費するのもそうだし、
思ってるよりも移動が自分にとって負担だったことに気づいたよね。
そうなんや。
たぶんね、今年末に比べて移動量が3分の1ぐらいに減ってるんだけど、
そんな減らせるんや。
減らせたもんね。
思い切ってね。
できることはすべてオンラインにしようと思って、
オンラインにしてみたら、めちゃくちゃ集中できるやんとか、
手が届くところに大体のものがある状態に動線を短くするとか、
デスク周りとかね。
同室に人がいない状況を作るとか。
小さい、これ自分に合ってるなっていうものを集めて働いたときに、
私って仕事中、結構孤独な方が進むタイプじゃんっていう新しい人格を発見したっていう雑談なんだけど。
でもそれはさ、この間の社長って何やったみたいな話もあったけどさ、
今の仕事の自分がやることに対しての文人がそうだとかとも捉えられるよね。
そういう自分で一人で考える。
仕事してるわけじゃないっていうことなのかなっていうのを今思いついた。
それは無性別との間に生まれる文人という観点で考えると納得できる。
なるほどね。
でもそれは、すごく本読んでないのに内容を理解できる感じするな。
ありがとうございます。
素晴らしい。
実体験に戻す。
個性の話にも若干戻るんやけど、
あと俺が思ってたのがさ、これまで、これは俺の話じゃないけど、
これまでどんな話でもできる相手が友人にしても家族にしてもパートナーにしても最上位やと思ってたよ。
だから友達とはこの話するのに、
今付き合ってる人とはこの話せんのなんか後ろめたいなみたいな。
なんか俺ら親友なのにちょっとこの話せないみたいな。
そうそうそうそう。
っていうのに俺、マジでこれ結構ね、昔から後ろめたさを持ってた。
でもこの文人の概念を導入すると、別に揃いする必要ないんや。
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別に違う人格がそこにはあるわけで、そこを無理くり一つにする必要ってないやんって思って、
友達と付き合ってる自分はそれはそれで好きで、
パートナーといる時の自分がそれとして好きであればそれはそれでいいやっていう風に考えると、
後ろめたさがなくなるから心理的負担は減るよって。
確かにこれはね、分かるね。
使い分けってあるしさ、この人はこの話題用みたいな使い分け方って確かにあると思ってて、
私は基本的にそっち側。
ただ多分文人という概念を今まで知らなかったから、
一つ一つの文人には納得してるんだけど、
それをたまに混ぜちゃうことがある。
その時にめちゃくちゃストレスがかかるんや。
矛盾するから。
それは例えば、仕事の知り合いと学生時代の友人同じ場に。
そうそうそうそう。
分かる分かる。
多分これって恋バーの回に通じるところで、
私たち兄弟は恋愛の話をする間柄じゃないんだよね、多分。
ってなるとあれだよね。
あれだけ言葉が出てこなかったのも納得できるし、
なんであの時はさ、うちらって恋話しないんだろう、みたいな感じになってたけど、
それはこの、うちらはそういう文人の間柄だったからってなると、
あのエピソードとさ、結論が出るね。
そうなんですよね。
そういうのが面白い。
ほうほうほうほうって言って、納得がいいって。
でもまあ、そういう言い方をすることないよな。
あのー、ちょっと、なんだろう、
この人とはこの話できる、この人とはこの話できないっていう風にすごくサバサバしてて、
冷たい感じもするんやけど、
そうでもないところがあって、
で、あとは、
ちょっとその前にね、別のポイントがあったわ、忘れてた、ごめんごめん。
さっきの自分探しの旅の話に関連してさ、
自分が変わることに対しても、
なんというか、肯定的に捉えられるのがこの概念の魅力的なコテがあって、
大学デビューとか高校デビューとか、
っていうのもいいなって思ったのと、
あとは、さっき言ったように文人っていうのは自分一人で作るもんじゃないから、
ポジティブな文人は半分相手のおかげだから、
自然と人への感謝の念が生まれるというか、
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日本語のおかげさまでっていうことは、
七ヶ地の学校だけの言葉じゃないっていう何とか感もあるよね。
あのさ、昔、うちにあったさ、
今、うちにあんだけど、
スーザンバーレーっていう人の忘れられない贈り物っていう絵本覚えてる?
覚えてない。
タイトルは覚えがあるけど、中身は全然覚えられない。
みんなに愛されてたアナグマが主人公なんだけど、
アナグマは結構冒頭に亡くなるよね。
亡くなって、村に住んでた他の動物たちが、
お葬式の後にみんながアナグマから何をもらったか、
ネクタイの結び方を教えてもらったんだとか、
記憶のやり方を教えてもらったんだみたいな、
思い出話をする絵本なんだけど、
あれって、今ある自分は誰かのおかげでできてる?
みたいな、象徴みたいな絵本だったから、すごい思い出した。
それね、さすがやね。
全く同じでもないんやけど、似たような話が本の中に出てきて、
よくあるフレーズ、
人は忘れられた時に本当に死ぬみたいな話あるやん。
で、この本の中でも、生物として死んでも、
分陣は自分だけのものじゃないかと。
例えば、俺が死んだら、
俺の分陣の半分くらいは姉ちゃんの中に残るわけよね。
そういう意味では、人の中に自分は生き続ける。
アナグマと一緒なわけよね。
そう考えると、死に対する考え方とか、
死に対して漠然と抱いている恐れとかも、
そこまで組むようなものなのかな、
みたいな気持ちも芽生えてくるんだよね。
でもさ、できればさ、
死んだ後にさ、自分がどう影響したのかさ、
確認したいよね、死んどるけど。
エゴが出とる、エゴが。
わかるけどね。
画がすごい。
わかるけどね。
ちょっともうね、長くなってきちゃったから、
最後にね、気に入ってる一節があるから、
そこを締めに向けて引用しようかなと思っております。
お願いします。
ちょっと長いんだけどね。
いきます。
個人は、
ごめん、個人っていうのは分陣に対する個人で、
一般的に言う個人。
個別の個人ね。
個人は人間を個々に分断する単位であり、
個人主義はその思想である。
分陣は人間を個々に分断させない単位であり、
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分陣主義はその思想である。
いきます。
それは、個人を人種や国籍といったより大きな単位によって、
粗雑に統合するのとは逆に、
単位を小さくすることによって、
きめ細やかなつながりを発見させる思想である。
うん。
がんちくあるよね、と。
あるね。
所感。
で、さっきの持たれつの話で、
分陣思想の立場に立つと、
友人や知り合いの成功は自分の成功でもあるし、
周りにいる人の失敗の原因は自分にあると考えられるから、
さっきから何度も言って、
結局、持ちつもたれつが実感しやすいのは、
分陣の側にいた自分が一番気に入っているところなのかなと思っています。
なるほどね。
私も、分陣主義につながる、
分陣主義みたいな言葉がないのかなって、
最近探したところがあったのよ。
なんで?
会社で自分たちが何を大切にしているのかなって考えたときに、
個っていうのがね、個人の個ね、
がキーワードとして結構多く出てきてて、
フリーランス、養成とかもね、そんな感じよね。
そうそう。
一人一人っていうのをすごく大事にしているなと思ったんだけど、
それだけだと、すごくドライになりがち。
自分は自分でOK、それで完結みたいな感じになっちゃうから、
このドライさにもう少しウェットさを、
ウェットなエッセンスを取り入れたいなって思ってたから、
すごいちょうどいい概念を知れたなっていう、
いいテーマでしたね、今回。
よかった。読む本読まん?
いや、読む読む本。
ほんまによかった。
もう貼ったら貼った。
ほんまに?
うん、貼ったら貼った。
ぜひ、また読んだら感想しててよ。
わかりました。
じゃあ、今回はこんな感じで。
そんな感じでいってみますか。
はい。
このポッドキャストでは、姉のあさみ、弟のあっちぃへの質問も大歓迎しています。
概要欄のお便りフォームからご連絡いただければ、
次回以降にご紹介や題材の参考にさせていただきますということで。
ほんでは、また次回。
はい、またねー。
ほーい。
はい、バイバーイ。
バイバーイ。