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2024-07-29 28:50

トヨタと日本経済【3/4】日本車躍進3つの理由とトヨタの戦略

(2024/7/26 #1290
・朝鮮特需によって得た資本と量産投資
 1950年前後で朝鮮特需と乗用車生産制限が解除。ドッジラインなどで経営難に陥っていたトヨタも業績が改善。その資本をまさに学んだ工作機械と材料に投資、月産3000台へ。
 スーパーマーケット方式は、「かんばん」と呼ばれる生産指示票(品名、品番、個数を記載したカードや表示板)が追加され、「かんばん方式」へと進化していった。さらに、この方式は、必要なものを、必要な時に、必要なだけ生産する「ジャスト・イン・タイム」生産の確立へと発展し、部品在庫などの改善、資本効率、生産効率を高めることに成功。

・日本の人口爆発と内需拡大とモータリゼーション
国内需要も成長をはじめていき、そこに対してトヨタ自工は独自の技術による純国際技術による自動車を開発すると宣言。時代遅れの田舎会社と当時のメディアは報じていたそうなw そしてトヨペットクラウンが投入されていく。
大量生産体制が軌道にのって、輸出も再開。返還前の沖縄と、台湾、タイ、ブラジルがまずは中心で年間300台程度。しかし55年以降は中南米などにも展開が始まり、4000台を超えていく。特にランドクルーザーが人気だったそうな。沖縄では小型タクシーが認可され、トヨペットクラウンが売れたそう。
戦前において量産技術がいまいち進まなかったのは、そもそも実需が乏しかったのが日本の問題。戦後は人口爆発と所得倍増も重なり、マイカーブームが1960年代に訪れる。生産台数も1965年の188万台が1967年には315万台となり、西ドイツを抜いて世界第2位の自動車生産国に躍進し、続く1968年には400万台を突破する生産台数を記録した。
そして1965年に自動車保護政策も終わり、輸入も自由化。それは日本車が輸出力を持てるという判断もあったし、米国がもう市場飽和で日本市場に進出させろというトレードでもあった。トヨタはこの中でも合併話などは全てことより、民族資本経営を貫くと宣言。三菱がクライスラーと合弁会社を作ったりする中で、トヨタは独立を貫く。1971年までには年生産200万台体制を目指していた。

・オイルショックとマスキー法
そしていよいよ北米への進出は、1957年から本格的にスタート。当時の米国ではセカンド・カーが普及しつつあり、RT43L型コロナもセカンド・カーとして大いに好評を博した。コロナの導入によって、対米輸出台数は1964年の約4,000台が1967年には2万6,000台へと急成長を遂げた。同時に、従来のランドクルーザーのみの輸出から、乗用車中心の輸出に切り替わっていった。こうして、米国向けの乗用車輸出が急増し、1966年以降、米国は最大の輸出先国となった。

コロナで基礎を固めた後の対米輸出を開花させたのは、1968年から輸出されたカローラである。これによって、トヨタの対米輸出は1968年に9万8,000台、1969年に15万5,000台と急上昇し、この年、米国における輸入乗用車の第2位を占めるに至った。続いて、1971年には40万4,000台と増加した。

1970年12月には、「マスキー法(1970年大気清浄法)」が成立し、そのなかで自動車の排出ガスに関しては次のように規制されることになった。更にオイルショックも重なり、エネルギーがただという時代が終わり、排ガスを出さず、省エネの自動車需要が成長。ここに日本車はガッツリハマる戦略をとりシェアを拡大。

1976年には3%程度のシェアだった日本車は、1980年までに20%に拡大。特にトヨタは1970年代に先の新型車がヒットして大人気になって、1975年にはフォルクスワーゲンをぬいて米国で最もうれた輸入車になり、1978年には「インポート・トリプルクラウン」を達成し、車、トラック、総車両の販売でトップに。

そしてこれは1980年代以降のジャパン・バッシングにつながっていきます。その時トヨタは何をしていくのか。
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