1. 写真と万年筆のイチゴカメラ
  2. Ep51. カール・ツァイスの歴史..
2023-09-07 49:51

Ep51. カール・ツァイスの歴史 創業期編 3人のキーマン(カワベマナブ)

カワベさんをお招きして、いちがみがまとめたカール・ツァイスの歴史 創業期編について話しました。


このエピソードのページ

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参考文献

- ツァイス・レンズ―その魅力と歴史 小林 孝久 現代カメラ新書(1979年)

- カール・ツァイス―創業・分断・統合の歴史 小林 孝久 朝日新聞社(1991年)

- ツァイス 激動の100年 アーミン ヘルマン (著)、Armin Hermann (原著)、中野 不二男 (翻訳) 新潮社 (1995年)


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イチゴカメラは、カメラ・写真が好きな一神 友郎(Tomoo Ichigami)がお届けするカメラ雑談プログラム。フィルムカメラから最新デジタルカメラの話題、写真表現についてなど、幅広く興味の赴くままに話します。同じ趣味を持つ方々とコミュニケーションとりつつ、その愉しさ、奥深さを共有していければと考えております。

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00:05
イチゴカメラ エピソード51 今回のゲストは、初登場の何てお呼びしたらいいですか?
カーブさんです。お願いします。
カーブさん、あんまりラジオを聞いていないと思うけど、時々カーブさんの名前は出てて。
本当ですか?
映像系の話をしている時とか、カーブさんはこんなことを言っていたとか。
ああ、なるほど。
ついに登場しちゃいましたね、僕ね。
お願いします。
じゃあ、自己紹介代わりの愛用のカメラは何ですか?
愛用はですね、ソニーのα7S3ですね。
いいですね。
もう買ってからしばらく経ちますもんね。
そうですね、もう2年くらい経つんですかね。
いいですか?
いいです。
なんかα7CのM2やらRやら。
そうなんですよ。C2が出て、ちょっとグラッと来てるんですよね。
あの、2台体制なんですよ、僕。
はいはい。
α7S3とS3なんですよね。
なので、もともと動画用にS3買ったんですけど、なんか面倒っていうか、結局スチルも全部それで撮ってるっていう状態で。
なんか、かねてよりもう少し小さいの欲しくて、α7Cがいいかなって言ってましたもんね。
そうなんですよ。α7Cかなって言ったら、市上さんが新型もうすぐ出る説を言われてまして。
で、出たって感じですね。
今、検討中って感じですか?
検討中ですね。
今回はですね、ちょっと私の話を聞いてほしくて。
お!いいですね。
カールツアイスの歴史をまとめてみましたっていう話を話させてください。
はい、ぜひぜひ。これはもう聞きたかったぐらいですね、どっちかっていうと。
本当ですか。
カールツアイスは好きですか?
03:01
カールツアイスはもう、いいですかこれ。大好きです。
大好きです、僕は。
どういったところが好きですか?
やっぱ味があるって言うんですかね。
あれ、ツアイス製品は何を使ってました?
ツアイス製品、今50ミリの1.4なの、ソニーズなんていうやつかな。
めっちゃ重いやつなんですけど。
これがもう、僕が買った時ってソニーの50ミリでいいのがあまりなくて単焦点で。
その時ツアイスの50ミリそれがあって買ったんですけど、やっぱすごい良くて。
その後ソニーの新型、F1.2のやつとかあとGMレンズ、F1.4のGMとか出たんですけど、
全然サイズのやつでいいなっていう。好きで使ってます。
Nikonの一眼レフFマウントを使っている時もプラナーをお持ちでしたもんね。
はい、持ってましたね。
あれをカーヴェさんに貸してもらって、これいいから使ってみてって貸してもらって、
わー、プラナーっていいなって思ったきっかけでしたね。
そうですか、あれも良かったですね、いいですね。
後に自分でも買ったっていう。
あのレンズもいいですよね。
うん、あれもいいですね。
そう、そんなカールツアイスの歴史でございますよ。
はい、もう何度聞いたか、いちがみさんからこの話題自体は。
2、3年前にカールツアイスの歴史に関する本を10冊ぐらい買って読んで、
その読んでる時の興奮をそのまま伝えてましたからね。
そうですね、だいぶ聞いてましたけど。
ところどころ抜粋して聞いたっていう感じだった記憶もありますけど、
ちゃんと体系的には聞いてないですかね。
そうですよね、これを話すとなったらやっぱり僕もちょっと忘れかけてるし、
もう1回読み直して、年表を作成したんですよ。
おー、なるほど。
やっぱり歴史を知るには年表を作ることが第一歩みたいな。
この年表はエピソードのページにも貼っておきたいと思うので、
ぜひ聞いてる方も見ていただければと思います。
ではカールツアイスの歴史、これ今後また続編もやっていきたいと思ってるんですけど、
第1回目のテーマは創業期編として、創業期3人のキーマンっていうテーマでいきたいと思います。
06:05
なるほど、これは何でしょう、長そうな感じがしてきましたね、既に。
ちょっと話してみて長そうなら前後編で分けるかもしれません。
そうですね、はい。
で、3人のキーマン、まず名前を言うと、
カールツアイス、エルンストアッベ、オットーショットの3人です。
はい。
で、どうやってまとめようかなって考えてたんですけど、
1つ、この3人が創業期に行って作り出したものとして、
アポクロマートレンズっていうのを作ったんですよね。
アポクロマート。
なんで、今回の創業期3人のキーマン語る上で、
アポクロマートレンズ製造っていうのが、
ちょっと終着点にしようかなと、このテーマにおいては思ってます。
アポクロマートってご存知ですか?
全く知らないですね。
アポクロマートレンズ。
はい。
例えば、コシナフォクトレンダーのアポランターとか。
アポ入ってますね、そういえば。
ライカのアポズミクロンとか。
はいはい、いい答えです。
アポっていますね、その文字はよく。
アポって入るだけで高品質とか高価であるとか、
そういう印象、多分カメラ好きな方であれば何気に持ってるんじゃないかなっていう。
そのアポクロマートから来てるってことですかね、じゃあ。
そこから取ってるんだと思いますね。
なるほど。
アポクロマートをちょっと調べたところ、赤青緑緑、光の三原色に対して色臭さを補正したものですと。
それによって色のにじみを除去できるので、研究用途の観察などに有効であると。
創業期顕微鏡カールツアイスは作ってたので、よりすごい小さいものを拡大してみるわけだから、それは成功な技術が必要なんでしょうね。
そうですよね。
という、臭さのない、これ本当アポクロマートとか詳しい人が聞いたら、今の説明も多分めっちゃ語弊がある気がするんですけど。
足りないとか。
その辺はご容赦ください。
あと思っていればその年表とかも多分文字いっぱいあるんで、どっか間違えてたりとかするんですよ。
なるほど。
なんかその辺も、今から話す話はフィクションですと。
なるほど。
ある程度事実を元にしたフィクションであると捉えてもらった方がいいと思います。
09:05
文句言われてもごめんなさいとしか言えません。
はい。
では順を追って。
年表の方を見ていただくと、それぞれが生きていた期間が書いてありますと。
変わりつつだったら1816年から1888年に亡くなっていると。
その間に何があったかを、主要なところを抜き出してまとめてあります。
年表の上の方にはドイツの情勢というか、
ドイツがその時どういう状況に置かれていたのかっていうのを参考までに入れてあるって感じです。
なるほど。
ではカール・ツアイスから。
はい。
カール・ツアイスは1816年にワイマールに生まれましたと。
お父さんはワイマール宮廷の専番校長だったと。
なるほど。
宮廷に勤めていたんだから、いい家庭だったんでしょうかね。
ですよね。
ツアイスは高等中学校を卒業後、
イエナ大学の講座を聴講して、ケルナー博士に支持すると。
なるほど。
そのケルナーさんというのは当時望遠鏡のレンズ設計をしていた。
なるほど。
光学ガラスの製造に情熱をかけていた人みたいです。
もうレンズ作りそうな。
そうですね。早速レンズが出てきましたね。
早速作れる感が出てきましたね。
ガラス製造というのが、余裕度でガラスを溶かして、
冷えて固まるのを待って、できたガラスを割って、
用途に合わせた望遠鏡ぐらいのガラスの大きさになったら、
それを磨くんですって、手で。
手で磨く。
手で磨く。
何日もかけてそれをして、やっとレンズが出来上がると。
へー、なるほど。
そのケルナーさんの情熱はすさまじかったらしくて、
毎晩夜を徹してガラスの溶融を行っていたと。
ほー。
っていうのを、ツアイスはもう壁から半分顔を出して見てたんですよね。
なるほど。覗いてたっていうか。
12:03
で、ガラス磨くとこなんかツアイスも手伝って、
で、よっしゃできたってなっても、満足いく製品にはできなかったと。
あー、なるほど。
で、もう本当職人の勘による作業というか、
こんぐらいかな?膨らみ具合こんな感じかな?とか。
ぶどまり悪いっていうか、なんて言ったんですかね。
そうそう。もうあれですよね、合格水準に達するの大変そうですね。
で、ケルナーさんもそれに気づいて、数学者に依頼して、
原料の混合割合を工夫して、何日も何日もかけて対策するんだけど、もうダメだって。
なるほど。
落ち込んだりもしたけれど、もう一回やってみようって言って振り返って。
なるほど。
自由度に向かうみたいな。
すごい情熱のある方だったんですね。
すごい情熱のある方だったみたいです。
なるほど。じゃあその大変さはすごい分かってるわけですね、じゃあ。
そうですね。で、その大変さが分かったからこそ、ちゃんと学ばないといけないと。
あー、なるほど。勘でやっちゃダメだなみたいな。
そうなんです。限界を感じて、理論をちゃんと学ばなければいけないっていうことで、
ケルナーさん師匠にお願いして、大学行かせてくれと。
おー。
で、ケルナーさんもそれを承諾したと。
おー、なるほど。
で、年表では1838年から大学行ったり、あと大学行った後も各地を回って知識・技能の習得に勤めますと。
あー、なるほど。はい。
で、もうその間、いろんなところ巡ってる間も、メモにメモを重ねて、知識もたまってきて、それなりに価値のある資料を作り上げたんですね。
あー、なるほど。はい。
で、それを大学の聴講を受けてた教授、シュライデン教授っていう人がいて、その人に見せて、
そしたらもうシュライデン教授ももう全面的に応援するよと。
うーん。
生命のからくりを洞察できるような広角機械を創造することが、どの時代にも渡る人類の責務である。
おー。
君にはできる限りの援助をするって言ったみたいです。
それが、サイス自身ももう俺もやるぞってなってるってことなんですかね、その。
そうでしょうね。
レンズ、なんか見てるうちにやる気になってるんでしょうかね。
15:00
そうですね、いろいろ知識も得て、各地巡って状況を把握して。
えー、なるほど。
いろんなことがまだまだ足りない、で、自分が工房を作る意味っていうのを強く感じたんでしょうね。
あー、なるほど。
で、そのシュライデン教授の助けもあって、工房を設立することができます。認可がおりますと。
おー、なるほど。
それが1846年、これがカール・ツアーエスの始まりですね。
へー、なるほど。
綺麗な小さな工房を設立。で、最初は大学内の科学機械と顕微鏡の製造と保守から始めたようです。
なるほど。
まあ、ツアーエスさん、もともと一生懸命職人気質な人なので。
うーん。
試行錯誤して、その大学の研究用途に耐えうる顕微鏡を作ることができました。
あー、なるほど。
で、その工房も順調に売り上げも上げ、徐々にですけど、安定してきて大きくもなっていったと。
おー。
際立ったところで言うと、1857年、駐輪原一般工業博覧会銀賞っていう。
おー。
まあ、これがどんだけ権威があるかはちょっとよくわかんないですけど。
なるほど。銀賞を取ったわけですね。
で、その4年後には金賞を取ったと。
うーん、なるほど。
だから、社会的にも認められてきたっていうところですね。
ただ、カールツアーエス的には事業としても安定してきて、それなりのものを作れるようになってきたけど、まだまだダメだ。
うーん。
まだ足りない、まだ足りないと。
なるほど。
思ってたようで。
おー。
思ってたところが、1860年ぐらいは今ここって感じですね。
今ここって感じですか。第二次産業革命のまだ前なんですね、それは。
まだちょっと前ぐらいですね。
うーん、前なんですね。なるほど。
この辺はだいぶ革命期というか、にあたる。
まだね、そんなものがないから、前例がないものを作っているような状態でしょうからね。
でしょうね。なるほど。
はい。ではここで話をエルンスト・アッペに移します。
はい。アッペが出てきましたね。
はい。アッペは1840年生まれ。
うーん。
ツアイスより24個若い。
そうですね。
18:01
うーん。で、父は宝石工場の職工長をしていたと。
おー、また職人の何ですか。
うーん、そうですね。
職人系の家ですね。
当時って多分どこもそうだったと思うんですけど、毎日14時間から16時間労働、休みながら。
なるほど。
働くと。で、すごいたくましい父親で、自慢の父親だったみたいなんですけども、
そんな過酷な労働を続けても48歳の時には老人のようになっていたということです。
なるほど。
働きすぎたっていう、なるほど。
そうですね。
で、アッペが9歳の時にドイツで革命が起きてるんですけど、
その革命は結局自由主義憲法の制定などを求めて暴動を起こしたんですけど、結局鎮圧されてしまうんですね。
それがこの年表にある1848年革命っていう。
あー、そうですね。
この翌年かな、1849年にドリスデンの放棄だったかなっていうのがあって、
このアッペ一家もドリスデンからアイゼナッハに亡命したんですって。
そこにいれなくなった。
なるほど。移り住んだっていう感じなんですかね。
うん。で、そこの亡命先で警察官とかが、軍隊とかが、なんか悪いやつはいねえかって。
そんな生ハゲみたいな探し方なんです。
で、巡回してくるんですけど、当時9歳のアッペはそれを警察官が来たことを知らせる役割をしてた。
アッペのお父さんは亡命してきた人を匿ってて、それを警察官にしたら教えるっていう役割をアッペが持ってたと。
で、アッペは警察官に対する不当な力とか権力に対する反感っていうのをそこで強く持って、
国を治めるべき人はそういう感じであってはいけないだろうみたいなことは、こういう幼き頃に強く持ったことだったんですね。
これが後々のカールツアーエス財団の設立とかに繋がってくるんですけど、今回はそこには触れないですけど、そういう幼少期の経験があったと。
で、亡命後も父は体を酷使して働いていたんですけど、それでも収入はとても少なかったようです。
21:05
アッペはただ勉強が大好きで貧困生活の中でも学問研究を続けていたと。
で、父の雇用主がアッペの人並み外れた高学進と秀才ぶりを認めて、何とか大学に行かせてあげたいということで、奨学金を受けることができるように図ってくれたと。
なるほど。
で、これにより1857年、イエナ大学入学できたと。
もうこの頃はツアーエスは結構成果を上げている時ですね。
17歳ですかね。
そうですね。
めちゃめちゃ頭の良くて賢い人なんで、イエナ大学の後、ゲッティンゲン大学ってとこにも行って、そこで最高の成績をもって学位試験を通過、博士号を得ると。
かなり勉強されてたんですね、アッペの人にこうやって見ると。
そうみたいですね。
で、その学位取得の2年後には大学の教授になりますと。教授といえど家計は苦しいんですけど、そういう権威のある機関に勤めていることもあって、信頼は日に日に高まっていったと。
大学教授をしていたアッペの仕事の一つが、物理学の講義で行う実験のための用意でした。
当時イエナ大学のあまり予算がなかったらしくて、実験用具も哀れな状態だったと。
ただ若いアッペは、こんな境遇でも平然と耐えて高度な研究を行っている先輩の教授にすごい感動したようです。
いつかこの大学を一目置かれるような大学にするんだっていう目標を持っていたようです。
カール・ツアイスは顕微鏡を頑張って作っていたんですけど、大学好きの技術者という側面も持っていまして、イエナ大学専属の技師でもあったんですね。
もう当時は顕微鏡の製作者として名前が通っていたツアイスに、アッペは授業用の器具を注文します。
その時も大学側の費用負担を抑えるために、3週間もの間は連日ツアイスの製作所に通い詰めて一緒に作業したと。
24:04
この辺具体的に書かれている本とかなかったけど、たぶん2人とも楽しかったんだろうなって。
ツアイスに足りないものをアッペというこの若い大学の教授は持っているってことをツアイスは感じただろうし。
うーん、そんな感じしますね、なんか。
若いアッペも顕微鏡の分野でも一定の成果をあげているツアイスさんの肌っていうのはね、いちごくんから置いてただろうし。
っていう接点があった中で、最初に器具注文したのが1863年なんですけど、そこから3年後か、年表にある1866年、
ツアイスはアッペさんちょっと話があるんだよと面会を求めます。
その時ツアイスは何を話したかというと、先生もご存知の通り、私は工場に全力を打ち込んでいます。
どうにか究極の顕微鏡を作りたいと思っています。
こういうことを申し上げては僭越だということはわかっていますが、私のところの人たちの仕事は褒めきれないほど立派です。
でも製品が不完全なんです。
私の不安の多くは製造過程にあります。
先生も私の申し上げることをわかっていただけたでしょうと話します。
ツアイスは職人による手作業というか、官人による手仕事というのを何とかして脱却したいと思っていた。
それにはアッペの知識が必要だと。
それを聞いたアッペも、つまりそれを解くのは科学的な方法だけですねと目を輝かせていったと。
なるほど。
ただアッペはそれまでも望遠鏡の製造に関する論文とかも書いていて、すごい評価されていたみたいなんですけど。
そうなんですね。
ただ顕微鏡となるとちょっとわけが違うよと。
そうですね。
これは難易度高いからちょっと保証はできないけど、まあまあ協力しましょうと。
顕微鏡っていうと、いわゆるマクロレンズみたいな、入ってあるものみたいなところですよね。
そうですよね。
なんかちょっと特殊な感じしますよね。
27:02
アッペもこれだけ熱心に学んできた中で、自分の知的能力を測るのにちょうどいい挑戦だと考えたと。
最初は社員とまではいかない、大学教授しながら協力もするみたいな感じだったみたいなんですけど、協力を始めました。
アッペが協力するようになって、最初の仕事は作業の分割システムの構築って書いてあったんですけど、これまあ作業を分担するってことだと思うんですよね。
なるほど。
例として挙がっていたのが、止めピン作りっていうのがあって、従来は1日1人ピン20本作るのが野党やったみたいなんですね。
それをこの作業の分割システムを構築することで、1人当たりにすると4800本。
すごい、ものすごい工場ですよね、これ。
20本が4800本製造できるようになったほどだったみたいなんです。
凄まじいですね。
その次ですけど、製品が仕上がる前までの性能チェックというか、そういうのは職校長がすべての顕微鏡を責任持ってやってたんですね、1人で。
なるほど。ピンクでちゃんと見てたんですね。
見てたんですね、はい。
ただそれがすごい手間がかかる作業で、緑色の補正をすると周辺の歪みが酷くなるとか、1人でやるには大変すぎることを1人でやってたと。
手間がかかるし、販売できる数も職校長の作業以下にかかっていた。
なるほど。
これに対してもアッペが対策を打ちまして、レンズ製造ってどうしても欠陥がつきまとうんですけども、
アッペは複数レンズの組み合わせによる効果を計算、すべてのレンズに寸法や許容値を設定したと。
なるほど。
それぞれの作業に基準を設け、作業分割により効率化などを図って、安定した製品を作れるようになっていったと。
その結果顕微鏡の価格を25%下げることができた、みたいな成果を出していって、続々と成果を出していきます。
続けて、顕微鏡用照明装置屈折計、焦点計を発明します。
製品作るだけじゃなくて、検査機とかそういうところにもちゃんと目を向けてやっていったってことなんでしょうね。
30:07
いやー、アッペすごいですね、こうやって見ると。
すごい。そのすごさ、学者たちも称賛して、もうこの頃になるとツアイス製品を使いたいっていう感じだったみたいですね。
なるほど、これもうサイズとして出してるわけですよね。
そうですね。
なるほど。
イギリスではそういったアッペの作った装置をジ・アッペと呼ぶほどだった。
もうアッペコールが起きてるわけですね。アッペ、アッペっていう。
ほんとそんな感じなんでしょうな。
いやーこれすごいですよね、だってもうこの工程の改善とか、なんかいろいろ、すごい革命を起こした人なんですね。
そうですね。でも業績、もともと悪くなかった業績もここでグワーンと上がってきます。もう大成功です。
で、1876年にはもう共同経営者になって完全にツアイスにジョインですよ。
ジョインしたわけですね。
あとなんかジョインしてたかも。どのタイミングで正式ジョインしたかちょっとはっきりわかんないですけど。
まあ共同経営者になったと。
はー、なるほど。
えーと、それでもですよ。
それでもアッペは顕微鏡の改造力には限界があると感じていたらしいんです。
で、その顕微鏡の改良っていうのは微生物学にとって特に重大な意味を持つので、もっとできるはずなんだけどなーっていう思いがあったようです。
で、ここで3人目のオットーショットが出てくるんですけど、オットーショットと、後から説明するんですけど、後に組むんですね。
はい。
その組んだ1年後ぐらいに言った言葉をここで紹介したいと思います。
はい。
えーと、我々が今までやっていたのは空想工学だったと。
まだ存在していないガラスを想定し、それをもとに構造を考案していたんだと。
もう気丈の空論というか、もう空想工学っていう言葉がいいですね。
へー。
あっぺにしてそんなことを言わせるっていう。
大成功してたんだけど、まだまだまだいけると思っていた。
さあここで3人目のオットーショットに話を移します。
はい。
オットーショットは1851年生まれ、ガラス工カジヤの息子でございます。
33:06
なるほど。
例によって勉強熱心で、科学に興味を抱いて熱心に学習していたと。
1870年から年表でいくと、フランスでガラス工場で実習したり、
あと大学行って応用科学を学んだりして、博士号を取得しますと。
はい。
1877年スペインで科学工場を設立して、まあまあ成功してたみたいなんですけど、
数年で閉じて実家に戻ります。
あ、そうですか。
で、ガラス作りに没頭してます。
へー。
ある程度収入あったのにそれをほっぽり出して、実家に戻ってお金にならない研究、ガラスの研究をずっとしてたと。
ああ、もうやっぱりガラス作りがしたかったんですね。
したかったんでしょうね。
ガラスが好きだったと。
うん。
スワイスもアッペも当然すごい人たちなんですけど、このおっとうショットの凄さっていうのが、
工学ガラス製造っていうのは本当に全くの未踏の分野だったみたいなんですね。
ああ、なるほど。
誰も学んでもないし、過去の文献なんかもないし、
で、それを独自で開いてったのがおっとうショットの偉業と言われてます。
うーん、なるほど。
すごいことですよね、これ。
今でも一般的なことですけどね、工学。
で、その実家に帰って溶融炉の作業してんのを見た人が語った当時の様子なんですけど、
もうその溶融炉の前で汗を拭おうともせずに、熱病にでも犯されたかのようにガラス溶融に没頭して、
旗から見たら鬼人としか映らないと。
これ相当ですよね、これ。
これ相当ですね。
いやー、なるほど。
で、どんな書物にもない新種ガラスの製造。
もうほんと自分の経験と感だけが頼りだけど、
それをあらゆる手段を試してショットの中に蓄積されていってたんでしょうね。
なるほど。
で、実家に戻ってから2年、1879年、
新種ガラスの製造に成功します。
おー。
で、ここで初めて、ああいいガラスができたぞって言って、
あっぺにコンタクトを取ります。
はい。
36:01
このガラスを測定してくれと、あっぺに初めて手紙を送りました。
おー。
あっぺがそれを見た時に、
まあこれはそんなそこまでじゃないなって思ったみたいなんです。
オッドショットは言うて多分自信あったとは思うんですけどね。
そう、そう思います。
ですよね。
うん。ただあっぺはダメだよとは言いませんでした。
うーん、なるほど。
工学分析を可能にするだけの品質というのは、
工学分析を可能にするだけの品質を有するガラスを
あんたんちの小さなるつぼの中で養育できたことは大変な成功だと、
偉大な成功に敬意を表する。
今後の測定もぜひ、私めにあっぺにお任せくださいと。
なるほど、ナイスファイトっていうことで。
ナイスファイトだし、
ガラス製造してる人なんて他にいないから。
うーん、あっぺからしたら嬉しいでしょうね、これは。
この分野で頑張って。
だってこれ77年にポットしてるって書いてて、
2年後に成功ってことじゃないですか。
そうですね。
相当いろいろ試してますよね、多分。
もう返信の手紙を受け取ったショットは、
当時のあっぺはもうすでに工学会の権威であったわけですから。
そういう人からの手紙に胸が高なって、
もうこの人に一生ついてくるぐらいな。
すごい、手塚治虫から返事をもらったフジコフジを見たら。
本当そうですね。
その後もガラスを作っては送り、ガラスを作っては測定してもらって、
全然ダメだよって時には言われたりとか、
そんなの繰り返してたようです。
なるほど。
ここまで来ると繋がってきますね、3人の行動が。
そうですね。
スワイスはある程度あっぺの協力によって、
あっぺの理論に基づく顕微鏡も発売できて、成果も上げて、
ただあっぺはまだいける、まだいけると思ってたところで、
ショットっているやんって。
なんていうか、ちょうどここが足りないぞみたいなところを
補う人が出てきたみたいな感じだった。
そうですね。この当時のスワイスにとってのラストピースですよね。
39:01
バチンとはまったと。
ショットとスワイス、あっぺ3人で話し合いの場を設けて、
ちょっともう一緒にガラス研究所を作ろうぜと。
もう行き逃亡じゃないですけど、もうこれは作ろうと。
最初はショットの住んでいる場所に作ったんですけど、
もう数年してイエナに来いと。
近くで一緒にやろうぜって。
1884年、ショットガラス研究所をイエナに設立しました。
そして1886年、あっぺは、
シューサのないアポクロマートレンズの設計に成功。
同年、もうその時はショットと一緒にやっているので、
アポクロマートレンズの製造、成功しますと。
なるほど、こう一気にアポクロマートレンズができてくるわけですね。
ラストピースがはまった途端、もうブレイクスルーが起きた感じなんでしょうね。
すごいですね。
ショットはもう研究所まで作って面倒も見てもらいつつ、
ガラスの続々と新種ガラスを作ってきます。
年表に書いたのは重クラウンガラスとか、
化学用耐熱ガラスとか、なんやらいっぱい作っていったようです。
すごいですね。
これは余談に近いですが、
日本では1931年に本格的な写真レンズとして、
ペキサーF4.5が作られたようなんですけど、
このレンズにはショットガラスが使われていたようです。
なるほど。
この3人の偉人たち、3人のキーマン。
年表、ざっくりとした年表なんですけど、
まとめたというのが今回のお話でございました。
見事につながっていったというか。
すごいですね。
誰一人かけてもうまくいかなかったという感じがしますね。
そうですね。
アッペなんてすっげえ天才だけど、
アッペ、何もなければずっと大学の教授をしていただろうし。
頭良くて革命を起こしているけど、
なんせガラスを作る人がいなかったら、
それに対応することもありますよね。
年表とかまとめていったら思うんですけど、
42:02
やっぱり最初はカワルツ・アイスの師匠のケルナー博士。
あの情熱の炎というのが引き継がれていったのかなと。
確かに。
それに感化されたカワルツ・アイスもものすごい強い炎を持っていて、
それがアッペに映って。
夫はちょっとガラスの製造とか開発で、
何ですか?
変人、奇人変人という、
奇人としか映らないくらいに開発していたという。
隠してアポクロマートレンズができましたという、今回のお話でした。
素晴らしいですね。
どうですかね、このシリーズ。続くかな。
もう一回いいんじゃないですか、これ。
これ一応、次の創業期編の次は、
さっきチラッと話した、アッペによるカワルツ・アイス財団の設立編をいきたいと思っているんですけど、
これがいつになるか。
アポクロマートレンズまでが、
なかなか大変だったという感じですね。
財団設立もまたいろいろ、いろんなドラマがあって面白いんですよね。
で、アッペの幼少期の体験とかがそこに結構強く影響してきたりとか。
結構僕、本での情報収集が主だったんですけど、
ネット上の情報ってあんまりここまで詳しく日本語で解説してるコンテンツとかなくて、
多分ツアーエースの歴史の中ではこれは相当詳しい部類に入ると思いますね。
確かに。他で見たり聞いたりしたことないですからね。
だからおそらくツアーエースの中の人にも届くんじゃないかという期待をほのかに持っておりまして、
ぜひ第2部作るにあたって協力してくれるようなら私は拒みませんよっていう。
協力してほしいぐらいの。
何でしょうね。ものすごい好きになりますね、このツアーエースが。
僕の一つのこれをコンテンツ作りにあたっての目標が、カールツアーエースをもっと好きになる。
45:01
もっと好きになってほしいという思いがありますね。
いやーやっぱり、何て言うんですかね。
なみなみならない努力とか研究とか、いろいろこの3人の出会いっていう奇跡のようなこともあったり、
そういうのを経てなんですね。
これおそらくどんなカメラメーカー、日本のメーカーであっても、
歴史とかこういうドラマって絶対あると思うんですよね。
でしょうね。
もちろんライカなんかはね、多分それこそ本もいっぱい出てるだろうし。
ただ日本メーカーのもなんかどっかでやりたいなぁ。
アッペの話は、前よく聞いてた、一郎さんから聞いててなんかすごいっていうのを、
なんかその印象があるんですけど、音ショットすごいですね。
この音楽ガラスって言うんですかね。
要は特殊なガラスの音がすごいんですけど、
この音楽ガラスって言うんですかね。
要は特殊なガラスじゃないですか。
特殊なガラスに情熱を傾けたというか。
だって誰も目をつけてない分野だから、
それこそここで音ショットいなかったら本当にまだまだずれた可能性ありますもんね、この。
そうですね。
このラストピースがはまらなかったら、いまいちなまんまの顕微鏡だったかもしれないですもんね。
いまいちって言ってもまあ良かったんだろうけど、
当時の完成形究極の顕微鏡にしたっていうことでしょうね、きっと。
生まれた年も結構違う3人が交わって、
なんとかツアイスさんが生きてる間にこのアポクロマートレンズを製造できたっていうところもまた良かったなって思うし。
そうですよね。
ツアイスさんは晩年もずっと工場に来てたようです。
そうなんですか。
やっぱり根っからの職人なんでしょうね。
ヨボヨボになってずっと工場に通ってたみたいですね。
これを聞いたらツアイスレンズはもう売れなくなるっていう。
いや売れなくなるでしょうね。
僕本当は40ミリのバティスを一回買ったんですけど、
35ミリのソニーのGMレンズを買ったら、
なんか焦点距離が近いんで買っちゃったんですけど、
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やっぱ写りがすごい好きで、
欲しい。
もう一回買い戻したいなってずっと思ってるんですけどね。
その思いがさらに強くなりましたね。
これはもうこれで終わりですか?
そうですね。創業期限はこれでおしまいです。
一上さんがまとめた資料を見てますけど、
結構この量があって、テキストの量が。
この後の財団とかのところも書いてあると思ったら、
まだ創業期限だけなんですね、この資料は。
そうですそうです。
すごいですねって考えたら。
ある程度ちょっと箇条書きでもメモっとかないと、
言いたいことは全部言い切りたいから台本起こしました、珍しく。
ぜひ聞いた人も感想などありましたら、
YouTubeのコメントでも、
Twitter、あらためXとかでも感想をお寄せください。
では、川部さんまた時々お声掛けしますので、
またぜひよろしくお願いします。
はい、ぜひここで終わってしまったら、
非常に気になってしまうので。
そうなるとどうなったんだっていうのが気になりますので、
ぜひまた。
そうですね、なるべく時間を空けないようにしてまたお願いします。
はい。
はい、では川部さんありがとうございました。
はい、ありがとうございました。
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