奈良に滞在し、鹿と戯れ、日本を味わった、偉大な作曲家がいます。
セルゲイ・プロコフィエフ。
現在のウクライナ、ドネツク州の近く、ドニプロペトロウシクで生まれた彼をたたえ、ドネツク国際空港は「セルゲイ・プロコフィエフ国際空港」と呼ばれています。
彼の人生は、戦争や革命など時代の波に翻弄され、まさに波乱万丈。
音楽的にも、新しい嵐が吹き荒れるカオスの中、ひたすら自分の音楽に向き合い、名曲を世に送り出してきたのです。
1918年、27歳の時に日本を訪れたのも、ロシア革命による混乱を避け、アメリカに向かう道中のことでした。
ウラジオストクから日本に入り、アメリカ行きの船を待つ間のおよそ2か月。
ピアニストでもあった彼は、東京で2回、横浜で1回、演奏会を行い、大阪、京都を訪ね、奈良にも立ち寄ったのです。
幼い頃から筆まめで、なんでもメモをとり、文章にして残すのを常としていた彼は、奈良での出来事も日記にしるしています。
奈良公園で出会ったたくさんの鹿について、こんな記述があります。
「公園には神聖なる鹿が歩き回っている。
ひとによくなついていて、パンをあげると、ものすごい勢いでたくさん寄ってきて、あっという間に周りを取り囲まれた」
日本滞在中に聴いた『越後獅子』が、プロコフィエフの代表的な楽曲『ピアノ協奏曲第3番』のヒントになったという説があるそうですが、真偽のほどはわかっていません。
ただ、異国をめぐるその理由が、意に沿わないものであったにせよ、全ての経験、体験が、彼の作曲に影響を与えたことは、少なからずあったに違いありません。
時代の波は、彼の最期においても、皮肉な演出をたくらみます。
61歳でプロコフィエフが息をひきとったその同じ日に、ソビエト最高の指導者と言われたスターリンが、74歳で亡くなったのです。
その時間差は、わずか3時間と言われています。
スターリンの死を悼む多くの群衆。
その中にあって、プロコフィエフの葬儀はひっそりと行われ、参列者はおよそ30人ほどでした。
その中には、共に新しい音楽を求めた旧友、ショスタコーヴィチの姿もありました。
どんな状況にあっても自らの本分を守り抜いた音楽家・プロコフィエフが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
セルゲイ・プロコフィエフ。
現在のウクライナ、ドネツク州の近く、ドニプロペトロウシクで生まれた彼をたたえ、ドネツク国際空港は「セルゲイ・プロコフィエフ国際空港」と呼ばれています。
彼の人生は、戦争や革命など時代の波に翻弄され、まさに波乱万丈。
音楽的にも、新しい嵐が吹き荒れるカオスの中、ひたすら自分の音楽に向き合い、名曲を世に送り出してきたのです。
1918年、27歳の時に日本を訪れたのも、ロシア革命による混乱を避け、アメリカに向かう道中のことでした。
ウラジオストクから日本に入り、アメリカ行きの船を待つ間のおよそ2か月。
ピアニストでもあった彼は、東京で2回、横浜で1回、演奏会を行い、大阪、京都を訪ね、奈良にも立ち寄ったのです。
幼い頃から筆まめで、なんでもメモをとり、文章にして残すのを常としていた彼は、奈良での出来事も日記にしるしています。
奈良公園で出会ったたくさんの鹿について、こんな記述があります。
「公園には神聖なる鹿が歩き回っている。
ひとによくなついていて、パンをあげると、ものすごい勢いでたくさん寄ってきて、あっという間に周りを取り囲まれた」
日本滞在中に聴いた『越後獅子』が、プロコフィエフの代表的な楽曲『ピアノ協奏曲第3番』のヒントになったという説があるそうですが、真偽のほどはわかっていません。
ただ、異国をめぐるその理由が、意に沿わないものであったにせよ、全ての経験、体験が、彼の作曲に影響を与えたことは、少なからずあったに違いありません。
時代の波は、彼の最期においても、皮肉な演出をたくらみます。
61歳でプロコフィエフが息をひきとったその同じ日に、ソビエト最高の指導者と言われたスターリンが、74歳で亡くなったのです。
その時間差は、わずか3時間と言われています。
スターリンの死を悼む多くの群衆。
その中にあって、プロコフィエフの葬儀はひっそりと行われ、参列者はおよそ30人ほどでした。
その中には、共に新しい音楽を求めた旧友、ショスタコーヴィチの姿もありました。
どんな状況にあっても自らの本分を守り抜いた音楽家・プロコフィエフが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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