僕がきっと知らないだろうなと思って誰かのことペラペラ喋ってると、
実はつながってたりするのが京都あるあるで、
こんなお話ししちゃったみたい。
だから外国の友達に日本の悩み事をいろいろ話しても、
全く設定がないから全然平気なんだけど、
京都の人となんか会った時に、
他の京都つながりの人には絶対相談しちゃダメなんだなっていうのがだんだんわかってきて、
いろいろバレちゃうので。
だからそれはなんかね、特に京都まずいよね。
情報が早いから。
Joyさんでも思うから相当な体験があったんだろうな。
いやいやいや。
思って想像してちょっとクスッと笑ったり。
自分は平気なんだけど他の人に迷惑かかるのが。
そういうこと。
だからいろいろあるよね。
っていうのでちょっと僕も京都生まれなんだけど、
父は大学生で生まれて、そして2歳の時にアメリカ行っちゃったんだけど、
でもなんか京都生まれっていうつながりがあって、
結構京都に来て遊んでたんだけど、
うちの母親はやっぱり住んでる時は楽しくなかったって言ってて、
旅行に来るのはいいけど住むのは大変だからねって、
もう亡くなっちゃったんですよって言ってて、
でも最近やっとなんかそれが少しずつわかるようになってきて。
京都生まれて知らなかった。
京都生まれで貧乏な学生だったの父は。
母親がアメリカで学校行ってたので、
芸子さんに英語を教えてたの。
ミノ屋さんっていうお茶屋さんで。
うちの父親の先生の奥さんの弟さんかなんかがよく行ってたお店で、
そこと仲良くなって、アメリカに引っ越した時に、
かおりちゃんっていうおかみさんが19歳で、
僕が3歳の時にアメリカにホームステイに来て、
ベビシッターやってくれたのね。
で彼女が戻ってきてずっとお付き合いしてて、
そしてそのおかみさんの目線で京都を覚えてて、
どっか偉い人のとこ行って、どうぞ上がりなさいって言うと、
彼女が僕の袖をピッて引っ張って、
ダメダメ、ここはダメだなとか言ってね。
いつもマネージしてくれてたんで、
それでなんとかなってたんだけどね。
っていうのがずっと京都の思い出なんだ。
そうなんですね。
でも私も若い頃、かおりさんすごい素敵な方だなと思って、
でもいい意味で擬音っぽくなくって、
そこをすごい魅力に感じたから、
そこともつながってすごい嬉しい。
でうちの母親がちょっと外国人っぽい変な日本人で、
でかおりちゃんがずっと先生先生って言って、
うちのホームステイのときも彼女すごいハッピーで、
すごい太っちゃって、
お母さんが帰ってきたとき誰だかわからないぐらい太っちゃったのも楽しくて、
ずっとお付き合いして、
彼女も京都っぽいけどちょっと違う感じのところもあるんですよね。
で、ゆう子さんもでももともとタンバの方から。
タンゴ。
タンゴ、タンバじゃない、タンゴね。
そう、タンゴ。
タンバの、もっと日本海側がタンゴの国っていうのがあって。
でももともと織物とかが有名なんですね。
そうですよくご存知で、
ちりめん、じゃっこじゃなくって、
いじれた白生地を織って、
それで暮らしている町だったので、
でも300年ぐらいかな、
そのちりめん産業が発展したのは。
だからすごくいいときと、
その後ものすごい勢いで衰退してしまって、
で、そこに18までいたんですけど。
ちょっとそこら辺から少し話してもらっていいですか。
もともとずっと前からそこに家族がいて、
お店をやってたんですよね。
湧くでんは福井県の小浜っていうところで創業してるんです。
それが1870年で、
でその、なんか京極さんっていうそのときの領主さんのお国替えで、
ついてきて、タンゴに。
そうなんですね。
それときに、なんか湧谷田園門だったんだけど、
湧くでんにして、
でそこをついた。
名前が、あ、そうなんですね。
そう、そう、湧谷田園門の、
そのときは湧水の湧くっていう字に、
あ、日本語わかんない。
まあでもね、すごい不思議なんだけど、漢字が結構読めないんだけど、
漢字喋れたりするの。
だから例えば、何々の何とかって、
頭の中で湧くなら、湧水の湧くとかって、
意味がちゃんと音とつながってるけど、絵が出てこないときもたまにあるので、
だから湧水の湧きって言われても、ちゃんとそれはメモリーできるの。
すごく変、ちょっと変わった。
ちょっと面白い。
えー、そうなんだ。でもほんと今もちょっと話してて、
あ、だから楽なんだと思ったんですけど、
私も話があちこち飛ぶんだけど、
ジョイさんも、飛んでもちゃんと戻ってこれない。
私は戻ってこれない人なので、
今日よろしくお願いします。
はい、はい。
はい、すみません。
なんだか初っ端から脱線していて、
大丈夫かなと思っている方、ご安心ください。
この後も独特の世界観で、どんどん深いところまで潜っていきますよ。
まずは、湧く伝の簡単な歴史からお話いただきました。
フィッシャーマンの町と、あと織物の町でしょ。
そう、おっしゃる通り。
炭庫。
最初だから、湧く家の伝言文のときには、海鮮扱う豚屋みたいなことをしていて、
フィッシュのマーケットをしてる人ね。
そう、はい、そうです。
で、料理はその後。
そう、そうなんです。
そこで2020年に150周年を迎えたんですけれど、
だから京都市内はまだ昭和57年だから、40年ちょっと、もう少しなのかな、ぐらいなので、
本当にこう、うちの両親は、もう本当このまま炭庫にいたら、もう亡くなっちゃう。
もう船がなくなってしまうっていうので、排水の陣で京都市内に出てきたんですけども。
じゃあもう全部動かしちゃったんですね。店舗を作ったっていうよりも、本家をもう動かしちゃう。
そう、一部旅館は残してたんだけれども、それは本当にスタッフの皆さんのっていうことで、
もうこっちでなんとかならないとっていうんだったんだけど、
当然歓迎されてるわけじゃなくて、
ということをなんとなく学生だったんですけど、肌で感じつつ、すごいアウェー感。
なるほどね。で、京都のアウェーは超アウェーですね。
そうかもね。
なるほど。で、ほぼ僕と同い年ですよ。近いんだよね。
だから40年前だと学生で、でも覚えてる?炭庫も覚えてる?
覚えてる。で、ちょうど私も大学受験の時だったので、
京都の大学に行くともう絶対手伝わされてしまうし、
その規定路線に乗せられてしまうっていうのですごく抵抗したんですけど、
でも結局はもう京都の学校に行くことになっちゃった。
なるほど。インタビューに書いてあったのは、寮邸旅館、そこで結構どんちゃ騒ぎしてて、
それが京都に来て巻き込まれるのが嫌だっていう気持ちも学生のほうがあったっていうふうに読んだんですけど。
そうそうそうですね。なんかそれとなんでしょう。
たぶんそのうちの母親が、もう自分のやり方にすごくこう当てはめたい人、
そういうのにすごくなんかこう虚しさを感じていて、でなんかもうほんと子供心に田舎だし、
すごくそのスポイルされてる感じもあるし、もちろんこう母親からのあれもあるし、
でなんかこういう職業のところにやらなくちゃいけないっていうので、
これはどこかシェルターを見つけるしかないっていうので、
でその学校卒業してお店のお手伝いさせられそうになってるときに大徳寺のお寺に掛け込み寺。
あれこれは大学の後?
大学卒業して戻んなきゃいけないけど、ちょっとお坊さんでもなろうみたいな感じ。
ほんとになんかこう、どこに逃げたら、
じゃあもうとにかく逃げようっていう感じ?
そう、なかなか迎えに来る理由がないところに行こうと思って、それで、
小田浦区みたいな感じ?
そんなんじゃない、そんなんじゃないんですけど、
でもなんかお使いに行ったことがあるお寺だったんですね。
で、そこにほんとに庭にの門をくぐった瞬間に、
もうバーンって、もうなんかすごい音が鳴るぐらいにここだって思った。
ちゃんとスピリチュアルな理由があるんですね。
そうインスピレーションがなんとなくあって、
でもその場で和尚様に置いてくださいっていう感じで、
下働き、ずっと畑とかお産土の用意とかのお手伝いをさせてもらいながら、
3年ぐらい置いていただいたっていうことなんだ。
これも読んだんですけど、これはもうほんとにこう、
禅のきれいにしてあんまり口数が多くなくて、
で、その静かな日使いなのかなとかに結構集中したんですよね。
で、それはすごくやっぱりお店の方に反映できた学びだったって、
なんかどっか書いてあったんだけど。
どうなんだろう、でもその時には気づかなかったんですけども、
まあ例えば基本は挨拶返事とお掃除のみ。
で、すごくシンプルで、ものすごくやっぱり心が穏やか。
自分に集中できるし目の前のことに集中できるので、
なんかその環境の素晴らしさっていうのは、
なんか後から自分の中にものすごく作用してたっていうのがわかるんですけど、
本当にもう和尚様があまりにもなんか私にとったらもうお月様のように、
ただそこにあるだけでこう、胸がこうなる感じの、
なんか学僧ですよね、あの鈴木大節さんのお弟子さんで。
まだいらっしゃる?
いや、もうずいぶん前に。
あーそうなんですね。
はい、たぶん大僧賞?
はい。
この間亡くなる大僧賞と同じ。
同じです。
あーそうなんですね。
なるほど。
桑村さんが大学卒業後に修行していたのは、
京都の大徳寺寮校院という禅寺。