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そのアーティスト側の方からの病と痛みアートということで、少しお話をお聞きしたんですけども、我々一般の人間から見る痛みと病、アートについてということで、ちょっとお話伺いたいんですけども、
アートっていうものが治療や癒しに対して、効果的だっていうふうにお考えかどうかっていうことは、先生がご賛同されている性学療法も含めて、芸術療法っていうキーワードもありますけど、この辺はいかがですかね。
結論から言いますと、芸術療法はありなんですよ。アートセラピーのいいところは、治療者と患者さんの関係性をいろんな回路で構築できると。場合によっては、スタッフが遅かったりとか、患者さんが遅かったりとか、逆転しますよね、そこで。
そういうことも含めて、治療空間で関係性の組み替えがなされやすいように持っていけるということが、アートセラピーの現場ではありますね。そういったことも含めて治療的と。
アートは直接の効果ではありませんけれども、アートセラピーという枠組み自体が治療に費用する部分というのは随分あるだろうと考えています。
もう一つ先ほどご紹介した性学療法、これは今はうちの病院でやっているんですけれども、なんでこれを始めたかと言いますと、私が昔、ちょっとだけコーラスを書いていたときに習った先生がいて、その先生はプロの性学科でオーケストラの指揮なんかもやる人なんですけど、この人が個人教授で、自宅でいろんな人に教えていたと。
あるとき別にそんな意図なかったんだけど、何年も引っこもっている人が連れて来られて、練習してくださいと。別に他の人と区別する理由がないから、やりましょうと引き受けて。やっていたら何年かしたら引っ込み治っちゃったという。
治ったというより社会に参加して、大学院か何かに入って、今は研究者になっていますみたいな、そういう感じですけれどもね。
もっと驚いたのは発達障害。今、アスペルガーとかADHDとかありますけれども、ああいう人がこの性学療法に参加し始めたら、これは発達障害って治る病気じゃないんで、先天性疾患ですから、治るとはちょっと違うんですけれども、例えば、以前は全然集中できなかったものは集中できるようになったとか、
以前は人の中にいたら落ち着かなくても全然じっとしていられなかったものが、合唱の間中じっとしていられたとか、協調性が生まれたとか、たくまざる治療的な変化がいろいろ起こってきたということが言われていまして、これはすごく不思議な現象なんですよ。ただ歌っているだけなんです。ただ発声練習して歌わせているだけなんです。
それだけなのに治療も全然いいとしていないわけです。ただ歌が上手くなればいいじゃんということで、引きこもったままでも歌が上手くなればいいんじゃないみたいな感じでやってたわけですけど、結果的に引きこもり残っちゃったみたいな感じがあって、非常に不可解なことです。技巧が、スキルがアップすると、技術が向上するということがすごくあると思います。
発声練習から始めますから、だんだん上手に歌が歌になってくるということが起こるわけですけど、上手いか下手かという視点は実は今まで芸術療法なかったんですよね。芸術療法の中には評価しちゃいけないというのがあるんですよ。
評価しちゃいけない。
つまりこの患者さんの絵は上手で、この患者さんの絵は下手だとか、やっちゃいけないという固定観点があって、ある種の平等主義ですよね。
実際にはアウトサイダーのアートでも、私岩手県出身ですけど、岩手県でアウトサイダーアートが日本の2番目に盛んな県なんですけども、そこで毎年コンテストをやってたわけですよ。キララアートコンテストをやってたんですけども、これを始めてからモチベーションがすごく上がったという現実があって、やっぱり評価されたいんじゃないかと。
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作る側もね。あんまり変に平等主義で扱われるよりも、これは上手い、これは下手って言われた方が励みになるんじゃないかという、当たり前と言えば当たり前なことですので、上手くなることの意味なんですよ。
なんで歌が上手くなるだけなのに社会性まで向上するのかっていう話で、これは今の精神学や神経学には説明つかない。
性学療法のことも少しお話しかかりましたけども、それって2つの側面があると思って、例えば今の声を出すっていうこともそうだと思いますし、絵を描くっていうこと、やることで癒される、治療されるってことと、
あと絵だったら実は見ることで受けることで治療されるって2つの視点があると思うんですけど、実際この美術劇場にも松井裕子さんのところの文章で、治療的経緯とか曝露療法、スキルの獲得そのものがはらむ治療効果とかありましたけど、この辺っていうのは実際やると癒されるってことなんですか。
松井さんは明らかに見る人の身体性を巻き込もうとしてるように思うわけです。
見る人の身体性を巻き込む。
身体感覚とかそういったものに訴えかけて、ただ目で見るだけじゃなくて体全体で味わってほしいという要望を持っている人に思うわけですよ。
それは多分正しい鑑賞法。だからこそ女性の方により多く開かれているという絵だと思うんですけどね。
逆に男性はやっぱり綺麗な絵、ちょっとグロテスクだけど美しい絵みたいな、少し距離を置いた見方しか難しいところがあって、なかなかこの男性が女性の身体に同一化するっていうのは難しい。
男性の身体意識というのは私の持論で言うと女性よりもずっと鈍感ですから、遥かに鈍感ですから、そういった意味でも身体的同一化というのは難しい部分があるかもしれないと思うんですけど、
でも身体性を巻き込むことができればこれはもう治療につなげる可能性は開かれると思いますね。
そういった意味ではアートセラビの大半が創作を通じて、創作行為を通じて治療を実践しようとしますけれども、それは身体を強引に巻き込んでるわけですよね。
一緒に描きましょうとか、一緒に歌いましょうとか、一緒に楽器を演奏しましょうとか、そういう形で巻き込もうとする。
だけど松井さんは松井さんの技巧時代も出てきませんから、せめてハイパーリアリズム的な描画でですね、身体性を喚起するような、身体科学に直接叩きかけるような、そういう表現を意図されたんじゃないかなと。
それを受け止められる人は松井さんのように見て、それが解放につながったり、癒しにつながったり、そういった部分であるんじゃないかと思うんですよね。
この番組自体がアートが大好きで、すごい詳しい方に聞いていただいても楽しいような番組よっていうコンセプトではあるんですけど、
そもそも私自身が現代アートが食わず嫌いな感じで、もうよくわかんないみたいなところから、専門用語を使わずにこの番組をやったら、いろんな方もわかってくださるんじゃないかって逆転の発想で始めたんですけども、
なぜ一般的にはその現代アートってわかりづらいというか、言われるのかなっていう。
これはですね、多分村上さんの受け入れになっちゃいますけど、まずは第一にアート自体が、さっきもちょっと言いましたけど、言語ゲーム化しちゃっていて、アートと言っちゃったものがアートになってしまうということと、
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それからコンセプト勝負みたいになってしまっていて、そのコンセプションのものが前傾化していてですね、表現がそれに追随する的な部分、それからもう一つはコンテクスト、文脈ですね。
コンテクストアートの面白さっていうのを理解するためには、むしろモダンアートまでに至るアートの歴史の知識、その文脈に関する知識を踏まえて鑑賞しないと、今一つ面白さがわからないという部分があって、これはやっぱりどうしても選ばれた人の表現になってしまうという、ならざるを得ないですよね。
何の予備知識もなしに、もう手ぶらで言っていきなり面白かったらそれは最高ですけれども、残念ながらコンテンポラーアートの多くはそうなっていないところがあると。もちろんダミアン・ハーストみたいにサメが曲げになったりとかしたら、すげえなといきなり思えるのもありますけれども、なかなかそう単純に面白さがわからないというふうな文脈を理解していないと。
村上さんの言い方で言うとハイコンテクスト。コンテクストがぎゅっと凝縮されているので、それぞれの最小限の歴史性であるとか文脈性であるとか、そういったものを抑えていないとわかりにくいと。だから解説者が必要で、キュレーターが必要で、みたいなことがやってくるわけですけれども、そういう補助輪が必要な部分というのが大きいところが若干とつきにくさを生み出すということがあるかもしれませんね。
実際今お話がかかっていて、僕も最初には見たときにこれがアートなのって思っちゃうようなものがたくさんあって、わかる人がわかればいいみたいな、そういうもので僕も勝手に敷居を感じてたんですけれども、現代アートの伝える側の何かもうちょっとこうやって伝えたほうがいいんじゃないかとか、それか今のままでこういう伝え方である程度自分で予備知識じゃないですけど学んでやっていくしかないという現状のままでいいのか、この辺の先生のお考えをお聞きしたいなと。
僕はアウトサイダーアートも好きなんですけど、アウトサイダーアートにないのは技巧ですよね。無手勝利もいいところですから、そういった意味では技巧的な表現はあまり期待できないところもあると。むしろ今の現代アートで僕がやっぱりすごく感銘を受けるのは、コンセプト主体に見えて実はすごい技巧的に作られているというところなんですよ。
松井さんの技巧なんて本当にうっとりするような見事なものであって、とりあえずこの日本画というものを制作する過程自体が技巧の連続ですよね。とりあえず構図を作って、こじたりとか作ってですね、それから押したりとか作って何段階も同じそれこそモチーフを反復してもう重層的に作り上げていくと。その中でいろんなものが振り落とされているわけですよね。
だからトラウマの直接性とか表現していくことはできないわけです。そういった意味では技巧的なものがなんて言いますかね、松井さんはエヴァンゲリオンがお好きなんで、その言葉を書いてみると拘束具になっている。感情が激発するのを抑え込むための拘束具として機能しているものというのがあって、この見事な表現として結実していると思うんですが、松井さんがおっしゃってますけど、パッションとスキルのバランスなんですよね。
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パッションとスキルが攻めき合って、パッションがちょっとはみ出したくないが一番いい作品になると。わかりやすい表現ですね。技巧を超えるほどの情熱みたいなものがですね、ちょっとはみ出して見えるあたりが多分傑作の条件じゃないかと。私もそれは全く同感で、そういうことなんだろうと思いますし、これはパッションに限らずコンセプトに関しても言えるだろう。コンセプトとスキルも互いに攻めき合ってなんぼ、ちょっとコンセプトが勝っているあたりがコンテンポライアントの傑作みたいになるんじゃないかなと思うところもありますね。
ご視聴ありがとうございました。