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2012-02-28 08:29

vol.7-2「松井冬子さんの作品について」

『美術手帖』2月号(2012年1月発売)で、『松井冬子論ジェンダーとアートの新しい回路』を発表した斎藤氏。彼女の作品の独自性とは何か?"女性性"や"予兆"といったキーワードからお話ししていただきました。











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松井さんのお話が出たので、早速そこについてもお話を伺いたいんですけど、今回ちょうど17日から発売されたばかりのこの美術ステージをご覧になった方もいらっしゃると思いますけども、
松井冬子さんの特集で斉藤先生も松井冬子論というか書かれてますけども、改めて斉藤先生からご覧になった、松井さんと痛み、痛覚を彼女は絵画で表現しているとおっしゃってますけども、
その辺っていうのは先生はどう実際、作品も見て捉えてますかね。
松井さんはよくご自分の書かれる文章で、視覚を通じて痛みを共有させたいということを書かれてるけど、これは非常に難しいことなんですよね。
なぜかというと、痛みというのは最も共有され難い感覚でもありますし、他人の痛みというのはなかなか理解できないということもあります。
そしてもう一つは、痛みというのは傷そのものを表現するよりは、傷に対するリアクションを見せる方が共感性が高まると。
傷そのものを表現するよりは、傷に対するリアクション。
つまりですね、痛そうな傷を見せるのも大事ですけど、痛そうな顔を見せる方が。
そのリアクションしてる顔を見せるか。
痛がってる顔を見せる方が、より直接に伝わるものっていうのがあるわけで。
だから、この本にも書きましたけど、この論にも書きましたけれども、馬太友という人のエロスの涙という本があるんですけれども、
この中に中国の非常に桃太らしい刑罰、領地刑って言うんですけど、それの写真が載ってるわけです。
罪人を張り付けにして、肉を少しずつこそげ取っていくという生きているものね。
ものすごい残虐な方法で。
しかも、できるだけ長引かせるためにわざわざアヘンを投与したりするというような、領地的な刑罰があって、この写真は非常にインパクトが高いですね。
この場合は、やっぱり表情とのギャップがすごく大きいと思います。
ギャップというのは、つまり、当然苦しんでるはずなんですけれども、その刑罰を受けている男の顔というのは、どっか甲骨として見えるというか、うっとりとして見えるというか、
それは痛みの効果なのか、変な効果なのか、はっきりしないところもありますけれども、そういう部分があってですね、
それがより凄まじい苦痛感みたいなもの、最初のトラウマ的な経験と言ってもいいくらい強力なインパクトで与えてくれますけれども、
そういう意味でのインパクトは正直言って、パティさんの作品は意図されてないし、そういう脅威ではないと思うんですよ、おそらくは。
もうちょっと別の界隈での共有を目指しているということがあって、そういった痛みの直接性という点から言うと、ちょっとワンクッションあるという感じが非常にします。
それともう一つは、それは感じられないのは多分、ジェンダーの問題が、性別の問題が加わってくるというのは、つまり、私が男性なので理解できない部分とか多分間違いなくあるだろうということがあるわけですね。
パティさん自身もおっしゃってますけど、今回展示されてましたけれども、「上層の持続」という有名な絵がありますね。横たわって内臓をさらけ出している女性のね、
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死体と言っていいのか、ご本人は死体じゃないとおっしゃったり、でも今日はクソ図の中に位置づけられてますから、やっぱり死体なのかなと思ったり、曖昧ですけれども、
例えばあの顔を見ても非常に穏やかな顔で、しかもなおかつ、いつの時に見せびら返しているんだという解説が加わりますから、やっぱり直接性の痛みの感覚というのは、そこから出てこないということもあります。
さらに言うと、男性的視点から見ると、どうしても上層の持続の絵というのは死体に見えてしまうということがあって、それでも多分女性の視点から見る場合とずいぶん違うんじゃないかというふうな、
そういう印象もあるんですよね。女性的な身体に同一化できる人であれば、松井さんが表現しようとしている痛みというのは、多分もっと直接的に理解できるのかもしれないと思うんですけれども、
残念ながら私の男性の立場からすると、頭の中で理屈をこねくり返しながら、ああでもない、こうでもないと考えてしまうという部分がどうしても出てきますね。
今松井さんの話が少し出ましたけれども、この美術手帳の中にも先生が書かれた文章で、感情の創作に、彼女の創作動機には感情がある。しかし激圧する感情をそのまま画面に叩きつけても、それこそステレオタイプにしかならない。
むしろ絶頂の手前の寸止め的な目接法によってこそ、恐怖や痛みの転立は可能になるだろうとあると思うんですけれども、こうした形で松井さんの他にも、スタイルは違うにしても痛みを表現するという人は本当にアーティストがいっぱいいますか?
そもそも日本画というジャンルの中では、松井さんに表現されている方はほかにほとんどいらっしゃらないんじゃないでしょうか、というようなことをご恩に申し上げたと思いますし、日本の伝統としてはまずないだろうということが一つと、それからそもそも具象画をこういう形で描く人というのは、もうそんなに多くないという印象を持っています。
やっしゃるとしても、今はあまりにもストレートな物語性というものは軋される傾向があると思いますので、こういう苦痛とかですね、トラウマとかですね、そういったものを直接的に描いてしまうということに対する気恥かしさとか抵抗とか。
それは描く側にですね。
見る側もあまりにもストレートすぎると、ちょっとこれはと思ってしまうようなところがあると思いますので、そういった意味では寸止め的な表現というのは古典的なものには多いかもしれませんけれども、最近のアーティストにすごく多いとは思わないですね。
マトリさん自身もよく例に出すのは、バチカにあるラオコンの彫刻ですよね。あれは海蛇に噛まれてね、死ぬ物語の雲の絶頂の直前を表現しているということで、そういった意味ではまさに寸止め的な表現になっているわけですけれども、まさにそういう表現の方がこれから襲ってくる真の苦痛の予兆として、よりリアリティを感じることができると。
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そういうことを言えばですね、絵とか彫刻とかにはもともとそういう部分というのがあって、そのものを描くよりはその前兆であるとか、前兆や予兆と言いますかね、そういう気配とかですね、そういったものを描く方がリアルに表現できるというものというのはあると思うんですよね。
なんかその素人的に考えると、そのものを描くのがリアリティだってちょっと単純に言葉だけ取られて思っちゃったんですけど、そうじゃないと。
そうじゃない表現の方がより上品に見えるというのは、そのものを描くのはどちらかというとサブカルチャー的な漫画的な表現だったりするわけで、特に最近のハリウッド映画なんていうのはもうそのものを描きまくりというか、もうCGを不死してね、かつては描けなかったものを描けてしまうというのがあって、まあはしたないほど全部描いてしまうというところがあると思いますけれども、そういったものに対する金欲がむしろどちらかというと近代、もしくは近代以前の表現には豊かにあったんじゃないかと思いますけれども。
たとえばホラー映画とかでもメイクとかCGってすごいじゃないですか。だけど昔の映画ってそんなになってないけど、なんか昔のが怖くて本当にリアリティを感じたんだけど、なんかそれも近いものがあるんですかね。
漫画話なんてそういうもんですよね。そのものをいけないに描かれるよりはその痕跡をね、描かれた方がより恐ろしいと。それで思い出したのは以前別の本で書いたんですけれども、ウゲテ物語っていう怪談のがありますよね。
あれの中にキビツノカマっていう怖い話が書いてあるんですけれども、これがイソラっていう確かホラー映画になったと思いますけどね。あれの元になった作品ですけど、これはまさにお化け出てこないんですよね。
で、なんか部屋の外が急に明るくなったりとかして出てみたらすごい悲鳴が聞こえて、行ってみたら血のついた元鳥が木先に引っかかってましたみたいなそういう話なわけで、非常にそれは恐ろしいと。要するに起きる前兆と起きた後の痕跡しか書いてないわけですよね。
でもその分だけ何が起こったかというふうな、想像もつかないような恐ろしさがそこに出てくるわけですよね。そういった意味では気配を漂わせるとか、そのものを描かないっていうのはすごく高等テクニックで、古典的といってもいいテクニックだと思いますけれどもね。
今はあまり入らないかもしれませんけれども、私はご自身はどちらかというと古典思考の方だと思いますし、人物の表情なんかも非常にダ・ヴィンチを彷彿させるような部分もありますから、意図的にそれは出されているんじゃないかなと思いますけれどもね。
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