グライダーと不幸な逆説
外山滋比古さんの『思考の整理学』の新版が届きまして、またこの本を再読し始めました。
それで、読みながらですね、思いついたこと、感想などをですね、メモのつもりで話していきたいと思います。
まずはじめは、最初の2つの文章、タイトルが「グライダー」というものと、「不幸な逆説」という、この2つの文章を読んだ感想を話してみたいと思います。
タイトルがですね、最初のもの「グライダー」というんですが、これは何かと言いますと、例えでして、
何かに引っ張られないと飛べないもの、これがグライダーですね。
学校というものは、グライダー人間を訓練するところだというのが、この文章の主張です。
つまり、何かを学ぶために教えてくれる先生と、そのための教材である教科書があって、それに従って学んでいく、これをするところと。
教えられた通りにきちんと学ぶ、これができた人がテストでいい点数が取れ、また優等生ということになるわけですね。
ですが、その優等生、普通はいいというふうに評価されるわけですが、しかしそれはあくまでもグライダー、つまり引っ張られないと飛べない、そういうものなわけですね。
誰かに教えられないと学べない、そういう存在ということになります。
ということは、何か新しいものを作り出すということに関しては非常に不得意なわけですね。
すでに分かっていること、教えてくれること、誰かがすでにもそのことを知っていること、そういうことに関しては、よく知っているし、できるわけですけれども、
誰も知らないような、誰も考えたことがないような、そういう新しいものを想像するということに関してはうまくいかない、それがグライダー人間です。
それに対して自力で飛べる、それが飛行機ですね。
自分でエンジンがついていて好きなところに好きなように飛べる、これが飛行機です。
ですのでグライダー人間、これ引っ張られますから、当然受動的なわけで、どこか行きたいと思っても、そこに引っ張って行ってもらわないといけないわけです。
けれども飛行機はどこへでも行ける、自分の好きなところに飛んで行ける、そういう飛行機人間というもの、これはなかなか学校では訓練できないということになるということですね。
ですが、人はずっと小さい頃から学校で学び続けていますので、学ぶといえばもう学校というふうに思い込んでしまっている。
いわば学校信仰というものが存在する、これがよくないんじゃないかというのが外山さんのお考えだと思います。
では学校以外にどんな学びの場があるのか、学校に慣れ親しんでしまいますとなかなかそれ以外の学びの場というのが思いつかなくなってしまうんですが、でもそういう学びの場はいろいろあるわけですね。
歴史的に振り返ってみますと、かつては学校なんていうものはあまりないわけで、例えば何か武術を学びたい、剣道を学びたいというふうに思ったときには剣道のですね、武術の道場に行って学ぶ、
あるいは何か芸事を学びたいという場合にも誰かお師匠さんのところへ行って学ぶということがあるわけですが、それは昔からあるんですけれども。
でもそういう伝統的な学びの場というのは、学校のように何か先生のほうからいろいろと教えてくれる、そういったものは普通あまりないわけですね。
そうではなくて最初はなかなか教えてくれないというのが普通なわけです。最初というかずっと教えてくれないわけですね。
ですので、何かを学ぼうと思えば、先生やあるいは先輩から見てその技を盗むというような、そういう形になっていくわけです。
あるいは比較的しっかりとした学校のようなものであってもですね、例えば『論語』を学ぶような、そういう塾のようなものもあったと思うんですけれども、
でも小さい子どもはそれをですね、ただ読み方を教えてもらうだけで意味などは教えてもらわないわけですね。
非常に難しい文章なわけですけれども、意味もわからずただ読み方だけを習うと、暗記してしまうわけですよね。
そんなわけのわからないものを教えるということは、今だったら許されないことだと思うんですけれども、かつてはそういうことが当たり前に行われた。
この意味はいろいろ考えられると思いますけれども、外山さんはですね、この文脈の中で教えられないからこそ知りたいと思う、そういう気持ちが芽生えてくる。
それが大事なんだと。だから教えないことによってやる気を起こさせ、そして学びにつなげると。
そうやって自分で学ぼうという意志が生まれてくれば、グライダーではなくて飛行機になれる、そういう話なんですね。
今日ですとわからないとすぐ諦めてしまう、そういう人が増えているようですので、それがすぐにうまくいくとは思えませんけれども、
でもそういうふうになってしまったのも結局、グライダー人間としての教育をずっと受け続けたがためにそうなってしまったという、そういう側面もあると思いますので、
教育の問題点について
もう幼児教育の頃からですね、根本的に教育のあり方を変えていかないと問題は解決しないのだろうというふうに思いますが。
ということで、グライダーの話ですね、そんなところです。
次に「不幸な逆説」ということなんですけれども、それはグライダーの話の続きなんですが、
学校というところはですね、懇切丁寧に教えてくれる、そういう場所だと、そういうところで学ぶのがいいと人は思っているわけですけれども、
懇切丁寧に面倒見よく教えてくれる、いわば手取り足取り教えてくれる、そういうところがいいところだと、そういうふうに言われることもあるわけです。
大学でもですね、「面倒見のいい大学」なんていうのが売りになっているようなところもあるようです。
私が大学に入った頃、もう40年も前ですが、面倒見のいい大学なんていうのはほとんどなかったと思うんですね。
面倒見の悪い大学ばっかりだったと思います。私が入ったところもそうでした。
ですので、大学というところがどんなところなのかということ自体もですね、教えてもらうわけではないので、
実際にそこでいろいろ学んでみてだんだんわかってくる、そういうものだったわけですよね。
ですが、今はもう本当に最初からですね、4月始まる前からですね、ガイダンスだなんだといろいろありまして、
さらにですね、授業が始まってからも本当に懇切丁寧にいろいろやるわけですね。
私から見るとあまり大学らしくないなと思うわけですけれども、
でも大学ももう一種の学校になってしまいましたから、それが今は当たり前でいいこととされているわけですけれども、
でもそれは本当にいいことなんだろうか、というのがこの「不幸な逆説」というところで言っていることです。
つまり、そういうふうにすればするほどですね、そこで養成される人間はグライダー人間になってしまうということなんですよね。
これは本当に不幸だというふうに私も思います。
ということで、ではそうならないためにはどうすればいいのかというのが、この本のその後に続くわけですが、
それはまた読んでみてですね、また感じたことをお話ししていきたいと思います。
それではまた。