00:02
こんにちは、プロ社畜とサイコパスの部屋にようこそ。
ここは、プロ社畜とサイコパスの二人が、皆様から教えていただいた仕事や人間関係など、様々なお悩みついて語れる部屋です。
こんにちは、のざのざです。
こんにちは、上水悠希です。
こんにちは、アシスタントのマサです。本日もよろしくお願いしまーす。
お願いしまーす。
お願いします。
今日はなんか、フラーっと、ゆるーく、やっていければなと。
そうです。
って感じなんですが。
お悩み以外じゃないんですけど、私がちょっと、この三人で話してみたいテーマトークみたいなやつをちょっと持ち込ませていただいたので。
いいですね。
それを、私、三人でペラペラと話しできればなと思っております。
了解です。
で、えーと、テーマなんですけど。
はいはい。
助けるって何ですかね?っていう話。
助ける。助ける。
うん。
まあ、この番組、人助けじゃないんですけど、まあ、ぽいことをしてるじゃないですか。
お悩みをお寄せいただいて、それを、まあ、三人で勝手に喋って。
うん。
助けになってるんだか、なってないんだかは知らんけれども、とりあえずそれについて話すっていうことで。
助かってる人がいればいいな、ぐらいの感じで多分やってると思うんですけど。
うんうん。
えー、まあ、その番組のコンセプトにもちょっと絡めて、あの、私がよくわからないなって思ってるのが、この、助けるっていう言葉なんですね。
はいはい。
で、あの、ちょっと説明長くなってしまうかもしれないんですけど、あの、まずその、助かるっていうことはあるじゃないですか。
まあ、人が手助けをしてくれたりとかして、ああ、助かったなって、仕事上とかもあるし、まあ、日常的もあると思う。
で、自分が人を助けようとするっていうこともあると思うんです。
この人が、なんか困ってそうだから、買い物に手伝ってあげようとか、まあ、落とし物を落としてるからそれを拾って届けてあげようとか、まあ何でもあると思うんですよ。
うん。
でも、あの、助けようとした、自分が助けようと思った行為が、人の助けにならないみたいなこともあるじゃないですか。
うんうん。
えみずさんが長里選手とやってる、あの、しそふれの第2回でも結構同じようなことをしゃべってたと思うんですけど、
かえってその人を助けることによって成長を阻害したりとか、あるいはその人が助けを求めてなくて、かえって邪魔だって思われたりとか、余計なお世話だとか介入だって思われちゃうかもしれない。
はい。
助けようとしても、その人を本当に助けたことにならないみたいなこともあるわけじゃないですか。
で、もうちょっと深掘っていくと、逆にその自分は助けようと思ってないんだけど、結果的に人を助けてしまうこともある。
03:08
うんうんうん。
実は自分は何気なくやってたことなんだけれども、なんかある時に人にあなたのこのおかげで私は非常に助かっていたんだ、みたいなことを言われることってあると思うんですよ。
うんうん。
そう考えると、助けるってなんだっていうふうに思ってきて、自分が助けようとしても助けられない時もあるし、助けようと思ってないことも、助けようと思ってないんだけれども、人が勝手に助かってるみたいな時もあるし、
うんうん。
ちゃんとね、自分が助けようと思ってその結果が引き出せて、人が助かったよって言ってくれたももちろんあると思うんですけど、
うん。
それは助けようとしてその人が結果的に助かったっていう事例だと思うんですね。
うんうん。
自分が助けようという意思を持って何らかの行為をした結果、その人が助けようとしたその対象の人が結果的にその人も、あ、助かったよってなった状態のことを言うと。
うんうん。
助けようとするっていう行為と、あ、助かったっていう状態の組み合わせがあるんですけど、
うんうん。
純粋に助けるってなんだって思うんですけど、言ってることがわかりますか?
助けようとするっていうことはあるし、
うんうん。
助かったっていう状態もあるんだけれども、
うんうん。
はい。
純粋に、辞書的に持っている助けるっていう行為って、
うんうん。
現実に何を指してるのかがわからない。
思い込みを指してるんじゃないの?
そうそうそうそう。
ははははは。
まさにそういうことなの。
やっぱりそこは野沢さんが言う通り、ねえねえ、そこは別物だから。
その行為って、現実に存在してます?っていう。
存在しているか。
助けようと、うん、助けようとするっていうことはできるし、
助かったっていうところもあるんだけれども、
うん。
純粋な、なんか辞書的に一般的な形で載っている、
うんうん。
助けるという行為は、この世のどこに存在するんだろうって思う。
あのね、この解像度で語っちゃうと、
うん。
結構怒られそうな気がするよね。
世の中のさ、いろんな人たちがさ、
うん。
なんかよっかれと思って、助けようと思って、
うんうん。
やってるみたいなのがあって、
で、その助けようみたいなのは、なんか今言ったみたいに、
結果、相手が助かった、
まあ私、なんかわからんけど、先に仮定して助けるみたいなのやってるけど、
うん。
相手迷惑ですよ、とか、
うん。
帰ってダメになってますよ、みたいなこと言うとさ、
うん。
すごい怒り出すよね。
すごくあの、センシティブなところもあって、
はいはい。
例えば、あの、2024年、簡単に大きな地震ありましたけど、
06:04
はいはい。
で、最初にね、助けに行こうと思ってるんだけども、
受け入れ体制が整っていなくて、
うん。
助けに来てもらうと、ありがたいんだけど逆にちょっと困ってしまうので、
お断りしてますみたいなのも、
うんうんうん。
あるじゃないですか。
はい。
助けに行こうと思った側としては、
まあ残念な気持ちになったりするかもしれないし、
逆になんで受け入れてくれないんだ、みたいな。
助けようとしたのに、全余認じられたって思ってしまうこともあるかもしれない。
で、なんかすごくそういう問題含みな概念だな、
ずっと思ってるんですね。
うんうん。
助けるっていう。
うん。
本当にそうだと思う。
でも、実際にはやっぱりその助けたいっていう気持ちと、
えーと、まあ、なんだろうな、困ってるみたいな人のニーズと、
ちゃんとそこがマッチしないと、
その助けたい気持ちとアクションと、
そして向こうは結果的に助かったまでが一致しないから、
うん。
あの、めちゃくちゃ難しいですよ。
バラバラなものだもんね、そもそも。
助けるみたいな一言でやっぱり助けられないですもんね。
なんか、一般に助けるっていうのを全部ごっちゃに、
一括りで理解してるように思うんですけど、
うん。
でも、それって組み合わせの問題で、
うん。
いろんなパターンがあって、
助けるというその純粋な形って、なんかどこにもないなって思ったんですよね。
うんうん、ないと思う。
で、それをなんとなく助け、助けるっていうので、
えーと、助かった状態と相手も、相手からの感謝とか、
なんかいろんなものまで一つにまとめて考えて行動すると、
おせっかいだとか、邪魔だとか、
逆に助けようとした結果、
その、害をまき散らすみたいな残念な結果になりそうな気もして、
なんか、この概念厄介だなって思ってるんですよね。
もう少し厄介にさせようと思うと。
向こうに要求されたことに答える形で助けるっていうのは、
比較的成立しやすいようにも見えるんですけど、
例えば、のどが渇いたので、水が欲しい、
対象はあるじゃないけど、それに水をあげるって、
助かったってなることってあると思うんだけど、
なんか、そういう、それも時間軸を引き伸ばして長期的に見たら、
そこで水をあげない方が良かった、みたいなこともあるかもしれないから、
助けて、その場助かったのが結果、
その後水を飲んでしまったが故に大変なことになった、みたいなことも起こるわけじゃないですか。
だから、それを助けたともならないかもね、みたいなこともあるから、
もう、無限通りあるなとは思いますよね。
さっき言った、助けたいと思っている本人の行為と、
そして向こうが結果として助かったかっていう効果の部分と、
その3つあるよねって言ったけど、そこにさらに時間軸まで入れちゃうと、
無限にあるよね、みたいになっちゃって、もうわけがわからなくなるよね。
09:03
因果関係をどこに見るかだと思うんですけど、
直近でその人が困ってそうに見えるから水を差し上げました。
ただ長期的に見たら、例えば貧困地域で水を自ら手に入れる手段を、
目の前の喉の渇きを癒すっていう行為で、
自分で水を取るっていう思考を奪っている、みたいなことがあるかもしれない。
その目の前の助けだっていうことが、長期的に見て全然助けになってない、みたいなことがあり得るから、
その助けるっていう行為は本当に助けたのか、みたいなこともあり得ると思うんですね。
なるほど、ほんとそうです。
だから、なんか気軽に人助けとかっていう時に、
すごく考えなきゃいけないことがめちゃめちゃあるよねっていう風に思っていて、
めちゃめちゃ大事な指摘だと思います。
別にその助けたい気持ちとかを否定してるわけじゃないですからね。
それはすごく素敵なことだと思う。
第三者のことをもってなんかしてあげたいと思う気持ちっていうのはすごいことだな。
要は自分だけじゃない、自分が得するとかじゃないことでもやろうっていうのはすごいことだと思うんだけど、
果たして本当に相手のためになっているのか、みたいなことは結構冷静に考えないと、
なんか助けたいからそうしたからいいこと、みたいなのがあって、
ただの押し付けだったりするから結構危ういやつですよね。
家族経営とかめっちゃ多いと思うよ。
家族一般、それは夫婦もそうだし、子育てとかもそうだし、親子とかもそうだけど、
結構ね、あると思うよ。
善意で、助けるって言葉を使ってもらわないけど、善意でしてあげた、みたいな気持ちが、
相手からしたらおせっかいだとか、よくある話で、
こっちはこんだけしてあげてんのにとか、こっちは思いがあったのに、みたいなことになるけど、
相手からするとそれは迷惑なんで、みたいな、言わないだろうけどその家族にさ、
迷惑なんでとかっていうのは結構反抗期の子ぐらいしか言わないと思うけど、
でも内心を持ってるとかあると思うんですよね。
だから、助ける、みたいなのを確かにちょっと分解して、
よくよく考えて行動するっていうのがすごい重要なことな気がしますよね。
また難しいのは、例えばちょっと別の単語を考えてみたいんですけど、
答えるっていう行為は問われるっていう行為が先にないと成り立たないじゃないですか。
質問されてそれに答えるっていうセットだから、
でも助けるって別に問われるみたいな前提がなくてもできる行為じゃないですか。
12:04
だからおせっかいとか邪魔とかになってしまう可能性があるっていうことでめんどくさいのと、
あと教育は似てるんですけど、相手が教育を求めてなくても、
ある程度強制的にパターナリスックにできる部分があるんですけど、
助けるってそういう対等な関係とかでもできちゃうんで、
立ち話を利用して強制的に助けるみたいなことが難しい。
使いどころが助けようとしているその人にめっちゃ依存するみたいな感じでめっちゃ難しいなと思う。
そうね。
なるほど。
っていうので助けるときに何を考えていかないといけないのかっていう。
あとビジネスとかだと、助けるという言葉で歌詞を作ってるみたいなのもありますからね。
あそこで助けられてしまった形が作られたばっかりに、いざという時に返すといったあれだけども、
無理難題に答えなきゃいけなくなっちゃったみたいな仮を作っちゃったみたいなのから、
全然助けられてないとかもあるし、マジで助けるって嫌だね。
助けられてしまったとかって全然助かってないですよね。
そうそうそうそう。
はめられたに近いですもんね。
そうそうそうそう。
だから相当確かに改めて考えると危うい言葉ですね、助けるって。
助けたいとか助かったってその気持ちの部分ってすごい美しいのにさ、
なんか行為が伴うとむちゃくちゃ恐ろしい言葉になるね。
そう、なんかああいうケースがめっちゃあって、大きく分けただけでも今お話ししたようないろんなケースがあるんで、
まあ本当に無限にあると思うんですけど。
なのでこういう難しい事情があるにもかかわらず、人を助けるには何を考えておかないといけないんでしょうかって。
ああ、確かにね。
でもやっぱり結構自己満足なところが大きくなるんじゃないんですか?
うん。助けようとするっていう場合はそう。
でも自己満足をするがために邪魔をするかもしれない。
その人の成長の機会を手先助けてしまうことによって奪うかもしれないみたいなことを考えた上で、
それでもあなたは今その場面で助けますかみたいなことを考えておかないといけないような気がする。
あ、確かにそれはそうですね。
それでもあなたは今の自己満足のためにあなたはその人を助けますかみたいなことを考え始めると助けられなくなるんですよ。
15:02
だからやっぱりちょっと怒られるかもしれないけど、助けるっていうその言葉が出てくるというか、その態度がもう傲慢だよね。
助けれるなんて思ってるところがさ。
助けたい気持ちで行動しましたまではギリギリわかる。
でもそれが助かるかどうか保証されてないじゃん。助けたい気持ちで行動しましたはいいんですよ。
でも助けるっていうのでやりましたは傲慢だなっていうことになっちゃいますよね。今日の話で言うと。
なんで相手が助かるって保証があるんですかってことなのかな。
私は助けようと思ってこの行為をしたが、あなたが助かるかはあなたとその環境の周り次第なので、私が助けるか助けられるかどうかは総合的に勘案した結果判断いただきたいみたいな感じになります。
そういうことですね。
そういうことだと思う。
だからこのシャーチコパスもお悩み相談に真剣に答えてはいるんですけど、助けるとかではやっぱないと思うんですよね。
一生懸命考えましたみたいな感じだから。
番組の概要欄にもね絶妙な感じで書いてあるんですよ。
お悩みについてお話しするみたいな感じにフワッとした書き方で解決するとは一切言ってないっていう。
そんなスタンスを反映していてこの番組になった。
そうですね。もっと言うと何でもない雑談に学びになるとか救われるっていう人も方やいたり。
それは別に救う気もなければ学びを提供する気もないようにそう思う人がいたり。
方や面白い話だと雑談しててもすごく不快になる方がいたりみたいな感じで。
そのもう受け取り手のことっていうのはコントロールできないんですから。
助けるってやっぱ傲慢な言葉の漢字が付いてますよね。
検討すればするほど。
そうなんですよね。ただね、もちろん助けようとすることはボランティア含めですけどすごくいいことだと思うんで。
それを全て傲慢だって切り捨てるのもまたそれは傲慢に思えてしまうので。
だから助けたいという気持ちは美しいんですよ。で、そこでアクションするってことも美しいんですよ。
ただ助けるってなってると本当に助けられるんですか?みたいなところになっちゃうなっていう話。
なんかつくづくめんどくさい概念だなって思って。
いやー思いますね。なんかそうね。便宜上言うみたいだったらいいんですけどね。
18:03
例えばそれこそ火事が起こってて火の中に人がいる。助けに行きます。助ける。
確かに助けてる感じするなって思ったらさ。助けるだなって思うんだけど。それぐらいの分かりやすい。
崖に腕一本で捕まってる人を私は引き上げて助けるとかね。
明らかに助けようとするっていう行為と助かるっていう明確な結果が直接的に繋がってたら非常に分かりやすい。
それ助けようとしてるよねって思う。
レスキュー系とかも分かりやすいけど。もうちょっと変数が増えてくるものになってくると。
時間軸とか影響する人の対象範囲とかいろんなことを考えると。
その助けようとした行為の結果でいろんなことが起こるので。
確かに。振り返るとある意味ふわっとした言葉ですね。助けるっていうの。
そこの他者の巻き込み具合みたいなのがあるから。
それによって助かると信じて行動していますぐらい言えたらめちゃくちゃいいんだけど。
それは自分の信念としてそうだったからいいんだけど。
助けるになるとやっぱり相手のリアクションまでセットにして動いてる感じがするから。
難しいね。
今まで何気なくそういうふうに意識せずに使ってたみたいな人もいると思うから。
それが傲慢だと言ったわけじゃないんですけど。
この話を聞いて尚ね、助けるという時には相当な覚悟を持って言わないといけないことがなってしまいましたよ。
そこまでは言いませんけど。
誰を助けるのかっていう助ける対象論。明確化。
今この行為をするにあたってはこの人を助けようと思ってるみたいな。
今この時点の苦境から作ってあげることを目的として私は助けようとしているみたいな。
明確化というかした上で、助ける目的をあらかじめ設定して、
その目的で私はこの行為をして助けようと思っているみたいなことを考えた上で、
その目的以外の例えばそのさっきの成長の機会を奪うみたいなことは考えません。
それは一旦そういう副作用みたいなものがあるかもしれないけど、
今この助けるという行為のためにそれは無視しますというか。
この副作用を認識した上で、それは今目の前の助けるという行為のために犠牲にするみたいなことを把握した上で、
それでも開き直って私はこの人を今助けるんだみたいな。
そこまで考えてやる必要があるかは別ですけど、
本当に何か突き詰めるとここまで考えないといけないような気がするなって。
というのを考えた上で助けるって言葉を使っていると、おそらくそれが滲み出るから大丈夫そうですね。
21:05
助けるって言ってるけど、その辺の考えがちゃんと及んでるんだろうなみたいな。
あとは助ける人に対して、今私はこの行為であなたを助けようとしているんだけども、
その行為によってあなたの将来的な成長の機会を奪うかもしれないけれども、
今助けるよみたいなことを言うかどうかですね。
一個一個確認していくんですね。
そこまで日常的にやってると変な人だと思われるんで、それとなくやるってことでしょうね。
そうね、言う言わないは別として、それぐらい考えて、
その助けたい気持ちを行動に移すときにってやつですよね。
そんなこと言ってたら助けられなくなっちゃうみたいなのもあるから難しいですけどね。
いろいろ考えすぎて行動できなくなって。
僕完全にそれですからね。
基本的に他者に干渉する、明確に意思を持って干渉するみたいなことを、
用法度じゃないとやらないっていうか、なるべくやらないように気をつけてるから、
意識的に助けるみたいなこと、助ける行為を自分から、
助けたいという気持ちで何か行為をするみたいなことがほとんどないんですよ。
もちろんなんか、これ手伝ってとかって言われて答えるみたいなことはあっても、
あんま困ってそうな人に、なんかめちゃめちゃ助けたいみたいなことは行動しないんですよね。
それをね、肩から見てると冷たいって思う人がいるかもしれませんけど、
そうじゃなくて、あえて助けてないんだぞっていう人も結構いるような気もしますよね。
みみずさんみたいな感じの、サバンナ思考の。
詳しくはシスフレのシャープ2をお聞きいただきたいんですけど。
そう、結果放置みたいになっちゃうんだね。
現れてくるものと考えているものの帰りとかもあって、めんどくせえなって思います。
そうね。
っていうのをずっと肌こだ考えてたんですけど、今回お話できてよかったです。
そうだね、そこの基準めっちゃあるんだろうからね。
やっぱり、まさくんが途中言ったけど、自分がやっぱ決めてるラインなんだろうなと思いますよね。
これぐらいだったら大丈夫そうみたいなことを助けないみたいなさ、あるじゃん。
例えば、ちっちゃい子が道路にいて引かれる。
まあしょうがないなとならないから、そこを助けると思うんですよ。
助ける、だと思うんですよ。
だけど、同年代の会話も通じる、知的にある程度思考が同等にできそうな人が
うまくいってないみたいなのを見たときに、自業自得だなとかって思うみたいな。
24:01
もちろん会話レベルではこうなんじゃないみたいなことは言うけど、
本当にその人がよりまずい状況になっていくのをやめとけって言って、
もっとこうしろよとかっていうエネルギー持っていくかっていうと、
まあ本人の意思だしねって思っちゃって、助ける方向って言ったら変だけども、
本人が苦しまなくて良さそうな方向に、なんか機動修正手伝おうみたいな気にはならないんですよね。
しょうがねえなみたいな。
私もまあどっちかっていうとそっちのタイプで、自分に危害が及ばない限りはもう相手の自由みたいな感じで考えがちなんですけど、
まあ取り返しがつくかつかないかみたいなのが一つ基準になるかもしれない。
さっきの事故とかはわかりやすい例ですけど、それを助けなかったことによって、
もう取り戻しのつかない状態に行ってしまうみたいなことがあったときは、
まあ基準にはなるかもしれない。
まあいろいろある基準の中の一つという意味でしかないと思うんですけど、
っていう、めんどくさいなあって。
めんどくさいよね。
助けるにあたっていろいろめんどくさいなあって。
そこを他者に干渉するみたいなことが、すごい加害的とか、
ちょっと暴力的に移る時代になってきてるのもあるなとも思うし、難しいよね。
そうかもしれないですね。
助けるみたいなのを安易にやりづらい時代かな、みたいな。
助けたいからそうしたんだ!みたいなので、
許されることもあるけど、許されないことも結構増えてきたなって気がするというか。
要は助けるために、助けるためにまさくんをぶん殴るとかいうことをさ、
例えば昔だとしてたと思うよ、昔のノリだと。
でも今さ、殴っちゃダメでしょ?とかなるじゃん。
だって良かれと思ってやってるわけだからね。
そっちの道行ったらダメだろ!つって、すごいエモい先輩みたいな、
ぶん殴るみたいな。あったでしょ?昔は。
今もどっかの町とかで、田川とかであるかもしれないですけど、
嫌ですよ、殴られたらやっぱり。
じゃあ、まとめるとこの番組は助ける番組なので、
いろんな人のお悩みを聞いて、引き続きいろんな人を助けていきましょう。
はいって言いづらいんだよな。
この番組では皆様からのお便りをお待ちしております。
仕事、恋愛、家族の悩みなど何でも大歓迎です。
お便りは番組の概要欄のメールフォームからお寄せください。
またSpotifyやiXで番組をフォローしていただけると、更新通知が届くのでぜひお願いします。
番組の感想はハッシュタグ社畜バスでポストしてください。
27:02
それではまた次回お会いしましょう。ありがとうございました。
ありがとうございました。