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お聞きの皆様、おはこんばんちは。現役リフォームプランナーの寸尺かんなです。
不動産界の続きになります。前回までが、結局、民間事業者が主導して事業開発、住宅開発及び供給を行ってきたために、
結局、国が正しく介入していなかったために、バランスが悪くなったのではないか、というところまでお話ししたんですけれども、
実際には政府、国は、住宅供給開発には、もちろん公的に介入してきてるんですよね。
なんですけれども、それがどのように今のような状態になっていったかという話を、今日はさせていただきます。
まず、明治時代に時を遡って、この当時の近代化していく日本の中で、農村部からどんどん都市部、東京、大阪を中心にした都市部に人がどんどん流入してくるようになったんですよね。
一気にここで、住宅が足りないという問題が出てくるわけです。
さらに、まず第一次世界大戦も起こりますね。これによって、いよいよ都市部での住宅難はさらに悪化していきます。
次には、世界大恐慌ですね。これも起こって、1929年ですね。この煽りも、当然日本は受けて、ここでも非常に大変な大不況になって、
これが結局は第二次世界大戦の原因となっていくわけですよね。
この中で、慌てて都市部に軍事工場をどんどん建てなければいけないということで、鉄工場とかそういったところをどんどん建てていくということが行われて、
いよいよ、さらに働く人を確保するために、住宅はもっと作らなきゃいけないということで、
これは大支給をやらなければいけない事業になっていったんですよね。
なので、戦争が住宅の供給に果たした役割というのはすごく大きいんですよね。
とにかく軍部からの強い要求によって、住宅政策というのは急務になっていくわけですね。
ここで、もうこの5年間のうちに30万戸住宅を供給しろみたいな、そういった計画も立てられて、
なるべく安い金額で労働者が住めるように、家を作れみたいな指示はあったんですけれども、
結局、第二次世界大戦の後ですね、日本は負けて、この住宅事業はGHQによって閉鎖されるわけですね。
この時の、いろいろやりかけていた住宅は全部、すごく安い金額で払い下げされました。
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このね、日本が敗戦後は、もう住宅供給の意味合いが変わってきてですね、
今度はですね、戦災で家を失った人たちのために、とにかく住宅を供給しなきゃいけないという風に意味合いが変わるわけですね。
1951年から公営住宅の建設が始まります。
この時にですね、建設省と厚生省、この2つの異なる省が共同で、この住宅開発を始めるんですよね。
これがね、結構ね、面白くてですね、この建設省の方は普通の住宅を供給しようとしたんですよね。
でも、この厚生省、こちらの方はですね、やっぱり戦争から引き上げてきた人の、
供給している、困っている人たちのために、低家賃で住宅を建てようという風に思ったんですよ。
この2つの省は、だから同じ住宅事業であってもね、全然だから考えが違うんですよね。
普通の住宅を建てようとした建設省と、どちらかというと、非常に弱者のための、困っている人のために、
福祉的な意味合いで、家を建てなければいけないと思っている厚生省というね、この2つの全然、住宅における考え方が違う省が共同して、この住宅事業をやらなければいけなくなってしまったんですよね。
でも結局ですね、ここはいろいろバトルしながら、いろんな公営住宅を考えてですね、結果的にはですね、やっぱり支払い能力がある人が入居するようになってたんですよね。
だからもともとは、困っている人も入居できるものであるべきだったんですけれども、一定の支払い能力がある人が入居できるようなものに、ちょっとね、やっぱりなってしまったんですよね。
これは、実はですね、すごく住みやすい価格設定にしてたんですよね。
高い、全然高い家賃じゃなくて、手頃な家賃にちゃんとして、誰でも住めるようにした結果がこうなったっていうのが面白いところで、結局ね、このリーズナブルな値段で借りれるということでね、いずれもっと良質な家を自分たちで買いたいと思っているね。
ある程度収入がある人たちが仮の家としてね、住宅都合6ですよね。住宅都合6の始まりの方で、まずはスタートとしてこういう家に住むという層の人たちが住むようになったんですよね。
結果、底辺の人たちがちょっと置き去りになったという側面があったみたいです。
でも、戦後からずっと20年間順調に公営住宅っていうのは、需要を広げていってたんですけれども、この意味合いがぐっとね、突然20年経った後、変わってくるんですね。
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この理由が高度経済成長期になるんですけれども、この利便性の高いエリアの建設がだんだん、どんどん建って場所がなくなってきて、それ以上建設することが難しくなってきたわけですね。
そうすると都心から離れた場所に開発するしかなくなってきて、そうなると、中間層のお金がそこそこある人たちにとっては、都心部から離れたところに建っている家になるので、魅力がないっていうことでね、結果、みんなからあまり支持されないものになっていくので、建設されなくなったということが一つと、
もう一つがですね、どんどん高度経済成長期になって、所得が上がっていったにも関わらず、入居基準の収入額をね、結局引き上げなかったんですよね。引き上げなかったせいで、結局、所得が低い人が住むようなものに変わっていったんですよ。
そうなるとですね、この地方自治体は、この公営住宅の供給というのは財政負担になっちゃうんでね、あまり所得が低い人が住む場所をいっぱいあっても、これ財政負担が増えるばっかりになるんでね、これだともうメリットがないっていうことで、建設数を減らしていったということになって、結果、この公営住宅っていうのはどんどんどんどん数を減らしていくということになりました。
こうして徐々にね、高度経済成長で、どんどん経済力が上向きになっているメインストリームの人たちは、この公団住宅、公営住宅ですごめんなさい、公営住宅から切り離されていったんですよね。
代わりにここで誕生してくるのが、我らが団地です。私が大好きな団地がここで登場してまいります。
これは政府による出資でですね、大量の住宅を供給できるということで、どんどん開発が盛んに行われた住宅のスタイルなんですよね、団地。言わずと知れたものだと思うんですけれど、これの一番大かかりなものの一つの例が、千里ニュータウンですね。
これは1960年に着工されて、今もあるんですけれどもね。これはですね、本当にね、日本初の鉄とコンクリート、鉄筋コンクリートで作られた本格的な集合住宅。
しかも中身はですね、西洋式の間取り。今まで和室を中心とした間取りだったのがですね、ここで西洋式のちゃんと寝宿分離って言うんですけれど、ご飯食べるところと寝室をちゃんと分けるという西洋式のスタイルが踏襲された住宅が誕生するんですよね。
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今では考えられないんですけれど、当時団地っていうのは本当に大人気、最先端の住宅だったんですよね。でもとにかく抽選ですごい倍率だったんですよね。何十倍だったかな、40倍とかすごい確率で、当たった人は本当に天にも昇る気持ちで入居したというふうに言われていますね。
最近ですね、NHKのドキュメント72時間でしたっけ、この番組は時々シリーズでやっているすごい面白いドキュメンタリー番組で、3日間同じ場所にずっと滞在して取材するという番組なんですけれど、
ここで千葉の花見川団地の取材をしていたのがすごい面白かったですね。ここは昭和43年に建てられた巨大な団地群なんですよね。7000世帯あると言っていましたね。
ここが当時いかに最先端な住宅地だったかということで、今もずっと当時から住み続けている高齢者とかがいたり、また新しく住み始めた外国人の方とか若い人とか。
あと面白かったのが、定年して夫婦で70代ぐらいのご夫婦が、家賃が高々45,000円とかそんなんなんですよね。夫婦2人お元気で一緒なんですけれど、夫と奥さんが全く別の部屋をそれぞれに住んでいて、でも仲良く週に2回デートしているみたいなことを言っている夫婦が住んでいたり、
若い都市部で働いている女性がここに住んでおしゃれにリノベーションしてスタイリッシュな住まいにして住んでいたりとか、すごい面白かったですね。
とにかく、私は何回かリノベーションしているんですけれども、めちゃくちゃ大変なんですよ。やっぱり昭和43年、1960年代の後期ぐらいに作られ始めたこの団地も50歳以上ですよね。
だからもう至る所がガタ来てるんですけれど、それは面白いんですよね。やっぱり魅力的ですよね。こういったところを上手く活用していい住宅地にしていくという考え方もありますよね。
とある関西圏の大きい団地群があるんですけれど、ここがどんどん仮想化されているというか、若い人がいなくなって、本当に昔から住んでいる高齢者だけになってきて、どんどん歯抜け状態になっているので、
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自治体によってはこういった団地リノベーションみたいなのを大々的にやって、若い人をまた新たに取り込もうとしている活動をしているんですよね。これ私はコンペに出したんですけれど、
あいにくその時は建設業許可というのがあって、建設できる工事ができる規模があるんですよ。会社の規模とか申請によってね。
うちの会社はその当時まだ建設業許可の一番大きい工事ができる許可を持ってなかったので、結局コンペ落ちちゃったんですよね。今はできるんですよ。今はできるんですけど、コロナとかで団地リノベーションのプロジェクトとかまだ行政がやり始めてないんですよね。
だからまたこういうのが始まったらぜひ参加したいなと思うんですけれど、こういうところも今若い人たちとか、また私もですよ。私もこれからお金が本当に困ったら、こういうのも楽しく暮らしていく一つの知恵だなと思うんですよね。
贅沢しなければ、いろんな選択肢があって、しかも決して惨めなものではなくて、楽しく豊かに暮らしていけるんじゃないかなと思って、団地にはちょっとある種の希望を感じてるんですよね。
これもう古すぎるんじゃないかとか、いろんな議論があるんですけど、一応技術的には80年は持つとされてるんでね。本当は100年でも持つようには立ててあるんですよ。
しかもいろいろ耐震補強したりとか、いろいろ手も加えてますので、こういったところをうまく活用して、そんなにお金がなくても生きていく方法はいろいろあるんじゃないかなと。
その受け皿として団地っていうのはこれからもう一回脚光を浴びていくんじゃないかなというふうに私は思っています。
というわけで、団地の話で今日はもう15分近くいきましたので、続きはまた次回とさせていただきます。ごきげんよう。