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はい、始まりました。アートテラー・とにがそろそろ美術の話を。
この番組は、私アートテラー・とにがアートに関わる方をゲストにお迎えして、
トークを繰り広げるボットキャスト番組です。
今回は前回に引き続き、写実画家の塩谷亮さんをお迎えして、
ご自身や作品の話をしていきたいと思います。
ということで、前半お疲れ様でございます。
お疲れ様です。
どうでした、前半やってみて。
いや、こんな喋るのが喋り下手なのに、すいません。
そんなことはない。流れるような押し込み。
後半ではさらにプライベートな、前半でも結構プライベートな話が出ましたけど、
より掘り下げていきたいと思います。
改めて、いつから美術に興味を持っていましたかという。
まあ、あれですよね。図工ですね、やっぱりね。
小学校とか?
幼稚園かな、やっぱり。
もう、描くのが好きだったんですか?
もう、やっぱり描く、絵を描くことばかりで、インドアな。
そこは遊びに行かなかったんですか?
まあ、子供なりに遊んでたんですけども、やっぱり一番楽しいのがお絵かきでした。
それ何描いてたのか覚えてますか?
覚えてます。
どういうの描いてたんですか?
あの、幼稚園の年賞とかドラえもんですよね。
ああ、アニメとか漫画とかで見たもの?
もう、母が言うには、ドラえもんがハットリ君ばっかり描いてたとは言ってました。
それ好きだったんですか、ドラえもん読むのも。
読むというか、アニメですね。
まあ、誰もが通る感じのアニメの絵を描くと。
そこからどうやって、まあ、でもそういう子供は結構いるじゃないですか。
そうですね。
もう、さらにずっと小学校入ってもずっと絵描いてたんですか?
あの、図工の授業で、よく、なんか、空想画家とか言われるとすごくダメだったんですよね。
写生とかはいいんですか?
そう、だから、理科で朝顔を描きましょうとか、ヘチマを描きましょうだとものすごい楽しくて。
もう、ヘチマのつぶつぶとか、おしべめしべの数とか全部観察して、ビャーって描くんですよ。
そこまで求めてないですよね、理科的には。
全然求めてないです。
じゃあ、みじんことか、その顕微鏡で見たやつとかも、すげえ描きたいタイプなんですかね。
ああ、そうかも。
でも、じゃあ、図工の時間になんか、自由にやってくれみたいなのは、あんま得意じゃないですか。
うん、やっぱり、例えば何か想像して描けとれるとすごく悩んじゃって、想像力のない子供でしたね。
それはずっとそんな感じだったんですか、小、中、高?
小学校の時に、小学校3、4年生の時の担任の先生が、よく2年間持ち上がりとかなんですけど、2年間で1回も宿題を出さないということで有名な先生だったんですよ、学校で。
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当たりの先生ですね。
当たりの先生なんです。その当たりの先生に3年になって、みんな喜んだんですよ。
そしたら、最初の日に、2年間宿題を出しませんが、2年間毎日日記を書いてきてもらいますと。
宿題より得意っすね。
そういうセンスだったんですね。
日記って言っても、大学ノートみたいなやつに、本当にもう…
短くてもいい?
短くてもいいと思います。なんかちょこっと書いて。
僕はそこに鉛筆で差し絵を1回書いたら、差し絵なんか書いてる子がいなかったんですよ。
それでそれを朝提出すると、先生が就業時間までに読んで、コメント書いてくれて返されるっていうシステムで。
その差し絵を書いた時に、みんなに見せて、正谷くんの差し絵見て、すごい面白いでしょ、みたいなことを言ってくれて。
それで、絵を書いていいなと思って。
良い先生に出会ったんですね。
その先生は趣味で油絵を描いてて、っていうのもあったんですよ。
だからすごく絵が大好き。
でもその先生が見る目がなかったら、逆のパターンもあるわけでしょ。
差し絵がすごい下手な子で、先生が読まれと思って、見てみてって言ったら、クラスメイトが、なんだあれ、キャハハみたいになったら、もうアウトですよね。
恥ずかしい思いした。
でもそこではみんながすごいって言ってくれたわけですよね。
きっと、確か。
それは結構後押しになったという。
実はすごいなって、その後、白黒の鉛筆があったんだけど、その後色鉛筆で色付き始めた。
その後に先生が、翔太の絵を色付けてるよ、見てみてって言って、みんな色付き始めるんですよ、描き始めた。
次第に、僕も文章力ゼロだったので、本当に内容は面白くない日記なんですよ。
今日ダレダレ君と遊びました。とても楽しかったんです。2行みたいな。
中学生らしいですね。
その残りの10分と10分の7ページぐらいが絵なんです。
どんどん逆転していったんですね。
ほとんど絵みたいな。
でも毎日描いたんですか?
それを毎日、冬休み、夏休みも描くというのが課題だったので、しっかり宿題じゃないかと言いたいけれど。
でもそこで、僕はもうとにかくその日あったらできることを絵に描くんだけど、
例えば、台所で何かしているシーンがあるんですよね。
そういうのは必ずその場に行って、テーブルとか床とか家具とか全部描くんですよ。
もう原型がそこにあるんですね。
自分がアニメチックなのは下手な絵だけど、自分も登場するんですよね。
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その時は必ず自分の服とか靴下の柄まで全部描くんですよ。
そうすると、ずっと後に母がその日記を見ると、本当にその頃どんな服を着させていたか、もうすごい思い出すって言われて。
もう写真ぐらいの感覚があるんですよ。
それって今も残っているんですか?
ありますよ。
それはまだ北京美術館に出していないんですか?
北京美術館には。
でもいつか塩谷漁展に行ったら絶対それは展示されますよって。
そういうのあるじゃないですか。
だから子供もこんなに描いてましたよ。
でも本当に原点みたいだったし、毎日やらされてたっていうのはデカいですよね。
だって訓練されてるようなものですもんね。
本当に訓練って言ってもいいし、しかもそれを先生が褒めてくれるんですよね。
しかもちゃんとやった人だったわけですもんね。
それは嬉しいですよね。
やっぱり調子に乗りますよ。褒めてくれると。
3年4年ずっと描き続けて。5年で続けたんですか?
いやいや、すっぱり辞めました。
それはもうそこなんですね。
それはやらされてた感がありますよ。
じゃあどこで職業、画家になろうというか、その進みはどこに行ったんですか?
画家っていうのはもうちょっと後ですけれど、やっぱ祖父の影響がすごいあって。
祖父は新聞記者で、最後は週刊産経っていう雑誌が昔あって、そこの編集局長もやってたんですけど。
とにかくそういう仕事から、例えば画家のアトリエにも、こういうアトリエにも行ったりとかしたんですって。
僕はもちろん話に聞くだけなんですが。
祖父がだから、とにかく僕が絵なんて描いてるってもうすぐ喜ぶんですよ。
祖父自身も趣味は絵とクラシック音楽と歌舞伎みたいな人で。
文化系なんですね。
文化系で、僕はとにかく歌舞伎には連れて行くわ、いろんな美術館に連れて行くんですよね。
正直もう歌舞伎も難しいというか、子供にはちょっと分からないし退屈だったし、
美術館も好きだなと思う絵もあれば、なんか辛いなという点なんかもあるんだけど、
でもそうやってすごくあちこち連れて行かれて、
そこで僕は5年前の時に、5年だと思うんですけど、竹橋の近代美術館で松本駿介展をやってたんですけれど、
そこに連れて行かれた時にものすごく好きになっちゃったんですよ。
松本駿介の?
松本駿介の。
特に松本駿介って、ちょっとシャガール風のイメージ的な時代があったりとか、
ワイシの橋っていうシェイプとした風景が。
都市風景画みたいな感じですよね。
都市風景画の方が好きで、やっぱり枯れてますよね。
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茶色いね。
しかも27歳くらいで亡くなってるんでした。
耳が聞こえない。だからちょっと静寂なというか、
明るいか暗いかって言ったら、暗い画家ですよね。
やっぱり小学5年生が、わーこの絵っていうタイプではないですよね。
多分今思えばそう思うんだけど、当時の自分はものすごい惚れちゃって、
画集なんて子供だから買わないけど、そのチラシ、今でも大事に捨てなくてずっと。
そんなにカルチャーショックというか、ビビった人なんですか?
油絵らしいんですよね、橋の絵って。
絵の具がぐわっと乗ってて、そこに茶色いグレーズというんですけど、
透明色がぐわっとかけてあって、本当に石の日のような質感が出てるんですけど、
それがすごいかっこよく見えたのと、風景が好きだったので、
松本駿介で本当の油絵を見れたっていう感じが。
だってそれが一番最初じゃないわけですもんね、いろんな点なんかこれまでも見てて。
美島のビュッフェ店とか、美術館はよく何回も行ってて、
ビュッフェは僕は好きじゃなかった。
サフがすごい好きだったみたいな。
僕も結構好きだったよ、ビュッフェ。
かっこいいんですよ、ビュッフェって。
あと全然関係ない話かもしれないけど、ビュッフェってサインめちゃめちゃでかいんですよ。
作品に対するサインでかさランキングってやったら、たぶん1位だと思うんですよね。
主張してますね。
あんなに主張する人いないですからね。
そこがロックだなって思って。
僕はロック派なんでね。
シンガーソングライター好きなのと、そうじゃないんだよみたいな感じになるんじゃないですか。
もっとね、静かに。深い目に行こうよ。
でもそこからもう美術館、美術の好きな。
もちろんそういうことで、もともと絵が好きだから一瞬つけに行っちゃったんですけど。
僕中学に入って、そういう今までの暗い自分が嫌で、中学シリーズだったんですけど、
中学入ったらテニス部に入って、もうイケイケだぞとか思って。
妖怪になろうと思って。
妖怪になろうと思って。
全部ね、ラケットやらユニコーンっていうか全部揃えてもらって、やる気満々で入ったんですけど、3ヶ月で退部して。
それは何があったんですか?
ちょっと中二の先輩と喧嘩しちゃって。
もうやってらんなかった。
それで美術部入っちゃったんですね。
12:00
いや別に入っちゃったんですね。
テニス部じゃなかったら他のスポーツではなかったんですね。野球部とかサッカー部とか行こうじゃなくて。
美術は好きだったんですか?
もちろんなんですけど、そこから何とか抜け出したくて。
そっかそっかそっか。
こんなはずじゃなかったんですか?自分なりに。
いやーだけどね、あの時喧嘩した先輩がいるんですけど、高木先輩って。
名前が出てきて。
すごい理不尽なこと言うんですよ。
何を言われたんですか?
まあなんて言うんだろう。
こっちはほら中一でね、テニス初めてやるから、いろいろ聞いて聞きたいわけですよね。
ミーティングなんか教室でミーティングしてても先輩たちは教団で見たくて遊んでて全然話にならなくて。
先輩なんだからしっかりしろよみたいなことを小声で言ったっぽいんだけど一番前に座ってたから聞こえちゃって。
心の中で漏れちゃったんですね。
もうわーって胸から掴まれて、お前も一回行ってみろーとか言われてて。
男子校だったんだよね。
そっか。
それ以来にもいろいろあったんですよ。
あったんですね、火種になるような。
弾拾いして拾ったらそれまたバーって投げられる。
あーもう理不尽なことが。
そういうことじゃない。真面目にテニスっていうのを知りたかったのにそういう雰囲気じゃなくて。
でもとりあえず3ヶ月持った方ですよね。
本当は1ヶ月しか出てないです。
残りの2ヶ月は体育の顧問の先生がもう一回考え直せとか言って、体育届を何回も戻されちゃって。
ついに申請が取ったのが2ヶ月後なんですね。
夏休みに入った時に言ったんですよ、勇気出して。
どうしてもダメなんで、辞めさせてくださいって。
僕も部活で言うとバレエ部だったんですよ、中学校で。
僕運動神経ないんですよ。
全然なくバレエ部で。
それは1年の時の担任の先生がバレエ部で、2名の5人しかいないからバレエ部だったらレギュラーになれるぞって先生が言ったんですよ。
当時もサッカーとかバスケみたいなやつだから。
じゃあバレエだと思ってバレエ入って。
圧倒的運動神経ないから。
結構入っちゃった。
それで1年で13人入ったのか。
何人か辞めて、最終的に14人になったんですよ、3年の時。
レギュラー12人しかいないんですけど。
僕はもう頑張る人ではあったんで、2年の時に自修練1人でやってたんですよ。
そしたら3年になった時、その1年の時に担任が2年もやってたんだけど、
こいつはもう何にもできないですよ。
バレエも詳しくない。
こいつのせいで入ったけど、結局レギュラーにならない。
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1人頑張ってたら、3年の時に一番市内の共謀校だったチームの学校の顧問がこっちに来たんですよ。
その先生で1発目に、今までのレギュラーをもう1回1から考えるからみたいな。
今まで2年の時レギュラーだと思って、3年になってレギュラーになると思うなよみたいな。
よし、これはチャンスだ。
で、その日に僕だけ呼ばれたんですよ。
大山ちょっと大事な話があるって。
やっぱり分かる人は分かるんだと。
さすがにやっぱりなるほどみたいな。
それまでのやつがダメだったんだ。
で、喜んで職員室に行った。
一応14人のレギュラー、14人の3年の順位、学力見たんだけど、お前一番いいな。
一応頭良かった。
だからなって言って、スコアブックを渡されたんですよ。
お前今日からスコアラー。
お前なら覚えられる。
俺もう3年になったらスコアラーとして部活行くことが決定するっていう。
一応そのおかげでベンチに入れた。
時刻みたいな感じでした。
だからもう運動神経なさすぎて。
だから中学校3年の時にはもう一切ユニフォームを着ることなく、スコアラーとして1年半年続けるみたいだった。
努力が報われないんだ。
卒業アルバムに俺だけジャージで、みんなユニフォームなのに。
そんな感じですね。
ちょっとブラザボーが嫌な思い出が。
あんまり聖谷さんもスポーティーな印象ですけど、あんまりいいと思う?
あったりで。
あったりでいい。
あんまり体育の時間とかも苦手でした?運動は。
もう苦手なものは体育。
僕もです。
球技とか苦手じゃないですか?
球技一番ダメです。もうついでいけない。
球技苦手な人あるある僕の中であるんですけど。
授業中とかでサッカーとかじゃないですか。
その時に一応参加しなきゃいけないから、絶対パス来ないなって時にパスパスってなるべく言うんです。
あれ?本当にパス来たら嫌だから。
普段は黙ってるんだけど、このタイミングは来ないだろうってところでパスっていうことによって一応参加してるフリだけをするっていうのは僕はテクニックで覚えました。
そんなのなかったです。
ちゃんと発言するだけないんですよね。
しないんですけどね。
逃げてるだけ。逃げ惑ってる。
そんなにだったんですね。
それでどこのタイミングで、中学校で美術部に入ったらそのままエスカレーター式に美術の道に行った感じですか?
いやいや、やっぱりそれでももう、ただね、やっぱりそこで初めて油絵を実際に自分でやって、もうそれは楽しくて、とにかく放課後の絵を描くために学校行ってた感じでした。
じゃあ先輩もよかったんですか?
先輩がすごかったですね。
いい人だった?
18:00
体育会系でね。
塩谷に肩揉め!みたいな。
そっちでもなんですかね。
男子校ってそうなの?
そうです。
でも嫌じゃなかったんですね、その部活自体。
描くことが楽しかった?
もう一人だけでしたからね、部員が全然いなくて。
一人だけでこう描いてると、高校のそういう怖い先輩がやってきて。
中高一課の?
中高一課の美術室と一緒だったんですよ。
怖い先輩がいるんですけど、
お前何描いてんの?
なんだこれ?描かせてみろ!とか言って、
中部のカドミムレッドって一番高い絵の具をビューって全部絞り出して、
ナイフでバツって描かれたりとか。
うわー!マジですか!
そんななんか露骨があったんですか?
その先輩ちょっとね、伝説的な先輩なんですけど。
今も描画いるんですか?
いるんですか?
天才的な人で、それも僕のためを思ってやってくれてるんです。
名前を出せる人なんですか?
出さない方がいいと思います。
でもその先輩はバツって言っても、赤でバツって描いただけじゃないんですよ。
その後ね、バーっとね、いろんな色でぶっ壊すんですね。
僕の絵なんてほとんど埋もれて見えなくなるんだけど、
その続きを心掛けみたいな感じでやるんですけど。
つまり僕はもう、何ていうのかな、
それ実は中3ぐらいの話なんですけど、
結構そこそこ上手く描けてくると、
なんとなく輪郭線描いて、あとは塗り絵みたいにやってたんですよ。
それである程度仕上がってくると、いい感じに出てきた。
もう少しで上手な絵が仕上がるみたいな世界で趣味的に楽しみたら、
その先輩はもう、何ていうのかな、
もっと絵画をやらなきゃダメだっていうような熱い人だったので、
絵はこんなもんじゃないよって。
いじめではないんですね。
いじめじゃない、全然いじめじゃなくて、
なんていうのかな、
泥沼から這い上がっていく時にできてくる表現なんですけど、
それも輪郭線をなぞっているようなものではないんだっていうことです。
絵をぶっ壊されて、この上から描けってやられて。
それを高校生でやってたんですか、その人は。
ちょっともう本当に大人な人で、
ませた人だったんです、天才的な人で。
ブルーピリオドの一場面かと思うような話を、
これは高校生と中学生の話なの?
そうなんです。
その時はもう自分の絵が台無しにされちゃって、
もうショック落ち込むんだけど、
その後絵が変わったんですよね。
じゃあその人の出会いって大事だったんですね。
そうですね。
そこから高校も部活はビジネス部だったんですか。
はい、変わらず。
そのまま大学も当然美大に行くぞっていう感じだったんですか。
21:00
でも僕は母がデザイン出た、
広告会社を務めたような人だったので、
絵描きの道がいかに厳しいかっていうのは母は知ってたので、
頼むから絵描きだけはなんだと言われてたんですよ、ずっと。
一番なきゃいけない職業なんですね。
とにかく武蔵美津大学で正門を入ると、
左側がファインアート系、つまり日本画彫刻油絵、
右側がデザイン建築みたいな感じで、
あそこですごい隅分けがあるんですけど。
母はミーリーな人なので、
ファインアートの人たちに汚いつまりきて、
理屈ばっかこねて、
お金にならないことをやってるみたいな世界がすごい嫌だったみたいで。
天国と地獄なんですよね、その線を境に。
とにかくファインアートだけやめてくれと。
デザイン建築だったらいいよみたいな話があったんですよ。
でもそうは思っても、子供の頃から絵を描いてるし、
中学校、高校と美術部だし、
お母さん的にはきつそうだなと思っては。
だからそうきつそうだと思います。
でも僕もそれである程度洗脳されてて、
やっぱり絵描きになっても食ってくるわけないし、
冷めてたんですよ。
でも周りはね、結構僕中学校とか高校で絵が上手かったので、
友人とかがどうせ美大行くんだろうみたいなことを冷やかすじゃないですか。
そういうとき必ず、行くわけないじゃん。
絵描きになってどうすんだよ。
ずっと高2までずっと言い続けてたんだけど、
さすがに高2でよく進路を決めなきゃいけない段々になって、
そこの学校は中高、大まであったんですよ。
だから基本は行けちゃうんだよ、大学。
だから母も当然大学まで好かれたら行ってもらうつもりで中学入れてると思うんで、
みんながそういうつもりで上に行くんですけど、
それで進路いざ決めなきゃいけないときに、
僕は上の大学に入って、また大学の美術とかに入って、
今になってつい辞めるんだなって想像して、将来を想像してたら、
やっぱり虚しくなってきちゃって、
そうしてるうちに、コーマンの美術の先生、絵描きさんなんですけども、
その先生はすごく尊敬できる、絵描きとして尊敬できる先生だったので、
その先生が、お前はもう美大に行かなきゃダメだろ、みたいな。
えー。
行くんだろ、みたいな感じで。
決めてかかられたって言って、
で、なんていうのかな、本当に将来の自分を想像したときに、
この一番自分の中で得意というか好きな絵を撮って、
僕に何が残るのかなと思ったら、何も残らないってことに気づいちゃって、
24:05
じゃあちょっと描けてみるかって。
えー。
高校生でその決断。
普通は大学に入ってから一般の人って就職考えるわけじゃないですよ。
僕はちょっとお笑いを中学校からやりたいって言ってたからあれだけど、
塩谷少年は高校生の時にほぼ進路決めちゃったような状態で。
だって美大に行くってやっぱ普通じゃないですからね。
で、それで美大は一発で受かったのですか?
美大はね、一発でというか、
求められたものをちゃんと描いたって感じで、
でしたね。
絵っさん得意なのかな。
じゃあ学生時代も結構優秀な感じで。
当時の武蔵の美術大学っていうのは、
結構アカデミックなことをきちっと4年間やって、
で、もし自己表現じゃないけどね、
そういうことやりたいんだったら卒業してくれればいいじゃないか、
みたいな学校だったんですよ。
美大って結構芸大は芸大のカラーがあって、
多摩美は多摩美のカラーがあるんですけど、
武蔵美はそういう一番アカデミックっていうところだったので、
それで僕は武蔵美第一志望だったんですけど、
なので入ってからも、
学内コンクールなんかでは結構、
もちろん賞を取ったりとかね、
してたんですけども、
僕が大学3年の頃までに、
当時いた教授がね、
6、7人全員の定年とか、
あと急に亡くなったりとかで、
層入れ替えしちゃったんですよ。
カラー変わっちゃうんですか?
結局、教授が大体そういうのはこのカラーっていうのが出てくるので、
ちょうどまさに変革期っていうか、
ガラッと変わるときに僕が4年生に上がったんですね。
そうしたらもうとにかく、
僕のような写実的なことをコツコツやってたのか、
もう全く身動きも取れなくなっちゃって、先生に。
それまでもずっと写実だったんですね?
スタイルとしては。
色々実験はしてるんだけども、
基本は物を見て描く。
ところが、そんな人は学年でそんなにいなくて、
やっぱり当時は90年代で、
インスタレーションとかね、そういうのがブーバーだったので、
やっぱり写実系のアカデミックの学校っていっても、
やっぱりいろんな表現を試そうとしてて、
教授たちがそれを抑え込んでるところだったんですよ。
ところがガラッと先生が変わって、若い先生が変わって、
やっぱ写実が古い、
もう終わったものを今更やるな、みたいな雰囲気になっちゃって。
それまでの評価がガラッと変わっちゃうってことですよね?
ガラッと変わっちゃって。
そういうことで、写実もやるなって感じだね。
新しいことやれって言われちゃう。
27:00
そっちまで無視されたりしかしない。
それで塩谷青年は、
じゃあちょっと写実以外のこともやってみようかなとはならなかったんですか?
そういう才能がなかったのと、やりたくもなかったので、
と言っても、あまり僕は昔の絵は残ってないんですけれど、
その頃は少しでも写実から離れたいっていうのはあって、
偶像表現なんですけどね。
例えば水平と垂直で奥行き出すのが写実だとすれば、
もっと平面的に国を国元みたいにやってみれないかなとか、
いろいろ実験したんですけれど、
どれも中途半端で才能なくて。
で、なんかね、描いてて、
なんかその、何ていうのかな、
すごい行き詰まっちゃうわけですよ。
どう見られるかっていうことを意識して描くようになっちゃって、
描きたいものが描けてないわけですよね。
それが苦しくて、次の絵を生み出すのが辛くて辛くて、
もう自分がのめり込めないんですね、その世界に。
そうなんですよ。
で、なんか完成っていうのがわからないし、
なんか困ってましたね。
でもそれでも3年でそうなって、4年で卒業なわけじゃないですか。
4年の時はどうしたんですか、最後卒業生産。
卒業生産は結局、悩んでいた平面構成的な要素を取り入れた、
中途半端な具象絵画みたいなのを描いて、
それで、本当に最低な点数みたいなものを取って、
多分その、昔のむさびだったら結構面白がってもらえたような絵だと思うんだけど、
ちょうどダメな感じのね、評価されない方向に行っちゃって、
で、もうそのまま大学院に2年間進学してやりたかったんだけど、
あっさりと落とされて、
で、だからあと2年間、
モラトリアムじゃないけどね、
しばらく学生やってようなんて気楽にいて、落ちるなんて思ってなかったんですけど、
急にもう、パンと外に客観に出されちゃった感じで、
へー、もう大学の前半と後半でガラッと変わっちゃったんですか?
そうなんですよ。
え、そっからどう、
じゃああれですか、勝手にですね、順風満帆にいってるイメージが、
多分一般の人もあると思うんですけど、
結構学生卒業してから暗黒時代が続くんですか?
その後がね、結構すごい大変で、
まあ卒業制作をね、本来は出そうと思ってコンクがあったんですけど、
もうなんかその、大学に落とされた絵も見たくもなくなっちゃって、
それはもう暗いに見せちゃって、
本人自身で、
もうとにかく卒業したら新たに描こう、新作をどんどん描いていこうと思って、
30:04
それで、大きな170号が描けるようなパートを張りて、そこでこもって描くんですよ。
で、とにかく最初の卒業して1、2年は美術界に知ってもらわなきゃいけないので、
まずはコンクールなのかなーとか思って、
手当たり次第、関東でやるようなコンクールもあるけど、
地方の方で結構、街おこしみたいな感じでコンクリいっぱいやってるんですよね。
そういうのももう本当に、
北海道から南の九州でやる展覧会まで手当たり次第に走ってたんですよ。
その時はもう昨晩も写実ですか?
そうそう、それはもう卒業してから、
教授にもいろいろ言われないし、自分の一番やりたかったことやろうと思って、
写実に改めて戻ってたんですけど、
それがね、とにかくことごと苦楽戦するんですよ。
1個も引っかからない?
それがそう、1個も引っかからない。
最後は、最初は受賞していないという目を描いてたんだけど、
最後は賞いらないから、とにかく何とか入選したいっていう感じで。
でも入選すらしないんですよ。
オーディション受けに行って、最初は主役のオーディション受けに行って、
もう脇役でいいからって言っても浮かんない?
浮かんないんですよ。
それどれくらい続くんですか、その状態は?
もう3、4年ずっと出し続けて、
落ちるから、前書いた絵もどっかに出せるんですよ。
うまく使い回せないから、とにかくどっか引っかかるために出すんだけど、
楽戦王みたいな感じで。
出展料だけ取られる?
もちろん。
輸送料も取られるし。
入選者のカタログが家に届くんですよ。
見ると、学生、僕の知っている年下の学生とか、
本当に全然ダメな絵とかが通ってるんですよね。
それは写実で取られているのは少ないんですか?
もともと少いですね。
写実自体があまり認められていなかったのもあるってこと?
もともと写実ってコンクール向けではなくて、
大体一番批判される対象になるんですけど、
ただ、結構ね、例えば、
100号2枚っていう出品規定があったら、
100号を割りばり2枚変えて出すと、
それなりに頑張った迫力があるし、
ガッチリ描いていれば説得力あるじゃないですか。
普通って落ちる絵じゃないと思うと、
もっと楽に描いているなと思いがかかってるわけですよね。
もちろん簡単に入っていて、
とにかく嫌われているとしか思えないくらい、
リモートで落選しちゃって、
散々でしたね、最初は。
どこで浮上したきっかけってどこなんですか?
やっぱり、画賞さんに声かけてもらって、
今だとね、
33:02
もう卒業してすぐに、
画賞さんに個展の企画を立ててもらったりとか、
あるかもしれないけど、
当時は流石にそういう時代じゃなくて、
何年かしたらうちでグループ展に入れたらいいね、
ぐらいの感じの付き合いで、
だから僕はあんまり、
画廊に見てもらうことはしてなかったんだけど、
唯一1年に1回、
日記展という団体展に出していたんですね。
それは毎年入選していたので、
そこで見てもらったりとかして、
そうするうちに、
うちでグループ展に参加しないかと言われた画廊が、
当時のメイン画廊で、
すごくいい、
僕からしたら大先輩、大先生みたいな、
作家のグループ展に入れてもらったんですよね。
それが実質的なデビューで。
それ何歳ぐらいの時に出るんですか?
4年経っていたので、
26、7歳。
でも当然食べてはいけなかった?
バイトとかしてなかった?
バイトだけでずっと。
どんなバイトをしていたんですか?
手当たり次第やってましたね。
超ネクタイして、ウェイターみたいなのもやったし、レストランも。
一番長く続いたのは、
当時はまだデジカメじゃなくてフィルムだったので、
写真の現像をしてプリントするという、
30分で仕上がりますみたいな。
あれを長くやってました。
仕事に生きてきたなとはありますか?
それは関係ないけど、
自分の作った作品とかを、
自分で納得できるまでプリントしたりとかできたし。
一応完全に画家として食べていくようになったのは、
結構遅いんですか?
そのバイトを辞めたのは29歳の時なんですよね。
30歳ぐらいまで。
時給810円のバイトでした。
覚えてるんですね、その時給は。
入った時に、23歳で大学卒業してそのバイトをして、
うちは給料上がりますからねって言われて、
最初800円からスタートして、
29歳までやって810円でした。
嘘はついてないんですけどね。
ひどいですね、それは。
勝手にポンポンといったイメージが。
その写真使いが認められてなかったわけじゃないですか、当時。
認められてないっていうのもあるし、話題にならなかったんですね。
でも今や写実絵画ブームみたいなものがあるじゃないですか。
なんなら若手で写実絵画を描いてる人も増えたじゃないですか。
この写実絵画に対しての価値観というか、
スポット当たったなってのはいつぐらいだなって感じます?
36:00
きっかけ的なものってあるんですか?
やっぱ本気美術館ができたのとかって大きいんですか?
やっぱり決定的にメディアにたくさん出るようになったのは、
本気美術館さんのオープン以降だと思いますね。
それ以前もだいぶ具象絵画見直され始めてたのが、
お置きさんできる前。
本気美術館は確か2011年。
2000年代後半もそれなりにあったと思いますね。
オープン絵画が見直されるみたいなところが、
やっぱりインスタレーションの反動で、
もうちょっと物をちゃんと、
写実じゃなくてもしっかり手仕事みたいなのが見直され始めたところに、
お置きさんだったので。
でもそこはずっとぶれなかったんですね。
これしかできないタイプだったから。
ちなみにさっきチラクで2機会。
この番組のプロデューサーのお父さんが2機会。
びっくりしました。
お会いしたことはあるんですか?
お会いしてないんですね。
でもその2機会があったから、
少し続いたわけですよね。
2機会が最初に発表したわけ。
2機会はコンクルート違って、
賞金が出て1回で終わりっていうんじゃなくて、
毎年決まった時期に対策を書き続けて、
自分の歴史になっていくんですよね。
そういうところが良くて面白いなと思う。
今も出し続ける?
今も出しています。
新作を出すんですか?
そうです、新作です。
大体いつがシーズンですか?
2機はいつも10月ですね。
今年も10月に出るんですね。
見に行かれる方は。
もう1つ白日会っていうのがあったんだけど、
白日会はどういう会なんですか?
白日会はもともと写実主義というか、
写実傾向の作品が多い候補団体なんですよね。
ということは最初から結構出されてたんですか?
僕が?
写実をやってるわけじゃないですか。
そしたらそこに行くのが筋のような気がするんですけど、
白日会はいつぐらいからですか?
僕は白日1回も出したことないですよ。
本当ですか?なぜですか?
いいですよ、聞きますよ。
僕は卒業してから写実をやってたので、
ちょうど僕が大学院に行けなかった時、
つまり定年で辞められた同僚がいたんですよ。
すごく僕のことを認めてくれた先生がいて、
その先生がいたら普通にプーマンパに立ってたかもしれないんだけど、
その人が辞めなかったってことですね。
だけど今思えば本当にきれいごとじゃなく、
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あそこでちょっとした試練があったのが良かったと思ったんですけど、
その先生から卒業電話がかかってきて、
君の絵は白日会に向いているから、
是非出しなさいと紹介してあげるかみたいなことを言われて、
僕は白日会の作家さんが好きだし、
よく展覧会を見てたんですけれど、
自分の写実が写実の中に入っていくっていう感じよりも、
全然違う作風が入り乱れているような中に、
自分の写実がポーンと混ざっていて、
カオスの中に埋もれていくみたいな方が面白いなと思っちゃってたんですよ。
それでその先生にしばらくして返事の電話をして、
どうしても写実の中で評価されてって言うんじゃなくてとかいろいろ言ったら、
評価されるの何が悪いんだみたいなこと言われて、
いいんだよそれでってせっかく君にとってすごくスムーズに行く道があるんだから、
その時は行くべきだって言われたんですけど、
やっぱりダメで終わりして、
それで写実系の少ない2期会という団体に入ったんですけど。
その考え方は今も変わってないんですけど、
どうしても翔太さんの作品って、
写実絵画とかリアルテンとかに出されることが多いじゃないですか。
全然違う文脈の展覧会にポンと出してもらうのも本人的には嬉しいんです。
嬉しいですね。
今はどうしても補給美術館で見るから、
やっぱりそれこそ今みんな写実じゃないですか。
じゃあ全然抽象画もいろいろとある中にっていうのも。
だからグループ展覧会でやる時も、
写実のメンバーに入れられるよりも、
全く違う作風のメンバーに入る方がワクワクしますね。
だからそれこそあれですよね。
数年前に国立新美術館でドマニ展って言って、
海外で芸術家、文化庁新進芸術家海外研修院で行った人たちが、
展覧会やるじゃないですか。
そこに翔太さんが出される時なんか、
全員違うメンバーだったから、
ああいうのは楽しいですね。
あれはできた、自分の今まであった絵を出したからあれなんですけど、
でもやっぱりどんな風に自分の絵が、
現代的な表現でやってる人たちの中で見えるのかっていうのは見てみたいし、
あと、例えば、
1年後にこういう展覧会やるかっていう依頼状をもらったりする時にね、
これから新作を描くわけですよ。
そういう時に全くの他流試合だから、
どんな絵を描いて挑もうかってやれるわけですよね。
そういう楽しさがあるかな。
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ちなみに文化庁新芸術科海外研修院で、
イタリアフィレンゼに行かれたわけですよね。
前半でも下尾根くんの話が出ましたけれども、
これは少し卒業して、
辛い時代があった後に少し、
画家として仕事が増え始めた頃の話ですね。
そうですね。
これは33歳になってるので、
1回これ推薦されて、
その2年、3年くらい前に推薦されて1回落ちてるんですね。
もう1回その2機会から推薦してもらった時に、
これ2度目で通ってるんですけど。
行く場所はいろいろあったわけじゃないですか。
それでイタリア選んだ理由っていうのが何だったんですか。
写実絵画をやる人は、
結構多いのがベルギーで、
例えばフランドルの絵画を学ぶとか、
ドランダ行って、
レンブランド、フェルメルとか、
もしくはパリ行ってルーブルっていうのが多いですよ。
あとスペインの方もいらっしゃいますよね。
現代だとスペイン。
イタリアはなかなかいないんですよ。
写実画家はイタリアが少ないと思ってて、
僕は今言ったような、
例えばスペインの画家だったら、
ベラスケスとか小屋がいたりとか、
その後ピカソとかみな大もいるけれども、
そういった人たちをずっと遡ってみると、
結局イタリアの絵画に、
ルネッサンスに繋がってくるんですよね。
ルネッサンスの絵って今から、
今の写実のそういう、
今の写実絵画から見ると、
ちょっと稚拙なところ、表現とかがあるんだけれど、
やっぱりそこが源流となって、
ローマ賞なんていうのもあって、
イギリスのアカデミーで、
1位になったらローマに行ける、権利を与えられるみたいな、
そういうこともあったわけで、
みんなそこに行ったわけですよ。
日本で、画集で、
源流となっているジョットとか、
マザッチオとかを画集で見てても、
正直これいいのかなって、
ずっと思ってたんですよ。
しかも壁画ですからね。
日本に待ってても来ないわけですよ。
映像を考えても。
テンペラなんかもあるんだけど、
見てても、
これが下手?上手?
みたいなところがあったわけですよ。
なぜみんなここを目指すんだろう?みたいな。
これはちょっといったぐらいじゃわからないのかなと思って、
やっぱり写実の源流を、
もうちょっとしっかり身をそこに浸して、
見てみたいなと思ったのがきっかけ。
それで行ってみてどうでしたか?
実際ジョットとかチマトとか本物を見て。
これはね、本当に星の数ほど、
例えば星星像を見たんですよ。
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そうすると、最初は同じように見えるんですよね。
みんな見たり寄ったり。
キャプションを隠すとわからないみたいな。
もう金太郎アメみたいに。
例えば、ジョット以前のね、
ビザンチンなんて言ったら、
もう本当に金太郎アメみたいに、
同じようなスタイルで描くのが当たり前だったので、
それは当たり前なんですよ。
ところがやっぱり1年後、
この歴史に残っている人たちの絵は、
違うっていうか、
やっぱりオーラが違っている、
ということに気づいてきたというか。
一言で言うと、
なんかね、品格があったんですよね。
歴史に残っている人たちの絵だけは、
同じ星星像であっても。
歴史に名前が残っている人ってことですか?
本当に残っていない人も同じような構図で、
ほとんど同じ、いっぱい描いてるんですよ。
文明の人たちが。
だけどやっぱり、
マサッチオ、チマグウエ、
マラチョじゃないや。
チマグウエ、それから、
ジョットも。
ジョット、出てこない。
調べますか?
ルッチョでした、ルッチョ。
ルッチョ。
いますね。
シエナの人ね。
シエナで活躍したルッチョ。
それはやっぱりその画家たちの品格っていうのは、
どういうところに現れるの?
やっぱりマリア様の表情ですかね。
女性像として見たときに。
それはやっぱりアーティストとして、
要するに当時の人たちって工房ですから、
職人的な部分もあるわけじゃないですか。
でもやっぱりその名前が残っている人たち。
アーティストとして、
例えば工夫するとか、
こうしてやろうみたいなのが、
他の人は職人的に、
聖母師だからこうだよねって言われて、
先頭の藤井さんが言うとは言わないけども、
そういう違いなのかなって思って、
どういう感じですか?
それやっぱりその名前残っている方たちっていう。
アーティスト性を感じられるものなんですか?
アーティストから見て。
だから違いがそういうことなのかな。
それこそ個性っていうことだと思うんですけど、
何だろう、ちょっともいなりしたものなんですよ。
雰囲気として。
例えばジョットまで言っちゃうと、
確実にあの人は写実っていうことを
意識し始めた人だったから、
ちゃんと立体感出そうとしているとか、
布のシワを書こうとしているということだけでも
すごいことなんですけど、
膝頭があります。
膝頭がある?すごい!
自然を学ばなきゃいけないということを言い出した人なので、
ルッチョとかチマブエという人たちは、
ちょっとさらに一歩前の時代なんですけれど、
その人たちの絵がやっぱりちょっと輝いてみえたんですよ。
行かないとわからないですね、それは。
本当にそれはシエナの美術館で生後出像を見ていると、
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ほとんどもう嫌になるくらい。
生後出像も連続なんですよ。
ほぼそれしかないわけです。
お腹がいっぱいになるなんてことじゃなくて、
これで名前が残っている人たちの、
何が違うのかなという目でその美術館を回っていたんですよ。
それはやっぱり、それを見て、
塩谷さん的にプラスになった部分って何?
結局どこになったんですか?それを知った上で。
それだから、留学行って何か技術的なことを学んで、
自分の絵に活かそうっていう理由じゃなかったので、
難しい質問ですね。
急に絵が変わったわけじゃないかな。
でもそういうのを見た時に、
やっぱり自分もそういう画家になりたいなって思うもの。
自分の作品が100年後、200年後残ってほしいなとか。
もちろん。
そういう思いは、より強まったみたいなことはあるんですか?
精神的な部分でというか。
僕の気持ちとしては、
自分の絵が、
自分の絵の名前が絵に書かれてなくても、キャプションがなくても、
いいなと思ってるんですよ。
つまり将来、土の中から絵が出てきた時に、
すごく素晴らしい絵が埋もれて出てきた。
誰だかわからないんだけど、
ものすごく良い絵。
そういうのが描きたいんですよ。
縄文録とかもそうかもしれないですよね。
別に名前があるわけじゃないけど、
みんなあれ見て感動してるわけじゃないですか。
なんとか壁画とかもそうですけど、
ひとなこふんとかもそうですけど。
そういうのでもいいんですけど。
究極的に言うとそういうことですね。
場合しようたに用途がなくてもいい。
なくてもいい。
もうあっという間にいろんな時間ということで、
色々と聞こうと思ったことは聞けなくなってしまったんで、
最後にやっぱりこういうことを聞きたいなと思うんですけど、
それを踏まえた上、将来のことを聞こうと思って、
究極のことを聞いちゃったんですけども、
その前に生前として、
自分の中でこういうことをやってみたいとか、
チャレンジしたいとか、
そういう目標的なものってありますか?
最近はいよいよ色々やりたいことがいっぱいなんですよ。
見れる範囲のもので。
今まではやっぱり20代、30代って、
とにかくこの業界に知ってもらうことだけでも精一杯だし、
それで絵を描いて、
ちゃんと広がっていかなきゃいけないので、
結構ずっとダッシュで走ってたって感じなんですけど、
結構最近、
単純に自分の表現の幅を広げなきゃなっていうのがすごくあるんですよね。
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これまでは結構自分の身近な、
例えばモチーフである人だったりするものを、
とにかくとことん描いていけば、
それはそれで現代性になるんじゃないかとか思ってたんですけど、
やっぱり本気で美術館ができたときに、
自分の絵がパッといろんな人たちの、
社実画家とか先輩の絵と並んだときに、
そういう詩小説的なこだわりだけじゃ、
伝わらないなっていうのはちょっとあったんです。
これ多分40歳過ぎて、
よくね、
日本人だと枯れる美学みたいなのがあるんですけど、
僕はやっぱり絵はどんどん若返っていきたいっていうのはあるんですよ。
今身の回りだけでやってるってやっぱりすごく閉じた世界の中で、
それは深い方向にいくつもりでいたんだけれども、
やっぱり自分がこれまで描こうと思えなかったようなモチーフまで、
描いていきたいなっていうのがあって、
そのときに、例えば2007年に夏の滝を描いたんです。
僕は夏の滝っていうのは別に身近なものでもないし、
だけどやっぱりそれを、
なんていうのかな、
画家が富士山を描くってすごく勇気がいることなんですけど、
富士山って日本画家は描きますけど、
そういう富士山を描くぐらいの意気込みで夏を描いて、
これが自分の絵にならなかったら大恥を描くなという覚悟でやったんです。
しかも変わった構図とか狙った構図じゃなくて、
真正面からみたいなことをやってたんですけど、
それもちょっと幅を広げたいという気持ちから生まれて、
それまではモチーフで選ばなかったわけですか?
まずは選ぼうと思わなかったんですよ。
だけどそれを描くことで自分の心理が描き上がった後、
また心境が変わってくると思うので、
その心境もまた自分で見てみたいなと思ったりとか、
お前は怖いなと思って辞めたことをやっちゃおうっていう方向性には今なってます。
普通は逆になっちゃいますよね。
ベテランになればなるほど得意な方にシフトしがちじゃないですか。
多分どのジャンルでも画家だけであるとお笑いの人もそうだと思うけど、
今一番若手みたいな時代になってると思いますね。
そうなんですかね。
でもちょっと怖いものないなっていう感じはある。
変な意味の守りに入らなくなった感じ?
ちょっと攻めに転じてる感じなんですか?
いやもう今更ですけど、どんどん攻めていかないと、
もう写実の業界自体がダメになっちゃうと思ってるし、
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とにかく写実ってどうしても干渉する会が、
そこで完結してしまいがちなので、
なんとか今起きる、僕からできる攻め、
写実の中であるけどね、その攻めをやっていきたいし。
塩谷さん的には写実・絵画界を背負ってるというか、
もう変えていきたいなというのはあるんですか?
いやそこまで大それたことは思わないんですけれど、
でも自分が変わっていきたいだけです。
いい意味で塩谷さんらしいってなんとかあるんじゃなくて、
そうでない神聖塩谷を作っていきたいわけですね。
それを必然性を持って変わらなきゃいけないんです。
木を照らすようなことじゃないんですよ、全然。
でもその都度自分がリアリティを感じるということ柄とかを、
誠実に描いていくことで自然的に絵は変わっていくし、
長い目で見て大きく絵は変わったかとしても、
将来何十年というタイミングで見たときに、
ちゃんと塩谷という作家として、
一つの繋がりが見えてくればいいなとは思っています。
なるほど。最後にちょっとこれだけ。
今塩谷さんが見て、写実界若手もいっぱい増えてきましたけど、
現時点の2021年の写実・絵画界どう思っていますか?
より写実的な表現を利用しながら、
自分の好きな世界をみんなそれぞれやっているなという雰囲気にはなっていると思うんですよね。
以前は、やっぱり絵画はもっと深く重くなきゃいけないみたいな時代があって、
僕もその洗礼をだいぶ受けているんですけど、
でも結構今の若い人って、もっと軽くてもいいじゃん、ポップでもいいじゃんという感じがあって、
それが写実の世界にも来ていて、
そういうのは絵画じゃないよって言われる人もいるかもしれないけど、
でも僕はいろんな写実表現があったらいいんじゃないかと思うんですよ。
みんな自分の真実に基づいて描いてますからね。
だから別にそれはいいことだと思うし、多様化するのもいいことだと思うんですけど。
最後に番組2時間前半後半ですけども、いかがだったでしょうか?
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番組を振り返ってみて。
いや、トニーさんの質問が面白いのでつい調子に乗って喋ってしまいましたね。
まだまだ話しきれなかったことがあるので、またぜひ告知をされてまた遊びに来ていただけると嬉しいなと思います。