1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #209 華厳経と唯心論。この「..
2024-04-28 1:05:16

#209 華厳経と唯心論。この「心」って何だろう?


「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。
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00:05
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も華厳経ということで、前回は華厳経がすごく難しいというところだけ分かったという感じだったのですが、今回はどうですかね?
そうですね。今回からですね、具体的に華厳経の思想がこういうもんですよっていうのをちょっと見ていこうかなと思っていますと。
前回は難しさみたいなところだけ残っちゃったかなと思うんですけど、何で難しいかというと、多分いくつかあって、
一つは、前回おっしゃった通り華厳経者がめちゃめちゃ膨大で、日本語で2500ページくらいありますよみたいな。
そもそも長いよっていう話と、
あとはそれがね、いわゆる400年くらいに成立してから、この1600年くらい経つ間に、いろんな偉いお坊さんたちがそれに対して注釈というか、
自分の考えもして加えたりしているので、それも含めると、より華厳経、華厳宗なんだけど、いろんな流派みたいなものがそれぞれ出てきますよね。
なるほど、はいはいはい。
っていう話と、もう一個は、この華厳経の教え自体が、いわゆる仏様が、仏の真理をそのまま伝えたよみたいなふうに言われてるんだよね。
つまり、悟った人が喋ってるとかってことじゃなくて、仏が自分で喋ってるから、要は人間とは違うレベルのことを喋ってますみたいな感じなんだよね。
ああ、そうなの。例えば他の法華経とか、華厳経ってあったけど、それはまた違うのかな?
また違う。法華経とかどうなんだろう、ちょっと詳しくそれぞれわかんないんだけれども、ある種、仏様がこんなふうに言っていたよっていうのを人が伝えるとか、人が書き記すみたいなものが多分あると思うんだよね。
なるほど。例えばっていうとあれだけど、華厳経とか、そういうの誰が作ったかってごめん、覚えはしないんだけども、
誰かの階層みたいな人がいて、その人が作ったのが、例えば何とか経ですよ、みたいなことがあり得るわけだよね、多分。
実はこの時の経典は、いろんな人が多分編参してて、この人が作ったみたいな、なかなかわかんないみたいなんだよね。
なるほど。ただ、仏陀の言葉ですとは言い聞きでないものもあるわけだよね、もちろん。
偉いあの人が書きました、いったことをまとめました、みたいな話で。
03:01
そうだね。基本的には仏陀とかではあるんだけども、
っていう風に聞いた、私が聞いたことを伝えますみたいな、別にそれが誰かはわかんないんだけど、
っていう風な体裁のものが多かったりするとか、そこはそうなんだけども、
華厳経に関しては明確に仏が喋ってますよ、みたいな。仏の言葉ですよ、みたいな感じになってるんだよね。
わー、そうなんだね。なるほど。そういう違いもあるんだ。全然意識したことなかったな、そういうの。
そうそうそう。なので、別の世界の人の言葉みたいな感じになっちゃうので、難しいですよ、っていう風なのがぶっちゃけあったりしますと。
なるほどね、そういう糸もあって難しくて長くしてるのかな、どうなんだろうな。そんな意地悪ではないかな。
意地悪ではないね。多分普通に必要なものを詰め込んだらそうなったっていうだけだと思うんだけども。
なので、今回の華厳経のテーマではあるんだけど、純粋に華厳経でこんなことが書かれててとかってことというよりは、
ざっくりね、こんなことが教えの中心にあるよとか、他の後の時代の人も含めて華厳経っていうのでこういうことを考えたよ、みたいな。
そういうことをお伝えしていきたいという風に思っていますという感じなんですよね。
はいはい、まあそうだね。今聞いただけでも、多分原点に沿ってやってきますっていうのは不可能っぽいから。
そうだね。僕も当然読めてないしね、もちろん。
ではつまみ食いしていこうという感じなんですけど、ちょっと今日やっていくのが、優位心論っていう、優位はただ唯一の優位ね。
心は心ね。ただ心だけがある、みたいな話なんですけど、これがね、結構華厳経の特徴だって言われてるんだよね。
そうなんですね。
なのでこの優位心論、ただ心だけがあるっていうのを見ていこうと思うんですけれども、またこの心っていう言葉ね、結構厄介なんだよね。
こっちの常識で心を捉えちゃう。一旦ゼロベースでね。
一旦ゼロベースで、イメージとしては、いわゆる僕らが想像する心なんだろうな、感情とかさ、心が動くとか精神とかっていうもので一旦イメージしてもらっていいんだけれども、
それが軽やかに飛び越えていくので、ちょっとそういったものがどんな深まりというか、奥深さがあるんだろうっていう話をちょっとイメージしながら聞いてもらうといいかなと思っております。
06:01
分かりました。
今日は優位心論なんですけど、以前優位識っていうのをやったじゃないですか。
識っていうのもいわゆる心というか、人が認識するとか物事を捉えていく作用として、ただ識だけがあるよって話をしたと思うんですけど。
5識、6識、あとだけ、マナ識、アラヤ識みたいな話の時のやつだよね、優位識は。
そうです、優位識は8個あるよってやつで。
実は優位心と優位識って言葉も似てるんですけど、内容がかなり近い部分が実はあって、
優位識の創始者で、ムジャクとかっていう人の名前も出したと思うんですけれども、
その人は本の中で優位識の根拠っていうのが華厳経のここここに書いてますみたいな、
そういう華厳経を出典に自分は優位識っていう説を唱えてるんだみたいな話があるらしいんですよね。
恐ろしいね、あの難解な優位識は華厳経の中から引っ張ってきてると言ってるんだ。
それを典拠にして自分なりにより精緻に考えたらこうですよみたいな。
そうなんだ、完全なるオリジナルというよりは華厳経から大元のところを持ってきてるんだ。
そうですそうです。仏教ってオリジナルってないからね、基本的には仏陀の言葉というか仏陀の発想を発展させてるってものだから。
とはいえ華厳経なんだね、それが。
そうですそうです。
なのでそんだけ深いものがあるよって話ではあるんだけれども、
ただ優位識と優位信って一緒かっていうとちょっと違うというか、
力の置きどころは違う部分があるんですよね。
なのでそこをお伝えしていきたいですよ。
華厳経自体はかなりふんわりというかそんな明確に、
前も言ってたようにロジックで書いてるような本ではないから、
なんとなく心ってこういうもんですよっていうふうな感じになるんだけれども、
それこそ仏教の話をすると、いわゆる一切衆生失う仏性みたいな言葉があって、
あらゆる衆生生き物に仏性って仏性があるとかさ、
そういう話をしてきたと思うんですけれども、
それっていうのは実は華厳経にもあるし、
法華経にもあるし、
涅槃経っていう別の経典もあるしっていうふうな感じで、
結構大乗仏教の基本的な考え方らしいんですよね。
なるほどなるほど。
その中で結構華厳経の特徴になっているのが、
いわゆる衆生っていうのは、
09:01
例えば僕ら人間とか生き物なんだけど、
仏と、あと今言った心ね、優位心でいう心。
この仏、衆生、心っていう3つには、
実は区別はないんだ、同じものなんだっていう話をしていくんですよね。
で、ちょっと分からないと思うんで、
具体的に話していくんですけれども、
まず2つで考えていくのが分かりやすいんで、
仏と衆生、衆生はイコール人間と思っていただいていったら大丈夫なんですけど、
この2つから見ていくと、
僕らは普通に生きていると仏様みたいな感じ、
いわゆる神様、仏様みたいな感じだからさ、
仏っていわゆる普通の世界を超えているとか、
人間とか生き物とは違うみたいなイメージを持っている時代かなと思うんですよね。
確かに神側な感じはするね。
そうだよね、そうだよね。
これっていわゆる日本の神仏集合みたいなさ、
ほぼ大日如来イコール、いわゆるアマテラスみたいな感じかなっていう風に、
仏様と日本の神様をくっつけたみたいな、
そういう歴史の影響も大きいと思うんですけれども。
ああ、そのことしてるんだ。
知らないやん、そういう話。
前、たぶんどっかの回で、
日本に入ってきた仏教と、
日本の矢を寄ろず信仰みたいなものが、
見合わさったよみたいなのを、
はやとがざっくっと話していた気がするんだけど、
それでしか、
分かんないね。
確かに。
歴史の教科書とかにも、
本地水着説とかってあったりするんですけど、
そういう日本の神様と、
外来の、いわゆる中国から入ってきた仏様っていうのは、
本当は一緒なんだぜみたいな。
それによって、
信仰を広めようとしたみたいな話がたぶんあった。
一緒にしがちなんだな。
そうそうそう。
じゃないと反発されちゃうからね。
っていう風な話があって、
やっぱり仏様と生き物とか人間っていうのは、
まじで別の世界の存在だみたいな。
隔てられてるよねっていう風な、
発想が基本かなとは思います。
一方で、
あらゆる生き物にも仏性があるみたいな感じで、
存在としては別なんだけれども、
やっぱり人間が悟って、
ある種、修行をしていくと仏になれるんだとか、
仏の世界に至れるんだみたいな、
そういう話もね、
結構自然にしてきたかなと思うんですよね。
これまで仏教界として。
なので、結構実はその矛盾している、
人間と仏は別なんだけど、
人間も頑張ったら仏になれるみたいな、
12:01
そういうのが実はごちゃっとしてるんだけれども、
頑張れば仏になれるっていう方が、
大乗仏教らしい考え方なんですね。
そうだよね。
多分そこら辺がコピーになってるというか、
みんなもともと仏の仏性?仏性?
仏性だね。
仏性があるからみんななれるんだよっていうのが、
大乗仏教っぽい感じするもんね。
そうですそうです。
逆に言うと、
実は仏と人間っていうのは別れてなくって、
同じように、
いわゆる人間が祟りの方にどんどん向かっていけば仏になれるし、
逆に仏っていうものも、
どんどん穢れとか迷いの方に行ってしまうと、
人間というか衆生、
いわゆる救われる存在になるよっていう風な考え方があるんですよね。
なるほど、そういうのもあり得るのか。
そうそうそう、考え方ですね。
ここまではまあまあそういうものかなというか、
そういう発想もできるよねって思うと思うんですけど、
ここに心が出てくるとまたちょっと分かりにくくなってくるんですよ。
心、どう繋がるか。
そうそうそう。
これどういうことかっていうと、
ちなみにとおり仏と衆生っていうものが一緒、同じモアとして、
さっき言った通り悟りとか迷いっていう方向性に行くと、
仏やったり衆生になったりするって言ったんですけど、
悟ったり迷ったりするものって一体何なのっていう話を考えるんですよね。
悟りに近づくとか迷いに落ち込むとかって言うけど、
何が進んだり落ち込んだりせんのって言うと、
結局それって人間の心だよねっていうのがここに出てくる考え方なんですよね。
なるほど。はいはいはい。
つまりあらゆる生き物には仏性っていうのはあるんだけれども、
それでも迷ったりとか悟ったりとかいうふうに揺れ動くっていうのは、
どうやら人間だけのように思えるよねと。
他の鳥とかカエルとか何でもいいんだけど、
そういうのを見たときに、
どうやらこいつらは迷ったり穢れたりってそんなしてなさそうだよね。
それは汚れない存在だからではなく、
人間みたいに心がないように思えるから、
その迷いとか悟りとかっていうふうな動きをしないんじゃないかっていうふうに考えます。
なので人間が悟ったり迷ったりするというよりも、
人間の心っていうものがあったとして、
それが世界の中で迷ったり悟ったりするとか、
世界を悟りの世界として捉えたりとか、
逆にこの世は汚れたシャバ世界だと捉えるかによって、
15:00
その迷いとか悟りっていうのは決まってくるよねっていうふうに考えるんだよね。
なるほど。
この仏の仏性か、論義をちゃんと言語化というか説明するにあたって、
人間がとか仏がとかっていうんじゃなくて、
心っていうものを出していかないと、そのあたりがちゃんと説明できないっていう話なんだよね。
そうなんです。
やっぱり仏と人間は存在的に違うっていう発想はあるんだけれども、
心は一緒だと。
そうすると心が迷ったり悟ったりするので、
その心ある存在としての仏も人間とか宗教も一緒じゃねえかっていうふうな話になってたんだよね。
なので、基本教の考え方で言うと、
悟った人と迷った人がいるとかではなくて、
結局ある時々で心が悪くなったり良くなったりするっていうふうなことはあるんだけれども、
その根本の心である、どちらも心が本質であるっていうことに関しては同じだろうと。
いうふうなことが言えるので、
いわゆる仏も宗教も心も一つだっていうふうな話とか。
結構ね、基本教の有名な言葉があるんですけど、
三界って三つの世界、要は人間世界と地獄とかと仏の世界っていう世界があった時に、
そういう全ての世界っていうのは孔孟。
これはまやかしね。
孔孟であって、ただ一心の所作である。
一心ってのは心だけっていうことなんだけど、
三界は孔孟であって、ただ一心の所作であるっていうふうな言葉があって。
つまり、人も仏も心だっていうだけじゃなくて、
僕らは見ている世界っていうのも、
全部心が作り上げているある種のまやかしに過ぎないんだよっていうふうなことを言ってるんだよね。
なるほど。
これが優位信論、ただ心だけであるっていうふうな話になります。
へー面白い。バーチャル実像主義みたいな。
バーチャル実像主義って何?
面白い言葉出してきたね。
勝手に言葉作んないよって前も言われた気がするけど。
前も言った気がするけど。
面白いね。
でも割とけごうきょうが難しいねっていう割には、
今の常識というか、心はみんな同じで、
良い方に触れるか悪い方に触れるかというか、
悟りに近づくか離れるかの違いだよというのは、
結構理解しやすいというか、すんなり入ってくる気がするね、ここまでは。
嬉しい嬉しい。
実はけごうきょう自体はこんな感じで、
18:02
割と素朴な内容が多いんですよね。
他にも結構身近な例で説明してくれているものもあって、
心は画家のような、いわゆる絵を描く人のようなものであるみたいな例もあるんだけど、
どんなふうに描かれているかというと、
ちょっと言い訳というか、自分なりに解釈している感じなんだけど、
例えば、いわゆる上手な絵描きさん、画家さんが、
キャンバス、真っ白いキャンバスがあったときに、
いろんな絵の具を塗り分けて美しい絵を仕上げるじゃないですか。
黄色やら赤やら青やらいろんな色を塗ったときに、
素晴らしい絵が出てくる。
心っていうのは、その画家みたいなものなんだって話なんだよね。
心っていうのは、いろんなものごとを区別して、
例えばこれは山であるとか、これは川であるとか、
そういうふうにいろんなラベリングをしていくことで世界を作り上げていく。
もちろん、もともとキャンバスは本来真っ白の一つのものだし、
世界っていうのは本来一つのものなんだけど、
それを心が塗り分けていって、ある種の世界として作り出していくんだと。
かつ、それは実は前証なんだよっていうふうな話。
しかも前証だと。
前証、前証。
だからそれが世界じゃなくって、心が作り上げた前証になって、
本来世界っていうのはそんなふうに分かれてないんだと。
本当に一つの全て平等の世界なんだというふうな話なんだよね。
いいね。そこが西洋との違いだよね。
自分が作った世界が現実なんだとは言わず、理性なんだとは言わずに、
作った世界が実は前証なんだみたいな。
じゃあどうすればみたいなね。
結局フワフワしたままっていう。
そうなんだよね。
だからそれを知ることこそが悟いたり仏になることだみたいな話なんだけれども。
ここまでは結構、なるほどなるほどっていうふうに言っていただけるんじゃないかと思うんですよね。
そうだね、まだ分かりやすい気がする。
ここからですよ、ここからですね。
さっき言った通り、じゃあ心って何なのって話を今は全くしてないですよね。
心があるから、仏も人間も繋がるとか、世界というものが打ち出されているという話はしたんだけれども、
じゃあ心ってなんだよっていう話はまだ一切しておりませんね。
なるほど、じゃあ今は分かったつもりになってるけれども、
この一覧の常識の心っていうので分かったつもりにはなってるって話だね。
そうそうそうなんですよね、あくまでも。
だから多分今聞いてくださった方がいらっしゃった時にも、
21:00
ただ皆さんなんとなく分かった感じはあったとしても、
それぞれが全く同じ認識をしているはずはないんですよね。
だって心っていうすごくフワフワしたもので喋ってるから。
なるほどなるほど。
どうなるかっていうと、やっぱり後世の偉いお坊さんたちは、
なんとか心っていうものをもっと明確に理解したいとか、
誰もが理解できるように突き詰めていきたいみたいな、
そういう風になっていくんだと思うんですよね。
そうだよね、だったりとかお坊さん同士だったりとか、
誰かに不協する時にも、自分そう思わないですけどとか、
この場合どうするんですかみたいな話、
多分めっちゃされるんだろうね。
絶対されると思う。
心ってなんすかとか、自分はこう思ったけど違うんすかとかあるとした時に、
やっぱり心の働きみたいなものがどんどん整地化されていきますよね。
さっき兄貴も言ってくれたけれども、
有意識ってまさに8個だね。
心の働きとか、識の働きっていうのは8個に分けて、
意識、マナー識、アラヤ識みたいなのと、
あと五感的な部分で8っていう数字になるんですけど、
なんかね、ここにもいろんなバリエーションがあって、
2つとか4つとか5つとか10とか、
いろんなのがあるんですよ。
そうなんだ、ほうほう。
2つと10っていうより少ないものと多いものっていうのは紹介することで、
心っていうものにどこまで踏み込んでんだ、
華厳境みたいな話を伝えていきたいなっていうのが本題でございましたと。
なるほど。
有意識が2つに分かれてたり10に分かれてたりするようなバリエーションがあるとかじゃなくて、
この心の話ね、今ね。
心の話、有意識が8つっていう。
いろんなバリエーションの中の8つのものが有意識で、
他にも2つとか4とか5とか10とかっていうのが、
心の分類のバリエーションとしてありますよっていう話だね。
なるほど、そっかそっか。
有意識を作った無邪気、セシールが、
この華厳境の一部を元に有意識というものを発想したと。
これを有意心論の発展系だと、有意識がね。
考えると8つにこうやって分けましたよ。
この大元というか、元にされた方の有意心論は何個か考えがあるみたいな感じなのか。
そうだね、もっと言うと華厳境自体はただ心であるしか言ってないんだけど。
そうなんだ。
ただ心であるなんだけど、
その心って何だよとかどうやって理解するんだよっていう時に、
2つだとか4つだとか5つだとか10だっていういろんなバリエーションがありますよっていう。
それは別の構成の人たちがいろいろ考えましたよっていう感じですね。
24:02
なるほどなるほど。
一応その2つとか4つとかに分けたやつも、
全部華厳境の一派ではあるみたいな。
華厳境の教えから発展させたってことらしいかな。
それが華厳宗の正当なものかとかっていうのは私と細かい話があるので。
そうなんだね。
一旦ちょっと深入りをしないんだけれども。
じゃあ今からハエトがしてくれる話は、
その華厳境のど真ん中というかオリジナルの話じゃなくて、
それをより分かりやすくとか、
整地化した時の話ってことね。
整地化かな。分かりやすいかって言うとめっちゃ分かりにくいんで。
整地化したいと思った人たちがこう考えましたって話ね。
はいはい。分かりました。なるほどなるほど。
なんでちょっとさせていこうと思うんですけど、
まず2つね。2つが一番分かりやすいと思うんで。
これは心っていうものを本心、いわゆる本物の本と、
妄心、いわゆる妄想ね。
妄想の心っていう本心、妄心っていう2つに分けたりするものがあります。
これは結構分かりやすくて、
本心っていうのがいいものとか仏的な心なんだけど、
これは結構とらわれず伸びやかで、
分別しない、区別しないみたいなね。
そういうふうな働きと、
妄心っていうのは結構、
これも結構日常に違うかもしれないんだけど、
結構固まってて思い詰めちゃって、
全然余裕がないみたいな、隙間がないみたいな。
そういう心の在り方があるよっていう時に、
要はどっちも同じ心なんだけど、
結構その心の働き方とかが違うよね。
つまりその本心、本当のここで捉えたものっていうのは、
世界っていうのはやっぱり広々として伸びやかで、
すごい安住の地みたいに見えるのに、
妄心っていう心で埋めちゃうと、
世界がその窮屈ですごく生きづらいみたいなさ。
そんなふうになっちゃうよねっていう話があるんだよね。
これは結構さ、
まさに気の持ちようじゃんとか、
心次第っていう言葉があるぐらいなので、
自分のメンタルとか精神的な在り方みたいなのが、
実際世の中の捉え方とかさ、
今日はすごい晴れやかな気分だから世界も輝いて見えるとか、
逆に今日すごい鬱陶してるから世界もどんよりだみたいなのがあると思うんだけど、
それを本心とか妄心みたいな言葉で区別してみてはどうかみたいな話が、
この2つの枠型なんだよね。
なるほど。確かに2つは分かりやすいね。
分かりやすいよね。
どっちももともと1歳回復みたいなさ、
苦しみから逃れるみたいなことで考えると、
基本的にはこっちの妄心側で、
27:01
やっぱり日々の生活も苦しい、お腹減る、
命の危険もあるみたいな、
やっぱり余裕がない状態。
だから本心という方に行きましょうっていうのは、
すごく納得性が高い気がするもんね。
そうですね。
今まさにアイキー言ってくれたんだけれども、
要はこの世には苦ばかりであるではなく、
自分の心が苦というものを生み出しているというふうな発想が仏教なんだよね。
なので本当は心は1つなんだけど、
働き方によって妄心とか本心ということになるから、
それをちゃんと理解して、なるべく本心に近づけていきましょうというか、
そういうあり方にしていきましょうという話。
これは結構素朴でわかりやすいかなと思います。
2つだと自分の頭でも覚えてられるかな、2つ。
2つぐらいならね。
次は10個ですよ。
10個いきましょうという話なんですけれども、
これは結構複雑になってきて、
わかりやすいところからどんどんわかりにくくなってはいくんだけれども、
その華厳教、難しくないじゃんみたいに難しいとか言ってた
駿沢さんもちょっと脅かしすぎですよとかって言った方にですね、
ここまで華厳教の深みがあるんですよっていうのを
観察いただく意味でもお伝えしたいと思っております。
意地悪だな。
意地悪じゃないでしょ、なんでよ。
一生懸命台本作ったんだよ。
こっちの方の10個の分け方は、
実はどちらかというと華厳宗、中国華厳宗の
いわゆる王道的な考え方です。
そうなの?
さっきさ、心は1つだから後の人たちが2つとかね、
4つとかって言ったみたいな話したけれども、
この王道の華厳宗が10に分けちゃってるんだ。
そうです、華厳宗ね。
華厳教はそこで言われてないんだけど、
そこと違うのか、華厳教と華厳宗が違う。
華厳宗は違うんですよ。
華厳教という教典に基づいてできているのが
華厳宗という宗派であって、
華厳教の教えそのものを、
華厳教に抱えていることをただ言ってるわけじゃないんだよね。
今、ハヤトがこの10個だって言ってるのは華厳宗の方ね。
宗、宗です。
華厳宗を基にした華厳宗ね。
そうです、ややこしいよね。
もう名前変えてほしいね。
教と宗の違いだけなんだけれども、
華厳宗の3代目のトップみたいな人がいて、
その人が宝蔵という名前の人なんだけど、
華厳宗というのは当然代表みたいな人が入れ替わりながら続いていくわけで、
30:00
いわゆる3番目の人なんだよね。
この人がいわゆる10個の心の働きというのを解明していくんだけれども、
なんでかっていうと、
いわゆる有意識というのも同じ時代に発展しているわけよ。
そういう時に、有意識は8個でめっちゃ精緻じゃん、すげえってなってる時に、
華厳宗も頑張らなきゃって思うわけよね。
だいぶ煩悩な感じするけどね、それはね。
やっぱり宗派だから人を集めないといけないですからね。
教えていきたいわけよね。
有意識よりすげえって言わせないといけないっていうのもあるわけだもんね。
そうなんですよね。
こっちの方が素晴らしい教えだとか、
正しく理解している、説明してくれるって言わなきゃいけないわけで、
だから10個だって話じゃないんだけれども、
でもそういう、いわゆる有意識っていうところの思想から始まって、
さっき言った、別の人に仏性、仏性があるっていうふうな発想を通った上で、
華厳宗最高なんだぜっていうふうに説明していくみたいな、
そういう発展の段階っていうのを10個に分けましたっていうようなことを整理するんだよね。
これ覚えてる方、空海の時にもちょっとやったかなと思うんですけれども、
結構そういう段階を分けて、例えば10個なら10個っていう番号を繰り分けて、
最初はちょっといわゆる言ったらだけど浅い教えというか、
初歩的な教えなんだけど、
それが深まっていって最高の密教になるみたいなさ。
ルーバーがその話をしたと思うんだけど、
話をしてるんですけど、そんな感じで段階を減っていって、
最高の華厳教の、華厳宗の教えになるよみたいな、
そういうふうなことを結構やり、
多分そういうやり口は結構あったんですよね、当時から。
そうだよね、自分が一番だっていうにはそうだもんね。
ある意味他は落とすではないけどね、
誤解が続いていると証明しないといけないもんね、それはね。
そうなんです。
なのでちょっとあと残りの時間で、
この方蔵という人が考えた10個の心の立場ね、
そこの10個の心の教えっていうのが重々有意識、
10個に重なる有意識って言っちゃってるから若干わかりにくいんだけど、
あくまでも有意心論の中で心とは何かっていうのを解き明かしていくものであります。
やっぱり有意識をめっちゃ意識してるってことなのかな、同じ言葉使って。
そうね、それはあると思う。
あとはその有意識っていうのはベースにして、
その家言集の教えを解いてるっていう、
有意識なことを言ってるよって実は家言集のことを言ってましたみたいな、
そういうのもあり得る。
逆輸入的な感じなのかな。
33:01
そうそう。
これも1個1個丁寧にやっていくとそれだけで2回分くらいになっちゃうんで、
ちょっとざっくりいきたいですって話と、
あと1個1個心の名前っていうのがちゃんとついてるんですよ。
例えば1番目の心の名前って何ですかって言うと、
それが創権屈損有意識とかって言って、無理なんですよ。
ホットキャストに向いてないんですよ。
いちいち漢字説明してたら終わんない。
意味ない。
創権するのはね、みたいな。
なんてめちゃめちゃ分かりにくいんであんまり深入りはしませんよ。
あ、ごめんごめん。
深入りっていうのは言葉には深入りしないんだけど、
教えはちゃんと伝えてきます。
分かる分かる。
これいちいち確かに漢字説明してると聞けないから、
これさ、何て検索性が出てくるの?
重々有意識。
重々有意識の重々も分かんないや。
10個が重なっている有意識を検索すると、
漢数字の10に重なるか。
重々。
重なるです。
そうすると、いろんな論文が出てくる。
論文しか出てこないんですよ。
そうか。
まとめサイトとか出てこないの?
出てこないんだよね。
SEOとか多分対策されてないんだよね。
ウィキとかも出てこない?
あるじゃん。
だいたいね。
重々有意識とは、分かりやすく解説とかさ、
重々有意識について、誰にでも分かるように言ってみたとかってあるじゃないですか。
ないのよね。
ないんだ。
ない。
僕が今検索した結果で言うと、
国際全学研究所とか、
文化遺産オンラインとかなら国立博物館とか。
何で難しい?
難しいっていうか、ちょっとマニアックな話を持ってきたんだろうね。
マニアックだね。
一応そこから検索していけば、この10個の漢字が見えるはずですよ。
一応ね。
わかりました。
一応そういうのを検索していただきたいという感じなんですけれども。
ざっくりご案内していきましょう。
さっき言った1番目の心、重々有意識というのがありますよ。
言葉がいいんだけど、
すごいざっくり言うと、これ有意識の話なので、
世界が心とか色々意識しかない時に、
それを映し出す、要は心しかないって言っても、
映し出すための心と、
映し出された映像、要は映像としての世界としての心っていうのは両方がありますよね。
でもさっき言った通り、心が世界を映す、要は塗り分けるんだから、
塗り分ける画家としての心と、
36:01
塗り分けられた絵としての世界っていうのがあるよね。
そういう風にどっちもあるよねっていう風に言うのが、この1話目の心なんだよね。
それ以外何の立場があるの?っていう話じゃないですか。
それ以外?
だってこれ1番目でここから9個あるんだよ、心の説明が。
確かに2個でいいじゃんって思う気もするね。
確かにこれがカメラのレンズみたいな話をしているとしたら、
意味も価値みたいなもの、
少ないの真っ白い世界を映すレンズみたいなものがあるとしたら、それがあるよね。
1個目にそれを自分なりに意味付けとか色付けをするキャンバスがあるよね。
以上って言う気がするけどね。
そうだよね。
で、王道なんですけども、まだここから9個。
2番目ね、それがどうなるかっていうと、
さっきエニキュー言ってくれたレンズとキャンバスというか世界があったときに、
でも結局、映し出された映像とか世界というものも、
もともと心から生まれているじゃないですか。
映し出されたって言ったもんね。
本当はそれも心といって差し支えなくないですかね。
そうだ、レンズにもいろいろあるわ、確かに。
レンズにもいろいろありますよ。
別にレンズだけでいいじゃないかな。
レンズだけでいいじゃないか。
もう一回言ってみてくれ、レンズにもらえたらどういう意味?
今聞いて思ったのは、レンズにもちょっと歪んでたり傷ついてたり、
人によって持っているレンズ違うじゃないですか。
そうですよね、広角レンズとかまだ望遠とかもあるから。
そうそう、人によっていろいろあるだろうみたいなね。
レンズって言っちゃうと、今ので解決しちゃう気もするけど、
レンズにもらえたらまずそこを把握しましょうって言われたら、
まあわからなくもないよねっていう。
しかも世界の聞い取り方も、広角なら広く見えるとか望遠なら狭く遠く見えるとかっていう風に、
要は心の在り方で決まっちゃうよね。
言ったら別に世界のことを云々する必要はなくて、
ただ心、今で言うとレンズだけについて考えたらいいじゃないですか。
っていうのが2番目の立場なんだよね。
なるほど、そういうこと。
そっかそっか、心にはいろいろ、レンズにはいろいろありますよね。
レンズはじゃなくて、そもそもそういう風になってるんだから、
もうその世界の話はもういいでしょうと。
あ、そうそうそうそう。
わかった。
そういうことです。
相当にね、世界そのものについては、
もうみんなが違うレンズを持っているから、
39:02
そもそも議論のしようがないっていう話で、
議論できないものは一旦置いておきましょうねっていう話ね。
一旦ね、この2番目の心の世界の話で言うとね。
わかった。
もう一回言うと、要は1番目は、
まさにレンズと世界両方の話をしてましたと。
どんなレンズで撮ったらどんな世界になるのかなとか、
どんな打ち出されるのかなっていう話をしてたんだけれども、
そもそもレンズが決まれば打ち出される世界も決まるわけだから、
レンズのことだけ考えればいいでしょう。
これはこの2番目の話ですよね。
すごいでしょ、この1から2だけでも。
そうだね、確かに。
これ全部やったら2回分以上っていうのは納得だね。
これ一個一個ちゃんとできそうだもん、なんか。
できるんです、全然できちゃうんです。
それは論文も出てくるって話なんだけど、
3番目はね、何回読んでもよくわからなかったんですよ。
4番目に一回問わせるんですけど、
ここでお馴染みの荒屋敷が出てきますと。
有意識の荒屋敷。
有意識ではこの敷は8つある、8個あるって言ってると思うんですけれども、
さっき言った通り、ただ心だけしかない。
心も要は8個ある。
心にも8つの区分けがあるとかって言ってるんだけれども、
そもそも荒屋敷以外の7個っていうのは、
結局荒屋敷が展示で現れたものっていうふうな発想とか説明があるんですよね。
なので、心しかないって言った後に、
心もでもいろいろ分けれるんじゃないかって言うんだけど、
でもその心を分けても結局荒屋敷だけだっていう話になるんで、
僕は心について考えたんだけれども、
実は荒屋敷についてだけ考えればよかろうと。
4番目の段階なんですよ。
そうするとここまで来るとさ、
僕らが普段使っている心っていうものとはだいぶ違うものを考えていくようなことは分かると思うんだよね。
分かった。だって荒屋敷もうまく説明できないもん。
できないもん。だって荒屋敷無理だよ。
荒屋敷だけするこそね、荒屋敷だけでも一回分かれるという意識で、
もしよかったらまた聞いていただければと思うんですけれども。
ものすごい社会観だったよな、荒屋敷。
すごいでしょ。
なので、要は1番目からいくと、
要は世界と心ってのがあったんだけれども、
世界も心に吸収されて、心も荒屋敷に吸収されて、
結局全ては荒屋敷です。
だからこの4番目の段階なのね。
次5番目いきますよ。
5番目何が起きるかというと、
世界も心も全部荒屋敷に吸収されました。
でも、そもそもこの世って空じゃないですか。
なると、荒屋敷ってその本性というか、荒屋敷も空なんですよね。
42:04
つまり、その本性がないということが全てでしたというようなところになります。
いくと、その心っていうか荒屋敷が世界を作っているという風に考えてたんだけれども、
そもそも結局その荒屋敷と心ってのは全部空が本質なので、
今まで語ってきたことは全部現実世界の話でしたよと。
つまり仏の世界のことを言ってたんじゃなくて、
これは全部ただただ現実世界のことを説明したことに過ぎませんねという風なことが理解として出てきます。
そうだね、そうだね。
四季即絶空でいう四季の話しか今までしてないよね、実はね。
本当にそう。すごいね、お兄さん。仏教マスターになれる。
だから荒屋敷の話をしていることで空側の話をしているつもりになっているかもしれないけれども、
荒屋敷ですらも実は四季の話だから、まずそこを理解しようぜ、一旦冷静になろうぜという話をしているわけだよね。
そうです。音だとわかりにくいと思うんですけど、四季即絶空の四季は色なので、
いわゆる現象とか現れて世界に現れているものとかそういうものなんですけど、
まさに空の話をしていないから、これまで言ってたことは全部仏の本質の話ではありません。
この境地で物事を見ましょうねっていうのがこの5段階目の心の話なんだよね。
ここまでで半分です。
ではここがどうなるかというと、ここから空の世界に入ってくるんですけど、
これ何かというと、6ヶ月前にちょっと名前をお伝えしたいんだけど、
天心、常持、有意識っていうもので、天心っていうのはいわゆる天汁、
真は真実とか誠で、常持は成る、常持する感情に事です。
つまり誠のものが天汁で事になるっていう話なんだけれども、
これは空即絶四季の話なんですよ。
誠ってのは空で、それが天汁で四季になる、地になるって言うんですけど、
つまり空の立場って真なる世界だと仏の世界としたときに、
その真なるものが天汁で、いわゆる事とか物とかの世界になるよと、
現実世界が立ち上がってくるんだっていうような話なんだよね。
僕らは1段階目で現実的な世界っていうのは心と世界だって分かれて、
現実世界を分析してきたんだけど、
5段階目に至って、いや実は空だったじゃないかっていう話に気づいて、
45:02
その空がどうやって現実世界を生み出していくんですかっていうような働きを、
今6番目で考えるようになるっていうような話なんだよね。
そうだね、どう展示させてるんだっていう話だね。
なので、これ面白いのが、6番目とかそれ以降の話っていうのが、
結局5番目までで仏の世界にやっと取り付いた、そこまで潜った心っていうのが、
改めて現実世界を知っていくとこうなりますよっていう構造になってるんだよね。
そうなんだ。
なので、さっき言った通り、世界っていうのは要は同じとか平等で一つなんだけど、
それを現実世界の要は、ある種仏の考え方でいうと、
いわゆる穢れだというか曇った。
目で見ると、物がいっぱいあってそれがそれぞれ区別されててしか見えないんだけど、
一回空というふうな本質とは仏の世界を見た後で見ていくと、
この世界っていうのはその誠とか仏っていうものが展示できた世界なんだってことが、
ちゃんと認識できるよねっていう。
そういうふうな段階の言葉として、この6番目の天心造事有意識っていうものを考えてるんだよね。
面白いね、そっかそっか。
今はまさに四季即是空の、
うちらは四季の世界しか知らないから、
まず四季即是空と、空になる空ですよと、世の中実はっていう話まで、
次は空即是四季っていうふうに、
空っていうものの存在を認識した後で、
空即是四季の四季に転じる、空が四季に転じるっていう概念があることで、
またちょっと見えてくる世界変わるんじゃないですかっていう話をしてるってことなの、ここで。
そうです。変わるんじゃないですかっていうよりは、全然違うよねって話をしてるんだよね。
そんな言い切ってんだもんね、こういう人たちはね。
そうそう、言い切ってます。
すごいね、僕もうちょっと詰まるかなと思って、
いろいろ用意したんだけど、何か言おうかなって。
でも全然スムーズだったから、多分大丈夫。
もしここまでの話で、
全くこの人たち何の言葉言ってるかわかんないよっていう人がいたとしたら、
以前の、多分ナーガール・ジュナの空のあたりとか、
あと無邪気な世信の無意識、多分この関係を聞くと、
あと大城仏教とか鎌倉仏教とか、
結構多いな、多いな。
ほぼ仏教全部だよ、それ。
そして仏陀の話もありますぜ、みたいなね。
長いな、結構あれだね。
多分兄貴は無意識というか、僕に洗脳されてるんだよ、仏教に関しては。
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200回聞いてるからね。
2年間やってるからね。
なるほどね。
普通はこんなにスルスル、多分理解できないし、
それって空俗自識じゃんとかってならないと僕は思うので、
本当にすごいなと思うんですけれども、
確かに今言ってくれた通り、
全然わからんとかってなった方は、
ナーガール時代のクーの回とか聞いていただけると、
そもそもクーだよねって言って伝わる人なんていないわけですよ、
基本的には。
ちょっとよかったらもう1回ナーガール時代の回を聞いていただくのは、
確かにめちゃめちゃお勧めでございます。
全部腑に落ちて喋ってるわけじゃなくてね、
こういう知識のつなぎ合わせでリアクションしてるに過ぎないからね、実はね。
あと裏話で言うと、こうやって話したより第2回は編集で聞いたりするじゃん。
結構毎回2,3回聞いてるんだよね、たぶんね。
聞いてる聞いてる。
最低2,3回くらいは聞かさってるかもしれないね。
実はこのお兄さん、宗教、仏教の初心者のフリして意外と聞いてるっていう人ですっていうのを改めてお伝えしておきましょう。
確かに200回分だから600回分くらいは聞いてるよみたいな。
そうね、すごい時間だからね。
確かに。
もうちょっとちゃんと説明させていただくと、
この6本あるのは天心浄瑠有意識っていう説明がありまして、
本の説明を借りると、要は心とか、いわゆる荒屋敷とかっていうレベルの心なんだけれども、
この心の奥底にはやっぱり仏性、仏性っていうものがありますよと。
それがみんな平等なんですよ。
さっきレンズを例えて言うと、レンズは光学もあったり、望遠もあったりって言ったと思うんですけれども、
引き詰めていくとレンズはレンズだというか、
一切曇りなく世界を映し出すみたいな、そういう理想的なレンズっていうものがあったときに、
それからいろんな人のレンズが派生してるよっていう風な考え方なんだよね。
一切曇りなき仏の心っていうのが誰にもあって、
そこからそれぞれの人の心っていうものが分かれてるというか、ちょっとずつ違ってしまっておると。
だからあれだよね、確かに。
最初レンズな人に一人違うかもみたいな話はしたんだけれども、
この仏性っていう意味においては、みんな曇りなき空の世界を認識できるようなレンズをみんな持ってるんだと。
51:01
それに何か被さってるとか、それが傷ついちゃってるとか、それに色眼鏡かけちゃってるみたいな、
多分それだけの話ってことなんだね。みんな持ってますよね。
まさる通りです。まさる通りです。
やっぱりこの手にあるからこういう話ができるんだけど、
そういういわゆる平等さというか、みんなが全く同じ曇りなきレンズの仏性を持ってるっていう風な区別のなさ。
が根本になってたら、それをある種否定するというか、
そこからやっぱりちょっと曇りとかちょっと欠けてるとかっていうことがあって初めて、
この現実世界っていうのができてくると、まさにそれは真実なんだよね。
なので、それがある種その現実世界っていうのはつまり心そのものだよね。
要は世界というものが心というものの、いわゆるバラつきによって世界もバラついてくるみたいな、
ほぼイコールだよねっていうような考え方が、この心と世界は一緒だとか、
三界は古茂にして、ただ一心の諸差であるみたいな、そういう言葉につながってきますよという風な話なんだよね。
なるほど。
なので、今その1から6まで来たんだけれども、この1から6のそれぞれのどの段階で心を持っていますかっていうことによっても、
世界の立ち会われ方って違うんですよと。それを精緻に分析したんですよっていうのは、この宝藤さんがやったことなんだよね。
すごい、確かにこれは有意識、あらゆる意識を超えてるね、これは確かに。
こういう感じするじゃない。
もちろんあっちよっちすごいんだけれども、まずはこれ6番目のあとの4つあります。
7、8、9、10あるんですけど、ちょっとここから駆け足で見ていくんだけれども、
7番目になってさ、さっき6番目で誠の世界が転じて現実の世界になりますよっていう話をしたと思うんですけれども、
実はこれも要は区別しちゃってるじゃん、誠の世界とか現実世界とかさ。
確かに。
転じると言ったんだけれども、実はこの2つの世界も全然区別できないんですよ、本当は。
これで本当は解き合っていて、1つの世界のことをただ2つの世界と言っているとかある種、見誤っているだけなんですよっていう話があって、
これを華厳経とか華厳宗の言葉で理事無下って言いますと。
これちょっとまた次の次ぐらいで詳しく説明しようと思うんで、一旦言葉だけ、理事無下って言葉だけ覚えておいてください。
続くんだ。
続きます、はい。
これは僕すごい好きなというか、素敵な発想と思っているので、もうちょっとこれは左右を分けて詳しく説明します。
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今言った通り、仏の世界と現実世界は区別できませんでした、一緒でしたってなった後に、
8番目と9番目は実は同じことを違う角度から説明してますよっていう話なんだけれども、
世界全体の話をしたじゃないですか、要は仏の世界と現実世界というものが一緒だと話をしたんだけれども、
世界の中には当然いろんなものとかことがあるわけじゃないですか、構成物がね。
構成物同士も全部実は解き合って関連して存在してるんですよっていうのが、この8番目、9番目の説明です。
僕らは目の前によくパソコンがあってマイクがあってモニターがあってって言うんだけれども、
このモニター、パソコン、マイクとかっていうそれぞれのレベルですら全部が解き合って、
全部が一つのものとして存在してますよっていうことを言い出すんだよね。
だから仏の世界にあるなんかすごい煌びやかな、わかんないけど宝石みたいなものも、人間世界にある石ころも同じです。
なんか因果とか十二縁起的な、そういうのに近い感覚なのかな。
ちょっと違うんだなあ。
違うんだね。十二縁起もちゃんとさ、理解してなくて諦めてるのにさ、それとも違うんだなって言われても全くピンとこないんだけど、違うんだ。
何が同じ何が違うのかみたいな話だと思うんですけど、
ちょっとそれをある種比喩的に表現するのが最後の十番目、最高段階のことと言われるあの心なんですけど、
これがね、名前で言うと大門向け優意識って言いますか。
これ何ぞいて話なんだけど、この大門っていうのがいわゆる中国の宮殿、ちょっと伝説的な話だと思うんだけれども、
そういう宮殿にかける飾り布で、いわゆる大門、帝の網っていう話なんだけど、
これが一つ一つの網ってさ、結び目でできてるじゃないですか。
この結び目の一つ一つに宝石が全部潰されていて、
この宝石がいわゆるね、結ぶと言ってもいいんだけど、宝石同士がお互いを輝かせ合うとか、お互いに映し合うわけよね。
いわゆる一つの宝石の中に他の宝石が映り込んで、さらに別の宝石の中にも他の宝石が映り込んでっていうふうに、
一個一個の宝石が全部をお互いに照らし合いながら、お互いを映し合ってますみたいな、そういう世界観がある。
っていう時に、これってある種もう無限と言っていいぐらい、お互いの関係性っていうものがそこに映し出されてるわけなんですね。
一対一の関係なんじゃなくて、一対無限みたいな、そういうふうな物事っていうのは関係をしているから、
57:06
マイクっていうのはモニターともパソコンともティッシュとも本とも、いろいろ目の前にある物は全部言ってるんだけど、
そういう物と全部実は関係をしていて、その関係の中においてあるんですよ。
しかもそれはあるって言ってもマイクとしてあるんじゃなくて、マイクとしてもあり、モニターとしてもあり、パソコンとしてもあるっていう、
全ての物と実はわけ隔てなく平等な物として存在しているんですよっていうことを言いたいのは、この9・8・9・10番目の世界観なんだよね。
わー面白いね、なるほど。今聞いて思い出したけど、9の時に9を一言で言うと、自分的に理解したのが、
全ての物が絶対的な物として存在することはできず、相対的な物としてしか存在できないよみたいな感じで理解して、
わー面白いなーって思ったんだけど、例えばマイクもだろうね。マイクっていうのがあった時に、
今は音声を捉えて録音するために使ってるんだけれども、マイクという絶対的な物にしても人を殴る物にも使えるかもしれないし、
分身としても使えるかもしれないし、あらゆる一つのマイクというものが空だとすると、
それを仮に式になった時に、自分にとって何としてこの世に出現するかは、本当に人による状況による話だもんね。
そうなんですそうなんです。まさにその通りで、だから相対的な話もそうだし、いわゆる関係の世界。
やっぱりマイクが観音という人間と関係するなら、いわゆる音声収録装置になるし、
本というものと関係するなら文字になるかもしれないというふうな形で、そういう関係の網の目の中で式の在り方っていうのは変わってくるんだよね。
今は現実世界の話をしたけれども、さっき言った現実世界と仏の世界というのも一つだから、
仏の世界のものとも、我々この現実世界であるマイクというのは何か関係しているかもしれないというか、絶対に何か関係しているはずだと。
恐ろしい世界の広がりの中で、全部が溶け合った一つだというふうな発想で世の中を見るような認識とか心の在り方があって、
これが対応向け有意識ですというような話なんだよね。
なるほど。
ここまで行くと、一番目の写し出す行動、写し出される心があって、それは有意識ですみたいな話とは明らかに違ってくるというのがわかる。
確かに。2個じゃ説明しきれないかもここまで。
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そうなんだね。そうなんですよ。
ここまで行くと、やっぱり心というものが一筋縄では行かないというか。
恐ろしいし、ここまでやられちゃうと、確かに不協とかしてて、もしくは理論してて、自分はこう思わないんですけどって言われた時に、
ここまで言われちゃうと、もう無理かも、これに反論するとか、じゃあこのケースは?っていうのが全部吸収されちゃう気がするもんね。
そうそう。それはお前2番目の話してるんだよ、あとやったるんだよみたいなさ。
言われたら、ははは、すいませんでしたみたいな感じになっちゃうと思うんだよね。
もしくは理解したとしたら、もう同じだよね、ははは、ついてきますみたいなね。
そうそうそう、理解してきました、ありがとうございますみたいなさ。
っていう風になっちゃうので、ある種この重々有意識っていうのは、心と世界の関係性というか、
そもそも心と世界が一つだって言った時に、有意心だよね。ただ心だけがあるって言った時に、それが結局何を表しているのかとか、
どういう風なことでそれが言えるのかっていうことを、きちんとストーリー立てて伝えてますっていう風な話なんだよね。
いやー、ストーリー、そうはね、段階的に理解させてくれる感じがめっちゃすごい。
なるほど、なるほどって思っていただけたら嬉しいし、思えない方もむしろ普通だと思っていて、
そんなね、これを分かりましたって言う人は、もちろん僕も分かってないと思っているし、
分かりましたって言ってる人はもう悟ってるか嘘かのどっちかと思って、
ある種そういう風な分からなさというか奥深さというものをね、感じていただけたら嬉しい。
そういう教えっていうのが、ケゴン教とかね、あるいはそこから出てきたケゴン宗の教えにあるっていうのを感じていただけたら嬉しいなと思っていますという風な感じなんですね。
なるほど、ケゴン教かな?ケゴン宗?
ケゴン宗、まあケゴン宗、どっちもだね。
もっと広まっていいと思うけどね。
おー思った?
思った思った。でも一方でやっぱり難しいから、こういうののエッセンスを分かりやすくしたりとかね、やっぱりその、
えっと、どこだ、タマクラ仏教かな?
あの、例えば一編がやってた、
はい、踊りネーム。
そうそう、とかさ、ああいうのがやっぱ必要だったとかさ、生身が仏だけでいいとかっていうのもやっぱ必要なんだけれども、
1:03:00
そのナミアム、ダブツだけでいいですよっていう裏にはこういうものがあるよっていう話で、
だからこれにしたら広まったら難しいと思うんだけども、そこがもうつながってるんだなっていうのはすごい感じたかな。
ね。
この一部の話だけさ、今回だけでも多分1時間くらい話してて、前回ね導入も1時間話してて、これまでね散々仏教だやらナーガル時代だやらって散々話した上でのやっぱり今回だからね、
それは仏教には向いてないよねって思うし、ただ実はね、次回は話したいのがまさにその辺りのところで、
ちょっと今回は結構ゴミって話だったんで、少しあっさりめにね、誰もが仏教、仏性を持つ、とりあえずどういうことなのっていう、それは華厳教ではどう言ってるのっていう話をしたいんだけども、
結構それを見ると、あ、だから華厳教とか華厳宗広まらなかったんだわっていうのはもうちょっと関心いただけるんじゃないかなって。
そうなんだ、ダメだったんだ、そうなの。
そりゃ広まらんわね。
ダメっていうわけじゃないけど広まりにくいんだ。
ダメじゃないけど、そうそうそう。
っていうのはもう構造上そうなんですよ。
あるんでちょっとその話っていうのを次回お伝えして、さらに一段華厳教とか華厳宗の面白みっていうのをお伝えしたいというふうに思ってますというふうな感じでね。
へー、わー楽しみだな、だってここまで来たら信じるしかないのにさ。
おー、すごいね、アイヌキは経験だね、なんか。
多分騙されやすいね。
騙されそうね、今どれにも全部入信してるからね。
そうそうそう、キースト教にも入信してるしね。
玉教も全部入信してるからね。
ハッピーだとは思うんですけどね。
そんな感じで華厳教のある種独自性っていうのは引き続きお伝えしていきましょうというふうに思っております。
ちょっと引き続き今日は華厳教、華厳宗の世界を楽しんでいきたいと思いますので、次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
01:05:16

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