00:11
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回から心をテーマになっていくというところで、まずはその心っていうのが、すごいその地域だったりとか、その時代によって全然その捉え方が違うし、めっちゃ広いんだよというところを見てきたというところでした。
はい、そうですね。今回はもうちょっと範囲を絞って、いわゆる現代的な科学の領域において、心っていうものがどんなふうに扱われているんだとか、そこにどんな問題が山積みになっているんだみたいなことを見ていきたいというふうに思っておりますよと。
はい、ちょっと前回もおっしゃった通り、自分も実際大学では心理学科だったわけなんですけど、結構言っても2、3年ちょこっとやっただけなんだけれども、いろんな問題があるんですね。
心っていうものを科学的に捉えようと思った時にいろんな問題があって、そこに切り込む勇気が出なくて冷めちゃったというか、なんかこれやってても自分が知りたい心とは何かとか自分の心を知るっていうのは繋がらないかもと思って、冷めちゃった感覚があったんですよね。
そうなんだ。
もうちょっとその時に深く入り込めていたら、人生違ったのかなとか、そういうことも思っちゃうんですけど、そしたら絶対こんな、それでスタジオやってないだろうし。
それはちょっと気持ち分かる気もする。
分かれればなんだけどね。
学問領域に突っ込むことの、ちょっと属性から離れる感と、自分の問題をもっと、例えば人の役に具体的に立ちたいみたいなさ、との差みたいなものって大学生の時にどっちを取るかとかさ、そのバランスってすごいむずいよね。
そこまで交渉じゃなかったけどね。
実際に社会に出てみて、例えば人と交わる中で、やっぱりもっとあそこ勉強すればよかったみたいなのとか、あそこもっと、例えばもっとやってれば、具体的な学術的にここもちょっと説得力持って話せたのにみたいなのとかさ、いろいろそこのバランスってあるようになる。
そこまでじゃない。
学歴はすごい社交的だよね。
そうなの?社交的?
今も人と交わってる時っていうのを前提に話してたじゃない。
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まあそうだね。
僕は人と交わることを前提に考えてなかったから、そもそも社会に出たくないなとか、仕事したくない、どうやったら一人で生きていけるんだろうってずっと思ってたし、
別に社会人になってからもう別に役立つから学びたいとかじゃなくて、もう自分の人生の意味がわかんないからとにかく救いを求めるように手伝ってくれるような感じだったから、人のこととか関係ないよね、別に。
なるほど。
自分でどう生きていくかとか、その中でも役割みたいなものはあんまないんだね。
今はさすがに結婚して子供生まれてとか、エリアデザイナーっていう仕事をしてる中で、人のためにとかってのはなくはないんだけど、そこは基本、自分の人生の意味を深めたいとかってのが強いから。
ああ、なるほどね。
僕から見た兄貴はすごい社交的なんだよね。
はいはいはい、なるほど。
そういう意味ではなかったのか、冷めたっていうのはね。
冷めたっていうのは順に、これやってても自分の知りたいことを知れよさそうみたいな。
でも、生きていかなきゃいけないし、実家に帰るわけにも向かないし、ご飯食べなきゃみたいな。そんな感じ。
ある意味、学者になった方が良かったんじゃないかっていうね。
慣れたらそれはもう最高ですよ。
難しいけどね、学者の世界が社交的じゃないかって言ったらめちゃくちゃ社交的だから、それも難しいんだけど。
別に学者さんになったからといって、そもそもなるのが難しいってのもあるし、なったからといって、それこそコミュニケーションとか組織の中で生きるっていうのは大事なんだけど。
でも、そういう生き方をしてる人は羨ましいなと今でも思ってしまう。
これはね、もうほんと、ほらればなし、周りの芝生は青いっていう話なんだけどね。
それはちょっと、やっぱり大学時代の話だったら、大学時代楽しかったからさ、ちょっと教習の根に刈られちゃうんだよね。
そうだね。
まずね、現代的な意味において、心とは何かっていうのは、ある種学問的にやっていきましょうといった場合なんだけど、
いろんな方向性はあるんだけど、大まかに前回、日本の心っていう言葉で言ってたと思うんだけど、
やっぱり心そのものっていうよりは、例えば意識とはとか、知覚とか認識とはとか、感情とはとか、
これは自我でもいいんだけど、やっぱりそういうふうに、いわゆる個別な概念を指して、これは心っていうものが関わってるっていう現象だっていうふうに取り扱うんだとか、
知覚とか意識っていうものを通じて、心という概念を捉えていくんだみたいな、そういうふうにやっぱり取り組みになるんだよね。
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これも一筋縄では行かなくてさ、意志について考えていきましょうといったときに、
意志って何かを、意欲みたいなものとか、例えば偉くなりたいとか、そういうふうなものが人間の自由意志とかって言われたりすると思うんだけど、
それがいわゆる心の働きだ、そういうふうに関係するんだっていうふうな人もいれば、そもそも意志なんていうことが後付けで存在したいんだとかって人もいますよと。
よく知られた脳科学の実験であるんだけど、人が何かを思う前に脳細胞っていうのを活性化してある種の電位っていうのを計測できて、
その活動電位っていうものを外部から電流を加えて打ち消しちゃうと、主観的にはその人には意識が生じなかったみたいな、そういうふうな実験とかもあったりするんですよね。
そこまで実験してんだ。電流消しちゃうんだ。
そう、電流消しちゃうんだよっていうのは結構あったりして。僕もこれ大学時代とかにして結構衝撃を受けたんだけど、やっぱりある種意志とかっていうのも、僕らはね、自分が例えばこうしたいと思ったとか、
なんか怒りを感じたとかって言うんだけど、結局は身体的な活動電位とかホルモンバランスとか、そういうのは後付けで説明してるだけじゃねえかみたいな話もあったりするんだよね。
なるほど。確かに今の実験怖いよね、聞くとね。
ゲームで言えばさ、自分で矢印ボタンとかAボタンを押してジャンプしたり走ってるように感じてるんだけど、
それは誤解で、誰かがもうすでにAボタンを押して自分の頭に電流が走ったことを自分がAボタンを押したと勘違いしてるっていう状態だよっていう実験だもんね、これね。
誰だよってね。俺を操ってるのはってね。この電流流したの誰だよっていうところに行き着いちゃうわけだ。
そうですそうです。それが心だっていうこともできるけど、そんな単なる身体の電気信号の走りだから別にそんな死体はいませんみたいなふうにもいけちゃうわけなんだよね。
怖い怖い。それだってね、自分の外じゃん、その電流の。そういうふうに言うと。怖い怖い。
ちょっと今思い出して、これ前に言ったかもしれないけど、人が物を見るときの話って言ったことある?あんまないかもしれないんだけど。
わかんない。知ってるかもしれないけど忘れてるから。
片目をウインクでつぶると、要は片目分の視界が見えるじゃないですか。でもこれ実はおかしいところが一つあるってわかる?
え、おかしいところ?いやわかんない。
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何かっていうと、人って盲点があるじゃないですか。本当は片目で見たときってその盲点の部分は見えないはずなんだよね。
あーそっか、両目でその盲点を保管し合ってるはずだから、片目で見たときってあの黒い盲点の部分は無になるはずっていうこと?
そうそうそう、本来ならね、黒くなって見えなくなるはずなんだけど、実はこれって脳が補正してるらしいんだよね。
え、あ、そうなの?
そう、周辺の情報とかを補って、要は穴が開かないように映像を作り出してます。
へー、そうなんだ。
だから僕らが自然に見てると思ってる現実って、実はもう脳で結構補正されて、ちゃんと違和感がないようにされてるものなんだよね。
えー、あ、そうなの?じゃあ最近の、ほらあのスマホとかでさ、あの人だけ消しますみたいな画面の。
あ、そうそうそう。
ああいうことをやってくれてるってことなんだ。
うん、そんな感じ。
へー。
いい感じに背景つけときましたみたいな、そっち進んじゃうんだよね。
おーおーおーおー。
ちょっとこれも結構古く、前に聞いた話だから本当にそうかとかってあると思うんだけど、
結構僕はそれを聞いて、人間なんて所詮そんなもんだなって思ってるみたいな話があるんですけど。
そっちなんだよな。人間ってすごいなーじゃなくて、所詮そんなもんかみたいな。
そう、所詮作り物をね、脳の映像を現実だと思ってきてるんだなって思ってるんですけど。
まあまあそんな感じでね、脳みたいな話もあるんだけど、やっぱりこう、人間のそういう意識とか認識的なやっぱり働きっていうものを、
物理的なものを作ろうとしたときに、やっぱり一番候補にあってくるのはどうしても脳なんですよね。
うんうんうん。
で、そうすると今度出てくるのは、じゃあ脳と心って同じですか?みたいな。
脳が結構大きなテーマになってきて、これいわゆる現代的に心を扱おうと思うと、脳みたいなものはすごく大きなものとして横たわってきますよと。
うんうんうんうん。
その際にちょっともっと後で話すんだけれども、脳の話を続けていくと、自然に考えると脳と心っていうのは違うよと言えるかなと思います。
例えば言葉が違うっていう話があって、そもそも脳と心って違うものとして指してるっていう話もあるし、
普段僕らは心っていうものを考えると、いわゆる非空間的なもので、場所に限定されないじゃないですか。
別に心っていうものがどこかにあるわけじゃないし。
うんうんうん。
例えば日本語的にも心配りみたいな言葉があると思うんだけど、別にこれって物としての心を渡してるわけじゃなくて、
そういう振る舞いとか気遣いとか、そういうふうな態度を通じて心を伝えている。
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兄貴が前回言ってくれたけど、心って、いわゆる町で公園中のおばあさんに関するときに立ち振る舞いから感じるものとか、
逆にその表面的なものじゃなくて、いろんなものを総合的に考えたときに、心っていうものを感じるよね、みたいな。
そういうふうなものだと思うんですよね。
うんうんうん。
みたいな感じで、いわゆる自然に、僕らは普段使っているように心っていう言葉を考えると、
やっぱりその何だろうな、いわゆる限定できるものじゃないというふうに言えますと。
逆に脳っていうのは当然空間的なもの、物質的なもので、人間で言えば基本的には頭蓋骨の中にあって、物理的には存在しているものですよと。
なので、自然な言葉で言うと、心と脳ってやっぱり違うよねっていうふうになるんだけれども、
学問的に言ったときに、いやいや実は脳っていうのがずばりと心なんじゃないかとか、
心っていう働きをしっかりと分析していくと、脳の働きに近づけるんじゃないかっていうことをやっぱり言えたりするわけなんだよね。
うんうんうん。
なので、このあたりをどうやってやってるのか、哲学とか科学においてもすごく重要になってきますよっていうのは、現代の心の問題になってきますよと。
はいはい、それこそ心っていうものに対して科学的に切り込んでいくと脳にたどり着くみたいな。
あるけどね、やっぱり。
同じであろうみたいなところに今どこいるって話だもんね。
そうですそうです。
ただね、ここでじゃあもう一歩ちょっと踏み込んで考えていくんだけれども、
この心っていうのはさっき言ったとおりいろんな要素があるわけだよね。
自我とか意識とかさ、あるんだけど、
実は共通点が見えてくるんじゃないかっていう話があって、
さっき言ったような意思とか自我とかっていうのもそうなんだけれども、
実はこうやって全部、自分はそうであることを知っているみたいな、
内省の働きにひき戻れてるじゃないかっていうふうに言われるんだよね。
そうなんだ。
つまりデカルトなんだけど、要は仮に感覚が欺かれる、
要は熱いと思って触ったものが実は熱くなかったとかってことはあるんだけど、
ひたすら自分が熱いと感じたとか、そういうことは残りますよね。
で、最近さ、これも雑談っぽくなっちゃうんだけど、娘がマジック動画にハマってるんですよ。
マジック、手品。
手品ね。自分でも手品とかやってるんだけど、
手品って種がわかったとしても、
どう考えても、コインは消えたようにしか見えませんでしたとか、
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カードはビリビリに破れたようにしか見えませんでした、
っていうふうにやっぱりなるわけなんだよね。
っていうときに、事実、コインは消えてはないんだけど、
やっぱり消えたように感じたって、その事実ってやっぱり否定しようがないじゃないですか。
そうね。
っていうときに、この事実、私にはそうとしか見えなかったっていうのがある種の内省だとしたときに、
主観的なものをどう扱うか。
これを科学とか哲学の対象にどんなふうにできるんだっけっていうのが、
心とは何かを問う場合のめっちゃ重要な論点になってくるんだよね。
だからやっぱりその主観的なもの、私にはこう見えた、感じたっていうものをどう扱えますか、みたいなものが、
要は心の問題としてくっついてきます。
わー、あー、なるほど。
今追いついたと思うけど、
だから脳科学とかの分野になっちゃうと、今手品の話でいうと、
コイン、はいもう一枚持ってましたーっていう本にどうしても行きがちだと思うけど、
システム部分ね。
そうなんだよね。
そうじゃなくて、言うても電流流れたのはわかったと。
だけど自分はこう感じたんだよ、どうしてもこう感じてるんだよ。
そこはやっぱり抜け落としちゃダメだよねって話ってことね、心扱うと。
抜け落とし、あれを排除してもいいですか、それとも排除しませんかっていうふうなので派閥がいっぱいあるって話かな。
それはそれであるんだ、もう排除すべきだみたいなのもあるんだ。
そうそう、全然あるある。
心部分みたいな脳と、心でいうとね。
この後ね、またちゃんと言ってくんだけれども、まさにそれを脳しかない、心なんてものないんだってやっぱり一つもいれば、
心っていうのは脳を超えたものなんだみたいなやっぱり一つもいるんだよね。
へー。
うん。
だからここは単純にやっぱり切り分けれないんだけど、
で、じゃあさ、兄貴言ってくれた通り、脳って別にみんな同じ脳、同じというか、脳の働き自体同じなわけだから、
例えば人類全員の脳を調べて、それに対して共通点とかを見出していけば、心みたいなものが浮かび上がるんじゃないか。
あとは単純に、いわゆる実験心理学とかって言われるものがあって、
やっぱり実感的な手続き、要はさっき言ったように、何か合図があったら矢印を押すとか、ボタンを押すとかさ、
そういった実験の中で、ある刺激に対してどう反応するかとかっていうところが、当然実験はできるわけなんだよね。
できるだけ客観的な科学的な手続きで、思考的なものを配置した上で、心に迫れるんじゃないかという取り組みがもちろん行われていますよと。
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だから別にそんな主観主観とか言っても、心も客観的にできるんじゃないかっていう話もあるんだけど、
でもそもそも何かを認識するとか、あるいは臨床主義の観点でいうと、病気とか症状を回復するみたいなことって、やっぱりすごいそれも主観なんだよね。
病気が良くなりましたっていうのも、当然いわゆる血液検査とか、何かこういう行動ができるなとかっていうのもできるんだけど、
やっぱりそれ自体もすごく主観的で、いわゆる数値的には何も問題ないけど、やっぱり具合が悪い人とかって言ったりしますよ。
いうときに、やっぱりフリコの運動方程式を解くみたいな感じでは、人の心ってなかなか説明はできないんだよね。
そういったときに、やっぱりそもそも主観的には扱いにくいとか、主観という要素が含むものを、
どう把握的、あるいは学問的に切り込んでいきますかというところが、まさに歴史の中でいろいろいろな人が試行錯誤したりとか、自分の立場を主張しながらやってきたことなんですっていう話なんだよね。
ここまでが前座みたいな感じで、ここから具体的にどんなバリエーションがありましたかっていう話をお伝えしていこうというのが今日のメインテーマなんですけど、
前回お伝えしてきた通りで、西洋においては心と体はセットで扱われてきたんですよね。
これはデカルトみたいな話でいくと、心と体ってどう関係してますかっていうと、
心っていうものは何で、体っていうものは何で、それぞれどんなふうな成り立ちがあるから、
それがこういうふうな関係してますよねっていうようなことをいろいろ解き集めて、解き明かしていきましょうっていうのが、西洋の学問的な流れにあるんですよね。
この立場はオークドライトで2つの区別があるらしくて、
1つは心と脳ね。心脳一元論と心脳二元論がありますと。
つまりさっきの話なんだけど、では心と脳って同じですか別ですかっていう話になりますよと。
はいはいはい、そうなんだ。
兄貴が言ってくれた、心も大事にしなきゃねっていうのは心脳二元論かな。
脳一元論はちょっとこの後もちゃんと話すんだけど、別に心ってなくてもいいじゃないかっていう話もあれば、
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むしろ心しかないんだっていうのはここに踏まれるんだよね。
そうかそうか、一元論だから。
一元論だから。別に区別をつけませんっていう話なんですよ。
これちょっと古いんだけど、1977年、今から50年前ぐらいに、
カナダの哲学者の文下さんっていう人がいてらしくて、もちろん知らなかったんだけど、
この文下さんっていう人が心脳問題っていうのを10個に区分して、
こういうふうに心と脳の関係っていうのは分類してくれたんだって。
それをざっと見てみると、さっき言った通り、真の一元論の方には、
全ては心であるっていう、むしろ脳を消しちゃって心しかないっていう話もあれば、
心はなくて脳しかないんだっていうふうなものもあれば、
そういうふうなバリエーションっていうのが同じ一元論の中にもありますよ。
全ては心だっていうのと、心はないっていうのが同じくらい、ちょっと不思議かもしれないんですけど、
有意心論、心しかないっていうのも、体っていうのも、
前回で言うと外部機関としての目とか耳の働きも、
全部内部機関の心にある種還元しちゃうっていう意味では一元論だし、
逆に心がないっていうのは有意物論になるんだよね。
はいはいはいはい。
では、心なんていうのはまやかしで、全ては脳とか体の反応に過ぎませんって言うと、
心と脳とは一つになるから、これもある種一元論になりますよと。
はいはいはい。
そういうふうに、結論は全然違うんだけど、同じグラデーションとして語るのがこの心脳一元論っていう話なんだよね。
なるほど。そこにカテゴライズできちゃうって話なんだね。
そう、カテゴライズされますよと。
心脳二元論の方はどうなりますかって言うと、
こっちは逆に心と脳っていうのは全く関係がない二つとは別々のものだっていう話なんだよ。
ああ、そうなんだ。バランスがとかじゃなくて。
バランスの方に行くと、別々なんだけど、言っても相互に関係してますよとか、
っていうのが現れてくるっていうのがこの心脳二元論の方の話なんだよね。
それは二元論のバランスとかっていう話も二元論ではあるんだね。
そうそうそう。バランスとは要は心と脳が別っていう話だから、今まで二つに分けてますっていうのが考えられてるね。
はいはいはい。
今さ、心脳一元論と心脳二元論では出てきたわけなんだけど、
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ありえきれば感覚的にどっちが馴染むなとか、十分近いかもなとかってあったりする?
いやー難しいよね、これはね。
あの、今、それこそ、脳科学とかって全然詳しいわけじゃないけれども、
そうやってね、電流がどうこうっていう話をされちゃうと、
その心だけだとはやっぱり言えない。
まあそうだよね。
し、難しいところだね。とはいえなんかその、じゃあ脳だけなの?みたいなさ、話ともなんか違う気もするから、
はいはいはい。
言うてね。
言うてね、そうだよね。
言うて。
うん。
だからまあ、そこは二元論っぽく感じてはいるかな?
はいはいはい。
でもね、あの、僕もなんかやっぱその、普通に考えると、
やっぱ心脳二元論の方が素朴な感覚としては近いんじゃないかなと思ってて、
やっぱり心しかありませんとか脳しかありませんって言われたら本当?ってなると思うんだけど、
まあ心と脳っていうのがあってねって言われると、まあまあそうだよね。
まあ確かに脳から心が生まれてるかもしれないけど、まあ心っていうのがあった方が便利だよねみたいな、そういう感覚ってあると思うんですよと。
まあだからこそね、こうやって言葉とか概念が分かれてるだろうし、
そうそうそうね。
まあそういうふうに言って行っちゃってるからね。
まあそう、ある種二元論と言ってもやっぱそういうふうにそもそも生きてたってのもあると思うんだけど、
まあね、やっぱこれを学問的に付け積み合おうと思うと結構厄介で、
例えば脳と心は相互作用しますとか関係がありますかって言ってみたときに、
じゃあそれって何?みたいな、なんでそれは相互作用してるの?みたいな話なんだよね。
うーん、確かに。
確かになー、心実体ないからさ、脳は実体なんだよ。
うんうんうん。
難しいよね。
例えばさ、酸素と熱によってくっついて酸化鉄をやりますとかってのは分かりやすいじゃん。
関係してるときに、要は熱とか火っていうものがあるとかってのは分かりやすいと思う。要はエネルギー。
分かりやすいんだけど、じゃあ脳と心にはエネルギーがあってとか言われたらちょっと怪しくなってくるじゃん、どんどん。
難しいなー、そうね。怪しいって思っちゃう部分もある。
思っちゃう、そうなんだよ。
他にももうちょっと科学っぽくして、実は情報っていうのはそこにあってとかって話もあるんだけど、
情報っていうものが媒介になって、じゃあ脳と心どう繋いでるのかっていうのはやっぱり立証も難しいし、
そもそもすごいコミュニティな話になっちゃいますよね。
そういう感じになってきて。
交渉なオカルトだよね。
なってきちゃうよね。だからそうなると、そういう蜘蛛を掴むような話になっちゃうんだよね。
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そうなると今度は、じゃあもうそれこそ全ては心ですとかさ、全ては脳なんですって言ってくれた方が楽だよねとか思っちゃうんだけど、
やっぱりそれは単純化しすぎだし、ちょっと抜けてるんじゃないとかって思ったときに、
やっぱり脳と心とか言い出すときに、それってすごく難しいというか、ひとつでは行かないんだよね。
まあ確かに。
嬉しいとか、ドキドキするみたいなのも、脳が信号を出して心拍下げてるだけで関係もできる。
僕これもちょっと余談になるんだけどさ、一時期オキシトシンっていうホルモンが注目されてた時期があって、今でもあると思うんだけど、
子育てホルモン。
そういう子育ての愛着ホルモンとか、幸せホルモンと言われるんだけど、
だからもうオキシトシンを注射し続けたら幸せに生きれるんじゃないかって思った時期があったんだよね。
はいはいはい。だいぶマットサイエティスト感があるけどね。
そうそう。だけどもういいじゃないか、それでオキシトシン注入してウェイって生きたらいいんじゃないかって思ったんだけど、
そのやっぱり単純ではないらしいんだよね。
違うんだ。
そういうのを、いわゆるホルモンを注入すればいいとかってことじゃなくて、やっぱりそこにちゃんと愛着の体調となる存在がいるとか、
身体的にやっぱり触れ合ってるとか、そういうことも大事らしいぞということが見えてきて。
僕もマットサイエティストを結局公開したわけなんだけど。
ダメなんだ。そうか。
例えば麻薬とかも、そこそこ何か快楽物質というかホルモンみたいなものだけ注入してればいいかというとまた違うのか。
麻薬の場合は切れたら終わりって話もあるし、
それを安定的に手に入れられるっていうことがないと、そこの幸福ってやっぱり続かないわけだよね。
そもそも麻薬の幸福はやっぱり続かないんだけど、絶対ダメなんですけど、
そういうふうに考えると、もちろん一時的に麻薬を使うことで幸福感を味わうことができるかもしれないけど、
それは僕が思っている幸福と全然違うわけなんだよね。
麻薬とオキスト神の計画と何が違うの?
オキスト神は無害だからさ、たぶん。
麻薬も無害化してさ、麻薬の結果が出てくる脳内物質だけを注入していければいいじゃんって。
それは僕はアリだと思う。
同じだよね、それは。
それはアリだと思う。今の世の中で回っている麻薬を使うのは良くないと思う。
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麻薬で言うと。
嘘は一緒です。
でもそれもダメなのかね、どうなんだろうね。
聞くかもしれないけどね、わからないです。
みたいな話もあるしね。
やっぱりそんなに単純化できないっていう話とか、
あとはもうちょっと最近のAIみたいな話でいくと、
人工的に脳を作りましたとかっていう時に、果たしてそこに心は宿るんですか?みたいな。
そういう話になってくるんだよね。
はいはいはいはい。
今チャットGPTとかあるけど、
あれがいろんな言葉を発するとして、果たして心が芽生えるんですか?っていうときは絶対に芽生えない。
今のチャットGPTでは多分芽生えませんよ。
いくらそう見えてもってことは。
いくらそう見えてもね。
やっぱりそこに言うと、ただ単純に脳の働きを完全に解明したとしても、
そこに心が現れるかというとわからんよねってことが出てくるわけなんだよね。
はいはいはい。
それ逆転したときにまた怖いことが起きそうだよね。
AIに心が生まれるか生まれないかみたいな話で逆転するとさ、
人間に本当に心はあるのかないのかって話でさ、
だから人間には心がありませんっていう風に決着する可能性もあるって考えると、
やっぱ面白くもあり怖いと。
ありませんでしたってなる可能性もね、そうそうあるんで。
みたいな感じで今ちょっとばーっと喋ってきたんだけどね、
心脳一元論だとか二元論だとかってあったときに、
やっぱりそもそもこの心とかに対して、
学問的にとか学術的にアプローチするってこと自体がすごい混乱するわけなんですよね。
今回参考にした本の中で、いろんな医者というか学者の方がテーマごとに書いてる本があったんだけど、
そこで今僕が話したのは原田健一さんという、もう亡くなられてるんですけれども、
東京大学の医学部の教授の方が書いた本だったんですよね。
本というか章だったんですけど、
そういうふうないろんな話を経た後で、
実は自分はこういう仮説を持ってるんだけどねっていうふうに言ってるものがあって、
それを原田さんは心脳二レベル一元論っていうふうに呼んでますと。
二レベル一元論?
二レベル一元論。
これなんぞやって話なんだけど、ざっくりと一元論なので脳なしに心はないと。
だからやっぱり心と脳というのは別々のものじゃなくって、
やっぱりどう考えても脳みたいな物質的な基盤がないと、
33:03
心っていうものもないよねっていうふうに捉えるんだよね。
そこはやっぱり医学部の方というか、
ベースがあるからそういうふうな発想になるんだと思うんだけど、
脳を理解するようには、心は理解できないんだと。
脳と心は不可分、わからないんだけれども、脳を理解するように心を理解するっていうのは間違ってるんだっていうふうに言っていて、
脳のレベルと心のレベルっていうのは別々のレベルなんだっていうふうに言ってるんだよね。
これを二レベルっていうふうに言ってるんだけど。
実はこれ自分も考えたことがあるってちょっとおこがましいんだけど、
人間が生きてるこの世界と考えたときに、
物理的なレイヤーと生命のレイヤーと社会のレイヤーと、
宗教とか神みたいなレイヤーって分かれてるねって僕思ってるんだよね。
はいはいはいはい。
結構そんな感じで原田さんもピラミッドカリズムとかっておっしゃってるんだけれども、
今はその世の中のレイヤーっていうものを物理科学と生物と心理、あと生態、社会経済って五つのピラミッドに分かれてるんだよね。
っていうふうに、この五つのピラミッド構造の中で、
いわゆる物理的な脳とか心理的な心とかっていうふうに捉えていきませんかっていうことを考えていくと、
議論がすっきりするというふうにおっしゃってるんだよね。
これは本当そうだと思うんだよね。
これはご自身でこのピラミッド説に、いわゆる想定する批判を加えてそれに答える形で言ってるんだけれども、
さっき物理科学とか社会とかって言ったんだけど、
それって要は心理レイヤーだけは主観的、さっき言ったとおり内政とかって主観的なもので、
他のものは客観的だから、同じレイヤーに隠っちゃダメなんじゃないかっていうものがありますよと。
そういう批判が想定されますよね。
でもこれに対しては、そもそも物理的なレイヤーとか社会的な現象であっても、
結局それを認識するのは私たちの意識、つまり心じゃないかとかっていうふうに言われてるんだよね。
これはかなり前回言った引導の内部機関っぽい感覚。
有心論っぽくもあるんだけど、これ図にしていただくとわかるんだけど、
真ん中に今心理っていうのがあって、その下に物理とか生物っていうのがあって、
上に生態とか社会っていうのが乗っかってるんだよね。
中央にある心理っていうのが基盤というか軸になって上下に伸びていくみたいな、そういうふうな発想がありますよと。
36:10
そうなんだ。ほうほうほう。
つまり、すべての根本に心があるとかって言っちゃうとかなり有心論っぽくなっちゃうんだけども、
脳と心は分けては考えられない。そういう意味では一元論なんだけど、
やっぱり心っていうものとそのものっていうレイヤーをちゃんと分けてそれぞれ捉えていきましょう、アプローチしていきましょうっていうふうな発想。
やっぱり医学部っていうちゃんとエビデンスとベースというか、物理的なものに向き合っている学者としても原田さんです。
原田さんが心に向き合う、心の問題に向き合うっていうと、やっぱり心と脳は分けては考えられない。
やっぱり心っていうものが別にあって、身体とは違うんだと言えなくって、
身体と心は分けて考えられないんだけど、心っていう領域もちゃんとあるよねっていう。
そういうことをレイヤーっていう言葉で表したんじゃないかなっていうふうに受け取ったんだよね。
なるほど。これには原田先生の学者というか科学者としてのプライドというか教示みたいなものを感じるね、これには。
そうだよね、そうだよね。
だから想定される批判としては、例えば脳みたいなものは物質で客観的なもの、心っていうのは主観的なものだから、
科学っていうところで捉えるっていうスタンス自体に多分批判が当たるだろう、そもそもみたいな。
それに対して、「いや、それ言ったら脳も主観でしょ?」という話をしてられてたもんね。
そこを客観的に見えるように、科学的に解明してあるっていう話だから、
心っていうものもそこを諦めたら終わりだろうみたいな、そういう教示を感じる。かっこいいね、なんか。
そうね、本当にそう。だからやっぱり複雑な問題に対して、変にスッキリさせるでもなく、変に諦めるでもなく、
やっぱりここまでは言えるんじゃないかとか考えられるんじゃないかみたいな。
そういうものを心脳にレベル、一元論、心と脳っていうのは一元論同じなんだけど、レベルとかレイヤーが分かれてるっていう話で、
説明しようとしてくださったんじゃないかなって思うんだよね。
はいはいはい。
そうです。なので、こんな風にプロトファーみたいなことを一気に考え出すと、
39:03
やっぱり洞窟に舞い込むような、道があちこちに伸びすぎて、しかもぐちゃぐちゃに絡まってるって感じってあるんですよね。
いやー、なんだかんだいろんな人がいろんなこと言ってるんだね。
そう、本当にいろんな人がいろんなこと言っているし、過激派もいれば柔軟な人もいて、
そこが本当にいろいろあるんだけれども、やっぱり方向性としてはいくつかの道が伸びているし、
その中で正解は見つからないっていうか、正直見つからないんじゃないかなって思うんだよね。
どうしても言っても言葉の上だけというか、文化的な産物な気がしてて、
そういうことはお祭りとかと一緒じゃないかと思うんだよね。
お祭りと?
お祭りってさ、やっぱりお祭りって言葉はあるけど、各地でさ、いろんなお祭りがあるじゃない。
大阪のお祭りもあれば、はっちゃけてるお祭りもあるんだけど、でも全部祭りじゃん。
コロもやっぱりそんな感じで、いろんなコロがあるんだけど、でもなんかコロとしか言いようがないものがあるみたいな、
それ結構文化的なものじゃないかって思っちゃうんだよね、個人的に。
さっきね、そこそこレイヤーに分けたようにって話ね。
そうそう、レイヤーに分けたようにね。
だからこそ、正しさっていうものを求めるんじゃなくて、
いろんな人がこんなことを言ったりとか、考えたり研究してるんだみたいなことを楽しんでもらえたらいいんじゃないかなって思うんだよね。
学者さんはね、やっぱり正しさっていうものを追い求めなきゃいけないけど、我々学者じゃないので。
ある程度心ってテーマに、あんなことを思ってるんだとか、こんなふうに答えられるんだみたいなね。
そんなことを楽しんでいきたいなというところが、改めて今回コロをテーマにして思ってることっていうふうな感じなんですよね。
はいはい、なるほどー。
なんか情報というかさ、そういうのがないのも困るけど、いろんな人がいろんなこと言ってるのも困るね。
困るね、本当に。
誰かすっきり言ってくれって思うんだけどね。
そのぐらいね、やっぱりコロっていうのは、前回言った通り地域というかね、風習とかやっても違うだろうし。
あとは婚約の問題もあって、やっぱりココロと英語のマインドと対応するって言われてるんだけど、
そうやって本当に一緒なのかみたいな話もあるしね。
うんうんうん。そうだね。
確かにさっきの脳科学の実験で言うとさ、こういう電流が流れたらこうなる、みたいなさ、物理的な反応があったとして、
ただココロ側がその物理的な反応、10人同じ電流と同じ物理的反応が起こったときに、
10人同じようなココロの動きがあるかというと多分違うような気もするしね。
42:03
そうね。
同じ量の起始と終がさ、流れて。
ありね。
同じようなことがあったときに10人が同じような幸福感を感じるかみたいなさ。
うんうんうん。
絶対違いそうな気がするけどね。
いや、本当にそう。本当にそうなんだよね。
うん。
そう。
うん。
そうなるとね、その主観というものをどうやって作るかとか、
幸福感、そもそも幸福感というものを測れるのかとか、そういう色んな問題が出てくるから。
難しいよね。だからそうなったときに、
じゃあ起始と終の需要帯がその10人によってセンサーが違うんだとか言われたりするとまた違うだろうしさ、
じゃあ需要帯を同じにしたときにも同じなのかみたいなさ。
うん。そう。
なんか、本当に沼な感じするね。
沼だと思う。
じゃあ起始と終以外の他の全部のホルモンの値を調整するとかって言うと、それは無理だみたいな話が。
あー、確かになるほどね。
そうそうそう。
そうしたら、クローンつくなきゃダメになっちゃうもんね。
そうそうそうそう。
完全になるね。
そうなると思考実験、シミュレーションの世界になっちゃうからね。
まあまあなかなか難しいっていうのもあるんですけど。
それがね、確かにここの人間に意味があるかと言われると意味なさそうになってくるしね。そこまでいっちゃうからね。
そうなんだよね。
だからまあ、ね。
大変だなっていう話なんですけど。
今回一旦、ちょっと西洋の学問におけるクローンの扱い方として、ノーと聞いてもけいはさいのでっていうときに、ノーと同じだとか違うんだとはいえ、やっぱりそれは同じノーとの関係性について語ることなので、
それをちょっと心脳一元論とか心脳二元論みたいな話でお伝えさせてもらってましたよ、今回ですね。
次回からは、そういう背景とかもありながら、フロイトの話をちょっとしたいんですよと。
おー、名前は知ってる。
名前は知ってると思うんだけど、厳密には調べてみたら、心とまで取り上げると若干違いそうなんだけど、
でもやっぱり、いわゆる精神分析とか、いわゆる精神科、まるで臨床心理的な感覚からしたときに、やっぱりフロイトの名前って心っていうのは切っても切り離せないというか、
そもそも心と精神っていうのは近いと近いとこもあったりするんで。
心と精神って違うのか。
一応ね、厳密に言うとね。
なので、ある種なんだろうな、フロイトっていうのは何をしたのかとかどういうことをやったからこそ、いま我々の心の理解、いわゆる無意識とかってフロイト的な部分から出てきたりするから。
45:02
あー、そんだ。
そう。だから僕ら今ね、普通に当たり前のように無意識とかって言ったりすると思うんだけど、それも当たり前の言葉ではなかったりするんで。
へー、あー面白そうだな、それは。
そんな話でもぜひ次回にするんだなと思ってます。そんな感じですね。
はい、わかりました。
今回やったようにさらに心の沼っていうのを感じていただけたと思うんで、さらにどんな沼が広がってるのかっていうのを楽しんでいきたいと思いますので。では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。