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はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 はい、前回の雑談を挟みつつなんですけれども、
他者、他人というところのテーマで、 仏教は東洋はというところを見ていくという話でした。
そうですね、はい。 カラーと言われると、今回一回分になっちゃうんだけれども。
あ、そうなんだ。 うん。なんかね、これまでずっと西洋の他者っていうのを扱ってきたんで、
もちろん他者は、別に他者に東洋も西洋もないんだけれども、別にね、他者は他者だから。
でもやっぱり同じ言葉でも、結構その文脈とかさ、
それこそ、西洋哲学的に捉えると、とか、 仏教的に捉えると、というところで結構ね、
テーマが違うんですよね、当然ながら。 そういうテーマの違いっていうのもお伝えする中で、
他者っていう言葉とか、概念の広がりみたいなところをお伝えしたいとか、一緒に見ていけたらいいんじゃないかな、
楽しいんじゃないかなと思って、 ちょっと一個用意してきました、みたいな感じですね。
はいはい、一回目かなんかでね、やっぱり遊園式とかになっちゃうと、
もう他人ものもいなくなるっていうところを、どう解決していったかみたいなね。
あとあれか、大乗仏教か、他者を救うの、他者ってなんやねんみたいな話があったみたいなね。
そもそもいないのではないかみたいな、他者もみたいな、そこをどう乗り越えたかっていうね、
そこは何だそれって思って、もちろんそうだなって思ってたんだけど。
でもね、ちゃんと読んだら、全然違ったっていうか、やっぱりただ式があるっていうことと、
じゃあ他者はっていうことはちょっと違う問題だなってことも判明したので、
そこも含めてお伝えをしていきたいと思っておりますという感じですね。
ちょっとね、西洋哲学みたいに仏教の振り返りしてもいいかと思ったんだけれども、
またそれだけで1本分ぐらいないそうだったので、そこはさらっと行きますと。
もしね、また、最近聞いたよとかね、仏教をちょっと振り返りたいっていう方は、
本当にゴータマシタルタからですね、ナイアガルジョンとかっていろいろ、
また過去も再生するんでよかったら聞いていただければという感じなんですけど、
やっぱりですね、とりわけ仏教の中でもその有意識派っていうような、
ある種、派閥じゃないか、宗派みたいな感じなんですけど、
これはですね、紀元後の5世紀、だから今から1500年ぐらい前に、
無邪気とセシンという兄弟がね、始めたものなんですよと。
で、これ本来はユガ行派とかって言ったりしてて、
ユガってヨガとかヨーガの元になる言葉なんだよね。
ユガ行有意識派とかって言うんだけど、これはヨーガ、ヨガの元になるものですと。
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いわゆる瞑想をしたりとか、結構体を動かして修行をするみたいなものも、
結構この有意識派には含まれているんだけれども、
さっき兄貴が言ってくれた通り、その有意識って、有意って有意図とかの有意で、ただってことだし、
識っていうのは意識の識なんだよね。
ただ識だけがあるっていうのが結構この流派の根本的な考え方です。
識ってなんやねんみたいな話はさらっといくんだけれども、
一回ちょっとすごくざっくり言うと、復習的に言うと、
有意識派には、いわゆる8つの識があるっていう風に言うんだよね。
8つっていうのは、5つは五感、いわゆる五感で、見るとか聞くとか触るとかっていうやつと、
あとは意識っていうものを考えるとか理解するっていう話。
それが6個目ね。
これが6個目。
これで6識で、あとはあらや識とまな識っていう、
ある人、人間の意識できない奥底のっていうとちょっと違うっていうのはまた後で話すんですけど、
それちょっとある人、人の意識とかを超えたような識っていうのが、あらや識とまな識っていうのがあるんだと。
この8つの働きっていうのをもとに、世の中を捉えていこうぜみたいな考え方なんですよね。
はいはいはい。
歴史的にはね、武器をもっと遡ると、2世紀ぐらいに、さっきも言ったリュージュというかナイアガールジナっていう人がね、
これ、大移の仏陀って言われるぐらいすごい人なんですけど、
この人がフーっていうのをね、いわゆる色速絶空とかのフーね、
っていうのを解いて、あらゆるものはフーだとか、フーが識であり、識は空だとかって言ってたんですけど、
フーって何だろうな、いわゆる日本語的に空っぽだとか何もないとか空虚だみたいなね、
そんなイメージで、あんまり間違ってないんだけど、
そういうふうにあらゆるものはないとかって、
いわゆる虚無主義じゃないけど、自分もいないし他人もいないしこの世界とかもないんだみたいなね、
っていうふうに解釈すると出ちゃってきてたんですって、当時でも。
はいはい、本当はそういうわけじゃないのにね。
そういうわけじゃない、別に物はあるんだけど、ただその本性とか本体がないみたいな話だったんだけど、
あらゆるものはないっていうふうに解釈してた。
そういう人が出てきちゃってて、
で、そういうふうな儀式背景とか状況もある中で、
識っていうのはあるんだよと。
そういうふうに主張することで、ある種、取っ掛かりやすくしたというか、
その識っていうのは手掛かりに、ではその仏は世界に入っていくみたいな、
そういうことをやっていこうぜっていうことを主張したみたいな、そういうふうな流れがあるらしいんですよね。
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あ、もともと儀式っていうものの起こりがね。
そうです、起こりとして。
うーん、じゃあ3世紀くらいずっと経ってもう食う、ナンガルジナが生み出した食うという概念は理解されなかったの?ちゃんとね、ほとんどの人に。
そうね、とか、やっぱりそういうよりも、やっぱり勧める方が勧めるほどさ、やっぱり間違って教える人が出てきたりとかさ、
そういう安易な理解で勧める人が出てきて、やっぱりそういうふうにちょっと濁っちゃったって感じだと思うんだけどね。
はいはいはい。
で、そういう状況に対して、もうちょっと分かりやすくしてあげようよみたいな。
この前、去年も年末やった、ある種自分で救われるのは厳しいから、あみだぶつにすがろうよみたいなのが、日本でも浄土真宗とか出てきたみたいな、結構そろそろ近いんじゃないかなと思うんだけど。
あー、なるほどね。
はい。
まあ、そんな感じでね、儀式というものが起こりましたよという話をちょっとざっくりしたんですけど、
ここで何で他者っていうものがテーマになるかというところですよと。
で、さっき兄貴も言ってくれた通り、儀式とかってただ式っていうものだけが存在するみたいな話なんですけど、
この場合ね、式って何かみたいな話じゃないですか。要は式があると言われても、じゃあ式ってなんだよみたいなね。
まあまあ、そうだね。
っていうのがあるんですけど、実はね、僕も若干勘違いしてたというか、ふんわり思っちゃってたんだけど、
なんかね、この式っていわゆる自分の奥底にある無意識みたいな領域ではないんですよ。
えー、あ、違うんだ。
そう。
僕も多分ね、それこそ無意識的に何か互換があって、意識があって、マナー式、儀式、あらや式ってあるから、
なんか自分の中にそういうあらや式とかがあるみたいなことをちょっと思っちゃってたんだけど、
うんうんうん。
これをちょっと大間違いで、ごめんなさい、多分ね、本当に訂正したいんですけど、
世界そのものが生まれる根本原理みたいなもので、
この意味ではちょっと神とかにも若干近いんですけれども、
神みたいにいわゆる擬人化するとか、人と離れて違う世界にいるとかっていうことじゃなくて、
あくまでも、いわゆる仏教って縁起というか因果みたいなことを重視するから、
この結果が次の物事を生み出すみたいな。
だから昨日焼肉を食べ過ぎたら次にお腹が痛くなるみたいな、本当にそんな感じで。
うんうんうん。
そういうふうに、物が延々と積み重なっていくという働き自体のことをある種式だみたいなふうに言うんだよね。
はいはいはいはい。
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本来的にはもうちょっと違うんだけど、一旦ざっくりそんなふうな話をすると、
なので、いわゆるその式っていうのは人間の無意識なことじゃなくて、
いわゆる世界がどんなふうに生み出されているのかとか、
この世の中っていうものが、その式というものからどんなふうに発生してくるのかみたいな、
そんなふうな世界観の話なんですよと。
ほうほうほう、なるほど。
うん。なんかここ大丈夫かな?伝わってるかな?
うん。あのー、
有意識っていうと、やっぱ意識とかさ、そういうとこに引っ張られちゃうから、言葉的に。
そうそうそうそう。
さっき入っておいた通り、
例えば、まあ第六感まだ自分の中にあるかもしれんけども、
まだしてあらやしきみたいなものを全部その、
自分が無意識で捉えられないだけで、
捉えられないだけで、
自分が捉えられるというか、
自分の中にあるものじゃないかって思っちゃうんだけれども、
あーそうそうそうそう。
そういうことだよね。
そうですそうです。
もうちょっと宇宙みたいなものとか、
神みたいな、
ビッグバンの最初の点みたいなのがわかるけど、
そういうもうちょっと自分じゃなくて、
この世界すべてみたいな話をしてるってことだよね。
そうですそうです。
多分繰り返しだけどね。
そうですそうです。
前回までは西洋的な流れがあったから、
まず我というものがあって、
それとか何時になる他者があるみたいなこととかさ、
やっぱりまず自分というものがあって、
っていう風になったと思うんだけど、
やっぱりこの東洋的なとかUSJKな世界だと、
その自分というものの存在の前に、
あらやしきというものがまずあるんだよね。
あらやしきというものから、
どんな風に世界というものが生み出されますかとか、
そこに対して人というものが生み出された時に、
その人が自分と他者の区別がつくって、
どういうことですかとか、
そういう風な捉え方になるんですよ、伝統。
覗いてる窓の違いだよね。
自分から覗くのか、四季から覗くのかっていう感じで。
そうですそうです。
そこがやっぱり大きな違いだなと、
僕も改めて思ったんだよね。
それは当然、他者というものの捉え方も違いますよ、
という風な話をこれからしていきたいんですけど、
こういう風に、いわゆる四季、あらやしきというものから、
どんな風に世界とか自分とか他者とかっていうものの、
区別が生まれてくるんですかっていうのが、
一個の大きな問題で、
あともう一つ、仏教的に大きな観点が一つあるんですけど、
これも兄貴がさっき言ってくれた通り、
いわゆる優意識っていうのも、
12:00
大乗仏教っていうのは、大きな膜くくりの一つの流派なんですよ。
大乗仏教っていうのは、
ブッダが死んだというか、いわゆる入滅っていうのかな、
いわゆる仏になった後に、
有力だったアビダルマっていう、
自分の下達だけを目指すというか、
自分がいかに辿りを開くかみたいなことだと、
ある種であった人たちは批判して、
自分たちは自分だけじゃなくて、
あらゆる首杖とか、
いわゆる一般大使を救うような、みたいなね、
そういうようなことを考えた人たちなんですよと。
基本的に、今日本で広まっている仏教っていうのは、
全部大乗仏教の流れなので、
去年やった空海の神言集とか、
法念陳覧で浄土してもらったし、
西東原の禅とか、
日蓮の日蓮宗、これはちょっとやってなかったけど、
日蓮宗とかを含めて全部大乗仏教なんですよ。
結局、いわゆる首杖の救済とかあるんですよね。
慈悲とか利他とか、そういうテーマもあるんだけど、
やっぱり人に施しとか、
施しって言ったらあれかな、
でも救いを広めるかみたいな、
そういうのを根底にしてるんですよね。
そうなんだ、神業主、密教もそうなんだね。
そうだね、密教もそう。
でも自分だけじゃなくて、
それで国を救うとか、
神業国家みたいな感じで国を救うとかさ。
なるほど、なるほど。
そうです、そうです。
そういうのがあるんだけれども、
当然さ、いわゆる首杖を救うみたいな話って、
結局は自分以外の存在がいないと成り立たないじゃないですか。
そうだね。
そういう時に、密教の議論の中で一元論みたいなさ、
要はある種、区別するのが間違いで、
自分と他人っていうのは同じだとかさ、
自分と世界っていうのが一つなんだみたいな話をする時があると思うんですけど、
それをそのまま持ち込んでしまうと、
結局は自分が誘った時は他人も誘ってるぜみたいな感じで、
よくわからなくなるよねみたいなのってあると思うんですよね。
そうだよね。
自分の感覚とめちゃくちゃズレが大きすぎるよね、これは。
そうそうそう。
他者を救済すると言いながら、
でも自分と他人は一緒だとかっていうのはやっぱりおかしいし、
ただ式だけがあるって言ってもでも、
首杖を救うんだよねみたいな。
だから首杖ってあるのないのみたいなさ。
うんうんうん。
っていう風になっちゃうじゃないですか。
そうだね。
何していいかわかんなくなっちゃうね。
そうそうそう。
っていう風に言うと結構混乱しちゃうよねと。
うんうんうん。
で、今さ、すごいさらっと自分も悟って他人も悟るみたいな話をしたんだけれども、
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そもそも悟りって何?っていうと、
これもすごいざっくり言うと、
基本的にはこの現世、シャバ世界の執着っていうものをすべて断ち切って、
輪廻転生っていう、そういうのが生まれてくることが苦しみだっていう風にお釈迦様は言ったわけだから、
輪廻転生を超えてやろうぜっていうのが悟りなんだけど、
でも結局そのさ、式しかないこの世界、
有意識的に言うと式しかないこの世界において、
自分の執着を断ち切るとかさ、
他人を救済するってさ、一体何のことを言ってんのみたいな。
まあ確かに。
確かに。
なんか僕ら普通の感覚からすると、お坊さんが何か救ってくれるのかなとかさ、
まあ確かにお祈りというかさ、そういうのを唱えてくれたら魂が支える気がするなとかってふんわり思うんだけど、
結局そういった何なのよっていうのが、
やっぱり結構突き詰めてというか、ちょっと掘り返してみると、
わからなくなってくるぜみたいな話なんですよね。
そうだね、人間の生態って何なの?ってなるよね。
そうそうそうそう。
こいつらは何やってんだって。
そうなんだよね。
いろいろ人間学者みたいなさ、生物学者みたいな人がいたときにね。
どういった世界で生きてんの?ってなっちゃうので、
まあそこがやっぱりいろいろ問題が出てくるところなんですよという話なんですけど、
今ちょっと僕は逆に、問題から説明したからすごいごちゃごちゃしちゃったんだけど、
実は仏教とか有識の関わり決策っていうのは全然厄介じゃなかったんですよねっていう話をしたくって。
なぜかって言うと、そもそも仏教ってすごい現実的な宗教なんだよね。
いわゆる議論をこねくり回すとか、
いわゆる形状的に人のことを超えたものを果たすっていうのってあんまり好きじゃない宗教とか仏教ってそういうもので、
やっぱりこの世で生きる苦しみ、それを乗り越えられるんだったら別に何でもいいとは言わないけど、
それこそが大事だって根本の動機にそういうのがあるんですよ。
だからそもそも仏教において他者っていうのいないのとか、他と自分はどう違うのみたいな話ってあんまり問題にならないんですよね。
そうなんだ。
そもそも。だからさっき僕が言ってきた問題っていうのは、その有意識っていうものを僕らがというか、
丹野ハヤトっていう人間が自分のパターンで考えようとしたときに出てくる問題とか、
あるいは論文の中にも書かれたから、いわゆる普通の感覚から有意識っていうものを捉えようと思うと、
そういう問題って起きちゃいますよねっていうふうな話をしてきましたと。
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でも有意識な人からするとそれはそもそも問題じゃないんだと。
なんでかっていうと別に他者がいるとかいないとかってそもそも考えるのがおかしいじゃないかと。
だって目の前に他者はいるんだもんって話なんだよね。
いるんだになるんだ。
もちろんそういうことを考える習法もあるかもしれないんだけど、
その無邪気というその有意識を始めた人自身は本の中で、
やっぱりこう他者に対して利益をなすことと害をなさないことが大事みたいな言葉を普通に書いてるらしいんだよね。
別に他者がどう存在するかとかっていうことじゃなくて、
普通に来ててさ、他者っているじゃないかと。
なくともそう思うじゃないかと。
なのでそういう他者に対して優しくするがいいし、
暴力風とかってのはダメだよねっていう風にそれでいいじゃんかっていう風な話ではあるんだよね。
そういうのが実践的な話なんですよ。
当然ここで終わっては申し訳ないというか、
当然そんな浅い議論だけじゃ終わらないですよっていうところがここでの話で。
まあそうね、一般常識の話されてるだけだもんね。
人に優しくしましょうみたいな。
無知に実はそれだけでいいんだよ本当は。
だってそこにさ、なんでって考えるのは頭で考えてるからな話で。
別にさ、確かに優しくしましょう。
で、全人類がそうやったらそれでハッピー。
で、別にいいわけじゃないですか。
まあまあ確かにね、理想とはいいけども本当に相当じゃない。
別にそれ以上考える必要ないんじゃないんだけれども、
まあちゃんと考えてみましょうよという話をしていくとですね。
ここからがその有意識で、
この他者の問題っていうのをどんなふうに捉えますかっていう話なんだけれども、
ある種当然なんですけどさっき言った通り有意識ってのは識、荒屋識から始まるから、
荒屋識というのは、
で、そうするとこの世界、この世っていうものを仏教的に世間って呼んだりするんだけど、
どんなふうにして識から世間が展開されますかっていうことからまず考えるんだよね。
はいはいはい。
そこが出発点です。
で、そうするとどうやら文学的に言うと、
一つはいわゆる環境とか、
いわゆる自然みたいな意味での場所っていうのがあって、
それを器、器って書いて木世間って言うんだけど、
木世間って言うと、
木の中にある物があると、
木の中にある物があると、
木の中にある物があると、
木の中にある物があると、
木の中にある物があると、
木って書いて木世間って言いますと。
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で、もう一つがその中に生きるいわゆる人間とかを含む生命っていうのが話があって、
それを情がある、情って情けとかの情ね、
があるって書いて無情世間っていうふうに言うんだって。
つまり僕らの参考で言うと、
その環境とある種その中に生きる生命っていうものを分けてるみたいな感じなんだけど、
四季からこういう二つの世界、世間っていうものが生まれてきます。
それぞれの特徴があるよねっていうふうに言うんだけど、
木世間、環境の方は、いわゆる三角がないっていう特徴と、
あとは共有できるっていう特徴の二つを持ってますよねっていうふうに言うんだよねと。
ほうほうほうほう。
で、いわゆる環境ってそれこそ石ころでも木でもいいんだけど、
僕らが見る限りでは感覚では多分ないじゃないですか。
なるほど。植物も生命かっていう意味で言うと、ここで言うと、
木世間の方だった話ね。木とか植物とか。
おそらく。ちょっとごめん。そこを優識の中でどこまで厳密に制御してるか確かにちょっとわからないんだけれども、
もうちょっとあれにしようかな。海とかにしようかな。
石ころ、石ころ。
そういうもの自体には多分感覚はなかろうと。
そういうものがある種、命あるものは共有できる。
石っていうのは僕が持つこともできるし兄貴が持つこともできるよねと。
海っていうのもみんなで泳ぐことができるから、共有できるっていう特徴を持つよねっていうふうに言うんですよね。
はいはいはい。
逆に無常世間、いわゆる生命みたいなものはどうかっていうと、
これには感覚があって共有できないっていう特徴を持ってるんだっていうふうに言うんだよね。
うんうんうん。
だから、例えば僕であれ犬であれっていうのは多分感覚を持っているであろうと。
植物も確かに感覚あるっていう方もいるかもしれないから、それは無常世間だっていうふうに言えるかもしれないね。
うんうんうん。
共有できないっていうのは、いわゆるサンのハヤトっていう人間の中にサンのキョウスケは同居するってことはないじゃないですか。
だから僕っていう存在がこっちに行ったりこっちに行ったりっていう意味で場所的に共有することはあるかもしれないけれども、
サンのハヤトという人の存在自体とかその人が持ってる心みたいなものを誰か他の人が決定に扱ったりすることはできない。
うんうんうんうん。
っていう意味で石とか海みたいな環境的なものとは違うよねっていうふうに言うんだよね。
うーん、なるほど。
共有できないみたいな感覚って分かるかな。
いや、今の例でだっけ、ハヤトが兄貴とは違うみたいな。
24:02
違うと言わればサンのハヤトという存在を他の人間が共有することはできないっていう感じかな。
あー、それでいいんだよね。石とか例えば道具みたいなものを、ハサミを可視化にできるみたいな話はある。
そういう感覚で一人の人間を誰かがどうこうする、みんながどうこうするっていう感覚もあるし感情もあるし、
そんな好き勝手コントロールされるようなものではないよねっていう理解でいいんだよね。
そうだね、私もうちょっと補足すると、これはすごく嫌な例だけど、
例えば奴隷みたいな人がいて、道具と変わらないみたいな人が仮にいたとしてもその人であるということとか、
その奴隷自身の持っている心みたいなものを誰かが勝手に書き換えたりとか、そこに乗り移ったりすることはできないじゃないですか。
あー、はいはい、なるほど。
だから、例えば感覚があるときにその感覚を周りに本当の意味で受け取ることができない、
要は誰かが痛いとか悲しいって言ってることを本当の意味で共有することはできないみたいなね。
なるほど、なるほど。
こっちまで組み込んでる感じかな。
そうかそうか、じゃあこの共有っていうのはもうちょっと自然界の共有とはまた違った意味でまた、
こっちの無常世界の方ではもうちょっと深い、広い意味があるってことはね。
そうです、そうです。
っていう風にすると、その感覚がなくて共有できる既世間っていう環境と、
感覚があって共有できない無常世間っていう生命みたいなものが2つに分かれますよねっていう風にまず言いますと。
はいはいはい。
で、これはいわゆる荒屋敷っていうものが働いたときにその2つに分かれますよっていう風にここまではまず説明するんだよね。
まあそうだね、やっぱり難しいね。荒屋敷が働くとその2つが出てくるよって謎だけどね。
まあね、そうね。なんでって言われたらちょっとそこはごめんなさい分からんですって感じなんだけど、
まあまあそういう風に考えますよというか。
普通に自分たちの世界っていうのを眺めたときにそういう風な働きが働いてるという風に理解できるよねっていうぐらいな感じかな。
うんうんうんうん。
うん、ですよと。
そこでこの無常世間っていうものがあるんだけれども、それがある種自分と他者っていう風に分かれるんだよね。
うんうんうんうん。
自分っていうのはまさにそのままある種感覚があって他の存在と共有できない場みたいな。
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さっき言った通り自分の嬉しいとか悲しいとかっていう感覚っていうのは誰とも共有できないはずだから。
うんうんうんうん。
そういう意味で自分っていうものはそのまま定義されますと。
はいはいはい。
これを現代的に考えると自分の中にもいわゆる微生物とか腸内細菌とかいろいろいるだろうし、
あと場合によっては一つの体に二つの意識が宿るみたいな人もいるはいるんですよ。
うんうんうん。
脳が二つあってみたいなね。
うんうん。
厳密に言うとちょっと違うんだけど一般的にはその風に言えるでしょうと。
うんうんうん。
他者はどうかって言うとまず自分にとっての他者なんだけどこれは感覚があるかどうかって究極的には分かんないじゃないですか。
まあそうねうん。
要は確かに兄貴はどう見ても痛がってるし悲しんでるんだけど本当にそれが悲しんでるか分かんないぐらいの感覚ね。
うんうん。まあそうねはい。
その感覚がないかもしれないという意味では既世間環境の方の特徴を持ってるんだよね。
うーんなるほど。
でもその共有できないっていう部分に関してはやっぱり自分というものと同じでやっぱり他者の体と心もやっぱり他の誰かと共有されておくのが考えにくいと。
うんうんうん。
なのでこっちは右上世間の特徴を持ってるんだよね。
はいはいはいはい。
そう。つまりその他者っていうのはこの荒屋敷っていうものの特徴が発現、世の中に出てくるときにいわゆる既世間の特徴である感覚がないっていう特徴と
右上世間の共有できないっていう特徴の2つを合わせ持った存在なんだぜっていうふうに言うのね。
うわーありなんだそんなのへー。
そう。なぜなら特徴を持ってるか持ってないかってだけの話だから。
うんうんうん。
そこをごちゃ混ぜにしちゃった存在っていうのが他者だっていうふうに言うのよ。
へーほいほいほい。
すごいなんか簡単に言うと環境とかの同じようにやっぱり自分の外部にあるんだけどやっぱり自分と同じように独一なというかやっぱり他者に利用されない体とか心とかそういう場っていうのを持つ存在っていうのが他者なんだみたいな。
そんなふうに考えれるよねーっていうふうに言うんだよね。
あーそうなんだ。はいはいはい。
そうするといわゆる四季しかないっていうふうに言うんだけどその四季っていう働きがいろいろ組み合わさって年度日でこねこねすると自分と他者と環境みたいなものの3つのレイヤーがちゃんと分かれるよねみたいな。
へー。
そういうふうなことがすごいあっさりした説明だけれども一定ご説明できますよねみたいな感じなんですよと。
まあそうなんだね。
もう一個さ、それって右上世間のものの例ってあるの?例えば何?
30:05
でも本当にそれが主状なんだよね。だからいわゆる一切主状しつつ仏性みたいな言葉でさ、まさにあらゆる存在が仏の心を持っているというかっていうときにそれは人も犬も動物も虫も、もしかしたら草もみたいな、それがいわゆる右上世間って感じかな。
今さ、他者はそうすると既世間と右上世間の両方の性質を持っているみたいなさ。
あーそういうことか。
そうそう。他者は右上世間側なのかなと思ったけど、こっちもであるみたいになっちゃうと、その3つになるとじゃあ右上世間共有できないだけのものってなんだみたいな。
はいはいはいはい、なるほどね。
そこはあまり厳密に分かれてないんですね、たぶん。別に右上世間と既世間というものが全然違うものとして対立しているとかではなくて。
あー、理言論的に語ってるわけじゃないのね。
そうそうそうそう。だから砂浜にいるときに海にいるか森にいるかわからんみたいな話で。
ほうほうほうほう。
でも砂浜にいるよねみたいな。
うんうんうん。
砂浜の中でたぶんそんな感じなんだよね。
うーん、あー。わーこわ。そっかそっか。あの、理言論で理解したけれども、東洋だからそういう感じで理解しちゃダメなのね。
そう、だから重なってる場があるって感じ。右上世間と既世間が重なってる場。
ちょうどそういう、いわゆるベンズっていうか丸が重なってるやつあるじゃん。
うんうんうん。
その間みたいなところに全然入れるよっていう感じなんだよね。
なるほどね。そっかそういう概念の話をした上で大体あるものは重なってたりするでしょうとか。
あーそうそうそうそう。
このぐらいの割合でしょみたいな話をしてるってことなんだね。
そうですそうですそうです。
なるほどなるほど。
なんかちゃんとグラデーションがあるよっていう感じだよね。
うんうんうん。
なので確かにね、そういう意味でもう本当に西洋のずっと分ける論理空間と世界っていうのをずっと分ける意図形にしたいってことじゃなくて、
別にね、実続きですよみたいな話だと思うんだよね。
うんうんうんうん。
っていう感じだったらなんかイメージいけるかな。
あーそうね。ちょっと頭の中で理言論で寝てたのをちょっと変えました。
はいはいはい。確かに確かに。ありがとうございます。
いややっぱり難しい。前回一回挟んどいてよかったわでもやっぱり。
そうじゃないともっと混乱してたと思う。
いやそうはね。ちょっとグラデーションに変えました。
グラデーションにして、その真ん中ぐらいにパシャって一時消えたというか。
そうですそうです。ありがとうございます。
皆さんもぜひグラデーションの世界観でまた聞いていただきたいんですけれども、
33:06
そういう世界観の中で、さっきねちょっと考えてみた、
ある種ただ識しかない、有意識っていう世界において、
自分がね、その執着を断ち切って、その上で他者を救済するって、
どういうことなの?みたいな話をね、もう少し考えていきたいんですけれども、
やっぱ自分が悟るというか執着を断ち切るっていうのは、
もちろんいろんな瞑想とか修行というのは行うんですけれども、
その結果やっぱり指揮として現れる、自分の心みたいなものだよね。
そういう働きを制御して、いわゆるこの世はただ指揮だけであるっていうふうに
本当の意味で理解するってことですよ。
要は心がいろいろ暴れ回るから、例えばあれを止めたいとか、
こういう楽なことをしたいとか、この人が亡くなったら悲しいとかっていうふうに
いろんなものでやっぱり執着をしてしまうのと。
本来は指揮しかなくって、現れてる食べ物とか他の人っていうのも全部は
指揮の現れでしかないんだから、本当の意味でそんなものに
触る必要ないんだよっていうのが、すごく冷たい言い方なんだけど、
仏教的な苦しみを離れるような考え方なんだよね。
そうすると指揮だけがあるってことをちゃんと認識しましょうという風になるんだけれども、
やっぱりさっき言った木世間、環境の方っていうのは、
いろんなものがごちゃごちゃと存在している、石もあれば山もあれば海もあれば
みたいな感じなんだけど、悟った人とか指揮しかないっていうふうなことを
本当に理解した人からすると、その別々っていうのもなくなるんですよと。
なるほど。
だって全部は指揮なんだから、いわゆる海とか山とか僕らがやってるのも
全部それは受けられた世界で、僕らが作り出した世界ではねっていう風になっていくんだよね。
なるほど、なるほど、はいはいはい。
そうね、便利的に。世俗の方で石と名付けた、海と名付けた、認識してるってだけの話。
全部指揮なんだよって言えばまあ、いい加減。
そうそうそう。
なので、それがいわゆるこの世は一つであるとか、それがまさに仏道というか仏の国っていうのが
いわゆるその清らかな世界っていうものが、実はまさにこの世間っていうものと同じなんだよ
みたいなふうなことが出てくるんですよね。
同じ、はいはい。
同じ、うん。
要は、見ている僕らが正しく世の中を見てないから奇跡、奇跡の環境でごちゃごちゃしてると。
全然違うものがバラバラとあって、すごく煩雑な世界っていう風に見てるっていうのは
36:03
あくまでも僕らの捉え方が間違っていて、この世にはただ識しかないという風なことを本当に理解すると
その違いっていうのが全部消え失せていって、識だけしかないその清らかな世界っていうものが見えてきますよねと。
なるほどね、はいはい。
あなたが見ていた世界そのものが実は仏の世界だということが分かりますよねっていう風な言い方なんだよね。
なるほどなるほど、そこそこ眼鏡の付け替えすればいいよねぐらいの話ってことね。
そうですそうです。眼鏡を外せばいいっていう感じで、全部違う色眼鏡ですよと。
眼鏡っていうよりもっと言うと覆いだね、目に覆われてるんだけど、それを外せば本当に世界が見えるじゃないかという話だね。
はいはい、海とか石とかって風になっちゃってる世界からもうそれはぺにって離されて、
色の世界が現れてくるという話だね。
そうですそうです。
見えてる、気になってるものだけどと。
そうそうそうそうそうそう。
やっぱりねはんとか浄土みたいな話ってあると思うんですけど、
それっていわゆる仏の理想の国とか世界なんだけど、
どっか遠くのね、生まれ変わった先とか全然この世とは違う世界とかとかね、あるんじゃなくて、
やっぱり本当はこの世このままが仏の国、仏国の国なんだと。
へー、それ初めて聞いた。
あんまり言えなかったか。
でもそういう考え方っていうのがどんどん強くなっていくんだよね。
あーそうなんだ。
ほらそこそこしゃばとさ、ねはんととかってあるからさ、別のステージに行く感じするもんね、別の世界。
極楽浄土みたいな、全然違う寺のさ、絵とかあるよね。
ああいうね、地獄とかさ、そういうことじゃないっていう話なんだ。
これなんかこのソルティスラジオでも初めてこの話は聞いたかもね。
あんまり言ってなかったかもな。
極楽浄土ってまさにいわゆる阿弥陀仏がいらっしゃる浄土教的な意味での極楽浄土って世界なんだけど、それは確かにこの世界とは別のところなんだよね。
あーそれは違うんだね。
違う世界に阿弥陀仏がいらっしゃって、そこの世界に連れてってくれるよっていうのが浄土教の救いですと。
なるほどなるほど。
優衣式の救いっていうのはそうじゃなくて、このまま仏の世界なんだと。
だからそこに築こうぜっていう話がこの優衣式の中では初取りなんだよね。
あーそっかそっか。
行ってるお寺が浄土神宗だから、行く場所が一旦極楽浄土行って、そこで目の覆い剥がしてからもう一回同じところに戻ってくれば目の覆い剥がれた状態で、元の場所は全然違うように見えますよという話なんだね。この優衣式の話と重ねると。
39:10
ちょっと待ってごめんちょっと違うかもしれないと思った。
今の兄貴の話は極楽浄土に行ってまた帰ってくるって話をした?
そう帰ってくるって話をした。同じ場所だから。
あーそういうことか。別に帰ってこないんだよね、浄土神宗の場合。
浄土神宗は帰ってこない?
帰ってこない、そう。この極楽浄土に行って。
優衣式はその場所のままで合ってる?
その場所のまま、うん。優衣式はその場所のまま。
え、極楽浄土どこに行っちゃうの?そしたら。
優衣式で?優衣式では極楽浄土は関係ない。
違う違う違う。浄土神宗、どこ行っちゃうの?
極楽浄土は極楽浄土という世界に行っちゃうって感じだね。
極楽浄土は別に式とか関係ないのよ。
あれか、極楽浄土は次元的にはさ、
うちらが生きているこの釈迦と繋がっているというかさ、
延長上の次元なのかな?
あれ?西方三千世界とかってことはあるんだけど、いわゆる超遠いところとかにあるんだよね。
あー、そっかそっか、そういうこと。
確かそうだよね、アミダ様ってか、作った国ではあるんだもんね、確かね。
そうそう、国ではある。
いわゆる六天と言われるように天の世界と人の世界と、楽器とか地獄みたいな世界が6つあるという中で、
いわゆる世界のレイヤーが分かれているという感覚は、ブックの中に確かにあるんですよ。
でも別にそれが断絶しているというところもあれば、実はひとつなぎだという話もあって、
はいはいはい。
意味転生的にはひとつなぎだよね。人間世界に生まれた次に地獄に生まれるかもしれないっていうのは、
まさに世界を超えていく話だから。
うんうんうんうん。
まさに極楽浄土っていうものも、どこにあるかわからんけれども、そういう国があって、
そこに阿弥陀仏さんが僕らを引き取ってくれて、極楽浄土で修行させてくれるぜみたいな。
うんうんうんうん。
というのが浄土宗宗の救いなんだけど。
そう修行した後は別にそこで過ごしてくださいね。
そうそうそう。だって人間世界に帰ってくる必要ないからね。
はいはいはい。そこはいわゆる優位識とは違う世界観だった話なのか。
今話しながら思ったけど。
混ぜちゃダメなのかそれは。
混ぜるのは危険ですねそれは。
なるほどなるほど。同じ大乗仏教だとはいえども、やっぱり宗派違うからそこ混ぜちゃダメなんだね。
そうそうそう。だって浄土宗宗は絶対大力だからさ、努力とか修行とかないわけよ。
うんうんうんうん。
42:01
自分の意識を変えるわけでもないわけだから、全然違う確かに世界観なんだよそれは。
あーなるほど。危ない危ない混ぜちゃったよ。
ね、確かにね。だからそう同じ仏教って確かに言いがちだけど全然違うよねこうやって話すと。
そっかそっか。いやー危ない危ない。
そうそうそう。だから浄土宗、浄土神宗的に言うと別にこの世界はもう地獄みたいな、仏の好きではない魔法の世界なんだけど、
いう意識を人からすると自分の認識がそれは間違っていて、この世界っていうのも正しい認識で見れば仏の世界だっていう風にやっぱり本当に全然違うとやっぱ主張してるよね。
はいはいはい。なるほど。
うんうん。ま、そんな感じですと。
うん。
で、ここに面白いのが、実はその、仮に自分が悟ったとしますと。
うん。
え、あ、そうなんだ。
うーん、まあ確かにそうだね。これまでお話したとなり立つよね。
そう、有意識の世界で言うとね。
うん。
うんうんうんうんうん。
うんうんうん。
うんうん、そうだね。お互いそうだね。
だから、この文脈で言うと、いわゆるこうやっぱり人が世界でも全然違うように認識するよねとか、
同じ場所にいるんだけど全然違う世界に生きてるねっていうことをある種違和感なく語ってるんですよね。
いやー、そうだね。うんうん。
うんうん。
むちゃくちゃ自然なこととして受け取れるよ。
そうそう、当たり前じゃんみたいなね、そう。
だから、これはすごく制度違う。要は人間とは等しく理性があってとか。
うんうんうん。
でも同じようにこの理性の光が降り注いでいて、それをね、正しく使えば誰でも同じ真理に至れるんだみたいな。
うんうんうん。
やっぱりそういう西洋のね、前回までお伝えしたような近代からやっぱり現代に。
まあ、現代とはちょっと違うそういうところの反省もあるんだけど。
45:01
うんうんうんうん。
やっぱりそういう風な自我とか理性っていうものをみんなに共通するものとして置いてるような考え方はやっぱり全然違うよね。
確かに前提が違うね。
そうですそうです。
だからこそやっぱり結論とかその他者との取り方ってやっぱりこんだけ違ってくるみたいな感じなんだよね。
うんうんうん。
確かにみんな同じであれるはずだっていうのとみんな基本違うんだみたいな。
そうそうそうそう。
むちろみんな間違ってんだ覆われてるんだみたいなね。
そうそう、みんな覆われてるんだみたいな。
そうそうそう。
なるほど。まあね、啓蒙的な話でいうと覆われてるのとバラってやろうみたいな話だけど。
そうだね。
ちょっとまた違うんだろうね、その感覚がね。
あ、そうですそうです。
デフォルトの感覚が。
うん。
だから、なんかね、そういう意味ではやっぱりこの出発点とかやっぱり事故とか我の置き方っていうのはやっぱり明らかに違う。
だからやっぱりそこが見えてくる世界観とか発想とかも全然違うよねって本当にそう思うんだけど。
うん。
で、もうちょっと有識な話をするとですね、さっき申し上げた通りただ式だけがあると言いながらやっぱりその式っていうのはある程度個人の奥底ってものじゃなくて世界全体みたいな。
それちょっと神的な働き、神ではないんだけどもそういう具合に匹敵する具合の働きを持つ大きなものですって感じなんですよと。
うん。
うん。
だからさっき言った通りその他者っていうものがなぜあるかとかどういうものかっていうことってあんまりなくて。
うん。
で、他者って別に当たり前にいるじゃん、自分とはちょっと性質、違う性質を持ってるけれども、この式から生まれてきたっていう意味では一緒じゃんみたいな。
うんうん。
そもそもその他者がいないっていうことを別に考える必要がないんだよね。
いやー面白いね。
そこから自分と他者っていうもののロジックはやっぱり西洋とは全然違うし、レビナスみたいに他者が自分に迫ってきて自分を破壊するのだみたいな。
殺されるかみたいなことっていうのも基本的にはあんまり起こらない。
うんうんうん。
一緒に共にあるものだしみたいな。
そうだねー。
他者の括りが全然違くて面白いね、それは。
そうそうそう。そうなんですよ。
だからこれが前回も言ったように、自我っていうものをそんなに固めないというか、境界線ってそんなに強いもんじゃないよねみたいな。
うん。
だって別に他の人事分からないって思うときもあれば、でも何か分かった気もするときもあるじゃんみたいな。
うん。
一切分からなかったらそもそもコミュニケーションが取れないでしょみたいな。
割とそういう当たり前の感覚は結構大事にしてるのがこういう仏教的な感覚かなとは思うんだよね。
48:06
はいはいはい。なるほど。
あとそれが許されたみたいな。どうなんだろうなー。でも面白いね。
うん。
そうそうそう。
まあね、ちょっと全然分からないけどね、ヨーロッパの方は例えばいろんなね、民族がいてさ、戦いも多くて、細かいところの戦いが多くてとか。
はいはいはい。
で、インドとかはある程度断絶されてるというかさ、ある程度内輪もめだけで住んでたとかさ。
どうなんだろうねー。
どうなんだろうなー。
そういう歴史的な、今兄貴が言おうとした歴史的なこととか風土的なことが影響するんじゃないかっていう話だよね。
どう影響するんだろうなーって思うね。
うんうんうん。そうね、でもそういうのもやっぱりあると思うし、やっぱりそういう違いをね、それこそ国民性とかさ、そういうものから考えていくっていうのも当然一つの学問であると思うんだけど。
もうちょっとだけね、最後。さっきから悟り悟りって話をしてるじゃないですか。
はいはいはい。
悟りってすごく潜ろうと思うと難しいんだけれども、最近ネットの記事とかで見ると、例えば悟りの境地っていうのを呼ばれたときに誰々さんとか菅野さんと呼ぶときに、はいって返事をしてしまう。
そういう風に何にも差しはざまずに反応しちゃうその瞬間が悟りなんだみたいなことを言う人もいるんですよね。
うんうんうんうん。
で、まさにそんな感じで、要は僕らってあれこれ思考とか、他者とは何かとか、他者っていうものは自分とどう違うのかとかっていう風に、あれこれあれこれやっぱ隙間を挟んじゃうから、結局どんどん疑いばっかりだったりとか、思考のままにはまっていっちゃいますよねと。
ほうほうほう。
前回言ったような、別にこれは言い悪いじゃないですって話は前回したと思うんだけど、要はやっぱその宇宙船を操縦してる人の話だと思うんだけど、やっぱり何か自分の体を動かす時にあのボタンを押して、まずこの手順でこういうことをしないといけないって思ってる人っていうのは、やっぱりそういう思考がやっぱり世界を作っていくみたいな罠に結構はまりやすい人なんじゃないかと思うんだよね。
うんうんうんうん。
罠って言ったらあれだけど、やっぱりそういう風なことの中で生きてる人だと思いますと。そういう人が例えばヨガとかマインドフレーズをやった時に、あ、自分の思考と体は一つなんだ、もし体っていうものと心でも繋がってるような風に理解できたとすると、その人にとってはすごく楽になった瞬間になるんじゃないかと想像するんだよね。
51:05
うーん、はいはいはい。
そうだ、伝わるかなこの辺って。
うーん、まあそうだね。
たぶんハヤトが言いたいのは、前回の雑談の話で、自分のマシーンがあって、それを操縦するっていう言い訳で考えるみたいな話をしたから。
だからその大変さで、わざわざ操縦する大変さっていうのは思考みたいな話で、もうそこを考えないでもできるんだったらそっちの方が気持ちいいじゃんっていう話だよね。
そうね、たぶん気持ちいいと思うはず。別にそれがその人にとっていいかどうかとかやるべきとかってことではなく、楽になる瞬間っていうのはあるだろうと思うんだよね。
それは別にそういうふうなことを思っていたわけじゃなくて、やっぱりとにかく頭で考えて、結構昔の自分とかもそうなんですけど、
ああじゃない、こうじゃないとか、これでもない、あれでもないって言ってる人が、そうした瞬間に、それこそありのままとかあれがままみたいなことはあるけど、それでいいじゃないかと。
そういう悩むのが人生じゃないかっていうふうに、すっと解放される瞬間があるみたいな。
ああ、なるほど。
そのぐらいのイメージなんだけど。
これはある種の東洋、東洋的にっていうのも変だな、ちょっとそういうありのまま的な感覚から西洋哲学を逆に見たときに、何もそんなごちゃごちゃ言わんでいいじゃないかと。
まさに他者がいるとか自分がいるとかっていうことじゃなくて、我々は今この瞬間、まさに他者と共に生きているわけなんだから、そこから始めればいいじゃないかみたいな。
そういう態度っていうのもすごく美しいというか、素敵なものなんじゃないかなっていうふうに思うんだよね。
なるほど。現状をそのまま認識するって話だね。
そうです、そうです。
さっきのハヤトの例で言うと、マシンを操縦する、そこが一体になるとみたいな話よりは、自分なんかよくわからないけどつらいっていう人が、
自分はマシンがこんな複雑で、自分も操縦士としてこんなきついことをしてるからきついんだっていうことをとりあえず現状を認識することで、
だんだん心が軽くなるというか、こういうことだったのかという気づきみたいな話であれば聞かれば。
なるともっとシンプルに多分、じゃあもう扱い方を学ぶしかないよっていうことを腹落ちできるみたいな、こんな感じだね。
こんな全部難しい操作を諦めて単純な操作をしよう、品をいけるしっていう、そこの現状を認識することでって話だね。
54:01
そうです、そうです。さっきのハヤトの例で言うと。
ただそういう要素がある一方で、やっぱりそこからはね、いわゆるこう、
ホードなっていうとちょっと言い方があれなんだけれども、やっぱりこう複雑な社会を作り上げていくとか、
やっぱり民族とかを超えて繋いでいくような仕組みっても生まれにくいだろうとも思うんだよね。
結構個人的な意図を見になっちゃうもんね。
そうそうそう。だからそれまで生まれたのがいいかどうかっていうのは、いわゆる現代批判っぽくなっちゃうからなんだけど、
でもやっぱりね、全人類が濃厚民族であったほうが幸せだとか言ったら話はまた違うと思うから。
そんな風にね、いわゆるこの思考と、やっぱり今世の中に広がっている価値観とかやっぱり社会の仕組みみたいなものって結構繋がっていられる。
やっぱり今はどうしても西洋的な価値観っていうものが強いから、
でもそれっていうのも一つの価値観、世界観でしかないし、そういう東洋的な感覚化すると、もっと楽にいきましょうよと。
ある種現状をいい意味で肯定をして考えていくのもいいじゃないかっていう風なこともあるよねっていう感じなんだよね。
はいはいはい、なるほど。
そんな感じでね、このサシャっていうものをテーマに、少しこの東洋と西洋というか優位識というものと、
レビナスとかブーバーとかっていうものもちょっと比較しながら見ていきましょうというのが今回のですね。
うんうんうん、なるほど。
いやー、そうだね、これはもうちょっと東洋のもとに、うちら日本人からするとそういう感覚を持った人が西洋に触れるとどうなるかみたいなところをね、
またなんかね、そこを日本人からする自分からするとすごい面白そうだね。
うんうんうん、そう思うし、やっぱりね、それこそね、西洋圏に留学とかね、やっぱり住んでる方の話を聞くとやっぱりその違和感だったりとか、やっぱり馴染みに行くさっていうところがあるみたいな話も聞くから、
まあそういうこともね、もし実際に感傷という方がいたらね、それこそお便りとかでも教えていただきたいなと思うんですけど。
うんうんうん。
これもね、やっぱりずっと言っておけばどっちがいいってわけではないから、やっぱりどっちが馴染みやすいかとか、どっちが本当に自分のフィットする環境か。
うん。
だからやっぱり無理にロジックロジックで考えていくっていうのが、もちろん会う人もいれば会わない人もいるし、
変にありのままだかっていうよりも、そういうやっぱり思考とかを詰め上げていって、物事を見る方がやっぱり楽だという人もいるだろうから。
うんうんうん。
だからそこをね、こう考えるとか、ちょっと自分の振り返る機会があったらいいなとかっていうことを思ってちょっと絵加わさせていただいたっていう感じですね。
はいはいはい。いやー面白いね。確かにこのありのままの部分もね、結構また難しいからね。
57:01
ああそうだよね。
ありのままセンサーある、なしもあるからね。そこが同じだから。
そうそうそうそう。あるしね。
それはやっぱり強要されるのもきついじゃん。いや自分は別にそんなじゃないんですけどみたいな。
そうそう。そんなね、センサーが散らかったりとかさ、そもそもそこセンサーないんですけどみたいな。
そうそうそうそう。
どうすれば周りとうまく生きていきますかねみたいなところがやっぱり問題になる場合もあるしね、センサーによっては。
そうそうそう。結局ね。
ここは同じだよね。するとスインってもうなくても結局おかしなことになっちゃうという現実があるからね。
そうですそうです。
だからやっぱりどっちがいいじゃなくて、やっぱりその間で大事にするとグラデーションというものを常に大事にしながら。
やっぱり西洋の中でもグラデーションがあるし、西洋と東洋っていうのはちょっとこれはもうざっくり言ってたらわかったんだけど、
グラデーションもあるしっていう、いろんなこうね、レイヤーというかそのグラデーションがある中で果たして自分ってどこにいるんだっけとか、
今どういう時点から物事を話してるんだっけみたいなことがちょっとメタ認知できるだけでもすごい行きやすくなるというかね、
いろんな人と話し合いになるんじゃなかろうかというような感じですね。
いやーそうはね。さっきハエトが言った、ある程度やっぱり自己理解的というか、自己認識的な話なのかもしれないよね。
自分のセンスが弱いとか強いじゃなくて、自分のセンスはこうなんだっていうところまでちゃんと理解して、
だからさっきね、難しいからじゃあこうするとか、難しいから諦めるとか、それを辞めるまで認識することが清々しさっていうのもあるかもしれないね。
それで辛いとかというよりは、そこからじゃあどうするっていうところが生まれるから。
ありのまま受けようじゃなくて、ありのまま自分はこうなんだっていうところまで含めては理解する。
そうするとね、フラットな見方というか、今回でいうと応援を取った視点に近いものになってくるのかなみたいなね。
自分はこうで、あの人はこうで、フラットフラット。その場合いろんなケースがあるっていう。
そういうようなことを思いながら作ったので、そういう感じのところが割れば良しだと思うんですけれども、今回で他者に関しては一刻いいかなとは思っています。
前回もさせた通り、今後もいろんなテーマを取り上げていきたいんですけれども、やはり正義とか正しさですね。
便利な話ができたので、他者と関わる上での基準みたいな話を次のテーマとして取り上げていきたいなと思っています。
これをやることでまた他人みたいなものをどんどん感覚の解像度が上がっていくんだろうなという面白さを今回感じたんで。
そうだね。あとやっぱりね、正義っていうものの脆さというか、なんかすげえような前提がついてるねみたいな話も出てくると思う。
1:00:07
へー、そうなんだ。面白そう。
なのでそんなことも含めつつまた出来るような話になっていければというふうに思っております。
わかりました。じゃあ次回は倫理の中でも正義というところをテーマにやっていくというところでしたので、引き続き楽しみにしていきたいと思います。
では次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。