1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #210 悟りの真髄を伝える華厳..
2024-05-01 45:39

#210 悟りの真髄を伝える華厳宗。それでも民衆に浸透しなかった理由とは?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。

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00:06
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回は華厳宗の優位信論。
なんで優位信論?
優位識じゃん。
なんでそんな首ひねってる感じなの?結構しゃべったじゃない。
いや、キーワード多くて。
確かにね。
心だけがあると優位信論。
優位信論。
そうなんです。
華厳宗では、結構浅いというか素朴に語られているものが、
その華厳宗ですね。
宗派としてやった時に、
結構、いわゆる十々優位識と言うと思うんですけど、
3×10に重なるね。
10個に分けて、1から10まで発展していくんだみたいな。
結構そういう整地化された考え方というものもお伝えしていたかなとは思っております。
で、やっぱり華厳宗は結構コミュニティで分かりにくかったかなって思いもあって、
今回はもう少し分かりやすい内容として、
ある種、当たり前のように言っちゃってるんだけど、
全然当たり前ではない、
人間が仏性、仏性を持っているっていう、
そのことについて見ていきたいなというふうに思っております。
前回の優位神道の十々優位識か、
華厳宗のほうが、
それもすごく面白かったんだけれども、
大前提がこれだもんね。
同じ仏性を持っていると。
仏性ね、仏性。
仏性か。
言われてみたらまあまあそんなこともあるよねなんだけど、
やっぱりちゃんと考えてると結構難しいっていうか、
なんでやねんってなるんだよね。
まあそうだね。証明難しそう。
そうなんです。証明はできないんで、
ある程度やっぱり宗教だっていう感じなんだけど、
これも実は大乗仏教の基本的な考え方ではあるんだけれども、
いわゆる小乗仏教、
要は大乗仏教前の初期の仏教でいうと、
そもそも人って仏になれないんですよね。
仏と人間は分け隔てられたもので、
そんな仏なんて素晴らしいもんやん。
人間ごときがなれませんよと。
なのでアラカンっていう、
まあそのいわゆる悟りの位なんだけど、
その手前の段階で良しとしていましたよ。
じゃああれなんか小乗仏教だと、
みんな仏性があるみたいなことはないんだ。
ないです。
どっちかっていうとポケモンみたいな感じでさ、
人間になってアラカンになって、
最後仏になるみたいな、
もう別物として人が進化していくみたいな、
03:01
別物として捉えてるんだ。
人間が進化したら仏になれるじゃなくて、
人間と仏っていうのは全然別の生き物が存在なんだっていう。
人間はアラカンまでしかない。
アラカンまでしかなれない。
だからピカチュウとミュウツーみたいな、
仏がミュウツーで、
人間がピカチュウだとしたら、
もう人間がピカチュウの泊まりで、
もうミュウツーにはなれない。
まあまあそういう感じだし、
ポケモンで言うと分かりにくいかもしれないけど、
ピカチュウがドラえもんにはなれないみたいな、
そんなレベルだね。
ドラえもんでアラカンと仏にはそのくらいの差がある。
差があります。全然違います。
仏とアラカンは過労死で繋がっている。
過労死で人間が限界まで頑張ったらアラカンにはなれるけど、
仏なんてそんなできませんっていうのが、
少女仏教の世界観。
そこまで諦めてるんだ。
諦めてる。全然違うんだよね。
大乗仏教はある日乗り越えちゃって、
でも人も細けになれますって話だから、
まあまあそれは少女仏教の人たちからしたら、
そんなこと言いやがってって感じなんだよね。
なるほど。一応ごめん。
言葉の閣議だけど、
アラカンが自分だけ悟った人で、
仏は他の人も悟らせることができるみたいな感じだよね。
えっとね、厳密に言うとちょっと違うんだけれども、
ちょっと違う。
あの、がっちり説明しなくてもいいけど。
人間が限界に至れるのがアラカンですと。
で、アラカンを目指すということは、
自分の救済を目指すということです。
っていうのが少女仏教の考え方で。
で、大乗仏教は自分の救いだけじゃなくって、
あらゆる生き物、他の人間の救いも目指しましょう。
そのためにはアラカンではなく、
仏というものになる必要があるのです。
っていうのが大乗仏教。
だから、アラカンは自分だけで仏なら誰でも救えるとかっていうのは、
その仏とかアラカンっていうのに意味があるんじゃなくて、
それを目指す人のスタンスが違うという感じなんだよね。
あ、そうなんだ。
うん。
なるほど、なるほど。
そうなんです。
わかりました。
全然違うんだ。心持ちが違うんだね、そもそも。
心持ちが全然目指すものが違う。目標が全然違うんだよね。
うんうん、なるほどなるほど。
だから当然、他の人とかも救ってくれるとか、
自分も救ってくれるんじゃないかっていう方が民衆に広がりやすいっていうのはその通りだよね。
うんうん。
なので大乗仏教が広がりましたっていう話なんですけども、
その中で大乗仏教の話に戻ると、
要は自分が仏になるということは、
06:01
要は仏になろうとする自分がいるわけじゃない。
ロックのタイミングで、よしこれも仏には目指すぞとか、仏になるぞっていうふうに思ったときに、
自分が仏になる素質とか素養が持ってないと、
要は仏にはなれませんっていう、まさにその小乗仏教の話に戻っちゃうんだよね。
そうだね、はいはいはい。
つまり、いわゆる人と仏は全然違う、
ピカチュウとドラえもんみたいな存在ですじゃなくて、
いや、頑張ったらピカチュウがライチュウになれるくらいの感じで仏になれるんだっていうふうな発想が必要で、
やっぱり仏と人は断絶しないっていう前回お伝えした、
仏も人も一緒だ、心も一緒だっていうふうな発想が生まれてくるんだよね。
うんうんうん。
で、これ面白くって、西洋の特に一神教の世界、
ほとんどはキリスト教もそうなんだけど、
キリストと自分が一緒なんていうのはとても言えないんだよね。
そうだね。
それこそ不尊で、神に人間がならないってのはありえないというか、
違うんだって、神に御徴をいただいて、
その中で人間としての仏をある種全うしてくるんだみたいな発想であります。
うんうんうん。
だからやっぱり人が神になるってことはありえないんだけれども、
人は仏教とか大事な仏教を乗り越えて、
人は仏になれる、仏は神じゃないんだっていうふうな。
うんうんうん。
なるほど。
そうそうそう。
はいはいはい。
っていうふうな話が出てくるんだよね。
仏っていわゆる仏陀じゃないもんね。
そうそうそうなんです。
仏の一人っていうか。
そうそうそう、いろいろ沢山いる仏の一人であって。
うんうんうんうん。
なんでもありだな。
でもすごいでしょ、でも。
だから仏教は実践的だし、
仏になる、悟るっていうふうなことがすごく問題になってくるっていうふうな感じで、
やっぱり独特の宗教なんだっていうような話なんだよね。
うんうんうん。
はい。
実はね、人が仏性とか仏になれる素質を持っているという話を言うと、
いわゆる一切主情室仏性っていうよく出てくる言葉があると思うんですけど、
これ特に何も断りなく使ってたんだけれども、
でもこれ涅槃経っていう、まず別の経典に涅槃経っていう経典に出てくる言葉なんだよね。
うんうんうん。
はい、出てきますと。
意味としては、あらゆる生き物とかは仏性を持っている話なので、
じゃあ涅槃経と華厳経で言うってことって一緒なんですか?っていう話なんだけれども、
まあ大ばかで言うとそうなんだけど、結構ニュアンスっていうかね、
力の置きどころが違うんだっていう話があるんですよね。
うんうんうん。
なので微妙な差ではあるんだけど、実はそれが華厳経の特徴だし、
09:02
あと前回の最後でちょっと言った、
あ、それは華厳経ちょっと広まりませんわなみたいな、
そういう風な話につながってくるので、
ちょっとここを細かく見ていきたいですよ、というのが今回やりたいことなんですよね。
はいはいはい。
ここまではOKかな?
うん、OKOK。
面白いよね、でもやっぱり仏陀みたいな創始者なのか、
華厳経とも違うのかもしれないけど、
解釈の微妙な違いみたいなものはこうやってわざわざ、
華厳経だったりとか華厳経みたいになったりとか、
いろんな宗派みたいなものに分かれる。
そういうことなんだろうね、同じようなことを言ってても。
だから仏陀の教えは一つというかそうなんだけど、
やっぱりどこに力点を置くかとか、
どういうふうに解釈するかによって変わっていく話なんだけれども、
ちょっと分かりやすい二半行のほうから言うんだけど、
分かりやすいというのは要は、いわゆる現実世界から出発してくれるんですよね。
だから僕らが生きている世界というのは、
要は穢れていって、
ある種その仏性、仏というものが見えなくなっている。
世の中のどこを探しても仏はいなくて、
いわゆるシャバ世界で、
いわゆる地獄みたいな世界ですという感じなんだけれども、
それでもある種修行をちゃんと積んでいって、
正しく発祥土と言われるような実践というのを積んでいけば、
きちんと現実世界から仏の世界に行けるんだと。
いわゆる穢れた存在である人間の人の自分が、
仏の方向に近づいていって仏になれるんだというのが、
まじ二半行の話をすることなんだよね。
これって結構馴染みやすいというか、
仏教ってそうだよねって話だと思うんですけれども、
なぜ華厳経はどうかというと、
前回もちょっとお伝えした通り、
基本的には仏が悟りのこと、
仏の世界のことをそのまま言葉で語りましたというのが世界観なんだよね。
どうなるかというと、
基本は仏の世界が基準なんですよ。
現実世界じゃなくて仏の世界から出発するんで、
何言ってるんですかと、
この世には穢れも迷いもないですよと、
というところからスタートするんだよね。
なるほど、それは難しそうだね。
だから本来穢れも迷いもないし、
そもそも仏の世界でしかないんだと。
そうなんだけど、確かに言われてみれば、
前回も言った通り、
誠の世界が現実世界に転じていくという。
変わっていく中で、
私はどうしても穢れとしか思えなかったりとか、
12:03
迷いに陥って仏性が見えなくなって隠れてしまったら、
世界になっちゃいますよね。
でもそれはあくまでも、
人間の目から見たらっていう話だけなんじゃなくて、
穢れも、いわゆる迷いも全部仏性の一部なんですよ。
つまりこれは仮の姿なんだよね。
あなたが迷っているというのは、
それも仏の仮の姿ですって言われちゃうわけよ。
まあちょっと納得しづらいかもね。
結構苦しんでる人がそれを言われても、
じゃあどうしろって言うんだよって思っちゃう。
だからやっぱり苦しんでる人か迷っている人がいて、
俺はどうしたらいいんだって言うと、
結局言われると、
いやいや本来万物一切これは仏だからって言われちゃいます。
なのでもうある種、
修行もなくなるし悟りもなくなるというか、
悟りしかないみたいな。
果たしてそれを人間が理解できるかどうか、
みたいな話はやっぱりなるんだよね。
いや無理だよね。
無理でしょ。
だいぶ大きなハードルあるよね。
いやそうなんだよね。
なんて言うんだろうな。
すごい段階的というかさ、
すごい谷があって、
とはいえ30メートルぐらい先に土地というかね、
ここからあっちに飛び移ればいいんですよって言われてるようなもんだよね。
そうだね。
いや分かるけどさ、
無理でしょ。3メートルぐらいしか飛べないよって。
そうそうそうそう。
人間はやっぱりある種限界を超えてるんだよね。
どうしてもね。
いや無理でしょって、
ぐらいハードルだったりとか。
そうだね。
こういうところはギリギリ超えてないんだけど、
超えてないって思ってるのは向こうだけで、
自分は絶対に超えられないと思ってるみたいな、
そういう状況かな。
まあね。
人も仏だからって言われて、
本当そう、どう考えても仏だからさ、
信じてよって言われてもさ、
無理じゃんみたいな。
無理。
っていう風な感じで、
要は人間の立場じゃないんだよね、やっぱりこれって。
なので、
例えばちょっとこれまた別の教えなんだけど、
いわゆる天大宗、
最澄が日本に伝えたと言われている天大宗とかの時代、
これは結構時代が下った話なんだけど、
そういう教えになると、
要はもう穢れってやっぱり実際にあるんだと。
で、迷いも穢れも実際あるから、
人間がそれに囚われるっていうのはしょうがないし、
人間の穢れとかっていうのは仏が取り去ってくれるんだけれども、
なぜかっていうと、
15:00
仏の中にも穢れがあるんだと。
穢れが仏っていうのもあって、
修行によって仏さんっていうのはもともとは人間という存在だったんだけど、
すごく長い大変な修行の果てに、
それを克服したから仏として曇りなく光り輝いているんだと。
それもでももともと仏も穢れを持った存在だから、
人間の穢れとか迷いってもある種理解をしてくれて、
そこに目を向けてくれるから取り除いてくれるんですっていう風な、
人間の立場に寄り添った教えを展開してくれるんだよね。
優しく言ってほしいよね。
言われたら、
なるほど、だから自分のことも仏さんが分かってくれているから、
穢れ多い、迷い多い自分でも仏のある種の力っていうのに救われるんだみたいなさ。
そういう風になるんじゃない?
信じよう、頑張ろうって思う気がする。
だからその中で救ってくれそうだっていう感じになる。
やっぱり昼帰って祈言経の仏扱いに戻りますと、
さっき言った穢れって仮の姿だからもう存在しませんよと。
そうなると迷っている人もいないしそもそも。
指導なんていらないんだみたいな。
お前迷ってるって言ってるけどそれはまやかしだよって話になっちゃうんだよね。
それはそうかもしれないけど苦しんでるんです私みたいなさ。
やっぱりね、壁があるからね。
難しいよね。成功者からさ、俺の言う通りにしようって言われて、
それがしかも結構自分とかけ離れた。
例えば全財産をこれにぶち込むんだとか。
そんなことはやる人いないけど、それは絶対やめた方がいいんだけど。
今すぐ仕事やめろとか、なんかいろいろあると思うんだけど、
今いる友達全員捨てろみたいなことがあったときに、
無理じゃんっていうか、基本無理じゃんやっぱり。
結果論というか本当の真実だよね。
それはたぶんね、今付き合っている友達を全員絶好しろみたいなのも本当なんだよね。
絶対そうしたらある意味いいことが起きるはずなんだけど、
生まれ変わるようなことは起きるかもしれないよね。
かもしれないけど、無理じゃんやっぱりね。
ここから飛び寄りの絶対死なないからって言われても、いや死ぬでしょ。
18:02
今回の話は、鎌田茂雄先生っていう方の
「傑言の思想」っていう本を元に書いてるんですけど、
この方は東京大学の東洋文化研究所の教授なんです。
なので、まさにそういう東洋の思想を専門でやられた先生なんですけど、
その方の本にも、傑言教っていうのは教者の論理だというか、
貴族とか、いわゆるすでに恵まれている人とか、
すでに一定の地位とか名誉がある人たちに支持されたものだっていう話があるんだよね。
実際に触ったのがどっちかっていうと、表現として貴族の論理だって言ってなかったらちょっと曖昧だったんだけど、
でもそういう安定した世の中で、教者みたいな人たちが信じる分にはいいよねっていう話だと。
逆に混沌としての世の中で、ある種もっと商人とか長人って言っていいのかわからないけど、
そういう人たちが信じられる思想がちょっと違うっていうことをおっしゃったりするんだよね。
確かにな。悟った人からしたら全部その通りっていうことばっかり書いてるんだけど、
悟ってない人からするとちょっと意味不明すぎる。
無理だよっていう。
理想論にしか見えない。
そうだね。言ってることは確かにわかるし、そうできたら理想なんだけど、
やっぱり自分と地続きではないっていう感覚があって、
だからこそ、傑言宗っていうのは宗教としてなかなか発展しえなかったんじゃないかろうかっていうような話がここに出てくるんだよね。
前回もすごい面白かったというよりも、
本物だから、真実を言ってるからいいとは限らないもんね。わかんないもんね。
そうなんだよ。
だからやっぱりね、
教えとしてやっぱ面白いとか、前回お伝えした重々有意識っていうものも頭でわかると思ったとしては、
自分は今何段階なんですかとか、2段階から3段階に移るにはどうしたらいいんですかっていうのがやっぱりないんだよね。
ないし、あったとしてもそれは理解しろみたいな。
分かれ!みたいな。そういう世界になっちゃう。
全てはそこに書いてあるからみたいな。
で、なるとやっぱり現実世界で世の中苦しいよなとか、
自分は迷ってるし、日々辛くて辛くてしょうがないみたいな。
21:04
それに対すると、やっぱり華厳教とか華厳宗っていうのは、
理想とか哲学的な思想っていうのを与えてはくれるんだけれども、
やっぱり宗教的な救いだよね。
これってやっぱりなかなか与えてくれないのだろうと。
そうだね。一歩踏み出すものにはなんないかな。
確かに。
A風なものがありますよっていうのがここまでの話だったんですね。
なので、繰り返しになっちゃうんだけれども、やっぱり華厳教っていうのは、
仏が仏の言葉で世界を説明しましたって言われているので、
やっぱり華厳教の言った通り、すごく真理、正しいことが語られている感覚はするんだけれども、
それを言葉として受け取ると、全ては仏であって、
人間も仏であるから、当然人間も仏性を持ちましょうと。
だからこそあらゆるものは真であって、
穢れとかまやがしなんていうものはありません。以上みたいな。
そうなっちゃうんだよね。
いや、ですよねっていうね。
ただその、理解できない人の方が多いこの現状で、
世の中で、それをどう理解させるんですか、先生。
いや、こうです。みたいな。
ロランダはね、去年と、
昨週か、午後とかね、資料体系とかはあるのかもしれないけどね。
もちろんね、一定ね。
あるんだけど、そこはやっぱり超えさせてくれない。
これはやっぱりね、弱い人間の宿命かもしれないけど、
もうちょっと手を差し伸べてくださいよとか、
もうちょっと僕らにも分かりやすく伝えてくださいよみたいなね。
そういうのはやっぱりどうしても起きましょうっていう話なんだよね。
全然難しいよね。
お互いにね。
そうそうそうそう。
だからさっきの成功じゃなくて、
今すぐ睡眠時間を半分にして、その分勉強しなさいとかって言われた時に、
それはね、それやったら成功するかもとか、受験も良かったかもと思うけど、
それができないから困ってるんですよって話なんだよね。
睡眠時間半分にしたら、無理で3日でヘロヘロですみたいな。
そんな世界じゃん。
それはそうなんだよ、人間って思うんだよね。
できてればやってますよっていう。
苦労しませんっていうね。
人にどう信じさせるかっていう話だから。
そうそうそう。
なのでね、やっぱり前回優位心って話をしたじゃないですか、優位心論ね。
これもさ、やっぱりただ心だけですって言ったら言葉としては楽なんだけど、
それは本当の意味でやっぱり実感すると、
そのように生きるとかそのように世界を捉えるってやっぱり難しいし、
24:01
ある先生に言わせると、そんな風にね、
全世界の迷いとか、
世界ってものはそのままただ心のみであるっていうことが本当に理解できたとすると、
その時にはね、本当にスーッとね、
迷いとか合衆、我っていうものに囚われるみたいな心とかも、
全部消えちゃうんだっていう話なんだよね。
ただ心であるっていうのを理解するっていうのはもうそういうぐらいのことだから、
これもやっぱり哲学的にとか言葉としては理解できるけど、
現実的に生きた実感として、
なんかすっきり爽快、自分の悩みも、
そもそも自分っていうものへの囚われも全部なくなりましたみたいにやっぱりならんわけよ。
そうだね。無理だよ。
無理でしょ。
なりたい。僕もね、なれるものはやっぱりなりたいんだけど、無理なんですよね。
現代でも基本やっぱり出家しないと相当難しいんじゃないかな。
普通の手を差し伸べて欲しいって言ってる子ある人たちがね。
だから資産家だったりとかもすぐに成功した人は可能かもしれないんですけどね。
でも難しいのは出家しても無理なんだよ、多分ね。
出家しても結局やっぱりまずは教えを、
何だろうな、理解してましょうとか、
いわゆる今の現代の仏教の構造にまずは入り込みましょうって話になっちゃうから、
純粋に悟りを得たい人が、
今ね、仏教の道に入ってどうなのかってのは正直わからんと思うんだよね。
人並みだからね。それは良い悪いってあると思うんだけど。
そんな感じでね。
やっぱりそういう難しさがあるのか、
やっぱり華厳教とか華厳宗という宗教が広まらなかったっていう、
特に日本においてはね。
ここがあるじゃろうという話なんだよね。
ここがあるじゃろうとね。
ただね、これで終わったら華厳教残念だったって話になると思うんですけれども、
やっぱりエッセンスってめちゃめちゃいいわけよ。
華厳宗が言った通り。
いやー、絶対他の宗派ここから引っ張ってきてるって言ってたよね。
だから優遇式もそうだし、
実はね、結構関わりが深いのが禅なんですよね。
へー、そうなの?
繋がるんだ、そこに。
繋がるんですよ。
つまりこの全てのものは仏であり、誠のものであるっていう考え方が、
実はその禅の教えにすごい取り込まれていきます。
禅っていうのはさ、実は自分も仏だし、
山も川も空も海も全部仏だみたいな、
結構そういう感じになっていくんだけれども、
まさにこれって、いわゆる一切衆生を失う仏教、
これはさっき言った通り繁華経の言葉なんだけど、
27:02
衆生って何かっていうと、いわゆる生き物とか心がある、
その迷ったり悟ったりできる心がある生き物のことを
衆生って言うんだよね。
だから、その衆生には実は、さっき言った山とか川とか、
いわゆる自然っていうのは含まれておりません。
なんだけど、禅まで来てまさにそこに至るっていうのが、
山も川も全部悟るんだと。
さっき言った通り、あらゆるものが仏で、
仏の世界も現実の世界も区別がなくて、
マイクもパソコンもモニターも全部一緒としたら、
それを悟れんじゃんってなるんだよね。
そこまで行くと禅?
禅。禅に至ってそこまでも徹底させます。
心がある、ないとかっていうのを超えて、
あらゆるものが仏だから悟れるんだっていうふうな発想。
これが、禅が華厳教とか華厳宗の教えから
引っ張ってくるものなんですね。
なるほど。今回の広がりづらいというところを
一歩踏み越えるというか、話なのかな。
これをね、いわゆる三仙草木、山、川、草木、
これが三仙草木なんだけど、
これがことごと組みな成仏というふうに言ったりして、
つまり一切衆生、質、仏性あったのが
三仙草木、四肺、成仏かなっていうふうに、
衆生、生き物というところからあらゆるもの、
自然物を含めた存在そのものが全部悟れるよっていうふうに
展開されていくっていうのが、
これはやっぱり華厳教の教えからなんだよね、やっぱり。
はいはい、なるほど。完全オリジナルではもちろん
ないですよという感じかね。
そうなんです。
さっきの通り、仏の世界とか仏の言葉としてのものを
全部突き詰めていくと、そこまでいっちゃう。
いわゆるあらゆるものが仏で成仏するというふうな
禅の世界に至るというのが、結構この仏教のダイナミズムというかね、
自然性という感じなんですよね。
ああ、そうなんだ。
なんとなく、禅も一回やったけどね、
そうか、こういう土台みたいなものがあるんだね。
そうですね、僕も当日そこまでもちろん分かってなかったから、
分かってなかった。
なんとなくね、大会でやったとおり、
なんとなく華厳の教えが生きているとか、
この辺りは華厳っぽいねみたいな言葉を書いてあったとしても、
なんだよ華厳って、分かんないって感じで読んでたから。
30:00
知識としてね、華厳の教のすごさ、オリジナリティみたいなものはあったけど。
そうそうそうです。
雰囲気としてはあったけど、それが何かってのは分かんなかったから、
今ここに立って僕も初めて、あ、なるほどねと。
あらゆるものは仏であるというのは、
いわゆる仏の世界からこの話を見たときに、
そう言い尽くせるんだという話であって、
やっぱり人間はそれを理解するのは難しいんだけど、
それをまず実践するというか、
それを実践的に生きた善の人たちからすると、
もうあれも仏、これも仏、何を迷うことがあるという風に
本当に言える人たちなんだみたいな、という風な繋がりが出てくるんですね。
なるほどね。
まあ実践的に理解というか、ある意味は悟って、
悟れない側の人たちにもめちゃくちゃ共感した人たちが
多分前提ものを作ってたんだろうなと期待しちゃうね。
実際どうか知らないけど。
だから前話は逆に不良文字だったじゃん。
だからもちろん仏、勉強はするんだけど、
経典のこととかそういう言葉ではとらわれないというときに、
やっぱり仏はこう言ったとか、
やっぱり言っちゃうと頭で理解しようとするから、
わからんってなっちゃうんだけど、
それがさ、仏とは何ですかって言うときに、
それはなんか布だとか、
それはなんか、ちょっとそんなことはないかもしれないけど、
頭の上にできた炭鉱物だとか言うときに、
わからんわからん。
でも、わからんからこそそこに向き合えるというか、
わからんからこそそこで自分なりの意味を見出そうとする、
というふうになるわけなんだよね。
わー面白いね。
でも確かにその前の不良文字、その文字を使わないというかさ、
経典を文字に残さないみたいなさ、話って、
確かにこの華厳経か、華厳経?
っていうものがなきゃ確かに成し得ないというか、
ある意味それを知ってその実践した人たちが、
いやこの華厳経のその経典っていうものも空だよねみたいな、
例えばそこに至ったとして、
それを捨てて完全にその実践していくと、
そうなるかもみたいな。
そうなんだよね。
面白さだったりとか、
すごい実践してる感じっていうのは、
その前の凄みみたいなものはより感じられる気がする。
そうなんですよ。
だから確かに僕今話しながら思ったんだけれども、
やっぱりこのね、
真理としての教えをお前が理解しろだと、
やっぱりもう理解なんかできませんってなるんだけど、
真理はあなたの中にあるから、
あなたの中の真理をとにかく見出せって言われたら、
そういうものかと思ってやっぱりやるしかないとか、
33:02
やれる気がしてくるなと思って。
それがやっぱり善ならではというか、
その時々とかその瞬間瞬間の出会いとか、
師匠と弟子のやり取りの中で、
やっぱり悟りを見出していく。
やっぱりもうそうするしかないんだなっていうのは今話して思った。
確かにそうだな。
これが正解なので覚えろとか、
この通りにするって言われたら、
確かに反発しそうなんだけども、
お前にもフォースあるから、
やろうって言われたら、
まぁあるかもね、やろうかなーみたいな。
ちょっと会話見えましたみたいなとこ行ってさ、
全然違うとか言われて、え、違うの?
じゃあ何があるの?みたいなさ、
でも会話見えた気がするんだけどとかっていうのを、
うだうだうだうだやってる中で、
ある時ハッと悟るみたいなね。
そんな感じがすごい人間らしいよね。
確かにすごい全部ね。
みんなできるとも言わない、
できるっていうか、
大丈夫って言われてもちょっと違うんだけど、
なんか唱えればいいとかって訳でもないんだけど、
めっちゃ修行させるんだけど、
みんなできる、できてなかったら、
できる、そう。やれるっていう。
ある感じ。
だってみんな仏なんだもんっていう、
そこだけは揺らがないっていうね。
そこにはついてっていい気もするもんね。
自分が訳わかんなくても。
この人あったらついていけるみたいなのもあるよね。
この人あったら自分も何とかしてくれるんじゃなかろうかって、
まさにその救いの手だよね。
仏とかね、
やっぱりビルシナーブツの手は、
自分には伸びてない気がするけれど、
やっぱり目の前の師匠としての、
やっぱりお匠さんの、
お坊さんの手は伸びているみたいなところがあるだろうね。
いいな、やっぱ全員いいな。
そこも誰かに導いてほしいもんだって。
小島だから立派なお坊さんいっぱいいるんじゃないの?
いらっしゃると思うけど、
出会うために全ての寺を回るわけでもいかないじゃないよ。
いかないし、
別に僕ごときがいたところで、
寺のお坊さんと話せるわけでもないから。
そういう出会いもね、どうやって作るのかというかね、
偶然なのか偶然なのかという話もあるだろうし。
そうそう、まさに偶然か運命か言い始めましたけれども、
もしそういう寺ラジオを聴いている方で、
本当に勘の早いと、
ぜひ導いてやろうという方がいたら、
本当に一度お待ちしているので、
フォームからメールをペロッといただけると、
36:02
ありがたいんですけどね。
そこは割と説明なんだね。
でもね、
これはちょっと雑談っぽくなっちゃうのであれなんですけど、
星回り的には師匠がいないっていう、
師匠に出会えないっていう星回りらしいんですよね。
星回りって何?タロッコ的なやつ?
インド先制術。
インド先制術?
はい。いわゆるホロスコープという、
水かメザとかっていうのは西洋の先制術があると思うんですけど、
時々言うと思うんだけど、
インドにも実はその流れがあって、
インドの先制術の中で言うと、
僕は師匠と出会えない一生というか、
そんなのあるんだ。
あるんですよ。
たまに出てくるハエトのその先制術の話。
久しぶりに聞いたな。
あんまり言わないようにしてるんだけど。
怪しいからね。
怪しいからね。どうしても怪しくなっちゃうからね。
なので、僕はもう師匠とは出会えない。
あらゆる人を師匠として、
ずつ頂きながら生きていくんだというふうに諦めてるんで。
なるほど。
どうせでいいかなって思ってる。
ちょっとそれは話が添えたんだけれども、
そんな感じで、今回お伝えしてきた通り、
やっぱり大乗仏教というか仏になるぞとか、
仏として一切衆生を救うぞと思うときには、
人間も仏性というか仏性を持っている方が、
いろいろ都合がいいんですよね。
その都合というのは、
だからあなたも頑張れるんだとか、
だから我々人間も仏になれるんだ。
ある種、本来的には教えというか実践的な意味で都合がいいはずなんだけど、
偽言というのは、ある種都合を無視して、
春が高みからね、
全ては仏だと言っちゃうみたいな。
だからお前も仏、
You are 仏、
We are 仏みたいな。
雑王みたいな。
おしまいみたいな感じで終わっちゃうんだよね。
パンクだよね。逆にパンクだと思うんだけど。
そこについていける人たちは本当にいいんだろうけど。
オーケーイェー、レッツゴーって言える人は、
別に抜き言だけで。
確かにWe are 仏って言ったらいいんだよね。
いいんだけど、やっぱりそうじゃないのよほとんど。
みんな言ってるけど、俺言っていいの?ダメなの?みたいな。
まず腹減ってるんだけど、みたいな話だよね。
なっちゃうんで、
もちろんね、
ある種、
波長が多い人にとってはこれ以上ない教えだと思うんだけど、
普通の我々みたいな凡人からすると、
ある種、威圧感というか、
上から目線的な感じがあって、
39:02
容易に近づかせてくれる。
僕ごときが華厳教なんて学ばせていただいても、
なっちゃうんですよね。
確かにそうだよね。
ホースっていうものがあって、
君たちもあるから、
あとは頑張ってって言われて、
あと念能力って言ってもさ、
念能力ってものがあってね、
じゃあ水見式やって、
君ほら、これってだから、
あとは頑張ってって言われて、
無理じゃんね。
スターウォーズとハンター×ハンターになるんですよ。
そうなんです。
っていうのがあって、
これまたちゃんと言うんですけど、
昨日はちょうどね、
ストライデッツカフェをやったんですよ。
リスナーの方と会って、
収録してる日のね。
ストライデッツにやったんですけれども、
時々出てくるお兄さんの漫画とかアニメの
例えが好きですって言ってる人がいました。
本当?
本当に。
分かんない人には申し訳ないんだなと思いながら。
やっぱり分かる方からすると、
自分も好きですみたいな、
攻殻機動隊好きですみたいな方もいます。
攻殻機動隊はね、
もうそれだけでいくらでもね。
なるべくワンピースとか
ハンター×ハンターで
知ってる人が多そうなところから
持ってきてるつもりだし、
自分もね、あんまりそういうのって
詳しくないから。
人気のやつというのが好きだからね。
そう思ってるんだけどね。
そんな話もありながら、
やっぱりその、
基本的にちょっと近づきにくいって
どうしてもあるんですけれども、
だからこそ魅力とか、
だからこそ知ってみたいって
気持ちになる部分もあるんですよね。
はいはいはい。
でもそういう意味でも、
教えの、なんだろうな、
確かさだけじゃない意味での
基本教の魅力というかね、
そういうものを
関心いただけたんじゃないかなと
思っているんですけれども。
はいはい。
今回はね、そんな感じでさらっと
お伝えをさせていただいて、
次回はね、またちょっと
ややこしくなるというか、
前回ね、やっぱりそのさ、
優位心という話で、
世界と心は同じであるとかさ、
世界そのものが仏だ
っていう話で、要はじゃあ
心って何よって話をしてきたじゃないですか、
うんうんうん。
だったら次何が来ますかと言いますと、
世界って何よって話ね。
うーん。
だって世界は心であるでしょ?
うん。
って話をしてきたじゃないですか。
世界の話はまだしてないじゃないですか。
そう、まあ確かに。
心に吸収されるとかって話は
したけれども、
でもじゃあ世界はなくなるわけじゃない
じゃないですか、僕ら生きる世界も
仏の世界もね。
うん。
世界って何ですかって話はまだしておりませんでしたね。
ああ、確かに。
なので次ですね、
世界ってことについて話していきましょう
というのが、
42:00
もういいんじゃない?
もうすごかったよ。
もうお腹いっぱいじゃないか。
まだあるんですよ、やっぱりね。
すごいのよ。
もう東洋を恋しいとか言ったけど、
だいぶもうお腹いっぱいになってきたよ。
まだまだおかわりがあるんですよ。
あのね、
はいどんどんって言って、
まだ来るんですよ。
ワンパソコンね、我々の
いまきでけんのソウルフドではないか。
名物ね。
そういう感じでまだあるんで、
ちょっとね、あの、
基本教ほんと、
面白いというか、
好きになりたいから、
皆さんお腹いっぱいだと言っても、
兄貴がお腹いっぱいだと言っても、
おかわりでね、
もう一回分ぐらいやっていきたい
という風に思っております。
あれでしょう、さっきのね、
これやるまでは基本教そこまで
ちゃんと中身見てなかった
って言ってたけど、
本読み始めて面白くなってきちゃったんですよ。
ていうか、もともとやっぱり
好きだけど、
高値の肌すぎてちょっと
自分なんかが
おいしょって手を出していいか
わかんないんだよ、感じだったの。
そういう立ち位置ではあるんだ。
そうそうそう。
そもそもやっぱり
ケゴンっていうさ、
肌?中華の肌にさ、
オゴソカンっていうかさ、
かっこいいじゃん、なんか言葉。
かっこよかそう、なんか
基本教してるかっけえの世界の
やっぱりもう中二語とかさ、
うずいちゃって。
なるほどね。
やってた面白いとかじゃなくて、
もともと基本教
ちょっとそれ多いみたいなのが
あったわけなのか。
なんか知りたいけどやっぱり、
まだ手を出したらダメかなみたいな。
でも手を出してみたら、
なんかやっぱりすげえってなって、
そうそうそう。
憧れ。
好きな先輩について話してる
女子高生と一緒なわけよ、今気持ち的に。
なるほど。
もしかつよりももうちょっと本能に近いね、
それは。
女性と別に付き合ってもないし、
別になんかさ脈があるわけでもないんだけど、
ただその先輩の話をしてると
幸せみたいなのってあるじゃん、
なんかさ、たぶん。
わかんないけど。
ちょっと気持ち悪いけれども、
次回も気づきそうですね。
もうお腹いっぱいだけれども、
ちょっとデザート感覚なのか、
本当におかわりなのか
わかんないけれども。
メイン2品目って感じかな。
多いな。
前回の話、優位審の話が
メイン1品目、肉料理で、
今回ちょっとさらっと
箸休めがあって、
次がメインの魚料理です。
ちょっと重いけど、
まあなんとかついていきたいなと
思いますので。
ぜひお願いいたします。
ありがとうございました。
次回もそうですね、
お腹いっぱいになっていきたいと。
45:00
もう完全にお腹いっぱいじゃん。
そうだよ、
次回何ですかって聞こうとしてたからね。
次回のテーマとしてね。
まだまだ続きますよ、
傾向。
ちょっと引き続き。
2400ページあると言うと、
まだまだ一部かもしれないですけどね。
楽しんでいきたいと思いますので、
次回もよろしくお願いします。
お願いいたします。
今回もありがとうございました。
45:39

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