1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #204 「今から100円玉を捨てて..
2024-04-10 1:02:55

#204 「今から100円玉を捨ててきて下さい」と言われたらどうする?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。

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00:05
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回は馬太郎の普遍経済学とは何かというところを見てきたんですけれども、
その中で最後の方、普遍経済学の方では消費のための消費が大事だよと、今回そこをより深く理解していこうというところでした。
そうですね、はい。前回の冒頭でお伝えした、普遍経済学という言葉と、当人という言葉と、2つあるよというふうに言ったんですけど、
そのもう片方の当人という言葉を今回説明していこうと思っております。
ちょっと聞き慣れない言葉だと思うので、何ぞやってもあると思うんですけど、
いつもはいわゆる岩並みの辞典で当人という言葉が載っているので、これを引いてみたんですけど、
ちゃんと載っていて、辞典で引いた言葉を今から言うんですけど、
今では言葉として分からなくても、今日一回ふんかけてこの言葉を説明していきますという感じなので、ちょっと聞いてほしいという感じなんですけど、
辞典に書いているのは、事故を使い尽くすこととか、事故の所有するあらゆる力と資源をその瞬間において使い尽くすこととかって説明されているんですよ。
分かんないし、当人という言葉からイメージするものと全然結びつかないじゃないですか、多分。
うん、全く。
そうですよね。なので、今回は当人という言葉が何かということをお伝えしていきたいんですけれども、
個人的にはこの言葉すごい好きな概念で、それがあったから、場体を第1回というか幻の第0回で取り上げたみたいなことも実はあったぐらいなんですけど、
ああ、そういう思いもあったんだ。
そういう思いもあった。
なので、今回はそのリベンジも含めて2年越しにこれをお伝えしていきますよというふうな話です。
はいはいはい。
前回お話しさせていただいた通り、普遍経済学というものにおいては、もちろん何か目的のために消費をするとか、生産のために消費するというのはあるんだけれども、
ある種新たな生産というのを目的としないで、新たな過剰なものを消費するみたいな、そういうふうな非生産的消費というものがあるよというふうにお伝えしたかなと思います。
前回お葬式とかサグラダファミリアみたいな例でお伝えしたと思うんですけど、
昔読んだブログでそれにかなり近いなって思ったことがあったので紹介したいんですけど、
03:06
ブログって言ってもほぼ日あるじゃないですか。
ほぼ日刊糸井新聞かな?
そうですそうです。ほぼ日刊糸井新聞のほぼ日の記事の中で面白い話があって、
何かの講座とか、いわゆるほぼ日さんが主催している講座の課題として、
その参加した人に100円玉をみんなに渡して、これを捨ててきてっていうふうに言うんだって。
ちょっと想像してほしいのに100円渡されて、
ちょっと京介さんこれ捨ててきてくださいと。
うん。
だからどうする?
ゴミ箱に捨てるから。
あーなるほどね。
うん。
なんか礼儀正しい。
ちなみにちょっと地下にこれあったと思うんだけど、
外に行ってって確か正しがきがあったはず。
あーそうなんだ。外に行って。
えー。
外に行って。
うんうんうん。なるほど。
えーどうするだろう。外に行ってか。
じゃあ外のゴミ箱は捨てない。
そうだよね。コンビニとかに入っていたことだよね。
とかね。
はいはい。
料理悪いかもしれないけど、公園のゴミ箱だったりとか。
はいはいはい。あーなるほどね。
つい缶とかペットボトルとかこうやって入れちゃうかもしれない。
おーいいですね。
大立はすごい素直だなって思うんですけど、
もちろんね、そういう風に捨ててくる人もいるんだけれども、
中には自販機でジュース買いましたと。
はいはいはい。
でも100円もないから捨てるのと同じようなものですみたいな話の人がいて、
この人については講師の方からすると、
なんかこいつなんも分かってねーなみたいな評価になりますよと。
ジュース欲しいんじゃねーかこいつなー言うてなー。
そうね捨ててないよねと。
おー。
でね、この100円玉をただただ捨てるみたいな行為って、
実はね、この当人っていう言葉と結構近いんですよ。
へーあ、そうなんだ。
そう、で、
アレンキはさ、すぐ捨てるって言ったらすごいなと思ったんだけれども、
普通というか、なんだろうな、こういう風な考え方があるかなと思うのは、
要はその、100円玉を見るとそこに、
100円っていうもう作られた価値っていうのを結構強く感じちゃうし、
あー、はいはいはい。
そう、その100円を捨てるって思うと、
100円の価値を捨てることになるから、
それにはやっぱり100円の何か対価がないと釣り合わないんじゃないかっていう感覚?
なるほどー、うんうん、それは分かると思う。
ね。
それはやっぱり無意識的に感じちゃうよね。
やっぱいわゆる投下交換だよね。
うんうんうん。
で、そうなると、やっぱり僕らは100円の価値あるものを捨てるなら、
06:00
100円の価値を取り戻さなきゃいけないっていう感覚に結構浸ってるよね、と。
まあね、うん、だから捨てろって言われたら捨てなきゃいけないじゃんね、それをやったら。
それは、それはすごく素直なんだよ、だからアレンキは。
うん。
すごいなと思ったんだけど。
うん。
ね、逆に言うと、もうだからその、兄貴がじゃあそれを捨てるとなった場合、それは100円の価値があるものではなく、
ただただ捨てられるための丸い、なんだ、コインというか、
うん。
そういうものに変わってるはずなんだよね。
うんうんうん。
うん、で、そういう風にちょっとこれはあくまでも例なので、もうちょっとこの後ちゃんと話していくんですけれども、
うん。
そういう風に価値の交換の原理とか、投下交換みたいなものを離れて、
ただただ捨てると、そういうことを目的に行われている行為っていうのは、東人という場合に非常に近い行為なんだよね。
なるほど、いやー面白そうだね。
うん。
ちょっとさ、せっかく言えばなんか面白い例だったから、
うん。
もうちょっと突っ込みたいんだけど、
ほいほい。
今のが例えばさ、
うん。
あのー、会社の面接、採用面接で、
はいはいはい。
ね、今からこの100円を渡しますと、
なるほど。
うん。
これを外に行って捨ててってください。
はい。
って言われた場合は、
うん。
多分もうちょっとこう、え、ただ捨てたらダメかなとか、
はいはい。
ちょっと文字聞かせなきゃダメかなって多分、
うんうん。
思うと思うんだよね。
なるほどね。
うん。
なんか早投売だとどうするかっていうのと、
うん。
あとなんかこれってなんかあのー、まあ模範回答みたいなのってあったりするの?これ。
模範回答とかね、やっぱあんまないんだけど、
うんうんうん。
まあ自分だとね、結局捨てなかったんだよね。なんかやろうと一回したんだけど。
えー、あ、そうなの?どうなっちゃう?
うん。
なんかね、やっぱ捨てようかと思った時に、やっぱじゃあ何が捨てるのらしい捨て方かってやっぱ考えちゃいますと。
ほうほうほうほう。
でさ、今兄貴もさ、例えば採用面接でってあった時にさ、
うん。
要は、受かるためにこの100円を捨てるっていう目的が出ちゃうじゃない?
まあね、確かに。
うん。
うん。
つまりそれは100円っていう価値はないんだけど、受かるために捨てるっていう、
要は捨てるっていう行為に目的がもうくっついちゃってんだよね。
あ、そっか。さっき自分も言ったけど、トンチを聞かせるみたいな。
そう。
もうそうするとちょっとまた、今回ほぼ日の方で想定してる話とはずれてくるのか、そうすると。
うん。実はこれはさっき言った、当人とこの行為は近いんだけど違うっていう話がまさにそこで。
はあ、はあはあはあ。
要は、例えばさ、こうしに気に入られようとか、この講座、なんか好評価を得てやろうって思って捨てる瞬間に、それはもう当人っていうものから離れちゃうんだよね。
なるほど。確かに。そっかそっか。そこに100円の価値がある。
それ計算してるじゃん。
09:00
そうだね。うんうんうん。捨てることで100円分の評価を得てるからね。
そうそうそうそう。100円以上のものを得ようとしてるかもしれない。
だからそもそも設定として、面接の場においてっていうことがちょっとやっぱり違っちゃってて。
なるほど。
ただ捨てるために捨てるっていうことは、本当に、なんだろうな、この自分が捨てるという行為に全く頓着しないってことを含むんだよね。
なるほど。それってとても難しいですよね、という話なのか。
僕はそれができないと思ったから捨てなかった。
これはもうちょっと先に言うから、もう少し話させて欲しいんだけれども、
ただ今の会期になったところと、ただ捨てることができるのかって話はちょっと念頭において聞いてもらえたらめちゃくちゃ嬉しいですと。
今みたいな縮円捨てるとかっていうのはかなり現代的な例なんですけど、
場体はやっぱりいわゆる古材だよね。
昔の人間の行為にそういう当時の例っていうのを見出してますと。
例えば農業とかを行ったときに、いわゆるその年に初めに採れたもの。
稲とか野菜でもいいんだけど、いわゆるそういう初物っていうのを神様とかご先祖様に奉納するみたいな、そういうことってあるじゃないですか。
っていうときにこれも合理的に考えれば、いわゆる来年の種として残すみたいな、いわゆる生産に使うもの以外は全部食べ尽くしちゃった方が、
人間の労働力を確保するとか、生産性っていうのを考えたら絶対にいいはずなんだよね。
でも人間っていうのはやっぱり一番最初のものとか、一番いいところっていうものを神様に捧げるっていうことを伝統的にやってきましたと。
なるほど。結構それが多いんだね。多分いろんな場所でね。
そうそういろんな場所で、日本だけじゃなくては各地でやっていたし、ましてやそこに加えて、例えば前回のお祭りの例じゃないけど、歌や踊りを披露するとかさ、
地域によっては神様のために石像を建てたりとか神殿建てたりとかするわけじゃん。
それも神殿建てる労働力があるんだったら農業をしろよみたいに思ってもいいわけよね。
確かに踊っている暇あったら賜やせよみたいな。
そうそうそう結局ね。もちろんそこには経済的に、それによって公共事業とかってあるかもしれないんだけれども、
いずれにしてもそういうふうに一番いいところとか一番初めて捉えたものを神様に捧げるっていうことをやってきたのが人間ですと。
へー、はいはい。
12:01
それに対して、いやいやでも待ってよと。
でもそれって結構来年の法則とか神様に守ってほしいみたいなさ、そういうことを目的にしてるんじゃない。
要はそういう目的がある中での行為じゃないっていうふうにも言えるんだけれども。
確かにさっきの孔子に評価されるみたいなのと似てるかも。
そうそうそう似てるじゃない。
そうなんだけど、まさやに言わせればそれっていうのは、いわゆる現代の価値観から捉えた解釈でしかないんだと。
昔の人たちっていうのは、少なくとも直接的にはそういう奉納とかをすることで来年の法則を願うっていうふうには考えてなくて。
ただただやっぱり消費をするとか、
ただただ見返りとか期待というものとは離れて純粋にそのものっていうのを捧げるっていうことをやっていたんだっていうふうに私は捉えますと。
これはちょっとどういうふうな文献的なものでとか、報告的な事実へっていうところがちょっと僕もちゃんと見えてなかったから、
やっぱりこじつけっぽく感じるかもしれないんだけど。
そこは本当にわかんないって話だよね。
何千年前に初めて初詣の神様になりなりなりにお供えした人がどう思ってたかはもうわからんって話だよね。
そうだね、そういう文献は残って、わかんない、もしかしたら書いてるのかもしれないけど、僕がその場体の解説を読んだ限りではそこまでは書いてませんでしたと。
歴史的にそれが残ってるかもわかんないんだけど、場体的にはそういうふうな未来を頼みにするとかそういう方策、見返りを期待するっていうのは後から出てきたもので、
すごく純粋な本当に原初の宗教的な行為としてはそういうものは含まれてなかったっていうふうな話をしてるんだよね。
だから神頼みで来年功績になりますようにとかじゃなくて、これわかんないけど、ただの感謝。
そうだね、感謝とか意気揚げの念とかね、本当に。
そういうものでやってただろうと。
さっき岩波の辞典の言葉で当人っていうのは自己を使い尽くすことだっていうふうな言葉を引いたんだけど、
つまりいわゆる他の目的のためじゃなくて、本当にただただ使うために使うとか、捨てるために捨てるとか、捧げるために捧げるとか、
そういうふうな使い尽くすっていう言葉が当人っていう言葉なんですよっていうふうになるんだよね。
おー、はいはいはいはい。
で、これってさ、やっぱり僕らのというか、その限定経済学では通常の経済の観点からすると、まさに非生産的な出来事じゃないですか。
15:09
いやもうタイパン無視ですよ。完全にタイパン無し。
ゼロだからね。
なんならマイナスと思っちゃう人も多いだろうね。
つまりこれって消費っていうよりはもう消失って言えちゃうことなんだけど、
でもバタエってまさにそこに積極的なというか、めっちゃ意味があるじゃんっていうことを見出すんだよね。
はいはい、どういうことだろう。
どういうことかっていうと、今日はね、もうちょっとごめん、もう一個の話をするんだけど、
さっき言った通り、使い尽くすとか捨てるために捨てるみたいな話をしたと思うんだけど、
これって実はね、バタエリは言うんだけど、ちょっと考えてみましょうよと。
という感じで我々言ってきたけれども、その盗人っていう行為って本当に出来る行為ですかねっていうことを問うんだよね。
おー、ほうほうほうほう。
つまりさっきさ、100円玉を捨てるみたいな例でもさ、盗人に近いとは言えども、盗人そのものじゃないっていう話をしたと思うんだけど、
さっき言った通り、目的とか未来を一切考えずに行動するっていうことが、そもそも人間って出来るんでしたっけっていう話が出てくるんだよね。
あー、目的すらか。となるとさっき言った発物をお供えするみたいなやつで、感謝を表すみたいなのも、これも感謝を表すことは目的?してる時点で盗人ではない。厳密に言うと盗人ではないのか、そういう表現をしちゃうと。
そうです。厳密にはね。
だから一番最初にやった人が、ただただ無心にも、これただもう、あーって、あーって言うのが盗人だろうって感じが、ここまでね。
あのー、今ですね、聞いてる方全然わからないと思うんですけど、多分あーって言いながら何かをしたんですよ、たぶん兄貴は。何か行動をしたんですよ。
でもそれ、本当にそれ。
発物の米とかを、あーってお供えしたことが盗人であって、今年も豊作ありがとうございますってお供えしたものは盗人ではないんだよね、多分。
厳密に言うとね。でも本当まさにそう。
はいはい、ちょっと見えてきた気がする。
見えてきた。
わー面白いね。
やっぱり人間というのは基本的には合理的なものだし、何かを思考しながら、もちろん行動するじゃないですか。
はいはいはい。
で、もちろん未来を考えようとは思っていなくても、ぼんやりと何かそういうことを想像するってことがあったときに、
18:00
さっきの100円玉の例で言っても、当然ね、これはどういうふうな課題なんだろうってことを考えるとか、
これはどういうことをするのが正解なんだろうとか、みんなはどうするんだろうとかね。
そういうふうに考えている時点で、そもそも100円玉を捨てるという行為自体には没入できていないわけですよ。
そうね、はいはいはい。
神様についてもやっぱりそうで、まさに相木が言ってくれた通りで、やっぱり感謝とかさ、来年の祈願とかさ、
そういうことを目的として入り込んできた瞬間に、やっぱりどうしても盗人という行為から離れてしまいますと。
うんうんうん。
じゃあ未来もダメで、過去の法則に対する感謝もダメってことなら、いわゆる現在みたいな話になると思うんだけど、
ここでさっき岩波の定義でお伝えした、あらゆる力と次元をその瞬間において使い尽くすっていう、
この言葉の意味が見えてくるんですよ。瞬間ね。
瞬間ってなんだろうと思ったんだけど、そういう感じのことね。
そういう感じ、未来もダメ、過去もダメだから、まさにこの瞬間にその行為をやり尽くすっていうことなんだけど、
本当にそうやってできるんでしたっけっていう風になりますよと。
いやー、難しそう。
うん、ね。結構ここまで来ると哲学っぽくなってこない?
なってきた。
ね。
面白くなってきた。
なってきました、おーよかった。そうなんです。でね、さらに、さらに行きますよ。
実はこの瞬間って言葉あるんですけど、ここにも実は2つの意味があるんですよと。
どういうことかっていうと、1個目はね、僕らが普通に考える瞬間、要は時間としての瞬間。
つまり未来でも過去でもなく今現在とか、ここの自分が生きているこの瞬間みたいな話っていうところがあって、
そういう意味で、この瞬間においてその行為に専念するとか、さっきのいやーみたいなとか、あーみたいな感じでやるっていうこともそうなんだけど、
それだとまだ取りませんよっていうのがバタエの独創性でして。
足りないんだ。
足りないんです、はい。
なんでかって言うと、バタエに言わせるとね、その瞬間っていうのは、普段僕らが生きている時間の概念っていうのを超えてるんだって話を言うんだよね。
つまり、過去現在未来とかっていう時限で話してる視点で、おいおい、当時のこと何もわかってねーよっていうのがバタエが言うってことなんですよ。
はい。
何いうことかというと、もうちょっと頑張って話すね。
頑張って聞いていただけると嬉しいんですけど、普通に考えたら僕らはさ、やっぱり未来を予測したりとか、
あるいは未来が合理的なものであってほしいっていうような風に生きる、そういう根本的な性質を持ってるんですよね。
21:03
だから前回言った通り、いわゆる消費する時も、未来にこんなリターンがあるよねとか、こんなことが返ってくるから今このお金を使おうとかっていう風に考えるわけだよね。
ただね、純粋に消費するために消費するっていう意味の当人っていうものが、その人間の根本的な性質としての未来を予測するとか、合理的であるっていうものを完全に乗り越えた上で行わなきゃいけないでしょうと。
つまり、前回理性で制御するみたいな話を言ったじゃないですか。
理性で世の中とか自然っていうものを制御する、そういうところで生まれてきたようなものですよっていう風に言ったんだけれども、ここにきて場体は、制御するものとしての理性っていうものを制御する必要がありますよねと。
だって理性って未来のことを考えたりとか合理的に思考したいっていうものが理性だから、それを制御しないと当人っていうことはできませんねっていうことを言うんだよね。
そうだよね。だってタイパー考えなきゃって言ってるような理性を、一旦そのタイパー制御を制御しないと、そのタイパーが制御できないからねっていう。
そう、もう入り口になってよくわかんなくなるけど。
つまりそこを考えるときに、理性を制御するってできるんですかと。
それって人間の能力を超えた過剰な出来事じゃないですかっていう風に言うんだよね。
また過剰って出てきた。
だってさ、理性を使うっていうのは人間のある種、姿勢の働きとしてできますと。
その理性を制御するっていうのは人間を超えてるから、それは過剰な出来事なんだよね。要は人間を超えてる出来事ですと。
うん、そんな感じですよね。
じゃあ、その状態でやる当人って果たしてできるんでしたっけってなったときに、それは普通の状態ではやっぱり無理ですっていう風になりますと。
へー、そうなの。
普通じゃない状態って何かって言うと、これはちょっとバタイガーって言うと少し離れるんだけど、
さっき兄貴言ったような、エイヤってなるときの、いわゆるトランス状態とか我を忘れた状態とかさ、
いわゆる取り憑かれたみたいな状態って宗教的に言われたりするじゃない。
うんうん。
いわゆるイタコでもいいんだけどさ、そういうふうな最智様とかが人間とか我を忘れて神が乗り移るみたいな状態ってあると思うんだけど、
そのときに初めてこの当人ってやっぱりできるんだよね。
なるほど。理性外の範疇に自分が置かれてるときならって話だね。
24:06
そう。つまり我を忘れてる状態じゃないと当人ってことはできませんと。
つまり、これね、まさにバタイの弱節的な哲学っていうテーマなんだけど、
通常の哲学は我とか理性をもとに世界を制御するじゃないですか。
でもバタイの哲学は我を忘れて、我を忘れるからこそその我とか理性も制御できるっていう、
そういうふうな地平の物事を考えてるんだよね。
うーん、そうなんだ。
うん。どうだろう、どうだろう、伝わるかしら。
伝わんない。
伝わんなかった?
いや、だいぶいいとこまでというか、バタイのいう当人っていうのを達成する状態が、
理性でコントロールしてる状態から抜けなきゃいけないっていうところまではわかるんだけれども、
その状態が略説的に理性をコントロールすることになる?制御することになる?
うん。
それがちょっとわかんないかな。つながってない。
なるほどね。
どういうことなの?
理性を制御するというよりは、それはできるかできないかわかんないんだけど、
えーとね、なんていうのかな、ここで一番大きいのは要は、
理性っていうものを出発点にして物事を考えてるっていうことを覚えてるっていうのは多分伝わるよね。
うん、伝わってる。
伝わってる。
例えば、古代の人が感謝をするために物事をお供えするっていうのは、バタイでいうと当人ではない。
これはもう理性によって感謝したいなと思って、それを行動に表してるっていうだけで、
ある意味その感心度が全然普遍経済学的ではないし、当人的ではない。
やっぱり一年最初の収穫の時に、あーあーってやったのが当人だとすると、
理性の先に当人はあるし、厚さみたいなものはすごい感じてるんだけど、
だから、その理性と当人の関係はわかったけれども、
それがね、どう理性を制御するのかわかんない。
はいはいはい。
つまり、これはちょっと哲学的な流れになっちゃうんだけど、
もともとの制御哲学っていうのは、理性っていうものがある種人間に与えた武器で、
それで世の中を正しく捉えようというふうに価値をしてたわけなんだよね。
うんうんうん。ちょっとピッタリなかも。
でもバタイは、そもそも理性っていうものが人間の制御できない過剰なものであって、
27:03
武器として扱えるようなものじゃねえぞって話をしてるんだよね。
あ、なるほど。理性は過剰なものなのか。はいはいはい。
そう。だって制御できないんだもん。理性っていうのは。
制御できないの?
うん。だって理性っていうのはさ、今言ったみたいに、
要は勝手にミラール予測したいとか、合意的に考えたいっていうふうなもので、
従って動いちゃうじゃない。
うんうんうん。
そう。だからそれをやめようとか、理性を使わないようにしようっていうふうにできるものってないんだよね。
あー。あ、なるほど。
使わないようにしようってことができないってことは、
自由自在に使いこなすってこともできてないでしょっていう話ね。
多くの哲学者とかも理性をこなしてるつもりだろうけれども、
バタ言うから言わせるとそうじゃないよねっていう話ね。
そうじゃない。そう。
はいはいはい。オッケーオッケー。
うん。そんな都合のいい道具じゃないし、
それを扱えると思ってるのは間違っていて、
そもそも理性を使うというのは人間の正しい能力っていうのを超えていますと。
はいはいはい。
で、そこに当人っていう、まさに商品のために商品っていうことを考えると、
人もその理性っていうものをどう制御するかとか、
もっと言うとその理性っていうものをどう捨てるか、
我というものをどう捨てるかっていうふうな領域に踏み込まざるを得ませんよと。
はいはいはい。
これって今までの哲学では扱えなかったテーマですよねっていうふうな話なんだよね。
うんうんうんうん。なるほど。
うん。
うーん。
待てよ、となると、
バテル的にはどうなんだろうな。
当人とか理性っていうものを、
はい。
コントロール不能なものとは捉えてないのかな。
それとも、当人っていう概念が出てきたことで、
何かを人間がコントロールするっていうところは捨ててるのかな。どうなんだろう。
現実にあったでしょっていうのはさっきの古代のお祭りとか法納の話なんだよね。
うん。
これまでの人間っていうものは、そういうふうに我を忘れてとか、
事故っていうものに囚われずに行動することができてたんだって現実的に。
うんうんうんうん。
バタイユー言った通り20世紀とかに生きた人なんだけど、
今我々っていうのは事故とか我とかそういうものに囚われすぎてて、
それでしか物事を考えられてないし、
それ以外の世界があると思ってないですよね。
あー、なるほど。はいはいはい。
うん。
30:01
それってめちゃめちゃ世界の見方が狭いし、
だから限定経済学っていうものにベッテルをある種張って、
自分が考えてるのは普遍経済学でもっと広いものなんだっていうふうな話をしてるんだよね。
あ、オッケーオッケーわかりました。
なるほど。ごめんごめん、そこの前提忘れてたわ。
オッケーオッケー。
そうか、その限定経済学的なところをアンラーニングすれば、
その当人っていうところが今は完全に不可能な価値観の中で生きているけれども、
その当人的なスタンスっていうものができる可能性があるとこまでは行けるでしょうと。
そうそうそうそう。
で、それが今限定された異性だったりとか、
そこを乗り越えるというか、一旦忘れてフラットに戻す大きな鍵が当人なんですよと。
一旦そこまで戻りましょうよみんなっていう話。
そうだね。
はいはいはいはい。
だとするとすごいバターインの言ってることとか、
その客説的なっていうところの意味もわかる気がするかな。
そうそうそう。
まさにこれまで見えてもなかったものに光を当ててくれるというか、
ないものとして言ったら、例えば前回話したような、
いわゆる異常な性行動とかってあったじゃないですか。
あれも前回言った通り、普通の合理的に考えたら異常な人だから、
要は病気であるっていうことにしかたぶんならないんですよ。
例えばね。
要は通常とは離れた異常であるっていう風に、
何が正しいとか、この価値観っていうものが根っこにあって、
そこから離れたものは悪いものだっていう風な価値観になっちゃうんだけど、
それってめちゃめちゃ狭い、心の狭い価値観だし、
合理性って本当に正しいんですかっていう風な見直しってなかなかできないんだよね。
この馬太医の過剰さとか、老人とか普遍経済学ってものをちゃんと付け合わせてあげると、
それは一つの過剰さであって、良いも悪いもないし、基準っていうのも立てられません。
まず合理性っていうので考えてるうちは、その外のものが見えないから、
結局はかなり狭い視野で物事を考えてますよねっていう風な批判ができるんだよね。
はいはいはい、なるほど。
っていう風に、要は違う思考の軸を一個作っているのが、
この馬太医の限定経済学という考え方だし、
おそらく彼がやってる逆説的な哲学っていうのは、
そういうことをやろうとしているとか実現しているって話なんだよね。
あーすごいね。めっちゃすごい。
すごいのよ。
やっぱり価値観を俯瞰で見るっていう視点を作ってくれるところと、
33:03
あと今やっぱり共同体の価値観ってものの、
そもそもなんだったのっていうところに、
かなり冷静に光を当てるっていう手段というか、
その価値観を提供してくれてる感じがするね。
面白いなあ。
やっとわかった。
これはすごいね。めちゃくちゃすごいな馬太医。
やっとだな。3回目にしてやっと馬太医先生って言えるかな。
すごいなあ。
いやーよかった。ありがとうございます。
たぶん今みんなが知ってる例とか言うとさ、
大谷の二刀流なんかまさにそういう機械でもあると思ってて、
スポーツとかってすごく専門性がどんどん深まっていくというか、
法理的に考えると打者に専念した方が打者として強いし、
投手に専念した方が投手として強いし、
そういった選手、スペシャリストの選手が集まって、
より戦略的な試合運びを行った方が優勝を勝つ確率が上がるっていう、
たぶんあらゆるデータに基づいて合理的な、
ここは一旦経済とはちょっと違うかもしれないけれども、
何かスポーツ、何かをルールで勝つということにおいて、
それってすごく合理的なことだと思うんだけれども、
で、やっぱり二刀流って中途半端じゃん、みたいな。
そうだね、普通に考えたらね。
場的な試合って統合陣じゃない?もうやりたいからとか。
過剰だよね、過剰さ。
え、どっちもやんの?みたいな。
で、それがやっぱり普通はおかしいけれども、
そういう人が一人出てくることで、
野球界そのものの価値観って変わったと思うんだよね。
そうだね。
だからそういう、一個俯瞰で見るとか、一個合理性。
これ難しいって言うのは、新しい合理性が一個生まれただけかもしれないけれども、
その当たり的な視点を持っていれば、
新しい限定経済学が生まれたのか、
その辺の経済学的な視点から見ているのかっていう視点も得られるから、
そういう生産みたいなものは持ち続けることができるのかな、みたいな感覚があるね。
そうですね。
36:00
まさにさっき瞬間って言ったと思うんだけど、
生まれた瞬間に合理性に回収されてしまうというか、
大谷さんの二刀流も、やっぱりその方がメディアが喜ぶからとかさ、
例えばその方が試合に出れて勝ち数字が増えるとか、
多分いろんなことを後付けでは言えるんだけど、
そうなっちゃうと二刀流っていうのも合理的に解釈できちゃうんだけど、
多分その生まれた瞬間とか、それが世の中に認められた瞬間そのものっていうのが明らかにあって、
確かに。もうやったれみたいな。
そうそうそうそう。いけるみたいな。
とりあえずやったれみたいな。後だけ組んで決めようみたいなね。
うんうん。
確かにそういう瞬間はあったのかも。
たぶんその瞬間はまさに無感的な瞬間ってこともそうだし、
普段生きててそんな風に考えない、でもなんかやれるとか、でもなんかいけるみたいな、
そういう我を超えた瞬間っていうのがあったかどうかは分からないけれども、
ある意味そういう風に表現できるとか想像しても良い場面っていうのはあるんじゃないかと思うんだよね。
わー面白いね。そっかそっか。
生まれた瞬間は絶対当人なんだね的な振る舞いをしてるんだ。
絶対とは言わないけど、
そういう瞬間がある可能性がその当人の可能性であるってことかな。
これって要はさっき言った通り普通に生けたらありえない行為なんですよ、当人っていうのがね。
逆に言うとその当人が行われるってことは人間の能力を超えるとか、
人間の理性を超えるとか限界を超えるとかっていう風なことになるんですよ。
つまり本当に何も望まず一切自分の行為の結果とか、
努力が実るかというのに期待せずにただただやり続けるみたいな人間がいた時に、
やっぱりそれはすごく崇高なものというかさ、
やっぱり人間を超えたものっていう風に僕らって思うと思うんだよね。
それを実際にバタイオは聖なるものとか、
何も変えりみずにただただ消費のために消費をする。
それによって人間の能力を超えるってことを聖なるものとかって呼んだりするんだけれども、
それって結局は我を忘れてとか理性を超えてとか、
合理性や生産性ってことじゃなくて、それを超えた在り方をすること?
そういうのがバタイオだと思うんだよね。
それは聖なるものとか、精神差?神聖差?みたいなものと結びつけてるんだよね。
なるほどね。
例えば子どもが何の目的もなくひたすら画用紙のいろんどに続けるとか、
これってどういう状態だろう?
これってどういう状態かっていうと、
子どもが自分で何かを作り続けているっていうか、
39:02
自分の目的もなく ひたすら画用紙の色を塗り続けるとか
もう後先考えず
無理だろって高さからなんか飛び降りちゃうみたいな
そういうのは多分当人的ではあるけれども
多分それは要するに人間として未熟ない上の行動みたいな感じで
その行動としては近いけれども
多分あたりのいう当人とは違うのかな
人間の能力を超えてるかっていうと多分違うだろうと
ただそれを見て大人がやっぱり子供は神様に近いよねとか
より純粋であるとか
なんか神聖さを思うとか
子供の描いた絵にこそ本物の想像性が宿るとかっていうのは
まさにそういう感覚だよね
はいはいはいはい
うん
なるほど
当人的って感じかな
的だね
なるほどなるほど
実際にはやっぱりいわゆる理性を超えるとか
そういうふうなものが入るから
もうちょっと大人になってから行われることかな
うん
わーすごい概念だね当人って
すごいでしょ
うん
僕はこれを中途半端にしてる時は
当時消費のために消費をすればいいんだからって
とにかくいろんなものを食べようとか
お金いっぱい使おうみたいな
そういう砲塔みたいな感じに思った時期もあったんだけど
そうじゃないんだよねやっぱり
ちゃんと自分っていうものにとらわれないとか
いわゆる合理性にとらわれずに
いかにそれを超えるか
クリエイティビティとかそういうものに近いとは思うんだけど
まあそうだねいい方に出ればね
そういい方に出ればね
悪い方に出るとさっき言ったみたいな
ちょっといわゆる殺人
滞落者みたいなさ
うんうんうん
っていうそのなんだ
世の中的にはちょっと救護できない人とかが生まれる可能性もあるんだけど
そういうふうに
要はその人間の合理性っていうものを超える思想とか
なんだよねこれは
合理性は後付けだって話だね
えーとねこれっていうのはどこだろう
例えばその当時的な行為があったとき
例えば古代の人がもう得あった発物のお米を捨てるというかね
備えした時
多分それを見た誰かが感謝してるんだなとか
冷静になった後自分が感謝してたんだなとか
来年もよろしく後から思うみたいな
後付けじゃん多分
そうだね
後付けだし
もっと言うとさ
昔のそのいわゆる巫女さんみたいな人とかさ
42:02
神と話せるみたいな
預言者だけの役割の人って
やっぱりそのとならざる者というか
通常の人間とは違うみたいな扱いをされてたはずなんだよね
はいはいはい
それがつまり合理性を超えているとか異常者でも良いみたいな
そういう風な発想になってくるのと近いという感じかな
なるほど
これで言うと
さっきバタエの当人が犠牲を制御するみたいな
のでちょっと違うかなと思ったんだけど
最初聞いたときに思ったのがさ
何だろう
当人っていうものがあって
初めてそれを理性で捉えるみたいな順番
哲学っていうものの痛みが何か分からないものとか
現象だよね
理解していくものというかさちゃんとね
だとすると
当人っていうのは現象そのものじゃん
はいはいそうですね
それからそういった理性を超えたもので
あったときにそれを評価するのが理性であって
だから何かその当人が理性をコントロールしていくっていうよりは
何だろうな
ビッグバンがあって宇宙が誕生したじゃないけれども
当人があって初めて理性っていうものが存在し得るみたいな
その上の順番のものなのかなと最初思った
なるほどね
そうだねそこがすごく難しいもので
僕がちょっと理性を制御するって言ったのがよくなかったんだけど
理性っていうものを超えるっていうのもちょっと違って
なんていうのかな
そことは違う次元で行為行動しているって話は
多分近いんだよね
つまり
なんだろうな
よくさちょっと東洋的な話なんだけど
いわゆる仙人とかさ
前言った弓の名手で弓を持っているの忘れてしまったみたいな
名人伝の話をしたと思うんですけど
そんな感じで要はそもそも自分が自分であるということすら忘れているとか
自分がそもそも理性っていうものを使って何かを行っているということからも離れているとか
結構そういう風な世界に近づいてくるんだと思うんだよね
あの当人ベースの人はね
当人ベースの人はうん
当人を実現している人はね
僕らは当然そういう風に生きてないし
45:02
現実的には当然理性を持った一人の人間として生きていると
そこから考えた時にこの当人という行為に至るのであれば
その普段使っている理性っていうものを何らかの形で捨て去るとか
出てこないようにするとか
そういった意味では制御というかコントロールする
なるほど
はいはいはいはい
ただそれを理性を何で制御しますかっていうのはないというかわからないんだよね
なるほどオッケーオッケーそっかそっか
その当人を持って制御するじゃなくて
当人っていう次元の行為か
一回理解したとするともしくはやったとすると
理性との違いがわかるから
今自分は理性で動いていることがわかるようになるし
普通の意識なのがね
でも当人をしていたっていうのは自分ではわかんないはずなんだよ
なぜならその当人をする我というものを見る我っていうのはないんだよね
だからもう記憶喪失になるとか
神様に取り憑かれていて覚えてないっていう風なことになるはずなんだよ
言葉で表すと
そうだね理性から離れてその瞬間の爆発だからね
そうそう瞬間の爆発だから
なるほどね
これ聞いてさらに思ったのがさっきね
大谷の例も出したんだけども
個人的にピンときた例があって
こいつ当人だなっていうのがあって
誰誰
あれハイキュー?バレーボール?
バレーボールアニメの
ハイキューの主人公の日向
日向松陽は当人的だなと思う
が多分一番劇中ではかなりトップレベルというか
当人レベルかなりトップで描いてるなと思った
夢中すぎて
見た試合とかでも
ここにこうなってこうなってこうなって
ここにボール上げてもらえるはずだからこう飛ぼうとかじゃなくて
直感というかもう飛んでるみたいな
そういうことね
相方の影山も多分当人レベルとても高いんだけれども
日向の方がちょっと当人レベル高くて
なるほどね
ここに持ってこいってこと?みたいな
逆に日当たり引っ張れることで天才がさらに
みたいな話だと思うけど
結構ハイキューでその当人レベルが人によってバラバラで
そこを上手く描いてるなっていうのをちょっとね
48:03
映画見た後アニメ見直して
自分の中で熱いからちょっと
新しいゲームを始まったりとかしてるんでスマホの
引っ張られてるんだけど
思った
なるほどね
ちなみにハイキュー僕すごい漫画好きでもうずっと読んでるんで
ハイキューの話したらハイキュー1回目になりそうなんで今とどめてるんですけど
だからあんま
めちゃめちゃ好きなの
知らないわけじゃなくて乗りすぎちゃうから我慢してるの
ハイキューのおかげで僕は
28歳の自分を救ってくれたって思ってるくらい大好きなの
そのぐらいなんですけど
そのぐらいだとするとさ
どう当人と日立の感じってわからない?
聞いてる方にもうちょっとちゃんとお伝えすると
いわゆるその世の中的にいわゆるところの
ポーツで不老状態と言われるものとか要はその物事に集中して
ゾーンとか不老とかね
集中してそれと一体化してるとか
あとはそのなんちゃらの申し子みたいな言葉ってあるじゃないですか
ハイキューで言うとバレエの申し子みたいな感じで
本当にバレエの神様が乗り移っているとか
バレエをするために生まれてきたみたいなものがあった時に
それは非常に確かに当人的なものに近いと思います
要はバレエをするためにバレエをする
勝ち負けとか上手くなりたいとか
誰かに認められたいとかじゃなくて
ただただバレエをすることが楽しいからやるとか
なるほど確か日立で言ってたよね
もう一試合できるぞって言ってたよね
みんながクタクタでもう無理とか
次の一球これをやられたら負けちゃうとかっていう風になって
チームメンバーがもう心がぐずれかけてる時に
もう一球遊べるとかやれるみたいな
まだ次もあるみたいな感じで言ってたんだよね
劇中とか漫画の中でも
あいつらバケモンだみたいに言うようなシーンがあるんだけど
やっぱりそれは人間はそうはできないんだよね
要はこんだけやったら疲れて明日動けないだろうとか
この一球落としても次の一球があるからいいよねとか
っていう風に普通は考えるんだよ
確かにそうだね
言ってたもんね相手チームの人で
こんなバケモノたちがいるとこの試合に
俺ら一般人が出れるなんて
そうなんです稲毛崎っていう関西の大学高校の人がいてて
本当大好きなんですけど
すみませんねわからせてもらったら
本当すみませんなんですけど
見てくださいとしか言えない
本当に最急回雑談したいぐらいいいんですけど
ちょっとおいておいて
51:02
っていうぐらいスポーツはもともと
あれってやっぱりお祭りじゃないですか
さっきの野球の話もそうだけど
だからそういうものが現れやすいものではあると思うんだよね
なるほど
それもいわゆる経済的なスポーツとか
いわゆるエンタメ感的なスポーツになると
要はパッとほうが面白いとか
試合が盛り上がったほうがいいよねとかってなるし
高校野球とかでもやっぱり来たないと次がないみたいな感じで
勝つことが目的になるんだけど
その中においてやっぱりこのボールを追いかけることが楽しいとか
とにかくこの時間が最高だみたいな人がやっぱりちょっとおかしいとか
周りからすると天才とかって呼ばれちゃうよね
はいはいはいはい
だからさっきの言った通り
この当人とか商品のために商標するっていうのはまさにクリエイティブなことなんですよ
やっぱり芸術もそうだし観光総裁とかもやっぱり本来はクリエイティブなもの
普段はやらないようなことを表現するらしい発展が本来なら許されるはず
ちょっとお葬式とか難しいと思うんだけど
だからやっぱりそれは天才と馬鹿は神一人的な感じで
やっぱりそれは普通の人は理解できないことをしているとか
合理性というのはこういったところでやっぱり物事をしている人
っていうのはやっぱり普通の人からするとヒーローだよねやっぱり
なるほど
そこはすごい近いと思う
タイユーすごいねそこを言語化して近いな
誰でもできるわけじゃないっていう話ではあるんですか
誰でもできるわけじゃないって基本的には普通の人間には無理って言ってるんだよね
そこまで言っちゃってるんだ
普通の人間には当人は無理です
なるほどまあ悟り的な話ではね
そうそうそう
なるほど一種のね
じゃあ特別な人ができるのかじゃなくて
当人とか悟りを開いた瞬間に普通の人じゃなくなるって話なんだよね
うんうんうんうん
だから特別な人ができるじゃなくて
その当人をした瞬間に普通の人間ではなくなりますっていうことを言ってるって感じなんですよ
全員ができないとも言ってないしって話なんだよね
そうそう
はいっていう感じでどうめっちゃ面白くない
ごめん思いのほか配給の話で置いて切り戻りにしてしまった人がいたら申し訳ないんだけど
だいぶ個人的にそこが繋がって
うんうんそうなんです
もしかしたら皆さんも例えば物語の中の好きな主人公とか
ちょっと気になるヒーローとかがいた時に
そういうふうなまさに人間を超えた感覚とかがあったら
54:04
この当人というものとちょっと近いところがあるかもしれない
そもそもスポーツ選手とかにちょっと違うぞみたいな
うんうん
みたいなところで今回も盛り上がって前回今回と熱量を高めてお伝えしてきたんですけれども
最後改めて整理というかまとめさせていただくと
そもそもバタイルっていうのはこれまでの西洋哲学を乗り越えようとした時に
基本的に理性が制御するとかやっぱり整えていくみたいな流れがある中で
もしやっぱり整えることなんてできない過剰さみたいな
そういうところから始まって
その象徴である太陽というものの過剰なエネルギーを受けて生きている人間
人間の生命というものの過剰さというのが本質にあるんだと
そこから考えた時に人間の集まりである社会とか共同体というものもやっぱり過剰なものっていうのを取り込んでいるし
それを扱えるのが普遣経済学なんだよというようなことで
これまでのいわゆる普通の合理的な経済学を限定経済学というふうに言って区別をしました
そこでちゃんと言葉を分けて哲学的に扱えるようにしたんだね
その中で普遣経済学の中で人間の行動を考えると
まさに消費のための消費という等人というものが出てきて
ただそれは普通の人間にはやっぱりできない
要は理性というものを使っている人間とできないから
逆に言うとそこに理性を超えるとか人間を超える可能性
人間の限界を超える可能性というものを見出して
それがある種の神聖さとかあるいは自己を使い尽くすみたいな
そういうふうな普段では考えられないことが起きるんだよというふうなことを
ある種ちゃんと語れるようにした
そういうふうな思想か哲学者がバタイオさんですよというような話なんだよね
そうでしょうか
でも全員が等人であれっていうのも難しいよね
バタイオさんはどうだったんだろうね
どうなんだろうね
でも過剰さに生きるんだったら
そういうことを目指せっていうのはあったんじゃないかな
全員が悟ったらこの世に人がいなくなるみたいな
そんなことはないよって話も前あったもんね
その状態でも現世でちゃんと働きながらとか
ご飯作りながら生きていくことは両立は可能だみたいな話は悟りかけにしたもんね
うん出た
57:00
それに近いのか
多分日本でいうと晴れ時計みたいな感じで
日常があるから過剰な消費ってできるし
常に過剰な消費だけをしているっていうのは
それはそれでおかしいっていう感覚はあったんじゃないかな
と思います
やっぱり日常だけというか合理的なものだけで生きていくのは
ちょっともったいないというか
人間の可能性からすると狭いんじゃないっていう風なバランスだと思うな
なるほどね
そっかそっかだいぶ蓋をしてるというか
人間の犠牲というか
だいぶ縛られてる
縛ってるという感覚があるのか
そうだね
しかもそれに気づいてないっていう
そっかそっか不自然だと
そうだね不自然不自然そうまさに
だって本当過剰さがあるのに
それはないものとしているとか
それを抑え込まなきゃいけないと無意識的に思わされてる
不自然だよね
という風な感じだね
危ない人だね
危ないだからね結構まさにそういう
グロとかエロってさっき言いましたけど
世の中的な基準からすると
目を背けられがちなものとか
あるいはグロテスクなものとかっていうものが
テーマになりやすいのはまさにそこだね
バタユ自身の作品が
バタユ自身の作品が
そんなところでね
前回と今回で
普遍経済学というものと
東人というものが
どんな広がりがあるかとか
どんな意義があるかっていうのは
ちょっとお伝えできたのかなとは思っておりますと
あと2回分ぐらいバタユやりたくって
結構あるな
やっぱり面白いとかすごい広がりがあるんだけれども
そういうふうなことを考えてね
結局バタユ何をしようとしてたんですかって話なんだけど
さっきさ人間の能力を超えるとかさ
そういう風な理性を超えるみたいな話をしたと思うんですけど
確かに超えるって言ってるからおかしいんだって
さっきの不自然だよね
不自然さを自然に戻すみたいな感覚で
言われた方が今だと理解しやすいか
確かにね
間違いではないその感覚でも
間違いではない
それは日常的に下ろしすぎてる感覚もあって
やっぱりバタユさんっていうのは
哲学を伝統的な哲学を逆説で超えるみたいな話があるから
西洋の哲学っていわゆる知だよね
知識とかさ
そういったものを超えるっていう大きなビジョンって持ってんだよね
だから不自然とかじゃなくて超えるみたいな
そう
1:00:03
日常レベルではまさに不自然なものを取り戻すとか
それを自然に変えていくっていうのがいいと思うんだけど
なので彼は実は知っていう知識の知念
それに対して非知っていういわゆる知にあらず
っていうものをある種捉えて
その領域でいろんな物事を見ていこうぜみたいな話を
実はしてたりするんだよね
なので今ちょっと経済学とか法人ということで
かなり具体な話もちょっとできたので
次はもう一回それを抽象化して
バタユさんの思想っていうものを見ていきたいなと
その次はちょっと前回言ったような文学的な表現とか
さっき言ったようにグロとかエロとか
そういう通常では扱わないようなテーマを扱っているものも結構あるので
それはちょっと取り上げて
そっちは少し思想というよりは文学的な話として
味わってバタユさん回の締めにしたいなというふうに思っているという感じですね
なるほど3回目にしてそうね
やっとバタユのように出てきたかな
バタユのことを聞いてみたいって
その抽象的な話も聞いてみたいって思ったね
よかったよかった
本当にバタユさん面白いんだけど
なかなかね僕もちょっと正しく伝えられているかどうかは
正直なんだろうな曖昧というか
すごいやっぱりいろんなことを語っているから
これがバタユだってなかなか言いにくいんだけど
でも素直に言うとこの普遍経済学とか法人に関しては
ちゃんと自分が面白いと思ったことを
兄貴とか聞いてくださる方に
今お伝えできたんじゃないかなと思っているので
そこも含めてそれを土台にまた次回ですね
ちょっとその抽象的な
知とか否知みたいな
言葉についてもお伝えしていきたいと思っているというふうな感じですね
なるほど分かりました
いやー面白いね
でも西洋的な伝統的な哲学で
むしろタブーというかNGとされている
衝動みたいなものだよねある意味ね
そこにちゃんと光を当てている
しかも原稿がちゃんとできているみたいな
そこはちょっと面白いなと思ったんだよね
次回以降またより抽象的な
知と否知だったか
そうだね知と否知ね
またどんな話になってくるのか
次回も楽しんでいきたいと思います
では引き続きよろしくお願いします
お願いします
今回もありがとうございました
01:02:55

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