フロイトの経歴と業績
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回は心をテーマにやってきているというところでしたが、今回はどんな話になっていくんでしょうか。
はい、で、大きくね、その心って言ってもまあいろいろあるよって話はちょっと前回前々回でやってきたかなと思うんですけど、
その中でも、いわゆる現代の心観というか、その心っていうものを理解するのにですね、やっぱりこう影響を与えた人物が何人かいるんですよね。
はい、という中でもちょっと今回ですね、フロイトっていう人を簡単に取り上げたいなと思ってまして、
お〜名前は知ってる。
フロイト、ね、名前は知ってると思うんですよね、結構。
で、今日も話すんですけど、夢に関して結構ね、深く研究しましたよとか、
あとちょっとね、人によってはもしかしたらフロイトってあれでしょ、なんでもなんか性欲とかに結びつけた人でしょみたいな。
へ〜、あ、そうなんだ。
そうそう、そういう風なね、実は話で広がることもあるんですけど、
当然ね、フロイトの業績は別にそこじゃないよというか、夢はもちろん業績なんだけど、
なんか性欲に紐付けて云々とかってことじゃなくて、っていうのがあるんで、
簡単にね、経歴とかを参照しつつ、
フロイトってどんなことをやった人なのとか、その心っていうのを理解に、
どんな風に影響を与えたのっていうところをちょっと1回分なんでサラッとになっちゃうんだけれども、
ちょっとお伝えしていきたいという風に思っておりますよ、という感じですね。
へ〜、そうなんだ。
実際どんな感じだろう、なんかさ、ほら前回までアリスとテレスも心の話をしてたし、
あと、現代で言うと脳と心の関係みたいなさ、前回はね、心脳、一元脳、二元脳みたいなさ、そういう話もあったけど、
フロイトって言うとどの辺りなの?脳みその話とか、あったとか、まだその辺の前だとか。
そうね、フロイトはですね、1856年に生まれた人なんですよ。
なので、全然現代の人で、もともと神経学者なんだよね。
あ、そうなんだ。
そうなんです。
じゃあまさにそもそも脳とか専門家なの?むしろ。
そうです。
へ〜、あ、そうなんだ。
脳から始まって、精神科医になっている人なので、いわゆる今さ、精神科で治療をするってのってあるじゃない。
うんうんうん。
やっぱりそういうところの走りみたいな人なんだよね。
あ、そうなんだ。じゃあ精神科医って言ったけど、それのオリジナルに近い人みたいな感じなの?
もちろんちょっとその前にも、いわゆるイスリーというようなものとか、精神的、要は体には問題がそうなんだけど、ちょっとうまくいかないよねっていう人に対する治療っていうのはあるはあったんだけど、
そこがちゃんと現代につながるような形で、再現性があってできるみたいなのは、本当にこのフロイトあたりからなんだよね。
へ〜、あ〜、なるほど。はいはい、そうなんだ。
そうですそうです。
で、精神分析とかってこともあるんだけど、ある種これの創始者がフロイトなんだよね。
わ〜、なんかめっちゃすごいんだね。名前だけ知ってる。
確かに名前は知ってるけど、意外と何の人か知らないよね。
だからこそみんな名前は知ってるぐらいの人なのか。
あ、そうですそうです。
やっぱりその、いわゆる僕がやった心理学とフロイトの精神分析とかってのは全然やっぱりちょっと違うんだけども、ものとしては。
そうか。
でもやっぱり心とかを学ぶときにやっぱフロイトってことの名前は出てくるし、
あとその、時々名前出すかもですけど、フロイトの弟子のユングっていう人がいて、
そのユングっていう人の元で、いわゆるカウンセリングとか心理学を学んだのが、
あの河合俳夫先生って僕がちょっと時々名前を出すすごく好きな先生なんだよね。
あ〜、わ〜、そっか。
俳夫が学んだことにもそうやって繋がってるのか。
そうですそうです。
河合俳夫先生が教材の教科部で心理学やってたってところがあって、
そうそう、で僕がそれを知って、教材来たいと思って行ったみたいなところがあったんですよ。
そこでね、そういうこう、源流とかって言うと多いんですけど、
やっぱりその河合俳夫先生のユングの師匠であるフロイトみたいな。
でもそうだよね。自分のルーツと言っても過言ではないよね。
そうそう。すごい手に売ってるけど、本当に。別にね、直接学んだわけでもないからさ。
みたいなところなんですけど、僕も正直フロイト何やってんのかってあんまり知らなかった。
もっと言うと、本来的には臨床の人だから、どっちかって言うとこういう患者をこんな風に治療しましたとか、
こんな風に関わってましたっていう方が多い人ではあるんですよと。
そうなんだ。
でも今回は心の理解っていうのがメインテーマではあるんで、
フロイトっていう人が心とか、とりあえず意識とかであるんだけど、
手紋に対してどんな風に考えを膨らませていったんですかとか、
治療の経験からどんなことを考えたんですかっていうところを1回分でコンパクトにお伝えしたいっていうのが今回やろうとしていることでございます。
なるほど。
でもそんなすごい人ならフロイト界作ってほしかったな。
作ってもいいかなって思ったんだけどね、難しかったんだよな。
ちょっと落ち着かなかったんで。
でもいつかまたやりたいなって思ってます。
ちょっと早速フロイトの経歴についてなんですけど、
1856年、今から170年間ぐらいですかね。
オーストリアで生まれてます。
ヨーロッパですね。
両親共にユダヤ人だったんですよね。
やっぱり第一次世界大戦とか第二次世界大戦の前後とかっていうところでいくと、
本人もちょっとロンドンに亡命したりとかですね、
結構いわゆる知り合いとか周囲にいた人がナスの被害というか、
そこにあったみたいな話もあるようです。
結構大変な生涯を送ってたところなんですけれども、
あんまり幼少期の頃どんな人だったか調べきれなかったんですけれども、
フロイトの精神分析
あんまり経済的には豊かじゃなくて、
別にお父さんとかそんな、いわゆるユダヤ人の金融省みたいな、
富豪とかってことではなく全然普通の、むしろちょっと貧しい方の暮らしをしてたらしくて、
本人は結構優秀で、特に語学、言葉に優れていて、
8カ国語ぐらいを小さい頃から扱えましたみたいな、そういうエピソードとかはありました。
大学も普通に進んでいって、
さっきちょっと神経学者だったとかって言ったと思うんですけど、
もともとは動物、ヤツメウナギとかザリガニみたいな、
単純な生き物の神経とかっていうところから学んでいて、
そこから医学博士になるんです。
へー、はいはいはい。
そこで学位を取って、
そこから当時オーストリアにいたんですけど、パリに行って、
いわゆるヒステリーとか神経症って言われるような病気、
最先端の治療法を学んでいきますよと。
へー、そうなのね。
そんな感じらしいんだよね。
そういうのって神経症というか、まさに精神的な病だよねってなってるんだけど、
当時の世の中で言うと、ちょっと差別的なというか、
ヒステリーっていうのもちょっと差別的だから、病名としては使えないらしいんですけど、
いわゆる女性特有の病気で、身体的な原因があるって言われてたらしいんですよね。
あー、当時ね。
当時。いわゆる身体が悪いと女性に起こる病気だみたいな偏見とかもあって。
だから治療法とかも結構ひどいというか、ほぼ監禁みたいな。
医者のコントロール下において食べるものとか、立つ座るみたいなことも制限されるみたいな。
結構そういうふうな状態だったらしいんですよね。
医学的にというか、わからなすぎて治療する方法もね。
治療する方法はそれが正しいと思ってやってるんだよね。
それで治ったっていう例もいくつかあったらしくて。
それは当時の医学ではあったのか。
当時の医学として、むしろそれが主流みたいな。
今からするとちょっとありえないとか、科学的な根拠とかって話なんだけど、
当時はそれが当たり前の治療法だった時代でした。
っていう時代において、フロイドが学んだ治療法、パリの最先端っていうところは、
ヒストリーとかっていうものは、別に体の問題じゃなくて、
今でいう心因性、心がやっぱり原因なんだっていう話になって、
かつて男性もかかるんだよっていうふうなことまでちゃんと踏み込んでたんだよね。
そういうふうな知見を持って、またオーストリアに戻って論文とかを発表するんだけど、
やっぱり当時のオーストリアの医学界でいくと、そんなものはありえないみたいな。
男性がかかるなんてありえないぐらいの固定観念が残ってて、猛反発を受けちゃうらしいんだよね。
身体的な原因でない心だって言った上に、これ全然男もあるからね、みたいな話をしたら、
意味不明すぎ、みたいな話をされる。
オーストリアで学んだフロイドがパリに行って、変なこと吹き込まれてしまったみたいな。
結構そんな感じだったらしいんだよね。
なので、そういうこともあってなのかとかっていろいろあるんだけれども、
いわゆる学者としてじゃなくて、ウィーンで医者として開業するんですよね。
自分の病院というか施設でヒステリー患者の治療を始めていきますよというところが、
フロイドの職業としての精神科医の始まりというところですよ。
ここから臨床のところでいろんな人と関わりながら作展していって、体系化されたのが精神分析という手法で、
フロイトの夢判断
これがめっちゃ効くよというか、ちゃんと治るよって話だったんだよね。
やっぱり名声が高まっていって、あちこちから弟子が来るとか、やり方を学ぶという人が集まってきて、
そこからいろんな人に出会いがあったり、ただやっぱりそこに対してフロイドも少し過激なというか、
いわゆる性と結びつけすぎるみたいな、なんでも性だみたいなのがあったりする中で離れていく弟子。
それがユングなんだけど、ユングとかも離れていったりしちゃって。
そうなの?一般のっていうか、そういうのと関係ない人たちが言うんじゃなくて、
弟子もこの人ちょっとおかしくないみたいな、性に全部結びつけすぎだろ、いくらなんでもみたいな、そんな感じだったの?
そこだけじゃないんだけど、ちょっとフロイド先生ついていけませんわ、みたいな話があって、
元々分かつみたいなこともあるんだよね。
そういうこともあったりとか、あとはさっきお伝えしたような、ナチスによるユダヤ人の迫害だよね。
結構晩年なかなか大変な生涯も送っているんですけれども、
ガンとか結構長い生涯ですね。1932年、83歳の時に、亡命先のロンドンで亡くなりました。
この時は結構巻きガンみたいな感じだったらしいんだけど、
そういうガンとかを抱えながらも、最後まで研究読書をして亡くなっていきましたっていうのが、ざっくりしたフロイドの生涯という感じなんですよね。
お医者さんなんだね。
そう、お医者さんなんです。
もうそこからだわ。
そうじゃね。
こんな感じでね、いわゆる対業医として、フロイドさんはたくさんの人を治療するというだけじゃなくて、
いろんな本ももちろん出してるんですけれども、その中で結構有名な本がいくつかいろいろあるんだけど、
その中でも夢判断っていう本がありますよと。
まさに寝てる時に見る夢ね。
これを本当にテーマに扱うものなんだけれども、
この本の何がすごいかとは一言で言いますと、いわゆる意識的な、起きてる時の思考とは別に、夢の思考があるっていうことを明確に提示したことなんだよね。
それまではそういうイメージってなかったのか。
そう。今からするとこれちょっと当たり前に見えるじゃん。
夢って、いわゆる人の真相真理を表してるんだとかさ。
夢を見てる言葉は日々気になっていることが表れてくるんだとかって、なんとなくあったりするじゃん。
これフロイドさんです。
わー、そうなんだ。
フロイトの夢判断
昨日こういう夢見たんだってことはこういう感じなのかなとかっていうのは、みんなフロイドの真似をしてるだけなんだね。
そうね、真似をしてるというか、やっぱりこうなんだろうな、もちろん夢がなんかおすげみたいな感じとか、
例えばなんかその、日本平安時代とかの話を聞いたことがあって、
例えば夢に誰かが出てくると、その相手が自分のことを好きなんだみたいな、
そういう風な俳句とか読まれてるっていうのはなんか聞いたことがあるんですよ。
だから夢っていうのがなんか意味があるんじゃないかとか、そういう風に意味づけるってことは多分昔から行われてきてはいるんだけど、
それがちゃんと自分の内面と結びついてるんだとか、それが単純にただそう思うってことだけじゃなくて、
ちゃんといろんな人の夢とか自分の夢とかっていうことも体系化して、
そういう風な構造があるんじゃなかろうかっていう風にきちんといってまとめたというか、
そういう風に提示をしたっていうのはやっぱりフロリドが初めてなんだよね。
はいはいはい。適当なもんじゃないよと、相手が思ってるからとか、おばけが出たとかそういう話じゃなくて、
内面のものの発露なんだ夢はっていうのはすごい確信的だったんだね。
確信的だし、あと当時でいくとやっぱりそういうことは西洋の流れがあるんで、
意識とか心っていうのは理性だよね。っていうものは明石なものなんだよね。
だから寝てるときにそんな明石な思考が働いてるとか意識があるなんていうことはありえないわけよ。
うん、まあそうだね。
気絶と一緒みたいな感じだから、そう考えると意識っていうのは大きな間の意識だったわけなんだよね、もう大前提。
そこに対してフロリドはこの夢判断っていう風なことを踏まえて、
いや、寝てるときにも寝てるときなりの意識っていうのがあって、
それはきちっとしたちゃんと構造を持ってるんだっていうことを示したんだよね。
なるほど。客観点だね。
客観点だね、完全に。
だからそれはもう盲点なわけで、それ前の人たちからしたら、
わっ、起きてるときだけだと思ってたら寝てるときにも意識なんてあったんだみたいな。
でもそんなの考えたこともなかったぜみたいな、そんな感じなんですよ。
しかもその通りだ、そうっぽいぞってみんなに思わせた感じだもんね。
それは一定説得力もあるじゃんみたいな、そんな感じらしいんだよね。
そういう意味で言うと、やっぱりそれまでのある種、暗黙の前提ではね、
寝てるときの夢なんて取り扱う価値もないとか、
わざわざ正面切って向き合う必要がないっていうところに対して、
いやいや、皆さん、それもちゃんと意識とか心っていう観点から
ちゃんと扱うべきテーマなんですよってことを、さっと示してあげたっていうのが、
結構この本の、フロイトのすごさみたいな感じなんだよね。
はいはいはい、すごそう。
ね、そうそう。
じゃあ一体その夢の思考とか意識って何よって話なんですけど、
ここもごめんなさい、僕もこの夢反応ちゃんと読めたわけじゃないんで、
むしろここはまた読んで、ちゃんとフロイト界とかでやれたらいいなって思ってるんだけど、
フロイトによればっていう感じなんだけど、夢が生まれてくるメカニズムっていうのがあって、
ここに夢思考っていうのと夢形成っていうのが2つがあるよっていう風に言ってるんだよね。
思考と形成ね、夢。
そう、思考と形成。
今のもうちょっとサープっていうか現代的なもので言ったら、
もうちょっと違うプロセスとか、もうちょっと違う発明とか説明があるとは思うんだけど、
一体フロイトはそんな風に考えましたと。
はいはいはい。
まずその夢思考というのが先なんだけど、その夢思考で夢の元となる何かの要素みたいなものが作られて、
そこから普段僕らが見るような夢っていうのが形成されるっていう風にステップが踏まれるんですよっていう風に言うんだよね。
逆に言うとその形成された、ある種実際に見た夢、何でもいいよ、
例えばお化けに顔かけられるのもいいし、億万長女になってすごい美味しいもの食べてるとかでもいいんだけど、
そういう風な夢からその大元になっている潜在的な夢というか夢の要素というものを理解するという風なプロセスが夢解釈とか夢判断という風なプロセスがあって。
はーなるほど。はいはいはい。
そこに厳密な手法を取っていきましょうよという風な話なんですよ。
例えばお金持ちになってお腹いっぱい食べたいとかっていう時に、何かじゃあお金が足りないのかなとか、お腹いっぱいなんだそういう欲求満たしたいのかなっていうのは解釈じゃなくて、
夢の奥の底にあるもっと根源的なもの、潜在的なものみたいなところにある種アプローチしましょうよみたいな、という風なことを考え出すのがプロイターなんだよね。
あ、そうなんだ。じゃあ昨日おいしい寿司をお腹いっぱい食べる夢を見たんだっていう時に、寿司食いてんだっていうレベルではないんだ。
違うんだ。
全然ない。
その真相真銀みたいな話じゃない?
その奥底にある。
僕はフロイトを誤解してたわ、すでに。
そうだよね。ただ夢に見たものがそれをやりたいってことなんじゃなくて、
やっぱりフロイトに関わっている人って基本的には必死になったとか病気がちというか、病気としてカテゴライズされる方の夢なんだよね。
あくまでも治療行為として、その夢っていうところからその人の本心に至って、そこの本心にあるものを掴んで治療に生かすみたいな、そういうステップなんですよ。
確かにさっきの寿司食いたいんだみたいな話だったら、平安時代のあの人の夢見たからあの人が思ってくれてると変わんないって話だよね。
そうそう、変わんない。
みんなそんな話は多分してたんだよね、昨日。
そうそう、元からね。
だって夢っていう概念とか言葉はあったわけだもんね。
そうですそうです。もちろん現象値もあるし、よし寿司食わせたら治るみたいなそんな話ではないじゃん、やっぱり。
すみません、そう思ってました。すみません。
そうそうそう。そうじゃないんで、あくまでもね、いわゆる見てる夢ってあるんだけど、その奥底には多分その本心というか何かなんだろうな、
ちょっとこれも飛ぶんだけど、ちょっと抑圧されたもの、抑圧っていうのもフロイトもすごいテーマなんだけど、
そういうものがあって、それから出てくる夢にはある種の構造とか、やっぱりステップっていうのはちゃんとあるよと。
ただ漠然としても見てるんじゃなくて、夢を見るなりの理由っていうのがあるよっていうことをちゃんと言おうとしたっていうのがフロイトなんだよね。
なので彼が示したっていうところは、さっきもちょっと言ったんだけれども、その意識っていうものは起きてるときだけ働くものなんじゃなくて、
眠ってるときにもちゃんと働いてるんだと。
それが起きてるときほどは自由を無人とか、まさに自分の自由に働くことはないかもしれないけれども、
それは別の思考とか別の意識を生み出してるだけであって、同じ考えるとか、物事を見たり聞いたり理解するっていうところの土台にはあるんだよっていうことをちゃんと言ったんだよね。
ある種意識のアップデートというか、それを広げてある種光をちゃんと当ててあげた。
フロイトがこの夢判断っていうふうなもので、行ったというか提示したものですよっていうふうな話がありましたってことだよね。
文化と幸福
はいはい、なるほど。そうすると理性のコントロールの仕方とか捉え方とか働きみたいなものが全然違かっただろうしね、フロイトの概念を入れていくと。
そうそうそうそう、そうなんだよね。
やっぱり寝ている間に見る夢っていうところにそれだけの意味というか、価値を見出してそこから治療行為に結びつけたっていうところが、フロイトがいなければまだ起きてないかもしれないこと。
まあそんぐらい盲点だったんだろうね。
そうそうそう。
そういう意味でフロイトすげえってなってますよっていうのがあるんだけど、フロイトさんは治療行為だけをして、いわゆる精神的なことだけ言ってたって言うと実はそんなこともなくて、
やっぱりそういう目線で物事を見ちゃうと、いわゆる人間関係とかもそうだし、世界とかもそうだし、哲学でいうと世界観だよね。
はいはいはい。
っていうところも独自的なものを持ってくるんだよね。
なので、そういうふうな彼独自の精神分析的な観点とか、寝てるときにも意識っていうのはあるんだみたいな。
そういうところからいろんな現象を捉えてる中で、一個面白いテーマとして、これ面白いってのは僕がわかるというか共感するっていう話なんだけど、
なぜ私たちは幸福になれないのかみたいな、結構そういうテーマについても扱ってたぜっていう話があったんだよね。
ほうほうほう。
これは解説者、僕が読んだフロイトの解説者というわけなんだけど、
これ結構本としては文化の中の居心地悪さっていう本があるらしいんだけど、
何かっていうと背景としてはいわゆる精神分析の治療行為があって、
やっぱり精神分析家とか精神界のフロイトが訪れる人って基本的には何か問題を変えてるわけだから、
自分が幸福であるとは基本的には思えてない人たちなんだよね。
そういう人たちと触れ合っていたフロイトが幸福に対して考えるとかっていうときには、
幸せとは何かとかっていうことよりも、なんと私たちはこんなに幸福になれないんだっていうことから考えたんじゃなかろうかと。
やっぱりこんなふうになってしまったのは嫌だとか、早く元の生活に戻りたいという人と触れ合っていたフロイトからすると、
なんで幸福になるのはこんな難しいんだっていうことを考えるわけなんだよね。
ここに対してフロイトはどう考えますかっていう話なんだけれども、
ある種こうした精神的な疾患とかっていうのはもちろん個人的な要因もあるかもしれないんだけれども、
それに加えて社会とか、あるいはもっと大きく文化みたいなものの要因もすごく影響してるっていうふうに考えるんだよね。
すごいね。お医者さんやってるともうちょっとビクロになっちゃいそうだけど。
どうしても日々目の前の患者さんに向き合ってるとね。
もちろんそれは当時のいわゆる世界大戦が増える中でのユダヤ人として生きてたってところもあると思うんだけど、
やっぱりそういう文化の中にこそ、人が幸福から遠ざけてしまうというか、そういうふうなものがあるんじゃないかっていうふうに考えますと。
それは何なんですかっていう話なんだけれども、これもね、一冊の本になってるぐらいなんで結構いろんな議論があるんだけれども、
エッセンスだけをかいつまんでお伝えすると、
典型的に文化が人を幸福から遠ざけるっていうふうな話の例として、
フロイトはキリスト教の隣人愛を取り上げるんですよ。
いいの?いいんですか?
現代だからちょっと流線かと思うんだけど、
キリスト教の方は別にキリスト教は悪いってことではないんで、一旦フロイトの説明として聞いていただければと思うんですけれども、
隣人愛が何かっていうと、すごい大雑把に言うと、
自分を愛せるように生まれる人を愛しなさいってことなんだよね。
隣人を愛せるってことじゃなくて、自分を大事にするように生まれる人を愛しなさい。
そうすると基本的には、それをみんながやれば世界平和に繋がっていくし、
友達は友達は友達みたいな感じで、みんなが仲良くなれる世界になるはずじゃないですか。
みんな手を繋いでるイメージになるね。
じゃあなんでそんな風に、むしろそれって世界平和じゃないと思えるものが、
人を幸福から遠ざけるの?っていう話なんだけど、
フロイト曰くって感じなんだけど、この隣人愛っていうのは2つの理由から受け入れが大切っていう風に言うんだよね。
理由の一つ目っていうのは、そもそも私の愛っていうのは結構貴重なんだぜと。
要は誰から愛せるわけじゃないよねっていうふうな自然な感覚。
愛の限界と隣人愛
本当に番人を愛せますかと言われたら結構うってくるじゃない。
そうだね。
理想としてはわかるけどみたいな。
っていう時に、やるとそれは理由なく、よく知りもしないような人にある人が使う愛を消費するっていう風に考えちゃうんだけど、
無人像の愛っていうことじゃなくて、やっぱり愛を、地方の愛を使うっていう時に、やっぱり家族とか親友とか、
身近な人のためにまずは使いたいよねって。
そうすると、たまたま隣になった。隣層っていうのはどこまで拡大するかなんだけれども、
よく知らない人とか、初めて会った人に対しても、やっぱり自分を愛せるように愛せるっていうのはちょっと無理だと。
わー、なるほどね。有限なんだと、時間とかみたいにね。
やっぱり無限の愛、それこそ例えばイエスキリストっていうのは、おそらく無限の愛とか人類に対する神の愛って思ってらっしゃると思うんだけど、
それがあればいいけど、やっぱり一個人の自分から考えるときにそれはちょっと厳しいと。
っていうのが1個目の理由で、2個目の理由としては、この隣人を仮に愛しようと思ったとしても、もしかしたらこの隣人っていうのは、
自分に対しては害を与えるような存在かもしれないぞと。
自分が得をするのが相手を害するっていう価値観っていうのも世の中にあるわけじゃないですか。
っていうときに、じゃあそんな人に自分の愛を本当に与えていいんですかって疑いというか、疑念でどうしようもっちゃうよねと。
まあね、左の方も差し出しますかっていう話だよね。
本当にそう。
だからそれも現実問題。理想的にはそれはできたらいいんだけど、全世界の全人類が一気に育ったらもちろんいいんだろうけど、
やっぱりそれはちょっと受け入れがたいと。
いうときにこの1個目の愛は貴重である、有限だよっていう話と、
そもそも隣人がやっぱり自分を害する存在かもしれないっていうことを考えると、
やっぱりこの隣人愛っていうのはそのすぐには受け入れがたいねっていうふうに言うんだよね。
現実に、じゃあ用意どんで始められますかって実践はちょっと躊躇するというか、
こっちがやっても難しい場面って、そこは単純に想像つくもんね、今の感覚で。
そうなんです。
それを乗り越えて、やっぱり偉大か悩みを与えるんですっていうのが素晴らしいと思うし好きだと思うんだけど、
やっぱりフロイトのこの2つの前提が、それはちょっと卑屈すぎるでしょとか、
信じやすすぎでしょとも言えない。
極端だとは言えない。
現実的な話だとは思うんですよね。
ここでフロイトはちょっと考えるんですよ。
この2つ目の要は、自分が得をするのは相手を害するっていうことを言ったじゃないですか。
これがあるから僕らって、いわゆる隣人との関係がちょっと悪化するんですよね。
要は、相手を害するという攻撃性があるから、それに備えるとか防御するとか、ある種疑うとかっていうことになるわけなんですよね。
攻撃の欲求、要は相手を害するみたいなことの欲求があるとして、
それを抑えれば世界は幸せになりますかって考えるんだけど、
要は誰もが相手を害しません。
要は思いやりの心を持ちましょうとかってよく僕ら小学校の時言われてたと思うんだけど、
まず自分から思いやりの心を持って、相手を害するとか傷つけるとかやめましょうとかっていうことが浸透せれば世界が平和になりますかって言うとどう思う?
なんか無限ループな感じがするけどね。
無限ループ?
さっきの話と同じだよね。だって隣人愛と同じでさ、思いやりと隣人愛が同じようなものだからさ。
本当に用意どんでできるんじゃないけど、現実無理だよねっていうね。
現実無理だよねって話もあるし、プロイトに言わせるとそんな単純な話じゃねえぞってことなんですよ。
仮に全部だったとして?
だったとして、じゃあ攻撃性を抑えましょうと言う時に仮にそれができたとして、現実に何が起きるかと言うと、それは一緒に愛も制限されてるんだっていう風にプロイトは考えるんだよね。
へー、そうなんだ。
これはもうちょっと具体的に言うと、ここまで行くとどうなんだろうって思うんだけど、彼は個人の性生活の制限だっていう風に言ってるんだよね。
もうここで結びついてきた。
性生活?そうなの?
要はセックスみたいな話なんだけれども、つまり愛っていう言葉においてはさ、
ちょっとここから僕の解釈も入るんだけれども、さっきさ、愛は貴重だから与えると消費しちゃいますとかっていう話もあったじゃない。
っていう時に、
愛の一番わかりやすい、いわゆる性愛だね。
そこでいくと、いわゆる誰かと性交渉を求めて話なんだ。
っていう時に、要は、仮に自分は誰からも愛されませんとか、自分の愛を誰も受け取ってくれませんとかっていう人がいたとして、
そうなると、その人ってすごくいわゆる渇きというか、満たされなさを感じると思うんだよね。
そうだね、それは想像できますね。
っていう時に、じゃあもし愛が制限されてなくって、誰もが好き勝手に愛を求めたり与え合える世界だとすると、
それってすごい偏る世界だと思うのよ。
要はお金の貧富の差みたいな感じで、愛の貧富の差みたいなものが出てくるんじゃないかと思うんだよね。
あー、インフレが起こるんじゃなくて貧富の差が起こる。
要は、愛が本当に無限で、誰もが尽くせないほど持ってるとかってなったら別なんだけど、
それを言った時に、愛はやっぱり制限があるから、
あげられた愛をこの人には与えるけどこの人には与えないとか、
あるいはこの人はめちゃめちゃ誰からも愛を受け取るんだけど、こっちの人は誰も愛を受け取れないとかっていうことがガンガン起きますよ。
そうすると、当然なぜ自分は愛されないのかとか、
なぜ自分は愛を受け取ってくれないのかっていうことで、めちゃめちゃ攻撃の欲求が起きるはずなんだよね。
愛と性生活
要は、自分の愛みたいなものもそうやって本当にフリーにオープンにしようとすると、
結局、誰かに対してもっと自分を見てほしいとか、愛されたいとかっていうふうな欲求が出てくるから、
これも攻撃の欲求になってきますよと。
つまり、そういうふうに攻撃の欲求は誰かを害するとか、自分の得のために誰かを傷つけてもいいっていうことを抑えようと思うと、
この愛っていうのも一緒に制限しなきゃいけないんですよね。
これはフロイ的に言うと、生生活なんで、それこそフリーセックスはダメとか太股は良くないとかってあるかもしれないけど、
それもあくまでも今の価値観でしかなくって。
なぜかっていうと、やっぱり一人に集中して結局その差が生まれたりとか、
結局は周囲との関係が悪くなるからそういうことを抑えてるっていう話でも考えられるんだよね。
要は一歩一歩再生とかもそうだよねって話もあったりするんだけど、
なのでこの攻撃の欲求は誰かを害しようとか傷つけようっていうような欲求を抑えようとすると、
必ず愛も制限しなきゃいけないっていう風に考えるのがフロイトのこの愛と攻撃性というか欲求というのを考え方なんだよね。
だから臨時愛とか思いやりだけの世界っていうのは実現不可能ですよっていう話をしてるわけなんだね。
実現不可能。いわゆる愛せとか、愛っていうのが満たされたら世界は平和になるとか豊かになるっていうのが全然違うぜっていうふうに言ってるんだよね。
なるほどなるほど。そういった貧富の差みたいなものが生まれるよと。
フロイトが性に結びつけすぎ問題っていう話があったけど、これって例え話でしてるのかなフロイトは。それとももうこうですって話をしてるのかな。
フロイトはもうこうですって言ってる。性生活の制限が行われてますって言ってる。
ああそうなんだ。愛とは性生活であるみたいな。例えじゃないんだ。
ちょっと今僕がぼやかしちゃってるんだけど、その解説本を読む限りだっていうのでちょっとごめん。ちゃんとわかってるかもあるんだけれども。
これさ、もともと文化の話をしてたじゃないですか。
言ってるのは文化っていうものは個人の性生活を制限することで個人に対して影響を与えてるみたいなふうに言ってるんだよね。
あ、そうなんだね。
ぜひフロイトのちゃんとあれだね。その話は聞きたいね。なんでそんなに。
文化と愛の制限
だいぶ偏ってるな。すごい着眼点でさ、夢みたいなところさ、さっきの話があったのに。
一気にさ、例え話じゃなくてもう性であるとかって言われちゃうと。これはただの拒否反応なのかな。
でもちょっと受け入りにくいよね、やっぱりね。
そうだね。さっきの貧富の差みたいな感じでね。そう表現されると理解は可能な気もするよね。
確かに。
なのでちょっとそういうものも含めて、僕はまだフロイトさんと扱い切れたりでもそこはあるんだりとか、
今回の話でもだいぶちょっと僕なりの解釈を入れてるから、あんまり性的な部分はちょっと覗いてたりするんだけど。
深く深く哲学部分、フロイトの哲学部分とかっていう話っていうよりは、割とフロイトの一般的な知識というかね。
そうですそうです。逆にそこまでちゃんと深く入ったら、単純な性的なことじゃなくて、こんなに深いことを考えたってなる可能性は全然あるんだけれども。
今は一旦。
そうそうそう。
なのでちょっと今繰り返しになっちゃうんだけれども、文化っていうのが実はそういうふうに、いわゆる愛とかを制限したりとか、
無制限にそういう人を傷つけないっていうこともあるんだけど、それと合わせて愛っていうのも制限しちゃってるんだっていうふうにフロイトは考えるんだよね。
はいはいはい。
やっぱこれってさ、こんなふうに考えたことないじゃんって結構思うのよが、自分たちは文化的な人間ですって言ったときに、それっていいことじゃない?
そうだね。
でもフロイトからすると、人間が文化的になればなるほど、そういう愛とかそういうふうなものが抑えつけられて生きているっていうふうに考えるんだよね。
はいはい。でもそういう愛とそれもわからなくはないよね。ある意味人間の本能的な部分を若干抑圧しながら、みたいなね。
そうそうそう。
意味ではないからわかる気もする。
もちろんさ、今の現在においてさ、勝手になって誰かを殴るとかさ、それだってもうありえないみたいな、ありえないというかまあよくないよねって話だと思うんだけど、
でも生き物って考えたら、やっぱりその怒りを本当に抑えるのが正しいんですか?とかいうことも言えたりするわけだよね。
うんうん。そうだよね。だってそんだけ危険な目に合わされてるわけだからね。
そうそうそう。とかね。逆に言ったらさ、まあちょっとこれは嫌な例だけど、その辺で例えば侮辱されてとかさ、誰かに気をつけられてもヘラヘラしてるとかってなったときに、
それって、いやもっと言い返しやるやとかって言いたくなっちゃったりもするじゃないですか。
で、じゃあ本当に何が正しいのってやっぱりなっちゃうわけよね。
そういうことにもクライトンは考えて応用できると思うんだけども、
フロイト的に言うと、愛を制限するとか生生活を制限するっていうのは、めっちゃ周りくどいというか、賢いやり方で実は文化っていうものは、
公益の欲求、誰かを害したいとか気をつけるっていう欲求を抑えてるんですよっていうふうに言うんだよね。
で、これが実は超自我って言われたりするもので、この超自我っていう言葉はフロイトンの言葉らしいんだけれども、
これはある種その自我を監視する自我みたいな感じなんだよね。
監視。はいはいはい。
ひらたく言うと、これって道徳一揆なんですよ。
なので、そんなことやっちゃダメっていうのはこれ。
要は文化とは共同体から言われるものじゃないですか。
世間がみたいだね。
世間。日本人としては世間だね。おテント様が見てるから悪いことはしちゃダメとか。
万引きしたら捕まるからダメでもいいし、誰かを困らせるからダメでもいいんだけど、
そんなことやっちゃう要は、本当にダメだよ、本当にダメだけど、
理性の盲点と自我
お金を払わずにこのイチゴムが欲しいっていう欲求自体はやっぱり出ちゃうことはありますと。
これ自我って世界なんだけど。
そこはそうだよね。
本当にやっちゃダメ。
でもその気持ちは起きる人は、起きることはあるじゃん、例えばね。
あるでしょ。このおもちゃ欲しいわーっておもちゃ屋さんで。
子供とかも時々言うんだけど、これお金払わないで持って帰っちゃダメとかって言うんだけど、
やっぱりそれがある種の欲求として出てくるじゃん。
自然だとは思う、確かに。
そこに対してやっちゃダメだよっていう風に言うのは、やっぱり世間とか道徳とかなんだけど、
それを超自我みたいな言葉で言うんだよね。
なるほど、確かにブレーキな感覚はあるね。
ブレーキ。
これはやっぱり道徳的なことは良いことだと思われるんだけど、
実はこれはフロイトに言わせると、
個人が持つ攻撃性とか、そういう風な無精霊の欲求っていうものを、
外側じゃなくて内向きに向ける仕組みなんだ。
要は自分に対する攻撃性なんだっていう風に言うんだよね。
文化と幸福の制限
面白くなってきたなー。
そうでしょ。
面白くなってきた。
つまり、自分が得をするなら相手を害するじゃなくて、
自分が得をするので自分を害するっていう風にここに変わってるんだよね。
だって相手から認められて世間で生きるっていうのは得のことじゃない?
だから世間で生きるという得を得るために、
自分を害して自分の欲求を抑えつけてるっていうことが生まれてるんだよな、ここでは。
なるほど、なるほど。
つまりフロイトは、いわゆる僕らが一番大事だと思っている道徳性と、
これはやっちゃダメだっていう攻撃性っていうのは、
実は同じ根っこから生まれてるんだぜっていう風に言ってるんだよね。
これ結構面白くない?
これめっちゃ面白い。
めっちゃ面白かった。
めちゃくちゃ面白いわ。
いいのが、これ多分この先の話になっちゃうかもしれないんだけど、
人間が本来持つ本能みたいなさ、さっきのね、
これ欲しいとかさ、金とか関係なく欲しい、食べたい、
わざわざセックスしたいとかさ、さっきのさ、
いろんな欲望があったときにさ、
これのブレーキが文化であるとか、道徳的な概念であるといったときに、
すごい面白いなと思ったのが、
今さ、言葉でさ、本能っていうと、
なんかみんな同じような気がするじゃん。
そうね、そうね。
だけれども多分、この本能ってさ、
例えばサンダーよっていうだけにしても、
多分人によってそのパラメータ、強さって違うはずなんだよね。
ではね、全然違うよね。
だけれども、文化っていうのは、
同じぐらいの行動を求めてくるから、
例えばさ、フロイトだからせっかくだから、
性欲。
性欲が50の人が、
この文化の中で生きていくには性欲20にしないといけないんですっていうときには、
30のブレーキでいいわけ。
そうね、なるほどね。
これが性欲が1000の人がいたら、
980のブレーキをしないといけない。
この980のブレーキと30のブレーキの差って、
多分死ぬほどストレスとか欲圧みたいな概念がいくとさ、
文化的には同じなんだよ。
同じように見えるけれども、
その人の中でのブレーキの踏み具合が多分違くて、
っていう風に考えるとめっちゃ面白いと思う。
面白い、なるほどね。
なんかね、そうだよね。
文化ってやっぱり均一、
共同体の中でやっぱり均一性を求めるじゃない。
あと一定の幅の中でやっぱり収まりなさいっていうのがあるじゃない。
幅、いいね。
でも確かにラインキーが言ってくれた通り、
その幅に対しても感じ方が違う。
例えば、性欲分威し睡眠にでもさ、
例えば日本の成人は6、7時間寝てくださいとか言われたときに、
俺12時間寝たいんですみたいな人がいたときにさ、
今12時間寝たい人は日本の社会めちゃめちゃ生きづらいよね。
そうだね、寝かせたいね。
仕事も多分やりにくいしさ、
って思ったらやっぱり文化越えってなるよね。
あとね、ごめんちょっとこれ言いたかったんだけど、
さっきの話でいくと、
やっぱり神経症とか精神的な病気ってよくないみたいな文脈で言っちゃったかもしれないんですけれども、
たまたま昨日NHKのウェブのニュース記事とかで見たやつなんで、
ちょっとうろ覚えなんですけど、
4歳の娘さんが認知症的な病気になってて、
全然話せません、喋れないし、
フロイトの発想と愛の制限
感情とか全然コントロールできませんみたいなものがあるんだけど、
それをYouTubeで配信してるっていう話だったんだよね。
いわゆる動画配信。
これに対してお母さんがコメントで言ってたのが、
例えば街とかですごい感謝を起こしたりとか、
言うこと全然聞かないみたいな子がいたときに、
もしかしたらこの子にも事情があるのかもって思ってもらえたらいいな、
みたいなことで配信してるんですって言ってたんだよね。
それは認知症というのは病気とかじゃなくて、
認知症は病かもしれないけど、
そういうのは個性だから、
別に疲れそうなことでもないし、
それをむしろ一つの個性として扱っていきたいっていう話があって、
すごいバッと話したというか、
そういう記事じゃなかったかもしれないんだけど、
でもちょっと僕の中ではそういう感じで残ってて、
記事的には結構好意的な感じだったのかな、そこは。
好意的な感じ。
インタビューでやっぱりそういうのってどんどん、
自分としてはそういうふうに発信していきたいと思ってるとか、
発信してる背景にはそういう思いがあるっていうふうな感じだった。
そういうようなときに、
ちょっと自分もやっぱりそっちに譲られてしまったのかっていうか、
もちろん誰もがそんなふうに思えるわけじゃないから、
治ってほしいとか病気だったら治療したいっていうのはあると思うんだけど、
でもそれで付き合って生きていくっていう人からしたら、
それって一つの個性だし、
そこに対してちゃんと生きやすい世の中になってほしいなっていうふうに思うっていうのは、
僕としてはあるんだけど、
それが今の兄貴の文化の話とすごい繋がったんだよね。
やっぱり一生喋れませんっていう人が今の日本で生きようと思ったら、
もちろん手話とか展示とかいろいろあると思うんだけど、
やっぱり生きづらさは一定あるのかなって勝手に思ってしまったりします。
これはいわゆる、よく障害者に対してあると思うんだけど、
あんまり人によっては別にそんなに特別発売しないでほしいとか、
かわいそうって思うのが嫌だっていう人もいらっしゃれば、
やっぱり生きやすい世の中に来てほしいとか、
まだまだ足りないっていう人もいるっていう中で、
やっぱり同じ、やっぱり日本っていう文化っていうものがあったときに、
日本に対する感じ方とか思いとか、
やっぱり生活のフローとかっていうのが全然違うなって改めて感じたんだよね。
はいはい、なるほど。
ある種そのフロイトが、
文化っていうのは人間の幸福を制限しているんだって言ってるんだけど、彼は。
それっていうのも、やっぱりもうちょっとちゃんとそれぞれの領域で考えたら、
そういう場面ってもしかしたら思ってるより多いかもな、みたいな。
抽象的な、頭で考えた、確かにそれを抑圧されてるんじゃなくて、
本当に現実にあるよなっていうことをちょっと今思って、
反省しましたというか、ちゃんと生きていかなきゃいけないなって思いましたっていう感じなんだよね。
確かにね、この幸福みたいなもとにちょっと惑わされちゃった気がするけども、
ここは多分解釈の問題だと思うんだけど、
このフロイトの言うところの幸福が制限されているの、幸福っていうものを、
今ハヤトが言ったような、例えばその人が生まれ持った個性で言い換えるとする、
文化的な幸せとかにしちゃうとおかしくなると思って。
うん、そうだねそうだね。
自分とそれぞれ生まれ持った個性が抑圧されているって考えたらめちゃくちゃすんなり来る気がするよね。
そうそうそうだね。
もうちょっとフロイトにいわせると大きな話で、
文化っていうもので生きる人間は、そもそも自分なりの幸福っていうものを最大限追求することはできない。
なぜならそれは他人への攻撃性っていうものを抑えるために、
道徳とか長寿がっていうもので、自分というのはある種自責するというか制限するということがあるから、
やっぱりそれは自分自身の愛を制限することにほかならないんだっていうふうな話なんだよね。
そうだよね。
だからそういうメカニズムにおいて、
ある種人間は幸福にはなれないというか、幸福に生きられないメカニズムがここにあるんだっていうことは、
ある種抽象的な文化とか人間っていうものをすごく大きく見たような話なんですけど、
今言ってくれた通り、個人の人間っていうレベルでもやっぱりそれはあるよねとか、
結構大きな問題かもしれないなっていうふうに思うよね。
はいはい。わー面白いね。
この視点はなかったね。
こうやってフロイトに言語化というか概念をこうやって提示してもらえると、
ああそういうことなのかもっていうね。
そうそうそうそう。
それがやっぱりいわゆる精神分析というか、
そこを通して患者さんというか人と仲良し続けたフロイトの発想なんですよと。
それもすごく独自性があるというかね、
新しい観点をくれるなと思うんですけど、
こんな感じでね、今回フロイトっていうものが夢を通じてね、
どんなふうに僕らの心というか意識っていうものをアップデートしましたかとか、
そういうところからね、ある種文化っていうところで発想を広げたときに、
やっぱりね、人の心とか愛っていうものを文化が制限して、
自称をちょっと見出してきたんですよってことをちょっとお伝えしてきましたね。
フロイトすごい、ちょっと好きになったわ。
ちょっとね、性に結びつけすぎみたいな話は、
そこそこ弟子がいなくなるぐらいめんどくさい人だったのかもしれないけれども、
私ちょっと独特な人だったのかもしれないけど、
なんかこううまく解釈、勝手に解釈するのはよくないかもしれないけれども、
なんかやっぱりすごいよなっていうのはね、めちゃくちゃ今回の話で、
ああ名前知ってるわーから、だいぶフロイト先生っていう感じにはなったからさ。
嬉しい。
もっと聞きたい。
全然ね、勝手に解釈していいかなと思ってて、
やっぱりこうね、僕らが生きるときに何が大事かみたいな話って、
やっぱりそういう人それぞれ違うからさ。
今今回フロイトの話とかも聞いて、自分はこう思ったとか、
もしかしたらこんなことが大事だと感じたとかっていうのがあればね、
本当に嬉しいなって思いますよね。
手な感じでね、今回ちょっと本当にさらっとフロイトやって、
本当にまたちょっとフロイトからやりたいぐらいだと僕も思ったんですけど、
次回でもう少し一般的な話として、
人というよりはですね、正に前回言ったような心と脳ですよね。
これがちょっとどんなふうに関係してるんですかっていうところを、
もうちょっと深くというか、一個のテーマとして見ていきたいと思っているので、
ちょっと一つの論文を取り上げて、
これをちょっと次回お伝えしていこうというふうに思っておりますという感じですね。
わかりました。
そうすると、フロイト先生は今回で一旦おしまい。
最後の挨拶
今回一旦おしまいです。
そうなのか。残念だな。
ちょっと名残惜しいですけどね。
わかりましたわかりました。
では次回はそうですね、また脳と心というところで引き続き楽しんでいきたいと思いますので、
次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。