1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #73 禅問答(入門編) 瓦を磨..
2023-01-04 42:20

#73 禅問答(入門編) 瓦を磨いて鏡にするってどういうこと?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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(エピソード2)
(ヨウ)はい、スレッツラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
(天)よろしくお願いします。
(ヨウ)はい、前回は、えっと、禅の、禅問答というよりは、どっちかというと、えっと、エノーさんの禅エピソードみたいな雰囲気でしたね。
(天)そうですね。禅の言葉でこんなことを言っていたよ、とか、こんな相取りがあったよ、ぐらいな感じでちょっとお話したんですけれども、
(天)禅問答とか講座ってのがあるわけじゃないんですけど、いわゆる師匠と弟子の相取りとか、師匠がこんな風に言ったよ、というのを一つ一つ紹介していこうかなと思ってまして。
(ヨウ)はい、まあそれが結局、禅って一回目でやった、仏教と禅の違いは何かっていう話で、結局禅って経典もないし、文字も基本残したくないし、みたいな。
(ヨウ)中で、じゃあ、禅って何なの?っていうのを、こういう禅問答から見ていくしかないみたいな感じなんだもんね、うちらは。
(天)そうだね。あくまでも、本当に師匠とやりとりが大事だから、別にそこから何かを学び取るっていうよりは、こういうのが残ってるっていうのは味わいながら、禅ってこういう世界なんだね、とか、
(天)こういうことを言おうとしてるんだねっていうのを、なんとなく伝えていきたいなっていう感じで、一応ちょっと今回と次回に分けてお届けしようと思ってるんですけど、
(天)今回は言うてもちょっと分かりやすいというか、僕らとしても「あ、なるほど、こういうふうなこと言ってるんだね」っていうのが見えやすいものをピックアップしてみたので、
(ヨウ)はいはいはい。 (天)それをお届けしたいなと思っていますと。
(ヨウ)分かりました。じゃああれだね、今回と次の禅問答を聞くことで悟れたりするのかな?
(天)人もいるかもね。実際エピソード的にもさ、すぐ悟っちゃう人とかもいるからさ。
(ヨウ)あー面白いね、そっか。これはじゃあ、その禅問答を、人の禅問答を見ることで悟りは不可能だとも言えなくはないっていうその禅の面白さみたいな話なんだね。
(ヨウ)完全に今の自分にフィットするものがあるとしたら、他の人の禅問答を見たときに自分が悟るってケースも全然あるっちゃあるんだね。
(天)あるっちゃある。 (ヨウ)可能性の話。ははは、面白いな。そこ、早くは否定するのかなと思ったけど、そっかそっか。面白いな。
(天)いやそう、人によってはね、やっぱそれは趣味気になってとか、普段ね普通に来てる人はいけない、悟るのは難しいとは思うけど、
(天)でももしかしたらね、その仏の道を励んでる人がこれを聞いて悟っちゃうとかもあるかもしれないからさ。
(ヨウ)ははは、でも確かにそうだよね。結局ね、悟ったときって、川の流れを見てるとかさ、雪が降ってるのを見てるとかさ、
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(ヨウ)多分そういう意外とね、すごい考えた末に、現代だったらシャワー浴びてるときにいいアイデアが思いつくみたいな。
(天)あーそうね、ほんとね。 (ヨウ)うん、シャワー浴びてて悟るみたいな話。近いのかもね。
(ヨウ)そうそう。でもね、まさにそういう話も入ったりするので、ぜひ楽しんで聞いていただければなと思うんですけど、
(ヨウ)もちろんね、禅門道ってすごくいっぱいあって、いろんな時代のがあるんですけど、今回はですね、前回、えのうさんという六相、五代誰もから数えて六番目の人みたいなところでお伝えしたんですけど、
(ヨウ)その人のさらに直系の弟子、まあ、孫弟子みたいな人で、罵詛同一っていう人がいるのね。で、そのえのうさんの下に、南岳英雄さんっていう人がいて、さらにその下に罵詛同一さんっていう人がいるんだけど、
(天)おー、七代目、八代目ってことだね。 (ヨウ)まあそうだね。で、この辺りからちょっと別れちゃうから、この辺りはね、七相とか八相とか言わないんだけど。
(ヨウ)あー、だから今六相っていう表現してたんだ。 (天)あ、そう、六相、えのうはまだ言うんだけど。 (ヨウ)はいはい、なるほどなるほど。
(天)で、罵詛同一さんは、まあさん、馬が苗字で、同一さんっていう名前の師匠の祖っていうのがついてるような人なんだけど、
で、その罵詛さんは709年に生まれて、いわゆる中国の唐の時代に活躍した人だよって言われますと。
で、彼をもって、いわゆるこれまでの前世、母代、大流氏が始めたっていうお話をしたと思うんですけど、
それっていわゆる個人の修行というか、一つの営みでしかなかったんだけれども、やっぱ彼がすごく優秀で、文化制とかも800人とか1000人いたみたいに言われるんだけど、
そこからいわゆる禅が、禅修、修法というか、ちゃんとそういう風に伝えられるものみたいな感じに、ある種集団化されたりとか、いわゆる地位がちょっと高まったみたいな、仏教の中でも。
はいはいはい、そうなんだ。
そういう風に言われるすごい人ですと。ちょっとその流れだけ言うと、実は中国でも禅の流れっていくつかあるんだけれども、それが日本に入ってくる時に、実は二つあるんだよね。
いわゆる鎌倉仏教で、英才という人が伝えた臨済宗というのがあるんだけど、それがこの伐祖同一に連なる流れで、あと道元が伝えた宗教宗というのもあるんだけど、そっちはまた別の流れがあって。
へー、そうなんだ。この伐祖同一の後から分かれた後の、ってことだね。枝分かれした。
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もっと言うと、伐祖同一と同時代に二つに分かれちゃって、江能さんの時は一つあったんだけど、それが二つにそれ以降分かれて、一方が伐祖さんの方で臨済宗として伝わって、もう一方の方が宗教宗として日本に伝わったみたいな。
そんな関係があったりしますと。
へー、そうなんだ。何十個でも枝分かれしたっていうのはもちろんあるかもしれないけど、大きくはその二つみたいな流れがあるんだ。
ちゃんと残って伝わってるのはその二つっていう感じらしいんですよね。
なので、結構その日本の禅のある種源流というか、大元も伐祖さんに伝わるよみたいな感じなんですけど、
なんかね、電気によると結構その決対な見た目をしていたようで、
決対?
うん、決対な見た目。
なんかこう、虎のようなギョロギョロした目をして、牛のようにのそのさ歩くみたいな。
ちょっとこう、いわゆるお坊さんっぽくないというか。
でもね、こう、高名なお坊さんになって、いろんな経緯を残しているっていう人なんですけど、
ちょっとね、今回はその分かりやすいもの分かりにくいものがいろいろあるんだけど、
ちょっとその中でも分かりやすいというか、ちょっと伝えやすいものからまずは入っていこうと思うんですけど、
いわゆるその伐祖さんももちろん師匠であるんだけど、若い頃は弟子なので、
その師匠である江城さんとのやりとりとかも残っているんですよ。
その伐祖のお逸が弟子の頃の話。
そうそう。
はいはいはい。
っていうのからちょっと紹介していくんですけど、
伐祖さんがね、普通にお坊さんとして座禅を組んで修行に励んでいる場面っていうのがありますと。
まだその修行中でね、悟ってないみたいな。
そう、修行のみとして。
そこに江城さん、師匠が来て、何してんのって聞くのね。
伐祖さんが「仏になろうと思って」って答えたら、
江城さんが「んー」って言って、瓦を持ってきてゴシゴシ磨き始めるのね。
師匠が隣で座禅してる横で。
伐祖さんが「瓦磨いてどうなさるんです?」って聞いたら、
「鏡を作ろうと思って」って言われて。
伐祖さんが「でも瓦を磨いてどうして鏡になるんでしょうか?」って聞くのね。
そしたら師匠の江城さんが「瓦を磨いて鏡にならないんだったら、どうして座禅して仏になれようか?」って言うのね。
ほうほうほう、なんか深い話になってきた。
伐祖さんが「じゃあどうしたらよろしいんでしょうか?」って聞いたら、それにもちょっと答えないかみたいな感じで、
09:07
牛が車を引いている、牛車、牛が車を引いている時に、車が止まったら、車を打つか牛を打つかどっちが正しい?って聞くのね。
そしたら伐祖は答えられませんと。
師匠中だからね。
そしたら江城さんが「もし座禅をしたいなら、禅っていうのは座ることではない。仏になりたいなら、禅は形ではない。
無重に重して、重って重拠の重、重なんだけど、無重に重して、取る、捨てるとかね、をしないことだ。座禅など仏を殺すだけだ。姿に囚われていては、禅は分かれまい。」って言うのね。
ふー、深すぎるーみたいな。
っていう師匠と弟子のやりとりがあります。これによって伐祖さんはすごい教えをもらったって言って感銘を受けるみたいな話だったけど。
はいはい、ここちょっと悟りに近づくわけだ。
あ、そうそうそう。
さっき修行中だから答えられないって言ったんだけども、答えられないってさっきのさ、車止まった時に牛を打つっていうのは無重打つかみたいな話だよね。
そうだね。
走れ走れみたいな。もしくは車を鞭打つかみたいな話だよね。どっち打つみたいな話。
そうそう。
修行中だから答えられないって早藤言ってたけど、実際そうだったの。なんか分かんなくて、答えに惑ったとかじゃなくて。
あ、そういうことか。修行中で要は答えが普通に分からないから答えられないって感じね。
あ〜そういうことか。まだ悟ってないから、その話の流れだよね。瓦を磨いて鏡にならないっていう話を受けた上で、その質問されるとちょっと分からんわみたいな。
分からんわって。座禅してるからとかじゃなくて、普通に分からないから答えられないって感じね。
あ〜OKOKOK。
兄貴だったらどっちを打ちますか?車を打つか牛を打つか。
あ〜これそうだね。ここだけ聞かれたら絶対牛を打てばいいじゃんだよね。
はいはいはい。
だって車は自分で動かないでしょ。
なるほどね。
牛が引くから、牛を打てば黙って。だって、車を打てたらちょっとさ、面白くない?だってさ、あの、だって牛にさ、まあ、その、乗車さんがいてさ、運転手がいて、車止まるじゃん。
車降りてさ、一生懸命車の後ろさ、バンバン、ビッチで叩いてる人いたら、ちょっとヤバい人だと思わない?むしろ。むしろ。
確かに。ちょっとヤンキーぐらい、ヤンキーって言ったら失礼かな。車、車蹴ったり打ったりしてるのはヤンキーぐらいかなって思うんだけど。
12:04
バイク止まって、バイク、あ〜する?するか。
イメージね。
イメージ。イメージね。あの、漫画のイメージね。
そうそうそう。
でもわかるよ。あの、このさ、あの〜やっぱ修行してて、自分が仏になりますと思って、真面目に修行してる横で、自分の先生が、こんなさ、河原を磨いて鏡にならないなら、どうして座禅して仏になれるみたいなさ、ちょっとあれの説教というか、わかったねえなみたいな話をされてる時に、
ある意味、自鳴の話をされてるわけじゃん。そのぐらいの流れで。って時に、ここで牛ってことやったら絶対また怒られる。違うんだろうな〜みたいな風に行くってすごいわかるよね。
ない、実体験でもない犬がさ、すごい説教されてる時にさ、わかるかどっちだって言われて、この流れだったらこっち行ったら絶対怒られるやつ〜みたいな。
いや、あるよね。やったよ。若手時代とかにさ、お前なんでそんなことした?って。なんかこう思ってとか言って、それが正しいと思ってんのか?って言われて、正しいと思ってるわけじゃないけども、やっちゃったし正しいって言うしかないよね〜みたいな感じあるじゃない?
うん、あるよね。そういう感じなのかな。
答えられないっていう。で、そこで師匠としては座禅したりになったら触れることじゃないんだよっていうのをちゃんとね、こう、悟すというか教えるっていう、いい師匠だよねっていう感じだと思うんだけど。
まあ、そうだね。この沈黙がある意味正解ってことなんだよね。
そうだね。ちゃんと考えてるっていう。で、まさに兄貴が言ってくれた通りで、この時の答えは牛を打つなんだけど。
ああ、それは一応正解なんだ。
打つのが正解かっていうと、実はそうでもなくて、そもそもこの車と牛の例えっていうのは、別の経典、仏さんの教えの中に、人間の体っていうのが車のようなもので、心っていうのが牛のようなものなんだと。
で、心に御所指させなければならないっていう例えがあって、それを引っ張ってるんだよみたいな解説があるのね。
まあ、師匠がってよりは、それを解説してる人、いわゆる学者さんが解説してるよって話なんだけど。
ああ、まあ、そっかそっか。その全問答の中ではもちろん語られないけども、あれでの当時の一般教養というか、その仏教を目指す人の一般教養として、それはあるよねって話ね。
で、なった時に、やっぱりこう、まさに兄貴が言ってた通り、車っていうのはそもそも動くようにできてるし、牛が動けば車も自然に動くんだと。
で、人間っていうのはそうで、心が悟れば自然と体も、座るというか悟りに馴染んだ姿勢というか、そういう格好になるもんだから、
15:01
だから別に体を整えるというか、座らせたから悟るんじゃなくて、悟るべき自分が座ってるっていう風に捉えなきゃいけないんだよっていうのは指摘なんだよね。
だからその、仏になろうと思って座っている、あなたはじゃあ今仏じゃないんだったら、どんなに頑張って座ってもそもそも仏なのかなりやしない。
それは鏡があると、瓦が鏡にならないと一緒で。
なるほど、そっか。これすごいね、さっき車を鞭打ってるやつは、むしろおかしいみたいな話したんだけれども、
その師匠の映像からすると、バソがやってる座禅、悟るためにやってる座禅っていうのは同じことなんだ。
車に鞭打ってるのと同じことなんだぞ、そんくらい滑稽なことなんだぞっていう話をしてるんだね。
そのくらいありえないこととか、意味のないことやってんだよね、わかってる?みたいな。
はいはいはい、自然と悟れば座るよみたいなね、順番が違うんだぞと。
へー、深すぎる。
深いでしょ。
でもわかる気がするね、ここまでね、神くだいてもらえれば、あー確かに。
これは雑談だけど、僕が好きな話があって、牛って結構仏教のモチーフとして使われることがあって、
禅の中で十牛図っていう、十個の牛の図、前もどっかで触れたかもしれないんですけど、
牛っていうのをテーマにして、悟りの世界というかストーリーの本質を解いてる話があって、
それもね、面白いんでどっかでまたお話したいなと思ってるんですけど、十牛図解説みたいな。
あー、そのくらい内容が深い話だし、禅でもそういう頂点じゃないけれども、そういうイメージみたいなのもあるんだ。
物語なんだけどね、それも。
でもあれか、禅物と同じような話か。
そうだね、近い。
この話良かったわーみたいなの残してるみたいなね。
そうそう、いろんなステージがあって、それぞれ牛とどう関係するか、牛っていうのが仏性とか悟り性のモチーフなんだけど。
うーん、そうそうそう。
みたいなのもあったりしますと。
で、一応このやり取り経てたかどうかは分からないんだけれども、
このバサノ禅っていうのが、いわゆるそれまではね、本当に座って悟るぞみたいな感じだったんだけど、
その悟るだけじゃないよね、みたいな。
もっと言うと、日常生活全てが禅だ、みたいな。
もっと言うと、日常の普段の在り方を離れて、別のところに仏の世界があるわけじゃない。
まあ、西洋でやったような、心理があって今の自分とは違う、みたいなことじゃなくて、
日々の生活そのものが仏の実践なんだ、みたいな考え方に、どんどんどんどん変わっていくというか、そういうのが育まれていくんだよね。
18:04
それが結構日本の、いわゆる禅のイメージに近くて、いわゆる立ち振る舞いも禅だとか。
へー。
そういうのあんま聞いたことない?
ないないない。
本当に?
座禅する修行みたいなイメージだから、立ち振る舞いとかはちょっと分からない。
もちろん座禅でひたすら座る、四巻多座みたいな話もあれば、いわゆる日々の食事とか掃除とか、そういうのが全部禅だみたいな考え方もあって、
そっちは結構、バソに近いというか、バソの流れを受け継いでいるんだよね。
で、なんかね、その中で結構、これ聞いたことあるかな兄貴。有名な言葉があって、平常心、これ道なりみたいな言葉があって、聞いたことある?
なさそう。
多分あるけど覚えてないんじゃないかな。多分有名な言葉なんでしょう。
前回では有名なのかな。どこまで有名か確かに分からないけど、つまり平常心という日々の常なる心っていうのが仏の道なんだよみたいな。
言葉も実はバソの言葉なんですよね。実はって言ってもあれなんだけど。
実はこれって、僕ら岩手県出身じゃん。宮沢賢治っているじゃない。雨にも負けず。
さすがにそうだね。
岩手県民はさ、宮沢賢治好きじゃんって言うとあれだけど、学校とかでも学ぶじゃない。ていう中でさ、まさに今言った雨にも負けずっていう中に、今1日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べっていう言葉があるんだけど、
実はこれも平常心、これ道なりっていう精神を表したものだよっていうような解釈もあったりするんですよ。
元々宮沢賢治は仏教というか、法華経のすごい熱心な信者だって言われていて、すごく仏教にも明るい人なんですけど、
だからこそ日々の生活、本当に質素なご飯を食べるっていうのがその生活の中に仏のある本質があるよみたいなことを読んでいるのが、雨にも負けずだみたいな話があって。
なるほどね、そういうふうに解釈できるようみたいな話か。
やっぱり僕らの自然な感覚としても、ある人はあるしない人はないと思うんだけれども、日々の生活の中でちゃんと正しくしているというか、
清らかに生きていくことは大事だよみたいな、そういう感覚というのはあるのかなと思ったりします。
ただ今、さらっと平常心、道、どうなりみたいな話をしたんだけれども、これが当時の人からしても分かりやすかったかというと、別にそんなことはないんですよね。
21:01
へー、そうなんだ。
難しいじゃん、仏とは何だと、仏の道とは何ですかと言われて、平常心だと言われて、分かったような分からないような。
まあそうか、確かに悟る道だと言われちゃうとそうだね。直結はしてないね。
たぶん真剣に「仏になりたいんだ」って思う人ほど、平常心だと言われても、「いやでも仏になりたいんです」みたいな感じになると思うんだけど、まだにそういう全問答と言われているような。
それがね、バスの弟子のナンセンという人がいるんですけど、その人も偉いお坊さんとかお師匠さんになって、さらに弟子がいるんだけど、師匠になったナンセンと弟子の問答をちょっと紹介したいんですね。
はいはいはい。
で、まさにこの弟子がナンセン、師匠であるナンセンに「道、仏の道とはどういうものですか」って聞くのね。それに対してまさにナンセンが「平常心がそれだ」って言いますと。
うんうん。
それを聞いて弟子が「じゃあそれは目指すんですか?」って聞くのね。そしたら「いや、目指したりすれば途端にパーになりますよ」って言いますと。
うんうんうん。
弟子も食い下がって「いや、目指さなければどうしてそれが道だとわかるんですか」って聞きますと。
まあそれももっとも、うんうん。
そしたら師匠とナンセンが「道は知るとか知らないとかいうこととは関係ないんだ。知っているっていうのは勘違いだし、知らないっていうのも無関心だ。
目指さない道に足したなら雲一つない大空のように晴れ渡る。いちいち是非をあげずらったりする必要はないよ」っていうふうなやり取りをしますと。
うんうん。なるほど。
まさにさっきのさ、道って何?仏の道って何?平常心だよって中からやり取りが進んでいったっていう話なんだけど。
うんうんうんうん。
でもなんか弟子の気持ちはわかるよね。
まあそうね、うん。わかるし、そうはね。この師匠が言わんとすることもなんとなくはわからなくもないというか。
さっきのあれだよね、牛と車の話と同じだよね。
うんうん。
あとはこれが今回の言葉、今回用いられた言葉ですよこそからすると、結構ソクラテスの「無知の地」に近い感覚もあるよね、この話っていうのは。
あーなるほどね。
そこを感じた。
確かに近いかもしれないけどちょっと違う気もする。
そう?
うんうんうん。
えっとね、でも確かに面白いねその比較は。なんか無知の地は三魂術なのでソクラテスの方にも正解がないっていう前提なんだよね。
24:06
はいはいはい。
でも一応この禅門道に関しては師匠の方に一定の答えはあるんだよね。
うんうんうんうん。
ただその答えは、師匠の答えを弟子に伝えてもそれが本当に答えかどうかわかんないんだよね。そういった意味でちょっと違うかもって今思った。
あーなるほどね。はいはい。
えっとね、こっち的にはその無知の地、これにとって禅門道、今回伝えようとしている話の答えが無知の地ですよっていうようなイメージかな。これ自体が無知の地なんじゃなくて弟子に対して無知の地大事だよっていうことを伝えようとしているぐらいのイメージ。
あーちょっと待ってね。なんか自分の中でね、もやもやする。
でも面白いよね。その哲学を哲学へ例えるとこういうことになるのかな。
そうだね。なんかね、ソクラテスの無知の地と禅門道的な仏性が一緒って言われるとなんかね、すごいズレがあって。
この平常心の理解に対するスタンスとして、無知の地的なスタンスがだいぶ神話性が高いのではないかっていう話なんだけど。
はいはいはい。
やっぱりこれ悟り体も一緒だし、この平常心とは何かみたいなものも多分同じ構造になっていて、何か理想っていうものを目指した瞬間それはパーになっちゃいますよっていう師匠が話してるね。
でもそんなことをやらたってその平常心っていうものを理解してそれに進まなきゃ平常心ってものに達せないじゃないですかっていう話を弟子がした時に
師匠の南宣はそもそもそれを目指す。知るとか知らないとかということは関係ないと。知ってると思ったら勘違いだし。
たとえ言ってそれ知らないとなればそれは無関心だみたいな話。ここでちょっと思ったんだけど。
ここでその、えーと、あーこれムズ。言葉で伝えるのムズ。
ムズ。
もうちょっと頑張って。もうちょっと。
その後目指さない道に達したがら雲ひとつない大空のように羽渡るっていうのは、この目指さない道っていうのは無知の地なんだよね。
その存在自体はあるだろうっていう、その平常心ってものはあるだろうっていう世界に到達。
自分はそれは知らないけれども、あるだろうっていう話。でもそれはよくわかんないかも。
そのゼロの地点、無知の地点に達するとそこでやっぱり初めてその存在しないものに行こうっていう、目指さなきゃっていうところからも解放されるし、
27:05
かといって無関心っていう状態でもないっていう、初めてスタート地点に達して雲ひとつない大空のように羽渡った視界が開けるんだ。
そこから初めて自分の一歩っていうものを踏み出すことができるんだっていう、その自由というか、そういった自由を手に、平常心っていうところのスタート地点に
立つことができるんだみたいなイメージ。むずい。
でもね、めっちゃ笑ってるやん。
むずいね、言葉勉強しよう。
前回の話の通り言葉がね、僕のテーマではあるけど、アリン君のテーマでもあると思うんで。
今話を聞きながら自分の中でも整理してたんだけど、無知の知と平常心みたいなものがなんでしっくりこないのかなと思った時に、
やっぱりそのあり方みたいな話と手段みたいな話がどこまで一緒なのかが僕が分かってないなって思ったわけ。
でのまあ、あてはそくらてすの無知の知は一つの手段なんだよね。心理に至る手段としての無知の知があって、
相手が知っていると思うことに対して本当にそうかとか、これこれはこう言える、この時はこう言える、そこに賛同するならば、これに関してあなたは知らないことになるみたいな、
例えばそういうロジックがあった時に。そくらてす自身も自分自身は至近石だっていうことを言っていて、
何かを試すとか、相手がその心理に至るための媒介だみたいな考え方なんだよね。
最強の壁打ち役ですよって。
そうそう、無知だからね。もう何やっても跳ね返すぜみたいな。だからそれはそれで一個のあり方ではあるんだけれども、
ここでいう平常心に至るっていうのは、無知の知を知るみたいな、結局それも知の一つでしかないから、
それを手段として捉えるっていうよりは、それ自体になるとか、そういう境地に自ら生きるみたいな話なんだよね。
なので、もしかしたらそくらてすもそこまで行っていたのかもしれないし、
ただ、無知の知を使って仏の道にたどり着くみたいな話はやっぱりちょっと違う。
それは手段でしかなくて、道の方だから、要は無知の知を使ってみたいな言った瞬間に、
それが一つの仏にたどり着く手段になっちゃうんだけど、でも仏っていうのはもそもそも自分は仏だから、そこにたどり着く手段とかも別にないみたいな話なんだよね。
30:07
はいはいはい。
何だろう、伝わるかな?ちょっと僕も今うまく言えてるかあれなんだけど。
そうはね、多分、ハヤトの違和感みたいなところ、さっき手段と在り方っていうところが比較ポイントっていうのは、何となく分かると言わせて、
多分同じ、今平常心っていうものを理解するのは手段としても無知の知に近いよねみたいな話をしたんだけども、
そこだよね、多分その無知の知を理解するっていうのも結局同じ、
例えばこれが多分禅門道とか悟るとかのすごく難しいところだと思うんだけれども、
無限ループに陥るんだよね。
例えばこの平常心、平常心の道とは何ですかっていう話をした時にこういうことですっていう、今回の話とは、
これを目指しても、そうするとパンになるし、知ってるし知らないみたいな話をした時に、
じゃあこれで分かんないか、そしたらじゃあ無知の知みたいなものなんですよみたいな話をした時に、
無知の知とは何ですかみたいな、そういう無限ループに陥る可能性が、
このようにやっぱりものを例えるっていうことをした瞬間に、もうそういう地獄だよね。
地獄への道が始まるみたいな感覚をハヤトは持ったのかなと思った。
そうだね。
例えたらおしまい、パーだよみたいな話。
そうね、それは本当にそうで、やっぱり頭で考えていると悟れないよみたいな話が随所に出てくるんだよね。
今回の何線と弟子の話も、やっぱり弟子は悟りっていうのが目的、仏になるというのが目的で、
それをロジックへ到達しようとしている、じゃあ道って何ですか、それが分かったら悟りに近づけるんですかみたいな。
逆に言うと道が何か分からなかったら、そこを正しく歩いているかどうか分からないじゃないですか。
っていうふうに捉えていて、それには一理あるんだけれども、やっぱり師匠の何線はそんなもんじゃないよっていうことを教えようとしているわけですね。
そうね、その価値観をぶっ壊してあげないといけないからね。
そうそう、平常心は道っていうのは正しいし、間違いないんだけれども、それが道かどうかっていうのは、別に本質はそこじゃないと。
だから仏を目指すとか目指さないとかじゃなくて、自然に自分は仏であるっていう、そういう道を進むことができたら、
それが自然と平常心、これ道なりっていうところに繋がるんだっていう。
ただ、辿り着くところはそこなんだけど、別にそこに辿り着くために道があるわけじゃないっていう、
この差が、別に僕が今言ってることが全部正しいかどうかを追い止めたとしても、こういった逸話から感じ取れることかなっていうふうには思います。
33:14
はいはい、この言葉と元々のイメージで、本質で言うとそれこそおかしいんだけど、
この例え、この禅門道を平常心、これ道なりじゃなくてもいいって話なんだもんね。
あるものを説明するための仮の、それこそ例えとして平常心、これ道なりっていう言葉を選んでるんですよっていう話で、
だからすでにこの平常心、これ道なりっていう例えがすでに悟るっていう道の上では、この例えをした瞬間で破綻してしまってる。
パーになってる例えっていう話だよね。だからこのパーになってるこの平常心っていうものを理解したとして、
すでにパーになってるから、この例えを理解しても意味ないんだよっていう話をせざるを得ないんだよね。
そういうこと、そういうこと。だからやっぱり言葉にとらわれちゃいけないし、不流門次だから、やっぱりそれだけを大事にするなよっていうのが常に言われるわけだよね。
そうだね、面白いね。だからさっき「無知の地みたいだね」って言ったのは、この平常心、これ道なりと何ら説明したいんだよね。
ただ単に動列だよね。動列のものが一個ポンと増えただけで、ただただその本質に対して間違わしい例えを一個増やしただけみたいな。
意味ないものが増えた。むしろ煩悩が一個増えたぐらいの話。邪魔するものが一個増えたみたいな。理解を阻害するもの。
面白いのが、遠いにやっぱり、茂津の例えで言ったように、好きっていうのは何らかの指で指し示されるものではあるから、平常心とか無知の地とかっていうのがちゃんと的を置いてるんだったら、それがいっぱいあることで、この辺りだよねっていうのは伝わるは伝わるんだよね。
さっきの牛車と牛と車の例えも多分似たような話だよね。そういう指がいっぱいあって、どれかがこいつに刺さればいいなって話ってことだね。その弟子にね。
そうだね。刺さればいい。ついつい刺さればいいし、でもだから仏とは牛であるとか、平常心であるとか、無知の地であるとかって言っちゃうと、いやいやお前さ指であって月じゃねえよみたいになるし。
だからある種、七軽寺の時にも言ったけど、式則是空で、式は空であるって言った瞬間に空則是式ってひっくり返すみたいなこともそうだし、
あとやっぱり実際、場所も、例えばお坊さんに仏って何ですかって聞かれた時に、いや心はそのまま仏なんだよって答えたりするのよね。
36:06
でもそこに立てるとダメだから、いや心は仏じゃないんだよっていうことも合わせて言ったりします。
言ってることがあっては、知理滅裂なんだけど。 いやーこれが全問答のイメージだよね、でもね。そうでもあるしそうでもないみたいなね。
そっちになるんだよね。 はいはいはい。
その自然性っていうのがちょっと見えてきた気がするね。 そうね。なんで知理滅裂とか八重め茶とか、破綻しないように見えるとか、
全く逆のことを言うんだって言うと、まさに今兄貴がちょっと感じたこと。要は固定したダメだし、一個のことを言ったら間違えちゃう可能性があるんだよね。
面白いな、これね。師匠からすると、悟った側からすると、おそらくその質感、ふわふわした質感を、そのふわふわ伝えるっていう手段もあるはずなんだよね。
伝えてるんだけどね。そうでもあるしそうでもないとは言ってるんだけども、こういう例えがあって、でもこんな感じで、
でもこうすると、本質を表現しないから実はこんなこともあって、それを表現するためのこういう例えもあって、みたいなふわふわふわって伝えることもできると思うんだけど、
多分それじゃ絶対分かんないってことをやってきたんだろうね。だから一回バシッと言って、惑わせて、でもそうじゃないよとか、これも違うんだよみたいな話をしながら、
本人の価値観をとにかく壊していくみたいな、そういう話なんだろうね。
そうだね。なのでそんな話を次回もぜひしていきたいと思いますけど、今回もう一つ、前文童というかエピソードを私が触れたいと思っているのが、
前々回か、エノーの話をした時に、何も言わないのが正解みたいな話もあるよって言ったじゃないですか。
はいはいはい。動いてる動いてる。何も言わない。質問に答えること自体が分かってないことの証明になってしまう場合があるみたいな。
そうそうそうそう。みたいな話をしてたんだけど、それの実際のエピソードがあって、まさにこれがバソとさっきのナンセンの話なんですけど、
バソが月の綺麗な夜に、3人の弟子と月をお月見をしてますと、
その時に師匠になったバソが3人に尋ねるのね。
こんな晩には何をするのが良いだろうかと。
一人目は経典を勉強するのがいいんじゃないですかって言って、
二人目は禅の修行をするのがいいんじゃないですかねって言いますと。
真面目だね。
そう。で、三人目のナンセンは何も言わずにさっさと立ち去りますと。
これを見てバソが、一人目の弟子はお経を習うならいいよねと、
39:06
二人目の弟子は禅とか座禅を習うならいいよねと。
ナンセンはそれらを超越しちゃって超えてるんだよねっていう風に言います。
つまりナンセンがやっぱりいいよねって話なんだけど、
ある種、一人目と二人目は兄貴が言ってくれた通り真面目で、
すごく熱心なんだけど、逆に言うと自分の世界に閉じこもっちゃってますよねと。
だから一貫性はあるっちゃあるんだけど、
じゃあ月の綺麗なね、こんなお月見をしてる夜にまでそんな自分にこだわる必要ってあるんでしたっけみたいな。
それよりもナンセンみたいに、自然に月が綺麗なんだったら月をめでましょうよと。
そんな晩にまで勉強したり修行したりするような人には付き合いきれませんわって言っちゃう。
とか、そんな物理の問いかけをしてくる師匠にすら付き合いきれませんわって言って、
言っちゃうのも平常心、自然な道だよねみたいな。
そうかそうか、もうそういう執着とか答えとか、その時点で質問してる方にもこの場でだよね、
このシチュエーションでそんな問いをする師匠も師匠だし、それに真面目に答える弟子も出ちゃうし、
みんな出せって言っちゃったんだね。
あの勝手なみたいな。
散歩でもしようみたいな。
そうそうそう。
面白いなあ。
だからやっぱり答えないことが答えになる時もあるし、
師匠の問いが必ずしも完全に優れてるとも言えないし。
そういう罠が、トラップがあるってことだね。
そうそうそう。みたいな感じで、まさにその瞬間瞬間のやり取りとか、立ち振る舞いっていうのが伝わってくる面白さっていうのがあるかなと思うんですけど。
面白かったね。
よかった。でもね、今回はね、割と問い合いわかりやすいものを持ってきていたつもりではなくて。
そうだったね。今回あれだね、全問答2問編だったんだよね。
2問編。
これで、解説なきゃわからないよ、2問編でも。
いや、わからないよね。僕もわからなかったし、もちろん。
まあ、これでわかったって言っちゃダメなんだけどね。
その一つの解釈だし、別にそれが正しいかどうかでもないから、なんとなく僕らが理解しようと思うと、まあそういう風になるよね、みたいな感じなんだけど。
次回はですね、よりちょっとわかりにくいというか、全問答っぽいみたいな、そういう話もご紹介しつつ、ちょっとね、全問答の面白さっていうのをぜひ深めていきたいなという風に思っております。
はい、わかりました。じゃあちょっと次回はちょっと気を引き締めていきたいと思いますので。
42:00
そうですね、ちょっと中級編ぐらいの感じで。
はい、わかりました。じゃあ次回もよろしくお願いします。
はい、お願いします。ありがとうございます。
はい、ありがとうございました。
はい、ありがとうございました。
はい、ありがとうございました。
♪~
42:20

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