臨済が教えを広めるシチュエーション
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回も臨済ということで、前回は臨済が仏教を学び始めてから悟るまでと、禅に行って悟るまでと、臨済6というのを基に見てきたんですけれども、今回はその後ということでしたよね。
そうですね。実際に悟った後の臨済は、もちろんすぐに出てくる。おばけ師匠の下で勉強というか、引き続き回ったりするんですけれども、そこからいわゆる独り立ちして、自分のお寺というか、そういう教えを広めていくっていうところのお話を、今日はいくつか紹介していこうかなというふうに思っております。
前回、ちょっと聞いてない方もいらっしゃるかと思うんですけれども、それこそ臨済も、もともと生まれた瞬間から悟っているみたいな、いわゆるお釈迦様みたいな、そういう別に伝説的な人というよりは、勉強とかして、いろいろ学ぶ中で、やっぱり俺には禅だってなって、師匠の下で学んで、それでも成果が出ずに、あちこち行った結果、学びます。
悟りましたと。
すごい真面目で、すごい素直だった人が、師匠の脇腹を殴ったり、いきなり今だ、今でしょうって言って平手を打つみたいな、ちょっとやばい奴になりましたみたいな話をしたと思うんですけど。
映画を見ているようだみたいな話をね、ファーストシーズンを見たっていう感じだったけど。
シーズン1みたいなね。
今日はシーズン2的な感じで、臨済録の冒頭に書かれている話がまさに、自分のお寺を開きましたみたいな、その時にお話ししましたよっていうような内容が書かれていて。
そうなんだ。時系列順着でそこから書かれてるんだ。
いろんなエピソードがあるんだけど、それが最初に出てるのと。
何回か引用してた、仏に会ったら仏を殺せ、第1回のタイトルにもつけたけど。
結局あれも言葉だけ引っ張っちゃうと、ちょっと物騒だなとか、やっぱりちょっとやべえ奴じゃんみたいな感じですけど。
実際その文脈というか、どんな流れで言ったことなのかって分かると、なるほどねとなる部分もあるかなと思うので。
そうなんだ。やっぱりよくある編集、ニュースでそこだけ切り取られたみたいな感じなんだ。
そうそうそうそう。どうしてもツイッターでこの部分だけ取られちゃったら炎上するよねみたいな。
そうなんだ。
っていうのがあるので、それは本当にニーチェンの神は死んだと一緒なのよ。
なのでそこの話の2本立てくらいを今日はご紹介して、より臨済の教えの雰囲気っていうのを感じてもらいたいなというところで持ってきました。
楽しみだね。ちょっと前回がね、ちょっとなかなかすごかったからね。悟った後ってね、悟っちゃったらでもあんま事件なさそうだけど逆なのかな。最後師匠を殴ったりしてたからな。
やっぱり悟って終わりじゃないっていうのがね、この禅のいいところというか。僕も悟ったらゴールだみたいに思った時があって。
だから悟りたいとか悟れば救われるみたいに思ってたんですけど、実はそんなことないなっていうのをこういう話からちょっと満々だというか感じた部分もあって。
前もあったもんね。悟りがゴールじゃなくて実はスタートみたいな感覚っていうのもね。
なのでちょっとそういった話を今日はしていきたいなというふうに思っておりますと。
今日もストーリー仕立てなのでちょっと副音声的にここはこんな感じですよっていう解説というかお話も入れつつお伝えしていきたいんですけど。
なのでちょっとお話ししていくんですけど、シチュエーションみたいな感じでいくと、やっぱりお寺というかお坊さんたちも別にそのお坊さんたちだけで生きてるわけじゃなくて、当然その地域とか住民とかがいるわけですよね。
村とか国とかその中でちゃんとその一員として生きてるよねって話ですよね。
生活してますと。いわゆる知事さんみたいな知事、県知事とか府知事みたいな人がいて、そういう人たちが教えを求めにやってくるわけですよ。
お坊さんとかっていうのが権力っていうか、やっぱり民をよく導くにはとかいろんなそういう考え方がある中で、どうやら教えをやっぱりそういう仏の得というか偉い教えをやっぱり知りたいですと言って部下とともにやってきますと。
そういうふうに言われたんで、臨済さんもまあまあそんだけ言うんだったらしゃーないよねみたいなところもありながら、教えを説法しますみたいな、そういうシチュエーションなんだよね。
臨済の語る教えの本筋
なるほどなるほど。いわゆる属性の人たちに対して説法をしましたみたいな話か。
そうそうそうそう。でもなんかすごい渋々なんだけどね。
そんなに渋々なんだ。
そうそうそう。渋々登りますと。こういうふうに話していきますよっていうのをこれから紹介していきますと。
臨済さん登って、なんかふーやれやれって感じで言い出すんですよね。
なんかもう今日はそのいたしかたない次第、いたしかたないけど、世間の習わしに従ってこのちょっとステージというか壇上に上がることにしましたと。
もうやる気ないね。
なんでかっていうと、もし全能も本当に本筋に沿って教えを説くなら、口を開こうにも開けないし、諸君ら、知事さんだけじゃなくてお坊さんたちも多分聞いてるんだよね。
はいはいはい。
そういう諸君らにはそれを聞く余地もないのだと。
でも今日はその知事さんのたっての頼みだから、一つ前の根本のところを示してみましょうと。
でさあ、誰か私と論戦やりとりする者はいませんかと。
ほうほうほうほう。
自分が語るというよりは、みんな質問されたら答えるよみたいな。
なるほどね。
いきなり会社のどっかの大企業の研修会みたいなところに渋々行った芸人が、ネタ見せるんじゃなくて、よしじゃあ大喜利役から何でもこいやみたいな状態ね。
しゃあないけど、こんなマジなところで笑い取るもんなんもないけど、まずお題出してみ!みたいな話ね。
本当そんな感じね。ノリノリってない感じね。
こんなとこ来る感じなんですけどね、みたいな。
その腕前をみんなの前で見せてみなさいと。
とはいえ、研修というよりはお坊さんたちがいっぱいいるわけだから、お前たちも全員のことはわかってるだろうと。
質問に対するマスターの答え方
でも今日は知事さんとか部活さんという普段とは違う人たちがいるから、そこでお前たちの腕前を見せていい機会を出そうと。
なるほど、そっかそっかそっか。
ちゃんと弟子たちもいるから。
質問してみなさいっていうふうに言うんだよね。
そしたら一人の勇気あるお坊さんが、はいってこう言って質問しますと。
で、物本の根本とはどのようなものでございますか?っていうのね。
なるほどと。
そしたら臨済さんはすぐに一括する、大声出して、かーって言います。
そしたらお坊さんは黙って一礼、要はありがとうございましたっていうふうに礼拝をするのね。
それに対して臨済さんは、このお坊さんは意外とやりよるなと。
問答の相手がつたまるものだというふうに返しますと。つまり認めてるんだよね。
なるほど、とりあえず、これ多分前回もやったもんね。
臨済も師匠にやっちゃったことだもんね、これね。
そうそう。
なるほど、なるほど。
質問して、言葉じゃなくてそういうので答えられて、もうそれで十分ですみたいな感じになるっていうのはちゃんとわかってるね。
言葉で伝わらないようは、口は開こうにも開けないし、聞こうにも聞けないんだって最初にも言ってるわけだよね、全部。
一応それに則ってやっておるなというふうな形で、この人は合格だと。
なるほど、なるほど。
という感じになります。
次の別のお坊さんがまた質問をするんですよね。
お師匠さんはどんな方の教えを受け継いでいますかと。
これは前回言った通り、王博師匠の教えを受け継いでいるので、臨済さんも私は王博師匠の下で3回問いを発して、3回打ち据えられたんだと。
そういうことを言うんだよね。
そこしたらお坊さんがまた何かを質問しようとしますと。
言おうとしたところ、その瞬間に臨済さんはかーって一発してパーンってボーっていうかね、あれで叩きますと。
そして、虚空に釘を打ってはならぬって言います。
はい。
以上。
以上、2人目はこれでおしまい。
でもちゃんと教えてあげるんだね、そこでちゃんと虚空に釘を打ってはならぬって。
そうそうそう。
でも伝わるのはやっぱり前回があったからさ、これが教えだというかちゃんと返してあげられるっていうことが伝わるね、兄貴にも。
いやー、前回のがあったからね、言葉で返してくれてる分だけすげえマシみたいなさ。
やっぱりちょっと危ないかもね、前に阻まれても言葉はめっちゃありがたいみたいなね。
言ってくれるだけでハッピーだからね、ちょっとなんだろう、それこそ押し勝つしてるファンみたいな。
目線だけじゃなくて言葉を出てくれたら嬉しいみたいなね。
なるほどね、指差してくれたみたいなね。
ちょっと危ないかもね、前にハマってしまってるかもね、禅の世界に。
なんでね、これも結局で言うと何かを問おうとするとか、言葉で尋ねるっていうことは限界を示しているのでありましょうと。
私、師匠だよね、悟った側が自分が十分って思った言葉だったりとか、言葉はそれいらないと思ったらぶん殴ると思ったりすると思うんだけど、
それで十分と思ったことに対して相手がそこで十分だねってわからない状態に対してはもうこういう飛んでくるんだね。
わかってねぇなって言ってパーンって飛んでくるんだよね。
考えるなと。やっぱりそれが全てだって言ってるじゃないかと。
それなのにまだ何を問おうとしてるのかというか、言葉で言おうとしてるんだ、頭で考えてるんだっていうのは多分そういう感覚で良い取りをしてるんじゃないかなと。
それがいわゆる虚空だよね。
言葉の空虚さとか、そういうものを頼りにしちゃいけないよっていうことに繋がるんじゃないかっていうのが解釈の一つで言えるよねって感じですね。
なるほどなるほど。あんたはそういうことやってるんだよっていうのをちゃんと言葉で教えてあげてるって話だよね。
そうそうそう。
でもあれか、素人さんが混じってる、属性の方が混じってる状況でこのようなパフォーマンスが壇上でなされてるわけね。
そうね。もちろんみんな真剣だし、お坊さんの中でもそういうふうに分かってる人がいればまだまだ分かってない人もいる。
むしろ分かってない人の方が多いですよっていうのが次の話でも出てくるんだけど。
教典に対する先生の考え方
続いてね、その2人終わった後に今度は教典、いわゆる仏教の教科書みたいなやつだよね。
そういうのの講義を専門にしている先生みたいな人が出てくるんですよ。
さっき国に釘を打っちゃダメだって言ったけれども、そうは言っても仏が解いた言葉、話した言葉っていうのは現に残ってていろんな教典とか教科書とかになってるじゃないですか。
私はそれを教えてるんだけれども、それらっていうのはまさに仏の本性とか善の本質っていうのを示してるものじゃないですかって聞くんだよね。
この人は自分の役割がそれだから納得できなかったんだろうね。
言葉無意味って言われちゃうとね。
そうそうそう。
無意味って言うことなんだけど、無意味ではないんだけどね。
そこはね、言葉の使い方ね。
言葉の力はあるんだけど、言葉自体には本質はないっていうことだと思うんだけれども。
なるほど。言葉にも多分虚空な言葉と虚空じゃない言葉もあるよねっていう世界はあるんだけれども、
たぶんさっき言った銀材は今この瞬間、さっきの質問してきた人の質問は虚空だよねっていう話はしてたみたいな話で。
そうそうそう。そういう風にも考えられる。
失礼しました。無意味ではない。
やっぱり変なアンテナ立っちゃうよね、こういう話をすると。
大事だよね、でもね。やっぱり素人はほら、そうやって敵が言葉を使っちゃうから師匠に怒られるんでしょ。
小僧さんとかはこういうね、自分が、それこそ経典に書いてるような言葉だとか、先輩に聞いたような言葉を分かったふりして適当に使って、
それが上にバレるみたいな話でしょ。だから大事だよ。
ちょっと違和感があったなって思いますけど、さっきの先生の話なんだけど、
言葉で書いたものにも仏の本数っていうのは表れてますよねっていうふうに言いますと。
言葉にこだわることの限界
でも臨済さんは、いやいやそんなものでは仏の道に倒れつくことはできやしませんと、一方両断するんだよね。
でもやっぱり食い下がって、でも仏が人を欺くはずはないじゃないですかって聞きますと。
要はその言葉でそれを残ってるわけだから、そんな仏が人を欺くような言葉なんて言うはずがありませんって言うんだけど、
でも臨済さんはここまで来ると言葉を荒げて、ではその仏であらはどこにいるって聞くんだよね。
お前がやってる仏ってのは何のことだって聞きますと。
そしたら質問をした教室には黙るしかありませんでしたっていう話なんだよね。
でも黙ったからもう臨済さんはヒートアップしちゃって、知事さん、そういう仏のことを学んでない、これから学ぼうとしている人はいるのに、お前は目の前で私を欺こうとするのかと。
はいはいはいはい。
そんな理屈をこねくり回すようなことは本当によくない。よくないと。だからさっさと下がりなさいと他の人の邪魔になるからもう帰った帰ったみたいな感じで言っちゃうんだよね。
でもこれもちょっと厳しいかなとは思うけど、散々言葉じゃないよって言ってるのに言葉にこだわってるから仕方ないよねみたいなところは思ったりしますよねと。
なるほどね。言葉の捉え方っていうのが多分さっき無意味って言ってハヤトに怒られたけど、多分そういう感覚だったんだろうね。
それこそ専門職、言葉とか活字というかね、教典というものを仕事にしているのに、しかもね、ちゃんと仏教とか禅というものを身を置きながらね。なのにそれに縛られてるってどういうこと?って多分めっちゃ怒ったんだろうね。お前本質わかってないみたいなね。
相手の理解を確認する質問術
でもやっぱり臨済からすると、じゃあお前の仏って誰なんだ?みたいなそこに突き返された時に思っちゃうんだよね。じゃあお釈迦様が仏かって言うとお釈迦様だけじゃないみたいなこととか。
すごいんだし、相手がわかってない状況に対する質問の投げかけ方が多分めちゃくちゃまといてるんだよね。こんな短いのに仏、じゃあ仏どこにいるの?みたいなのって。
それってただ相手をやり込めるっていうことじゃなくて、たぶんこの言葉の意味をちゃんと理解したとすると、言われた方はやっぱりちゃんと禅門道というか説法になってるんだよね。
だってこうやってその仏と言われたらどこにいる?ってここで黙っちゃう?ここで黙らないで、ちゃんとその仏っていうものは確かに存在しないんだけれども、自分はその仏の本性だけ?
そういったものから出てきた言葉に対して真摯に向き合ってるんですみたいな、ちゃんと悟ってる感じの言葉が返せれば、お前はやっぱりわかってんじゃん?みたいなふうになるかもしれないっていうすごい問いかけなんだよね。
だからやっぱり例えばここで黙るんじゃなくてそれこそ礼拝するとか、本当に自分の悟りというかそういう感じを表現できたとしたらこの人はまさにそれを理解したとなるだろうし、やっぱり黙ってしまって言い返せないっていうのはまだ頭で考えちゃってるねみたいな。
下手したらこの瞬間誘ってもよかったんだね、この先生はね。
おそらくね。だからその意味でやっぱり礼拝さんも重ねてやっぱりちゃんと言うと。だからそういう意味では優しいっていうかちゃんと教えてくれてるなっていう感じがするのもあるよね。
そうだね、ちょっときついけどね。わかってない状態でさらにオーバー級な感じがするけどね。
もうヒットポイントゼロですみたいなところに重ねてくるから。
そうだね。
まあそんな風に言われちゃったんでやっぱり一体が真意となるわけだよね。
まあそうだね。
出会った時に仁財さんが、「うんうん、なるほど。でも今日の会は仏法の根本を示すものだったよね。でも他に質問あるものはいませんか。いれば出てきなさい。
だが口を開いた途端にもうその仏法の根本とは無縁になってしまう。
お釈迦様もこう言っている。仏法は言葉を離れ、因果の因とか怒りにも関わらないものである。
因縁っていうのは原因とか結果とかあと演技みたいなそういう連綿と続いているみたいな話なんだけど、そういうのにも関わらないんだと。
でも君たちが信じてないからこんな無用な議論に落ち込んでしまうんだと。
こんなことでは父さんとか部下の方々が忙しいところに来てくれたのに、結局負け添えにして仏法について返って分からせなくなってしまうだけだよと。
はいはいはいはい。
もうこんなことは無意味だから今日私もこの辺りで引き下がろうって言うんだよね。
ほうほうほう。
そうして大声で一括して叫んで、最後に一言を信念を書く人、要は自らが仏であるとか仏であろうとする思いっていうのがない人には永遠に決着の日は訪れないんだと。
長らく立ち通しご苦労様でしたって言って帰るっていう。
それでリンザイさんのお話はおしまいみたいな。
おー。いやーかっこいいね。
やっぱりその場にいたらすごい緊張しそうだけどさ、こうやって来るとかっこいいし勢いがある人だなみたいな感じするよね。
そうだね。前回の話を聞いてるからだと思うけど。
自分が属性側で会社の一員としてこれ見せられたらポカーンとするとは思うけど、なんだあいつ怖っみたいな。
こうやって聞くとちゃんとやり取りしてるなとか、ちゃんと教えを伝えようとするようは、そもそも言葉で伝わらないっていうこともなんとか言葉でやり取りしようとして、
結局そうやって無用な議論に陥っちゃうから、それをある種分かりなさいと。
ちゃんと自分に言われて信じるってことは本当に大事だから、それ以上もそれ以下もないんだよみたいな。
はいはいはい。
いやーでもすごいね、これ一番すごいと思ったのは、やっぱりその知事さんとか、そういう属性の人が来た時に、その人たちを一切貶めることがないように見えるよね、この話を聞くと。
お前らはなんも分かってないと、そもそもその仏道に入ってない、お前らはダメだみたいな話を全くせずに、ちゃんとそのある意味自分の身内だよね。
臨済の教えについて
ちゃんと自分の身内を下げて、相手を立てて、ちゃんと学びみたいなもの属性にわかる、すごい難しいけど、自分たちの信念とか、自分たちの学びっていうものを曲げずに、きちんとそれをそのまま純粋な形で属性の人たちにも届けた、みたいな。
その場の作り方もやっぱりすごいよね、と思ったね。
すごい素敵な観点だね。いやでも本当そうだと思ってて、やっぱりこの悟ったお坊さんだったら、それこそ自由に一人生き山にフラフラ、仙人みたいに生きるのか、そんなことはなくて。
やっぱりその宗派というか、一段を形成すると、ちょっと経営者的な役割も担っていくんだよね。
人が集まればやっぱりご飯も食べさせなきゃいけないしとか、人間関係のいざこざもあるし、
やっぱりその冒頭言ったような近隣住民とか、地域の政治家との付き合いとかって出てきてしまう。
あんまりにも減り下がっちゃうと、やっぱりなめられるというか、あいつは結局何も知らないって言われちゃうし、
あんまりにもなった気してると、やっぱり生意気だってなってやり込められちゃうみたいな、たぶんそういうバランスはあるんだよね。
はいはいはい。
しかもこれちょっと、さだかじゃないというか、ちょっと今思い出したんだけど、
当時その唐の時代で、やっぱり仏教の排斥運動というか、いわゆる仏像を燃やすとかさ、
そういう運動が起こってたらしいんだよね、当時の中国で。
へー、そうだね。
やっぱりその中でも、禅宗は要は仏像を拝んでるわけじゃないし、自分が仏だから、別にそれは特に影響ないというか困らんみたいな感じで、
生き延びていくというか、ちゃんと続いていくみたいな話があって。
はいはい、そうなんだね。
やっぱり、いわゆる禅とか仏教っていう属性から離れたとは言っても、やっぱり歴史の流れというか、
そういう時代の、やっぱり景気が良いとか悪いとか、政治の締め付けが緩い、きついとか、やっぱりそういうのにも無縁ではないからさ。
やっぱりそれが随期から遠いなったとか、その時代まで長く続いていく中で、そういう色んな変化があって、
やっぱりそういう意味では、近隣住民というか地域の中でちゃんとうまくやっていかなきゃいけない。
そういう部分もあったんじゃないかなっていうのを感じさせる話ですよね。
うんうん、これすごいと思った。
今のがまさに臨済6の冒頭に書かれたお話で、そういう意味では一番有名な話なんじゃないかっていう風にも思うんですけど、
次がね、さっき言った仏に会ったら仏を殺せの話。
はいはいはい。
これもさ、この言葉だけ聞くとギャグっぽいっていうか、ちょっとやべえ奴だなみたいな、少し言っちゃってる人なのかなみたいな感じだとは思うんですけど、
全体を通して聞くと、やっぱり切実さというか、何とか言葉で伝わらないんだけど伝えようとしてあげてるというか、
悟りとは何か
はいはいはい。
そう、何とか自分自身の感せることを表現しようとしてるなっていうところがあるんですね。
はいはい、なるほど。
適切な言葉を使ってるんじゃなくて、さっきの壇上の話もそうだけど、かなりライブ感だよね。
前から言ってた全問答のオーダーメイド感みたいな、この人だったりとかに対して適切な言葉を選んでいこうとした時の文脈流れの中で出てきたっていうところになっていくってことなのか。
そうなんだよね。
やっぱり文脈から切り離されちゃったらよくないし、自分がその時に出てくる言葉を大事にしてる感じがあるんだよね。
うーん。
ごめん、聞く前にまとめみたいな話しちゃったけど。
そんな前提を上に皆さんにぜひ聞いていただきたいんですけれども、
これもシチュエーションとしては、説法、要は自分自身のお弟子さんたちに向かって、今度は質問すぎ応答じゃなくて、まさに臨在が話したことですと。
1回目でもお伝えした通り、やっぱりあれがママのあなたが仏だとかって言うと、何もしなくていいのかなとか、
自分の外側じゃなくて内側に仏がいるんだとか、別に努力しなくても自分は完璧なんだみたいな、
全部誤解なんだけど、そういうふうに思ってしまいますよね。
そうね、ありのままでって言われるとそうなっちゃう気がするね。
実はそんなことはなくて、やっぱりちゃんとステップを踏んだ上に悟りっていうのはあるんですよと。
善語と遁語みたいな話をしたと思うんですけど、
臨在の善は遁語なので、悟る時はもちろん一瞬なんだよね。
悟るのは一瞬なんだけど、その悟るっていう瞬間に至るまでには、やっぱりいろんな修行とかステップとか、
やっぱり自分自身を高めていくような状況っていうのが必要ですと。
なのでそれを伝えるために、ありのままでさんがしたのがこんな話ですよっていうところなんだけど、
ちょっと今からお伝えしていくね。
君たちと目の前にお坊さんたちに向かって、出家者、仏の道に入った人っていうのは、とにかく修行が大事なんだと一言で言うんだよね。
臨在、私も当初は経典を読んだり、戒律を学んだりしたんだけど、
これは対処療法みたいな感じで、いわゆる何か役には立つんだけど、仏そのものになる道ではないっていうふうに分かったんだと。
だからそういう一変に勉強とやめて、善に悟る道を求めたんだよねっていう話をするんです。
これは第一回の時に言った話なんだよね。
自分の経験をちゃんと話してるんだね。
人に惑わされない学び方
その後、なんとか悟りに至って、世の中のお嬢さん、いろんなお坊さんとかがいるんだけど、
その人たちの悟りの真偽、その人が本当に悟ってるのかとか、実は悟ってないぞとかっていうのが見分けられるようになりましたよ。
これっていうのは、生まれたものできたんじゃなくて、最後の修行を重ねて身も心も洗練させたからこそ、悟る時っていうのは、はっと一瞬で悟ったんだよっていう話をします。
いいお師匠さんらしい話なんだけど、ここからは仏を殺せっていうのが出てくる話で、
だから、まともな学びを得ようとするなら、人に惑わされちゃいけないよと。
うちにおいても外においても、出会ったものはすぐに殺せと。
仏に会ったら仏を殺せ。
お釈迦様に会ったらお釈迦様を殺して、
ラカン、悟った人に出会ったら悟った人を殺して、
父母、お父さんお母さんに出会ったら父母を殺して、親戚に会ったら親戚を殺して、
そうして初めて、下脱することができ、かつ何者にも束縛されない、自在につけ抜けた生き方ができるのだ。
という風に言いますね。
なので、仏に会ったら仏を殺せっていうのは、仏だけじゃなくて、お釈迦様も悟った人、ラカンも、父母、親戚も、全部そうなんだっていう話をするんだよね。
はいはいはい。
どうよ、この言葉。
え、これすごいね。
そっか、ここから聞い取ったのが、仏に会ったら仏を殺せなんだね。
そうそう。
すごいなぁ。
さっき自分の経験もありの、要はこういうことですっていう、学ぶ姿勢みたいなものを伝えてるってことなんだと思うんだけど、
これはすごいしな、これ誰だろうな、ちょっと無理矢理かもしれないけど、この前のサルトルの実存主義から構造主義、ポスト構造主義あたりの感覚とちょっと重なる部分があったよね。
うんうんうん。
っていうのは、やっぱり人に惑わされちゃいけない。
うちにおいても外においてもっていうのは、例えば自分が思ったこと、自分が考えたこと、と思ったことだったりとか、外で誰かに聞いたこととか見たこと、教えてもらったこと。
全てにおいて、それを殺せっていうすごい強い表現を使ってるんだけれども、やっぱりそういった自分がパッと閃いたと思ったことだったりとか、人に教わったことだったりとかっていうものを、ある意味全て疑えたんですよね。
あるがままに、実存主義的な話でいうと、やっぱりそれを色がつかない状態でちゃんと見ましょうと。それはもう自分の中で生まれたものも外にあるものも全部。
その上で、それを殺した上で、ゼロベースですべてのものをちゃんと作っていきましょうね、みたいな感じで理解したとすると。
なんか初めて下脱っていうものが、自分で実存主義的な考え方とはもちろん違うと思うんだけれども、ちゃんと自分で世界を作っていくだったりとか、ある意味その一元論的な、二元論じゃなくて一元論的な感覚っていうものを得るに至ることができそうだぞ、みたいな雰囲気はちょっと重なる感じがして面白いなと思ったし、
すごい力強いと思う。
そうだね、まさにね、それはたぶん臨済が言っている、何者にも削弱されない自在に突き抜けた生き方みたいな、そういう言葉になるんだと思うんだけど。
本当そうなんだよね、やっぱりその仏がいるとか、仏になろうみたいなことを思うと、自分じゃなくて仏になるみたいな感じになっちゃうんだけど、
あなたが仏だっていうのは要は、自分の外にもいないし中にもいない、要は自分の中にたどっていって、自分の中の仏性を探すとかっていうのは既にそれは自分じゃないものにたどり着こうとしているから、それも間違いだって話なんだよね。
確かに仏は自分死んだって言われた時に、たぶん超間違いがちなところなんだろうね。
自分と世界の関係について
普通に考えると、前回から前々回にも話したけど、こんな寝たい、辛い、自分だけが得したいっていう思いを持っている自分が仏だとは一切思えないわけだよね、普通に見てたら。
仏は仏門に入るぐらいだから、やっぱり何か思いを持って、自分じゃない仏っていう素晴らしいものになりたいって思っちゃってる。やっぱりそれ自体が、謝りというか信じれない、自分を強いてしないっていうことだよっていうところと直結してくるんだよね。
すごい難しいよね、それは。
そう、難しい話。私はあくまでも臨在の善であって、第一回で言った通りそうじゃない。やっぱり自分とは違うところに本当の自分というか、そういう仏性っていうのがあるんだよっていう考え方ももちろんあるんだけど。
それが面白いね。仏教とそれもあるんだね、それも。
そういう考え方もあるって感じだよね。
はいはいはい。
なので、結構哲学的に実存主義っぽく自分をこの世界に立ち上げようっていうところと、やっぱりこの臨在の善的に自分というのがあるがままで自分であり仏だっていうところって若干ずれてると思うんだけど、
なんとなくこの問題の捉え方というか、やっぱりどういけるかっていうと、これのアプローチってちょっと似てる感じはするなって僕も思うんだよね。
そうだね。たぶんそのレベルで話したら多分テクニック的な話になっちゃうっていう意味で、駿河さんのさっきのずれっていうのはその部分なのかなって思ったんだけど、
だいぶ認識としては、やっぱりその駿河さんが言うとこの一元論的なとか二元論的なとか、
そういうところを言葉で理解するとか、少しでも感覚的に理解していこうっていうときのアプローチとしては、すごいわーって思うところがあるよね。
いろんな角度から、西洋からも東洋からも、こういうふうに言うんだ、臨在みたいなね。
そういうふうに聞くと。
面白いし、あとごめん、今ちょっと兄貴が言ってくれたから、一元論と二元論の話なんだけどさ、
前もちょっと言ってたけど、やっぱりこの一元論と二元論っていう分け方自体が二元論であるみたいな指摘をいただいたことから、
僕の中で、あんまり安易に一元論の方がいいよねみたいなこと言わないようにしようと思ってて、
はいはいはいはい。
指摘をいただいた、先生からだっけか。
はいはいはい。
哲学の勉強会をやらせていただいている先生からやったときに、
ちょっとそれを表現する言葉が今まだ自分の中にないんだけれども、
あーなるほど。
ただ確かに、一元論で自分と世界が一緒だみたいなふうに固定しちゃうのも良くないなって思っていて。
言葉で表現しきれないもの
うんうん、あれだよね、唯一無二じゃなくて不二なんだみたいな、不二みたいな感覚をどうここで当てはめるかというか、表現するかって話かな。
そうなんだよね、やっぱり世の中不二じゃんって、不二を当たり前に使うのもちょっと違う気がしてるから、
ちょっとそこはまだ言葉とかこういうことじゃなかったら、見つかったらまた使っていきたいとは思うんですけど。
確かにね、世の中不二だよね、そうだよねって言いながら、そのそうだよねって返しは全問答いたらぶん殴られてもいいかもしれない回答だもんね、たぶんね。
そうそうそうそう、何を言ってるんだ、わかってるのかって言われちゃう、胸ぐらつかまれちゃうから、たぶん。
うんうんうん。
そうそうそう、そこはやっぱりこうね、慎重にというか、関わりはあるなと思いつつ、やっぱり安易に一緒だよねとも言えないみたいなところをね、やっぱりこのストレスラジオを大事にしていきたいとは思ってるんですけど。
はいはいはい。
なのでちょっと改めて雑面の話をすると、やっぱり仏っていうのは対象化できない、要は言葉で表現できないっていうのはやっぱり外にあって差し詰めることができないっていうこととイコールかなとは思っていて、
西洋的に言うと認識対象にならないってことだよね。
はいはいはい、なるほど。
なので、やっぱり自分の内側にも自分の外側においても、そういうふうに仏っていうのを立てちゃダメだってことが重要だし、
あれも仏だけじゃなくて、ありとあらゆるそれこそお釈迦様であれ、親兄弟であれ、親類であれ、やっぱりこの外から自分を相対化するというか、定義しようとする存在。
そういうのをある種乗り越えなさいよって話だと思うんだよね。
やっぱりそこまでして初めてありのままの自分が見えてくるし、まさにその自由に生きられる。
でもその自由っていうのは脳本とした自由っていうよりは、まさにこの自分がその自分のままとして生きるっていう、割と切実なというかさ、
そこにちゃんと生きる責任もあるよねみたいな、結構そういう厳しい世界の中での自由。
やっぱり出てくるんじゃないかなというような感じですね。
自己責任と物事の理解
なるほど、確かに悟ったつもりで、さっき隣在がやった知事さんとか偉い人呼んでやるパフォーマンス、あれミスって殺されるとかさ、ミスって自分の名誉というか評判が下がる可能性もあるみたいな話だもんね。
それも自由だもんね、ある意味ね。
そういうことだよね、やっぱりその責任が伴ってるよっていうね。
そうそうそう。
そういうような形で、ちょっと副音声的な話も加えつつ、2つの説法をご紹介してきたんですけれども今日は。
ここまで話してるとさ、隣在さんやっぱりすげーってなるし、なんかこう、とはいえ意外とわかるなみたいな感じしてきてないですか?どうですか?
そうそうそう、だから弟子みたいな立場になったらさ、とりあえず何か言われたら心から、心を込めて礼しとけばいいじゃんみたいな。
ありがてえ、このことはきっと深い意味があるんだろう、ありがてえって言って、わかってないけど深く礼しちゃうみたいなね。
はいはいはい。
そういうさっきハヤトが推しみたいなさ、推し勝つみたいな話をしたけど、そういうちょっとやっぱり崇拝とか、やっぱりその道を極めるとか求めるじゃなくて、ちょっと崇拝みたいになっちゃうんだなっていう感覚が、今ハヤトの話を聞いてなんかわかった気がする。
何かを崇拝しちゃうみたいなの、危うさ、すぐにしちゃうわ。
あと兄貴はさ、30代後半男子にあらざる弱さを持ってるよね。
いやそれは、それはどうなの、それはね。
年齢差別しちゃってる?
良くないことだと思ってる、それはね。
違う違う違う、なんか褒めてないよね、それはね。
いや褒めてる、いやすごいことだと思うんだよ、やっぱりそんだけさ、ちゃんと一個一個の教えすげえって思われてすごくなると思うんだけどさ。
でもやっぱり本当にそれでいいんですかっていうのは、僕は問いかけたいわけよ。
やっぱりこのたかだかの1時間2時間話したぐらいで、臨済さんとか善の話がわかったつもりになっちゃっていいんですかと。
そんな崇拝してね、押し勝ちしちゃっていいんですかって思うわけですよ。
そうだね、押し勝ちは自由だけれども、ちゃんと物事を理解していくっていう意味ではちょっと崇拝に行っちゃったらダメだよねっていう。
そうそうそうそう。
それちゃうよねっていう。
奥深い善の世界
確かに。
それも確かに。
臨済さんもそんなことでやっぱりダメだぞって自分しか頼るものがないってさっき言ったじゃないかってやっぱり言われてしまうと思うんですよ。
はいはい。
なので次回第4回なんですけど、やっぱり臨済さんも他の人にやり込められる話っていうのがあるんですよ。
悟ってから?
悟ってから。
それは面白そう。
なのでやっぱり臨済さんも完璧ではないよっていう話と、あとは本当に今ちょっと全然意味がわからない問答っていうか、何言ってんだこれみたいなやり取りっていうのがやっぱりそれはそれであって。
そういうのも1,2個お伝えしたいなと思っておりますと。
なるほどなるほど。お前らまだまだだぞと。
まだまだだぞと。
これは僕自身の次回も含めてやっぱりわかった気になってんじゃねえぞと。お前は解説してちょっと臨済、お前は臨済かっていう感じで話してるけれども、そんなことないんだぞと。
確かにね。
善の世界っていうのはもっともっと奥深いものだし、そんな中々ちょっと本数冊読んだぐらいではわかんないぞと。
ヘイトが悟った側から話してるように聞こえちゃうし、自分が結構悟りとは何かをわかったような感じで臨済すげえみたいな話しちゃってるけども、そんな簡単な話じゃないんだぞと。
なんかそうなっちゃうじゃん。僕も臨済はこう言っててとか悟りってのはこうだって焼け殻的に言ってはいるけど、何回でも言いますけど僕は悟ってないし、別に哲学も本格的にやってる人じゃないから、素人なのよセミでは。
素人的に言ってますよっていうのは自分の中でもちゃんと言っておかないと変なことになっちゃうから。
確かにね。今日の初めもさっき悟りがゴールじゃないよって言ってるのに、ちょっとゴールしちゃったつもりになるもんね。
そうそうそうそう。なんかわかった風なことになっちゃうわけじゃん。
真摯にスタートなんだっていうのを思い続ける大変さってことだよね。それを謙虚と言うのか、それが普通なのかわかんないけれども。
悟りや目的地についての考察
最後に雑談っぽく長くしたってあれなんだけどさ、やっぱり学べば学ぶほどゴールはないなっていうことを気づくんだよね。
悟ったの?
え?
悟ったの?
悟ったわけじゃないんだけど、目的地はあるんだけど、悟りとか仏とか絶対的なものみたいなさ、そこには辿り着けないんだなって思う。
たかだか人生で80年とか100年くらいでは。それは求めずにはいられないんだみたいな話を最近、伊津栃彦さんの本とかを改めて読んで感じるところがありまして。
はいはい、なるほど。
ちょっとそんな話も雑談でまたしようかなとは思ってるんですけど。
はいはい、じゃあ次回はちょっと学んだつもりになるんじゃないよというところでね。楽しみだな。でも悟ってもいいくるめられちゃうみたいなのは。
ちょっとその悟りとは何かっていうところにひとつ素人目線で、悟りってさ、完璧当時になるみたいなイメージがあったんだけど、その深みというか別の視点があって面白そうだなって。
なので逆にこの2回3回でこれだけの話をしたからこそ面白さも伝わるかなと思うので。
次回はそんな感じで、また少しわからんみたいな。世界を皆さんと楽しみたい、味わいたいなと思いますので。
またぜひ次回も楽しみにしていただきたいなというところでございました。
はい、そういったわけで引き続き現在お楽しみということで、次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。