1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #213 【番外編】ブッダの言葉..
2024-05-12 55:35

#213 【番外編】ブッダの言葉とエピソードを楽しむ『仏教百話』

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「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。

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00:12
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回は、けごん教が終わったということですけれども、今回も仏教のエピソードをやっていくというところでした。
そうですね、はい。
で、その前に、今回からちょっとBGMがですね、変わってまして。
前回言ってた、ちょっと使えなくなっちゃったみたいなやつ。
そうそう、何回か前の雑談会とかで話してたと思うんですけど、
スポティファイフォーポッドキャスターズかな、の仕様変更ということで、
それについてBGMが使えなくなっちゃったので、今回からちょっと自分で付けなきゃいけないというところで、たぶん変わってます。
はい、ちょっとね、僕も、もちろん収録地はBGMないんであれですけど、雰囲気とか聞いてみたいなと。
そうですね、ちょっとこれで慣れていくのか、他の絵変わっていくのかというのを自分でも聞きながらやっていきたいなと思います。
お願いします。編集の方は兄貴任せなんで。お願いします。
今回ですね、前回までけごん教についてワーッと喋ってきたんですけれども、けっこうけごん教の面白さ自体はお伝えできたかなとは思いつつ、
けっこう仏教の中でも最高峰だよみたいな、けっこうそういうふうなことを僕も言っていましたかなって思うんですよ。
うん、言ってた言ってた。
言ってましたよね。それはそれで間違ってないし、字とかさ、理とかさ、
あと北海っていう言葉も使われるところによっていろんな意味がありますみたいな話をしたと思うんですけど、
そういうふうなことだからこそ豊かな思想というか、奥深さがあるよっていうことは正しいかなと思う一方で、
逆に仏教がそういうちょっと難しいことがいいものだみたいになると、ちょっとそれは違うなって思ったんですよね、話しながら。
なるほど、あんま崇高な方に持ってってありがたいやっていうのも違うしっていうね。
そうそうそう、途中でね、けっこう精舎というか強者か、やっぱ強い人とか、自分で信じて勉強したりとか深められる人の仏教が傑言教だよみたいな話をしたと思うんですけれども。
まあそういうあんま広まんなかったというかね、広いづらかったなと。
でもやっぱり仏教ってね、そもそもブッダが始めたところでいくとそもそも宗教ですらまだなくて、
単純にブッダ個人の生きてるのもしんどいとか、置いていくし、亡くなっていくし、別れると苦しいし、でもそれを何とかしたいみたいなところから始まったものが仏教だったりもするので、
03:07
本来的にはもっと身近なものというか、やっぱ誰にでも手が届くものだと思うんですよね。
なので、ちょっとそういう中和するというか、バランスを取るという意味でも、ちょっと一回西洋に行く前に、もう少し素朴なね、ブッダ自身がこんなことを語ってたんだよとか、
仏教ってある種難しくないよねみたいな、そういう話をちょっと一回挟みたいなというふうに思ったんですよ。
なるほど。じゃあ今回は華厳教っていうよりは、もうちょっと広くというか、それこそブッダの話した言葉みたいな、また違った、仏教の中でも違った話ってことね、今回は。
その通りです、その通り。同じ仏教という風にではあるんだけれども、やっぱ全然違うよねとか、
別に仏教ってもっと親しみやすいものだよねっていうところで、自分の好きな仏教っていうものがちゃんと伝わるというか、ちゃんとお届けできるんじゃないかなと思って、ちょっと一回挟ませてくださいよというふうな感じです。
やろうと思ったのも、実はちょうどいい本が手に入ってたんですよ。なんかそれがね、仏教100話っていう本で、100話は本当に100個の話で、
これはもともと1962年に出た本らしいんですけど、これがちくまの文庫で新しく出ていて、新しく出てもこれ1985年か、第1釣りが。
古いね、新しくなかったね。2023年に22釣り版が出てて、だからすごいロングセラーですね。
っていうのが出てるんですけど、これはね、いわゆる初期の経典というか、経典になる前っていうか、本当にブッダがこんなことを話しましたよっていうのをちゃんとまとめましたみたいなことらしいんですよ。
スッパニパータよりもよりリアルみたいな感じなのかな?
スッパニパータよりはちょっと後だと思う。スッパニパータはブッダ会の時にやったらもう本当にブッダがこういうことを言いましたよっていう、本当初期の初期のやつなんですけど、
そこからもうちょっと後に、ブッダが亡くなった後にね、ブッダの言ったことをちゃんとまとめなきゃいけないみたいな感じで、500人ぐらいの放送というか、お弟子さんたちが集まって、けんけんガクガク話しながらまとめたみたいに言われてる本があるんですよね。
それもいくつかあるんだけど、そこから引っ張ってきて、いろんなエピソードっていうのを100個にまとめましたよみたいなのがこの本ですよと。
じゃあ創作とかってかなり言われのあるというか、そういうやつなんだ。ちゃんと当時のブッダの弟子だったり、孫弟子みたいな人たちが、もしくはもっと弟子みたいな人たちが集まって、そんなこと言ってたらしいぞみたいな話を集めてる。
06:20
やっぱり大乗仏教の、それこそ前回やったけごん教とかほけ教みたいなものっていうのは、やっぱりブッダはこう言ったって書かれてはいるものの、本当はそんなことは基本言ってないぜみたいな。
よく前もちょっと言うと大乗卑物論っていう、要は大乗仏教は仏教ではないみたいなふうに言われることもあるんですよね。
そういう意味で言うと、別にブッダってそんな超人的な力があるわけでもないし、別に無数の仏様に囲まれてめっちゃ光輝いたってことも、たぶんないんだけど現実的には。
でも、そういう中での素朴なブッダの言葉とか、実際こういうことをブッダは教えてくれたんだよみたいなことがあるので。
ある種、変にブッキョウっていう宗教的な教えっていうことじゃなくて、ある種のブッダが言ったことみたいな、ブッキョウって仏の教えじゃないですか。
なんで仏っていわゆるブッダが説いたことっていうふうに捉えると、変に信じ切るとか逆に遠ざけるみたいな、そんなものは触れちゃダメだっていうこともなく、フラットに、
あ、ブッダって人はこんなことを言ってたんだなっていうことを味わうというか、受け取ればいいんじゃないかななんて思っているんですよと。
なるほどなるほど。まあ確かに平言教みたいにどんなに真っ直ぐだったりとか難しそう、実際すごいことを言ってるんだけども難しいと言われても、
原点はこの辺なんですよっていう、戻ってくる場所みたいな感じではあるんだろうね。
そうなんですよね。やっぱり素朴に味わおうねっていう感じで、今日はある種気軽に聞いていただければとは思っているんですけれども、
この本自体は仏教100話って言われるぐらいなんで、100個近い話が載ってるんですけど、そこからちょっと3つぐらいピックアップをしてみましたよと。
実際に後から客食とかね、いろいろ加わってるものがあるとは思うんですけれども、
そういうのも含めてこんな会話とかエピソードがあったよっていうのをお伝えしていきたいと思っていますよ。
3つぐらいテーマというか、例えば1個目は演技についてなんだけど、演技について仏陀自身がこう言ってましたよっていうようなことが伝わってるみたいな話をお届けしていくんですけど、
すごいシンプルなエピソードなんですよね。なので本当にさらっとお伝えしていこうとは思っているんだけれども、
09:04
じゃあまず早速1つ目ね。基本的に仏陀は各地を回りながら仏教活動をしていて、弟子たちに日々教えを説くみたいなことをしてたって言われてるんですけれども、
ある日ね、今日は演技っていうことと、演章っていう、演は語演の演ね。章は生まれる。演によって生じるとか演によって生まれるっていうことについて説くから、よく聞いて考えなさいっていうようなことを言い出します。
だから本当は仏陀の中では演技と演章っていうのは一緒というかセットなんだよね。僕も演章って言葉あんま聞いたことなかったし、皆さんも聞いてないと思うんですけど、
それを仏陀自身が説明してくれますよと。演技っていうのはどういうことかっていうと、例えば生きるね。生きるがあるから老いたり死ぬ、老死があるというふうに言いますよと。
このことは、私が言おうといまいと決まったことであると。存在の法則として定まっていることなんだよと。その内容っていうのは、相違相っていうのはちょっとわかりにくくて、いわゆる関係性ぐらいの関係性なんである。
それを私は悟ったのだっていうふうに語るんだよね。これで終わりなんだけど。
まあ、そうですよねーっていう。そういうもんかなーっていう。
だから、すごいシンプルじゃない?別に難しいことは何も言ってないですよと。
そうはね。これで母とはちょっとならないかな。
でも、これでいいっていうか、これが仏陀ってことなんだよね。要は、生まれたものは老いたり死んだりするし、それっていうのは別に自分が言おうといまいと関係ないんだよね。
っていうのが、仏陀が悟った最も重要なことが実はこれなんですよと。
演技っていうのは自分が悟ったことなんだけど、これで十分なんだよね。
何かっていうと、要は、存在がある。
僕らが生きているとか、別にお花でも何でもいいんだけど、ある限り、存在の法則として演技っていう、要は関係性っていうものがありますよと。
で、それが何であるんだとか、それってどういう働きによって生じるのかとかって、もう考えてもしょうがないし、
12:01
それを考えたところで、別に苦しみは消えないんだよね。
なぜ人は老いて死ぬのかとか、なぜ人が生まれるということが起きるのかとかって、考えてもしょうがないよと。そういうもんだからと。
ただその法則を理解して、それに基づいて生きるんだよっていうのが、仏陀が伝えるとしていることなんだよね。
ほうほうほうほう。なるほど。まあ、むずいよね。でもね、確かにこれで悟りましたっていう人はだいぶもう、悟りに近づいている人ではあるだろうし。
そうね。
なるほど。
そう。これ自体が悟らせるための、尊い教えだったことだっていうことじゃなくて、ただただ日々仏陀はこういうことを言ってただろうって話なんだよね。
はいはい。全問道とかではすらもなく、仏陀が本当に悟った人視点から物事を喋るとこういうふうに、悟った人代表としての仏陀を表現してたんだよね。
あ、そうそうそう。そうなんです、そうなんです。
まあ、レシミカは教えではあるんだけれども、もう全問道とかみたいに導くというよりは、もうこういうふうに表現、素朴に表現するとこうなるんだよっていう。
そうそうそうそう。
一番ピュアな話だということだね。
まさにピュアな話で、いわゆる仏陀が祭りに挙げられて、高いところからみんなに賢まって、お前ら聞きなさいみたいなことじゃなくて、
本当に一緒に修行してる中で、じゃあ今日は自分が考えたことを教えてあげるねっていうような感じのやっぱり素朴さというか、
すごく父臭いって言ったらいいんだけど、いい意味で生活に根付いた教え?みたいな感じをすごく僕は感じたんだよね。
これが演技についての話で、次に炎症についてなんだけど、こんなふうに説明していきますよと。
炎症っていうのは例えば老後死、さっき言った老いたり死んだりすることね。
ということで要は条件があって生じてくるものですよと。
これは生まれるっていう条件ね。
なので条件をなくすことによって、老死、老いたり死んだりするってことをまたなくすことができるんですよと。
これはさっき言った通り、要は生まれるから老いたり死んだりするっていうのが存在の法則である演技だったじゃないですか。
逆に言うと、生まれるっていう条件をなくせば、老後死もまたなくなるっていうのが炎症っていう考え方なんだよね。
だから演技と炎症ってのはセットというか、ある種同じ物事を逆の方向から見てるっていう話なんだけど、
15:01
ブッダが悟った真理っていうのは、実はこれ以上でもこれ以下でもないんだよね。
なるほど。ちょっと空間があるよね。
空間はあるけど、そこにはまだ空とか有識っていうものは言葉としてとか概念としてはなくて、
ただただ生まれたら死ぬから死なないっていうことを目指す。
死ぬ苦しみが逃れるためには生まれないっていうことを目指すんだっていう。
それだけなんだよね。
なるほど。
これを逆に難しいととるか、シンプルでわかりやすいととるかっていうのは人によると思う。
あるいは、物足りないもっと説明してくれというか、それで全て十分だととるかみたいなね。
これ難しいよね。これで十分だって言っちゃうと、ケゴン教よりもより恐ろしい話になりそうだけどね。
本当に?どんな感覚?
ケゴン教と同じような圧力を感じるよね。
なるほどね。
これでわかるよ、これでわかりました、ありがとうというレベルに達してる人は、やばいよね。
あんまり信じすぎて。ケゴン教のジジムゲホッカイがどうでこうでとか、ジジムゲホッカイがどうでこうで、
わかりました、ははーっていうより、演技ってものがあって、生まれてくるから死ぬんだよ、ははーっていうほうがやばくない?
まあね、まあね。
それこそ1を聞いて10を知るみたいなところはあるよね。
いや10を知りすぎてるじゃん、もう。
それでケゴン教は100を教えてもらって、何とか1000に達するみたいな感じだけど、
やっぱこの01の人が言ってるこの0と1の間の部分を聞いて、
ああ1から10かーみたいな話って、たぶんそれよりやばいので、
確かに確かに。
やっぱそういう意味でやっぱその、屋つかんだったりとかする交差みたいな、
やっぱあの、深刻化したくなるその、やばさみたいなオーラは感じるよね。一方で。ピュアな一方で。
それはあるかもしれない。
逆に、なんだろうこう、簡単には、言葉としてはさ、みんなにわかるように言えば教えてくれるわけよね。
言葉だけで聞くと。やっぱその教えというかその奥にある、なんだろうな、世界観とかやっぱりその、
ブッダの捉え方?世界の捉え方っていうのは、やっぱりこう簡単にはいかないなっていう感じも確かにあるよね、この言葉だけで聞くと。
そうはね、言葉だけで聞くと。だから、もしかすると例えば当時のバラモン教とかやってた人だったりとか、
その先だよね、ある程度苦慮を、自分の身を持ってこう、何かサトウニだったりとか、何かを得ようとして、
18:10
到達しようとして苦慮だったり狩猟してる人からすると、その人が聞くときはパッと何かこう、
100人1人ぐらいは、もう、あ、これか!っていう人がいたのかもしれない。
はいはいはい、確かにね。
この人の努力とかフェーズによってね。まさにね、そういうのがあって、
本当に兄貴が今いいパスを出してくれたんですけど、次にまさにそういう下達とか悟りってことについて見ていくんだけど、
そこに対して、いわゆるバラモン教、というか異教徒とやり取りをするっていう場面も実は入ってたりするんですよ。
ブッダが異教徒とやり取りをする。
そう、異教徒とやり取りをするっていう。
もちろん、いわゆる悟りとか輪廻みたいな言葉っていうのは、いわゆるブッダが出てくる前のバラモン教とか、
今ではヒンドゥー教でも十分に説かれた教えなんですよね。いわゆる輪廻転生的な。
はいはい、なんか一回あれだよね、それ手綱上でも古代インド哲学みたいな、
そんなんでやっぱりあったりするよね。
ウパニシャットはうんうん、みたいな。
あったね、ウパニシャットあったね、その辺の話。
そうそう、その辺の話です。
同じ下達とか悟りってことに関しても、やっぱりブッダは当時、
当時って言っても2500年前とかなんで、その感覚からすると、結構先進的というか、一風変わった見方をしてたんですよね。
なのでそのやりとりを見ていきたいと思うんですけれども、
ある日ね、ブッダの元を当時異教徒、仏教徒以外の人が訪れて、
下達ってなんぼのもんじゃい?みたいなことを尋ねてきたんだよね。
ある種お前のことちょっと試してやろうって思ったかもしれないんだけど。
ブッダさんの教えでは、下達したものってどこに赴いて生まれるんですか?というふうに尋ねるんだよね。
それに対してブッダは、赴き生まれるみたいなことじゃないんだよ、と。
そういう考え方は私の中にはないんです、というふうに答えるんだよね。
やっぱりちょっと理解もできないので、異教徒の人がまた尋ねますよ。
じゃあどこにも行かないということなんですか?というふうに尋ねると、
ブッダはね、行くとか行かないとか考えるのが既に適切じゃないんですよ、というふうに言うんだよね。
これと一応やりとりになってるけれども、答えてるようでは答えてないというかさ、
やっぱりさっきの通り、いわゆる尋ねてくれた人の理解を深めることにはなってないんですよね。
そうね、煙に巻かれてる感じがするよね。
21:03
なのでブッダは例え話をもとに、理解を深めるようにディスカッションをしてあげるんですよ。
おー優しい。
ちゃんと対話をしてるんですけど、
じゃあもし今あなたの目の前で火が燃えているとしたら、それをどういうふうに言いますか?というふうに言うんだよね。
ちょっとみなさんも想像してほしいんですけど、
兄貴はなんて言いますか?
火が燃えている。
そうそう、まさにそうなんです。
そう言ったら、まさにその異教徒の人も、それは火が燃えているというだけです、というふうに言うんだよね。
その通りですと。
その火はなぜ燃えているのかと問われたらどうですか?というふうに聞くんだよね。
ほー。
じゃあどう答える?
なるほど。
例えば、焚き火のために落ち葉を集めて木を集めて火をつけましたとかね。
なるほどね。
それは、ちょっとここで今、アリストレレス的に言うと、原因っていくつかありますよね。
目的、今兄貴は焚き火のためって言ったけど、それは目的だし、
例えば、あとは、名前忘れちゃったけど、この異教徒の人は、それは焚き火があるから燃えてるんですね、というふうに言ったんだよね。
ああ、木があるから燃えたんだと。
木があるからだというふうに、今は目的じゃなくて、まさに条件みたいな話。
火っていうのは、焚き火っていうものがある種、燃えるということによって火が出ますと答えます。
で、仏陀さんも、まあそうですよね。
じゃあ、やがてね、焚き火の火が消えたとしたらどんなふうに言いますかと。
うん、火が消えた。
はい、だよね、それだけですよね。
で、まさに異教徒の人もそういうふうに言って、じゃあ、ここで仏陀さんが聞くわけですよ。
じゃあね、その火は消えてどこへ行ってしまったんですかって言われたらどうですかと。
どこにも行ってない。
そうだよね、どこにも行ってないよね。
行ってないってね、消えたけどどこかに行ったわけではないね。
そうそうそうなんですよ。
異教徒の人も、それは、これがおかしいと。
火は焚き火があったから燃えていたっていうだけで、かつそれが尽きたから消えてしまったっていうだけで、
別に火がどっか行ったわけじゃないですよね。
っていうふうに言うんだけれども、ここまででやっぱりこのやりとりが、いわゆる仏陀からすると、それがまさに偽脱の話だっていうことなんですよ。
わー、はいはいはいはい。
で、皆さんもお分かりの通り、要は火と焚き火っていうのはさっきの話で言うと、まさに縁起と縁生の関係にあるんだよね。
24:07
要は、焚き火があるから火が燃える。あるからというかね。
っていうふうなのが縁起の関係で、やっぱり焚き火を離れて火っていうものそのものがあるわけじゃないし。
で、火を消すにはもちろんいろんなやり方があるんだけれども、一番わかりやすいのが焚き火っていうものをなくせば良いという話なんで、
これは縁起っていう時にそれと同じで、まさに偽脱っていうのは、自分がどっか別の存在になってどっか行っちゃうとかそういうことなんじゃなくて、
ただ煩悩の火に焼かれている自分っていうのが、その原因が執着。要は、いわゆる誰かを大事だと思うとそこに執着が生まれて、
その人を失う苦しみがある。これが愛別離婚って話なんだけど。
そういうふうな執着っていうのは離れて断ち切っちゃうと、煩悩ってものがないから苦しみはないわけなんだよね。
要はこれが偽脱なんだと。
だから偽脱っていうのは、さっきの火みたいな話で、自分が煩悩の炎で燃えてるから、
いわゆる焚き火だよね。その焚き火をなくせばなくなるっていうものの話で、別に偽脱したからどっか行くとかってことじゃないんだよ。
ただ煩悩に囚われない、焚き火がない状態のことを言ってて、これが涅槃なんだと。
っていうふうな話をするんだよね。
わっ、だいぶ分かりやすい。
分かりやすいでしょ。
一緒なんですよ。
僕らの感覚では、涅槃とかって聞いちゃうと、やっぱり偽脱って言っちゃうと、
要は浄土みたいなものがあって、そこに行くとかさ。
天国みたいなところで、すごく素敵なところで楽しく飲み会しながら、音楽とか花があるところで生きていくとかって言っちゃうんだけど、
ブッダの下脱とか涅槃は、そういうことじゃ全然ないんだよね。
天国、地獄とかいう話も全然してないんだね。
ただ、今その人の在り方、自分の在り方として、煩悩に囚われないとか、
それを断ち切って、いわゆる苦しみとか悲しみとかっていうものから離れている。
つまり、本当にこの身このままで下脱し、涅槃という状態に至る。
至るっていうのは別に涅槃という場所に行くんじゃなくて、
自分の存在の在り方、存在の法則性としての在り方が、涅槃としての状態にあるっていうのが、ブッダが言ってたことなんだよね。
わー、全部言ってくれてんじゃん、ブッダ。当たり前だよね、でも。
思うでしょ。だから、やっぱりブッダの教えから仏教は生まれてたのは間違いないんだけど、
27:02
ここまで、逆に分かりやすく言われちゃうと、逆に分かりにくいみたいなことがあるから、
やっぱりいろんな人たちが手を返しなおかえ、空打とか優衣式だとか、華厳打とかっていういろんな、あるいは浄土だとか、
阿弥陀仏家とかっていろんなことが出て、やっぱり仏教というものが広がっていったんですよっていうような話なんだよね。
なるほどね、確かに確かに。
ブッダの例え話みたいなものじゃなくて、そのブッダのこの例え話だったり、下脱っていうものがある意味自然法則だとすれば、
もしブッダはそういうレベルで多分、話をしてるよね、もう縁起であるっていう。
ただその縁起っていう自然法則を、ある意味、自然科学的に解明しようとすると
華厳教みたいな、まず字があってですね、義があって、これがこうするとこうなるっていうふうにやっぱりしないと、
っていう人間の欲求があるだろう、それじゃないとわからないっていうのもあるだろうし、一般化もできないっていうね。
あとやっぱり社会の要請とかもあると思っていて、やっぱり全員がこうなっちゃうともう自分は自分で社会はいらないみたいなさ、
別に自分のこうある種、違反の状態をたどり着ければいいって話なんだけど、やっぱりその社会性を持って国として生きていくってなると、
やっぱりこの社会的な意義とか、やっぱりそこと自分と社会の接続とかっていうことがやっぱり大事になってくるから、
やっぱりそういう中で仏教というもの自体が変わっていくとか、他の宗教が盛り上がっているときに仏教も変わらなきゃっていうのが出てくるっていうのはあると思うんだよね。
なるほど。確かに大乗仏教が生まれた理由みたいなのに近いのかもね。
言ったら誘導してないんだろうけれども、これをパッと聞いた人はどっちかというと虚無主義方向に行きやすくなる気がするもんね。
まあ、やっぱり社会が大事とはならないよね、やっぱりね。
どうなんだろうね。大事だよ、その辺。どう言ってるんだろうねって、こういう話が出てくると気になっちゃうね。
おお、なんかさっき台本読み込んだ3回ぐらい。
読んでないけど、今。むしろ見ないで聞いてるけど。
そうだよね。まさに実はね、次3番目に出そうと思ったのが、無我っていう、我がないって話なんだよね。
仏教はやっぱり無っていうものにすごいよく話すというか、やっぱり無情とかそういうものを含めて無っていうものを扱える宗教、教えではあるんですよ。
なので、さっき兄貴が虚無主義とかって言ってくれたけれども、虚無ではないけどやっぱり無いとか無っていうものについて、すごくいろんなことを言ってるんですよね。
30:11
へー、そうなんだ。
だから、所行無常、所法無我っていうふうな感じで言われたりするんだけれども、
無我っていうのは、文字通り我はない。我っていうのは我だから。
っていうふうに言っちゃうと、さっきの話で、そういうことは自分自身も何もないとか、自分自身を捨て去ってしまうとかね。
そんなものはないんだっていうふうになって捉えられがちなんですけれども、
実は仏陀はそんなことは一切言ってなかったりするんだよね。
まさにさっきの話だ。
結構自分もむしろそう思っちゃってたんだよね。要は無我っていうのは我がないってことだから、我をなくすっていうことが大事だみたいに思ったんだけど、そうじゃないんだよというふうな話があって。
やっぱりそういう人って昔からいたんだろうというところで、仏陀の弟子の話が実は100話の中にも収録されていて、
仏陀がこう言ったじゃなくて、仏陀の弟子がこんなことをしてましたよっていうエピソードがあるんで、
それが結構手助けになると思うんで、お届けしていきたいなというふうに思っていますよ。
ちなみにごめんちょっと待ってね。何ページだったかな。
これでいいかな。
いいよ、調べて。
いいよいいよ、オッケー。
話してから、ちなみに仏陀だったらっていうわ。
ちょっともっとしたら話すね。
どんなお弟子さんのエピソードかっていうと、その人の名前がケーマっていう人らしいんだけど、
ケーマさんっていうお弟子さんが重い病気になったんだって。
休んでて周りのお弟子さんたちも看護してくれてるんだけど、周りの人たちからも、
どうだが我慢できるか苦しくないかって言われるんだよね。
なんかこれ仏教なんだろうな、ジョークみたいな感じなんだけど、
ケーマさんがね、いやもうちょっと苦しくて我慢できないっすって言うと、
いやいやと、仏陀は無我の教えを説いたじゃないかと。
要は苦しみが我っていうものに囚われてるから起きるわけだから、
無我の教えに至ったら苦しいはずはないよねみたいな。
33:02
そういうことは病人に対してちょっと言う感じなんだよね。
仏教ジョークなんだね。
さっきの火の話で言うと、火が苦しみだとすると、やっぱりその元である我はないんだからみたいな。
苦しくもないだろう、苦しくもないだろうと。
火も起きないだろうと。
そんな感じ。まさにいわゆる神道を滅却すれば火もまた涼しいみたいな感じなんだけど。
そっちが根性論っぽいけど。
根性論っぽいけど確かに。
でもそういう苦しみを感じる自分我っていうのはいないから、苦しくもないだろうみたいな、
ちょっと励ましなんだかなんだかそういうことを言ったわけなんですよね。
そしたら啓磨さんは何て言ったかっていうと、
私はやっぱり我がっていうのはあると思うんだよねって答えたんだよね。
そしたらやっぱりある種、病人とはいえ仏陀の教えを否定するようなことを言っちゃったわけよ、啓磨さんがね。
結構慌てちゃって、結構仏義を醸しますと。
で、わらわら集まってきて、病人の啓磨さんも苦しいって言ってきたんだけど、
その人においちょっとどういうことなんだそれって詰め込むんだよね。
いやそっと教えてあげてよって思うんだけども、
まさに啓磨さんがちゃんと答えてあげますよね。
私が我があるって言ったのは、
肉体が我だっていうとか、感覚とか意識とか、
それらを離れて我っていうものがあるっていうことを言いたいんじゃないんだと。
それは花の香りのようなものであって、
例えば一輪のお花を想像してほしいんですけれども、
花の香りがどこにあるかっていうと、花びらに香りがあるっていうのは正しくないし、
茎とかおしべとかにあるっていうのも違うでしょと。
ただ花に香りがあるとしか言わなきゃいけないよねと。
それと同じ感じで、肉体ね、自分の体とか感覚とか、
それの別に、離れたところに自分の本体としての我があるっていうふうには言えないんだけれども、
それらの統一体、それらが統合されたものとして、
肉体があるっていうふうには我があるっていうふうに言えるんじゃありませんかっていうふうに言うんだよね。
そこに周囲の人たちは納得しましたよっていうふうな話なんだけれども、
どうでしょうと、説得力ありましたかねっていうふうな話なんだよね。
そうなんだ、周りはこれで納得したんだ。
納得したっていうふうに書いてます。
どう今の話を聞いて、他の例え話をしてくれたんだけれども。
いや分かんない。無我とまた多分違う話してんじゃないのって思ってたけどね。
36:04
あー、なるほどね。
ある、なし、どうなんだろうな。
でもさっきの要は、そんな苦しいなんておかしいよと。
要は無我なんだから、苦しんでいる我って思わなければ苦しいもないでしょっていうふうなところなんだよね、周りの人から。
あー、論点はね、今回の。
なるほどなるほど。
あー、難しいね、確かに確かに。
そういう意味では、苦しみっていうものだったりとか、自分の感覚みたいなものを、
そのブッダの言う無我と、今自分が事実として感じているこの苦しみ、痛みみたいなものを、
きちんと無条件に無我、ないでしょっていうんじゃなくて、一定、分けたみたいな意味では理解できる気がするかな。
そうそうそうね。
ある種、抽象的な無我っていう言葉とか考え方と、厳選に生きる自分の苦しさだよね。
苦しさっていうのは、まさにさっき言ったような、親しい人と離れている苦しさもあるし、
今ね、このケーマさんがかかってる病気で苦しんでるっていう苦しさもあるんだけれども、
やっぱりそれを、自分は苦しんでないとか、無我だからそんな苦しみはないっていうのはやっぱりおかしいと思うんだよね。
そっちを否定しちゃうと、全部おかしなことになっちゃうよっていうね。
それこそまさに虚無主義で、自分もない、苦しみもない、世界もないで、何もないっていう風になっちゃいますよと。
それをある種で無我っていうのだったら、すごく理性変調というか、頭でっかつな主張になっちゃうんだよね。
そうじゃなくて、苦しんでる自分もいるんだけど、それだけが自分じゃないし、
身体も心も弱ってるんだけれども、弱って重なったものとしての自分っていうのは、
別に否定はやっぱりできないよね。
そういうふうに、苦の考え方からすると、本体がないっていうだけであって、
別に自分の身体とか心もないっていうふうには言わないんだよね。
ある種の我がないっていうのも、我があるっていうのも、別にどっちでもいいっていうか、両方あるよねっていうのが、
まさに仏教的な考え方でございますよと。
なるほど。面白い。確かにそうだよね。
例えば、一切皆苦ってさ、苦があるみたいなところは認めてるわけじゃん。
苦から離れるというか、出だつるみたいなやっぱりさ、
現状の苦しさみたいなものは認めてるわけで、
それが、「はい、ありませんでしたー。」みたいな話ではないじゃん。
39:03
そんな話はしてないもんね。
さっきの火の話にしても、「火はもともとなかったのだ。」とは言ってなくて、
焚き木があることで、火っていうものは実際に目の前に生じていて、
それが燃え尽きたりとか、また木にバラッとやっちゃえば火は消えますよという意味で、
その火がないとか、今まで話してると苦しみがないみたいな話は全くしてないみたいな話なんだよね。
だからそこで、またみたいなものを、
火がないとか苦しみがないみたいな感じで、学名通り、そこそこ頭でかちに受け取っちゃうと、
かなり虚無主義的だったりとか、ブッダの思惑とは違う方向に、
出だつだったり悟りみたいなものは、ちょっと違う方向に進んじゃう。
だからちゃんと目の前の苦しみっていうものをどう捉えるか。
演技的な話を言うと、なんでそれが生じてるのかっていうところが、基本、画ではあるんだけれども、
それは、たぶんものすごく大きな話であって、
それを画だよだけで捉えられちゃうと、それも違うんだよなーっていう、たぶんブッダの思いもあるんだよね。
これ方便なんだけどっていう、上手く捉えてくれるよっていうのが伝わってくる気がするね。
そうなんだよね。難しくって、じゃあ実際どんな風にブッダを言ってますかっていう話もあるんだけど、
例えばブッダの言い方、こんなのがあるって書いてあったのが、
画処、我の所有ね、処っていうのは所有の処にあらず、
画が、これが我、我で、我自身にあらず、
画体っていうのが、体は体とか本質ね、にあらずって言って、
画処にあらず、画家にあらず、画体にあらずっていう風に表現してるのよ。
我が所有するということでもないし、我が我であるということでもないし、
我が本質としてあるということでもない、っていう風に言ってますよね。
難しいことも喋ってるね。
やっぱり否定形でしか言えないってところがあるんだよね。
あー、そうなんだ。
さっき兄貴が実は言ってくれたんだけど、
我がある、いわゆる存在する、英語で言うと exist かな、
存在するって言っちゃうと仏教っておかしいことになっちゃって、
いわゆる何々である、日本語で言うと何々であるみたいな、
英語で言うとbe動詞だよね、状態にある。
だから、火があるって言ったらおかしくて、
火が燃えているとか、火というものが生じているってことは言えるんだけれども、
42:07
火があるっていう風に言っちゃうと、一気に存在感になっちゃうんだよね。
はいはいはい、なるほど。
だからさっきも兄貴実は言ってたんだけど、苦しみがあるって言っちゃうと、
ほんとおかしくって、苦しみとして感じているとか、
苦というものとして世界を捉えているとかっていうのが、
たぶん本当の正しい言い方になってきますよと。
だからさ、それを苦しみであるとかって言っちゃうと、
またやっぱり苦しみというものはつけないとかってなっちゃうから、
苦しんだもいるし苦しんだもいないとか、
生きているし生きてもいないとかって、そういう風な諸行、
一切は空でありかつ式であり、
でもその式というのは空であるみたいな、
空則是式、式則是空みたいな、
そういう風な表現がどんどん生まれていくのは、
やっぱり仏教ならではというか、
仏教のことを言葉で表そうとすると、
そういう風な表現になっちゃうという風な話なんだよね。
なるほど、確かにその世界観をちゃんと読んだわな。
前回のケモン教はやっぱりすごいと思うんだけど、
頭で理解する、みたいな理法家的な話と、
その後の理事みたいなところっていうのは、
本当にステップ的な感じはするね。
だから面白いな。
仏陀から見ると、いわゆる火が燃えている、
竹木があって火が燃えているのを見た人が、
この火があるって言って、
火を消してやろうって言って、
その火に向かってめっちゃパンチするとかさ。
はいはいはい。
っていうような風に見えるんだろうね。
その竹にどければいいじゃんって仏陀は思うんだけど、
多くの人はその火そのものにしか見えてなくて、
竹木の存在をなんで見えてないんだろう、知らないんだろうみたいな。
だから火とかは固定に見えるけどさ、
水かければいいじゃんとか、竹にばらせばいいじゃんとかってなるんだけど、
もうその竹の存在を知らないで、
火そのものにアプローチ。
なんで知ってんの?暑いでしょ?みたいな。
そりゃ暑いでしょ?みたいな。
見えてるんだろうね、なんか。
でも本当に今の兄貴の話は本当にその通りで、
仏教の世界観からすると、
この世のあらゆる物事は火なんだよね、今の話。
だってたまたま起きてることであって、ただの現象でしかないわけだから。
その根本である、敬言経典とかの心だよね。
45:03
そこにアプローチして、心の方を整えれば、
この世界、火としての前証の世界っていうものは、
消え去って、いわゆる弱状、
涅槃弱状、落ち着いた、
何も、なんだろうな、
嫌なことないというか、いわゆる仏の世界が立ち現れますよっていうのはまさにそういうことなんだよね。
で、全部火だからっていう。
それがやっぱ難しいし、
さっきちょっと傾向の話をしたけれども、
まさにね、今言ったような、
我があるとかないとかっていう話もさ、
これが我だってものはないけれども、
身体とか心とかいろんなものとしての、
統合体としての我っていうのはあってもいいじゃんって話をしたときに、
ある種それを最大限に広げたのが、
敬言経なんだよね。
いわゆるあらゆるものが我と関係していて、
自分の身体とか精神とかってことだけじゃなくて、
この世に存在するあらゆるものが自分と関係している。
自分と、いわゆる時時無限だから、
自分と他の存在っていうものも、
もう分けて考えられないし、
向き合っていて一つのものだっていうことが、
やっぱりそこまで突き詰めていくと、
やっぱり敬言経の人になっていくんだよね。
なるほどっていうほど比較は理解してないけど、
確かに前回敬言経でやった有意識だよね。
有意識だと不十分だから、
その敬言経のほうで従順有意識ってものをやって、
その有意識の上である最後の、
ジジミレホッカ的なところだよね。
こととこと。
多分演技に近い世界。
天網無下ホッカの有意識か。
もうそっちは覚えるな。
言葉が難しすぎる。
みたいに演技みたいところまで、
きちんと説明すると、
基本的な表現になっていくみたいな。
もしくは頭でせめて理解してよっていう風になってくる。
せめてね。
それは仏の言葉で言うと、
さっきの、
画書にあらず、
画家にあらず、
画体にあらずっていう、
もうこれで全部聞いてしまうみたいな。
本当はね、
十分有意識みたいなものも、
本当は十何文字で済むみたいな。
2400ページが十何文字で済むよって話なんだね。
まあね。
済むって言うとあれだけど、
まあでもそういうことなんでね。
表現している仏陀はそう表現しているって感じだよね。
恐ろしいよね、やっぱり仏陀。
おかしいよね。
優しくない?優しくない?
優しくないか。
僕も確かに台本作った時は、
仏陀、優しいシンプルな言葉で、
わかりやすいって思ったけど、
まあシンプルだからわかりやすいってわけでもないよね、
っていうのは今話してて思ったね。
いやでも、今回さ、
48:01
やっぱり火の例えでかなりさ、
わかりやすいと思ったから。
ああ、本当?
うん。
いや、なんか、
本当すごいんだと思うよ。
本当に、
なんかやっぱり、
すごいと思うってね、
批評することすらおこがましいんだけれども、
その辺の両面持ち合わせてるっていうのが、
やっぱりそうしたマジさなのかもしれないよね。
両面っていうのはあれだよね、
仏教としてのそういう例え的なわかりやすさと、
そういうあれだよね、
経言教的な、
なんだろうな、
すごい膨大な、
そうだよね。
仏陀が言う柔軟文字を、
ちゃんと、
理論整然と、
理論立ててか、
説明しようとすると2400ページになるみたいなさ。
まあまあ、
理論立てているってわけではないんだけれども、
そのぐらいの広がりがあるっていうのは間違いないよね。
あ、そっか。
別に、
なんかエピソード集ではあるんだっけか、
その2400ページの。
そうそうそう。
うん。
なので、
別に、
いわゆるロジックでガリガリやっておくわけではないんだけれども、
解説しようとすると2400ページになる。
そうそうそうそう。
そうなんですよね。
はい。
まあ、
みたいな感じでね、
結構今回、
仏陀がね、
こういうことを言いましたとか、
あるいは仏陀のお弟子さんのエピソードがありましたっていうので、
うん。
まあ、
縁起と下達と無我っていう3つを取り上げてみたんだけれども、
はいはい。
まあ、
これだけでもやっぱすごくね、
あの、
なんだろうな、
発見というか、
うん。
やっぱり、
いろんなことを語りたくなっちゃうと思うんですよね。
いや、面白いね。
ほんとに。
ね。
あの、
語らされてるよ。
木の太陽って。
語らされてる。
うん。
そうだよね。
やっぱそういうのがね、
やっぱ上手い、
やっぱ、
まあ、
これあらゆるさ、
その、
やっぱり伝道師みたいな人ってやっぱり話が面白いとか単純に上手いんだと思うんだよね。
はいはいはいはい。
うん。
だから、
やっぱそういう意味でもね、
こう、
3つだけでもだいぶいろいろね、
語って、
語らせていただきましたし、
うん。
まあ、
これってまさに90句以上あるんで、
なんかね、
こう、
まあ、
もちろん全部言っちゃったらさ、
多分著作権とかさ、
あの、
ね、
法的にアウトだと思うんであれなんですけど、
うんうん。
あの、
まあ、
ちょっと所々ね、
こう、
解釈、
エピソード自体はまあ、
多分ね、
あの、
パーリ教って言われる、
教典に書いてることだから、
まあまあ、
あの、
作権も切れてるんで、
ちょっと2000年くらい経ってるんでね。
はいはいはい、
なるほど。
あるはずなんで、
まあその、
はい、
そういうところで、
まあちょっとね、
あの、
まあちょっと抜粋をしながら、
まあ時々ね、
そんな風にお伝えをしてみたいなっていう風に思っておりますよ。
うんうん。
というような感じなんですけど、
どうでしたかね、
なんかこんな、
うん。
ちょっとね、
ブッダの話とかもさせていただいたんですけれども。
いや、
やっぱ個人的には大好きだね。
面白いです。
なるほどね。
いや、
禅文道も面白いなと思うけど、
やっぱこの、
うん。
なんだろうね、
ブッダ本人が言ったこの、
うんうん。
深みみたいなものを、
51:00
これをなんか、
そうだよね。
まあ、
多分いろいろね、
早藤が教えてくれたからと思うんだけど、
うん。
このブッダの一言だよね、
なんか何十文字みたいなものが、
はいはい。
実は空の方ではこう言われてるし、
うん。
有識の方ではこう言われている。
うん。
で、
定座仏教の方ではこう言われていて、
はいはいはい。
大乗仏教ではこういうふうに解釈されて、
現代はこうなってるみたいなさ、
おー。
あと、
禅文道ではこういうふうに表現されてるみたいな、
多分、
はいはい。
繋がってくるんだろうね。
なんかそれがすごい、
なるほどね。
やればやること多分、
面白くなってくるんだろうな。
あー。
あの、
なんだろうな、
そういうとこう、
はい。
ちゃんと仏教を極めようとしてる人からすると、
不純だったりとかね。
まあね。
っていうか、
うん。
お前はもう、
うん。
でもなんか、
うん。
それが、
面白いなとは思うね。
うんうんうんうん。
いや、
まあでもね、
今兄貴が言ってくれた、
その仏教って言ってさ、
定座仏とかさ、
大乗とかさ、
うん。
出てくるだけでも多分、
うん。
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
まあ、
このラジオを始めるまでは、
そんなの、
あの、
うん。
うん。
なんでもないの、
別に気にしたこともないしね。
うん。
いや、
そうだよね。
やっぱ、
僕もそうだよね。
何となく、
あの多くの寺が成土新宿だなってことぐらいは、
おばあちゃんから聞いて知ってるけどみたいなさ。
うんうん。
うんうん。
行くほど確かにやっぱつねいろんなつながりが出てくるか あそこで言ってた話ってこれだったわねみたいなことでね急に高理解が深まるとかって
やっぱあったりすると思うんでそうだねそう自分がね どのたとえで刺さるかって人によって違うだろうか
本当にそう本当にそううんからね別にね アミラブーツさんに絶対たりきりで救われたいっていう人もいれば
もうね禅門道 禅門道とか禅みたいな感じで師匠と一対一で研究学へやり合って自分の道を極めたいって人もいらっしゃるだろうから
一変みたいに踊ろうみたいな人もいるかもしれない そうそうそうそれでいいんだみたいな人もいるんで
そういう意味でもねやっぱりやっぱり僕仏教ってやっぱすごく面白いし すごい素敵なね教えだなぁと思っているんでこれはね
俺に触れてまあいろんなことは引き続き紹介したいと思っていますというふうな感じですね
このラジオの面白みでもあると思うんだけどね 西洋と比べてとかさ
西洋の中でも古代と比べてとかねこの時期中世と比べてとか近代と比べてみたいなそういうのをまたね
そういう東洋西洋のね軸も面白いからなんかそういう意味でいろいろこう
雑食でやれるのが面白い 個人的にはあの例えばさこの
ブッダの説法ラジオとかあってもそれは面白いと思うんだけどね100話 絶対面白い絶対面白い
54:02
ネタギアもないだろうしさ いやーそうねいくらでもあるからね
またそれとは違った雑食性っていうところが個人的にはまあ面白いからなし
仏教の話ばっか聞いてるって多分あのそのまま洗脳されるから仏教にしないと 自分の場合は
そうね間違いない間違いない いろいろ言ってもらったほうが嬉しい
そうですねはいなのでねまあこれからも引き続きこういろんなところまあちょっとねあの
つまみ食いしながら楽しんでいきたいというふうに思っているんですけれどもですね
あの次はねまたちょっと相談寄りなちょっとケゴン協理な話に行くんですけれども
20世紀のねあのイギリスとアメリカで活躍したホワイトヘッドって手伝く者がいるんですよ
名前だけはちょこちょこ出したと思うんですけど まあこの人はねどんな人でどんなことを考えているかってことちょっとまたねあの人
ギリ人テーマでちょっとねやっていきたいなというふうに思っていますので これはこれでまたぜひね
楽しんでいただければと思っておりますというふうな感じですね はいわかりました
じゃあ今回はぶったの話を楽しんだというところで次回からじゃあ ホワイトヘッドですね
はいどんな人のか全然わからないのはね本当と比べられてもへーっていう話なんで ちょっと楽しみしながらはい聞いていきたいと思いますんで
引き続きよろしくお願いします お願いします今回もありがとうございました
55:35

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