00:11
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回もホワイトヘッドということで、前回はホワイトヘッドの哲学というよりは、何者なのか、どういう人なのかを見てきたというところでした。
そうですね。今回から実際にホワイトヘッドの哲学に入り込んでいこうと思っていくんですけれども、
ちょっと最初に雑談的になっちゃうんですけど、若干今日ちょっと声がおかしいかもなって思うんですよね。
ちょっとなんかいつもより歪んでる感じですね。
歪んでるって言わないでよ。普通に鼻声なんですけど、
最初言うと、この1週間くらいずっと鼻と喉が交互に調子悪いみたいになってて、
鼻水が出て止まったと思ったら喉がいちゃくなったみたいな感じですけど、でもなんか熱も出ないし、
花粉症みたいな?遅い花粉症みたいな?
そうかなって思ってた。でも花粉症じゃないんですよ。
あ、花粉症ないの?すり花粉とか大丈夫なの?
すり花粉とか大丈夫な人で、兄貴はずっと前から花粉だったと思うんですけど、
だからあんまり気にしなかったんだけれども、つい昨日かな?
もしもしハウスダストとかじゃない?っていうふうに奥さんが言ってくれて、
昨日ちょっと外で仕事をしたので、その間に奥さんが部屋を片付けてくれたんですよね。
そしたらLINEが来てて、わかったかもみたいな感じで言ってて、どうしたのって言ったら、
部屋の上に本がいっぱい積んでたんですよね。
札付け苦手で本とか散らばっちゃうんですけど、
一個の本を持って机の上とかホコリを掃除してたら、
持ってる手の方がすごく痒くなってきて、
で、なんだって思ってみたら、その本がまさにホワイトヘッドのことを勉強しようと思って買った、
60年前に出てた古本だったんですよ。
そうなの?古本買ったのか。
古本、はい。絶版というかもうないからさ、新しい本が。
だからAmazonのマーケットプレイスで古本をよく買うんですよ。
もちろん出版年とかって見ないから、
届いた時にボロボロでもそんなもんかと思って読んでたんですけど、
確かにその本ちょっとだいぶもうシミとか焼けとかっていうレベルじゃないぐらいちょっとボロボロで、
見たら1960何年とかっていう出版なんですよね。
はいはい、もはやヴィンテージだね。
そう、ヴィンテージもの。
03:00
奥さんが調べたら古本アレルギーみたいなのがあるらしくて、
その本の細かいホコリとか、
そういうちょっと塵みたいなものがアレルギーを起こすことがあるらしいと。
で、なんか僕もずっと体調悪いし、
奥さんの手もなんかすごい赤くなって、奥さんはアレルギー持ちで、
結構敏感な人なんで、手もすごく痒くなるし、
これだ!ってなって、
今ちょっとその本を隔離して密閉的に隣に入れてるんですけど。
なるほど、古本全般じゃなくて今回のために買ったホワイトネットのこの本なんだ。
呪いの本じゃないか。
呪われてるのかな。
ホワイトヘッドのフォートキャスターであるとアレルギーが出るっていう、
そんなこともありますよっていうことなんですよね。
なのでそれもちょっとお聞き苦しいかもしれないんですけれども。
怖いな。
ちょっとやっぱ怖い。
確かに古本ってそうだよねって思った。
60年前の紙なんてそれは細かい粒子とか出そうじゃないですか。
まあそうね、何が付いてるかわかんなくていいじゃん。
もちろんしっかり保管もされてるかもしれないけれども、
もちろん物によっては雑に扱えたりとか、
あんまり保管状況も良くないっていうこともあるだろうから。
なるほど、どうすればいいんだろうね。
外で影干しでもすればいいのかね。
そうそう、影干しするとかね。
でも本当にひどくなると図書館とかに行けなくなっちゃう人もいるんだって。
あーなるほど、こっち側のね。
こっち側の、そうそう。
アレルギーがひどくなると図書館に行っただけでも症状止まらないとか、
かぶん症みたいになっちゃうっていうのがある。
やっぱり自分の人生において痛手すぎるから図書館に行けなくなっちゃうと。
だからそれはちゃんと対処しようと思って、
その本はちょっと処分かな、捨てたくないけどな、みたいな。
まあそうだね、声出なくなる呪いがかかってる本だったらちょっとね。
そうなんですよね。
それで、よけといてよって言われた本を見てたら、
他にも10冊ぐらいよけられてて、奥さんの。
怪しい本。
怪しい本がね。
まあでも確かにこれは怪しいけど、
どうしてもこれだけは、5冊だけ抜いて、
この5冊はごめんなさい、どうしても捨てたくないですっていう。
買い直しなのかな。
そういうのってちょっと高そうだから。
高いしね、買い直すって言っても古本しかないからね。
当たりの古本もあるかもしれないしね。
まあね、状態いいやつ買うのかとか、
金取りにしたらとかって言われたんだけど、
やっぱりちょっと紙で読みたいみたいなね。
06:01
まあそこはね、人にとか、
あと本にもいるだろうかな、そこは確かに。
本、そうなんですよ。
雑談なんかにちょっと言われたんですけど、
情報系のね、いわゆる、
自己啓発本とかは別に金取りでいいと思ってるんだけど、
1回読んでおしまい。
1回読んでおしまいとか、さらっと読めばいいみたいな。
やっぱり何度も読み返したいものとか、
やっぱりじっくり味わいたいものは本で置いときたいよねとか。
なんか付箋貼っとくとか、指挟んでおきたいみたいな。
そうそうそう、そうなんです、そうなんです。
なのでね、ちょっとこの古本との付き合い方が、
なるほど、大事なんだなっていうのをね、
今体調を崩したところで分かってます。
その声ですいません、聞き取りづらいかもしれませんっていうのを、
お伝えしたかったですっていう。
いやー、なるほど。
なんかありそうだね、でもそういうね、
すごい本読むとかって人にはあるのかもしれないね。
ねー、いやちょっと全く想像しなかったね。
まさか本かと思ってアレルゲン。
でもまあ、原因ね、ちゃんとね、
それかわかんないけど、
まあそういうらしき原因が分かってよかったっていう。
まあおそらくね、そうね。
でもちょっとね、娘からもちょっと
お父さん早く軍院行ってとかって言われて、
心配させてしまってるから、
ちょっとね、何とかしなければなと思って。
はい。
ちょっとすいません、そんな突然から入っちゃったんですけど、
まあそんな体調を崩してまで頑張って
インプットしたホワイトヘッドの哲学編ですと。
はいはいはい。
ということでございますと。
で、前回ホワイトヘッドの数学者だったんだよとか、
87歳まで生きたんだよっていう話をしたと思うんですけれども、
前提としてホワイトヘッドといえばこれっていうのも、
あるはあるんですけど、
やっぱりそんだけ長い間、
思想を積み重ねてきた人なので、
それこそ中期、後期みたいな感じで、
時期によって違うとかっていう風な人なんですよね。
はいはいはい。
ウィトギンシャインとかも前半と後半とか、
ハイデッカーとかもあったと思うんですけど、
そんな感じで、中期はこれ、後期はこれってなった時に、
すごいざっくり分けると、
中期っていうのは科学的なもの、
物理学とか数学とかも含めて、
科学ってものをどう捉えるかっていう風について考えた中期と、
そもそもの世界とか宇宙の仕組みそのものみたいな、
そういうものに拡大されていった後期とっていう風に、
分かれてるんですよって言われることが多いんですよね。
あ、そうなんだ。
それで、当然中期から後期への発展とか変化っていうのがあるので、
今回のホワイトヘッド編っていうのは、
中期はこんなことを言っていて、
そっから後期でこんなことを言い出しましたよっていう、
09:02
その変化とか大掴みで、
その両方をなんとなく理解できるよねみたいな、
そういうものをゴールにおいて、
このホワイトヘッド界というのをやっていきたいなという風に思っているという風な感じ。
へー、なるほど。でも面白そうだね。
自分が携わってた数学っていう、
そういうものとの関わりから、
後期はもっと宇宙とは、世界とはみたいな、
かなりより抽象的なほうが入り込んでいったっていう、
面白そうだね。
そっちに行くんだなっていうのも。
すごいやっぱり広がっていったっていう感じで、
なので、一個一個めちゃめちゃ深いんで、
それをやるだけでも何回分であるんですけど、
ざっくりこんなことをやりましたよ、
それを発展させて、こんな風に後期になりましたよっていう感じで、
理解していくのが、僕も分かりやすかったし、
皆さんにとっても伝わりやすいかなと思って、
思ってきましたという風な感じでございます。
今回と次回ぐらいで、
科学的なものの見方っていうのを見ていこうと思うんですけど、
科学って、いわゆる人文科学とか自然科学とかって、
僕らの言葉でも言ったりするじゃないですか、
っていう中でも、ホワイトヘッドは自然科学、
いわゆる物理学とかそういう方を指して、
自然科学全体の哲学ということで、
自然哲学っていう風に呼んだりするんですよね。
これはホワイトヘッドが呼んだっていうよりは、
後からそういう名前が付いたっていう方が正しいかもしれないんですけど、
ホワイトヘッドの中期の哲学を自然哲学って言ったりします。
名前ついちゃうぐらいことをやってるんだ。
そうそうそうなんだよね。
ある種カテゴライズしないと分かんない、
理解できないみたいなのもあるんだけど、
ちょっとここは若干横道に添えるんだけれども、
実は科学的なものみたいなことを言ったときに、
科学哲学って言う言葉もあるんですよ。
科学哲学って言うと、
科学ってどうあるべきかとか、
科学が発展するときに、
これって何だろうな、
ありやなしやみたいな、
いわゆる倫理とかと絡めて、
いいのか悪いのかっていうのを、
科学哲学って言ったりするんだけれども、
ホワイトヘッドの自然哲学っていうのは、
そもそも科学とはどういう営みであるかみたいな、
そもそも科学を成り立たせているものは何か、
みたいなことを考えていくのが、
ホワイトヘッドが取り組んだやつなんですよね。
はいはい。
だから学問であるもんね、
科学哲学っていう文言あると思うんだけど、
そことはまた違うって話だよね。
科学をどう取り扱うかっていう取り扱い方じゃなくて、
科学ってなんだっけみたいな、
またもっとそもそものところを考えていく。
12:02
もっと根底の、そう。
だからフッサールのときにお伝えしたかもしれないんですけれども、
フッサールもあらゆる学問に基礎づけようとした、
みたいな感じで原子学っていうのを考えてるっていうのがあったと思うんですけれども、
あったと思う。
そうそうそう。
そんな感じでホワイトヘッドも、
科学を成り立たせるものは何かみたいな、
そういうものを考えようとするんですよね。
へー、そうなんだ。
なんでそんなことをしたのっていう話なんですよ。
本人も数学とかをやって、
むしろ数学にどっぷりはまったわけじゃないですか。
そういう人からなんでわざわざそんなことをって感じなんですけれども、
やっぱりこうやって時代の流れというか変化が大きくて、
要はそれまでは絶対確率だと思われていた、
いわゆる科学の原理みたいなのがあったんだけれども、
それがどうやらそうじゃないということがわかり始めた時代だったんですよ。
それが1900年とかっていうと、
例えばアインシュタインの相対性理論というのがまさにそれで、
要はそれまではニュートンの物理学というのが世界の真実で、
もう何だろうな、物体と運動の法則というのはもうこれだというのが決まってましたと。
はいはい、それで全部説明できてたってことですね。
そう、全部説明できてた。
と思ってたか。
そうそうそう。説明はできてたんだよね。
それがニュートン、アインシュタインの相対性理論が出てくることで、
どうやら違うらしいぞとか、
どうやらそれでは説明できないとか間違ってるらしいぞということが見えてきたのがこの時代なんだよね。
うーん、なるほど。
実際そのホワイトヘッド自身がこんな風に書いてるっていうのがあるんだけれども、
今からお伝えすると、
永遠の死者、いわゆる物の味方に確固たる位置を占めていると思われたニュートン物理学が消えて、
失せてしまったのであると。
それは物の味方としては有用だったし、
今なおそうなのであるが、
実在の究極的記述としてはもはや妥当ではないと。
なるほど。
僕ら普段生きてる世界は別にニュートン物理学でいいんだけれども、
それまでの人たちにはそれが唯一絶対の基準だとか、
宇宙の究極の原理だって思ってたわけなんだよね。
うんうん。
それがアインシュタインの理論によって、
例えばブラックホールの時みたいな超重力のところとか、
また原子レベルの超ミクロな場とかにおいてはそうじゃないってものが、
これはそれ後ろなのでアインシュタインではないかもしれないけど、
っていう風なことが分かってきて、
どんどん科学の土台が揺らいでた時期なんだよね。
15:00
なるほど。
数学においても非ゆっくり時科学みたいな、
それ前とは違う理論が成り立つと、
みたいなことが出てきた時代であって、
そんな風な状況だったからこそ、
やっぱり数学者として、
科学的な思考っていうのもある種極め的なホワイトヘッド。
やっぱりそれも変わり得るんだとか、
間違ってたんだみたいなことを思ったときに、
改めて、いわゆる抽象的な概念とかじゃなくて、
人間的な感覚、
つまり経験とか、
そういうものに意義を生み出していくんですよね。
なるほど。
絶対的だと思ってたニュートンですら違かったというか、
いわゆる真理ではなかったっていうのが、
結構衝撃というか、
多分ここまで数学を極めてる人からすると、
よりその凄さってわかるんだろうね。
素人とかとは違うレベルで衝撃だったのかな。
だから本当に自分の、
それこそ土台が崩れるというか、
立ってた地面がフニャフニャだったみたいな。
今自分がやってる数学も同じかもしれないみたいな不安みたいな感じか。
積み上げてきたと思っていた基盤自体が、
実はスポンジだったみたいになっちゃうと、
スポンジのことから考えなきゃいけないってなったんだろうね。
なるほど。
だからこそ本当に人任せするんじゃなくて、
自分で考えるというところで、
面白いのがホワイトヘッドさんは、
アインシャインと同時代の人なので、
アインシャインの理論に対する批判とか、
自分はこう思うっていう自分の説っていうのをちゃんと出してるんだよね。
へー、そうなんだ。
もちろん今だとアインシャインの方が正しいんだけれども、
別にホワイトヘッドの方が間違ってるってこともないというか、
ただ証明されてないだけで、
別にホワイトヘッドの物理学的な考え方とかも、
全然あるよねって人も言われるぐらいなんですけど。
なるほど。一つの仮説、証明されてないから仮説として、
十分面白いじゃんみたいな感じではあるんだ。
もちろん相対性理論の方が正しそうではあるんだけどと言ったときに、
僕からすると、アインシャインを批判できるとか、
アインシャインと同じレベルで別の持論を立てるってこと自体が、
わけわかんないことなんだよね。
そう言われるとそうだ、確かに。
相対性理論をもう一回自分で一から組み立てようとか、
自分なりに考えてみようって思わないじゃん。
確かにね。正直言うと藤井聡太にその一手って、
18:00
そういうふうな意味合いで言ったんですよね。
自分だったらこうしますよってマジで言ってるみたいな。
AIですらわかんないよみたいな話でもね、
前ちょっとニュースだったけど。
私はこっちの方が正しかったと思いますっていうのを、
ちゃんとバチバチ言い合えるみたいな。
ちょっと意味わかんないって話だね。
プロ連中から人も意味わかんないっていうところに、
ちゃんと話してるみたいなね。
そうそうそうそう。
同じ問題意識を持ってるとかね。
みたいな感じなので、
やっぱりこう本当に自分の頭で考えて、
物事を進めた人になるっていうのを思うんですよね。
わーちょっとその、なんか自分で言っといてなのだけど、
藤井聡太に対抗するみたいな感じで考えると、
ちょっと異常さが伝わってくる。
本当にそんなレベル。
アインシュタインの方がすごい。
アインシュタインもすごいんだろうけど。
まあまあそうだよね。
まあまあ超天才ですよ。
超天才的なやっぱりことをやってた人なんですよ。
さっき言った通り、だからそういう抽象的なことだけじゃなくって、
人間の経験みたいなものを大事にしようって話なんですけど、
これって別に突発的にホワイトヘッドがやったってことじゃなくって、
もう少し大きな哲学の流れとして、
もともとデカルトが始めた大陸合理論っていうような抽象的な概念と、
あとはイギリスでベーコンという人が、
これ倫理とかでやったことある人もいると思うんですけども、
イギリス経験論っていうのがあって、
まさに合理論と経験論という流れをカントが統合しましたみたいなのが、
西洋哲学の要は大きな流れって言われてるわけなんですよね。
チラッとはやったっけか。
カントの時に少しだけやった。
その辺もなんかちゃんと聞きたいね。
もう一回経験論の方とか全然やってないので、
これまた僕もやりたいなと改めて思ったんですけど、
ホワイトヘッドっていう人は、
当時の最先端の科学的な知見とか、
物事、世の中の捉え方っていうのにマッチするような形で、
哲学的なものをアップデートしたというか、
乗り越えようとしたということをやったんだというふうにも言えるんだよね。
ある意味で突発的なこととよりは、
ちゃんと哲学の伝統にのっとって、
経験というものを改めて捉え直しましたよという風なのが、
彼の哲学的なバックグラウンドにありますよって感じ。
なるほど、ちゃんとポッドでとか思いつきではなくて、
ちゃんと哲学の本流にのってるのがすごいのか。
そうそう、本当にそう。
そこからやっぱり太いというか深い思考ができるんだよね。
自分の頭だけで考えてるんじゃなくて、
21:02
ちゃんとカントとか、
ネイゲルはなんかあんまり読めなかったとか言ってたんだけど、
そうちゃんと踏まえてるっていう感じですよと。
書いてんの?あんま読まなかったって書いてんの?
そうそう、あんま読まなかったらしいって書いてて、
後から後悔したみたいな。
後悔をしてるんだ、へぇー。
そうそう。
難しいけど。
こういう人があんま読まなかったってさ、
絶対1回は読んでみて。
そう、1回は読んでる、1回は読んでる。
不却は考えてないみたいな意味でしょ、たぶん。
1回読んで、そんなに得るものがないと思ったのかわからないけど、
あんま読まなくて、
後から振り返ったらもっとやっておけばよかったみたいな、
そういう日記というか、あれが残ってる。
非常に遠い後悔をしてるんだね。
そうそうそう。
ところで、ホワイトヘッドを何から考えたかというと、
本当に膨大な話なんですけれども、
僕らがね、いわゆる初心者として
どっから入るのかわかりやすいかなと思って考えたときに、
やっぱり、いわゆる二元論というところから入ったほうがわかりやすいなと思いました。
ホワイトヘッドラジオってね、
西洋やって東洋やってとかっていう中で、
やっぱり二元論が一元論だとか、
一元論っていうのも二元論の一種なんだとかって話をちょこちょこしてると思うんだよね。
確かに確かに。
仏教はね、一元論って言ってもすでにあるとか言っちゃってるじゃんみたいな、
そういう話が来たりとかしてるもんね。
そうですそうです。
という中で行くと、ホワイトヘッドは何を言ってるかっていうと、
二元論を否定するって言ってるんですよね。
はいはいはい、否定するんだ。
実際の言葉で言うと、近代の自然科学っていうのは、
全くもって二元分裂、これが二元論ね。
っていう風な語尾、これ誤り、誤りであふれかえっているんだと。
そこで捉えてると、私ホワイトヘッドの言ってることは、
一言も理解できないだろうとまで言ってるんだよね。
いきなり仏教の説法みたいになってきた。
なってきたでしょ。
ちょっとけごん教っぽいっていうのもちょっとずつ見えてくると思うんですけど、
でもちょっと考えてみてほしいんだけど、
仏教みたいに、あなたの自分の苦しみとかって言われたら、
それは主体と客観というのを分けて考えているからだって言えると思うんですけど、
自然科学でこれを言うってちょっとおかしいと思わない?
具体例が全く思い浮かばないよね。
なるほどね。
要は自然科学って何かって言うと、
要は現象扱うものだから、
それこそ雨はどうなんで降るのって言ったときに、
それは海の水が蒸発して水蒸気になって雲になって、
保てなくなると雨が降るんだとかっていう風に、
24:03
現象っていうものを客観的に記述して説明するっていうのが、
いわゆる自然科学の基本ですよと。
今言った通り、
要は現象を客観的に観察するっていうのが自然科学だから、
二元分裂が語尾だ、誤りだって言ってること自体が、
もう矛盾してるんだよね。
そうか。
観測される側と観測する側ってもうあるじゃん。
その営みそのものじゃん、自然科学は。
そうなんだよ。
でもホワイトヘッドはそんな風に言ったら、
私が言おうとすることは一言も理解できませんって言ってるから、
本当のさっき言った自然科学の土台がスポンジになって、
そのスポンジに対して取り組みましょうって言ったのが、
まさにそこなんだよね。
思った以上にというか、
むちゃくちゃそもそもの話してるね。
そうなんです。
そもそも自然科学のやり方って、
間違ってるとかおかしかったんじゃないっていう風な話なんだけど、
もっと言うと、
自然科学って前提として外にあるものと、
外って言ってるからには内側があるんだけど、
内側ってのはいわゆる人間の内面とか、
あるいは実際には存在しない、
例えば社会とかさ、
社会って別に、
社会っていうものがあるわけじゃないじゃん。
人間の生活を営みとして社会ってものがあるとか、
法律ってものがあるっていうので、
システムみたいなね。
そっちはやっぱり社会科学っていう風に言われるわけだよね、
現代で言うと。
この根底とか、自然科学、社会科学、あるいは文系理系っていう風な根底には、
世の中にあるものと、
人間の内面とかシステムとしてのことっていうのは別物だっていう風な考え方があるんだけれども、
ホイザットはこれを否定する。
この区別っていうものから否定するんですよ。
これちょっと実際の言葉でまたお伝えするんですけど、
我々は得り好みしてはならないっていう点だよね。
何度も言うと、
我々にとって赤く燃え輝く夕焼けは、
科学者が現象を説明するときに持ち寄るであろう、
分子や電波と同様に自然の部分であるはずだと。
いかにしてこれら様々な自然の要素が結合し合っているのかを分析するのが、
自然哲学なのである。
っていう風に言ってるんだよね。
全然わかんない。
全然わかんない?
でもだって言うと、
僕らが自然って言うと木とか、
27:00
夕日で言ったら、
夕日が沈むとか日が昇るとかってことは自然現象じゃん。
でもそれを見て、
赤く燃えて輝いてて感動するとか、
綺麗だと思うっていうのは人間の心のことだから、
それは自然現象じゃないって思うよね。
でもホワイトヘッドから言わせると、
それも自然の一部なんだと。
なぜなら我々人間っていうのも生きている自然の存在だし、
その人間の心で起こっているが何であろうが、
それも自然の一部だって言えるよねと。
だって人間は自然の一部なんだから。
そうすると、
さっき言った通り、
感動とか心っていうのは社会科学で、
夕日が沈むとか昇るっていうのは自然科学だって分けるのって意味あるんだけど。
本当に夕日を見て感動することも、
太陽を構成している水素原子が云々とかっていう話も、
全部同じ土台の上で扱えるようにして、
感動するっていうことと、
太陽が原子でできている、水素でできているっていうことの、
関係性とか繋がりと見出していくっていうことができるんじゃないかっていうのが、
ホワイトヘッドがやろうとしている自然哲学なんだよね。
すごい、アリストテレスにも喧嘩打ってそう。
カテゴリ分けし直しましょうよとか、
もう一回フォルダ分け考え直しましょうみたいな話。
なるほどね。
確かにそのくらい根本的なことをやろうとしているんだって伝わってきた。
戻るよね、そこまで感覚が。
本当に根本なんだよね。
ここからがね、
ホワイトヘッドそんなことをやろうとしているんだって見えてきたら嬉しいんですけど、
そこから具体的に踏み込んでいくんだけど、
どうしたら夕焼けに感動するみたいなことと、
太陽が水素原子とかできてるみたいな水素分子ができてるってことを、
わかんない。
一緒に取り扱えますかねって話なんだよね。
これができれば同じ土台で扱って、
それが全部自然だって言えそうな気がするっていうのが何とかわかってきたと思うんですけど、
これをどうやるのっていうのが問題ですよね。
ここでまた2つのキーワードというかガイデンが出てきて、
それが知覚…
これもともとの言葉で、論文で出てた言葉で言うと、
30:09
感覚各知っていう言葉があって、
英語で言うとSense Awarenessっていう話らしいんだけど、
あまりにも言葉として馴染みがなさすぎるので、
知覚って言っちゃうんですけど、
いわゆる物を感じるっていう言葉ね。
ここもまたちゃんと説明していきます。
感覚各知。
感覚各知。
感覚各知。
センスアウェアネスか。
センスアウェアネス。
センスをアウェアネスする。
この知覚っていうのは、
ハヤトが便利的に感覚各知を知覚って言い換えますよっていう話?
それとも本とかではどうなの?
便利的に僕が知覚っていう風に言うと分かりやすいと思ってるっていう話。
じゃあ本とか読むと感覚各知とかセンスアウェアネスとかって
ひたすら書いてるって話ね。
ひたすら書いてるとか、また別の訳語があったりするんだけど。
そうなんだ。
ここだけの話ね。
知覚って言います。
あともう一個は意味付けっていう概念があって。
意味付け。
これは本当に。
これも日常的な意味とは全然違うので。
一応、
知覚っていう言葉と意味付けっていう言葉を使って説明していくんだけれども、
この言葉に対して今皆さんはあんまり知らないっていう風な前提で
ぜひ聞いていただけるといいと思います。
分かりました。初めて聞いた言葉としてね。
ちなみにこの意味付けって方はどうなの?
さっきので言うと本当は違う言葉をハヤトが勝手に意味付けに変えちゃってるってことはないの?
意味付けはそのまま意味付けって言われてます。
そうなんだ。
で、
そういうのを久々に西洋哲学あるあるみたいな感じで話してくるんですけど、
まずこの知覚、感覚、覚知についてなんですけど、
これね、いわゆる見るとか聞くっていうことではあるんだけれども、
もっと素朴に、
目に飛び込んでくるとか、
耳に聞こえてくるみたいな、
そういう自動的な感じが適切なんですよね。
ほうほうほう。
で、なんでかって言うと、
先ほど申し上げた通り、ホワイトヘッドっていうのはそもそも二元論を否定するじゃないですか、
だから、見るとか聞くって言っちゃうと、
私が目の前のものを見るとか、
私が何らかの音を聞くっていう風に、
もうその主語と外部というのが分かれちゃうんだよね。
33:01
うんうんうん。
これが見るとか聞くっていう、いわゆる動詞的に扱うと起きちゃうことで。
はいはいはい。
なので、
そういうのを否定するために、あえて知覚っていう、
感覚、覚知っていうちょっとよくわかんない言葉を使ってたんですよと。
なるほどなるほど。
それが否定されるとどうなるかって言うと、
要は、人間が知覚したもの、
持っている感覚として、互換で感じられるものっていうのが、
まずその世界の根本としてあるよねっていう風なことが言えるじゃないかと、
という風にホワイトヘッドは考えるんだよね。
ほー、うんうんうん。
これ、比較するとわかりやすいのは、デカイトっていうのはさ、
我を思うゆえに我あり、みたいな感じで、
方法的会議っていう話をやったと思うんですけど、
それを通して、その疑えない我って言葉にたどり着いたわけなんだけれども、
そもそもその我があるとか、
疑ってるっていうことを何らかの理由で感じてるじゃないですか。
うんうんうん。
っていうことが、その感覚の方が根本的なはずなんだよね。
はいはいはいはい。
ただこれが難しいところで、
理言論で考える、要は主体と客体っていうのを前提に考えると、
我が感じているとか、我が疑っているという、
その主語としての我っていうのが根本になるんだけど、
この理言論を取っ払うと、
感じているというのが先にあって、
感じているのは我であるということだ。
だから我はあるんだろうという風に推測しているという風な順番なんだよね。
なんか、主点が全然似てるようで違うというか。
あ、そう?
デカイトだとさ、自分が主人公な感じするじゃん。
うんうん、間違いない。
今のホワイトヘッドの話だと、
自分みたいなものと目に飛び込んできたのかしらないけど、
どっちも俯瞰な感じがするよね。
俯瞰というかどっちも、
ちょっとまた後でちゃんと言うんだけど、
やっぱり混ざっているんだよね。
分けられない。
俯瞰で見ている視点をイメージしちゃうからちょっと違うんだろうね。
そうなんです。俯瞰はしたらダメなんだよ、逆に。
分けちゃうから。
なので、まさに難しくて、
なんとなく近く見えるんだけど全然違うっていうか、
それこそそもそもの根本から違うって話なんだよね。
なんか面白い。すごいね。
だから難しいんだけれども、
もうちょっと話が続くと言えば、
さっきの通り我があるとか、
誰かが見ている第三者があるっていう風な、
36:02
主語・述語の関係じゃなくて、
我があるんだみたいな感覚が一気に押し寄せてきているみたいな。
そういう感覚なんですよね。
その感覚とか知覚があって初めて、
あるのは我だったんだとか、
あるっていう行為があったんだみたいな、
そういうことが生み出されているんだぜみたいな。
これあれだね。
今、かえとも結構勢いで聞き取ろうとしているけれども、
この回から聞いた人は分かんないだろうな。
そうなんだよね、たぶんね。
自分も分かっているとはもちろん言えないんだけれども、
かなり、例えば前回のケゴン教だったりとか、
あと有意識とか空みたいなところの感覚を少し、
インストールしないと、今のあれからあるんだみたいな、
ちょっと勢いで誤魔化されそうな話を、
誰でもねえとはならないよね、これ。
無理か、やっぱ無理だよね。
ちょっと思ったの、だからある意味皆さん、
皆さんというか今この回を聞いてくださった方が、
きっとこれ前のストライドスタジオを聞いてくれているんじゃないか、
ということで甘えているんだよね、この台本は。
でもこれをゼロから説明しようとしたら無理じゃん。
いや、無理なんだよ。
ホワイトヘッド回、たぶん50回くらいになっちゃうよ、
下手したらみたいなね。
ホワイトヘッドをやるためにまずデカルトやりましょうとか、
ホワイトヘッドをやるためにまず二元論の話をしましょうとかね、
バタッとなるよね、間違いなく。
確かに確かに、この前のそれこそ関東の話もさっき出ていたし、
クッサルの話なんかも出ていたけど。
確かにな。
それをあさりまねに言っているのは、
すみません、完全に怠慢だったら申し訳ございませんなんだけれども、
やっぱりそのぐらいやって初めてたぶん、
僕も理解したとは言わないんだけれども、やっと
手がかかるとか、
なんとなく入門の扉を開くことができる人なんだよね、やっぱり。
だからやっぱり難しいとか、
逆にホワイトヘッド解説本が世の中にほとんど存在しない。
少ないの?
うん、少ない。
前回ね、ハヤットが言っていた、
ハンター×ハンターのキルアの家の
試しの本ね、
200キロから開いて、どんどん力を開くともっと悪霊になるみたいな。
うちらは隣の主演さんのために開けた扉のところからちょっと覗いてるみたいな。
そうですね、たぶんね。
たぶん、今回の話を聞いて、うんうん、分かるっていう方は、
39:04
たぶん1か2ぐらいまで開いてる方で、
本当にそんな感じだと思う。
すみませんね、ハンター×ハンターのことも分からない方は、
より分かりにくいかもしれないんですけど。
ハンター×ハンターを何十回か読んでから来てくださいっていう。
本当にさ、ごめんちょっと脱線するけどさ、
久々にそのぐらい重たい人なんですよ、ホワイトヘッド。
皆さんもちょっとついていけないとかってあるかもしれないんですけれども、
なんとなく聞いてみていただいて、ちょっとでもね、
そういうことかもしれないとか、
ちょっとなんとなくでも、
自分の理解がこういうことかもってなってくださればいいなって感じで今話してるんですけれども。
あとはもし哲学とかちょっと興味あるけど、
なんか今回から聞いてみて、
なんだこれ、でも面白いのかなーみたいな人は是非、
宣伝というか、
これは結構一位素人リスナーからのお願いで、
是非ソクラテスとかね、今回生が出てきた人ぐらいから聞いていただけると、
またなんかあるのかもっていうね、とかをお伝えしておきたいっていう。
やべえホワイトヘッドすごいなあ、そこまで言わせるか。
いやーでもいいですね。
いやーでもそれやってよかったなって今ですら思ってるんだけど、
もうちょっと行くよ。
はい、失礼しました。
ありがとうございます。
ちょっともう一回戻りますと、
さっきのストーリーそのデカルト的なね、
我を思う故に我ありっていう、
我があって、我があるっていう主語実語関係じゃなくて、
私があるという感覚が感じるぞっていうところから始まったときに何が起こるんでしょうかというのが、
ホワイトヘッドがやろうとしていることをざっくり言った説明なんですよと言ったときに、
さっき言ったようはその夕焼けに感動しますみたいな話と、
太陽はスイスで出来てますみたいな話っていうのを、
実はどっちも同じ近くっていう言葉で表せるのでってことがわかるんだよね。
でもまあ夕焼けに感動しているっていうのはもちろん感覚だし、
太陽がスイスで出来ているということを何かしらの観測結果から推測するとか、
実際に検証するとかっていうことは、
どっちも実は営みとしては一緒なんですよ。
入り口一緒だもんね。
そうするとここに初めて共通項としての私みたいなものが想定されて、
その二つの出来事っていうのが、
例えば私っていうものを通じて関係づけられるとか、
夕焼けに感動するってことは、
実は私が水素の爆発というものを、
物理的な現象として理解してるんだっていうことが言えるようになるみたいな意味で、
42:00
そういうふうに物事が関係づけられていくことを、
意味づけっていうふうに呼んでるんだよね。
おー、意味づけね。
つまりもうちょっと分かりやすく言うと、
視覚から生まれた事象、出来事とかって言うんだけど、
その出来事同士を関係づけるっていうのが意味づけで、
視覚というのはその出来事を生じさせることで、
生じた出来事っていう一個一個の出来事があるというか、
出来事はいっぱいあるんだけど、
その出来事同士の関係っていうのを結びつけていくのが、
意味づけだっていうふうなものですよ。
そうすると論理的には、
要は視覚があって出来事が生まれて、
意味づけで関係づけられるとすると、
あらゆる視覚を意味づけることができれば、
この自然すべての出来事っていうか物事を構造化して、
一つにまとめ上げることができるじゃないか、
っていうふうに考えるんだよね。
これはちょっと抽象的で分かりにくいので、
ちょっとなんとなく自分のイメージとしては、
いわゆる普段僕らが考えている主語・述語とか、
二元論的な生き方だと、
これをインテリアというか、
部屋の内装を作るっていうことと想像したんだけど、
例えば二元論の世界では、
家具、椅子でもベッドでもいいんだけど、
いろんな家具が用意されていて、
それを一個一個置いて、
内装とか部屋全体を作り上げるっていうのが、
二元論的な世界のイメージなんだよね。
物っていうのは独立でそれぞれあって、
それを配置していきます。
でも実はホワイトヘッドの哲学、
自然哲学っていうのはそうじゃなくて、
そもそも目隠しとか耳洗をして部屋に入れられて、
それをパッと外されるんですよ。
そうすると部屋を見た時に、
あそこに椅子があったとか、あそこにベッドがあったとか、
っていうのが一気にバッと情報として入ってくるじゃないですか。
その感覚の後で初めて、
ここに家具が椅子があったとか、
そもそもこれが椅子であったとか、
そういうことを理解していく営みっていうのが、
ある種ホワイトヘッド的な物事の理解の仕方なんだよね。
なるほど、なるほど。
あとその後に、
ここに椅子があってこっちにベッドがあるということは、
きっとこういう意味で配置されたに違いないとか、
その関係性、これはまさに意味付けなんだけど、
そういうことをある種解釈していくような仕方が、
ある種ホワイトヘッドの考えている、
自然哲学的な物事の見方なんだよね。
はいはい、わー、なるほど。
哲学者の鏡というか、悟っているというか。
悟ってるかな。
そうなると、
45:00
子供の言ってたような、
要はインテリアを自分で配置しますっていう考え方と、
バッと目隠しとか目線を取られて、
こんな部屋だったんだって思って、
なんか違いはわかるじゃないですか。
うん、わかる気がする。
っていう時に、
なんとなくホワイトヘッドの考え方と、
やっぱり自分と部屋がある種、
さっきも言ったけど溶け合ってるというか、
分かれてない。
要は自分が部屋とは違う存在として、
何かそこにアプローチを仕掛けるんじゃなくって、
自分も部屋の一部としてそこに存在していて、
他の存在である椅子とか机っていうものも、
自分と共にあるみたいなね。
そういう風な感覚に近づいてくるんですよ。
はいはい、なるほど。
そういう考え方をホワイトヘッド自身が、
こういう風に言ってるんだけれども、
今言った近く、間隔各地っていうのは、
自然内のここと、
自然内の今っていうものを認識して、
さらに自然における視覚しつつある出来事と、
残りの自然との自然的関係を確知することだと言ってます。
もうちょっと分かんないと思うんだけど、
要は自然を視覚するっていうのは、
決して自然から切り離された視点でできるんじゃない。
要は二元論的に自然っていうものとか客観があって、
それを主体同士の我が理性が解釈するとかってことなんじゃなくて、
あくまでも具体的な今ここの時空間から起きることなんだよ。
だからこそ、主体と客観では分けることができないし、
今ここの例えばカンのハヤトっていう人間が、
今この京都の自分の家で過ごしているっていうことから始めないと、
あらゆる物事っていうのが取り合わせるとかできませんよね。
それをなんか太陽っていうようなものがあって、
太陽っていうのは我々とは関係なく燃えているっていう風には、
それっていうのは一個をやっぱりすっ飛んでいく段階が。
要はそれもう抽象化しちゃっているから、
具体的な自然っていうのを捉えるっていうことからすると、
もう離れちゃってるよねっていうようなことをここで言おうとする。
なんとなくこの辺まではどうかな。
うーん、まあそうね。ちょっと今の部屋の例えが、
ちょっとまだ腹落ちはしてない感覚はあるんだけれども、
なんていうんだろうな。
実存主義っぽいけど、
多分それをもっとフラットにしてるというか、
48:01
多分乗り越えてる感じがするよね。
そうね。実存主義、僕も近いだと思ったんだけど、
実存主義はやっぱり私っていうのが前提になっちゃうんだよね。
そうだよね。
ホワイトヘッドは自然を知覚する何者かはあるんだけど、
それが私であるっていうことはやっぱり前提されてないんだよね。
あ、そうなの?
だって、知覚をするっていうような出来事から、
それを知覚してるのは私だっていう主体っていうのが後から出てくるから。
なるほど。私とか自分の理性とかそういうのは出てこないんだ。
出てきてない。
そのぐらいフラットなんだ。
音が鳴る。音とかっていうことは出ないんだけど、
鳴ったとか、見えたとか、違うとか、
ほんとそのぐらいの感覚から始まるっていう感じ。
これむずいね、確かに。
実存主義でサルトルだっけ?
サルトルだね。実存主義はサルトルです。
ちょっと今の話聞いて思ったのは、
誰だ?デリラだっけ?構造主義。
はいはい、構造主義だね。
構造主義は個人というよりは社会とかさ、
まさにちょっとそういうところだとは思うんだけど、
なんかそっち視点な感じがするね、どっちか。
実現主義っぽくもあり、構造主義の視点っぽくもあるっていう、
自分の理性がいない、割と抽象化してる。
ただそれが人間一人のことについて語っているっていう、
難しさと理解しにくくさみたいなのがあるなと思った。
すごい今兄貴はいいこと言ってくれて、
例えば実存主義っぽいけど違うとか、
構造主義っぽいけど違うっていう風に、
なんとなく思想の中で比較できるようになってるじゃないですか。
多分200回くらいこうやって聞いてるとね。
あんま覚えてないなりに無理やり。
感覚的にね。
ホワイトヘッドが難しいのは、やっぱりそれとは全然違うんだよね。
なぜなら、そもそも実存主義っていうものも、
構造主義っていうものも、
要は何か根源的なものを置いて、
そこから物事を考えていきましょう、
世の中の仕組みを作っていきましょうっていう話なんだよね。
その根源が我なのか、社会的な構造なのかっていうようなことなんだけど、
ホワイトヘッドはそういったものを想定せずに、
そもそも、どっちかっていうと、
51:00
すごい素朴に考えた時に、
例えばお湯を触ったら熱いじゃないですか。
熱いってどこから始めましょうっていうのがホワイトヘッドなんだよね。
あー、そうか。
お湯ですらないんだね。
お湯ですらない。
何かを触ったら熱いという感覚がしたっていうところからなんだよね。
なるほど。お湯はもう知覚されて、
お湯は理性と、
認識された後のもの。
認識された後だから。
それは温かいお水のことを、
お湯という風な文化で生きている我々は、
お湯と扱うっていう風なものが大前提として、
すごい分厚い前提なんだけど、
それも全部剥ぎ取ってるんだよね。
さっきのハエトの家具の話も、
このレベルで、
理解しないと腹落ちしないんだよね、多分ね。
そういうことなんです。
例えば、ベッドとか石とか机って言ってる時点で、
さっきのお湯レイヤーのものの扱い方をしてるわけで、
あー、そうだね。
パッと目を開いた時に、
これは寝るものなのかもしれないとか、
座るものなのかもしれないレベルの話だよね、本来は。
そういうこと。
その内的には、本当に言うと、
空間を占めている。
これは木というものでできているはずである。
なぜなら茶色だからな。
木でできているこの四角い人間体のサイズの家具を、
我々はベッドと呼ぶみたいな、
そういうことが本当あるんだけど、
それを僕らはすっ飛ばして、
あ、ベッドが存在するって言っちゃってるんだよね。
それは二元論なのよ。
はいはいはい。
わー、だし、なるほどね。
それを、ただそれで自分がこうあるから、
これをベッドと名付けようとかってやっていくと、
ただの秩序主義になっちゃうシーンみたいな、
そこにズレみたいなものが出てくるわけだね。
自分にとってどうとかってことでもないっていうね。
そういうことでもない。
意味づけも自分にとっての意味とかでもないんだろうね、きっとね。
そうなんです。
だからといっても、人間は何も知識がない中で生きてるかって言うと、
そんなこともないじゃないですか、現実的に考えて。
だから知識ゼロで生きてるってことでもなく、
知識はあるんだけど、その知識の活用の方法として、
その知覚っていうのがまずあるんだと。
いきなりやっぱりベッドっていうものがあるということから始まるんじゃなくて、
我々はそれを見たときに、
それをあらゆる空間、それが部屋の中にあるとか、
そういう枕が置いてあるとかっていろんなことから含めて、
ベッドというものと認識をしているんだっていうことが起きてるよねっていう、
その次元から始めてるんだよね。
わー。
すごい話。
54:00
すごい話、そうだっていうのがなんとなく伝わったかな。
そうだね。
そのそもそもの部分を何とか理解しようってするこの感覚はちょっといいね。
ありがとうございます。
それを楽しめる方には楽しいと思います。
わー。
すごいところからスタートして、そう。
そう、すごいところからスタートするんです。
でも兄貴が言ってくれた通り、インテリアの例えも、
確かにベッドとか机とかって言ってる時点で二元論じゃんっていうことが分かると、
なんとなく払い落ちてるかもしれない。
そう、二元論の結果のものだから、そこを言葉で表現している難しさって話だよね。
そうです、そうです。
でね、じゃあここから次回に向けてのイントロみたいな感じなんだけど、
前言った通り、今とかさっき言った通り、
自覚するっていうのは要は自然の中のこことか今っていうことで起きることだっていうのをホワイトヘッドが言うんですよね。
で、逆に言うとホワイトヘッドの自然哲学では、
今とかここっていうこととは無関係の絶対的な空間とか時間っていうものを認めないんですよ。
うーん、そうなんだ。
僕らって時間とか空間に関してもあるって思ってるじゃないですか。
あるっていうか、そもそもあるとかないとかも根本すぎて分からんみたいな。
まあらしい、ベッドとか椅子とかで同じような形で教えられちゃってるもんね。
そうだね、時間っていうのがありますとかね。
で、とりあえずそれは違うんだよっていうふうなことを言っていて、
実際に冒頭でお伝えしたアインシュタインの特殊相対性理論においても、
やっぱり時間っていうのは一定じゃないですよっていうことが言われてるじゃないですか。
うーん、わかんないけど。
時間が流れるっていうのは速さとかによって変わるんですよ。
っていうときに、わりと言ってもまさに自然哲学っていうのは、
こういうふうな物理的な時間というものは一定ではないとすると、
いわゆる二元論を否定できるとするならば、
私みたいないわゆる観察者と離れたところには時間とか空間は存在しない。
そういうふうに、私と離れた自然は存在したいんだっていうようなことが言える思想なんだよね。
ちょっとこれが何言ってんのっていう話は、また次回ちゃんとお伝えしますと。
ぜひ。
今回で言うと、そのね、知覚とか意味付けっていうの、
考え方がなんとなくこういうことっぽいとか、
二元論を離れてっていうのは、
そういうそもそも論の本当にそもそもなんだみたいなことっていうのが何となく理解いただけたんじゃないかと思うので、
引き続きこの考え方とか、さっき言った時間とか空間があるとかないってどういうことなんだよっていうのをご説明させていただいて、
57:01
ちょっとホワイトヘッドも自然哲学に馴染んでいった上で、
次の次から彼の考えた最強の宇宙みたいな、
世界と宇宙の仕組みみたいなものである有機体の哲学って言われてるんだけど、
これを次の次の回から説明していきたいと思ってます。
こんな人はどんな話をし始めるのか気になるし、
今回の話で言うと、
立存主義とか、西洋の方からちょっと理解しようとしてたんだけれども、
あえて東洋の視点から最後持っていくと、
今回の知覚だったりとか出来事みたいなのっていうのは、
有意識とかで言うと、
荒屋敷があって、そこを唱えるマナシキだけか。
なるほどね、マナシキがあります。
フワフワしたところから、
無意識的にある意味認識できる状態にするっていう意味でのマナシキがあったと思うんだけど、
そこの感じだよね。
そういう意味ではちょっと近い。
要は、自然というものと、
仮に自分というものがあったときに、
それが繋がっている、
区だというか、接着点。
自然と自分の接着点にあるのが感覚だったり、
リフだったりするじゃないですか。
だから感覚というもので、
地下は世界というものを捉えられない、自然というものを捉えられないという意味では、
マナシキというものでしか、荒屋敷というものを捉えられないということは近いかもしれないね。
多分上手く、例えば実存主義だとか、構造主義だとか、
そういうところで上手く言語化できない感覚、この知覚っていうところね。
例えば、ハヤトがさっき言った触覚だよね。
何か触ったときに、その瞬間に、
人間がこれは例えば暑いって思うとか、
その思う前段階の話という意味では、
多分マナシキだと思うんだけど、
その後多分、論識、公式みたいなさ、
本当に暑いだとか、
暑い畜生みたいなさ、
腹立つみたいな、
多分そういうところに繋がっていくと思うんだけど、
本当その瞬間ではね、
何かが自然だったり、荒屋敷みたいなものから、
リアルな形として、何らしくの形として、
その瞬間みたいな話をしているのには近いのかな、雰囲気として。
でもそうだね、だいぶ近いと思う、確かにそれは。
もちろんね、小さな小さなというか、いろいろな差異はあるけれども、
もしかしたら実論主義とかよりもそっちのほうが近いかもしれないね、
考え方とか感覚的に。
1:00:01
感覚としてはね。
やっぱり前回の最初のとおり、
基本教からお伝えしていきたかったという話も、
なんとなく仏教とか東洋的な感覚からしたほうが理解しやすいんじゃないかと、
個人的には思うんだよね。
あるいは僕がそういう理解をしているから、
ちょっとそういう話になってしまうのかもしれないんだけど。
むしろね。
フィルターを通っている。
そう、通っているから。
やっぱりそこはなんだろうな、
こういう難しい人をちょっとでも理解できるところの人のほうが大事だと思うので、
それからもちょっとそんな感覚もありつつ、
じゃあホワイトヘッドが言おうとした自然哲学で、
もっとどんなものっていうのをもう一回お伝えしていきたいというふうに思っているような感じでございます。
はい、わかりました。すみません、ちょっと長くなっちゃった。
途中ね、脱線もあったんでいろいろ申し訳なかったんですけど。
では次回は、よりホワイトヘッドの自然哲学の中身を見ていきたいというところで楽しんでいきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。