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2024-06-23 30:57

縮尺変える力~知識だけか身体値か~胸がティンバルカ?

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前回収録時にしゅらさんとシュウが感じていたモヤモヤについて

ナズグルさんが今回聞いてみて感じたこととして

一回縮尺を変えてみるっていうメタ認知の手法が…


収録日:5月9日


#しゅらシュシュシュ

#樋口塾


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サマリー

しゅらさんはメタ認知の一環として縮尺を変えることの重要性について話しています。前回の発言についても考えており、瞑想や身体値についても話しています。迷走の内的世界について考え、迷走状態に入るための方法を探求しています。

メタ認知と縮尺変更
前回からの続き。
しゅらさんが思い迷いしてた部分ってそこなのかって思ったんですけど、
やっぱりそれも含めてメタ認知なんだろうなって思うんです。
メタ認知って相対化するとか言いますけど、
問題だったりとか、自分で納得できなかったり理解できないところにぶつかったときに、
一回縮尺を変えてみるみたいなのも、いわゆるメタ認知の大事な手法だと思ってるんですよね。
たしかにしゅーさんのほうが、それを言っちゃおしまいだろうレベルで拡大したかと思うんですけど。
ただね、僕はあの時の発言に関しては全然そうは思ってなかったんですよね。
まあそうだよなって。
人間というかホモサペンシ的な尺度だと、
たしかにめちゃくちゃ膨大な時間に感じるけど、
結局はそうだよねって思っちゃったんで。
僕としてはそこにはそこにかかりってほどではなかったんですけど、
たしかに、リグの文脈からそれを考えるとなかなかだよ。
なかなか勝つよね。
しゅーさんが、その辺の文脈から一気にそれぐらいの尺度までピンチアウトできるみたいなのは、
そこが自然にできるってのはなかなか難しいことだと思うんで。
場とか相手を間違えると、その前の話が台無しになっちゃったりするもん、それもある。
実際前回はちょっとそういうところがあったんでしょうね、きっとね。
それを恐れてやらないと、それをやったことで本当は得られたはずのものだったりとか、
そういう選択肢もあるんだみたいなことは示せない。
それぐらいのスタンスを常に出せるっていうのは、難しいし、できればいいってものでもないかもしれないんですけど、
少なくとも選択肢として知っておいたほうがいいなっていうのは、今の話をもう一回聞き直してて。
あと前回の話はきっと思い出しないから。
そうですね、そういう面もあるかもしれないですね。
その同じレイヤーの中で噛み砕いて、そのレイヤーでの解決策みたいなのが見つけられなくなった時に、
僕は逃げとしてそういう風になってる嫌いもあるから、ちょっとどっちとも言えない部分もあるんですけど、
それをまたやった上で、実際前回もやもやしたから、じゃあ次回はどういう風なのがいいのかなって、急にはもちろん成長できないんですけど、
そういう風に思える部分もあるし、なぞぐるさんが今言ってくれたみたいに、
それをやろうとしてできないタイプの、タイプのって言うとあれかな、あんまりあれかもしれないけど、
できる人、できない人、やりやすい人、やりやすくない人みたいなのがいる気がするんで、
僕の中では多分ね、もう自動的にやっちゃってるんですよね。
だからそれを出す出さないみたいなのをもうちょっと自在にできれたらいいなぁみたいな思いは今ありますけどね。
急にはいかない気もしますけど。
こうなっちゃってる感じですね。そういう視点が。広すぎる視点の話になっちゃうと。
話のつなぎが良くないですもんね。
それができるできないは別として、
そういう道もあるんだなってことを自覚してないと、めちゃめちゃ話が歪症化しますし、
すっごい個別例みたいな話になっちゃうんで、あんまり良くないかもしれないですけども、
村企業で働いてて、そこから辞めるって選択肢が思い浮かばない人の心理状況って、
さっき話したような、レイヤーだったり宿舎の変更ができない状態なんじゃないかなっていうふうに思いますね。
この仕事を辞めてしまうと人生ダメになってしまうかもしれないとか、収入がかかってしまうとか、
自分でここは逃げることが、本当に成長のために良くないじゃないかみたいな。
そういう自分で自分をがんじがらめにしてるんですけど、
ここで縮尺を自分の人生、今の生活だったりとか目の前の業務じゃなくて、人生規模で考え直してみれば、
いやこんなかつみたいな、ここでどんだけ苦労してても別に給料増えるわけじゃないし、
健康を崩して、寿命が縮まるぐらいだったら、さっさと抜け出したほうがいいじゃん。
そういうふうに思い直せば、もうその瞬間に退職代以降サービス探して連絡トークとかもできるわけじゃない。
そういうことがやりづらい状況になっちゃうこともあると思うんですよ、人間。
今、いろんな学費を例で出しましたけど、他に選択肢が思いつかないみたいになったときに、
選択肢が思いつかないのは、自分の能力がないからとか情報がつけないからじゃなくて、
縮尺を変えてないから、他の周りには見えてなかったりとか。
実は知ってたし、こういうときに対処する例を前に見たことがあるのに、
それに思い足らないことがあると思うんですよね。
少なくとも、こういうときに、辛いときとか道がないときに縮尺を変えるっていう、
スキルとまで言わないですけど、選択肢と知ってるかどうかみたいなのが、
僕としては結構大事だなと思ってますし。
ちょっとさっき言ったように、僕が言い切ると台無しにしちゃうみたいな話もしちゃいましたけど、
逆に言うと、どんなに辛いことがあったらいい。
考えても宇宙規模で見れば大したことないよっていうところで、
気楽になれるかもしれないじゃないですか。
やれるかやらないかは別にしても、そういう道があるよみたいなのを知ってると、
いざというときの、自分がそこから逃れる方法のひとつとしては、
役に立つかもしれないなと思うんですよ。
すみません、今、切らかっちゃいました。
瞑想とデルタ波
いえいえいえいえ。
縮尺を変える。
僕それ、紐づくかどうかわかんないんですけど、
今日のこの収録のちょっと前に、しゅらさんの今ここラジオの最新話を聞いてたんですよ。
いえいえいえ。
瞑想に行ったみたいな、短めのやつ。
デルタ波でしたっけ?
ああ、そうそう。
熟睡してるときに出るデルタ波でしたっけ?
それが、いつでも出せる状態みたいなのが、その瞑想の目標みたいな。
そう、目標というか、そうですね。
能波的に解析すると、デルタ波の状態まで持っていくことができるのが、瞑想?みたいな。
と言われたんだよな、瞑想会のときに。
はい。
うん、そうそうそう。
ちょっと解釈間違えてるかもしれないですけど、
そういう、向き不向きもあるみたいなこともおっしゃってたけど、
そういう才能があるような方は、
要は、普段の生活をしてても、それが出てるぐらいな感じになってるのかな、みたいに捉えたんですよ。
ああ、そうそう。普段も、その能波で生活ができるっていうことですよね、その人。
そういう才能がある人が。
うんうんうんうん。
それが、素晴らしいかどうかは、ちょっとあれなんですけど、
難しいっていうか、瞑想の達人って言ったらあれだけど、
瞑想がある程度深まった人って、音楽が聴けなくなるって言ってるような人もいるんですよね。
おっと、へえ。
音楽って、分解すれば単音じゃないですか。
ただの音の連続じゃないですか、一音一音の連続。
だからそれに分解、それを繋がりで聴けなくなるみたいな、メロディーとして聴けなくなるみたいな人がいるらしいんですよ。
あらー、なるほど。
そう、だから、そういう、全員がそういう風になるわけじゃないし、
それも別に、そういう人に直接俺は会ったことはないので、分かんないですけど、でもそういう風になる人がいるらしくて、
そういう人は多分ノウハウが違うんだろうなと思いますよね、普段生活して。
うん。
そうか、音楽聴けないってなると、今の感覚ではそれはいいかどうか分かんないって確かになりますね。
そうですね。それは極端な例かもしれないですけどね。
へえ、そっかそっか。
じゃあちょっとまあ、前提として、そういうのも知らなかったし、あれですけど、僕がまあいろんな人からの聞きかじで、ふわーっと思ってるのが、
そういうまあいろんな、迷走にもいろんなやり方があるだろうし、やってる、他の方から聞いたやつで言うと、
その自分をすごいいつも上空から見てるような、その自分を観察する視点で常にいられるように、
僕が聞いた本人じゃないですけどね、教えてくれる人はそういう感じで、もう普段からずっとそういう感じでいられるようになって、
とはいえその現実に動いている自分は、ちゃんと怒ったり笑ったりしてると。
だからそれは同時に、こう、存在できるっていうか、そんな感じのふうに捉えられるような表現で僕聞いたんですよ。
うんうんうんうんうん。
だからそれはなんか僕、いいなと思って、ちょっとずっと普段意識してるっていうところあるんですけど、
うんうんうんうん。
まあさっきのそれ言っちゃおしまいよみたいな話で言うと、僕はその同時にっていうよりは、
そっちのメタ視点の方だけに自分の頭もこう引っ張られて、それしか考えられなくなっちゃってるから、全然あかんなと思ってて、
そういう意識を持ちつつ、それは自分がふり回されない心のどっかでは平穏を保ちながらいるためにそうしたいっていうものだから、
それをやりつつ、話としてはやっぱちゃんと地に足ついた話をしたいなーみたいには、今思ってるなって思いましたね。
うんうんうんうん。
それをその、しゅらさんの今ここらじゅう聞きながらもやっぱ同じようなこと思ったんですよ。
うんうんうんうん。
ちょっと無理矢理なひも付けかもしんないですけど。
はいはいはい。
うーん。
ふふふ。
ふふふ。
これ自体がだいぶ飛びすぎな発想かもしれないですけどね。
でもなんかその、相対化ばっかり。
なんですかね。
なんでもかんでも相対化すればいいみたいな。
悪いハマり方しちゃうと。
それこそさっき話してた、その人は台無しよみたいなことばっかり言うやつになっちゃうんで。
さっきはしゅうさんが言ってた、自分を天空から見下ろしてる感覚っていうのは、
一方で感情に振り回されてる自分すらも、認識しつつ、それをどこまで許容するのかなっていうのが結構。
単に僕がさっき例に出したような、何でもかんでも相対化で語ろうとするやつと、
自分の感情の動きも認識しつつ、
その上で自分をまた別の視点から常に眺め続けるみたいなのって、
全然性質が違うと思ってて。
全社は単純に自分の、いい言い方で言うと都合のいいように解釈してるのと変わらないってことなんですよね。
つまり何でもかんでも相対化して捉えて、
極限こういうものは意味がないですよねってことを言うやつは、
いわゆるダサい業務主義者と同じで、
基本的には何も言ってないのと同じだと思うんですよ。
自分の都合で、自分が楽なように解釈するやつと同じだと思うんですけど。
さっきしゅうさんが例に出したような、自分を見つめて自分の感情とかを、
自分が感じてる感情だったりとか自分の振る舞いみたいなものを全員客観視できるっていうのは、
単純に訓練だったりとか、知識だったりとかっていうレベルではなくて、
身体値と修行
それこそコテンラジオの塚井さんが最近言ってたのが身体値。
態度だったりとか姿勢を超えて、かなり参得してるっていうレベルまでいかないと実現できないものなんだろうなって気はするんですよね。
一方で、さっきのそういうことを実現するってなると、
怒るべき人に怒りつつ、でも怒ってる自分を認識するということをしないといけない。
何に対しても怒らないみたいなことを、逆に認めちゃいけないと思うんですよね。
自分がこれに怒るんだっていうことを怒りながらも、
一方で認識する自分がいる状態に持っていかないといけないので、
これって今言ったような言葉にして、そういう道もあるんだなってことを知ってるだけでは決して……
なるほど。
いろんな宗教で、仏教でいうような修行だったりとか、
いろんな宗教で生活習慣だったりとか、やっぱり体を痛めつけるような修行生活があるっていうのは、
たぶんそこの身体値を高くするためにやってるんじゃないかなっていうのは、
僕は思ってて。
今みたいにそこまで具体的なことができるようになるっていうことはあまり考えたことはなかったんですけど、
いろいろな修行というものは、
結局の悟りのようなことを身体として獲得するためにやってるんじゃないかなと思ってて、
でも一方で、その身体値っていうのは再現性がないので、
仏教で悟った人がカラスの声を聞いて悟った、みたいな。
でもあれが何を言ってるかずっとわかってなかったんですけど、
あれが言ってることは、悟り聞くというのは本当に何でも悟れるし、
誰にとって何か正解があるわけじゃないっていうことを語ってる。
最近ようやくわかってきまして。
なるほどなるほど。
しゅらさんがおっしゃってたような、お瞑想を極めた人。
善さ万別だったりとか、それがいいか悪いかわかんないみたいなことも含めてだと思うんですけど、
これやればいいよねっていうものはないなってことが見えちゃう一方で、
でもさっきピンチアウトとかズームインができた、
メダ認知として縮尺を変えるってことができたほうがいいっていう話もしたように、
迷走の内徹世界への入り口
でも知識として選択肢を知っておくのは、一方で絶対必要だよなと思うんですよね。
でもそれを新大地まで大徳で言うかどうかは別ですけど、
やっぱり一番入り口として、人間としてわかりやすいのは、
やっぱり言語による知識なのかなっていうのはわかりやすい。
いろいろとっちらかっちゃったんですが、結局かなり個別性のあるもので再現性もないものなんですけど、
一方でさっきのノウハウに還元できるような、人間の特性とか身体的な条件に一般化できるような条件を分解して、
そこを入り口にして個別のケースに入り込んでいくみたいなことが多分必要なんじゃないかなと。
逆に言うと、一般化されたものだけをつまみ食いしてても、
自分だけの救済みたいなものはこれ付けなんじゃないかなって思うんですよ。
悩みなかったりとか。
確かにお釈迦様も、自分の言ったことは残すなって言ってたらしいですからね。
どういう意味なんですかね?
お釈迦様自体は、自分が悟って、その後にこれを広めようかどうしようかって迷ってた時に、
ボンテンカンジョウっていう、プラフマーっていう神様が、これは広めた方がいいよっていうのがお告げみたいなのがあって、
この悟りの方法を広めようみたいなことになったらしいですけど、
ただ、昔、お釈迦様が生きてた時代にやられてたのは、一人一人に合わせた大気説法だったんですよ。
相談に来て、どうすればいいですかみたいな。相談に来て、いや、こうした方がいいよとか、こうした方がいいんじゃないみたいな。
一人一人個別に合わせた教えを説いてたんで、
だからそれをメモして残されても、その人だけに届けてるんだから、
他の人には当てはまらないよみたいな意味だと思うんですよ。
なるほど。
わかんない、わかんない。俺の勝手な解釈なんですけど。
その、お釈迦様の原始仏教の本で、スタニパータっていう本があるんですよ。
本というか、どうすればいいですかみたいな相談に来た人の、
それに答えたお釈迦様の言葉が載ってるんですけど、結構ね、なんかね、面白いことも載ってて、
なんか、こういうことはしない方がいいよ、みたいなのが載ってるんですけど、
その一つに、年の一た男は年の若い女、女性にのめり込んではいけないみたいなのが書いてあって、
そういうことをお釈迦様が言うんだ、みたいな。
はいはい。
しかも正確に言うと、胸がティンバルカのような、
ティンバルカ?
ティンバルカっていう果物があるらしいんですけど、古代のインドで。
はい。
ぶっちゃけて言ってしまうと、胸の大きい若い女性に、年老いた男の人は惚れ込んじゃいけませんよ、みたいな。
なんでですか?みたいなことを言ったら、それが一回手に入ると、それを失う苦しみとか恐怖を味わうだろう、みたいな。
男の人はね。嫉妬とか妬みとかいろいろ感情が出てくるから、年相応じゃないことはしないほうがいい、みたいなことを言ってて。
わりとそんなこと言うんだ、みたいな。
族的な、みたいな感じ?
うん。なんかその…
お釈迦様の教え
確かにそれがなんて言うんでしょう、全人類に向けたものじゃなくて、
誰かめちゃくちゃ女好きで色振るみたいになっちゃって困ってる人に対するアドバイスだと言ったら、むしろ当然だししっくりくるなって感じはするんですよ。
仏教とかお釈迦様の言葉っていうと、それこそ悟りとか極楽王女とか、
なんかそういうことが多いじゃないですか、お経とかだと特にそういうことが多いと思うんだけど、
最初はそんなこと言ってたんだ、みたいな。普通のお悩み相談に答えてたんだ、みたいな。
確かに。
で、なんか、お釈迦様が2000年くらい前ですけど、
今、今でも通じるようなことを言ってるんだな、みたいな。
ティンバルカこそないけど、意味合い的には同じですよね。
ありますね。
なんかちょっとあれだな。
それ以外にもね、もちろんなんか、どこぞの王様とか、そういう人たちが訪ねてきて、他の質問とかもしてるんですけどね。
なるほどな。でもやっぱ謎草言われるみたいな、身体地っていうか、自分でそのカラスの声かどうかは人によって多分違うなんかで、
やっぱこう、身体でわかってないと、ないとってことはないけど、わかりたいみたいなのあるなぁ、僕も。
だからその、今ココラジュ聞いてても、迷走一緒にやりたい方は?っていうんで、僕ちょっと連絡したいなって思いましたもんね。
なんか、頭でそう理解してるっていうことと、さっき僕が迷走してる人に聞いたみたいな、
自分が本当に自分のことを他人のように上から見てるような感覚っていうのは、それを得た人のと、そうなんだって僕が今勝手に無理やり頭で理解してるのって、
多分全然別物なんだろうなって思うんですよね。
まあ、そうっすよね。例えばなんか、自転車の乗り方を口で説明するのと、身体で使ってこう乗るのとが違うみたいな感じですかね。
うんうんうんうん。
それをそういう言葉の表現してるっていう感じなんでしょうね、多分ね。
うん。だから自転車とかは体得するのが簡単じゃないですか。まあ、やってればできるけど。
だから迷走とかも、もしかしたらそういう境地に行ったら、一回自転車みたいに乗れてしまえば、割と簡単なのかもしれないですけど。
うんうんうん。
でも、むずいっすよね。むずいっていうか。
何を持ってできてるのって話になりますよね。
そうそうそうそう。何を持ってできてる。
補助輪なしでペダルこげてれば乗れてますよっていうような基準ではないんで、
自分ができてるなって思えばできてるってことになってしまいますし、
いい加減ですよね。全人類の中で一番できてる人でも、できてないって自分が思ってればそれができてないってことになっちゃう。
うーん。
ってことか、迷走みたいな内徹世界に対する判定は難しいかなって思いますね。
うーん。
確かにな。いやー、でもやりたいな。
もう一個シェラさんの表現で気になったのが、
うんうんうん。
あのー、迷走のやつで、今日はあんまり集中できなかったですねっておっしゃってたんですよ。
うんうんうんうん。
で、僕それが、あ、迷走って集中した方がいいんだっていうのがすごいびっくりして。
僕、こう迷走しようとすると頭の中ぐるぐるぐるぐる思考が回っちゃって、
それを、そう、思考しないようにできるだけこう、もう脱力みたいな、リラックス脱力みたいなのを一生懸命意識しようとして、まあ全然できないですけど僕。
うんうんうん。
迷走状態の達成
だから、集中しようとする方がいいのかって思っちゃったんですよ。
あ、いや、あー、そうねー、その集中の意味はちょっと違うかもしれないですね。
そっか、それも身体位置的に違うんかな、はい。
えっと、そうですね、今言ってたその、できるだけ考えないように脱力っていうのが正しいっていうか、まずやってることはそういうことなんですよね。
あー。
考えずに脱力して、で、もう、なんだろうな、
迷走がやってくるのを待つみたいな、迷走状態に入るのをただ待つっていうことなんですよ。
はいはい。
やってることは。だから脱力して、で、考えないようにじゃなくて、あ、考えてるなぁ、
もし何か考えてるか、考えが浮かんでたら、あ、これ考えてるなぁとか、なんか来たなぁって見てると、勝手に去っていくような感じになるんで。
うーん。
考えちゃうと、考えにハマっていくと、どんどんどんどん考えが展開していくんですけど、
うーん。
なんか、広いこう、牧場で例えると、すごい広い牧草地に考えと言う羊がちょこっとやってきても、
あ、来たなぁとか思ってちょっと眺めてればなんか去っていくみたいなイメージで、
はい。
やっていくと、だんだんだんだんこう、思考から離れていって、リラックスして、
うんうん。
で、その状態が、まあ集中という、集中という、
うんうんうんうん。
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