華厳教の世界観
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回は優位心論の心というところを見てきたんですけれども、今回はその冒頭にあった世界の方を見ていくというような話でした。
はい、ここまでですね、その華厳教の世界は仏であるとか、仏は心であるみたいなところで、その心って何だとか、その仏ってなんでその何だろうな、いわゆる主情というか、みんなに仏の心があるんだみたいな話をしてきたかなと思うんですけれども、
今回はその華厳教の一旦最後というところで、世界は仏で、仏は心でって言った時に、その世界って何なのみたいな、そこに関してはまだちゃんとお伝えしなかったというか、
世界も仏で、仏は心だから、世界も心だってぐらいでしか言ってなかったんですけれども、その世界ってなんだよみたいな、これってもちろんね、世界って目の前にあるこの具体的な世界というか、僕らが住んでいる環境以外に何があるんだって話なんですけれども、
でもこれまで華厳教の話とか仏教の話を聞いてくださった方からすると、その具体的な世界というものも、いわゆる悟りの仏の目で見るか、迷っている主情の目で見るかで全然違ったように見えるよっていうことは、なんとなく、そんなのあったよねっていうふうになるかなと思うので、
この世界、そういうふうに迷っているとか誘っているとかで見える世界の違いというものを、華厳教とか華厳宗というものがどんなふうに精緻化して捉えていたのかという、その辺りは今回ちょっと丁寧にお伝えしていけるといいのかなと思ったっていう感じですね。
そうなんだ、あれだもんね。もともと最初に、いわゆる世界というもの、うちらが認識している世界じゃなくて、世界そのものみたいなものがあったときに、うちらが見ている世界というのは、うちらの心が映し出しているもの、作り出しているものだと、それぞれのレンズで。
なので、世界そのものじゃなくて、心の方にアクセスするだけで、基本的にはこの世界、うちらが認識している世界だったりとか、悟りについてというものは網羅できるから、世界そのものについてはとりあえず置いておくよみたいな話があったと思うんだけど、そこの置いたままにしないんだ、華厳教と。
ちゃんとそっちのどうでもいいというか、置いたままにしてる話もしてるの?そっちの世界の話も。
そうです。どうでもよいとは言ってなくて、あくまでもその心なんだけど、じゃあ心によって世界がどんなふうに見えるのかとか、世界というものの現れ方がどんなふうに変わるのかということをちゃんと説明してるんだよね。
なるほど、なるほど。世界そのものの話じゃなくて、うちらが映した世界の話をしてるってこと?
そうです。
じゃあそのものみたいなものは限定はしないのか。
そうだよね、だって世界そのものっていう考え方をそもそもしないんだよね、仏教って。
そっちがあるとも言わねえのか、別に。
ないから。
そっちは置いておくよじゃなくて、そっちはないから。
そうです、ないから。
なるほどね。
そうなんです。
置いておくよじゃなくて、そもそも議論できないでしょ、ないんだから。
できない、そうそう。
じゃあ今回話す世界は、前回というか前々回とかで置いてあった世界そのものの話をしてくれるのかと思ったんだけれども、違うんだね。
違います、はい。
うちらが認識してる世界の話か。
そうです、あくまでも心によって打ち出される世界の話。
OK、OK、危ない危ない、ここ間違えたところだ。
確かにね、結構大事かも確かにね。
それこそ関東みたいな人が考えると、物自体みたいな感じで、人間は認識はできないんだけれども、そういう世界そのものが物の本体、本性というものがあるよっていうふうな考え方が西洋哲学の中世の中世というか近代かの考え方ではあるんだよね。
でも仏教ってそういう物そのものとか本体とか、物の本性があるっていう考え方も最初から捨ててるから。
そうなんだね、はいはい。
世界そのものっていうふうなことはやっぱり考えないんだよね。
そこを切り替えないとな、ちょっと関東的な感覚になってた。
なので世界があるとも言えないっていう中で、いろんな心が変わっていくことで、どんなふうに世界の現れ方とか世界の見え方が違ってくるんですかっていうのを4つに分けて考えましょうっていうのがあるんで、それを今回お伝えしますよっていうふうな感じなんですよね。
はいはい、なるほど、わかりました。
はい、で早速にちょっとその考え方を伝えていこうと思うんですけれども、その考え方っていうのは四方解って言って、四は4つね、4。
四方解、理法解、者伝解、及び事事無碍法界
で、方解っていうのは法則とか、法律だね、法律とか法則とかの法に、あと解は世界の解ね。
なので、すごいざっくり言うと4つの世界があるよっていうふうな話なんだけれども、ちゃんと見ていくとこの法解っていう言葉のニュアンスも4つあるって言ったじゃないですか。
それは例えば四方解とか理法解とか、これはちゃんと言うんだけど、そういうふうにあるんだけれども、その四方解の法解と理法解の法解は違うよみたいな。
ニュアンスが微妙に異なってるんだぜっていう話があって。
そうなの?違う言葉使ってると。
どこまで言っても定義をしてくれないっていうか、定まったものじゃないっていうのが仏教らしさかなと思うんですけど、あんまりそこまで踏み込みすぎるとややこしいんで、あくまでも4つの世界があるっていうふうに捉えてもらえればと思うんですけど、
さっき言った通り、あるって言っても世界は別にないしとか、別に世界が4つあるって言うけど別に別々の世界があるんじゃなくて、そういうふうにいろんな世界の捉え方ができるよねっていう話だから、
そもそも一個に定まらないよねっていうのが仏教的な感覚なのかなっていうふうに受け止めてもらえると仏教フレンドリーかなとは思います。
なるほどね。4つあるじゃなくて、捉え方として4つあるよみたいな。
4つと言えるよって感じかな。
なるほどね。難しいね、表現がね。
あるって言っちゃうとね、すごくなんだろうな、それが存在するんだ、あるんだってなっちゃうんだけど、あくまでも存在するわけではありません。
じゃあ何かっていう話なんだけれども、4つそれぞれ名前があって、これちゃんと説明していくんで、まずは耳だけでいいんですけれども、
さっき言った、じほっかい、これはじっていうのは事実とかのことね。
で、りほっかいっていうのは、理科とか合理的とかの理ね。
理性の理ね。
理性の理です、はい。
で、次が、りじむげほっかい。
理性の理に、事実のじに、むげっていうのが、げっていうのがあんまり使わない言葉なんですけど、妨げるっていう意味がある漢字で、
で、むげってなると、妨げるものが何もないみたいな感じの言葉になるらしいですよね。
つまり、理とじっていう別々のものがあるんだけど、それがある種一体になって混ざっているとか、溶け合っているみたいなことが、このりじむげほっかいっていうような言葉です。
これが3つ目で、最後がじじむげほっかいっていうのがあって、じじはこととことね、事実のじが2つ重なって、じじむげほっかいっていう風になってきます。
なんか呪術回戦みたいだね、なんか。
呪術回戦わかんないよって、だから。
見といて。
そんな感じなの?技名ってこと?
ん?いや、世界観。
あ、世界観。
言葉の響きというかね。
なるほどね。
そういうのもある、むしろ呪術回戦がそれとか取ってきているのかもしれないですけれども。
いや、違うと思うけど。
当然ね、ここでのキーワードって、このじとりっていう言葉ですと。
これが何ぞやっていうのがわかれば、これが理解できますよっていう話なんだけれども。
まずこのじっていうものから伝えていきたいんだけど、すごいわかりやすく、わかりやすくというかイメージしやすく言うと、
四季即絶句という言葉があるじゃないですか。
はいはいはい。
あれの四季に相当するものですよと。
あー、そうなんだね、はいはいはい。
なのでじっていうのはほぼ四季だと思ってもらえばと思うんですけど、
どっちもわかんないよっていう方もいらっしゃる、もちろん多いと思うんで。
あとお伝えしていくと、いわゆるその、日本語だとやっぱ物事とかって言うじゃないですか。
物事、はいはい。
物事っていう時に、物っていうのはまさに存在するもの、リンゴとかだと思うんですけど、
ことっていうのはどっちかっていうとやっぱり出来事とかって言われるみたいに、
要は変化とか行動があった時に、それを指してことって言いますか、
要はリンゴを食べることとか、リンゴを収穫することとか。
収穫するとか食べるっていう行動の方がことっていう風に言われて、
リンゴとかそれを収穫するとか食べる自分っていうものは物というか、人物も物だよね。
はいはいはい。
っていう風に言われますよねと。
なので物っていうのが固定的なある種の存在だとした時に、
こととか字っていうのは、ある種の自分と物が関わる関わり方というか、
そういう関係性の中で起きたような現象とか出来事みたいなことを指すんだよね。
そんなに一般的な出来事とか、出来事のことっていうこれが字だと思うんだけど、
あんまり一般的な感覚で。
大丈夫です。
さっき言った通り仏教って物を固定的に見ないというか、物の本体はないっていう考え方なので、
そもそも物的な世界観って言えばこと的な世界観なんだよね。
なるほどっていうのは、例えばさっきりんごが、りんごを食べるとかりんごを収穫するっていうのがことでハエトは表現したけれども、
仏教の世界観で言うとりんごとか人間っていう本来どっちかというと名詞というか物だよね。
うちらが言う物事の物の方も仏教的にはこの字ことの方に入るんだよみたいな感覚っていうこと?
そうですね。もうちょっと言うと、僕ら普段りんごとかって言っちゃったりするんだけど、
生きてる感覚からするとりんごが私の目の前にあるということが起きているっていうのが正しいじゃないですか。
はー、なるほどね。
りんごっていうのも、みかんとかブドウとか他の果物と比較して初めてりんごというものとして、
我々が認識する果物というカテゴリーにおいて存在するということがあるって話だから、
物が単体であるっていうふうには捉えないんだよね。
なのでそのことには、ひとつひとつのりんごとかブドウとかっていうのも、
りんごがあるということとかブドウがなっているということみたいなことに全部集約されるというか、
そういう中で考えましょうっていう感じなんだよね。
すべての前提に、ここに仮にりんごと呼ばれているものがあるっていう、
ここに仮にハヤトというものがおるみたいな、仮にっていうね。
たまたまっていうね。
たまたま今そういうふうになっているけれどもっていうのがつくんだよね。
さっき物っていうのは客観的でとかって言ったんだけれども、
本来的な仏教でいうと主観とか客観とかもないっていうような世界になっちゃうので、
ある種なんていうのかな、そういうふうに関係性において成り立っている世界観っていうのがこと的な世界観、
自的な世界観ですと。
これって実はまさにウィトゲンシュタインの時にやったと思うんですけれども、
世界っていうのは事実の相対であって物の相対ではないみたいな言葉があったんですよね。
あったね、気がする。
ちょっと覚えないと思うんですけど。
うん、なんかすごいいい言葉あった気がする。
気がする。
そういうふうに言った世界観っていうのが結構ね、
この仏教のこと的な世界観っていうのにも結構表されていますよね。
そういった意味で、
自とかことっていうのがそういうふうに物じゃなくてことによって世界が成り立ってますよっていうふうなことを言っていて、
これが持法界とかっていうふうな言葉に表れてます。
はいはい。
自活界
っていう感じなんだよね。
次に理、理性の理とか断りっていうふうな言葉だね。
これは何を示しているかっていうと、
さっきが、
字が式だとしたらこっちの理は空に相当しますと。
いわゆる空っていわゆる物の本性がないとかさ、
本体がないっていう話をさっきからずっとしてると思うんですけれども、
空自体はそういうふうなまさにことなんだよね。
物の本性がないということを指して空って言ってるんで、
結構動詞的な表現なんですよね。
逆に理っていうのは名詞的な表現というか、
そういうふうなことがあるというか、
空の働き者を指して理というふうに言ったりします。
すごいざっくり言うと、
いわゆる仏の真理とか、
仏の断りっていう意味での理というふうに受け取ると、
イメージしやすいかなと思います。
字と理がどう関係するかっていう話なんだけど、
字っていうのがいわゆるリンゴがあるということみたいな現象、
一つ一つの現象っていうのを表すとすると、
理っていうのはその現象を貫く究極原理っていうか、
前回言ったあらゆる物に仏がある、
仏があるということを指して理と言いますみたいな、
そういうふうな感じなんだよね。
確かに空と式という概念で理解しておくと、
把握はしやすい気がするね。
ずれは少ないかなと思うんで、
そんなふうにいわゆる個別具体的な現象である、
字あるいは式って読むのと、
結構抽象的で究極的な原理と言われるような、
理イコール空だよね。
その2つを使ってこの世界を説明していきますねみたいな、
そういうのがこの四北海でいわゆるような、
華厳経とか華厳宗の考え方なんですよね。
うちらみたいに空とか悟りを開いてない人は、
四北海的なところの見方をしているというか、
そういう世界観だよって話だもんね、たぶんね。
うちはできないけれども、
悟り的な視点で物事を常にフラットというか、
空な感覚で生きている人にとっては、
この二北海的な世界観で物事を捉えているとか、
生きているというふうに言えるみたいな感覚なのかな、
ここまでは。
はい、そんな感じです。
ただもうちょっとさっき言ったように、
4つあるじゃないですか。
この後それぞれ一個一個また説明していくんですけれども、
すごいざっくり言うと、
まさに言ってくれたとおり、
四北海というある種レベル1みたいな世界というのが、
普段僕らが生きている世界ですと。
二北海というのがさっきやりにくいと言ったとおり、
仏の悟りというか、
真理というのを知った人が見る世界なんだけれども、
その3つ目の理事無限北海というのは、
ちょっとそこからまた更に進んで、
物事を捉えますと。
ただここまでは結構説明すれば理性で捉えられるんだよね。
ただ最後の、
利活界
理事無限北海という最後4番目は、
ちょっと理性じゃ無理ですみたいな。
体験しないと分かりませんみたいな世界になってきて、
たぶん3番目まではふむふむっていけると思うんだけど、
4番目はやっぱ分からんってなると思うっていう。
そうだ。
でもそこも織り込み済みで、
1回聞いていただければというふうに思っております。
というような話なんですよね。
たださっきの事と理の話とか、
そうやって式ではね、空ではねっていうふうな理解があれば、
そんなに難しくはないというか、
繰り返しの説明でもあるので、
あんまり安心して聞いていただけたら嬉しいなと思っています。
というふうな感じなんですけれども。
ここまで聞いたら、2つでいいじゃんっていう感じだよね。
そう、事と理だけだよね。
2つあるじゃない。
うん。
ただ違うんですよ。
はいはい。
さっきのはね、繰り返しだったんだけど、
自活界、まずこれ何かっていうと、
いわゆる現実的に僕らが生きている、
いろんな現象が起きている世界だというふうに思ってもらえれば大丈夫です。
うん。
前回言った通り、
悟った人だと山は山じゃなくて、
山はもう川で、川はもう山でみたいな話をしたと思うんですけれども、
あくまでもこの自活界のときは、
山は山です、川は川です、
で、ぶどうはぶどうで、りんごはりんごですみたいな感じで、
ちゃんとっていうか、
普通に区別がある世界なんだよね。
うんうんうん。
僕らが普段認識している通り、
主観は私っていうのがあって、客観であなたっていうのがあってみたいな世界観で、
基本的にはこの世界だけしか知らずに生きていく人がほとんどだよねっていうか、
別にそれで何も困らないじゃないかって話なんですけれども、
人間の真理を追求したいとか、
苦しみを取り除きたいとかって思うと、
この世界だけで生きているとしんどいですよっていうふうな話があって、
そうじゃない3つの世界についても考えてみましょうやと、
ちょっと分かりやすく説明しておりますぜっていうのが、
この自活界の考え方でありますよというふうなことでございます。
次の利活界なんだけれども、
これは逆に言うと利しかない世界なんだよね。
要はもっと言うと利しか見えてない世界って話なんだけれども、
つまりは万物一切っていうのは空であると。
だからこそここの山とか川とかもなくて、
全部空なんだみたいな。
何かが起きている。
リンゴを食べるとかって言ってもそんなリンゴもないし、
それを食べる私もいませんみたいな感じに、
このことを捉えますよっていうのが利活界の世界観なんだよね。
もっと言うと空って何かっていうと、
理事無限北海
これも本当はちゃんとまたやりたいってずっと言ってるんですけど、
縁起っていう言葉があるじゃないですか。
十二縁起とかでやったね。
十二縁起とかっていう縁起。
これすごくざっくり言ってしまうと、
いわゆる五縁みたいな感じなので、
五縁って何かっていうと、
ある条件によって次の出来事が生じるってことなんだよね。
じゃあただの因果とも違うんだちょっと。
因果とも違うんだよ。
原因と結果じゃなくて、
五縁なので、
要は因果って必ず、
例えば何だろうな、
水をかけたら火が消えるとかってことじゃないですか。
それで要は再現性があるんだけど、
五縁って別に再現性がないんだよね。
そうなんだ。
ちょっと違うんですよ。
わかりやすい説明のためにちょっと反対の考え方なんだけれども、
これがまさにいわゆる一神教の世界観なんだよね。
そうなんだ。
起立の教とかだとやっぱりまさに因果で、
神がいて、神が作ったから人間がいるっていう、
神が原因で人間がやっぱり結果なんだよね。
で、条件とやっぱり因果の違いって結構難しいんだけれども、
やっぱり必然性なんですよ。
やっぱり起立の教の世界観だと、
もし神がいなかったらみたいな想定って起きないんですよね。
神がいるっていうのも大前提だから。
神がいて、神が人間を作り保うだから我々が生きているっていうのは、
もう覆せないんですよ。
でも条件とか縁起の世界だと、
例えば両親が子供を生み出した時にも、
もしかしたら自分じゃない人が生まれてきたかもしれないし、
でもたまたま自分というこの世界に生まれてきたっていう、
そういう偶然性っていうのがやっぱり入り込むんだよね。
ただ、とはいえほぼ確立的なことはあって、
例えば仏教でいうと、生まれて生きたら、
老いて病気になって死ぬみたいなことは基本的には起きますよね。
でもそれは神によって定められた必然ではなくて、
いわゆる自分の努力で超えられるから、
生まれるっていうことをやめるために悟りを開いて、
輪廻転生から離れて別の世界にある種行きましょうとか、
苦しみの輪廻から離れましょうということで、
苦しみの輪っかを断つっていうことができるんだよね。
アプローチの仕方がなんか違うよね、不老不死みたいな。
そう、全然違うんです。
それは必然じゃないから。
生まれて死ぬのが必然だって言われたら、それを乗り越えれないじゃん。
そこも必然じゃないのか。
必然じゃない。
たまたま生まれて、たまたま死んでいくっていう存在として、
我々は生きているだけだから、
その存在を乗り越えればいいじゃないかっていう考え方なんだよね。
結構違うんですよ、前提から。
なるほどね。
ちょっと今、条件とか縁起って話に行っちゃったんですけど、
理法界っていうのは、まさにそういう全てが、
誤演とか条件によって起きるっていうふうに物事を見ます。
そういうふうな世界で見ると何が起きるかっていうと、
一個一個の存在っていうのをある種否定するというか、
そんなものは全部ないよっていう話になっていくんだよね。
それはそれでいいんだけれども、
ここはやっぱり普通に生きてたら、
これも素朴な実感として、やっぱり山はあるし川はあるし、
流れていって雲は浮かんだり消えたりしてみたいなっていうのは、
否定はできないというか、
そういう実感ってやっぱりどうしてもあるじゃないですか。
そうね。このモードがたまに東洋の話で出てくるさ、
悟ったけれども、やっぱり現世で生きていかなきゃいけないよねっていうところで、
なんかこの空モード、空しかないモードだとさ、
もう腹減っても他人事だったらさ、
もう3日ぐらいで死ぬじゃん。
死んじゃう。ガシしちゃう。
それでいいのっていう話があるから危なそうだね、これは。
そうなんだよね。だからこれはやっぱり大事なんだけれども、
それだとやっぱり不況をしていくとか、
他の人に仏教を教えていくってことはなかなかできないですよね。
確かに大乗仏教的に。
そうだね。3日で死んじゃったら無理だね。
そうそうそう。
結局ね、あなたも私も一緒だから別に、
私が悟ったらあなたも悟ったことなんだみたいなのはさ、
いわゆる真理としては正しいかもしれないけれども、
やっぱり現実的に生きていくスタンスとしてはちょっと足りないというか、
これがね、
ちょっとじゃないよ。
ちょっとじゃないか。ちょっとじゃなかった。
だいぶ足りないじゃないですか。
確かに。だし危ない虚無主義になりそうだね。
そうなんだよね。
ここで留まっちゃダメだねっていうのがあるんで、
次の理事無限国会っていうのが出てきますよと。
だからそっか、そんな難しそうなのが出てくるわけか、さらにね。
そうそうそう。そうなんです。
で、普段ね、これ言葉は難しいんだけれども、理解するのはそんなに難しくなくって、
要はさっきね、理事の話をして、理の話をして、
で、無限っていうのは妨げがないとか一体であるって話をしたじゃないですか。
つまりこれは理事無限っていうのは、要は理と事が妨げなく溶け合ってますよっていう話なんだよね。
つまり、さっき言った通り、世界にはちゃんと理も事もあるというか、そういう働きっていうのは全然あって、
華厳教の世界観
で、やっぱり前も言った通り、仏が人間になる、人間が主状になるとか、主状が仏になるっていうのが起きるように、
その空っていう働きも、いわゆる空っていう働きの中で、りんごの実がなるっていうふうな現実の現象になるし、
でも現実の現象も結局は空だってことは変わらないしっていうふうに、それぞれ別れてないんだと。
両方、あるっていうとまた存在っぽくなっちゃうんだけど、両方のことがちゃんと起きているのがこの世界なんだよっていうふうな話なんだよね。
なるほど。やっぱり実際、仏教ってものを勉強し始めたりとか、仏教を始めると、
まずこの2番目の違法化っていうか、虚無主義みたいな悪い方に感化されちゃうみたいな人も出てきたのかもしれないね。
全然あると思うね。やっぱりね、それでもいいじゃないかっていう考え方もあると思うんだけど、
やっぱりそれは自分だけが救われるというか、心理、教えに傾倒しちゃって、実際の苦しみを救うっていうところからだいぶ遠いじゃないかと。
そうだよね。確かにこの苦しみから逃れるためには、このカリソメの世、カリソメの自分っていうものを信じ合うみたいなさ。
全然なりかねないもんね、確かに。
そうなんだよね。やっぱりそれはちょっと物足りないっていうので、こういうふうなことを言います。
これっていわゆる四季即是空、空即是四季っていうこの8文字の世界なんだよね。
では、四方界が四季の世界かとしたときに、四方界は四季即是空の世界ですと。
そこで終わっちゃうんだね、空で。
ただ、理事無限になると、ちゃんと空即是四季でまた戻ってくる。
なるほど、なるほど。
そういうふうに両方があるよっていうふうに考えるのが、実は大事だよっていうふうな話でございます。
ここまで言うと、結構これまでの華厳教の話とか仏教の話を聞いてくださった方だと、
心から納得ができるかもしれないけれども、理解ができる世界観なんじゃないかなって思うんですよね。
そうね、この前聞いた重々無意識とも重なる部分なんだよね、概念が。
本当にその通り言えば、重々無意識でやったところによって、世界が理北下になるか、理事無限北下になるかっていうのが変わってくるって話だから、
かなり対応してるんだよね。
つながってるんだ。
心の状態と世界の状態とっていうのはイコールとかかなりつながってますよ。
で、まさにその話でいくと、最後の4番目の理事無限北下なんだけど、
これって重々有意識の時に言った最終段階でね、平穏無限有意識って話をしたと思うんですけど。
覚えてないけど、その言葉があったかなみたいな。
あのさ、ほら、宮殿に飾られる網があってさ、1個1個の網目に宝石がかかわれててさ、
あー、言ってた言ってた。
お互いに照らし合って、それが無限に写し合ってるみたいな話をしたと思うんですけど、
この理事無限北下っていうのはまさにそんなイメージを表してる世界なんですよね。
苦と仏の関係
で、ちょっともう少し言葉に寄って説明していくとさ、
まず2つあるかなと思って、1つは理どこ行ってんって話があると思うんですよ。
理事無限北下だったのが、事事無限北下になっちゃったじゃないですか。
一番ダメそうだよね、なんか。
そうそうそう、事しかないじゃんみたいな。
でも、事2つあるやんけど。
そうね。
事北下と事事無限って、あれなんで2つになったの?っていう話なんだけれども、
実は結構これを話したいがために、あえてけごん教の話をですね、
これまで4回分ずっとやってきたいなところも正直ございます。
そうなの?そんなに大事な。
事事無限北下すごいのよ。
面白くって。
で、さっき言った通り、心の働き的に言うと、
帝王無限有意識っていう10段階目の心で見た世界での事事無限北下だっていう話なんだけれども、
なんでその理が消えちゃったんですかっていう話なんだけど、
これさっきからお伝えしている通り、そもそもさ、やっぱり苦とか利とかってずっと言ってるんだけれども、
結局それって苦そのものがあるっていうふうにも絶対言えないし、
仏の真理というものがあるとも言えないんだよね。
なるほど。
なので苦は苦自身を否定するし、仏は仏自身を否定するんですよ。
はいはいはい。
なので仏の真理っていうのも実は方便。
要は仏教とか学び始める人のための手段であって、
それがあるんだとか仏の真理というものを自分が大得するなって言っちゃうと、
もう間違っちゃってるんだよね。
わーなるほど。
ビトゲンシュタインじゃん。
ビトゲンシュタインだよね、最後はしご外したの。
そう、はしご外したのビトゲンシュタイン。
論効か。
論理哲学論効で理解した人はこの本はもう捨てていいよっていうふうに言った人はね。
そうだそうだそうだ。
まさに方便だよね。
うん、まさに方便です。
じゃあね、さっき今理はじゃないよって言ったじゃないですか。
うんうん。
じはどうなるんですかって言うと、山があるって言っちゃダメだな。
じゃあ例えば、落ち葉が、なんだろう、あ、違う、葉っぱが落ちるとか、川が流れるとかっていうことがないかって言うと、
それはやっぱり現実的な感覚としてあるじゃないですか。
川が流れるっていうことはやっぱり否定はできないとしたときに、
僕らが普段思っているように、いわゆる個々独立の客観的な川という個別の存在とか、
葉っぱっていう一枚一枚の個物っていうものがあるんじゃなくて、
さっき理事麦北海で見たとおりね、それぞれの葉っぱにも川にも共通の原理っていうものはちゃんと存在しています。
地と地の繋がり
それがいわゆる空とか理なんだけど、でもそれがあるって言っちゃうのは3番目の理事麦北海の世界観の話なんであって、
4番目にあるのはもう理が消えた世界だから、ただ地しかないって話なんだよね。
ただ地なんだけど、地っていうのは個別の、地北海で言ったような川は川、山は山っていう地なんじゃなくて、
地と地の間にある種人の認識を超えたような共通性とか原理っていうものがちゃんと繋がってるのと。
それを理というふうにはもう言えないから、地と地が繋がっていて解け合っているっていうふうなことにしか言えません。
わー、なるほど。地がただ2つ集まったわけでもなく、もう地でも理でも表現できなくて、
もうこの自分が悟った自分が生きているこの世界のことを地々としか表現できないじゃん。地でも理でもないよね。
地時無形としか言えない。
無形か。はいはい。
だから私が川を見てるんじゃなくて、私と川というものは確かにあるんだけれども、
川も一つの存在としか言いようがないような感覚で生きているんだっていう。
そこには別に空とか仏っていうものすら別にいる必要がなくて、
仏もいるし、空も別にあっていいんだけど、なくてもいいみたいな。
そういうふうな言い方しかできなくなっちゃうんだよね。
なるほど、すごいね。そっかそっか。
四季即是空、空即是四季っていう、もう梯子を渡り切って外した段階なんだ。
そう、そうなんです。すごいね。兄貴はやっぱり仏教マスターになれるね。
本当?
なれると思う。
聞くだけだけどね。聞く側から忘れてるけど。
なるほど、なんかすごい感覚だね。すごそう、それは。
すごそうでしょ。
でね、これが実は華厳教の第一回で一時即一切とかさ、
一つの毛穴に無数の仏がいるっていう表現があるんだよって言ったと思うんですけど、
これは存在論からすると絶対間違ってるんだよね。
一つの毛穴にそんな無数の存在が入るとかってありえないじゃないですか。空間的に考えるとね。
さっき言った通り、自信無限の感覚で言うと、やっぱり私の中になんだろうな、他のいろいろあらゆるもののやっぱり影響ってものがあってとか、
この一個の毛穴っていうのはすごく些細な存在に対しても、やっぱりその無数の仏っていうのはありとあらゆる存在が影響を与えてないわけがないっていう。
だからやっぱり共通の原理という中で、それぞれ存在というか現象として、事として起こっているからだっていう話なんだよね。
なるほど。自信無限っていうふうなところに達すると、そうなっちゃうんだね。一本の毛穴、一つの毛穴に対してもそういう概念でね。
あらゆる縁起の雰囲気に成り立っているというか、この目の前に自分が認識しているとなると、そんなただの毛穴ではないよという話なんだね。
そうなんですよね。なので、やっぱりこれは感覚というか納得せよというのは難しいと思うんだけれども、
ここまで徹底して考えるからこそ、単なる悟ればいいじゃんとか、仏の真理、仏になればいいとかってことじゃなくて、
やっぱり仏教の真髄としての境地というか、人間としての究極的なものが示されているんじゃないかなって思ったりするんだよね。
これは本当にすごいね。
本当に繋がった?
これやっぱり禅との比較、前回あったと思うんだけど、禅というものがだいぶこの非根拠的な概念をもっと実践的にやっている感覚があったと思うんだけれども、
なんかその禅で物足りないというかちょっと今思ったんだけど、いわゆる禅門道を悟った感じで乗り切るって多分できると思ったんだけど、
これって多分今回のリジムゲー、北海か、ぐらいまでいければ、多分禅門道クリアできると思ったんだよね。
3番目の世界だね。
ただやっぱり本当の意味で悟ってる人って多分ジジムゲー北海レベルまで達していて、そこから見たときに初めて、まだ3つ目だね。悟ってはいそうだけど、まだ物足りないねみたいな。
その場があるんだなっていう、そこがイメージとして今回、その悟りレベルが分かれた瞬間だった。
悟ってるっていうだけじゃなくて、その中にもレベルというかやっぱりあり方とかスタンスの違いがあるっていうのは本当にそうだね。
だから本当の意味でどっから悟ってるというかは知らないけれども、そこが面白いと思った。
一応悟りの52段階だけはあるんだけれども、
だから怖いんだよね、それも。
怖いんだよね。もっと細かくあるんだけど、悟りっていうのは意外ともっと階段がいっぱいある世界なんだよね。
一応、離北界も当然悟ってる感覚ではもちろんあるし、普通の人はそこまでは当然行けないっていうものなんだけれども、
でもやっぱり離北界でもまだ足りぬと。もっともっと世界って奥深いんだぜっていうのはやっぱりこの四北界の考え方にあるんだよね。
いやー面白いね。なんかその延長線上だ気もするしね、ちゃんとその二次無下北界と二次無下北界がさ、
たぶん悟ったって、たぶんバーンってその口に妙情が飛び込んできて、悟ったーっていう空回ってことがあったときに、
それがどの段階かわからないけど、たとえばそれが二次無下北界の入り口だったとすると、まだその空っていう存在にビビッときた段階みたいな話で、
たぶん普段の生活をしているにあたり、たぶん結構頭でこれも食う、あれも食う、こっちも食う、これは食うみたいな、たぶんそういう、そこは明確に見えているし、
身体的にも理解しながら生きていると思うんだけど、それも十分悟ってるし、人にたぶん教えを導くみたいなことができると思ったんだけど、
二次無下まで至ると、たぶんこれは空、これはシティみたいなものの、そのタイムラグがたぶん0.00000000みたいな、その瞬間になった人みたいなイメージが湧いて、すごい面白かった。
そうね、そこはすごく感覚として合ってると思う。やっぱり仏教の世界でいうと、世界の起こり方も全部縁起だから、世界がずっと持続しているというふうに言わないんだよね。
そうなんだ。
華厳経と俳句の世界観
一瞬一瞬前の世界の状態を条件としてとか語源として、次の一瞬の世界が生まれているっていうふうな世界観なんですよ、実は仏教って。
もう誰でもね、そんなこと考えてる。すごすぎるね。
だからデジタルなんだよね、実は仏教的な世界観って。なので本当にそういう意味では、瞬間瞬間に生きるみたいなことがまさにAKM言ってるくらい通りかもしれないね。
そんなこと意図してなかったけど。
そういうふうなことがイメージされるってことだよね、仏教的な感覚に触れてると。だし、わかんないじゃん、やっぱりね。僕も言葉では言ってるけど、まさにもちろん実感なんてしてないし。
私ね、それを感覚的に捉えて言語化した人の存在がね、何者だよって思う。
実はまさに兄貴今いいこと言ってくれて、成人発達理論っていうのはある種現在の大人が成長していくとか学んでいくっていうふうな発達段階を表した理論があるんだけど。
それでもいわゆる知っていると喋れるとやっぱりやれるっていうことを分けて考えてて。
やっぱりめちゃめちゃ言葉では言ってるんだけど、実際やっぱり実践できてないじゃんとか、本当はそういうふうに動いてないじゃんって人っていくらでもいて。
そこは区別して考えようねってのがやっぱりまさに現代の発達理論というか学習理論でもあるんだよね。
そういうのがあるんだ。
僕は今完全に喋ってるけど実践できてませんとか、本当のことは分かってませんっていう、なんていうのかな、AIみたいな感じなんだよ。
AIは別に感情的に喋ってるわけじゃないじゃん。仏教AIみたいな感じで、さも分かったかのように、自治無形、北海ダメかって言ってるけど、全然分かってません。
別にその道に進んだわけでもないしね。
ただなんとなくはそういうことかもね。僕はそういうふうなことを言ってる人たちがいるんだねっていうことを伝えたくて喋ってるので、
ちょっとそこは許してくださいというか、自治無形、北海の世界観のことを知りたかったら、たぶんお寺に行くしかないっていうふうな感じですよと。
ただね、一個実はそれを感じれる良い例があって、
本の中でね、やっぱり日本人の精神性ってすげえなって改めて思ったんですけれども、俳句ね。
俳句って実はこういう仏教の世界観とかめちゃめちゃ入り込んでますよと。
例に挙げられていたのが、超有名な松尾芭蕉のさ、古い池や河津飛び込む水の音っていうのがあるじゃないですか。
これで誰もね、たぶん一度は聞いたことがあるとは思うんですけれども、
これをね、華厳経的な考え方で解説してるような話があったんですよ。
へー、ほうほうほう。
で、何かって言うと、これをね、やっぱりただ、要は古い池にカエルが飛び込んで水の音がしましたとも言えるわけじゃん。
そうだね、うん。
事実として。でもこれはもう地北海なのよ。
はいはいはいはい。
要はカエルも古い池も水も、その時いた芭蕉さんという人も、全部ここで独立のバラバラの存在が起きて、
ただ現象として言ってるだけですと。
うんうんうん。
なんだけどそうじゃなくって、もう時事無限北海のね、この世界観でこのハイコードを理解するとどうなるかっていうと、
もうなんかね、こう、ポチャンみたいな、その音が聞こえたっていうことだけなんだよね。
はいはいはいはい。
その音だけがあって、その音が響いてる空間に古い池もあり、カエルもおり、水もあり、私、芭蕉もおりっていう風に、
やっぱ全ての存在が一体となって解き合っていますと。
うんうんうんうん。
そういうその空間というかその瞬間だよね。
仏教の宗教的な要素
それを切り取ったのが古い池や川津飛び込む水の音っていう風な体育表現であるっていう風な考え方ですよと。
おーなるほど。
うん。
感受性みたいなものが何なのかって話だね。
そうだね。
ほうほうほうほう。
だからやっぱりロジカルにカエルがいて古い池に飛び込みましたってことじゃなくって、
その空間とか、例えば人によってはこれを、このハイコードを聞いた瞬間にやっぱり森の鬱蒼とした感じとか、
木々の匂いとか、その中で何も聞こえない中でボチャンって音が聞こえた時の自分の感覚とかっていうのを思い起こせる人もいて。
うんうんうんうん。
逆に言うとそれを表現させるのがこの場所の奥の素晴らしさだっていう風なことなんだよね。
なるほどね。そこまで共感させてしまうってことだね。
そうだね。そこまでのことを言葉というもので伝えてしまう。
うんうんうんうん。
それで言うと言葉って、さっき言ったように空で本体は本当はないから、別に古い池のこともカエルのことも言わなくていいんだよね。
うんうんうんうん。
ただその言葉を使って、自分が感じたその瞬間のきらめきというか、目の前に起きた現象そのものを表現してるっていう。
うんうんうんうん。
これはもちろん華厳経の学者さんの解釈なんで、いろんな解釈がもちろんあるとは思うんだけれども、
そんなふうな説明をされても、この俳句ってすげえとか松尾芭蕉すげえってなるんじゃないかなってちょっと思ったんだよね。
でも僕はそう感じたんだよね、改めて。すげえな、この俳句みたいな。
なるほどね。その場所の凄さを感じた。
そう、芭蕉すげえって感じなんですけど。どう、なんか伝わった?伝わる?
うん、分かる分かる。あれだよね、松尾芭蕉の悟りレベルみたいなものを改めて感じたって話だね。
そうだね。彼もさ、仏教に結構詳しかったはずなんだよね。ちゃんとごめん、調べてないんだけど。
やっぱりそういうふうなものを前提に考えてるはずだから。そういうスタンスを持って生きてた人なんだなっていうのを改めて感じたんだよね。
まあ確かに、悟ってる悟ってないはともかくとして、いわゆる芸術家というかね、そういう表現者としての鋭い感覚みたいなものだよね。
そうですそうです。
間違いないんだなっていう話がね、こっちのその仏教悟り側の話から説明してもっていうね。
最後はちょっと俳句の話で締めたんですけれども、やっぱりこういう全てのものが繋がっているとか、解き合っているという感覚って、
基本的には普段考えないけど、言われてみれば、なんかそういう世界観ってあるよねとか、なんかわからんでもないみたいなふうに感じる方もいらっしゃったんじゃないかと思うんですよね。
やっぱり、こういった仏教的な世界観とか考え方って、なんとなく僕ら日本人の精神にも含まれているというか、そういう感覚の中で生きてる部分って結構あるんじゃないかなと思いますと。
でもやっぱりそれを普段の生活でやっぱり意識することは少ないし、ましてや子供みたいにやっぱりね、僕らが生きてるのは自発界で、
悟りというのは理発界と理事向け発界と自治発界があって、向け発界があってみたいなことってやっぱり言わないんじゃないですか。
言わないし知らないし。
知らないし、そうそうそう。
だからやっぱりそれをね、結婚教、結婚宗っていうのはやっぱりやり切ってくれているというか、
まして仏の真理、それがそもそも空ではしないんだけどっていうことまで含めて支えてくれるっていう意味では、
やっぱり非常に優れた教典であり、哲学書であり、宗教であるみたいなことを改めて感じたんですよね。
はいはい。そういえば宗教だったね。
そう、宗教なんです、これ。宗教としてはね、うまくいかなかったっていうのは前回かな、前々回からまたお伝えしたんですけど。
うまくというかうまく広がらなかったってことだね。
そう、広がらなかった。
難しすぎて。
そうね、やっぱこれね、だからお前は自治向け発界に行けってやっぱり言われてもさ、
ちょっと無理する、ちょっとというかね、もうなんか、私には無理するってやっぱり10人いたら9人になると思うんだよね。
1人は行きますってなるかもしれないけど、やっぱり教者の理論なんだよね。
そうね。
なので、もちろん繰り返しになるんですけれども、これでね、やっぱり基本教のすべてを伝えましたとは到底言えないんですけれども、
基本教的に世界って言うものが何でとか、心って言うものがどういうもので、仏であるって何なの、みたいなことはちょっとでも伝えられたんじゃないかなと思っておりますという感じですね。
次回のテーマとしての仏教と西洋哲学
いやちょっと今回すごかったんだけど、ここから感想を話し始めると1時間30分とかいきそうなので、板閉めようか、今回はね。
そうですね、次回ずつお話もあるし、あと当然今回仏教の中ではかなり哲学チェックなところというか、
本来はね、やっぱり心でというかね、体験した方がいいものなんだけど、頭で考える方に行っちゃったので、
ちょっと改めてね、少し次、またちょっと西洋の方に戻ろうと思うんですけど、
手前により仏陀の教えに近いというか、素朴な仏教のお話を一回味わってもらって、その次にまたちょっと西洋に行こうかなというふうに思っておりますと、
その次回はですね、もうちょっと素朴な仏教、本当に仏陀がこんなこと言ってましたみたいなところを味わっていただいて、
その次にですね、もう一回西洋の方に行こうと思っているんですけれども、
基本教で言ったみたいな、あらゆるものが関係しているとかさ、そもそも物っていうのはないんだぜみたいな話をしてたと思うんですけど、
これってね、やっぱり仏教とかそういうこと、独特な考え方かなと思いきや、西洋の方にもそういうことを考えた人っていうのがいるんですよ、何人か。
で、そのうちの一人で、ちょっと今ね、僕が個人的に大注目してて一生懸命学んでる最中の人なんですけど、
20世紀に活躍したホワイトヘッドっていう哲学者がいるんですよね。
なので、ちょっとね、この人まためちゃめちゃ広さと深さがすごすぎて全然ちょっと理解できるとは言えないんですけれども、
基本教を今回の次に取り上げるからこそ語れる人もいるのか、そういう部分もあるかなと思うんで、
ちょっと引き続き人塾になっちゃうんだけれども、ちょっとお付き合いいただけないというふうに思っていますと。
うーん、その人は。
で、ホワイトヘッドやっていって、その次はまたちょっといくつか考えてるんですけれども、またちょっとテーマ塾に戻って広めにやっていくのもいいかなと思うし、
あとはね、前言ってたみたいに、もう1回古代のギリシャの哲学家に戻って、こんな人がいたよ、あんな人がいたよっていうのをやってもいいのかなとかってちょっといろいろ思っていることはあるので。
うんうん、なるほど。
はい、そんなふうにね、まだまだやりたいこといっぱいありますので、
ソイテッドラジオを引き続きぜひ楽しんでいただけたら嬉しいなと思っておりますというふうな感じでございます。
はいはい、わかりました。
いや、本当にいろいろありそうなやりたいことというか。
あるね。
ホワイトヘッド、なんかかっこいいね。
はい、ホワイトヘッド、かっこいいでしょ。名前1回聞いたら忘れない感じするでしょ。
忘れない忘れない、なんかバンドTシャツとか欲しくなる。
スウェーデンのパンクバンドじゃないから、スウェーデン、北欧のね。違います、イギリスの人です。
誰?パンクバンド。
え?わかんないよ。
イギリスの、あ、適当に言ったのね。
適当です。
ホワイトスネークとか、レディオヘッドとかじゃなくてね。
あ、そう、レディオヘッド。レディオヘッドのイメージだな。
パンクバンドかな。
はい。
わかりました。
じゃあ、そうはね、ちょっとまあ、確かに前回ね、テゴン教まだあんのみたいな話はしたんだけれども。
はいはい。
確かにここまででね、今回ちょっとこのジジムで北海的な話を聞いて、ちょっとまたね、面白いなと。
ね。
華厳宗の極地「事事無碍法界(じじむげほっかい)」の解明
そうそう、もうちょっと聞いてみたいなと思っちゃったんで。
うんうんうん。
次回もう一回その仏教的な話、味わいつつということで。
うん。
引き続きを楽しんでいきたいと思いますんで、次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いいたします。今回もありがとうございました。