00:11
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回はホワイトヘッド3回目ということで、ホワイトヘッドの自然哲学を引き続き見ていくというところでした。
はい、前回ですね、ホワイトヘッドの自然哲学を語る上で外せない、近く、感覚各自ということだと、耳付けという言葉を深掘りしていきました。
近くというのは、いわゆる二元論で離れているので、目や耳で感じることそのものみたいな。
例えば、自分が見るとか言っちゃうと、自分とか見るものが別れちゃうので、二元論的だからそうじゃないんだよという話をさせていただいたりとか、
それで感じたこととかが出来事という時に、その出来事同士を関係付けて解釈していく、そういう関連付けというのが意味付けだよという話をしたかなと思っております。
はい、今回その前回の話を土台にして、もう少しホワイトヘッドがどんな世界観を語っていたのみたいな。
やっぱり哲学って、まさに新しい世界観とか新しいものの見方だよということを結構何回かお伝えさせていただいていると思うんですけど、
まさにホワイトヘッドがやったのもそういうことなので、これはもうちょっと理解していきたいなというふうに思っていますよというふうに思っていますね。
はいはい、ちょっと前回もふわふわと結構抽象的な話をしてしまったので、ぜひぜひもうちょっと理解を深めたいなという。
はい、ちょっと抽象度は高いんだけれども、なるべく例で具体例でいこうと思っているんですけど、
実際にホワイトヘッドの例でも挙がっているんですけど、鳥のさえずりという例があって、それでこんなふうに説明するんだよね。
これはここまでの話からするとわかりやすいと思うんですけれども、
要は僕らって鳥がさえずっているとかって言うじゃないですか。
分析、理解するんだけど、それは間違ってますよと。要は二元論ですよと。
へー、そうなんだ。
鳥がって言った瞬間に鳥っていう存在が前提になっちゃってるじゃないですか。
そこまで徹底してるの?
そう徹底してる。間違ってるというか後付けの説明なんだよね。説明としては間違ってないんだけど。
意味付け後のものだって話だよね。
もう一回いい?ちょっと今途切れちゃった。
前回の話で言うと、それはもう鳥のさえずりっていう言葉というか概念が意味付けされた後のものじゃんみたいな。
そうですそうです、後です。
お湯っていう話をしてるのと一緒みたいな。
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そうですそうです、前回で言うと。
で、何が本当起きてるかっていうと、実際に知覚されるのはまず音で、
それが晴れた日の外を歩いてて、チチチチみたいな音がすると、それがさえずりだっていうような理解が生まれて、
そういう音で聞こえてくるってことはきっと鳥だろうっていうふうなある種理解というか意識が出てくる。
意識っていうのが知覚の対象なので、要はその知覚っていうものが次々に現れてるっていうふうな考え方なんだよね。
そうなの?
うん。意識も知覚なので。
へー、じゃあ音が聞こえたわーで、これ何の音だろうみたいな、それも知覚?
それも知覚、それも出来事です。
へー、はいはい、すごい。ちょっと難しいねやっぱ。
ちょっと難しいけどね、そう。
で、そんな風にいろんな知覚があって、その知覚全体を後から指して、これを鳥がさえずってるっていうふうに表現するっていうふうな感じなんだよね。
なので、鳥っていう物質的な存在というか生物が先にあって、その鳥の声を聞くっていうふうな順番ではないんだと。
というのがこのホワイトヘッドが与党したことなんだけど、この違いってなんとなくわかるんですかね、どうでしょう。
これは多分これまでの話でわかるというか、そもそも鳥っていう存在を頭で理解してるというか、状態はすでにおかしくて、
鳥の声を聞いたっていうとやっぱおかしくて、なんか声が聞こえて、よくよく調べたらそれがたまたま鳥と名付けたみたいな順番で理解しようよと。
前回でもほら、椅子があった、椅子に座ったとかっていう話もあったけど、
例えば本当に知らない状態でパッと見て、なんか木でできたものがある。これはこの高さからするときっと座るものだろう。
それを椅子と名付けるだったりとか、そういうものがあった方が便利だなと思った人が作ったものを椅子と名付けたみたいな、
やっぱりその順番だよね。物事がすでにカテゴライズだったりとか、名付けられたものの後を、うちらも理解しちゃってるんだけど、
やっぱこのホワイトヘッドの世界観からすると、その順番逆で行こうと。
そうそうそうそうそう。
ホワイトヘッドっていうのは、やっぱり僕らが知覚するとか、ものを捉えるっていうときに、鳥のさえずりの方が根源的なんだって、
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鳥っていう物質みたいなものが根源的なんじゃないよっていう風に考えるんだよね。
根源。
要は、これってさ、もともと科学がどう扱うかっていう話じゃないですか。
科学っていうのは、物があるっていうことを大前提にして、その物を検証するとか観察するっていう風な学問だよね。
だから、物っていうのが根源的な営みが科学、普通の自然科学なんですよ。
でも、ホワイトヘッドはそうじゃなくて、物がある前に感覚、知覚があるよねっていうところから考えてるんだよね。
なるほど。
うちらが、鳥あるよねとか、ベッドあるよね、椅子あるよねっていうのと同じような感覚で、自然科学みたいなものを使ってる人たちも、
物あるよねとか、対象あるよねって思っちゃってるのがおかしいよって話してるのか。
それありきで考えないやと。
それが間違ってるんじゃねっていう話なんだよね。
だから、いわゆる自然科学の人は、前回の例で挙げた夕日に感動するとか、
綺麗になりたいと思うとかっていう時に言う、そんなのは科学の対象じゃありませんとかってやっぱりなるわけよ。
だって物じゃないし、存在もしないからね。
でもホワイトヘッドは、どっちも知覚じゃんって。
鳥っていうものも冴えずりっていうところから知覚した存在だし、
別に夕日を見て感動するとか、綺麗になりたいと思うっていうのも、
人間の心の動きから出た時に、自分の感覚としてちゃんと知覚できるものだから、
同じように扱えるよねっていう風に考えるんだよね。
それを二元論でやるなと。
二元論のベースってのはそういうことですよ。
っていう風にして、全然違う土台を科学っていうものの根底に置こうとしている。
ここでお伝えしたかったことがあるんだけど、
前回お伝えした通り、近く、物を感じるとかっていうのは、
今ここっていう時間と場所が大事なんだっていうことをお伝えしましょうと。
いわゆる雨が降るとかっていうと、
それが今日今まさに降ってる雨なのか、昨日降った雨なのか、
それって同じ雨でも別物じゃないですか。
もっと言うと、今花を見るとした時に、
今見てる花と1秒後風に揺れたりとか、
09:02
ちょっと光の当たり方が変わった花って、別物だっていう風にも言えるよね。
他に同じものだとしてね。
同じものだとして。
同じものとしてか、同じものっていうのはそもそも二元論的なものがあるっていう発想だから、
近くってことを先にというか、近く優位、近く主義、近く主義って言う言葉はないんだけど、
仮にね、物があるっていうのは物質主義と言って、近くから始まっての近く主義とすると、
近くっていうのは常に生まれているものだから、
今見てる花と1秒後の花は違う花だ、違う近くだっていう風に言えますよね。
なるほど、固定すんなよとね。
そう、固定すんなよと。
勝手にその1秒前の花を花って名付けて、
1秒後の花も同じ花と名付けるなよと。
違うものだからなと。
近く主義から言うとね。
そうそうそう、っていう風に言えますよね。
ただこれちょっと考えてほしいんだけど、
そうすると、今とか1秒後とかっていうときに、
時間とか場所もそうだよね。
要は今ここにいるけど、昨日はあっちにいたとかっていうときに、
時間とか空間も細切れになっちゃうのみたいな感覚ってあると思うんですよね。
それこそ無限の今が続いているみたいな感じになって、
それこそかなり仏教っぽくなってくる。
そうだね。一瞬一瞬世界を作り変え続けてるんだと言われてもピンとこない。
そうそうそう。
これってどう扱うんですかっていう話をこれからしていくんですけれども、
実はここっていうのは時間とか空間が細切れになっているのっていう話も、
これらせいに先入観であって、
要は時間とか空間がそれぞれ物質のようにここに存在しているっていう風な考え方が入り込んじゃってるんだよね。
要は時間っていうものがあるから、
それが今とか1秒後とかに細切れになるっていう風に分けられるっていう風なことを考えちゃうじゃないですか。
イメージしちゃうじゃないですか。
それ自体がもう二元論的な、時間があるっていう根底から考えちゃってるんだよね。
なるほど。あなたたちは時間とか空間をちゃんと知覚できてますかねっていう話ね。
そうそう。まさにまさにまさに。
知覚じゃないですねって話になって、本当はレン君は言う通りなんだけれども、
じゃあその知覚主義で考えた時に、
知覚主義って言葉ないですよ。
あくまでも今回説明のために言ってるものとして考えた時に、
時間と空間がどんなものとして扱えるかっていうと、
例えば、さえずりを知覚するっていう場合に、
これもちょっと一旦厳密には言わないんだけど、
12:00
さえずりが聞こえるのは今じゃないですか。
例えばさえずりはあちらから聞こえるとしますという考えた時に、
今とかあちらっていうのも要はさえずりっていう知覚、
それにくっついたものとして認識されるんだよね。
だから僕らは今とかあちらっていうものをそのまま知覚してるんじゃなくって、
さえずりっていうようなことを感じる時に、
それは今感じてるんだとか、あちらから聞こえるんだっていう風に受け取ります。
つまりこの今とかあちらっていうのも、
鳥がさえずってる時の鳥がっていうのと同じで、
さえずりっていうものに対して意味付けされたものなんだよね。
逆にさえずりが聞こえなくなったら、
僕らっていうのは鳥のさえずりがさっきまであっちの方から聞こえていたっていう風に、
そういう概念っていうものが生まれてくるんだけど、
ここに初めて過去みたいな概念が生み出されますと。
つまり過去現在未来みたいな時間があるんじゃなくって、
あくまでもさえずりっていうものが着用したっていう出来事があって、
そこから今だとか聞こえていたのはさっきだとか、
あるいはいつかまた聞こえてくるだろうみたいな未来っていう風にことを考えるんだけど、
それはもう結局全部意味付けの結果でしかないんだよね。
おー、だったりとかそうか。近くに対する意味付けと捉えられるのか。
近くに対する意味付けなんです。
過去未来、はいはいはい。
そうそう、過去未来とかって呼ぶね。
空間も一緒で、例えば鳥が飛び回ってて、
なんか聞こえる場所がこっちからあっちになったかっていうと、
それも結局さえずりっていうものに付随して出てくるものなんだよね。
っていう風に僕らが生きて認識している世界とか自然っていうのが、
さえずりみたいなある種人間が知覚する出来事が起きた時に、
相互に意味付けし合う、ある種布のように折り合わされたものであって、
それを抽象的に表現すると、今なんだとかここなんだとか、
あっちなんだとか過去なんだとかっていう風に出てくる。
つまり時間と空間っていう概念もさえずりみたいな、
近くから生み出されている二次的なものなんだっていう風に考えるんだよね。
わー、はいはいはいはい。
はい。どう?この感覚。
いやー、新鮮な感覚だね、とても。
新鮮だよね。そんなに考えたことないでしょ。
ない。だから今とかさっきみたいなものも、
この近く的な感覚から言うと、もうお湯が熱いと同じなんだね。
そう、お湯が熱いでしょ。
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近くしてるのか、これも。
近くに移りしてきてる。
さっき入れば言った言い水気で、
たまたまさっき思ったようなことっていうのは、
それこそさっきとか過去とか名付けてるだけで、
あくまで近くの結果でしかないんだ、それは。
そうなんです。
しかも空間とか時間っていうのはそれだけで、
理解するとか視覚するのは難しいもので、
さえずりみたいな副次的とか一緒にあるものっていう感覚なんだね。
一緒にあるもの。
だから時間を認識しろとか、時間を視覚しろっていうのはやっぱできないんだよね。
そのものをね。
そのものを。
何かを視覚したときに時間が流れてるように感じるとか、
そもそもさえずりってこと自体が、音って流れじゃないですか。
だからさえずり全体を聞くことで、
さえずりを聞いていた時間っていうものを感じるとか、
いうふうに、しかむしろ出てこないんだよね、僕らに対しては。
もう一つ空間について分かりやすい例があって、
これも具体例なんですけど、
例えば僕らが外を歩いていて、
目の前の家の扉を見ているとするじゃないですか。
今もね、外とか目の前とか家とかっていうのも全部副次的なものなんだけど。
一旦ちょっとそこを置いておいて、扉っていうものを見ますよ。
っていうときに、僕らは扉の奥にきっと部屋?
要は玄関みたいな空間があるようなっていうことを想像しますよね。
それでいくと要は、
本来近くだとすると扉しか見えてないから、
奥なんてことは絶対ないっていうか、
そもそも近くできないはずなんだけど、
扉を近くしたときに僕らは、
扉の奥には一定の空間があるっていうことも一緒に感じることができるんだよね。
つまりさっきはさ、
そこに扉があるとか扉を見ているっていうふうに言ったんだけど、
実はこれもすごく限定的な言葉で、
いわゆる見えてない扉の奥には広い空間がありとか、
実はその扉があるっていうか、
扉っていうのはその広い空間の中の一部でありとか、
その空間っていうものも家っていうのはより大きな空間の中の一部でありとか、
もっと言うと家っていうのは土地に根付いていてとか、
その土地っていうのは日本のどこかでとか、
日本っていうのは地球で、地球っていうのは宇宙でっていうふうに、
どんどんどんどん広がっていくことができるんだよね。
18:01
なので僕らは普通に扉があるっていうふうに言うんだけど、
その扉があるっていうのを近くした瞬間に、
実はその他の近くできなかった全部のもののある種なんだろうな、
そこの扉があるっていう瞬間には関わってるんだっていうふうなことを言い出すんですよ。
ホワイトヘッドが?
ホワイトヘッドが。
それはそうなんだ。
これちょっとごめん、今バーって勢いで言ったのに、
分かりづらかったと思うんだけれども、
今は知覚主義で知覚知覚って言ってたから、
その知覚したものというか、知覚したことだけに焦点が出てたんだけれども、
知覚されるものの他には、知覚されなかったものがあるんだけど、
知覚されなかったものも、知覚されたものに影響を与えてますよね、
ということまで考えるんですよ。
これってすごい難しいというか、なかなか感覚的には分かんないと思うんだけれども、
さっき言った扉の例が一応分かりやすいと言われていて、
扉だけを知覚すると扉の奥なんてことは絶対に考えないはずなんだけど、
その扉の奥があるということを僕らは感じることができるんだよね。
そうなんだ、それってすごいね。
ここが今の話を聞いて疑問に思ったというか、引っかかるのが、
例えばその扉の奥には空間があるだろうというのは、
過去の知覚の経験からしか出てこないと思うんだよね。
生まれて初めて扉を見た人とかは、
たぶん扉という概念もないから、「なんかあんな?」みたいな。
そこは近くが何も知らない人が扉を見た瞬間に宇宙を想起するとかではなくて、
そこの感覚がいまいちピンと引けない感じかな。
実はちょっと兄貴そう思ってるかもなと思ってスルーしたんだけれども、
めちゃめちゃいいつませ方をしてくれていて。
さっきもお湯に関してもベッドに関しても、
ベッドというものがあるというのではなくて、
これは寝るのにちょうどいいからベッドと呼ぼうというようなことを言ってくれたじゃないですか。
でも実はそれもすごい極端な過程だっていうのはあるじゃない。
だって僕らはベッドというものを知った上で生きてるじゃない。
あ、なるほどね。赤ちゃん状態じゃなくて、
赤ちゃん状態じゃない。
一定の我々の感覚の上でさらにこの知覚主義的な考え方をインストールするとどうなるかみたいな話ね。
21:00
そうです。なぜなら不自然だからね。だってベッドのことを知らない人間なんていないわけだから。
まあそうだね。親から基本的には教わるからね。
ある程度ね。
そう。そして別にいわゆる完全な無知とか知識がない状態になる必要ってないんだよね。
なんでかっていうと、ただ知覚をする。
で、その扉の奥に空間があるだろうっていうことも知覚なんだよね。
うん。あれだよね。一般っていうのもちょっと難しいけど、
普通の感覚からするとってことだね。赤ちゃんとかじゃなくてね。
赤ちゃんじゃなくてね。普通の生きてる人間からすると。
じゃあごめんちょっとこれ、知覚なんだよって言っちゃうと語弊があるかもしれないんだけれども、
知覚に付随して起きる意識なんだよね。扉を見たときにその奥に空間があるだろうと思うのは、
一般的な感覚としての認識とか意識じゃないですか。
はいはいはい。だからさっきどこが近くかみたいな話で、扉があるっていうふうに見るのも近くだし、
それを見たときに、ああ奥に空間あるんだろうなーってのも知覚であるわけだもんね。
あるんだろうと思う。あるんだろうと思うことを知るのは知覚だね、たぶん。
思うことを知る。
要は思ったってことをまた客観的に見てるわけじゃないですか。
だから扉の奥に部屋があると思った、そういう感覚は近くって感じかな。
なるほど。それただ思っちゃうとどうなんだ。思っちゃうとそれは知識みたいな、ちょっと違うのか近くとは。
そうだね。思うだけだと、それを自分にもう一回捉え直すってことはたぶんできないから。
あくまでも扉の奥はもちろん見えないから知覚はできないんだけど、
それ空間があるということを思った自分のことは知覚できるっていう感じ。
はい。うわーむずい。そっか。なるほど。思ったになっちゃうと二言論的なほうになっちゃうんだ。
自分が思ったってなっちゃうから。思ってるなー自分っていう。
そうそう思ってるなー自分ってことで気づくみたいなね。
むずい。気が抜けないな。
やっかいな。知覚主義ってそういうことなんだよね、たぶんね。
なので、わかりづらかったと思うんだけれども、やっぱり扉の奥に空間があるというのは僕らは普段生きていてもちろん知っていますと。
その状態でよくって。ただそのその奥に扉を見たときに自然とそういう空間っていうものを奥に想像してしまうとか。
24:09
で、その空間を想像するときにこれは家の一部だっていうことも無意識的にだけで感じたりはしますよね。
ってことがある種、無限に繰り返されると、要はその家とか扉っていうのは宇宙の一部であるというところまで行っちゃうよねっていうのがホワイトネットが考えていることなんだよね。
なるほど。ここまで行くとやっとわかる、わかったって。
そうですよね。それとかすごい難しいところなんだけど。
あり得る気がすると。
なので、ここまで行くとやっとお伝えできるんだけれども、
要は、僕らがホワイトネットに言わせると、僕らが生きている生き方っていうのは、
自分とは異なるものっていうものが、これ二元論なんだって。
二元論で言うと、ものっていうのが自分とは独立をした存在としてあって、そこに自分という存在が関わっていくっていうふうな在り方なんだけど、
ホワイトネットで言うと、要は自覚したものと自覚されないものっていうものの関係を通じて、世界とか自然っていうものをある種折り上げていくんだっていうのが、僕ら人間の生き方なんだよね。
だから、さっき言った通り、自覚されるものっていうのは今ここにあるものじゃないですか。
これは取り替えの効かないものなんだけど、それ以外の自覚されないものっていうのが、結局冴えずっているはずの鳥とか、扉の奥にあるはずの空間とか、あるいはもしかしたら明日も建っているだろう家とかね、時間的に。
とかっていうものは、要は僕らは想像したりとか考えることができて、それっていうのがいわゆる科学的な知識の源なんだっていうふうに言うんだよね。
ただ、自覚するものは絶対に今ここにしかない独自のものだから、それは普遍性を持てないんですよ。
でも、サイズの木だということは鳥がいるであろうとか、扉があるということはその奥に空間があるであろうとか。
そういうことがある種、考えることができるし一般化することができる。
そこに初めて科学の基礎が作れるんだってことなんだよね。
なるほど。
つまり、鳥がいるからじゃなくて、空間があるからじゃなくて、サイズリーというものを手明かりに鳥というもののことを考えることができることがあるから、科学というものが生まれるんだっていう。
27:10
ここで人間論を論破してるのね。
人間論を超えてるっていうことなんだよね。
鳥から始めるんだと、サイズリから始めろって感じ。
なるほど。
むずい。
いかがでしょう?
これ、わかんないだろうね。
例えば、ガチガチの人間論主義者みたいな人がいたときに、結局同じこと言ってねえとか思われちゃいそうだね。
何言ってんのってあると思うんだよね。
前回に戻ると、ホワイトヘッドが何をやるとしたかっていうと、人間の経験から科学的な営みの基礎を作ることなんだよね。
よくわかんないサイズリーとか扉とかって言ってたんだけど、それは明らかに人間の経験じゃないですか。
そこにやっぱりすごく大事なそもそもがあって、やっぱり科学の基礎を鳥がいるとか扉が存在するとかって言っちゃうと、その時点でいろんな前提を置いちゃってるよねっていうふうにホワイトヘッドには見えるんだよね。
当時のそういう科学とかを見たときに思ってたのかな。
やっぱりニュートン物理学が正しくなかったと言われて、アイオニス時代が出たときに、俺らがそもそもあるとか存在っていうものを前提にしてることって本当は間違ってるんじゃないって思ったんだよね。
そこの方が強いのか。
鳥だと思ってたニュートン力学が、実はこれ鳥じゃなくて、例えば蜂だったみたいな違いがあって、これ申しにしたらやばくないっていう危機感がある。
なんかこれもっと違うことを考えなきゃいけないかもっていうような前提があったんだよね。
世みたいな話をすると、
自覚されるものをちゃんと正しく自覚しましょうって自覚主義の話と、
それをあらゆるものと関係づけましょうって意味づけの話によって、
まさにその目の前のさえずりから宇宙全体までを全部つなぎ止めることができる。
接続してることができる。そういう構造を発見したのが、ホワイトヘッドが作り上げた科学の営みなんだよね。
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すごいね。科学という学問、自然。科学という学問のそもそもだね、確かにこれは。
本当にそもそもなんだよね。
面白い。でも確かに、この感覚、ホワイトヘッドの感覚がないと、
確かに自分が何を知らない、今回ホワイトヘッドの言葉で言うと、
自分が何を知覚していて、何を知覚していない可能性があるのだろうかっていうところの検証ができなくなっちゃうんだね。
できない。
あるものはある。だからっていう謎の前提の上に物事を立てて立てて立てて、
それが一見ニュートン哲学みたいになり立つように見えちゃうと、危ないって本当に思ったんだね。
だからホワイトヘッドの感覚があれば、ニュートン本人ですら、
ここの前提が知覚できてないけど、ここまではオッケーだとすると、こうみたいな話ができたはずね。
これが不変の真偽じゃなんて言ってなかったはず。
言ってなかったはず。
ここは仮説だけどとか、ここは一旦前提をしておくけどっていう話ができたはずなんだよ。
できたはずだったと。
わーすごい。
すごいよね。もうちょっと僕らの時代に即して言うと、やっぱり僕らって知識で生きてますって話があって、
例えばりんごは甘いとか、みかんはレモンは酸っぱいとかあった時に、
もうレモンを見た瞬間にこれ酸っぱいよねっていう知識で食べてるみたいな話があるんだよね。
本当にレモンの酸っぱさを知っていますかって言われた時に、
水々しさとか甘さとかそういうのってやっぱりわからなかったりする。
もっと言うと、他のことに気を取られてると味がわからないとかってあったりするんですよ。
仕事しながらご飯食べてると味がわからんみたいなことがあったり。
それって結局知覚してないんだよね。
だから逆に言うと、今言った知覚とかさえずりってやっぱり科学の対象にならないんですよと。
さえずりは自分が今聞いたものだから、不変性とか持ち得ないんだよね。
でも逆に考えると、それだけが自分の独自な経験だとか、
自分にとってある種貴重な経験だというふうに今だと言える。
僕ら普段生きてると、世の中にあるものをなんとなく受け取っていきたいとか、
なんとなく、これはこういうふうに受け取るべきだとか、
33:01
これはこういうふうに受け取るのが正しいとかっていう方に合わせちゃうんだけど、
本当に知覚主義で生きると、それは自分、そもそも何なのかとか、
それはそもそもどういう意味を自分で持つのかっていうことを、
ちゃんと考えることができる。
ある種、これは人生論っぽくなっちゃうんだけど、
この捉え方一つで、世の中の在り方も変わってくるぐらいの力を、
このホワイトヘッドの自然哲学が持ってると思うんだよね。
確かに。今、ホワイトヘッドは、
まだ、自分の経験とかなら、
このホワイトヘッドが持っている自然哲学という分野でそれが起きていたとしたら、
それってめちゃくちゃヤバいよね、確かに。
ほうほう。どんなことを思った?
自然哲学というものが起きていたとしたら、
自然哲学というものが起きていたとしたら、
自然哲学というものが起きていたとしたら、
ほうほう。どんなことを思った?
というのは、例えばグルメサイトの星の多さを見て、
星4のお店に行って、
よし、めっちゃうまいって思わされてる人がいたとして、
星2のところはそもそも行かなかったりとか言って、
そこ食べたら、やっぱまずいとか、やっぱ性格悪いとかって言ってる人が
言わされてる人がいたとして、
例えばさっきハイトが言った、
例えば人生の深みみたいな話をすると、
一般論としてのおいしさに惑わされるんじゃなくて、
自分のおいしさを見つけるとはどういうことかって考えると、
押しとかに惑わされずに、まず自分が食べたものを
自分はおいしいと思うのか、まずいと思うのかっていうものを、
だから知覚だよね。自分の知覚をちゃんと感じましょうっていう話で、
それを積み重ねていくことで、自分のおいしさだったりとか、
自分の哲学みたいなものが生まれてくるかもしれない。
もし、ひたすらそれがある意味他の人と共有したときに、
意外と普遍的なものになり得る可能性もある。
決めているというかね。
あったときに、それと同じようなことが、
例えば、自然科学で、
例えば、ニュートン位気学☆5ってあったときに、
これ☆5なんだからいいじゃんみたいな話があって、
それが申し出されて、みんなが上手い上手い。
いや、さすが☆5っすね。上手いっすね。
36:00
っていうようにホワイトヘッドには見えたんだろうなって思って。
それはヤバいよって。場所によっては。
本当にそうだし、ニュートン物理学からいろんなことを考えてるわけだから、
ニュートン物理学が間違ってたってなったら、
全部間違ってるじゃんとしかならないわけだよね。
だけどそれが間違ってるってなったときにさ、
みんな、たぶん認めたくないっていう。
認めたくない。認められない。
例えば、☆5の店のシェフが考案したレシピをみんなが美味しい美味しいって言って、
☆3レストランを採用して、
全国のコンビニが商品を上手い上手いと言って販売してるときに、
え?それマズいっすよ?みたいなことがあったときに、
誰も認められないし、たぶんみんなの味覚ももう変わっちゃってるじゃん。
変わっちゃってる。
ぐらいの恐ろしさを感じたんだろうなーって意味で、
ちょっと面白かった。
本当そういうこと。
それがまさに経験から出発ってことなんだよね。
そこをちゃんと捉えておく大事さだよね。
もちろん☆5である理由もあるだろうし、☆4であるっていう理由もあるんだろうけど、
そこはただホワイトヘッドがビビったところなんだよね。
やれって言うと、☆5だったのにマジかーみたいなね。
そうそうそう。
これダメだったかーみたいな感じなんだよね。
なので、やっぱり今の兄貴は本当にその通りだと思う。
権威とかそういう原理みたいなものに寄りかかりすぎないというか、
ちゃんと人間の経験というか、疑えないものとしての知覚だよね。
だからやっぱり出発してるっていう意味では、
もしかしたら手法的なデカルトっぽいかもしれないんだけど、
二元論というのを乗り越えることで、むしろ徹底したみたいな感じなんだよね。
確かにね、これは。
さっき言った通りね、一般、普通に生きていく上ではいらなくてもね、
いいかもしれないけれども、いわゆる学問領域の人だとかなり致命的な気がするもんね。
そこは感覚あるなしの。
確かにね。
確かに。
あとは僕の感覚とか関心に引きつけると、
よく例で出した夕日を見て感動するってのがあったじゃないですか。
やっぱりこれって、いわゆる科学的な見方とか二元論的な見方からすると、
いや、そんなのさ、脳の神経細胞の発観に起きた妄想じゃんみたいな。
やっぱり不意でも言えちゃうわけよね。
有意物論というかさ。
だからそれを真剣にやってることはできないんだけれども、
こういうふうに入ってかじゃない、ごめんごめん。
39:02
こういうふうにホワイトヘッドの考え方をすると、夕日を見て感動するのも、
太陽がスリスリできてるっていうのも同じ土台で扱えるから、
それについて真剣に議論することができるようになるんだよね。
なるほど。
これは僕すごいことだと思っていて、
だってどっちも近くだしどっちも意味付けじゃんって言えちゃうっていうのが、
すごい方法論だなって思うんだよね。
わー面白いね。
それってあなたの感想ですよねの部分が、
それ面白いね。
ちゃんとそこについても理論できるんだ。
あなたの近くですよねだった場合はめちゃくちゃ多分すごい良いことで、
それってあなたの二元論主義ですよねって言われたら、
それはそれでもうははーって言われてやっぱダメだしみたいな。
そうそうそうそう。
だから感想以外でもあるんでしたっけって言われちゃうわけだよね逆に。
うんうんうん。
なるほど。
いやただそこはちゃんと土台に乗ったりとか、
それが近くと二元論ですれ違ってるのにお互いが感想ですよねって言い合ってるひもな感じも、
なんかこう、なんだろうな、
うまくこう、
分かるというか分かれるというか、
感じもして、
ごめんちょっとずれたけど面白いなって思った。
でもそう、だからそういうことをちゃんと議論できるというか、
どっちの土台になってるんでしたっけっていうことに目を向けてくれる話だと思うんだよね。
うんうんうん。
そう、なので、やっぱり兄貴が言ってくれた通りだけれども、
星5シェフみたいなことだった時に、
やっぱりそういう落とし穴にはまらないというか、
そういうなんだろうな、
寄り添いたくなる。
要はこの人の考え方を活かせばいいんじゃないかとかさ、
やっぱりこの人の言ってることに乗っかったらいいんじゃないかって思うんだけど、
そういうことをせずに、やっぱりちゃんと慎重に物事を考えたか、
逆にいろんな人のことを勉強したからこそ、
ホワイトヘッドももちろんそういうふうに言ってるし、
僕らもいろんな人のね、これまでずらずら話をさせていただいたからこそ、
どれぐらいホワイトヘッドがやっぱり慎重に物事を進めてきたか、
っていうのがなんとなく伝わったんじゃないかなって思うんですよね。
いやーすごいね。
自分の感覚だけを頼りにしろとも言ってないっていうね。
言ってない、そう。
それも不自然だから。
だから赤ちゃん最高って言うけどもないって、
そこもちょっとたぶん今回、
罠言い罠ってね、
はまってたと思うんだけど。
まさに罠だね。
やっぱりそれはすごいね、抽象化する罠なんだよね、やっぱり。
経験を超えてるからね。
そういう意味で純粋なのがいいか、
そういう意味で純粋なのがいいだけじゃないんだよっていうね。
そうですよね。
何も知らないとか無垢とかってわけでもないんだよっていうね。
ではない。
42:00
やっぱりそれも難しい。
やっぱり僕らは、それだったらもう何も知らないっていう、
まさにゼロから考えたらいいんじゃないって言うわけがあるんだよね。
その方が楽だから。
やっぱりそうじゃない。
そうだね、だからさっきのあなたの感想ですよねっていうのも逆に、
いや、さっきハイトが言ってたさ、
一人一人の感想にこそ意味があるんだってのも違うしって話だもんね。
あ、そう。
ちょっとずれちゃうかも。
なんていうのかな。
一人一人の感想と意味は別の概念であります。
そうだね。さっき一人一人の感想が近くなのかどうかもまた違うしって意味で、
そこまでいくとまた違う話になっちゃうからな。
そうね。
少なくとも、それぞれの人間が別々の感想を抱いているところに対して、
意味づけを行うということができるっていう感じかな。
そうなの。
なんか難しい、難しいっていうかね、ややこしいんですよ。
そっちに引き付けようとするとおかしなことになるな。
そう。
別のテーマになっちゃうね。
はい。
そんな感じでね、非常につまづけやすい穴がいっぱいあるんですけれども、
僕も落ちてないとは言えないし、落ちてると思うんだけれども、
それでもなんとかこういった人の自然施策っていうものが、
やろうとしていることとか、二元論を否定しようとして至ろうとしたことについて、
ちょっとずつ見えてきたことがあったんじゃないかなと思いますよと。
すごい。
たまにどこかの回で言ったかも忘れちゃったけど、
自分の頭で考えるってどういうことっていう部分に、
かなり効き込んでくれてる感じがするよね。
ね、そう。
やっぱり面白いし難しいんだけれども、
一旦ね、科学的な捉え方に対する自然哲学はここでおしまいにしようと思います。
わー、もっと聞いてたい。
大丈夫、まだあるんです。
次はね、ちょっと予告していた彼の世界とか宇宙の在り方っていうもっと広い話ね。
もういいよ、もっと広い話は。
この辺の話をもっと聞いてないわ。
やっぱりね、面白いですよ。
まさに経済学なんだけど、
この有機体の哲学がめちゃめちゃすごい。
もっと言うと、僕こっちしか知らなかったんだよね。
あー、そうなんだ。
これが後期って言われる方のホワイトヘッドの、いわゆるメインテーマだって言われてる方なんだけど、
やっぱりベインに至る前の中期の自然哲学、
でもこっちがすごいというか、こっちもすごいし、
こっちを知らなかったら、そりゃ理解できひんわみたいな感じがあるので。
あ、そうなんだ。2つが繋がってるんだね。
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繋がってる、繋がってる。
むしろこれをもっと発展させて、
修正したものが有機体の哲学ですみたいな話があるんで。
なるほど、なるほど。
じゃあ次の有機体の哲学を聞くことで、またこっちの理解が深まるとかもちょっと期待しちゃうね。
そうね。
ここからさすがに中小度上がっちゃうんですけど、
やっぱり西洋哲学の味わい深さでもあるんで、
ぜひ皆さん、久々に言うんですけど、何とか聞いていただきたい。
でもそうだね、今回ホワイトヘッドの危機感だったりとかさ、
みんな星5に行くなよみたいな、行くのもちろんわかるけど上手いしっていうね、
その危機感がちょっとわかったのが嬉しかった。
本当にそう、前提としては別に役立つんだよ、その星はね。
役立つし便利なんだけど、星だけに頼っちゃったらダメだよねっていう微妙な感覚があって、
そうだね。
どっちも、星5すごいんだけどね、めちゃくちゃ。
すごい。
忘れちゃいけないんだけど。
忘れちゃいけない。普段はそれでいいんだよ、別に。
なんとなくランチどこに行こうとかはいいんだけど、
例えばすごい大事な会食とか買い合わせ?結婚の買い合わせの時に、
本当に星だけで決めていいのかい?っていうような感覚だよね。
おけい飯してこいよっていうね。
おけい飯してこい、事前に行ってこいよって。
そうそう、事前に一回食べしてこいよっていう、そんな感じ?
それ分かりやすいかも、それ分かりやすいよ。
いやーいいね、きれいにまとまったところで。
全然きれいじゃないけどね。
あれおかしい。
いや、面白かったなでも。
次回、怖いけどね、どんだけ抽象度が上がっていくのかっていう意味で怖いけども、
ちょっと楽しみになってきてるんで。
そうですね、まだ台本を作ってないんで僕も頑張りますって感じなんだけど、きっと大丈夫だと思います。
うん、分かりました。
頑張ります。
そうですね、今回もホワイトヘッドが楽しくなってきたというところで、
次回より楽しんでいきたいと思いますので、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。