1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #71 たまたま聞こえたお経で悟..
2022-12-28 32:57

#71 たまたま聞こえたお経で悟った天才百姓。慧能(えのう)の禅エピソードを楽しむ

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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00:00
(音楽)
はい、スルテツラジオ
今日も始めていきたいと思います
よろしくお願いします
よろしくお願いします
前回から禅ということで
まずは仏教の中で
禅というものがどういう風に違うのか
禅とは何かみたいなものを
バーッと見せて教えてもらったんですけれども
今回はどういう話になっていくのでしょうか
はい、そうですね
今回から実際に禅の言葉ですね
前回お伝えした通り
禅って特定の経典とか
仏陀の教えが書かれたものに
寄り添うというよりは
禅自体が
ある種文字を離れて
文字に入っていないことを伝えていくという話なので
禅自体で
どんな言葉が言われたのかを
お伝えしていきたいなと思っています
そもそも経典というものが
文字で残さないという
徹底したスタンスみたいな話だよね
悟りはそれぞれの
個人のものであるみたいなね
そうだね、何回でもこれ大事なところなので
お伝えするんですけど
特に仏教そのものが諸行無常
やっぱりあらゆるものは
移り変わるとか
移ろうとか実態はないという話なので
言葉にした瞬間に
その実態があると思っちゃったら
間違えるとか掴み損ねる
というのがあるんですよね
だから今回は禅の
もちろん言葉で伝えていくんですけど
そこにとらわれすぎずに
味わうとか感じるみたいなところで
聞いてみていただけるといいんじゃないかな
と思っています
前回もあったけれども
悟ったはずであるというか
悟った師匠と弟子がいた時に
基本的には師匠側というのは
この問答があった時に
それを言葉とか文字で残すなよ
みたいなスタンスだってことだもんね
そうそうそう
特に禅の方はね
ただやっぱり
おとなりの言葉でやっぱり
伝わらない部分もあるから
こんな風に言ってると思って
例えばね禅における真理というか
求めるべき道みたいなのについて
こんな風に言い切った言葉もありますと
それがね
我々が求めるこの世界で最高のもの
つまり指導
至る道って書くんだけど
指導というものは
決してわざわざ探し求めるようなものではない
真実はどんなものかと探し求めるのが
間違いの根本である
ああだこうだと
自分勝手に選択さえしなければ
指導は明明白白と明らかに
03:01
あの完全目の前に現れているではないか
みたいなことが書いてある
なるほど
青い鳥みたいな話だね
幸せの青い鳥みたいな
そうそう
あちこち探すんじゃなくて
目の前にあるよって
これ結構ニーチェと近いなって
僕自身思うところがあって
つまりその
真実とか真理っていうのは
ニーチェに言わせると
価値判断を含んでいる
これが真理だとみんなが言っているとか
真理っていうのは良いものだみたいなのがあるんだけど
そもそもニーチェは
やっぱりより良い価値判断とか
基準っていうものを求めたわけだけど
禅でいうところの話からすると
そもそもその判断を捨てる
何が良いとか悪いとか
そう通り着いたらあるとかないとかじゃなくて
もうほらごらんと
目の前にあるでしょと
そういうのが禅とか仏教の在り方だな
っていうのをこの一言で
言い切ってるような
感じがしますよね
ニーチェは聖人になろうねみたいな話をしたけれども
禅では違うと
また別の方法論というか
スタンスなんだってことはね
新たな基準を作るとかじゃなくて
そもそも自分自身で
素直な目で見たらそこに広がっているじゃないかと
判断するのはそもそも
そうかそうかね価値判断自分で
世の中にある価値判断を
そのまま受け入れるとか
そのまま妄信するんじゃなくて
自分なりのその捉え方
事実に対する価値判断をしていきましょう
というニーチェに対して
禅はそもそもそれすら済んだ
みたいな話だね
だから面白いよねやっぱその違いね
似てるけどちょっと違うというのは
根本のスタンスとか立っているところが違うな
面白いなと思うんですけど
だからやっぱりいわゆる仏教的な心理というか指導
その至る道みたいなものと
西洋哲学や元井文理心理ってやっぱり結構違うな
という風に僕は感じるんだよね
じゃあその仏教的な心理とか指導ってのは何か
さっきは目の前に現れるよって言ってたんだけど
そもそもそれ何っていう話で結構こんな風に説明されていて
その指導の至る道の世界っていうのは
他人も自分もないのだと
一刻も早くそういう指導の世界に住みたいというならば
ただ不二、不自由の不二、1、2とかの数の二
不二ということがあるのみだっていうのがあるのね
わからんね
今兄貴すごい顔してたけど
うんわからん
不二の説明ちゃんとしてほしいね
06:02
不二は本当に二じゃないっていうこと
二ではないってことなんですけど
ワルツアイは有名なインド哲学者がいて
シャンカラっていう人がこの不二っていうことを結構しっかり説明するんですよ
なのでいつかシャンカラも取り上げたいなと思ってるんですけど
すごくざっくり言うと
あれとこれと区別したいわゆる二元論じゃない
一元論的な世界とか
全てが一つだみたいな境地のことを不二って言います
そうな唯一無二とかとは似てるけどちょっと違う概念って感じなのかな
無二じゃないんだよね
あーいいねそれ
要は唯一無二って全部の中でこれしかないっていう
全体の中の一をピックアップする考え方じゃん
不二はそもそも全体の一も一緒だとか
一が全で全は一みたいなそういうことなんだよね
そこまで含まれてるんだ
唯一無二っていう言葉を使っちゃうと
その他っていう全体の集合というか
その他の存在も認めてることになるんだけれども
この不二っていう言葉を使うと
もうその他の存在も認めてないと
全部一緒だよっていう概念がこの言葉には入ってるんだね
そうそうそう入ってる
わからないよね今言っても
わからないよね無理だよね
それをもう一回踏まえて
その指導でね仏教の道っていうのは唯一無二とか
これが正しいというものではなくて
全てが同一というか
全てを分け隔てなくする不二の世界観だっていう話を
もう一回してたってことだねさっきの話は
そうだね不二はここで分かると思うと多分無理なので
逆に言うとその不二を言葉で説明することも正直難しいんだよね
他人と自分もないとか
全てが一つだってやっぱりわからないじゃない
そうだね怪しくなってくる
そうそうそう
なのでそれをなんかそのなんだろうなやっぱり
説明じゃなくてやりとりの中でとか
その時々の相手に伝わる形で伝えてるのが
善みたいなところもあるので
そういうのをねちょっと今日とか次回とかの話も含めて
こう感じていただけたらいいなって思ってるんですけど
もうちょっとだけ言うと不二っていうのはやっぱり
西洋にはあんまりない考え方なんだよね
主観と客観とか我と汝とか絶対と
絶対的な神と不十分な自分みたいなやっぱり
そういう二元論がどうしてもあるんだよね
09:02
はいはいはい
これはもうプラトンとかね
それこそ時代から続くイデアとかも含めた流れだと思うんですけれども
仏教はそうじゃないんだよね
なるほどねそっかそっか
空の時にねその空っていうのはその
絶対的なものは絶対になくて
そのあらゆるものが相対的にしか
理解できないんだみたいところを自分だけに理解して面白いなと思ったんだけれども
西洋的に言うとあれだよねさっきのイデアとか神技みたいな
その片方のものをちゃんと設定して
それと対峙するっていう意味でのもう一つっていう風に
その相対的っていうものの意外と固定されちゃってるっていうところがまた
この仏教と違うところ東洋と違うところっていうイメージなのかな
そうだねそうだね
やっぱりその両方が主体としてちゃんと確立していて
相対してるっていう相対性が西洋にあって
武器は相対的っていうよりは連鎖的
Aが起こるからBが起こってBが起こるからCが起こってみたいな
それがぐるぐるぐるぐる続いてるよっていうのが結構考え方なんだよね
それは諸行無常
なるほどなるほどそうか相対的って言ってしまうと
もうすでにその二つのものが同時にポンって存在するようなイメージになっちゃうけれども
さっきの連鎖的っていう風になると
その一つのものが存在というか認識された時に
それを認識した自分が現れたりとか
それをさらに連鎖的にいろんなものが繋がっていく
最初のものは何か分からないし結局無なんだけどねみたいな世界観みたいな話かな
言葉ってむずい
むずいでしょむずいし感覚ってむずいんだけど
だから禅で師匠と弟子が出会うってどういうことなのっていうのがあるんだよね
だって師匠はもう他人とか自分もない悟りの世界から相手と相対してるわけよ
それはだからそもそも相対的な出会いではないんだよね
とかってくると禅がどんどん面白くなってくるんだけど
ちょっとそれをね少しずつ話しながらお伝えしたいと思っているんですけど
それをねこういった実際の禅門道を通して世界観がちょっと分かればなみたいな話がね
どんなに言葉を尽くしても分からないから多分これは
じゃあ前半結構尽くしちゃったから
そうなのでそれに世界観の中でどんな雷鳥が残っているんですかっていう話なんですけど
今回はね禅でいろんな人本当にたくさんの人がいるんだけれども
有名というかよく取り上げられるえのおさんっていうですね
禅の創始者だるまさんから数えて6番目に受け継いだみたいな人が1人目2人目っているんだけど
12:03
あるんだね家計図というかなんかみたいなのもあるんだ
系譜みたいなのがあって
6番目の師匠みたいな人なんだけどえのおさんという人と
えのおさんの孫弟子っていうのかな
その孟科生みたいな人であったばそ道一さんという人をちょっとメインに取り上げたいなと思っています
今回ちょっとえのおさんなんだけど
やっぱりその前回のだるまさんと一緒でほぼフィクションらしいのよね
伝えられているところによると
弟子が持ってますよって話ね
持ってるよとか権威づけしてるよみたいなのがあるんですけど
それが面白いのでお伝えしたいなと思ってまして
えのおさんどんな人だったかっていうと
もともとはいわゆる百姓農民とか色々な仕事をして生きている人で田舎者だったんですよね
田舎の者だった人がなんでそんな有名になったかっていう話なんですけど
すごい悟りの才能があったらしくて
たまたまね街でブラブラしてたというか
物を売ってた時に街でそういうお坊さんがお経を読んでたんだって
その時にそれを聞いた瞬間に一瞬で悟っちゃったらしいのねこのえのおさんは
お経を読んだお坊さんにあんたすごいから絶対仏の道入ってほいよみたいな感じで
ここで学んだらどうだと言われて
千人ぐらいの規模の大きな禅を学んでる集団に入りますと
多分今でいうと大学みたいな感じだと思うんだけど
ただ当然文字の読み書きもできないのよ
学んだことがないからねそれまで
いわゆるその集団に入ったとはいえども下働きみたいな感じでご飯作ったりしてましたと
そんなえのおさんが千人規模の集団に入るんだけどそのトップの人がいて
その人をやり込める話っていうのが伝わってるのね
なんかもうすでにいろいろ盛られてそうだなこの一瞬で悟ったと
物語だなって思うんだけどどんなのかっていうと
ある時その師匠が5代目の人がいるんだけど
その師匠が仏の本性物性みたいなものをつかんで
師を作って提出しろっていうのね
そういう課題がね
そういう課題が出てそれが正しくつかんでる人がいたら
その人を正式な継承者として認めるよって話をしますと
そこでトップであった人がこんな師を書くんですよ
15:02
現代はよく知ってるやつなんだけど
この体は悟りの木樹木の木ね
心は積み切った花瓣
いつもせっせと磨き上げ
塵や埃を積もらせないっていうのが師を書きます
体も心もしっかり修行を通しても磨いていって
曇りもないし塵も積もらないし
そういう清らかなものにしていこうっていうのは師を書くのね
どう?なんかこれ聞いて
なんかすごいいいこと言ってんなーみたいな
ただそうね仏教かどうかはちょっとわからないね悟ってないから
なんかいいこと言ってるっぽいんだけど
これを聞いてとか見てね師匠さんは
まだこいつも全然悟りの混沌とかは掴めてないなって言って認めないんだよね
その集団トップの人なんだけど
トップっていうのはそういうことか
師匠じゃなくて弟子の中でのトップみたいな話ね
弟子の中でのトップそう
師匠は師匠でいて
孟勝のトップの人はこういう師を作りますと
なるほど主席ね
たまたまこの師を絵のほうも見るというか他の人に読んでもらうんだよね
文字読めないから
こんなん書いてたよって
そしたらこんなまだまだ仏を何て言うか知らない人だよねって
自分はこういう風に読むよって言って人に頼んでもらって書いてもらったのがこんな詩ですと
悟りなどという木などもともとありはしない
また澄んだ鏡などどこにもない
本来何一つないのだ
どこに塵や埃のたまるところがあるというのか
っていう詩を読みます
壮大な皮肉かつ乗り越えだよね
まあそうだね乗り越え
皮肉だねこれは確かにお前わかってないぞっていう
そっかでもそうだね
すごいけどこれを見て思うのはまずこの絵のほうのすごさはめちゃくちゃすごいなと思いつつ
この絵の自身がさっきの課題だよね
今のってトップの人は0から1を生み出したよね自分の思う物性本性というものを
自分らに表現したよと
絵のほうはそれを批評したわけだよね
絵のほうが作った01のものを聞いてみたいなって
さらにひねくれた答えかもしれないけど
個人的にはそこには0から1を生み出す
これ言うとトップの人が生み出した詩っていうものはめちゃくちゃすごいものだと思う
18:04
0から1を生み出す
それに対してそれを見てこれは正しい正しくないだったりとか
さっきの物性というものをもっと正しく表現するとしたらという赤ペン先生みたいなものっていうのは
もちろんすごいんだけど別の能力だと思うんだよね
この話を聞いとっただけの話で言うとそうで
めっちゃすごいと思う反面
こんだけすごい絵のほうだったらどういう風に作ったんだろうなーみたいなのが気になった
なるほどねでもその感覚はなかったから面白いな
確かにそういう面白そうだなって思う気持ちと
そもそも悟った人になると
だからそもそも詩を作るみたいな課題がいいのかみたいな話になるんだよね
わかる
今それもその通りだと思った
この課題に答えるっていうのはそもそも無理なんだね
多分その善っていうものの本質を考えると
この課題に答えるっていうことは万人に対して正しいとされる言葉を残せっていう話で
それは不可能だってことだよね
経典を作れって言われてると同じっていうことで
それは不可能ですとある意味正解はあるのかもしれないね
そもそも不可能ですっていう
この「才能のこのそもそも地理も積もるものはないのだ」っていうのを
今回トップの人をやり込めるっていう手段で表現をしたんだけれども
多分ここまで悟った人だったらその問題すら意味ないですって答えをしただろうっていう話かな
そうだねそういうのもあるし実際そういう話も残ってて
これちょっと次ご紹介しようと思ってたんですけど
バソ同一の話でバソの問いかけに対して3人の弟子がそれぞれやるんだけど
1人だけ何も言わずに立ち去る人がいて
あいつはよくわかってるみたいな評価が残ってたりとか
そういうのもあるんだね
やっぱりこの前的なやり取りの難しさというか
そもそも反応を返すか返さないかとか返すとしたらどう返すかとか
その辺りも含めてすごい世界だなと思ったりするんですけど
なるほどね面白いね今の話だけでもすごい詰まってるね
そうなんだよね
前回アイネキが挨拶の話とかしてくれたけど
やっぱり普段何気なくやり取りしてることとかコミュニケーション取ってることが
どれだけ深いっていうかいろんなものに動かされてやってるかって話だと思うんですけど
21:01
ちょっと話戻していくと
こういったどこに塵や他の玉のところがあるのだろうかみたいな
そういうのを読んだっていうのを知って
師匠の人がとても驚いたんですよね
ただ当然エノーはただの下働きだから
師匠がいきなりこいつすげえとか言っちゃったら大変なわけよ
寝た目ひがみとかもあるだろうから
そうだね確かになしに殺されちゃうかもしれないね
なので他の人に知られないようにエノーを正式な敬称として認めて
五代だるま、創始者から受け継いだといわれる化粧を渡したよという伝説があります
これは元伝説でエノーの凄さというのを際立てするものなんじゃないかと言われてるんだけれども
当時の禅の在り方とかいろんな人が学んでいる中で
やっぱり本質を掴んだ人に伝われていきたいみたいな考え方はわかるんじゃないかなって思ってます
すごいね師匠もそこはちゃんとこいつすげえっていう見抜く目が悟っただけあって
悟った人だからこそその目があるってことなんだね
そうだねわかってんじゃーんっていう
エノーっていうものを見出すっていう
もう一個これもラフにエノーの話として伝わってるやつなんですけど
ある時エノーが実際に集団を出て
自分の教えを広めていくというか深めていこうみたいな感じで
あちこち回ってる時期があるんですよね
その時にたまたま立ち寄った街でお経の講義を位の高いお坊さんがするよみたいな知らせが出てました
面白そうと思ってそのエノーが気にいくんだけど
そこの場所には講義あるっていうところの旗が立ってて
ここでやりますよっていう目印があって
それが風でバタバタと揺れていました
その場面にいた時にその下で2人のお坊さんが言い争いをしていますと
そこにエノーが立ち会うんだけど
一人は旗が動いているっていう風に言うんだよね
もう一人は風が動いているって言ってどちらも譲りませんと論争をしてるんだよね
バタバタって風で旗が揺れてる時に一人は旗が動いてるって言って
もう一人は風が動いてるって言って
物理的に考えれば空気が移動することが風だから
それによって旗が動いているって説明はできるんだよね
24:00
だから風が動いているとも言えるし
ただ僕らには風の動きそのものは見えないよね
そうだね
だからそこに存在している旗が動いているとも言えますよねと
じゃあどっちが正しいんだっけみたいな話なんですけど
そこでエノーは割り込んでこう言うんですよ
あなたたちのホニャララが動いているんじゃないかって言うんですよね
はいクイズです
ホニャララとは何でしょう
え、あなたたちの…
うわ、え~
あなたたちの口が動いているのではないか
あー惜しいね
え、惜しいの?
惜しいね、あのですね
答えはあなたたちの心が動いているのではないかっていう
ほー
すげー
はー
その言葉に火を悟ったね
あ、こんな低いレベルのイヤラスでしょダメだって悟った王様たちは
すぐにイヤラスをやめたっていう話が残っております
ほーすごー
へー
そうで面白いのはここで言う心っていうのは
いわゆる僕らが普通に使っている意味での心じゃないんだよね
あ、そうなんだ
心が動くとか感動するとかっていう心って言っちゃうと
心が実体化されちゃうじゃない
あ、うんうんね
だから心があるからその心が動いているっていう風に考えるのは間違いなんだよね
うん
でこの心って何かっていうと
心も本来ないんですけど
その心っていうのはこの世のあらゆるものと同一
自分っていうものも風っていうものも旗っていうものも
本来は一つのものであってそれぞれ分けられるものじゃないと
はいはいはい
その心が動くっていうことがむしろ世界の全てであって
旗とか風とかっていう風にそれぞれ分けて考えているのがそもそも間違いだっていう境地の心のね
はーなるほど
なるほどねそもそもやっぱりこれを見て感動するとかそう思うとかってこと自体でもないとことか
感覚としてそう捉えたよねっていうレベルですらないって話ね
ない
風にだから風と旗と自分を分けちゃダメなのよ
はーはーはーなるほど
これちょっとずれてるかもしれないけど
あの空でやった優位式でやった時優位式かっていうと
あらやすきレベルの話をしてるみたいな話だった
まあそうね
マナスキですらないみたいな
あそうね
マナスキがあれだもんね
たぶん今の心っていうのを聞いたときに
たぶんマナスキぐらいの話をたぶん
27:01
マナスキだったりとかロシキぐらいの話をたぶん
感覚で得たんだよねたぶんね
はいはいそうだよね
もう目に見える旗が動いてる目に見えるロシキ
心って言うとちょっとマナスキっぽい感じがする
この現象を捉えた時に自分がこう認識するっていう意味で
だけどこのエドウが二人に対して
それも違うぞみたいな話をして
でもこの二人もその心だろって話を聞いた時に
ハッとするみたいなちゃんとハッとできるみたいな
みんなすごすぎるんだけど
レベルがね高いよね
そうそうそうそう
でもその通りで有識で言うと
やっぱマナスキが自分と世界を分ける原因だから
だから心って言った時には確かに自分の心が動いたんだとか
怒ったり論争したりしてる自分がダメなんだって言うと
まだ自意識の世界なんだよね
そこで捉えたもん最初心的に
そうだよね
それで捉えても面白いと思うんだけど
さらに一歩奥にある
そもそも自と他を分けちゃダメだよみたいなところから考えると
なんかもう深いみたいだね
深すぎて分かんないよね
なるほどね
でもみんなすごい
そこで言い動かしてるのがね
ちょっとバカらしい感じがするけれども
それを見た映像がスッと心ですよって言ってね
二人ともやべえみたいな
面白いね
結構スンッと落ち着くみたいな
これは物語なので多分伝説であろうとは思いつつ
お坊さんとかで修行する人であったとしても
そういう一時の感情とかやっぱりこう
どうするといわゆる自意識が世界に戻ってしまう
そうじゃなくて常に心とか分別しない世界にちゃんと戻れるかどうか
みたいのがやっぱり大事だよっていうのは結構伝の話なんですけど
なんかあれだね超レベルが高いと言っていいのか
次元が異なると言っていいのか分かんないんだけど
そういう意味での伝承法をずっとやられてる感じがするよね
そうねそうね
だから伝承法は矛盾を乗り越えてどこかに行き着くって話だけど
禅は常に行き着いた先のところに行き続けられるかどうかみたいな話があるから
しかも無だしね
ヘゲルはどんどん上、高次のものに行くと思いきや
禅とか仏教はどんどん無の方に行くみたいな恐ろしい話
30:00
そうね、本源に戻るみたいな
そこに意味のわからなさだったりとか今回みたいなすごいだったりとかね
結局その結果すらもどっちなんだろうっていう
不確かなというかね、ふわふわした感じが常にあるのが面白いね
そうね、禅をそのまま現実世界、現実世界というか
僕らの今の21世紀の生活に生かそうと思うとやっぱり難しいというか
そのままでは使えないよね
全てが心だとか言っても、いやいや目の前の締め切りが
売り上げなきゃとかあるじゃない
だから相性ちょっと悪いんだけど
こういうのを知っておくことも楽しさとか
だからちょっとマイナフルな性になっちゃうけど
それで一時的に自分を整えてまた仕事を頑張るみたいな話も
わからんでもないみたいな、そういう感じですね
そんな感じでね、禅の世界でやっぱり禅の世界から見たのは
言葉とかやり取りが行われて記録されているんですよという話で
今回はね、いわゆるエノという人が他の人に対して
ちょっと批判を見たものも含めて話しましたよという話なんだけど
次は実際に禅の師匠と弟子のやり取り
いわゆる禅門道というものを取り上げながら
より深くというか、いろいろな禅の世界を味わっていきたいなという風に思っております
はいはい、なるほど、そっか今回禅門道じゃないのか
今回ただのエピソードか
禅門道じゃない
そうか
そうそうそう
なるほど、これを踏まえてこういった世界観で一対一で
その師匠と弟子がやり合うというのはどういうことなのかみたいな話だね
そうだね
はいはい、いやー面白いね、これずっと聞いてられるね、こういうエピソード
そう、禅門道はね、本当シリーズというか
時々戻ってきてもらいたいかなと思って
なんか聖夜をやってまた禅門道をやるとか
別のことをやってまた禅門道をね、2,3エピソード取り上げるみたいな
ちょっと宇佐野家さん的な感じでやっていってもらいたいかなって思ってます
そうはね、一旦リセットするっていうね
なんかこっちが正しいんだとかね、こっちすげーとかってなった後にちょっとリセットする
結局無なんだみたいなね、ちょっと無情モードに入るためのね
了解しておかれました、じゃあちょっと次回はそういった禅門道ね
エピソードじゃなくて禅門道というところでちょっとまたどういった質感の違いかというところをちょっと楽しみにしてますので
じゃあまた
そうですね
よろしくお願いします
はい、お願いします。今回もありがとうございました
ご視聴ありがとうございました。チャンネル登録よろしくお願いします。
32:57

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