1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #195 必然性を追い求めた結果..
2024-03-10 55:04

#195 必然性を追い求めた結果たどり着いた「偶然」という場所

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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00:06
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回は、偶然の2回目ということで、どんな感じになってくるでしょうか?
まずですね、そもそも偶然って哲学的にどんな風に捉えられてきたの?みたいな。
前回何気にアリソデレスって何か言ってたの?みたいな話だったと思うんだけど、ちょっとその辺りから見ていきたいなと思っております。
前回ちょっと名前も挙げたんですけど、日本の偶然についての哲学でいくと、やっぱり久喜修造さんという人の名前は絶対に外せませんよと。
これ今、地面見たけどかっこいいね。関数字の9に鬼で久喜さん。
そう、久喜さんです。
かっこいいなあ。
これちょっと中二心くすぐるよね。
そうだね、自分の中の。
これかっこいいって言っちゃってる時点でもう否定できないね。
全然哲学っぽくないところから始めちゃうんですけど。
久喜さんは1888年に東京に生まれた人です。1941年に亡くなるので、60歳以下のぐらいかな。
亡くなったという哲学者なんですけど、前回もちょっと触れた通り、留学してハイデッカーとかにも直接学んだりしてるんですよ。
そのぐらいある種、法治でいうと海外にもちゃんと行って、西洋の哲学を学びますというような人です。
これもちょっと前回触れたんですけれども、偶然性、偶然というよりは偶然性というものを抱えてるんだけれども、
テーマにするにあたって、西洋哲学の伝統を法要的な伝統で乗り越えるみたいな発想があったというふうに言われてるんですよね。
例えば久喜さんに言わせると、西洋にも全く偶然性がなかったというのはそんなことはなくて、
例えば実存主義ね。実存主義ってたまたま自分としてこの世に生まれてきたみたいな話があったりとか、サルトルとかもそうですし、
あとは物理学の領域だけれども、いわゆる量子力学とかって聞いたことあるじゃないですか。
あれってシルリンガーの猫みたいな感じで、ある種、もうちょっとちゃんと言うと不確定性原理とかっていうのがあるらしいんだけど、
結局いわゆる量子みたいなミクロの領域においては、場所みたいなことって明確に定まっていなくて、
確率的にこの辺にあるよみたいなのがある種ぼやーっと雲というかね、そういうものしか表現できませんみたいな。
03:07
ここにあるっていうのは観測したときに初めて言えるものであって、この量子がどこにあるっていうのは確率的にしか言えませんよっていうような話が物理学の世界でも言われてるよね。
逆に言うと、現代に至って初めて西洋に偶然みたいなものをベースにする考えが出てきたんだけれども、
それまでは必然性っていうものが西洋の伝統的な哲学とか知識の土台だったよっていうふうに捉えてるんだよね。
なので必然性というものじゃなくて偶然性というものからどう哲学を作っていくかとか、ある種西洋にはないものをどう育てていくかっていうのをクキさんはやりましたというのがこの話でございます。
だいぶ物理学の話が出てきたりとか、かなりいろんな頭使いそうな学問ですね。
そうなんです。やっぱり当時の科学的な知見とか、ほかの分野での発見とかっていうものをある種取り入れて哲学も発展するから。
ああ、なるほど。そこそこ観測技術が上がればね、こういう妖精みたいな話が出てきたらまたできる話も増えてくるよね、想像できることが。前提が変わったりとかね、物語に。
そう、前提がガラッと変わるからね。物って、いわゆる固定的なものじゃなくて、確率的にある種揺らいでるものじゃんって思った瞬間に、哲学とか世界のあり方が変わってくるよね、捉え方として。
そうかそうか、原子みたいな、やっぱり固定したものがあるんだ、なんだかの存在の大元があるんだ、みたいな話をしてたら、そもそも存在が確率的にしか表現できない、物質が出てきたぞ、原子より小さな、みたいな話をした時に、あれってなるわけか。
あれってなるし、光とかもさ、流氏であり波であるとか言った瞬間に、え、どっちなの?どっちって分けれないの?みたいな。じゃあもう両方重ね合わせて考えるしかないじゃん、みたいなことが発想として、またいい境になってくるというか。
なるほどね、流氏なの。そうだね、確かに。粒なの、波なのっていう話があった時に、確かに粒であり波であるってなったもんね、光って。それが、要するに素粒子みたいなものはどっちなの?みたいな話はまだわからん、みたいなね、波である、波なのかみたいな。
06:06
それは仏教はさ、生きてもあり死んでもあるとか、あるものでもありないものでもある、みたいなことを仏教はずっと言ってるみたいな。言っちゃってるからみたいなね。ずるいよね、そんなちゃんと観測もしないくせに言っちゃってるみたいな。
そうそう、観測もしないけど俺は観測したって言ってぶっとか喋るみたいなね。意外と正解はしてるみたいな、恐ろしい話だったね。
あんまり引き付けすぎてダメとかってもちろんそれもあるんですけど、まぁ一旦置いといて、そんな意味でね、やっぱり現代にいた、初めてその偶然っていうものはテーマになってきたぞと、それを俺はちゃんと伝達してあげるんだぞというのが幕府さんがやったことですよと。
へー、なるほど。
話したんだけども、ここにね、いつもまた引いてる岩波のね、戦う時点でちょっと引いてみたんですよ、偶然という言葉を引いてみたんですけど、これはですね、偶然性という言葉で載っていましたと。
偶然と偶然性の違いって何?って言うと、多分深くやると難しいんですけど、一つの性質として、例えばあるものは偶然であるということは偶然性を持っているみたいな感じで捉えていいと思うんですけど、
偶然性ってこれ何と書かれてるかっていうと、必然性の対語っていうふうにまず書かれてるんですよね。
ほうほうほう。
だから偶然性とは何かじゃなくて、偶然性とは必然性の反対であるというふうに言われてますと。
うんうんうん。
必然性って何よって言うと、これはですね、簡単に言うと必ずそうあることであって、その反対が不可能であることだというふうに書かれてるんだよね。
例えば僕の例なんだけど、地球にいる時にボールを投げれば必ずどこかに落ちるじゃないですか。
うんうんうん。
そう言ったら、鳥が飼えて飛んでいくこともあるだろうとかってなるかもしれないですけど、それこそそれは必然ではないよ、たまたまそうなることであるし、浮き続ける、仮に投げたボールが浮き続けるとしたら、やっぱりそれは手品でもなければありえないみたいな話で。
うんうんうん。
結局それって要は根拠としての手品であればとか、鳥が飼えればっていう別の理由づけが必要なんだよね。
うんうんうん。
そうだとつまり、それはその理由があったら必ずこれが起こるっていう意味では必然性があるっていうふうに言えちゃいます。
なるほど。
うんうんうん。
なので、必然的にボールを投げればどこかに落ちるし、落ちないとしたら別の理由があることが必然だっていうふうに言えるわけなんだよね。ここまではOKかな。
そうだね。
うんうんうん。
その必然っていうところである程度説明できちゃうよね。
そうそうそうそう。
世の中のあらゆるものがね。
09:01
特に偶然性はその逆なので、たまたまそうあることとか、あるいはその反対が可能であることっていうと、そうじゃなきゃいけない根拠とか理由がないんだってことを説くんだよね。
うんうんうん。
例えばじゃあ僕が朝ご飯にパンを食べようがご飯を食べようが、あるいは飼料を食べようが、そこにはそうする根拠っていうのはないですよと。
どっちも選べるっていう意味ではすごく偶然的なんだよね。
うんうんうん。
そこに例えばじゃあ家にご飯しかなかったらお米を食べ、お米しかなかったらお米を食べます。
そういうことはあるんだけど。
うんうんうん。
そこには別になんかめちゃめちゃな根拠っていうものはありませんよっていう話があって。
この前に言うといわゆるアクシデントみたいな日常的に言うと。
アクシデントはいはいはい。
あ、ごめんごめん。ちょっと間違えた。ちょっと言い直すね。
なのでお米を食べようがパンを食べようがそれは偶然だよっていう話で。
ちょっと注意したいのが、いわゆる日常的には偶然っていうと結構事故とかアクシデントみたいな。
そういうことに使うことが結構多いじゃないですか。
そうね。
でもここではあくまでもそういう驚きとかっていうニュアンスは全くなくって。
あくまでも根拠とか理由をかけているとか、たまたまそうであるっていうすごいニュートラルな概念にしようと。
っていうのがちょっと日常的な言葉とは少し違うなっていう感じですね。
なるほど。
そういうふうに必然と偶然っていうふうにずっと並べられた後に、
辞書の中でもこの偶然性っていうものは西洋の近代までは排除されていたっていうふうに書いてるんだよね。
前回もあったけどそうだね。
その不確定要素を排除して必然性を捉えること自体が西洋哲学の営みに感じるもんね。前回の話。
そうそうそう。やっぱりその曖昧なものを切り捨てていくというか、それをなくしていくっていう感覚ってあるじゃない。
全部に必然性を捨てていくみたいな。
そうそうそう。本当そういうこと。逆に言うと僕らがそれを偶然だと思っているのはやっぱりそれこそまだ知らないからとか、
知識が多くないからみたいな感じで、例えば神の説理とか、あるいは因果法則、それが宇宙の中、自然の中はわかんないけど、
そういうものが絶対とされていたので、やっぱり原因とか根拠のない出来事、
それはそもそもありえないっていうのがやっぱり考え方なんだよね。
12:02
うん。
だからやっぱり僕ら人間は無知だからそれをある種乗り越えていって、この世の中を理解し尽くしたいとか尽くせるはずだみたいな風になるし、
やっぱりそれをやることが哲学とかある種知的な態度であって、ある種それを偶然そうなるよねとか言ったのは知的な態度ではないみたいな。
結構そんな感じなんだよね。
そうだね、確かに今の話で聞きながら、しかも知的っていう部分だけじゃなくて、そもそも死なないっていう生きることそのもので考えてもさ、
たまたま獲物が獲れたって怖いじゃん。
そうね、間違いない。
絶対獲物が獲れるようにするにはどうしたらいいんだろうとか、
絶対にちゃんと畑で作物が育つようにするにはどうだろうって、偶然って怖いもんね。
怖いよね。
っていうのもあるのかなって思った。
確かにね。今の話は思うけど、逆に言うと結果わからない努力って怖いっていうか無理じゃない?やっぱり。
人その死に、生死に結結してるから。
そうそうそうそう。
獲物を待っていればご飯を食べれるのかどうかっていうのを偶然につけるっていうのはかなり厳しいから、
足跡があったとか、おとといはここで獲れたとか、そういうものを確かに考えちゃうよね。
みたいなのがまさに因果関係だと思うんですけど、
哲学の中で具体的に挙げられているのは、いわゆるヘーゲルっていう人が以前取り上げたと思うんですけど、
彼は歴史哲学みたいなものをすごく考えていて、いわゆる歴史にも必然性があるんだと。
ほうほうほう。
いわゆる発達段階というのがあって、例えば昔の社会から現在になって、将来的にはいわゆる絶対精神みたいな、
そういう人間の本質的なものが全部発揮された世界になる。
そういう歴史を人間が通っていくんだということを考えたんだけど。
進化論的なイメージ。
進化論的なものかな。伝承法的にどんどん社会も発展していくみたいなやつだよね。
ほうほうほう。
これも必然性に沿って歴史が展開されていくっていう、まさに必然性の哲学なんだよね。
ほうほうほう。
一方でさ、前回もちょっと言いましたけれども、現実世界に一回目を抜けてみると、当然非合理なこととか、
あるいは自由みたいな問題があって、必然というのは不自由というか決まってるっていう話だからさ。
ほうほうほう。
ある種自由を謳歌しようと思うと、そこはやっぱり偶然の要素っていうのが結構必要なんだよね。
15:04
ほうほうほう。
そうなった時に、ある種これは哲学っていうよりは一人の人間の哲学な体験として、
やっぱり偶然性のテーマっていうものはすごく避けては取れないというか突き当てる時があると思うんですよ。
ほうほうほうほう。
例えばさ、これはもちろん自主におかしくないけど、
あの日あの時あの場所で君に出会わなかったらみたいなさ、東京ラブストーリー。
そういう歌があるじゃん。
あの日あの時あの場所でみたいな、そうそう。
ほうほうほうほう。
わかんない、これは多分それぞれリスナーさんはちょっと上の年齢の方が多いので知ってる人もいるかもですけど、
ほうほうほうほう。
みたいな感じで、要はその絶対一度の出会いみたいな、
あの日あの瞬間にみたいなことってやっぱりあるし、
それがやっぱり人生全体を変えることってあり得るでしょう。
ほうほうほうほう。
やっぱりそもそも人間の自由、主体的な自由っていうものは理性とか本能っていうのを超えて、
予測できない、要はすべて理性とか本能に仕合せたら、
それって全く自由ではないよね。
ほうほうほうほう。
ほうほうほうほう。
あれでしょう。自分は本当は、たとえばもっと楽をしたいけど努力をする自由があるとか、
逆にもっと頑張らなきゃいけないって頭では考えるんだけど、
でもやっぱり好きなものを食べたいとか、好きなとこ行きたいみたいな本能に従って自由があるみたいなときに、
それってすごく偶然、なんだろうな、
お前が自分が自分の人生を変えるために、
みたいなときに、それってすごく偶然なんだろうな、
こう、物事を、ある種必然から離れてるところにやっぱり自由ってものがある。
おー、なるほど。面白いね。自由の話になってきた。はいはいはいはい。
そうそうそう。っていうことも言えるよね、と。
うんうんうんうん。
うん、いう風になるので、ある種その、必然とか偶然って、まさにその自由とか、
自由意志みたいな話にもつながってくるんだよね。
わー、面白い。確かにね。確かに。
いわゆるその自由のタイミングは、そういうね、必然とかさ、なんか縛りみたいなものなんかすると、
それが生まれる前は自由って概念すらもちろんないわけだからね。
そう、もちろんない。もちろんない。
何か不具合があったから、その自由っていうものを多分活動して、定義がついたんだからね。
そうそうそう。やっぱりその近代とかになって、やっぱり自由と平等っていう形で、やっぱり西洋から日本が社会的になっていくのは、やっぱり自由がなかった。
それは不自由だったんじゃなくて、自由っていう概念がそもそもなかったんだね、やっぱり。
うんうんうんうん。
うん。だからこそ、やっぱりそういう、自分たちのことは自分で決めて良いのだとか、
18:05
ある種予測された、いわゆる聖書に書かれた未来じゃなくって、自分たちが作る未来っていうものがあって良いのだっていう。
うんうんうんうん。
本当にそのぐらいの世界観の変化っていうのは、多分当時、中世というか近代の、やっぱりヨーロッパにはあったんだと思うんだよね。
はいはいはい。なんか俺たち不自然だぞ、みたいな。
そう、不自然が近いかもね。
うーん。
それってなんだ?みたいな話だよね。
うーん、なんか気持ち悪いけど、みたいなね。
うん、そうそうそうそう。
なるほど。
なので、やっぱりこう、そうなると逆に言うと、やっぱり自分たちの自由とか自分の意思って信じるんだったら、
やっぱり世の中は予測不可能でなきゃいけないし、偶然性っていうものがあちこちになきゃいけないんだよね。
うーん、面白いね。やっぱり最初霊位だしたね、生き死にはその獲物を獲れないの偶然性が怖い。
うんうん。
それって多分、そういう人たちにとっては不自然な状態だよね。獲物が獲れるか獲れないかわかんない。
だから、必然な状態欲しいねって言って、それが実現し続けるためには多分その、いろんな決まりが出てきて。
そうだね。
それが今度は自分たちを守ってくれてるんだけど、なんかこの、こっちが不自然じゃねって今度思い始めるみたいな。
なんかディスクチュア的なね、そうそうそう。
全てがやっぱ波というかね。
そうなんだよ、やっぱりよく物語でもあるけどさ、やっぱり管理社会で全部が全部管理されて、毎日ご飯も与えられてとかさ。
物が実は誰かの意思によって管理されていたって時の気持ち悪さ。
うんうんうん。
それはやっぱり、必然なような感じ。
っていうのが、やっぱりそれだけあったらそれはそれで気持ち悪いみたいな感じだよね。
うんうんうん、はいはい。
あるよね、ディズニーとかでもよくあるよね、お姫様とさ、いわゆる虫使いみたいなものが入れ替わって、お互い大変だったんだみたいな。
あとお互いこういう自由さがあったんだみたいな。
はいはいはいはい。
結局どっちがいいみたいな。
そうそうそう。なので、やっぱりそういう風に必然と偶然と考えると、やっぱりそもそも人間ってどう生きるかみたいな形にやっぱりこう、すごい繋がってきますよと。
で、そういった人間だけじゃなくて、やっぱり自然の秩序とか法則とか言うんだけど、さっきも言った通り、量子規約で言っても、やっぱり粒子というものは別に明確に自然にここにあるっていう理由はないし、
うんうんうん。
そこでやっぱりカオスとかランダムみたいなさ、あるいはその、いわゆる法則性がないということが法則であるみたいな、そういう風な現象っていうのがいっぱい起きてるわけだよね。
21:06
はいはいはい。
っていう風に、やっぱり僕らの人生の、なんだろうな、あり方ってだけじゃなくって、そもそもこの世の中も全部ランダムじゃね?偶然じゃね?みたいな、全部とは言わないけれども、そういう要素っていうのがあるしあるよね?切り離せないよね?切り捨てちゃダメだよね?っていうことが、どんどんどんどん出てるっていうのは今の時代なんですよね。
うんうんうん。
で、またねちょっともう一回辞書の話に戻るんだけど、この偶然性の根底じゃ何があるのかっていうものまで書かれていて、
根底、はいはい。
根底、そこには時代の中ではね、いわゆるこう、ちょっと言葉が硬いんだけど、存在論的偶然性の問題、存在論、存在に関する偶然性っていうものがまつわる問題っていうものがあるよね?っていう風に言われてるんですよ。
これ何かって言うとね、もうちょっと言います。何かって言うと、これまさに前回もちょっと僕が言ったんだけど、そもそもこの世に何かがあるということ自体が偶然だっていう発想なんだよね。
何かがある、存在しているということは偶然であるという問題、問題という発想があって、
これハイデッカーの時にもちょっと言ったかもしれないですけど、なぜそもそも存在するものがあって無ではないのかっていうのがハイデッカーが向き合ってた問いなんですよね。
これつまり、それまでの実学はいわゆる存在するとはどういうことかとか、存在するものとしないものとは何が違うのかっていうふうなものを扱ったんだけど、そもそも存在するものがあるって何?っていうことをハイデッカーは言いましたと。
これがまさに存在の無根拠さというか、存在って何でしてるの?何でものがあるの?ものがあるってどういうこと?っていうふうな問いなんだよね。なんとなくイメージわからん。
うん、湧いてない。
湧いてないよね。そう、すっげー難しいな。
もう忘れてるし、ハイデッカー。
そうだよね。すっげー難しくて、要は、これが現代経済学の今年初めて扱ったテーマでもさ、まずはその存在というものと属性というものから考えましょうって話をしたと思うんだけど、なんとなく覚えてます?
そう、発想したのは覚えてる。
マイクがあってパソコンがあって、僕らは物に取り囲まれてるよねって話だと思うんだけど、基本的にはその存在者とか存在するってことを考えるんですよ。
24:02
うんうん。
デカルトもそう。やっぱりその、ある種、補儀と言われる偶然もないけど、いわゆる理性として疑い切った中で、疑ってるっていうこの自分とか、疑ってるっていうその働きは疑えないっていうところにしたと思うんだけど、
うんうんうん。
要はその疑うという働きを持つ存在っていうものからやっぱり出発するんだよね。
うんうんうん。
で、ただその、今のこの偶然性の話で言うと、その存在っていうのもたまたまあるだけだよね、とか、
うんうん。
そもそも人間が疑うと言われるような発想を持ったものとしてあるから疑うということができてるよね、と。
うんうんうんうん。
そういうふうに、その問題はどんどんどんどん遡ることができるんだよね。
うーん、遡ることができる?
要は、疑っているという働きとか自分が疑えないっていうのは、
うん。
でもその自分が疑うという働きを持っているのがなぜかということは疑えるよね、みたいな。
うんうんうんうんうん。
うん。たまたま人間が疑うという思考能力を持っているから、その問いを持っているだけじゃない、みたいな。
はいはいはいはい。まあ、それからあれだよね、
あることが前提になっているというか、そうしたこと。
あるっていうのが存在するとしたら、存在する意味だとしたらそう。
うん。
それと偶然っていうのがどういうふうに繋がっているのか、ここで見ると。
それはわかんないな。
うん、なるほどね。
物っていうのをすごく一般化、抽象化した物っていうふうに捉えてほしいんだけど、
物っていうときに僕らはありとあらゆる神羅万象っていうものを含められるじゃないですか。
星も物だし、マイクも物だし、ゴミも物だし。
空気とかもね、例えばね。
そうそうそう。粒子があるとしたらそれは物ですよと。
その物っていう一般的なものがあるっていうことに対して、
それって何でなのっていうふうなことを問うっていう態度なんだよね。
えっと、誰が?
何かは。
ちょっと今、何の話してるの?
誰が何の話をしてるの?今ちょっと迷子になっている。
存在論的偶然性の問題について話をしてますと。
存在論的偶然性の話をしてる。
うん、存在論的偶然性が何かって話をしてますと。
つまり、物があるっていうのはたまたまだよねっていうことが、
27:04
その存在論的偶然性って話ですと。
ざくって言ったね。
誰がこれを問うてるのかっていうのは、ここでは言えないのよ。
言えないんだ。
この考えの中ではね。
誰がって言った瞬間に、我っていう存在が出ちゃうじゃない。
はいはいはいはい、そもそもね。
そう。だから、そうすると我っていう存在を前提にしちゃうから、
そもそも誰かが考えているっていうことではなく、
物っていうものにぼんやり向き合ってるときに、
何か物って何であるの?
それってたまたまじゃないっていうふうなものが出ざるを得ないみたいな。
これは僕の感覚なんだけど。
これってあれか、そうすると、存在論的偶然性の世界観っていうのは、
逆に言うと、個別あらゆるもの、具体的なもの、一般化したものじゃなくて、
この世の中にある具体的なものすべての存在は必然であるって言ってるのと同じってこと?
ちょっと待ってね、そこまでは言ってないつもりではあるんだけれども、
言葉で言うと。
それに関しては、そう捉えたければそうも捉えられるとしか言えないな。
すごい難しい話してるでしょ、はやと。
確かにね。今言ったら難しいのか。
この今さ、存在論的偶然性について、
誰かが疑問を持つっていうこと自体が成り立たない世界だっていう話からすると、
誰かがそれを疑問に思ったっていう、その思った存在も偶然、
偶然たまたまそこに、そういう二つで存在してただけでしょっていう世界観ってことでしょ?
さらに深めると、その世界観から見ると。
そうですから、からめるとそう。
ってことは、やっぱり占い人という人がいたたまたま偶然に、
あらゆる具体的なものを見たときに、そういう人がいたのも必然だし、偶然でもあるしっていうのは。
どういうこと?
何が言いたいの?
たぶんね、タネキが感覚が良すぎるから、そういう問題に行き着くんじゃないかと思うんだけど。
まあ、お目で込めていただかなくても。どういうことだろう。
えっとね、すごい僕の感覚で言うとだよ、
それは、これって空の話をしてるなと僕は思ってるんですよ。
空の話?
あ、ごめん。ちょっとさ、一旦整理するために、なんでこの話が出てきたかもう一回。
ごめん、今迷子になってるから。
うん、ちょっと一回整理すると、
空、西洋においては必然性という方が大事で、偶然性というものはあまり扱われませんでした。
30:04
って話をしてきましたと。
近代とか現代になって、それこそ自然科学とか物理学の話でも、そういう偶然とかランダムみたいなものが出てきたときに、
やっぱり偶然とか偶然性というものを実際的に扱うという流れが出てきてますという話なんだよね。
偶然性とか扱うのに、どこから、やっぱりそういう出発点って必要なんだけれども、
出発点を立てるんだけど偶然性というものに対して、
その出発点というものが、そもそも本来で言うと偶然性というのは出発点を立てられないものじゃないですか。
要は全部がたまたまだとしたら、どこが始まりでどこが終わりかというのもわかんないよね。
そうでもない、前回そういう話をしてたもんね。
そう、そうしました。
でもそれは言葉で説明しようと思うと、何か出発点を立てなきゃいけないんですと。
うんうんうん。
という時に、その仮に立てた出発点として、存在論的偶然性というようなものが想定されますと。
はい、なるほどなるほど。
はい。その仮の出発点が何かっていうと、
なぜ存在するものっていうのは存在するのか、それは実はたまたまだないのかっていうところから、
まずは出発点として考えてみましょうっていう話。
っていうと、わかりやすいかもちょっと。
なるほど、ごめん。うん、そうだね。
最初その前提の話ちゃんと聞いてなかったかも。
はい、はいはいはいはい。
この言葉自体にただ引っ張られてたかもしれないな。
あ、そういうことね。
うん。
なるほどなるほど。この偶然性を考える、
でも本当はスタート地点とかすらも考えたくないけれども、
うん。
あえて言うなら、っていう話だよね。
そう、あえて言うなら、これから始めてみませんかと。
ロール図で言う現象、状態みたいな。
現象とか無知の出入りみたいな感じで。
話と同じね。仮にスタート地点の話をしてるってことね。
そうですそうですそうです。スタート地点の話をしていますと。
なるほどなるほど。
やっぱり哲学的なものを語るときの限界で、
これが東洋仏教になると、あらゆるものは空である。
だが空もあらゆるものであるっていう、空俗でくし、四季俗でくって言い切っちゃうんだよね。
うんうんうんうん。
要はスタートを立てた時点で間違ってるっていうふうなことがわかってるから、
この両方、空が四季であり四季が空であるってことによって、
スタート地点を消してるし、終わりもないっていう構造で語ってるんだけど。
うんうんうんうんうん。
哲学ではそれを存在論的偶然性の問題っていうふうに言って、
一応そこから出発しましょうよっていうふうに言ってますと。
なるほど。
多分そういうことだと思う。
ごめん、そこまでは辞書には書いてないんだけど。
わかったというか、さっき言葉自体について繰り返そうとしたけれども、
33:06
そういうものじゃないんだね、これは。
そういうものじゃないって思って、話してて思って。
うんうんうんうんうん。
まずこの世界観ちょっと理解しとこうねぐらいの感じで、
少し偶然性的な感じでまず、存在論的偶然性だから、
あらゆるものは偶然にまず、必然じゃなくて、
偶然必然も多分異言論的な話でさっき言ったように裏返すと同じになっちゃうという話だから、
まずはそういうふうにあるんだよと。
分かったらなんだかこうイメージの世界観を展開してくださいねと。
そうですそうですそうです。
そうです。
分かりました。
だから確かにさっきハイデッカーの言葉だし言った、
なぜ存在するものがあって無ではないのかという問いも、
いわゆるここで存在と無は何が違うのかとか、
無とは何かとかって言ったら多分捉え間違っちゃって、
無というなんかよくわかんない表現できないけど、
こういう領域があって、
僕について、あるいはそこから話し始めようとしてるんですねっていう、
そのぐらいの理解が届くかもしれない。
なるほど、オッケーです。
とにかく、何でもいいから想像してとか、
何でもいいから何かの空間想像してって言うと何も想像できないから、
そうそうそう。
とりあえずマインクラフトの、
織り立った草原をまず想像してみてぐらいの。
そうねそうね。
まずはそこからですみたいな。
そこを見て、あの木何なのとか、この地面何なのとか、
まだそういう段階じゃないからみたいな。
そうね、ほんとそんな感じ。
まだ織り立ったとこでいいから、何も想像しないで逆にみたいな。
そうだね、でもそれが近いわ。
だから久々のあれですね、ちょっと中で進みましょうみたいなやつに近いかも。
余計なことをここでは詮索しない方がいいんだね、ごめん。
ちょっと無駄に時間使っちゃった。
いやいやでもありがたい。
でも普通そうやって聞くじゃんやっぱり。
僕らが生きている中で聞くから、
それってどのことを言ってるのとか、
何のことに当てはまるのって思っちゃうと思うんだけど、
どれにも当てはまらないし、何のことも言ってませんっていう。
まだ土台の話しかしてないから。
そうそうそうそう。
ってことで僕も今気づけました。
嘘だろ、そこは。
ちゃんと台本に入れといてくださいって。
ごめんこれ分かんないんだよ、だって僕の世界にはあるからさ。
ってことだよね、本読んでとか自分が読んでると、
もうあえて出来てる世界からそれを崩していく側の話になっちゃうから。
36:04
多分ね、うん。
どうぞ聞いてる方に伝わったかな、
ちょっと伝わらなかったら伝わりませんでしたって言っていただきたいところだなと思ってるんですけど。
一周回ってそうやね、やっとお皿準備しましたって話だからね。
まだ料理も何も載ってないんで。
まだ載ってないです、はい。
お皿も、まだ食べるためのお皿かどうかそれは分かりませんって話で今で言うと。
お皿っていう名前、表現することすらもうダメって。
そう、そうです。
お皿って言うとね、料理とか食べるとかって意味が出ちゃうから。
ただ、白い丸い何かがありますっていうぐらいだね、はい。
で、この何かがあるとか存在するってこと自体が偶然だというふうな
じゃあテーブルとか土台を作ったときって、
そのふうにね、正面から向き合おうとすると結構いろんな困難が出てきますよと。
そもそも一歩一歩進んでいくってこと自体が大変だって話もあるし。
じゃあ例えばその存在として一番分かりそうなものって言うと、
まさにこう、じゃあ自分っていう存在があるじゃないですか。
それじゃあその自分っていう存在もたまたまだとか、
あるいはそれもある種根拠がない存在だっていうふうに言われると、
結構それってじゃあ自分には生きる理由とかもないみたいなニヒリズム的なものとか、
ちょっと虚無主義的なものになっちゃいそうなんだよね。
うん、でもちょっと冷静に考えてみると、
そもそもね、あるはずないとか、あってもなくてもよかったとか、
すべてがたまたまであるというこの世界において、
なぜか現にそれがある、要は現実に僕らは生きているとか、
僕と兄貴が今こうやって喋っているとか、
そもそも兄弟っていう、なんかよくわかんないけど、
その中的には意味があると言われてそうな関係性として、
なんだろうな、存在しているってことって結構奇跡的だよねみたいな。
本当にある種こう一歩進んでいくとか、観点を見る、
観点を変えるとそういうようなことが言えるよねっていう話が書かれてるんだよね、その時点にも。
ああ、そうなの。ただ一気に精神論っぽくなった気がするね。
うん、一旦ね。細かく書かれるとやっぱり変え尽きてないんで、
一旦その世界で暮らすとしたらっていう話なんだけど。
で、そうするとロジックは一旦すっ飛ばして、
全てが偶然だとか、存在ってのはたまたまだっていう世界で生きようとすると、
当然我々の存在も偶然だから奇跡的なものだし、
その奇跡的な存在がさらに出会うっていうことも、
ある種それっていうのもすごく奇跡だよねみたいな。
39:00
さっき言った偶然性と必然性の表裏一体みたいな話に近いかな。
表裏一体です。
だからあるとこに根拠があったっていうことも言えるけれども、
何の根拠も理由もないっていう世界観で生きているとしたら、
それなのに結び付いているとか、理由もないのに一緒にいるみたいなことって、
すごく運命的だよねみたいなことになってくる。
それはわかる。精神論と言ったけどわかる。
そうそうそう。なのでそこに根拠がある。
要は僕と兄貴っていうのは例えば前世でも何か繋がりがあってっていうのが
スピリチュアル的な根拠。そして前世とかを語るものだし、
ストーリー理解的な感じするね。
そうそうそうそう。
別にそんなものはなくていいんだと。別にそんなものはないけれども、
兄弟っていう中で生きていて、この世においては一定深い関係性で生きているっていうことは奇跡だっていうことも言えるみたいな。
そんなような世界観ですよと。
これはちょっと明確に言っているのが、前回もちょっと名前だけ振ったんですけど、
ニーチェだっていう話で、実はこの偶然性という項目の中にもニーチェの言葉が控えているんだけれども、
ニーチェはやっぱりすげえなっていうか、何でも言い過ぎてやべえなと思うんだけど、
結構出てくるんだね。
万物は神的?神的な偶然の足で踊るっていう言葉があるんだって。
かっこいいな。
どこで何で書いてるんだよ、この言葉って思うもん。
要は神じゃなくて偶然の方が主軸で、
要は神の働きとしか言えないような偶然っていうもので、万物あらゆるものっていうのは動いているんだと。
っていうふうに言っているらしいんだよね。
はいはいはい。
だから彼は運命愛っていう言葉も作ってるんだけれども、
まさにそういう運命としか言えないようなものとか、あるいは超人的な意味で言うと、
いわゆる永劫外気であらゆるものに無限回復繰り返すみたいな世界観があるんだけど、
それっていうのもある一回一回のとての奇跡だと捉えようとか、
それを一回一回に意味付けをしていってその世界を生きる。
それでこれでよしっていうふうに言えるってことが、
尊い人間なり方なんだみたいなことを言っているぞと言うときに、
まさにこの逃げては、ある種あり得ると言った通りどっちもあるんだ。
偶然も必然もある種味方によるよねとか、裏返しだよねって言うんだけど、
それを運命愛っていう一点である種混じり合わせるというか。
へー、そうなんだ。
そう。だからそれは偶然、必然であるってことじゃなくて、これはもう運命なんだと。
それは一個の人間が背負うべきものなんだっていうふうに肯定する。
42:00
そういうことによってニヒリズムというのを乗り越えて超人っていう、
要は人間のさらに一歩先進んだ存在になるんだぜっていうことを言っているのがニーチャンだよね。
でもやっぱりそこに繋がってくるんだね、その超人という。
そう。だから偶然だから自由に気のままに生きるのも違うし、
必然だから絶望して、要は自分には何もできないというのじゃなくて、
両方を捉えた上で、これは自分が決めたんだとか、
これは自分の背負っている運命なんだっていうふうにちゃんとスタンスを取るっていうこと?
うんうんうん。
それがある種ニーチャンが大事だよっていうことなんだよね。
へー、ニーチャンすごいなー。
ニーチャンすごい。
ニヒリズム回避のね、ちゃんと理論というかね、
意思みたいなものをきちんとここまで論理的に、しかも美しく表現しているっていう話なのがすごいね。
まあね、論理化って言われると難しいものもあるんだけど。
ちょっと精神論っぽいとこもあるやっぱり。
そう、これはアフォリズムって言われたりするんだけど、
いわゆる素敵なものがやっぱりロジックが飛んでるっていうふうにはやっぱり思われがちだから。
なるほどなるほど。
でも逆に言うと論理では言い表せないものがあるっていうのはやっぱりそうなのと思うんだよね。
さっき言った通り、偶然性の根底にあるって言った瞬間に、でも偶然でしょっていうものがやっぱり混じり込んできちゃうから。
うーん。
言葉っていうのは物事を示すのには、こういう物事、偶然とかたまたまとかカオスとか、そういうものを示すにはすごく難しい道具だよねって話はね。
ふんふんふんふん。
まあ、みたいな感じですと。
まあね、こんなふうにね、偶然性って言葉一つとってもさ、さっき言ったように運命って言うものが自由って言うものもあればとか、
いろんなところに広がっていくし、哲学のね、歴史の中でもいろんなテーマにひそんでたようは、
表には出てこないんだけど、必然性を求めるってことは偶然性を省くというか、切り捨てるってことだから、
そういう意味では常に裏にあったって感じだと思うんだよね。
そうね、確かに確かに。
なので、やっぱりメインテーマにはならなかったけれども、やっぱり西洋哲学の流れにおいて、
偶然性ってやっぱ必ずそうあることとか、必ずそういう根拠があることっていうようなものが求められる発想があったからこそ、
やっぱり光と闇、光と闇みたいな関係で、偶然性というものが潜んでいたよと。
ふんふんふんふん。
まあちょっとそれはね、言い過ぎ。まあ事前にはそこには書いてないんだけど。
ふん。
まあでもやっぱりそういうものを取り出して、ある種偶然性の問題としてきちんと学問的とか哲学的に語ったっていうのが、
クキシュウゾウっていう冒頭お伝えした日本の哲学者ですよというふうな話なんだよね。
45:05
はいはいはい。
ふん。
で、なんかもっと言うとね、このチサンっていう人はさっき言ったその出会い、いわゆるこれを開口、人と人が出会うっていうのを開口とかで言ったりすると思うんだけど。
ふんふんふん。
それの驚きを解き明かすっていうのが究極のティエムだったっていうふうに書かれてるんだよね。
え〜あ、そうなんだ。
そう。
あのさっき言ってたさ、偶然存在する人とそういう人が出会うことすらもやっぱり、ある意味その人一人が存在するのも奇跡だっていう話してて。
そうそうそう。
その奇跡的に存在した人とまた別の奇跡的に存在したその人が、しかもその出会うか、多数中で出会うことのすごさみたいな、より奇跡的なみたいな話だと。まさにそういう話だよね。
まさにその話。
ふんふんふん。
あの出会いっていうのは必ず偶然の要素を含んでいるみたいな話だよね。
ふんふんふんふん。
だし、物と物で言うと、あれなんだよね、例えば今目の前に立ってたスマホがあるんだけど、スマホなんていわゆるコモディティ化した商品の特徴的な例じゃない?
ふんふんふんふん。
だから別にスマホ自体には奇跡でもなんでもないんだけど、やっぱりこのスマホ、要は年間何千万台と何億台とかの計算されているスマホのうちたまたまこのスマホが僕の元に来たみたいなところにも、例えば出会いというものを見出すことができるかもしれないよね。
ほうほうほうほう。
っていう風に、人と人とから貴重な出会いというだけじゃなくて、一個一個の出会い、全てに実は偶然性とか驚きとか奇跡が含まれているんだみたいな発想っていうのもここにはあるんだよね。
うーん、なるほど。しかもちょっと日本っぽいね、なんかね。
ね、やっぱり一期一会もそうだし。
やっぱりそういう出会いっていうものを大事にするっていう発想があるんですけれども、今回ね、大まかに偶然っていう言葉に含まれているものとか、あるいは偶然の反対が必然っていうもので伝えてきたものっていうのをちょっと見てきたんですけれども、
次回にクキさんの話を元にやっていこうかなと思うんだけれども、この偶然性の問題っていう本を取り上げようと思うと、結構それだけで偶然性の問題編とかになっちゃうので、
ほうほうほう。
手引きとしてね、実はいい本があったの、木田玄さんって、ハイテクの時にもそう思うんですけど、この方が新書で偶然性と運命っていう本を出されてるんですよ。
へー、出してるの、そんなの。
そうそうそうっていうのがあって、これが結構やっぱり面白かったので、この本を偶然性とか運命とか、あるいはさっき言った確率の哲学っていう本も今手元にあるので、そういう本をちょっと口しながらですね、
48:14
皆さんと一緒に、この偶然とは何ぞやというか偶然というものを考えるときに、僕らの人生とか生き方とかって、どんなふうに捉えられるんだっけみたいな、そういうことを見ていきたいなというふうに思っているというような感じですね。
はいはいはい。わー、ちょっと面白くなってきたね。
わー嬉しい。ありがとうございます。
確かに、偶然って一つのトピックみたいなイメージだったけれども、今日はあった通り、哲学、特に西洋哲学の一番そのものが、あらゆる偶然性の排除と考えると、偶然の必然化みたいなことで考えると、ものすごい根本的なテーマだね。
面白いね。
おー、よかった。それが伝わるとうれしい。ほんとそうなのよ。世界観の話だから。
そうそう、プラトンの愛とか、愛なんていうか、イデアっていうと、例えば愛もイデアみたいな話を考えたときに、多分そのいろんな人が愛について考えている。だからその偶然性があるわけじゃん。愛っていうのに対してね。
その偶然性を排除して、愛ってものの必然性というか、何なんだろう、定義をちゃんとする。良い悪い、良いとは何か、悪いとは何か、ということもいろんな偶然性がこの世の中に存在している。
それじゃあかんだろうか。ちゃんと決めましょうや、みたいな。ちゃんと決まる必要はあるんでしょうね。そういう作物は育つ育たない自然化的なこともそうだし、
そういう良い悪いみたいな人的な話、社会生活、社会をどう営むかみたいなところのニーズみたいなものがあったんだろうけど、そう考えると一つのトピックっていう感じじゃないんだね。その深みが感じられてきた。
嬉しいです。やっぱりすごくアンチ定義的な話であって、合理みたいな話って、要は理由をつけていって、不根拠なものを根拠付けていって、不合理を減らすことじゃないですか。
例えば仕事とかもまさにそうで、要は合理的なやっぱり数値目標とか求められるわけだよね。こういうことをしたらこのぐらいの売上げにいって、こういうふうな製品ができますとかなるときに、でもそれが本来無理じゃねっていうふうな感覚ってあると思うんだけど、全部が全部予測ももちろんできないし、全部が全部うまくいくことはできないんだけど、でも全てがうまくいくことを求められるみたいな、例えばね。
51:25
本当にうまいケースとかはそこにも一定の不合理さとか、たぶんまさに偶然性みたいなものも入れ込むんだと思うんだけど、ある種、やっぱり今の世の中って西洋的な国家の世の中だから、あらゆるものを生産で高めていこう、合理化していこう、不十常ないものを手続けていこうっていうふうになりがちなんだけど、
だからこそカオスとか偶然とかっていうものを知っておくことで、そもそも存在ってそっちじゃないとか、そもそもこの世の中ってそんな合理的じゃなくないみたいな、そういうふうなことまでやっぱり言いたいんだよね。
確かにね。確かに。で、それをそのまま捉えるとか、それを共有する限界があるから仕方がなく合意的なっぽい感じでみんな合意してるんですよと。
っていうところで理解できると、そこの限界を知った上で仕方がなくこうやってるんだっていう。 そうだね、そうそうそう。
そういったところで始めるときに、基本的に言ったことはダメで、こう言ってもいいのだっていう話ではないっていうね。そうです、そうです、そうです。
それがまず正義と繋がるところだよね。やっぱ正義っていうのは、そういう不合理なものを排除して、これが正義だ、これが悪だっていうふうに決めるんだけど、
やっぱりその切り捨てられた悪の方にも、それをやっぱり大事にすべき理由があるかもしれないとか、あるいはそれが悪だとされたのもたまたまその社会のことかもしれないとか。
そうなのね、確かにその合理的なものって窮屈な感じするからね。 そうしてもね。
そうするとやっぱり非合理、合理的な立場からしても非合理って思える方に出ていて、やっぱり自由がいいとかって言い出すんだろうね。
そうそうそうそうそうそうそう。だから合理的に不合理みたいな本も確かあったと思うんだけど、こうやって策っていうよりは経済学的な本って、
まさにそこの、何だろうな、正義って今言ったとき、ちょっとごめん、内容あんまり覚えてないタイトルだけ今パッと出てきたんだけど、
やっぱりそういうね、ちょっとどっちつかずの部分というか、やっぱり現実って両方あるよねみたいな。
54:00
そう、なんかね、やっぱり考えされるなと思うので。
プラットフォームの世界もね、全てがきれいにいくことはないので、全てきれいにいこうとさせたんだけどやっぱりそうじゃない、それは無理だっていうことを言っているこの偶然というテーマはやっぱり面白いなと、
改めて今話しても思ったんで、ちょっと次回以降もぜひ楽しみにしていただけると嬉しいなと思っているというような感じですね。
はいはい、わかりました。
今日はね、ちょっと名前だけ出てきてね、まだ中身がわかんないこの久喜修聡さんについに触れていくというところですね。
そうですね、次回触れていきます。
はい、わかりました。
そうですね、ちょっと偶然っていうもののね、ちょっと凄さというのが見えてきたところで、次回引き続き楽しんでいきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
55:04

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