00:00
(音楽)
はい、スルテッドラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回はサルトルの小説「王都」という小説を見ながら、サルトルが実存主義というのをどういうふうに表現、捉えていたのか、みたいなところを読み解いていくという感じだったんですが、
今回はもっと具体的な思想とか哲学、そういった中身に触れていくという感じだったと思うんですけれども、どんな感じになっていくんでしょうか。
はい、そうですね。今言ってくださった通りで、まさにサルトルの主張とも言われている「存在と無」という本があるんですけど、
これをもとにいろんなテーマについて話していきたいなと思っております。
これまでの東洋的な世界観から一変して、一気にややこしくなるかなとは思うんですけど、
できる限りわかりやすく、ちゃんと伝わるようにお話をしていきたいなと思っております。
何がややこしいかというと、まずこの「存在と無」という本、日本語の翻訳本も出ているんですけど、文庫本で3冊とかになる、めちゃめちゃ分厚い本なんですよ。
そうなんだ。
「いつの存在とは」まさにそういう分厚い本で、その内容も「存在と無」がテーマなんだけど、そこには意識とか存在、事故、他者、時間、身体、体とか、行為とか、自由とか責任とか、いろんな概念について語られているんですよね。
それぞれの概念の定義を理解していかないとつまずくんだ、絶対。
そうそうそう。今回話そうと思っていろいろ調べたんですよ。本読んだり論文読んだりしたんだけど、
存在と無そのものを説明しているものってあんまなくて、その中の身体論とか他者論とか、そんな感じでやってるんで、
まあ、想定全部を説明することはできないですと。
そんな広大な話なんだね。
そうなんですよね。
そんな難しい話を統合すると存在と無ってわかるよねっていう、すごくレベルというか難しいな。
そうなんだよね。
その中でも、今回はある種実論主義、実論を本心に先立つみたいなところと、あとは人間は自由に検出されているみたいな、一応その2つをテーマにしようと思っているので、
今回はですね、存在と無そのものについて話すんですけど、次回とか次次回で他者とか、あとは自由とか責任、
03:09
そういったテーマをある種取り上げてお伝えしていきたいなというふうに思ってます。
逆に言うと、サルトルが存在とか無っていうものをどう捉えているかっていうところがわからないと、
サルトルが考えている自由と何かとかっていうのが理解できないっていう感じなので、その土台作りって感じですね。
なるほど。そうだよね。自由の系って言うのもわからんって話だもんね。
そうそうそうそう。何をもって自由と言っているのかみたいな。
まあ西洋哲学の回聞いていただいた方はあると思うんですけど、その哲学者が世界をどういうふうに捉えているかとか、
人間というものをどう定義しているかによってその先に出てくる思想とか考え方に共感できるかどうかっていうのが変わってくるんで。
はいはい、その共感レベルもだよね。表面的なのか、本質をちゃんと捉えての共感なのかとかも色々変わってくるっていうところかもしれないですね。
そうそうそうそう。
そのために前回前々回使ってサルトルとは何者だったのか、当時の一次大戦に世界大戦を経験したサルトルの時代背景みたいなところも含めて話してきてくれたってことがこのためだよね。
そういうとおりです。ちょっとそれ以上はそういう意味ではややこしいらしいんですけど、引き続き頑張っていきたいなという感じで。
まずはサルトルが目指そうとしたものは何かみたいな話なんですけど、これやっと今回触れるんですけど、一言で言うとこれはデカルト以降の哲学の乗り越えだっていうふうに言われてます。
デカルトはもちろん取り上げたけれども、我を思うゆえに我あり、中世のある種神話的な世界を理性に塗り替えようとしましたみたいな話あったと思うんですよね。
どういうことかっていうと、ある種我を思うっていうことは意識の働きなんだけど、意識が働くっていうことと我ある、だから存在するっていうことは同じだよっていうのをデカルトは言ったんですよね。
そこだけが疑えなかったみたいな話をしてたってことね。
そう、いろんなことを疑った結果、思っているっていうこの自分、疑っているその自分っていうものは存在しているみたいなことから、ある種全ての思想っていうのをやっていこう、出発線にしていこうっていうのがデカルトがやったことなんだけど。
面白いのは、ある種サルトロ的なというか、この時代から見るとデカルトは我を思うっていう働きを精神っていうものにある種託したんだよね。
06:09
精神っていうものがあって、それが意識とか思うっていうことを司ってますみたいにするし、あとあるっていうのは物体だよね。
その存在とか物体っていうものもあって、その精神っていう存在と物体っていう存在が別々にある。
これが物心二元論とか心身二元論と言われるもので、思うっていう存在とあるっていう存在が別々だよっていうことを言ったのがデカルトなんですよ。
これが実は二元論的な世界というのを生み出して、自分と他人ってのはどうかとか、自分がどうやって物にたどり着くのか、正しく認識できるのかみたいな、それこそカントとかヘーゲルみたいな、ある種問題っていうのを生み出していったんだよね。
なるほど、そっか。わーそこ疑問に思ったことなかったけど、デカルトとかカントで話してくれてたのかもしれないけど、精神と身体みたいなものを分けていることのそこには突っ込みどころがあるんだっていう話が。
そうそうそう。当時はあんまりちゃんと言ってなくて、デカルトが考えましょうって話をしてたからあんまり言ってなかったと思うんだけど、それっていうのは後から考えると大問題で、
だからカントがあれ、物自体みたいな、よく分かんない、認識はできないけど存在としてはあるんだみたいなものを考えなきゃいけなかったのも、
いや物体っていうものは存在するからその物体をちゃんと定義しなきゃいけない。とか、物体とか存在している意識とか精神っていうものがどうやって別のものにたどり着くんだみたいな、その働きって何?みたいなことを考えてきたのが、それこそカントだったりします。
そういう意味では二元論の中での話なんだけど、実はちょっとこの、スタジオも何度かお名前を出しているフッサールっていう人の現象学っていうのは、
その存在っていうのが厄介なんだよ。要は別の存在があったときに、その存在と存在がどう関係するのかとかってめちゃめちゃ厄介なんだよ。考えを突き詰めていくとね。
デカールド的に考えるとってことだよね。
そうそう。なので、存在っていうのから一回離れて、これを乗り越える。要は存在とかってそういう厄介なものを一回捨てちゃって、別にそれがないとこで考えましょう、みたいなものがある種の現象学だったりして。
そうなんだね。
逆にその弟子であるハイデガーっていう人がいるんだけど、ハイデガーは存在と時間っていう、これまた有名な20世紀最前の哲学者って言われてるような人の本なんだけど、
09:07
それは存在するっていうことを前提とするんじゃなくて、我を思うゆえに我ありって、我ありを前提にしちゃうんだけど、我ありってどういうこと?存在って何?っていうのを突き詰めたのがハイデガーがやったことなんだよね。
そっかそっか。その隙はやっぱり後世の哲学者みたいな人だとそこはもう見えてくるんだね。
そうだね、そうそう。なんかそこ自明にしちゃってるけど、本当にそれ自明でいいの?存在って本当に確かなものなんだっけ?みたいな。
はいはいはい。
そこまでやっぱり行き着くんだよね、よくも悪くも。
なるほど。でもあれだね、こんだけ名前が出てくるさ、フッサールとかその弟子のハイデガーみたいな人?
うん。
すっ飛ばして大丈夫なの?
本当はやった方がいいなって思ったんだけど、やるとちょっと分厚くなりすぎるなと思って。
はいはいはい。
一旦サルトルから道主義まで行って、後で戻ってきます。
はいはい。いやー楽しみにしてよう、じゃあ。
そう、そっちはそっちでね、たぶんね、それぞれ6回分ぐらいになることあるから。
結局ね。
結局ね。
そうなんです、そうなんです。まあそれもね、楽しみにしていただきたいって感じではあるんですけど、で、サルトルはその、まさにフッサールとかハイデガーっていうことも一定間なんで、
それを使って、存在とは何かっていう問題に迫ることで、デカルトを乗り越えます。
もっと言うと、前回オートの時に触れたような、ある種、木の根っていうのはゴツゴツした黒い塊で、それがもう存在だみたいな、それこそが意味があるものだみたいな、話が直感的に出た時に、それをちゃんと実学的に説明するっていうことをちゃんとやろうとするのね。
前回もあったけど、そういう個別具体的な経験を、東洋的じゃなくて西洋哲学的な視点から、余計なものみたいな話だったけど、そういう視点で説明したらどうなったかって話なんだ。
そうだね、そうそう。もうちょっと言うと、これは僕の理解なんだけど、デカルトっていうのは、我思うとか我ありっていうところから始まって、神をまず存在証明するじゃない。
神の存在を証明して、神っていうのは絶対性、神の中に存在性っていうのがあるから、世界っていうのは神がいることで存在するっていう、その世界の存在の原理を神に託してるんだよね。
デカルトはそうやったんだけど、でもサルトルは神のいない、ニーチェの神が死んだっていう後の世界に生きてたりするから、神に頼れないのよ。
12:06
なのでサルトルは、我っていう存在があった時に、そこから存在そのものに至ろうとするんだよね。
結構ごめん、間違えた後で言うんだけど、我はないんだけど、サルトルからすると。それがなぜかっていうのを後で言うんだけど。
まあ、その出発点から行くと、その出発点から行った結果、結局ないっていうところに行き着いたんだけどね。
我から始まって、存在にそのまま至るっていう、神を経由せずに存在っていうものをあわき尽くすぞみたいな、そういうことをやろうとしたとかやった人がサルトルですと。
だから、実存主義ってなんとなく人間のありのままでとか、自由を大事にするとかっていう感覚でこれまで話してきたんですけど、
人間に限らずそもそも存在っていう、存在するっていうこと自体が世界の根源なんだっていうことが実存主義の根本なんだよね。
なるほど、そっか、その実存主義っていう時面だけ考えるとさ、デカルトとの違いってよくわからなかったんだけれども、
めちゃくちゃ単純化すると、神がいる世界でやったデカルトと、もういなくなっちゃった世界のサルトルみたいな、そこは全然違うっていうことなのか。
そうね、めちゃめちゃ単純化するとそうだね。出発点は同じなんだけどっていう感じだね。
ちょっと見えてきたと思う。何を乗り越えようとしたか。
じゃあここからサルトルがどう考えていくんですかっていう話をしていくんですけど、まずやっぱりサルトルの出発点はまさに意識、考える我から始まるんですよね。
これはまあいわゆる普通の意識でいいです。東洋的な難しい意識じゃなくて、いわゆる物事を認識するとか、考えるとか、そういう考え方でいいんだけど。
そういったのはよくよく吟味してみると、意識っていうものについてよくよく考えてみると、意識そのものがあるっていうよりは、
何とかについての意識っていうのが働いてるよねっていうことがわかるよねっていうことを言うのね。
どういうことかっていうと、例えばリンゴを想像するってなった時に、意識みたいな明確なものがパチってあって、それがリンゴの方にヒュンって触れていって、リンゴを認識するみたいなことじゃなくて、
なんとなくリンゴについて考えてるな俺みたいな、そういうふうなものとして働くよねっていうことを言うんだよね。伝わる?
さっきのパチってなんだ?
15:03
マジックハンドみたいに、自分の中に認識の道具があって、それがリンゴの方に実体的にぶつかっていくみたいな。認識っていうのはそういうものじゃないっていう話なんだけど、
なんとなく伝わるかなニュアンスとして。
あれだね、前たぶん言葉とかと目パチパチとかでやったけどさ、東洋で例えるのはあれだけど、人間の認識っていうのはそんなコントロールしてるもんじゃないよって話か。
さっきのマジックハンドみたいな話で言うと、自分でリンゴについて意識しようと言った時に、よしリンゴについて意識してこい、俺の意識みたいな、そういう使い方してないよねって話に近いのかな。
使い方というか、もっと言うと、実体として意識があるわけじゃないよねっていう感じかな。要はデパルトはさっき言った通り、精神っていうものが存在するものとしてその精神を働かせるっていう発想なんだけど、
なるほどなるほど。
意識っていうものが明確にこれだっていうのがあって、この意識を動かしてリンゴを認識するみたいな使い方じゃなくて、そもそもリンゴって言い出した瞬間にその意識がリンゴに対して働いているみたいな、
そういう意識ってそういうものだよねっていうことをまず第一に考えるのね。
はー、なるほど。さっきの二言論か、物心二言論の結果、弊害だよね。なるほど。
もう自明のりとして認識っていうものも、ある意味リンゴと同じくらいの感覚で認識っていうものが存在するって考えちゃってるんだけれども、
そもそもその概念っていう意味で、そのレベルでまず概念でしかないんだよってことすら、認識してない、意識してないのもそれこそみたいな話だね。
なんかあると思っちゃってる。
概念とか本質はあるっていうのがこの物心二言論の世界だから、人間という本質はあるとか、リンゴはリンゴの本質があって、そこから一つ一つのリンゴが生まれるっていうのが前提の世界観だから、
まさに言ってくれた通り、それって働きだよねっていう。要は別にそれは実体そのものじゃなくて、たまたま意識が働いた時に、意識があるじゃんっていう風に僕は認識してるだけだよね。
18:01
もっと言うとサルトルはあらゆる意識っていうのは何者かについての意識だっていう風に言って、意識そのものには何らの内容もないっていうことを言うんだよね。
わー、はいはいはい、なるほど。
そう、意識は何かを含んでないんだよ。精神とか自我として実体としてあるんじゃなくて、ある対象リンゴがあった時にそれに向かう働きとかエネルギーみたいなものが意識なんだよねってことをまず確認するよね。
わー、むずい。
むずいでしょ?
むずいね。そっかそっか。今せっかくリンゴの話があったから、これで確認させてもらうと、リンゴっていうものを認識した時に、オーリンとかフジとかいうのはあるじゃん。
品種としてね。
品種として名付けちゃってるから、究極的には違うんだけれども、ただのリンゴってそういう意味で言うともう一覧の中では存在しないじゃん。流通してないじゃん。
そうだね。
スーパーでさ、リンゴって売ってたとして、絶対何らかの品種じゃん。
うん、間違いない。
そういう意味だよね。絶対にリンゴって考えるときは、オーリンとかフジとかっていう、あの黄色いやつね、あの赤い水々しいやつねとかって考えちゃってる。
水々しいっていうかもう特定の品種ね。
はいはい。
リンゴっていうもう、相性的な何かみたいなものって、あの、あげえないじゃん。
そんなものが売ってたりとか、それを食べるとか。
そうだね。
っていうおかしさが意識でも言えるよね。
例えばさっきのリンゴを認識するための意識ってものは存在するけれども、あとなんかどっかに歩くとか、なんか食べたいっていう意識っていうのは存在するんだけれども、ただの意識みたいなものはさっきのリンゴとは何かっていう話で、意識って言われてもなぁ、それ扱えないじゃん、なにそれみたいな、
特に取り付くよっていうようなイメージであってる。
そうだね、あってるあってる。
あっていて、その、ブシ逃げの方が面白いのは、リンゴの本質はあるって言うんだよね。
うんうんうんうん。
うん。それは辿り着けるって言うんだけど、意識にはそもそもそういう本質みたいな作用がないっていうのをサルトロは考えるのね。
はぁ、そこは違うよという話。
そう。
はいはいはい。
21:00
これまでは意識の本質とか精神とかがあるって言ってたんだけど、それって実はなくない?っていう話をしてて、で、じゃあその意識っていうのはその働きなんだけど、どういう風に働くかっていうと、
まさにアイキューって言われた通り、そのリンゴを割った時に、これはオオリンかなフジかなっていうこともあるし、さらにそもそもリンゴっていうのはねっていうのもあるし、それを超えてリンゴの本質とは何かまでいって、さらにその本質一個、リンゴという存在の本質は何かみたいな、
要はその存在っていうところまで意識っていうのはある種向かうことができるよねっていう風に言いますと。
で、この存在の本質に向き合った時に、秋を思い出すんだっていうのがこの前のオオドで話したことなんだよね。
はいはい、それまでいっちゃうとってことだね。
意識が木の根っこで止まらずにその存在の奥にいっちゃって、木の本質とか存在の本質までいくと、黒くてゴツゴツしてネバネバした不気味なものみたいな感じに捉えてしまいますよと。
はいはいはいはい。
っていうのがまずここまで言っているその意識についての話なんだよね。
で、ここでもう一個だいぶすっとばしていっちゃうんだけど、じゃあこの存在の本質って何かっていうと、それはもう「ある」ってしか言えませんと。
「あるからあるんだ」以上みたいな感じになるのね、ここは。
うんうんうん。
だって存在してるんだから、それはあるとしか言えない。別に説明できない。
いっぱいそれを説明するために、翻訳で3冊読まれる本を書いてるんだけど、本当にそういうことで言おうと思うと、もうそうとしか言えません。
はいはいはい。
逆にもっと言うと、他のものとは無関係にただ「ある」っていうのが存在の本質で、逆に言うとサルトルはもう存在というのは関係を持つことができないっていうことまで言うのね。
なるほど。さっきの、ごめんね。じゃあ今回リンゴでいこうか。
いいよ、リンゴでいこう。
リンゴでいこう。それで言うと、普通は例えば三富士、まずリンゴというものは三富士と扇に分かれますと。
はい。
それで既に関係はないけれども、そこを掘っていきますと。ちょっと順番が逆に掘っていくの。
たぶん逆だと思うんだけど、本当は。三富士同士で見た時にも、三富士Aと三富士Bは違うものだよねとも言える。
はい。
それをどんどん繰り返していくと、みたいな話だよね。
24:00
あーごめん、うまくできなかった。
うわ、むずっ。これね。
三冊書いた理由がちょっと今わかったかも。
すごく難しいのよ。
むずっ。
じゃあもうちょっとリンゴで説明するね。
お願い。
じゃあ三富士と扇がありますと。そもそもリンゴっていうのも三富士っていうのも扇っていうのも意識の働いた結果の言葉だから、そもそもその時点で存在感は離れてるんだけど、
一旦それが認識したとした時に、一個進むとリンゴAとリンゴBになりますと。
あー、抽象度を上げていくのか。
そう。それでもね。リンゴAとリンゴB。存在の本心に進んでいくの。
あー、うわー。
抽象度を上げるんじゃなくて、カテゴリーとか抽象の話じゃなくて、存在そのものに向き合ってほしいんだけど。
うん、ごめん。
難しいと思うんだけど。
それがあれだね。本当本当的な言葉を使えないね。抽象とも違うんだもんね。
違う。むしろ具体に迫ってはいけないからね。
あー、そういうことか。さっきどっちに言ってるのか分かんなくなっちゃって。
そう。だから、もう一回言うね。
「黄鱗と富士があります。でもそれは目の前のものを見ても絶対に出てきません」と。
「リンゴがあります」とは言えるけど、でも本当はそのリンゴっていうのも僕らの知識にあるものです。
はいはいはい。
だからリンゴAとリンゴBっていうのがあったときに、それもさらに一歩進むと、存在Aと存在Bが存在するっていう風に言えます。
はい。たださらに、存在Aと存在Bっていうのもどっちも存在あるっていう本質でしかないから、本当はAとBって分けることもできないんだよね。
へー、はいはいはい。
だから、もう目の前に存在があるとしか言えないんだよ。
なるほど、分かった。分かったというか、OK、ついてきてると思う。
ごめんね、ここで確認させてもらうと、存在AとBになって、その後、目の前のAとBすらもあるとしか言えないっていうのは、
やっぱり赤ちゃん目線だったりとか、人間が赤ちゃんである以上そこをすぐ乗り越えちゃうと思うんだけれども、
だから赤ちゃんイカ目線みたいなすごい話だなって今思ったんだけれども、その視点から見ると、存在AとBが確かにうちらは見えちゃうんだけれども、
27:03
その見えてる2個って言ってることすらおかしくて、目の前に存在するそれらは、
もうごめん、これはうちらの観点からしか伝えられないんだけど、
その2個でもしかしたら1セットかもねみたいな可能性をこっちは思っちゃうんだけど、
2個で1セットだったらそれもあるじゃん、1個であるとしか言えないし、そういう風にしか、
いろんなビルがある、いろんなリンゴがあるみたいな、いろんな風景の中にいろんなもの、川がある、木があるみたいなことを言ったとしても、
もうあるとしか言えなくなっちゃうって感じになってくる。
まさに、まさに。
恐ろしい。
恐ろしいですよ、吐き気もすごい。
これは吐く、人間じゃないもんだって、赤ちゃんですらないよ、その感覚。
意識から見るとあるとしか言えないってのはそういうことなのね。
怖っ。何その感覚、サウトル。
すごいよね、でもなんかそれは伝わって嬉しいわ。
人間はそういう風にできてないよ。
そう、人間はそうなのよ。人間の意識はそう働かない。やっぱり区別してるから、基本的には。
だからさっき言った1とか2とかっていうのも区別の話だから、存在とは別なんだよね。
あるとしか言えないって本当に兄貴が言ってくれた通りです。
で、ここで厄介なことが生じるってサウトルは言うのね。
はいはい。
なぜなら世の中には「ない」っていう状態も意識できるじゃないですか。
例えばリンゴがここにないっていう時に、それってリンゴがないのか、リンゴのない状態があるというのかによっても全然違うんだよね。
うん、そうなんだね。
インの時にも、ここで言ったけどさ、無をいくつかに分解したじゃない。
そう、そんな感じで不在があるというのか、無は無なんだっていうのかによっても違います。
存在と前提にするとこういう問題が起きてきて、ここに存在と無っていうこの本のタイトルの厄介な関係性っていうのが生じてきます。
で、厳密に言うとね、実はその問いの立て方的には、そもそもサウトルは何かを問うとか、問うって進めようとする時に、この無っていうか否定性の問題を打ち出すんだけど、
何かっていうと、例えばさ、例えば問い、何か質問があって、これこれはどうですかっていう風に何か尋ねようとした時に、基本的にはイエスかノーの2つが想定されるじゃない。
30:02
まあ、合ってますか、合ってませんっていうのがあるんだけど、ここを存在っていうのを対象に問いを立てようとすると、それは存在するかしないかではなく、存在と非存在。
要は、存在しないではなく、非存在の存在について考えなきゃいけないっていうことを言って。
だから、つまりここに、非存在、存在しないんだから無なんだけど、これを考えなきゃいけないから厄介だっていうことをサウトルは言いますと。
サウトルおかしいよ。
なるほど、なるほどってごめんね、確認させてもらうと、あれか、例えばリンゴがないっていう状態を意識できている状態は、すでにこのサウトル的に言うと非存在とか無ではないんだねっていうイメージだね。
サウトルはリンゴのあるっていう状態とないっていう状態を比較してるから、まさにアイキュー言ってる通り、無じゃないんだよねそれは。
っていうところまでは、今の話、その認識で合ってるのかなっていうところまでは理解しているはずっていうところだよね。
で、サウトはですね、2つの概念を導入しますと。頑張っていきましょう。
言葉が厄介なんだけど、一つが即時存在、即時っていうものと対時存在っていうもので、即時っていうのは即、即だんの即に自分の時。
つまり即自分っていう存在と、あと対時、愛対するの対に自分の時で対時っていう言葉があって、そういう概念をサウトルは発明するのね。
めっちゃややこしいんだけど、すごい簡単に言うと即時存在っていうのは、意識の対象になるものすべてです。リンゴも即時だし、木も即時だし、皮も即時だしみたいな感じ。
色も、例えば。
色も意識の対象になるから即時。
なんでこんなややこしいことをするかっていうと、サウトルは存在するっていう根源的な存在そのものと、リンゴとかっていうもの、これを存在者と当てるんだけど、これ別概念で扱うんだよね。
さっきの話聞いた後は納得はできるよねってことでしょ?人間が認識してる後のリンゴっていうものと、後はそのものだよね。さっきのその、お目があるとしか言えない。
33:07
存在Aとか、あるみたいな話。
存在Aとかも一応、存在者。
それは存在者。さらにその、あるとしか言えなくなったさっきの2個のリンゴがあろうが、あるとしか言えないようなレベルになったものが初めて、存在。
それ以外は全部存在者。
存在者、現れ。
面白いね。
この存在と存在者はぴったりくっついてて、基本的には剥がすことができませんっていうことを考えていて、
その存在と存在者がぴったり重なっている状態のことを即時存在とか即時っていうふうに言うのね。要はそれがそれそのものであるみたいなことを言ったりするんだよね。
うちらの一般的な感覚のものみたいなのも良さそうだね。
そうね。一般的な感覚のものに存在っていうよくわからない本質があれになるだろう。べだーってくっついてるみたいなそんな感じ。
本当は逆だよね。でも存在っていうものに存在者たる、ないからくっついてるよって順番でってことだね。
そうだね、本当は。
っていうのが即時ですと。で、対時とか対時存在っていうのは即時存在以外のものなんだけど、これはすごいぶっ飛ばして言うと、意識であり人間です。
これはちょっとわからないと思うんで言うんだけど。
で、サルトの本のところにはすごいややこしい言い回しがあって、対時存在っていうのはそれがあるところのものであらず、それがあらぬところのものであるような存在みたいなめっちゃ神そうな言葉で書いてるんですよ。
だから禅かっていうね。
でも本当に禅っぽいの話しそうで、すっげー簡単に言うと、さっきさ、意識っていうのはさ、ちょっと内容がないんだとかさ、何かに向かうものなんて話をしたと思うんですけど、
意識っていうのは対時存在を認識できる。もっと言うとその存在に関わることができるから即時存在じゃないんですよね。
要はさっき存在は関係を持たないって言ったじゃないですか。
でも意識はその存在と関係を持てる。
その存在を意識することができるから即時存在じゃないっていうふうに言えます。
だから意識っていうのは存在とさっきの存在者の同一性っていうところがはみ出た存在で、
36:08
それを即時じゃないものとして、ある種その即時に相対するものとして対時みたいな言葉で名付けるんだよね。
っていうのは多分理解しやすいと思うんですけど。
さっきも言った通り、その意識っていうのは本来存在じゃなくて働き。
なのでその意味では無ですと。そこに存在っていうのが伴っていません。
それにも意識がない。無意識とかってことなんじゃなくて、
意識は無として存在するってしか表現できないようなものなんだよね。
存在の本質は伴ってないんだけど、でも無なものとして意識は存在するみたいな言い回しになります。
はいはいはい。
うわー。すっごいね。なんだそれ。
いや、なんだろう。だからもうね、人間の普通のというかさ、
人間はそうできてないぞっていうところから全部理解しにいかないといけないっていう、
この難しさがあるやっていう話なんだけど。
そうそうそう。だから第1回で言ったら、サルトルがちょっと病的だったとか、
そういった傾向だったのがみんなに広まったんじゃないかって言ったのもなんとなく理解できるでしょ。
うん。なんか分かってる。
だって普通はこんな風に考えないからね。
いや、でも考えられないよ。考えないじゃなくて考えられない。
確かに確かに。
でもやっぱりさっきの存在そのものみたいなね。
2個あるものがなんだろうが目の前にあるものが存在としか言えないっていう状態から出発したんだ。
その出発っておかしいんだけど、出発したとすればこの意識っていうものが、
その意識がないっていう言葉のおかしさっていうものに初めて気づけるよね。
意識がないっていう風に言ってる時点で、さっきのリンゴがないっていう風に言ってる場合は、
リンゴっていうものがちゃんと存在者として人間が認識できているからこそないって言えるって話で、
この意識があるないって、そもそも言えないっていうことはどういうことだろうねっていうことを、
さっきの存在に視点から、繰り返さないと忘れちゃうから。
さっきのある、目の前にものがあるっていうだけ視点から考えると、
39:02
それは意識はあるとは絶対に言えなくて、存在者は多言えないから、
存在者じゃないものってどういうことっていうことを考えて考えていくと、さっきの対事存在みたいなものが否定されて、
想像されて作らなきゃいけなくて、それはもう必要発明の母だよ。
その概念作らなきゃダメだよっていうところに、サルトルはやっぱり、しゃあないからこの言葉と概念を作った。
そうすることで初めて、そういった存在者のものを認識するであろうものとしての意識みたいなものは、
これはでも存在者の一つではないから、無として、ただの働きとして、存在ではないものの何かとして存在しなきゃいけない。
それをしゃあない、無として名付けるしかない。それが意識だ。みたいな論理展開は納得はできる。
素晴らしい。すごいね、あやめきは。これを理解するのに、それこそ5年、10年近く勉強して、
この台本作るのにも多分8時間がかけてるけど。でもその結果を伝えてくれたから理解できるみたいな話ではあるんだけれども、
理解の内容としてはどう?合ってまいる? 合ってるはず。僕がサルトルを誤解しなければ多分合ってるはず。
そもそもその可能性があるからさ。 そこはちゃんと伝えておかないとね。
僕が理解頑張ってしようとした結果でお伝えしたことは、あやめきが伝わったということが今わかりました。
この作品に入れてくれた通り、大事存在意識っていうのは、無であり人間であり関係なんだみたいな話があって、
それは大事なんだけどもっと先に行きますね。
ちょっとわかりやすいように、意識って言うんだけど、ここで意識が即時存在、物とか存在者とどう関係するかっていうと、
本質的には否定の働きによるよねっていうふうにサルトルは言うんですよ。
意識があらゆるものを何々として、リンゴはリンゴとしての意識を働かせ認識しますみたいな感じで捉えられるっていうのが、
意識自身がその存在っていうのを書いてるからだよね。さっき何か言ってくれたことなんだけど。
42:06
逆に、もし何気ない意識が何らかの存在なんだとしたら、まずさっきみたいなリンゴAと意識Bっていうのが並列にあるだけで、
AはA、BはBで存在してるから関係を持つ必要がないというか、持てないよねってこと言うよね。
だから即時存在、存在者っていうものが何かと関係を持つには、その間に即時存在ではないものが必要で、
それが絶対的な否定性を持った即時存在ではなり得ないとかあり得ない意識っていう意味での対立存在なんだってことを言いますと。
即時存在同士が関係を持つ、さっき言ったリンゴAとリンゴBが関係を持つのも、
物体がリンゴだっていうふうに、そのリンゴっていう概念と関係を持つのも、すべては意識の働きだっていうことをここで言うのね。
- うんうんうんうんうん。OKOK。ここはさっきの話の延長だね。 - そうそうそう。
もうちょっとこれも例えさらに詳しく言うと、動画で言ったリンゴで言うと、リンゴが目の前にありますと。
リンゴをミキサーにかけてジュースにすると、僕らはそれをリンゴジュースって言うんじゃん。
その後リンゴが壊れてリンゴジュースになったっていう考え方なんだけど、
即時存在の観点、リンゴそのものの存在の観点化すると、ただ存在が存在し続けるだけだから、
リンゴはリンゴジュースになろうが、個体が液体になろうが、何も失われてないんだよね。存在することに関して言うと。
まあそうだね。水が凍ったと同じ話だよね。 - そうそうそう。
だから別にここには何も起きてないんだけど、そこに変化とか破壊とかって見るのは、人間の意識、つまり対自存在がいるからだ。
それ以上でもそれ以下でもないよねっていうことを言うのね。
つまりサルトに言わせると、対自存在、人間っていうもの自体が実は世界に意味ある出来事を生み出す唯一メインの存在であり原因だっていうことを言います。
だから神とか別に超常現象とか持ち出さずに、人間の存在そのものが、即自存在しかない世界に意味とか関係を持ち出すんだってことを言うのね。
45:01
ああ、そこに繋がるのか。なるほど。
ずるいね。そっか、その順番で言われると「そうですね」しか言えないわ。
そうだよね。なかなか否定は難しいよね。
だからこそサルトに言わせればね、その意識、対自存在である意識っていう、もっと言うと人間存在っていうのは、ただ存在するってことは許されてないのよ。
即自存在は、ただ存在するそこにあるだけっていうのができるんだけど、人間はそれができなくて、まず意識を持っちゃってるから、
常に何らかの関係を見出す存在であって、それをサルトには意識のうちにはいかなる惰性も存在しないって言葉で表現しようね。
だから楽できないの、人間は。
へー、そうなんだ。
常に即自存在の間に関係と見出し続けるべき存在として、もう宿命づけられてるから。
そっかさっき言った人間はそういうふうにできてねーよって怒ったけど、もうそういうもんだからって話か。
サルトに言わせればね。
存在そのものあるっていう風なだけで、認識することは人間にはできないって話だね。
存在者としてしかその存在を認識できないっていう豪雨があるって話だね。
もっと言うと、人間は即自存在にはなれないって言葉って話かな。
へー、そうなんだ。
要は即自存在は存在として満たされていて、それそのものとして生きていける。
別にリンゴっていうものはもう人間が作った概念だから、別にリンゴはリンゴとしてただある。
それこそアレがままでいられるんだけど、人間は意識とかその対自存在を持っちゃってるから、
アレのままっていうか、存在そのものとしては存在できないのよ。
あー深いね。そうか。
さっきから人間だけが人間だけがとかってちょっと言ってて、動物は?とか思っちゃったけど、
確かにね、まあわかんないけどね、そこは確かに人間は?って言いたくなるような話かなとは思った。
そうね。
うん、なるほど。
もちろん動物は?とか、じゃあそのいわゆる理性的じゃない人間は?とかって言うのも出てくる。
それが実は行動主義に繋がっていったりするんだよね。
はい、なるほど。
ただ、意味がある区別とかはもちろん動物もしているから、そういう意味では動物とかもその対自存在に含まれるみたいな考え方は多分できるんだけど。
48:01
対自ね、はいはい。
人間の方が。
そうか、ただまあ、そうね、OKOK、今回はね、この猿との話だから一旦その話で、動物はちょっと置いといて話しないと論点ずれちゃうね。
はいはいはい。
そうそうそう、まあ一旦はね、なので人間ではそういうただ存在性とか許されません。
だからディガルトが我と精神っていうものをある種即自存在、その物体というか物質として扱ったというのは間違いで、それは錯覚だというふうに聞いています。
ですから、サルトルの言葉で言うと、我っていうものが即自存在、存在そのものとするならば他のものと関係を持つことができないから、我が何かを認識するという働きも生まれないよね。
なので我を思うゆえに我ありなんじゃなくて、例えばその体とか心とかっていう即自存在を、体自体を即自存在としてあり得るのよ。
亡くなった人の体とか、死体とかを即自存在として存在できるから。
なのでそれを認識することで、私っていうものが私に対して意識を働かせるから、私が存在していたと言えるっていうふうに言わなきゃダメだよね、みたいに説明します。
なのでここまで言うと、存在そのものみたいな存在する、それがあるとしか言えないものっていうのが、まずはある即自存在で、無っていうのが体自存在であり意識であり人間だっていうことを見てきました。
どうだろう、伝わっただろうか。
最後のここだね。我を思うゆえに我ありとサルトの言う、私が私に対して意識を働かせるから私は存在していたと言えるか。
そこの違いをもうちょっとちゃんと考えたいね。
せっかくだからそう、自分の体、物心に言えん論と違いっていうものをもうちょっとちゃんと理解したいなと思って。
サルト的に言うと、自分の体っていうものは定義しているの。
今回で言うと、いわゆる存在者だったり即自存在側として定義しているのかな。
今回で端緒って言うんだけど、まさに身体論とかめちゃめちゃ書いてるんだよな、この本の中で。
そっか、そこにちゃんと説明してるのか。
どうなの?この言葉だけを聞くとまだちょっと抜け出されてない。自分の意識と身体。自分の意識っていうものがあって、自分の身体っていうものもあって、
51:13
意識っていうものが自分の身体をちゃんと意識しているから私が存在していると意識側が認識する。全部あるある。
全部がそういう話に聞こえかねないから、今回の話の流れでこれをどう解釈すればいいのか。結構難しいと思う、この言葉。
ちょっとその謎を次回に持ち越したいなと思っていて、なぜならそこに他者っていう問題が発生するのよ。
なぜなら自分は対地存在だけど、兄貴も他者も対地存在じゃん。
確かに、なんでそれを。
対地存在同士が関わるとどういうことっていう問題が発生してくるのね。
そのケース考えてなかったわ。
ちょっとちょっとちゃんと世界にはいろんな人がいますからね。
そうだよね。今って、そっか、その2つ?対地存在っていうものと、即時存在、存在者としてのただあるっていう即時存在っていうものと、
意識みたいなそれ以外の対地存在っていうものの2つの定義、概念を作ったとしたら、確かに即時対即時、即時対対時、対時対対時っていう今の話出てくるよね。
そう。
そこ全然気が回ってなかったわ。
はぁ~。
はい。
じゃあその話する中で、今の本当は無である意識っていうものが自分をどう認識しているか、自分自体をどう認識しているかっていう話もちょっと絡んでくるな。次回。
めっちゃかかってきます。っていうのは、もっと言うと、我は我を認識できない。だって我はない。意識はないって言っちゃってるから。
ないものを認識ができないじゃない。認識が対象にならないから。
働きにしかないみたいなところで言ったんだけど、最後の話だとまだそこがちょっとね、うまく分からない。
そこに対して、実は次他者の話で、他者の目を通じて自分を認識するっていう、ちょっとそういう世界観を持ち込んでいきます。
じゃあ無理だわ。確かにここで話聞いて、この言葉をちゃんと払ってせよって言っても無理な話ではあるんだね。
そうだね。ちょっと確かに先走ったかも。
OKOK。今回の話で納得できるのかと思ったけど、ちょっと違かったから。いやー、面白いわ。
54:02
いやーでも疲れるでしょ。西洋哲学やっぱり西洋哲学で。
うん。やっぱり全然そう、概念を使うところが違う気がするよね。東洋とかの全問答はもうちょっと心を使う感じがする。
はい。
純粋な、今回の人は、前回のロカンタンが公園でマロニエの木に退治するような気持ちみたいな。
多分今回の話聞くとロカンタンはそんな感じでは退治してないんだなっていうのが分かったんだけども。
そうだね、そこまではね。
でも西洋の方はもっと頭で理解した上で、ここで理解するというか、どっちもちょっと使う感じがするのかな。
理性が先だね。やっぱりその概念とかをちゃんと正しく定義して、兄貴は途中でまさにやってるかやすとおり、食事存在にはこれが含まれる、含まれないとか、退治存在にはこういうものだ。
これがどう関係するからこういうことが言えるって、やっぱりそのロジック。
確かに一旦スタート地点っていうものを常に意識し続けなきゃいけない。
自分が持ってないスタート地点だったり概念、今回でいうと、まず退治存在側から考えるとみたいな、そのワンステップがあるのかも。
そう、すごい大事です。やっぱりそれは。
哲学者って自分の見た世界を表現しようとするから、普段生きてる世界とは違ったりするので、どこから語ってるのかとか、どこを出発点にしてるのか。
サルトルでいうと、そもそも存在の本質っていうのはあるけど、意識っていうものは存在しない、無駄っていう。
そこにちゃんと立ち続けられるかみたいな。
そういう意味では、さっき東洋と西洋でざっくり分けちゃったけれども、空の概念とかいう意識とかは割とこっちに近いかも。
西洋とか、やっぱり自分がない概念をちゃんと下地を作って、この世界観を作って、あなたにはないでしょうけど、この世界観で話しますからねっていう、その世界観をまず理解することが超むずいんだけどみたいな。
ここまでいいですね、世界観理解しましたね。その上でっていうさらに難しい話されるから、ちょっとツッコミどころが多いんだよね。その世界観ちょっとまず理解できないんですけど、みたいな。
57:00
そうね、そうね。 っていう話なのかと思った。 でも本当その通りで、まさにクオがやらせていただいたのは、オサルトルはだからその世の中っていうものを、
そういう即時存在、存在そのものとか、存在者って言われるものと、意識とか人間とか無って言われる対立存在ってまず分けましたと。
この世界から見た時に、他者ってどう見えるの?体ってどう見えるの?自由とか責任ってなんだの?っていうのをどんどん展開していくんだよね。
はい、なるほど。 なので今日の話がベースになって、また次回以降、他者とか自由とか責任とか、そういうテーマについてぜひお話をしていきたいなという風に思っております。
はい。 なので皆さんは対立存在として話を聞いてください。
対事だから、そっか、ちゃんと意味付けをちゃんと理解してねって話だね、その言葉。
そうね。 え、どういうこと? 対事概念として聞いてって何それ。
もう一応、そんなこと言わなくても対事概念だよね。あれ、我々はもう対事的存在じゃないの?そんなこと言われる前に。
いや、普段さ、生きててさ、思わないじゃん、そんな風に。自分は対事存在であるなんてさ、考えないじゃん。
まあ、そっか、そうだね。 うん。
なので、このラジオを聞いている間は、まあ全然、ゆるく聞いていただいていいんですけど、
自分は、いわゆる即利存在、対利存在というものが存在する世界の捉え方における対事存在だっていう、
世界観にどっぷり使った上で聞いていただけると、多分よくわかるみたいな。
なるほど。 そういうことを言いたかったんだけど、あまりにも無理な注文をしましたね。
超高度な間で、なんかされとるギャグみたいな感じだよね。言われなくてもそうなのにね、あえてね、対事的存在ですけど、みたいな。
そうだね。 いやいやいや、追いつけなかったけど、何に当たり前なことを言うけど。
そこまで言われなくても対事ですって返されたら、なんか、おおーみたいな。
うん。 多分そんな気持ち悪い会話をしている人は世の中にいないと思うけど。
うん、そうだね。言われなくても対事ですけどって、だってね、10秒くらい、この話も聞いた上でね、10秒くらいかかるよ。
(笑)
はい、聞いている方がね、あの、ちょっとこいつらヤバいなって思わってなければいいんですけど。
こいつらじゃない、ヤバいのはね、あの、あなただけですよ。
え、マジで嘘でしょ。
(笑)
おかしいな。
うん、いやー、ちょっと、うん、そうだね。まあでも、うん、いいよ、やっぱ西洋に戻ってきたなっていう実感が湧くよね。
(笑)
ちょっと懐かしい感じもね、ありながら。
1:00:02
うん。
いやー、そうだね、ちょっと、うん、面白い、うん、ちょっと難しいと思うんで、ちょっと自分も編集しながらもう一回とかね、何回か聞きながら、ちょっと深めようと思うんで。
うん。
まあ、そうですね。
ただ難しい話してるなっていうのもあるし、ただ、あのね、そんな、このソウルテツアルションがそんなハードル高いものであっては欲しくないけれども、なんかやっぱね、このこれまでの80回いろいろね、あの、聞いてきたからこそね、多分分かる話って部分もあるんだなーとは思ったんでね。
これ分かんなかった場合、一回デカールトとかね、もしよかったら、もし聞いてない方いたら、一旦ね、デカールト感度あたり聞いていただきながら。
そうですね。
あとやっぱその、後回の話だけで、あの、なんだろうな、それこそサルトルがとか、実音が何か分かるというよりは、そもそも次回とか次次回とか、サルトル全体を通じて、こう、なんだろうな、伝えられるようにしていけたらいいなとは思っているので、まあ、あの、全然なんだろうな、サルトル回もぜひ引き続きやっていきますので、そちらも楽しみにしていただけたら嬉しいなという感じでございます。
確かにサルトルの途中でね、別の回に誘導してすいませんでしたって話だった。
まだまだ続きますのでね。今日あの入り口っていうか、土台、共通の土台を作ったところが今日なので。
はい。
だからね、土台が大きいんだよね、ほんと。もう3話目だしね。
面白いっすね。
そうですね。
すいません、ダラダラと。いや、とりあえずこんな感じでね、また次回も何が待ち受けているのかちょっと怖いところではあるんですけれども、引き続き、じゃあまたまたどんどんサルトの深みにハマっていきたいと思いますので、引き続きよろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。今回もありがとうございました。
いやー、面白い。
(♪ BGM)