1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #85 世界には自分しかいないの..
2023-02-15 50:19

#85 世界には自分しかいないのか?独我論を否定したサルトルの世界観

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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00:00
(BGM)
はい、スルテッドラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回は、えっと、サルトルで、あれ、編集してたらさ、あれ1時間喋ってたんだよね。あんな内容で。
そうね、びっくりした。あの、あげてくれたやつ見て、あれ1時間超えてるじゃんって。
ねえ、存在とは何か、みたいな話と、で、最後の最後はね、なんて、そんな、目の前にさ、2つリングがあったとしても、それは2つっていう2すら自分の認識であるみたいなさ。
そうね。
赤ちゃんを超えろみたいな話して。
(笑)
その中から、みたいな話をずっとしてて、で、最後じゃあ、即時存在と対時存在っていうのがあって。
はい。
対時存在っていうのはまあ、うちら人間とか意識みたいな話で。
うんうん。
じゃあ、えっと、そっからさらにその、えっと、他の人間っていうのを捉えたらどうなるとか、自分を捉えたらどうなる、確かにみたいな、なんかね、すごい雑だけど。
(笑)
1時間分だからさ、こんぐらい雑にしないと。
そうね、そうね。
また30分くらい話すことになるから。
っていうのも、まあ今回その続きみたいな話はね、ついにその、人間が人間をどう捉えるかとか、意識とは一体本当になんだろうね、っていって、こう、さらに深掘りみたいな感じになってくのかな、今日は。
そうですね。えっと、まあ、その意味で言うと、あの、まさに今兄貴がまとめてくれた通り、僕らは、サルトル流からすると、僕らはまず意識ですと。
我思う、故に我ありっていうのがデカルトだけど、まあそれを乗り越えようとして、まずは我思う、まあ、小人、小人エルゴスムの小人って言うんだけど、そこから始めましょうっていうのがまず大前提なんだよね。
だから今日も、まず我とか小人とか自分の意識から始まって、前回は物を見たんだよね。物を見ると、その即時存在っていう、なんかあるからあるとしか言えない、そういう物に出会いましたと。
で、えっと、だから自分と物の関係は、まあ、即時とか対時とかって言って話したんだけど、いわゆる他者、そう、物じゃない別の人間と出会うってどういうことなの?っていうのが今日の話ですと。
なるほど、物である即時存在っていうのはとりあえずわかりましたと。 一定ね。
その、まあそれを捉えるものとして、即時存在、対時存在だよね、っていうのがあったけれども、じゃあ対時存在が対時存在を捉えるってどういうこと?みたいな話がなされていくと。
うん。 という話ね。これってさ、なんかこの前も話してたけど、台本1個8時間くらいかかるとかって言ったじゃん。大丈夫なのこれ。
03:07
どういうこと?
なんか、例えばさ、いや、ほら、多分、あれでしょ、こう、タルトルとかやるにしてもさ、全部今までハエットの中にあった知識を出してるってわけじゃなくて、ちゃんと一緒に勉強しながら、多分まとめてくれてるっていう部分もあるわけだよね。
タルトルです。
復習したりとか、新しく勉強しながらとかさ。これ週2本撮ってるけどさ、一応というか普通に勤めてるわけじゃん。
はい。
どうなの?そんなの。
眠たい。
今日も、ほら、さっきそう、さっき眠うとかって言ってたじゃん。始まる前にさ、眠う。
あの、すごい雑だったんですけど、あの、先週ですね、子供がインフルエンザにかかりまして、
うん、うん、うん。
で、あの、看病とかしてたんですよ。そしたら全然台本作れなくて、で、あの、このラジオはね、基本朝に撮ってるんですけど、昨日も2時くらいまでかな、夜の11時くらいから台本作ろうと思って、
サルトルの存在と分の他者の方、僕を読んで、で、わかんないからネットで論文調べて、論文3本くらい読んで、きっとこういうことだろうみたいなところをね、やっていて、
やっぱ、なんか自分でなんとなくわかってると思って読むのと、ちゃんと台本に落として人に伝わるだろうかと思って読むのとはやっぱ全然違うなっていうのは、まあこのトレースラジオだったからずっと思ってるんですけど、
はいはいはい、ただ1分とするだけならまだ足も全然。
そうそうそう、より専用手伝うかやっぱそれが強い、やっぱ東洋のね、なんとなく雰囲気、雰囲気じゃダメなんですけど、
日常の言葉で言って伝わるものと、それこそ即時存在って何ですかっていうのを説明するのにもね、前回それこそ1時間話したわけじゃないですか、
やっぱりね、眠たいのですけど、なんか弟の方キレがないなって思ったら、ちょっと脳が働いてないと思っていただければ。
はいはい、調べたてホヤホヤのね。
非常にでもやっぱり面白いなと思ったんです、サルトルも。ちょっと今日はそれをぜひまさにホヤホヤのところで伝えていきたいと思っているんですけど、
まずね、そもそもその西洋哲学において他者の問題っていうのはすごい厄介なんですよ。
そうなんだ。
2つあって1つは、そもそもその厄介っていうのは別に扱わなくてもよかったっていうのがあって、
どういうことかっていうと、要はデカールトとかカントみたいな人たちとか、あるいは神みたいな世界の人たちって、
06:03
別に自分と他者って根本的には変わらん。
なぜなら、名先の理性っていうのがあって、それを正しく働かせれば、世の中の本質とか神とかそういうものに至ることができるから、
そのレイヤーで言ったら別に自分も他人も変わんないんだよね。
なるほど、神と自分たちみたいな感じで、ある程度納得できちゃうというか、それ以上深掘りする別に意味もないみたいな感じか。
そうそう、そこにモチベーションが多分なかったんだよね。
なるほど、そっかそっか。社会生活を営むために他者とコミュニケーションが云々とかっていう話と別に、人間とは何かっていうのがある程度神っていうものがいるだけで、
簡潔しちゃうんだね、説明が。
そうそう、結局は神に近づくことが目標だから、別に僕とか兄貴とかの違いっていうのは、何だろう、誤差みたいなもんなのよ。
なるほどね、確かにそっか。他の人と話す時に、どう今日も神様に近づいてるみたいな話で全然コミュニケーションが取れるし、
全員がもう結構そういう存在じゃん、みたいな。生きる意味みたいな。
そのふうに普通に生きてる人が考えたかわからないけど、少なくとも哲学者というか、そういう明晰な頭脳が世界を認識するとか正しく理解するっていう人たちはそういう感覚を持っていました。
持っていたというか、他者っていうものを別に考える人ってそんなに高くないよねっていうような感覚がありました。
あともう一個は、じゃあ自分の明晰な頭脳が他者を理解するっていうのは意外とややこしい問題で、
まずサルトルの話にも肝付けて話すと、サルトルは明確に独我論っていうものを否定するんですよ。
独我論って何かっていうと、世界には自分しかいなくて、他者とか他の人の存在っていうのも全部自分が見出したりとか作り出したものだっていう考え方。
はいはいはいはい。
そう。これって明らかに間違いなのよ。
現実的にはね。だって兄貴は兄貴として生きているし、僕は僕として生きているしっていうのは現実的な理解としてはそうなんだけど、
これを否定しようと思うとすごく難しい。
この独我論を否定するのが難しいってことはね。
そう。
はいはいはい。
物事を考える、それこそ思春期みたいな、ある種中二病的なことかもしれないけど、
09:01
人質ってまさに他人って実はいないんじゃないかとか、この世には自分だけで自分の認識だけで世界が生まれてるんじゃないかとかって考えることがある人もいたかなと思うんですけど。
確かにデカルトとかの考えっていくとね、ちょっと浅くでも考えるよねそういうことは。
そうそうそう。結構それは自然な感覚なんだよね。自然っていうのは要は自分の主観があって、世界とそれをどう結びつくんだと思うときに、
他者も結局自分の主観の一部じゃんみたいに言えてしまう?
他者も自分の主観の一部っていうのは?
ちょっとそこも説明するわ。
もうちょっというと、哲学っぽく言うと、自分の認識、いわゆるこのバレとかコギトっていうものから出発して、他者の意識にたどり着くにはどういう道筋を通ったらいいですかっていう問題になるんだよね。
他者の意識にたどり着くって何?そもそもごめんね。どういうことだ?他者の意識にたどり着いたことないと思う?あるのかな?
教官みたいな話かな?
それで言うと、カンのハヤトのバレとかコギトがあるわけじゃん。
そこまではOKです。
それは自分は疑えないからわかるんだよね。
うんうんうん。
じゃあ、その中に同じ人間存在だから、姉貴の中にもカンの教助のコギトとか我があるはずじゃん。
そうそうそうそう。そこまではOKOK。
そのカンの教助の我に、カンのハヤトの我がどうやってたどり着きますかっていう話だよね。
うーん、たどり着くってなんだ?
どういうこと?コミュニケーションができるとかとも違うんでしょ?
違う、姉貴が間違ってる。姉貴は普通の感覚で聞いてるからわかんなくなっちゃう。
ごめん、その感覚までなんとか引っ張ってくんない?どういうことだ?
最初、冒頭お伝えした通り、サルトルは我から始めるんですよ。このコギトから始めるから。
コギト以外のものは世界にまだ存在しないの?
今まで言うと自分だよね。ハヤトは存在しない、自分は存在しているっていう認識の段階。
まずそう、自分の意識だけは一定存在している。サルトル流によったらそれは大事だから存在してない、無なんだけど、まずはそこから始めましょうっていうところが出発点なんだよね。
はいはい、OK。了解です。
例えば目の前にAさんっていう人の姿が見えましたと。それは認識、視覚とか聴覚とかでその人の身体っていう存在自体は理解できるよね。
12:14
この前の話で言うと、まずある状態ということで認識できる。何かのね。
その人が自分と同じ我を持っているっていうことに、その出発点の我はたどり着けますかっていう話。
はい、なるほどね。他の、この前の話で言うと、リンゴは2個あろうがとか、目に入ってくる川とか木とか、それはもう本当は人間が川も木も区別している。
一つの見た景色から聞いとって、川は川、水は水とか聞いとっちゃったんだけど、もうそういうものを全部知らない前提みたいな話で言うと、
ただの一つの景色とかものとしか言えない段階で、Aさんってものがその景色の中に映り込んでた時に、まずそもそもなんかあるねと。
そうだね、まず存在としてあるよねと。
なんか存在で、川とか木とか、虫とかと違う何かが確かにあるかもね。そこまでは分けられたとして、
さらにそれが他の石とかとなんか違くて、あれ?こいつなんか石とかとリンゴとかとなんか違くね?っていう思うのはなぜかみたいな話だね。その意識にたどり着くっていうのはね。
そうそうそう。
いや、むずいね。むずいよ。これをさ、どのようにして他者の意識にたどり着くかねとかって言われても、無理だよ。無理無理。
無理か。
ごめん、あの、分かんない。前回聞いてね、理解してくださる方はね、「あ、そういうことね」とかって言うかもしれないけど。
確かに確かに。
ごめんごめん。ちょっと私には無理。
いや、これがなぜ無理かっていうと、まさにこの見方っていうのは、その、ちょっとまだやってないフッサイオの現象学的な見方というか、あくまでも自分を主発性に世界を成り立たせるっていう考え方がやっぱ反中なんだよね。
はいはいはいはい。
だから、
反中?
その、反中。その、別の話として、実在論っていうのがあって、あの、大陸合理論とか、あの、イギリス経験論とかって話とかもしたと思うんですけど、
そういうものっていうのは、ま、そもそも存在していて、
で、その存在と存在がどう出会うかとか、ものっていうのはある、だっていうことから考える人達っていうのもいるんだよね。
15:06
うん。でも、ある種デカルトとか、ま、あの、サルトルがやってるのは、その、ものが存在するとはどういうことかっていうことを問いにしているから、やっぱその奥にそれがあるとは言えないんだよね。
だから、その、あるとは何かとか、自分の意識っていうものがどのように世界に存在というものを、えー、存在させるのか、言葉がちょっとすごく難しくなるんですけど、
そういうことから考えなきゃいけませんと。
はいはいはい。
そう。
で、なった時に、えーと、ま、ちょっと繰り返しになっちゃうんだけど、その、保偽都としての我っていうものが、目の前のまさにそういろんなものを見た時に、
あるあるあるとは言えるんだけど、その奥に、この人も自分と同じように考えているはずだ、とか、この人も自分と同じように我というものを持っているはずだっていうのにたどり着く、
あの、それに気づくとか理解するとか、それを本当の意味で捉える。
うんうんうん。
でも普通に言ったら、例えば兄貴、観の教世っていう人間が我というものを持っていると観の覇也とか思っている、は言えるのよ。
うんうんうんうん。
それは、他者の存在をそのまま理解するっていうよりは、自分があくまでも考えたものじゃない。
そうね、さっきの毒ガロンだった、自分しかないの、反中ってことはね、それはまだってことはね。
そう。
はいはい。
これも結局毒ガロンになっちゃうんだよね。
うんうん。
だからこの毒ガロンっていうのは、感覚的にというか、普通の感覚で言うと絶対にありえないというか、間違ってるんだけど、
その小人っていうものから出発しようとすると、割と簡単に陥っちゃうんだよねっていう罠があります。
はいはい、なるほど、そう。
確かにさっきそれを否定するのは難しいっていうのはそういうことだね。
うん。
そっちも納得性が意外と高かったりするっていう話。
そうそうそう。
とか、それはやっぱりどう超えていいのかわからないっていう話があって、
この問題に関してね、サルトルっていうのはすごいシンプルな答えを出すんですよ。
うん。
で、これはすごい誤解を恐れずに言うみたいな話なんですけど、
でもさっき言った通り、その割とか小人っていうものが外に出ていって他者を捕まおうと思うと難しいって話をしてないですか。
自分の外に他者を見出すっていうのは難しいんだら、
もう割の中に他者の意識があるって考えたらいいじゃない、みたいなことを言い出すのね。
18:03
うーん、うんうんうん、うんうん。
全然わからんけど。
全然わからん。
なんかより、よりなんか、より怪しい方向に行ってる気がするけどね。
でもさ、考え方次第はシンプル。
外に行って見つからないんだったらさ、中にあるはずじゃん。
まあ、まあよくね、自分探しみたいな話ね。
まあそうね、そうそう。
みたいな感じで、その意識っていうものから始めるんだけど、
その出発点の意識の中に他者の意識っていうものが含まれてるとしたらどうだろう、みたいなことを結論としては出していきます。
じゃあ、それはどういうことなのかとか、どういう風に考えたらそうなるの?っていう話が今日のメインテーマなんですけど。
はいはいはい。
これもういろんな説明はあるんだけど、ややこしいので、例というか感覚的に理解いただける話っていうのをサルトルも紹介していて、
例えば人間って前回お伝えした通り、何々としての意識、例えばリンゴとしての意識ってリンゴだと認識するということは、そもそもリンゴに対して意識が働いているみたいな、
そういう状態としてあるよねっていうのをお伝えしたと思うんですけど、
同時に自分自身に対して意識を持つこともあるしできますと。カンのハヤトっていう人間って意識を持つことができて、
それが特殊な状況の中で湧き上がってくることがあるよねって言っていて、
それが恥ずかしさを感じるときだっていう風にサルトルは説明するのね。
はい、はい、どういうことだ?
例えば道で転んだりするじゃないですか、というときにピョピョって周りを見渡して、誰もいなかったら行っててみたいな感じで終わるんだけど、
誰かがこっち見てるとかってバチッて視線が合っちゃうと恥ずかしいみたいな、急いでちょっと行かなきゃみたいな感じになることってあります?
あるよね、よく雪で滑って転ぶからこっち。
そうだよね、弱手の方もそうだよね。
つまり、現象として転んだとか痛いっていうことは同じなんだけど、他者に見られたっていうことがあるかないかによって恥ずかしくなるかならないかが変わるっていうことが言えますよね。
つまり、他者の存在によって自分というものを客観的に見る視点ができたっていうだけじゃなくて、そこに恥ずかしいっていうそういう事象も自然と分け起こってきますよねっていうことはサルトルは言うよね。
21:17
なるほど、はいはい。
これが、ただ恥ずかしいって気持ちに自分がなったっていうことじゃなくて、サルトルに言わせると、もともと態地、要は意識として他の人を理解するとか認識するっていう存在だったはずの自分が、
いわゆる他者に見られることで即時存在、要は何々としての意識の対象になるっていう風に自分の存在の質が変わることが起きてるんだっていう風に言うのね。
はい、なるほどなるほど。
だから、物と自分の関係だったら自分は態地のままでいられたんだけど、人と触れ合った瞬間に自分も物になるっていう事態が起きますと。
なるほど、はいはいはい。100%常にずっと態地じゃなくて、人に認識された瞬間、その瞬間は自分は即時的な存在であるみたいな、コロコロと入れ替わるというか。
そういう感じ。
はいはいはい。
まさに今入れ替わるって言ってくれたんだけど、その他者に対する自分もそうなんだよね。
うんうんうん。
だから自分が他者を見るとか、これをされるといったら眼差しって言ったりするんだけど、ただ見るだけじゃなくて、
例えば別に、例えばですけど、変な話、泥棒が例えば、泥棒というか、悪いことをして、夜勉強するって言ってて、おやつめっちゃ食べてるとかゲームしてるみたいな時に、
例えば親の足音が聞こえただけでも、あ、やばいって思うみたいなことがあった時に、それは見られてないんだけど、他者の存在を感じるってこと自体が自分に何らかの影響を与えることがある。
はいはい、なるほど。
そうだね、今の互換的な話はね、見るだけじゃなくて、聞こえたから存在を感じて、やべーみたいな、そうそう、ゲーム隠さなきゃみたいなのも同じってことだよね、見ると聞く。
あと匂いとかもってことだよね、例えば。
匂いとかもそうだね。
それはただ互換として感じたってだけじゃなくて、その意識っていうものが急に自分に対してヒュッて向く瞬間が生まれてしまって、その瞬間自分が意識を向けられる即時的な存在になるっていうことが起きてるよっていうふうにサルトラは言いますと。
24:12
なるほど、そっか、それで今の、例えばもうわかりやすいのっていうか、自分が今イメージしたのはさ、あの満員電車とかじゃない?例えば。
はい。
めちゃくちゃ混んでる電車だと、人間ってたくさんいるけれども、今まで言うとさ、眼差し的な感じ?
意味づけをしてない場合が多いよね。あえて一人一人を認識しないよね。横頭の、人間観察が好きとかなら別だけど、一人だけ今日気になる人いるわーってなった場合、そういう人は見られてるから、自分にとってはもうその人は認識対象としてなってるというか。
はいはいはい。
そういう話だよね、同じ人間のクラブの時に。
そうそうそう。それはね、サウトルの言葉でも、いわゆる図像寺とかゲシュタルトって言葉があるんだけど。
ん?図像寺?
図像寺、図は図工とかの図で、地っていうのは地面の地で背景っていう意味なんだけど、人間っていうのは物を、これちょっと雑選するんだけど、物を見る時にまさにその背景とその対象っていうものを綺麗に分けてますっていう話があって。
はいはい。
よくルビンの壺ってあるじゃん、美術によってはさ、人が向かい合ってる顔に見えたり壺に見えたりするっていう黒と白の絵って知らない?
あー、なんかそういうの見たことあると思う。
そうそう、騙し絵だよね、いわゆる。
うんうんうん。
で、あれも実はその錯覚って話なんだけど、あれも図と地の反転っていう風に言われていて。
んー。
要は、そのあれも確か黒と白なんだけど、その黒い方を前面の図として見て、白い方を地の背景として見ると壺が浮かび上がってきて、逆だったかもしれないけど。
うん。
白を浮かび上がらせると顔が見えるみたいな、そういうことを人間はやるんだよね。
うんうんうんうん。
で、まさに満員電車とかの話でもそうで、
うん。
あんにも意識しないと、みんなが要は背景で、自分にとっては意味のない存在なんだよね。
うんうんうんうん。
それいわゆるものなんだけど。
うん。
例えば知り合いを見つけるとか、
うん。
するとその人がパッと浮かび上がってきて、それだけが図になるとか、
はいはいはいはい。
あるいは、その背景に溶け込むと思ったんだけど、例えば、なんだろう、いわゆる携帯のアラームが鳴って、みんながシュッて見た瞬間に自分がパッと浮かび上がるみたいな、
27:02
はいはいはいはい。
気まずいみたいな、
うんうん。
そういうことが起きるのが人間だよねっていう話なんだよね。
はいはい、このサルトル的にね、自分の中にもたちの意識があるっていうのはそういうことだと。
うん。
なので、繰り返して言うと、まさに他者とか他人っていうのは、自分がものとの間では対峙っていう意識、純粋な意識で得られたのが、
うん。
他者が介在することで自分があるものに変化しちゃうよと。
うんうんうん。
もっと言うと、その他者によって自分が意味づけられるとか、
うん。
自分が思っている自分自身と他者が思っている自分っていうのがずれちゃうよってことを言うのね。
はいはいはい。
うん。
こう考えてくると結構、現在っぽいというか、お互いの認識を揃えるとか、思い違いがあるみたいなところにずっと近づいてくると思うんですけど。
そうなんだ。
うん。
で、やっぱサルトルはもうちょっとね、一歩進んだ、まあ何歩も進んでいくんですよ、やっぱここから。それは、もっと言うと、自分っていう存在が他者の思いのままにされてしまうっていうことなんだっていうふうに言うね。
だから、ものとの間では自分があれはリンゴとか、これは何になりっていうふうに意味づけて、こう世界を分摂していったんだけど、
うんうん。
他者が出会った瞬間に、他者の側に自分を意味づけられちゃう。
なるほど。まあでもそうだよね、リンゴとかにしてもさ、別に俺リンゴじゃないんだけどって思ってるかもしれないみたいな話ですよ。
そうそうそうそう。
勝手な話だからね、こっちが人間の都合で食べられる食べられないとかも。
みたいな話で、自分もそうされちゃうよって話だね、人間である。
そうしたよっていうこと。
はいはいはいはい。
だからまずはここに見られるみたいな関係が起きて、この他者から見た自分がそれが胎児から即児になるっていうことが起きるって言ったじゃないですか。
うんうん。
この存在をされるとあれは、胎児と存在って言ってまた分けるんだよね。
そう。
だから自分は胎児存在なんだけど、他者によって即児存在なりつまり胎児た存在になるみたいな、そういうあり方をするのが人間っていうものだっていうことを言いますと。
はいはい、そうなんだね。前回胎児存在の皆さんとかって言ったけれども、胎児存在として聞いてくださいって言ったけれども、実は胎児た存在だったんだ、うちら人間っていうのは、話。
でね、他者と向き合った瞬間に胎児た存在化するっていう方が多分正しい。
あー、そっかそっかそっか。さっきの言うと、他者に認識されている自分は胎児存在なんだけれども、他者に認識されているその瞬間は胎児た存在になってるんだよみたいな表現で。
30:10
そうそうそう。
はいはいはい、胎児存在ではないと。
はい、なるほど。
人間が即時存在として物化されるとか、何かの意識の対象になると、そういう胎児存在っていう、ちょっとまた区別した名前になるよっていう話。
なるほど、なるほど。
これによって、冒頭お伝えした、小人とか我とか意識の中に他人がいるとどういうことかっていうと、そもそも意識の働きの中に、そういう分としての周りのものを対象化するっていう働きがあるんだけど、それと同様に他者から対象化されるっていう胎児た存在っていうものがそもそも存在あって。
だから、我とか小人っていうのは、その内に他者を含むんだみたいなことを言ってるのがサルトルですと。
うーん。
なんとなく伝わる?
伝わった。この話は伝わったけれども、これってさっき言った毒ガロンだけか。
はいはい。
このサルトの話はもうこの毒ガロンではないよね。
毒ガロンではない。毒ガロンをこうやって理解してる。
なくなったよね。
なくなった。
ある意味、他者がまず多分よくハエとか言う素朴なみたいにさ、うちらの前提を取り去った状態からいくと、まず即時存在だよね。
まず赤ちゃん目線というか、それ以前目線で見ると、他の人間がいるっていう状態も本来的には自分から出発すると即時存在的ではある。
まずね。
そうですよね。まずはその。
なんかあるとか、電車とかで乗ってても全然背景とかしてる場合もあると。いっぱい人がいるとね。
ただ自分が見られるっていうことがあるっていうことだったりとか、もうあの自我がある自分みたいな人が人間がいっぱいいる。
それぞれ確かに自我は持っているっていう状態っていうものは、そこが多分毒ガロンだと、他者があるとかいるっていうところを多分否定してるのかなと思う。
雰囲気からね。
はいはい。
否定というか、いると言えないよねって言ってると思うんだけど。
そうだね。証明できないという感じかな。
サルトルは割とその他者の存在みたいなものは即時存在的な、あるみたいな意味でも許してる。認めてるのかな。サルトルはもうその大前提として。
33:11
そうそうそうそう。
そこはokなんだよね。
そこはok。大前提として、自分があるってことは常に他者と共にあることだっていうような考え方までいっていいと思う。
そっか、むしろそこまで含めちゃうのか。この先の話かもしれないな。
そうだね。
勝手に思ったけど。なるほど。でも今の話で言うと、本当に相当にね。面白いよね。
サルトルの今の多分、この人間の絶えた存在だけか。絶え地存在である自分であるものを、ある意味そのものに対して意味付けをしていくっていう意味で、自分っていうものがあったんだけども。
その恥ずかしいみたいな。自分が意味付けされる瞬間っていう。その瞬間ってものをサルトルは多分すごく認識して、あ、これ今即時存在じゃないのに即時存在みたいな扱いを受けてるみたいな、恥ずかしめを受けているっていう謎の感覚を多分サルトルとかロカンターを持って吐き気を燃やして、
チクション!っていわくをめちゃくちゃ持って、で、ということはみたいな辿り着き方っていうのがやっぱり異常性が、異常というかおかしいよね。その感覚。
普通はこんな風には考えないからね。さらにここからがサルトルの面白いところでもあり、ちょっと病的なところなんですけど、やっぱちょっとね、なんだろうな、なんていうのかな、病んでるんだよね、発想が。
自分っていうのは、まさにさっき言った通りに他者からの視線とか眼差しで対立存在になるんだけど、それを甘んじて受け入れるんじゃなくて、その眼差しを他者に返すことで、改めて対立存在。
要は自分が意識となって相手を対象として捉えようとするっていう、そういうマウント合戦が繰り広げられてますよっていうことを考えるのね。
だから、普通に他者っていうと、みんなと仲良くとか、共にあるとかっていうと、他の人がいるから自分も頑張れるみたいなポジティブな意味合いも含みそうなものなんだけど、
こういうサルトルの考え方からすると、自分と他者っていうのは、お互い認識上の支配を巡って争い続ける、敵とは言わないまでも乗り越え合う存在なんだよね。
36:09
はいはい、もうそういうルール、競技ルールってことだよね。人間の認識っていう営みがね、そういうルールの上でやられてるっていう。
そうそうそう、そういう風になっちゃうよね。だから、他者っていうのは自分の中に存在するものではあるんだけど、どこまでも自分を否定するものとか自分ではないものとして自分の中に存在するし、
他者に対して自分はそういう存在としてあるっていう形だから、永遠の否定性というか、だからお互いに永遠お互いを対照化し続けるみたいな、そういう関係にあるよっていう風に言いますと。
はいはい。 だから、他者によって自己の性質を変える、要は対自存在から変えた存在になるっていう意味で、自分の存在の中に他者は確かにいるんだけど、
それの前提として否定性とか、要は意識って無だから、その無を自分の中に抱えているっていうのはネガティブな意味を持ちますと。
それをすると、他者が私の宇宙を崩壊させるみたいな言葉で表現したりするんだよね。要はものだけだったら自分が宇宙をこれはリンゴだとかこれは木だとかって言って好き勝手できたのに、
他者がいることでそれができないとか、それをやりかえさえるっていう、なんかね、穴みたいなものが開いちゃって、ある種自分の世界の完全性がそこで壊れるみたいな、そんなことを言ってたりしますと。
ネガティブに捉えているっていうのは、自分の意識が本来無であるっていう部分じゃなくて、他者が存在するっていうところに対してネガティブに捉えているっていう話だったのかな。
ネガティブっていうのは、否定性を働かせてるみたいな意味合いで、要は自分が無であるとかっていうのはもう状態だからそれに良い悪いとか価値観はないんだけど、
その無としての自分に対して、さらにそれを否定するとか、自分ではないものとしての他者っていう、否定を通じた関係性として自分と他者が存在しているっていう風にサルトは捉えるんだよね。
39:06
それをある種、ネガティブっていうか自分を否定するものと、そもそも考えているっていうのがネガティブっていう表現で言った。
ああ、はいはい。他者との関係が避けられないっていうことはね。
そうそう。
っていう意味だね。それはもうお互い層だって話だもんね。
そう、お互い層。
それは価値観としてネガティブだとかマイナスだとかっていうことよりは、そもそもそういう存在として関係しているよっていう感じ。
はいはい。なるほどね。そっかそっか。わかりました。
そうだね。例えば今思ったのは、ほらマインクラフト、マイクラあるじゃん、ゲーム。
マイクラね。
あれってほら自分でさ、世界を旅してさ、いろんな食べ物を取ったりとか、建物を建てたりとかさ、あと材料を取ってきたりとかってやってるんだけれども、
あれってさ、あれのオンライン版とかって出てないよね。出てるのかな?
そうね、でも確かにね。
例えばあれが、あれでもせっかくだからほら、最近ポケモン、最新のポケモンってさ、ついにオープンワールドになったでしょ。
そうですね。
マイクラ的な、RPGでさ、あそこに行って村人と話してとかさ、あそこのジムに行って戦ってこいとかじゃなくて、
自由にさ、マイクラみたいにいろんな世界を自由にさ、探検できるっていう世界になった時に、
自分一人だったらさ、じゃああそこに確かピカチュウいたはずだから行って取ってくるかとか、あそこのリンゴの木あったから晴れたから取ってきて、
ポケモンにあげようとかってできるんだけれども、
はいはい。
ここにもし、あれでもね、これがオンラインRPGでMMOとかでいろんな人がログインしてくると、
一つのワールドにいろんな人がいると、さっきやったリンゴの木にはもう他の人が取っちゃってちくしょうとなったりとか、
うんうん。
あとなんか、自分がピカチュウ連れてるけどあっちはなんかもっとすごいの連れてて、
はいはいはい。
恥ずかしいとか、もしくは自分は本当はめちゃくちゃ人気のないポケモンが大好きで、
うん。
それをなんか連れて歩いてるんだけど、
うんうん。
なんかこうすれ違う人みんなからなんかあのかっこわらみたいな、
はいはい。
ちょっとは帰ってくるみたいな時に、なんだそれって言う、俺はこんな好きなのにとか、
あーやっぱダメなのかな、俺これ好きじゃんみたいな、そういうこうなんかあの、いろんなその、
例えば自分一人だったら、あーあのリンゴって腹減った時食べるからいいよねあのリンゴとか、
42:04
うん。
言えるのが、あのリンゴ早く取んなきゃ他のやつに取られるし、もっとうまい、だったらオレンジの方がいいとか、
なんかいろんなこうあの、物と自分とか、
うん。
人と人とのいろんなこうコミュニケーションだったりとか、判断軸だったり、価値観の、もうあの軸がこうやばい、もう複雑になりすぎる。
はいはいはいはいはい。
それはそれで面白いんだけど、
うん。
やっぱ楽しむその軸が違うもんね、その一人で生きていく、マイクラとかオープンアート一人で楽しむ探検と、
うん。
やっぱ人がいっぱいいてその中でこう楽しむっていうのは全然違うことだよねっていう、
そうだねそうだね。
その感覚の違いみたいなものが、
確かにネガティブっちゃネガティブだよね。
先に、あのあそこのジムのトレーナー倒されちゃったよみたいなさ、今から言ってるし、
言ったらもうなんかジムなくなってたみたいなさ、
はいはいはい。
まあそんなゲームじゃないけどね多分ね。
そうだね。
うん。
でもあのね、ちょっとさ、兄貴の例は現実に寄りすぎてはいるんだけど、
はいはいはい。
でもすごく確かに近くって、ただねマイクラの方が近いんだよね。
うんうんうん。
マインクラフトって、あのまあ、特に何も言わずに説明してしまったんですけど、
うん。
でもあの自分で本当にブロックとかを使って世界を作っていく、
そこから世界を探検していくっていうことがまあ自由で探索できるゲームだったりしたときに、
うん。
やっぱあれは自分の思う通りに、そのマインクラフトの世界っていうものを扱えるじゃないですか。
うんうんうん。
うん。
あそこに出てくる敵も自分、自分がどうにでもできる敵。
はいはい。
まあ倒してもいいし無視してもいいし、みたいなね。
あ、そうそう無視してもいいっていう意味で、
その、無視してもいいし無視しなくてもいいっていう意味で、
でもそのまさにマインクラフトの世界に一人ぽつんと他者が存在したとしたら、
その人は絶対に自分の思う通りにならないじゃないですか。
うんうんうんうん。
ってなるとそこだけ、そのマインクラフトの完璧な宇宙の中に、
完璧じゃないものが混ざり込んでくるんだよね。
はあ、はあはあはあ。
うん。だからそれは、自分に対してすごく自分を脅かすものである。
うんうんうん。
もっと言うと自分がってよりはその、
例えばそのマインクラフトの一生懸命作った世界をその人が壊すかもしれないってなった時に、
自分の存在してる宇宙すら壊す存在になりうるんだよね。
それがさっき言った、私の宇宙を破壊させる存在が他者だって話なんだよ。
なるほど、そっか、きれいにそっか、MMORPGとかって言っちゃったけど、
45:00
一人ぽつんともう一人あの世界に増えるだけでそんなにも変わるのか。
そう。
なるほど。
はいはいはい。
そう、ので、だからその自分っていうものをその純粋に考えた時にやっぱり他者っていうのはすごく恐怖の存在としてサルトラを捉えるんだよね。
なるほど、恐ろしいね、確かに。
そう。
夜おちおち寝てられないもんね、確かにマインクラフトで一人増えるだけで。
まあね、そうそうそう、だからある種脅かされてるのはそういうこともあるんだけど、
それはもちろん世界を壊すだけじゃなくて、やっぱり自分という存在とか自分という認識そのものに決定的な影響を与えるから、
他者っていうのがある種重要な存在だっていう話があって。
なので今回はね、じゃあ自分、対立存在というのは自分というものから出発してどうやって他者を捉えるかっていう話だったんですけど、
結局、外に出ていっても要は自分の認識から始まって、他者っていうものを捉えようとしても無理だから、
自分の内側というか自分の存在そのものの根底に他者っていうものがあるよっていうところにサルトはたどり着くんだけど、
でもその根底としての他者は自分の意識とか自分がその意識を使って作り上げてる宇宙っていうのを壊しかねない存在だっていうところに行けつくんだよね。
はいはいはい、さっきマイクラの例で納得。
そうそうそう。なのでそういう事故と他者の関係において、当然今のとまだ一対一の関係じゃないですか。
さっき兄貴がMMOとかって社会を言ってしまったんだけど、まさにその社会ってどう作られるのって問題が出てくるよね。
確かに。
それがある種我から始めるってことなんだよね。自分から始まってまずMMOとの関係を作って、
自分と他者の関係をまず作って、その自分と他者のたくさんの他者とか、自分たちと相手たちとか、
そういう関係まで拡張した時にどうなりますかっていうのが、まさにこの社会論とか社会学みたいなものにつながっていく考え方で。
そこにあって冒頭やりますって私取り上げますって言ってた自由とか責任っていう問題が出てきます。
おー、はい、なるほど。
だから本当は一歩一歩進むわけじゃないんだよね。
今日はだいぶ僕すっ飛ばして、いきなり他人がとか社会がとかって言ってるけど、
48:06
ギリギリ一人の人間を理解できたってなったら、
じゃあその3人の三角関係、別に恋愛とか関係ないその三角関係、他人と他人の関係っていうのを自分がどう見ているかとかっていうのも出てくるんですね、問題として。
わー、確かに。なるほど。
自分に眼差し向いてなくても、その関係を見ることで自分は影響を受ける場合は確かに。
あるよね。
あるある。
みたいな感じで、一個一個ちゃんと世界を作ろうと思うと、やっぱりこれだけ複雑になるし、
そういえば考えないことも考えなきゃいけないんですよね。
なので、それを全部辿っていると本当にとこまない時間がかかるので、
一旦ちょっと飛んで、その社会とかっていう方に行こうと思うんですけど、
そこに関してちょっと次回ですね、これまでの理解っていうのを前提に、サルトルは考えている社会ってどんなもんだっけっていうところを、
サルトルは明確に社会とはこうだって言っているわけじゃない部分もあるので、
結構推測とか、それを解釈している人の話とかも踏まえながらなんですけど、
そこを通じてお話ししていきたいなと思っていますし、
それによって初回から今回テーマにしたいって言っている、実存は本質に先立つっていう話と、
人間は自由の権威に支えられているって聞く、どういうことだったんだっけっていうところまで、
ちょっと次回ですね、駆け抜いていきたいなというふうに思っております。
分かりました。じゃあ次回、ついにサルトルの社会、自由の権威の意味がやっとわかるってことは、
次回引き続きサルトルを楽しんでいきましょうというところでよろしくお願いします。
お願いします。本日もありがとうございました。
(♪ BGM)
50:19

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