1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #119 そもそも哲学って何だっ..
2023-06-14 40:01

#119 そもそも哲学って何だっけ?ハイデッガーが感じた違和感の正体

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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哲学とは何か?
それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回はハイデッカーの全体像と、生涯と、平凡な生涯を見ていたというところでしたが、今回から具体的な中身について見ていきたいと思います。
前回もお伝えした通り、ハイデッカーが存在とは何かを統合としましたよ、みたいなことを言ったと思うんですけど、
難しいな、存在とは何かって考えたことある?
存在ね〜、ないし、自分とは何かとかね。
あとこれまでの哲学者の話とか聞くと、存在が花するとかさ、花が存在するみたいな。
そういう意味では考えさせられたけれども、
そういう観点から今回も想像している感じかな。
例えば、自分とは何かとかって、自分っていうのはもう存在、自分という存在は何かとかって言えるよね。
言えるけど、その時の存在って別に、なくてもいいから省かれてるわけで、
その意味で言うと、僕らって存在みたいなのって普通に生きてる限りはそんなに意識しないと思うんですね。
そうだね。
逆に言うと、普段意識しなくていいものに目を向けるというか、そこに着眼点を持つって何の意味があるの?みたいな。
そもそもハイデッカーって本当にすごいの?みたいな話って、なんかピンとこないんじゃないかなって思うんですよね。
無意味なことやってんじゃないの?製作者らしいみたいな。
ある意味、なんで空気って存在するの?ぐらいのね。また存在って使っちゃったけど、空気って何?ぐらいの。
っていうのがあるんで、そうやって別に生きてる僕らからすると、それこそ違う、やっぱり学者様のやつなんじゃない?みたいな。
なっちゃうね、どうでもいいもんね。
意識してなさすぎてね。
っていうのもあるんですけど、それは一理あるかもなとは今自分で話しても思うんだけど、普通に生きてる上ではね。
ただやっぱり物を考えるとか、何かを深く突き詰めていきたいって思ったときに、やっぱりハイデッカーがやったことってすごく意味があるというふうに思っていて。
ハイデッカーの哲学の定義
今回ですね、これも前回お伝えした木田玄さんのハイデッカーの思想っていう本からちょっと取ってきてるんですけど、
彼はハイデッカーが行った公演のタイトルが、「それは何であるか?哲学とは?」っていうタイトルの公演をしたことがあったらしくて、
ちょっと奇妙なタイトルなんだけど、このお話から少し伝えていきたいなというふうに思います。
このタイトルの、「それは何であるか?」っていう問いかけっていうのが結構重要な意味を持ってくるんで、
ちょっとこの、「それは何であるか?」っていう言葉を頭に置きながら今日は聞いて欲しいんですけど。
まずさ、今回このソクラテスラジオ、この1年ぐらいやってますけれども、なんとなくソクラテスから始めたじゃない、やっぱり。
そうね。最初、バタイユから始めようとしてたけどね。
そうね、そうね。あれは本当危なかった黒歴史ですね。で、始まってるんですけど、
なんとなくその中でも、実はソクラテスの前にも哲学者っぽい人がいて、万物が見つかるといったタレスがいてとか、
そういう話とかはちょこちょこ紹介したとは思うんですけど、
そもそも哲学ってなんだみたいな話って、あんましてこなかったっていうか、できなかったなって思うんですよね。
それこそ知恵を愛する的な話しかしてないよね、たぶんね。
そうそうそうそう。
それって哲学っていうのはこういう営みだよっていうんだけど、その哲学とは何ぞやっていう話は別に答えてはないんだよね。
はいはいはいはい。
哲学するっていうのは知恵を愛するっていうふうに言い換えれるんだけど、
それで哲学を説明してますかというとできてませんと。
定義できてませんと。
ここでハイデッカーはその哲学っていうのをちゃんと定義しようとするんですよ。
おー、っていうか定義されてないよねっていう問題主義を持ったんだね、そもそもまず。
そうだね。
はいはい。
思ってると他の活動とか営みと相対化して、その哲学の始まりって何なのっていうことを定めようとするんだよね。
相対化する哲学と比較して考えようとするのが、まさにソクラテス以前の思想家、要はギリシャのもっともっと古い思想家たちで、
それが例えばヘラクレイトスとかパルメイデスっていう人たちがいたりするんだけど、
彼らはそのハイデッカーはその英知を愛するもの、その知とか知恵とかってフィロソフィーじゃなくて、
その英知っていうものを愛する思想家だっていうふうに言ってて、
彼らはその意味では試作家ではあったんだけど哲学者ではない。
かつ彼らの方がいわゆる哲学者とかでも偉大だみたいなふうに考えるんだよね。
存在者をあらしめるもの
あ、そうなんだ。
で、この英知って何だって話なんだけど、ここで言うのは、いわゆる全ての存在者っていうことができて、
存在者って何かっていうと、
そうだね。
言葉をね普通に繋げていくんだけど、存在者っていわゆるそのもの、あると言えるものが全部存在者、存在しているものだよね。
だから人間も、まあ人間って言うとちょっと抽象化しちゃうけど、
例えばカンのハヤトっていう人間とは、カンの教祖で言うと人間も存在者だし、マイクとかパソコンとか本とかでも全部存在者ですと。
はいはいはい。
まあ普通されていると現象、現実者か、現実者はどっちかっていうと存在に近い、まじでその現実を持つものがあって、
それが世の中に出てきたときに本だとか、四角い紙の束だとかっていう現実が出てくるって話をしたと思うんだけど、
存在者はそんな感じ。
はいはいはいはい。
で、ハイデッカーは存在者、要は全ての存在者の大元に存在っていう、存在者をあらしめるものみたいな。
わあなんか伊勢谷っぽいな、なんか変なのが出てきたな。
ちょっと抽象っぽくなっちゃうんだけどね。
うんうんうん。
実はその抽象的なものじゃなくて、存在者があるっていう働きっていうのって、絶対にそこに設定できるよねっていうことを言うのね。
いやーすごいね、とことん相対化してるって話はね、これは。
古代ギリシャにおける存在論
最初ほら哲学と相対化するって意味でさっきのさ、英知を愛する者が出てきたんだけど、ひたすらそれやってる感じだね、この存在者っていうところまで辿り着いたんだけど、
存在者があるっていうことは、その存在するためのフィールドというか何かしかあるよねと。
そこも分けられるはずだよねっていう、どんどん相対化していくとって話だよね。
そうそうそうそう。
だから思ってると、じゃあ英知っていうのは全ての存在者とした時に、
例えば花を愛する、月を愛する、木を愛するとかってもできるんだけど、
そうじゃなくて、存在を愛するとか存在に辿り着くと、
それは、要は全ての存在者は存在を持っているわけだから、
存在を知るってことは、つまり全ての存在者を愛するとか、それに辿り着くことだっていうふうに言えますよね。
難しいな、ちょっとあれか、今さっきの理解だと、
なんとなく今こっちが持っているイメージは、
存在者っていうものが、例えば木とか花とかだとすると、
そのマインクラフトの世界でいうと、木が生えてたりとか石が転がってたりするじゃん、
あとは羊がいたりとかするんだけど、それが存在者で、
これも難しいんだよね、概念。そういう感じじゃないんだけど、
それらのものが存在するためには大地が必要であるみたいなさ。
この例えをしちゃうと、大地も物質だから違うんだけど、
だからこれすごく難しい表現なんだけどね。
でもね、今兄貴がなぜこれを喋れないかっていうと、
僕らはその概念を持ってないんですよ、それを今説明できる。
言葉を持ってないんですよね。
なのでここで存在っていう言葉を語れる概念というのを伝えていきます。
現状無理なんだね、この存在というものを語ることは無理なんだね。
無理。
なのでもうちょっとこの問いというか兄貴のモヤモヤを少し持っておいてほしいんだけど、
それはオッティアンだね、了解しました。
じゃあその存在とは何かとか、
Hでは全てを愛する、全ての存在者を愛するという時にそれは何かみたいな話なんだけど、
一旦そういうものがあるとした時に、
パイテンカーが言うのは、要はヘラクレイトスとかパルベイネスとかっていう、
ソクラテス以前の思想家が何をしたかっていうと、
それを分解して理解しようとしたんじゃなくて、
そもそもそういう存在の凄さとか素晴らしさとかに、
ある種異形の念を感じてそこに調和して生きてたんだっていうことを言うのね。
これちょっと若い人も法則するんですけど、
例えば僕らも、これすごい感覚的な話なんだけど、
例えば自然あふれる場所、山とか川とかそういう場所に行った時に、
なかなか大自然に包まれているみたいなことを表現すると思うんですよね。
ちょっとそれを想像してみて欲しいんだけど、
その時僕らっていうのは別に一個一個の木とか花とか川とか、
それぞれに感動してるんじゃなくって、
自分が存在している自然とか空間そのものに感動してると思うんだよね。
じゃあ例えばこれを自然を感じるって言うと思うんだけど、
例えば一方で東京でも大阪でもいいんですけど、
都会的なとこに行ってビルの屋上に花壇がありますと。
その時にも僕ら自然を感じるんだと思うんだけど、
それって自然っていうものをビルとか車とか人工物と比較して、
自然を感じるっていう風に言ってると思うんだよね。
つまり同じ自然を感じるでもその中に包まれて、
自分も自然と一体化してるみたいな感覚と、
なんとなくビルとか人工物と比較して相対化して自然を感じるってのって、
違う感覚だと思いますと。
はいはいはい。そこは分かる。分かる分かる。その違いは。
存在についても実は同じようなことを言えて、
哲学の伝統においてね、
存在っていうのを何々がある、まさにあるっていう意味での事実存在っていう話と、
何々である、例えば本は読むものであるとかっていう、
これ本質存在とか本質とかって言われたりするんだけど、
2つに分けて考えるのが結構伝統的な考え方なのね。
それは全然ハイデッカーの時は普通にあった考え方、伝統的な考え方。
なんだけど、ハイデッカーによるとこのソクラテス以前の古代ギリシャでは、
これが区別されてなかったと。
僕らはさっき兄貴が言った通り、だから花があったら大地があってとか、
マイクラで言ったらブロックがあってとかっていう、
その何々であるっていう方をやっぱり言いたくなるんだけど、
そうじゃなくて、それっていうのは調和してて、昔のギリシャでは。
だからもう存在っていうのがもっと単純な存在として、
僕らの周りにあって、そこに包まれた人っていうのは生きてたんだと。
だからそれは別に思考の対象とかになるものじゃなくて、
ただただ生まれては消えていきとか、自ら現れてはなくなっていきみたいな、
そういう、ちょっとそういうと、
輪廻とは呼ばないまでも、そういう循環的な世界観だと思うんだけど、
そういうふうに、古代ギリシャの人が存在を捉えていたんだっていうふうに言うのね。
つまり、そういう大勢に進まれていて、その中で自分も生きている、
調和しているっていう感覚を存在っていうそのもの自体に持ってたんだって話をします。
イデアと存在の区別
で、そこにセクラテス、例えばプラトン、アリスター・テレースみたいな人が現れて何をしたかっていうと、
それまで調和していた存在っていう世界から、ある種イデアっていうものを取り上げて、
そこに特権的な地位を与えちゃったよと。
要は、イデアっていうのも存在は知るんだよね。
その抽象的な感覚っぽいんだけど、プラトンからするとイデアっていうのも一つの存在だと。
それが真実の存在で、他のものはイデアの写真だっていうふうに言うんだけど、
そこに要は存在の中に優劣をつけちゃいましたと。
なるほど。本来調和してた世界だったけどって。
そうそうそうそう。
かつそこに要はイデアっていうのが本当の存在者で、
それ以外のものは偽物というか、作られた存在者だっていう区別をするんだよね。
そうすると、もう何々がある、事実存在としての意味の存在っていうのは、
世界の奥に売っちゃって、要はイデアっていうものがある。
イデアがあるっていうのはもう、世界の大前提になっちゃうんだよね。
さっき言った大地があると一緒で、あるっていうのは何々があるっていうのも大前提になっちゃいますと。
その中で、これはイデアであるとか、これはイデアが集められた何々であるっていう本質だけが重要な世界っていうのが生まれちゃったよね。
っていうふうにハイテクが多いのね。
本質だけが重要。
だってイデアはあるんだから、本来調和していた事実存在としての何々がある。
そもそも物が存在しているっていうことってなんて素晴らしいんだっていう感覚。
この素晴らしい自然とか、例えば僕らの感覚で言うとね、自然の脅威でこんなものが例えば地球上に存在している。
なんて素晴らしいんだっていう感覚っていうのは、要は世界の奥に消えちゃうというか、無くなっちゃうのよ。
はいはいはい。
なるほど。
なんとなく伝わるかな。
そうだね、多分だけど、今言ったハヤトが言った本質、これも多分専門用語的な感じがするんだけど、
何とかである、あとさっき言った事実存在、何とかがある、があるとである、多分ここがすごく重要な違いだと思ったんだけれども、
プラトン以前、以後みたいな話で言うと、それ以前っていうのは、この事実存在、何とかがあるというとこ自体にすごく人間の素朴な認識っていうものが、アンテナが立っていた状態だったと。
だけどプラトンはそういったイデアみたいなものを想定してしまったことで、何とかがあるっていうことの意味とか、尊さみたいなものが、人間の感覚、認識からちょっと消え去っちゃった感じがして、
その本質、何とかである、だからさっき言った花が咲いているという時も、それ以前だと、自分が今歩いていて、花がある、草が咲いている、天気がいいっていう全体の中で、自然と何々がある状態で生きていると、
それぞれを、あ、花綺麗だなあ、っていうのもすごい自由な感じがして、そういう感覚で見てるんだけれども、プラトン以後だと、花があるとか大地があるっていうのが、もう存在があるっていうのは、もう認識、アンテナの対象外になってしまって、何とかである、だから花が咲いているっていうのも、
これは、ごめんね、ちょっと話長いんだけど、それ以前の感覚も世界とは違って、花があるっていうのも、あ、あのチューリップがあるみたいな、タンポポがあるみたいな、もう本質じゃなくて、それに乗っかった価値ベースで物事を見ちゃってるっていう、
存在の上に乗った価値しか見えなくて、存在自体、プラトンが出てくるまでにあった、何とかがあるっていう、その存在自体が、もうプラトン以降の人たちはもう見えてないと、もうそのキャッチするアンテナはもう退化してなくなってしまったと。
で、それについては価値、花である、チューリップである、黄色である、美しい、みたいな、そっちベースでしか見てないじゃんっていう話をしてるのかなと思った。
そう、でも本当にその通りです。
ちょっと長かったけど、でもすごく面白い。
そうそうそう。で、やっぱりそういうって指摘されないとやっぱりわかんないから、長くなっちゃうというか、その言葉、やっぱりそれを表現する言葉がないと思うんだよね、自分の語彙の中に。
今そうね、自分の理解を伝えるのにここまでちょっと。
そうそうそう、かかるじゃん、やっぱり。
かかっちゃった。
だからハイデンカー長くなるんだけど、その7回分になるのはなぜかっていうと、ないから言葉とか概念が。
プロがやってもそうなっちゃうって話ね。
多分ね、そう。だからやっぱり木田玄さんの本とか、ハイデンカーの解説本とか読んでもやっぱり長い。でもそれはやっぱりそれだけ必要なんだよね、言葉が。
はいはいはい、まあそうだよね、だって見えてないもんね、もうその退化したアンテナの認識っていうか、その部分にアプローチしてるからね。
そうそうそうそうそう。
はいはいはい。
でもその面白さがね、本当伝わって嬉しいんですけど。だからその、もし今兄貴が言ってくれた通り、要はそのソクラテスとかプラゾンとかエストセレスっていうのは、そういう何々があるっていう存在をやっぱりちょっと脇に置いちゃって、何々であるとか、そういう本質っていうのを重視しだしましたよと。
哲学の始まりと本質の探究
もっと言うとこれが、西洋哲学の始まりなんだっていうふうにハイテッカーは見たんだよね。だからもっと言うとその、哲学とかもっと言うと刑事上学、要はその、ちょっと抽象的なっていうか、まあなんだろうな、その真理とかを例えば捉えるみたいな話の学問っていうのは、
結局そのそれまでの偉大な試作家たちとは異なって、その本来調和されているべき存在、要はその純粋な存在とか単純な存在っていうものを、その本質っていう側面に狭めちゃって、その事実存在している何々があるっていうことへの驚きとか感動みたいなものを、もう捨て去るところから始まったんだみたいなことを言うんだよね。
やっぱりこれはなかなかハイテッカー以外の哲学者ではできなかったことというか、主張してないことですと。何気もさっきサルトルみたいな話を挙げてくれたと思うんだけど、たぶん聞いてくださってる方の中にも、確かに本質って言われたときに実存は本質に先立つみたいなことを言ったのを思い出すかもしれないなと思ってるんですけど、
サルトルもこの実存っていうのは事実存在とか現実存在っていうような言葉なので、まさに自分が事実存在するとか、自分が自分として存在するっていうことと、自分がどんな存在であるかっていうことをちゃんと分けて考えたんだよね。
あー。はいはい。この本質って言葉がかなり間に合わしいね。
まあそうね。
なるほど。
本質、まあそうね。何であるかなんだけど。
難しいもんね。だからその本質でだいたい止まっちゃってるんだろうね、この本質部分で。だから本質って言葉当てちゃってると思うんだけど。
実はその裏に事実存在、実存っていうものがあるんだよっていう感覚を思い出せっていう話をハイデッカーは、そこを突きつけたというか、発見したんだね、そこをね。
いいですね。実はちょっと違っていて。
うわー。今日の話を言い換えただけだと思ったんですけど、違うんだ。
違うんです。違うんです。何が違うかっていうと、サルトルの場合は実存はその本質に先立ってたから、実存の大事さっていうのは分かってたんだよね、赤いネギが言ってる通り。
でも要はそこは順番を変えたんですと。その意味ではハイデッカーに似たようにも感じるし、実際サルトル自身もね、ハイデッカーっていうのは実存主義の先駆者だみたいな。
実存主義っていうのは解いてるんだけど、その先駆者にはハイデッカーが悪いってことを言ったりするんだけど、なんかそれちょっと後衛っぽいじゃん。
おー、俺がやったんだぞみたいな。
そうだね。だってそう言ってくれてるんだもんね。そういう人が。
ハイデッカーは違って、実はそんなサルトルの考え方を批判するんですよと。
えー。
哲学の本質を問う
なんでかっていうと、本質優位、要は哲学、ソクラテスとかプラトンが切り替えちゃった本質何々であるが重要な世界が生まれちゃったのが西洋哲学だって話なんだけど、
そこに対して実存、要はその事実存在を重視してそれの価値をひっくり返すって言っても、結局それはもう事実存在と本質が分かれた世界で考えてることには変わらんと。
おー。
そう。だからさっき言った通り偉大な詩作家っていうのはそこを調和した世界に生きていたんだから、調和を取り戻すっていうことが唯一頑張る価値があることで、
それをひっくり返しても別にそれって同じ世界で考えてるだけじゃんって言うんだよね。
はい。はい、すいませんでした。
二言論で考えんなって話ね。二言論で考えんなと。はいはい。
そう。なので、いわゆる刑事哲学とか哲学の枠組みとかっていうのを超えて、その実存、事実存在と本質っていう違いがなんで生まれたのかっていうのをちゃんと問うて、
その結果古代芸者にちゃんと存在した単純な存在、その調和を取れた存在ってもう近づくっていうことが必要なんだよっていう。
やっぱこの発想とか言い方っていうのはやっぱりその哲学っていうものを本質的に、それが合ってるかどうかっていうのはわかんないというか、いろんな多分発想はあるとは思うんだけど、
やっぱそういう存在とは何かとか、事実存在と本質存在が分かれたところから哲学が始まったんだって設定をしない限り出てこない考え方だと思うんだよね。
うーん、なるほど。そんな批判、サルトルも思わなかったんだもんね、こんな風に言うのってね。
あいつ過ぎよって言ったらお前わかったねって切り替えされるみたいなね。
でも言われたら確かにそうだよねって思っちゃう、やっぱり説得力があると思うんだすと。
だからハイデッカーに言わせると、プラトンであるスクラテスであるいは中世心学で神を問題にしたとか、あるいはデカルト以降で理性とか、人間の認識では大事になったとかっていろんな歴史があるんだけれども、
それで結局本質追求の学じゃん。要は真理を追求するってそれは何であるかっていう本質存在だけに向いてる学問だから、
それってめっちゃ世界とか存在ともある種限定化したことの出来事であって、そもそもそんなことやってるのが間違いなんだぐらいの話なんだよね。
だって2つある側面の一方しか見てないわけだから。
まあそうだよね。前回のフッサルで言うと現実者だけがいた時に、現実のかなり限られた側面しか見てないよってハイデッカーから言わせるとそうなるってことだもんね。
そうだね、そんなに似てるわけじゃないですかね。
ちゃんと現実者見ましょうよっていう。
だからこそそれは乗り越えてしかるべき思考の枠組みとか歴史なんだっていう風な話なんだよね。
だからこれがハイデッカーが解釈した時の西洋哲学2500年の歴史ってのを乗り越えるっていう話だし、
あとその冒頭でそれは何であるか哲学とはっていうタイトルだったよって話をしたと思うんですけど、
それは哲学とは何であるかっていうことじゃなくて、そもそも哲学とは何であるかっていうのは哲学の本質を考えってことだから、
それがそもそも哲学的なというか、存在というか分割された後の考え方なんだよね。
なるほど。
そうじゃなくて、そもそもそれは何であるかっていうことを問うている。
それっていうのはすごい本質的なとかそもそも論でいいこと考えてるねっていうふうに思えちゃうんだけど、そうじゃなくて、
さっき相木山さんが言ってくれた通り、それはもう事実存在、存在するっていうことの素晴らしさとかすごさを忘れたタイトルなんだよっていうことを言おうとしているタイトルとしての、
それは何であるか、哲学とはそれを問うていることによって存在というものを狭めてしまったような悪者であるっていう、めちゃめちゃ皮肉の効いたタイトルなんだよね。
存在とは何か
はいはいはい。なるほどね。すごく重要な質問が多いけど、そこに罠があったんだよと。
そうそうそうそう。
はいはいはい。
だからそもそも哲学とは何でしょうかって言った時点で、哲学を分かってないみたいなこと言われちゃうみたいな。
まあちょっと禅的な話。
そうそうそう。
はいはい。
観察ね。
いやーすごいこれ。そうかなでも。
面白いよね。
そこを乗り越え、そこをめくった上で何が起こるのかなっていう感じはするけど。
ただこの感覚って意外と、まさに今ちょっと前っぽいって言ってくれたと思うんだけど、
ちょっと東洋的なというか、日本人的な感覚から言っても別に変なこと言ってないなっていう感じはすると思うんですよ。
そうだね。
やっぱり西洋はどっちかっていうと理性で物を捉えるとか、やっぱり存在者?
ハイデッガーの問題意識
何があるかみたいな話から、何であるかかっていうところからやっぱりあると思うんだけど、
やっぱり日本的な感覚としてのいわゆる語源みたいなものとか、
たまたまそこにあるっていうことがものすごい価値を持つみたいな感覚っていうのは多分あると思ってて。
はいはいはい。
やっぱりそもそも何かがあることの重大さとか豊かさみたいなものってまだ多分残ってるとは思いますと。
なるほど。その存在自体に向き合う感覚みたいなところね。
そうそうそうそう。
それは普通に生きている中ではすごく薄くなっているし、あえてわざわざ取り上げるほどのことでもない。
多分なっちゃってると思うんだよね。
うんうんうん。
やっぱりハイデッカーはそこに重要性を見ているというか。
はいはいはい。
ハイデッガーを超えて
人間としての本質っていうのはそっちに戻っていかないと見えてこないよねみたいなことを考えてるんだよね。
うんうんうん。なるほど。
ただやっぱり別にハイデッカーだけがその問題を捉えたかというと別にそんなことはなくて、
実はこの事実存在とその本質っていうものが分かれちゃってるよねとか、ちょっと本質に行き過ぎちゃってるみたいなことはアリストゼルスももちろん気づいていた実は。
そうなんだ。
気づいていたし、あとはちょっと名前なかなか聞きなじみがないかもですけどシェリングっていうような製作者とか、
あとはニーチェとかも同じような取り組みに取り組んでいたっていう風に言えるらしいんですよ。
あーそうなんだ。はいはいはい。
逆に言うとハイデッカーはアリストゼルスとかシェリングとかニーチェっていう人をちゃんと学んで、そこから自分の考えを展開してるんだよね。
なるほどなるほど。
それをただの自分の意見じゃなくて、やっぱりここまである種説得力を持っているっていうのはやっぱりそれをちゃんと全部歴史っていう流れの中で存在というのはどう語られてきたのかとか、
そういう本質存在と事実存在っていうものがいつ分かれてまたそれが問題になってっていうことを丹念に読み取れていったからこそできること。
はいはいはい。
なので、前回の言った通り、それってなんでそこまでできたのっていうのは分からないというか、ハイデッカーすげえとしか言いようがない部分なんだよね。
そうだよね、確かに。その問題意識なければアリストゼルスとかプラトンとかその前の人たちとかの資料を見るにしてもその切り口で見れないもんね、そもそもね。
そうそうそうそう。
同じ本はあるんだけど、その本の読み方とか解釈の仕方で違うっていうのは何かいかんともし難いというか。
はいはいはい。そこは残ってないんだ、その閃きがあった瞬間、ハイデッカーに。
たぶん閃きとかじゃないんだと思うんだよね、もう。
もうそういうふうに生まれてしまったぐらいの?
なんかもうハイデッカーを考えたらもうたぶんそういうふうに考えざるを得なかったみたいな。
あとはもうそれを丹念に僕らも読み取っていくしかないみたいな感じだと思うんですけど。
なるほどなるほど。
そう、早くときはそう見えるって感じで。
そう見えるって感じだね。
どっかで20歳の時にこれでひらめいたとかじゃなくて、もうそういうふうにできていたハイデッカーみたいなね。
そうね、だからその天才的なひらめきとか、何か超人的なお告げがあったとかではなく、
やっぱりその問題をなんだか深く深く取り詰めていった結果、そこにぶち当たって、
その存在とは何かっていうところにぶち当たって、それを乗り越えていったみたいな感じだと思うんだよね。
こんなふうに単純な、超あがれた存在っていうのは概念を通じて、
その存在と存在者の関係とか、事実存在と本質の関係とか、区別かっていうものをいろいろ手がかりに、
いろんなものごとをこれから深めていくんですけど。
はいはいはい。
さっきも言った通り、この議論とかこういう講演が行われたっていうのは、
その存在と時間っていう本が出た後なんだよね。
うんうんうんうんうん。
やっぱりその本を出した後に深まった思想もあれば、やっぱりこの時、
要は晩年に言ってることも結局この存在と時間の中でテーマに入ってるよねみたいなこともやっぱりあって、
そういうのがあるのが多分ハイテク科研究者の楽しみだと思うんですけど。
うんうんうんうん。
存在と時間の全体像
で、ちょっと前回ととおり、1回の中でやっぱり読んでおこうと思って、
最大の伝説者って言われてるしとか、存在と時間を読めたって言ったらかっこいいじゃないかとか思って読んだと思うんですけど、20代の時に。
うん。
多分読めなくて挫折してんだよね、1回。何言ってんのかわかんないみたいな。
へー、そうなんだね。
で、それを最近出た解説書とか読んだレベルではありながら、
こんなすごい議論がされているとか思想が展開されているみたいなことを感じた部分もあり、
かつてやっぱりそれが絶対自分が意識がいないとたどり着けないなみたいな、すげーなって思った部分もあるので、
それはね、ちょっと2、3回分使って、その存在と時間っていう本で何が書かれてるのかと言われてるのか、
ということをちょっと今回のね、ハイデッカーすげーとか、そんなふうに手伝いを取られた人が思想を深めていくってこういうことはね、みたいな、
ちょっと全体像がある中で話していきたいなというふうに思いますと。
はいはいはい、なるほどね。すごいね、これは。
すごいって感じてくれた?
たぶんこの考え方を、だから今回もだけどさ、これを元に何かを積み立てていくっていうのはもちろんあったと思うんだけれども、
存在と時間に関してはここまで言語化する前の感覚から書かれている本ってことなんだもんね。
そう。
たぶんその辺も何か含めて、どんな話なんだろうっていう。
ハイデッガーの存在観
そうだね、ちょっとだけ先取りすると、そもそも存在ってのは抽象的な存在じゃないみたいな話を第一回したと思うんですよね。
存在っていう何か概念とか、頭の中だけであることに対して思考を巡らすんじゃなくて、
やっぱハイデッカーはあくまでも自分が生きている世界とか、
やっぱりこの人間というのはどういう存在として生きているかっていうことにもすごく目を向けてるんだよね。
今回でいうと事実存在に目を向けているっていう感じなのかな?
事実存在っていうのは、あるっていうことである、違う、があるってことだけだから。
あー、その調和した方の方。
調和した方の方。
それも言葉あるの?
単純な存在とか言えないよね、多分。
あー、もう存在って言った時には、ハイデッカーが存在と言ってた時には、そのもう調和したというか、存在だっていう感覚ってことね。
感覚。その、事実存在と本存在を含んだ、調和した存在とか、それが分かる前の全体感を持っている存在を指して存在っていうふうにハイデッカーの中では多分言ってるんですけど。
そっか、そこを頭に入れとかないと理解難しいかもね。
なるほど、なるほど。
なので、それが人間と関わりを持った時に、人間としか関わりを持てないんだけど、ハイデッカーに寄せると。
何が起きてくるのとか、そういう世界観の中で人間というのはどういうふうな存在として表現されるのとか。
はいはいはい。
そういうことが語られるのが、存在と時間っていう本なんですよね。
はいはいはい。
へー。
なので、めっちゃ面白いと思う。
うんうん。いや、楽しみだね。やっぱ前回もね、現象学でフルスタイルが、それこそ存在というかね、人間とは何か他人とは何かみたいなところがあったから、
存在と時間の関係
もうなんかより今回のね、その事実、その存在自体が分かれてたみたいな話って、すごいなんか言われれば納得というか、はーそうかみたいなね。
確かにその、前もハイドの会で意味の話したじゃん。
はい。
あれもやっぱ通ずるというかね。
うん。
意味でしか見てない世界で、実はそれ入ってみると、そういうね、存在みたいなものがあるよって。
うん。
なんかそこの感覚を、どこまで自然に退化した感覚を持てるかみたいなね。
うん。
ここはなんか、物事と接するとか、無駄に意味付けしないというか、その素朴な感覚というか、その持つ鍵になるような気もするからね。
そうだねそうだね。
そう、だからやっぱりこのハイデン科自身は別に減少学者だとは言わないんだけど、やっぱりふっさるからめちゃめちゃいろんなことを学んでいるし、逆にそれを乗り越えて思想をやろうとした人だから、
それその、いろんな知識を前提にして物事を類推するとかじゃなくて、やっぱりちゃんと自分の感覚とか経験とか、こういう風に言えるはずだということってやっぱり積み上げていく。
はいはいはいはい。
その中でやっぱり僕らが普段そんな風には見えなかったけど、確かに言われてみたらそういう風にも物事って考えられるとか見えるよねみたいなものがやっぱりいっぱい出てくるので。
うんうんうんうん。
ハイデッガーの思考方法
ここでもやっぱり普段とは違うちょっと頭というか、いつも視点に立つことができるんじゃないかと思うと、多分このハイデン科は面白いと思っていただけると思うので。
はいはいはい。
ぜひ次回も楽しみにしていただけると嬉しいなという感じでございます。
はいはい、了解です。じゃあ次回はあれですね、常にこの存在と時間の中身に入っていくって感じなのかな?
そうだね、うん。
了解しました。じゃあちょっと楽しみにしてますんで、次回以降また引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
40:01

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