正しい選択の多様性
今日は、正しい選択とは何かというお話をしていきたいと思います。
攻めますね、もう出だしから。正しい選択とか、もう緊張感が走りますよ。
シソフレは集めなきゃいけないのに、どんどんやっぱり行かないと。
どんどん攻めていきましょう。
どうしたんですか?正しい選択とか言っちゃって。
これはね、結構人生においてでもそうなんですけど、
サッカーのフィールド上でも言えることなんですけど、
自分が思う正しい選択と、他の人が正しいと思う選択と、
チームとしてこれが正しいとされている選択と、
サッカーの原理原則としてこれが正しいとされている選択ってあるじゃないですか。
これだけ切り分けていくと、正しい選択って複数あるんですよね。
そうですね。
こうなった時に、じゃあ何が正しい選択なのかっていう。
そうかそうか。具体的なエピソードがあって何かどうすべきだったかとかじゃなくて、
正しい選択って何なのかって本当に考えていきたいなって今日は。
すみました。
なるほど。そうか。
よく、そんだけ正しさがあるから正しさなんてないんだよっていう人もいるけど、
僕からすると逆で、正しさがいっぱいあるってやっぱそういうのをそのまま受け取るべきだと思ってるんですよ。
だからさっき言った話の通り、全員にまず個人に正しさがあるし、
集団の別に書かれてはいないけどふわっとした正しさがあったり、
もしくは書かれてる正しさがあったりとかって感じで、
無限に正しさがあるみたいなやつの気がしてる。
で、正しい選択とは何かの答えにはちょっとまだ行き着かないけど、
なんか正しさと正しさが常にぶつかっちゃう。
そうなんですよね。
この世界だなっていうふうに僕は認識してますけどね、まず。
なので、戦いだと思ってるこの世界は。
たったしその戦い。
暴力とかそういう分かりやすい、暴力か暴力でないかの戦役は難しいけど、
すごい緩やかな意味で常に暴力だと思ってる。
確かにそうなんですよね。
誰かの正しさを否定することになるから、自分の正しさを通すことは。
もしくは自分の正しさを通さないことは誰かから仕掛けられているというか、
チームの正しい選択
正しさを封じられている。あなたは正しくないよって言われている状態になっちゃうから、
常に正しさと正しさがぶつかり合って、他者を否定し続けている状態っていうのが起こってるっていうのが僕の考え方。
それをずっと感じてるんですよね、このシーズン。
自分が思っている正しさっていうのが、誰とも合わないんですよね。
チームメイトの?なるほどね。
これはこうあるべきだよねって思っていることが全部なんか、
のれんに売れ押しじゃないけど、なんか違う。
もうその人が考える視点での正しさを言われるので。
だから何だろう、もう言っても無駄だっていう風になっちゃってる。
そっちの人が言ってる正しいっていうのをもう実行していくしかないっていう風になっちゃってるんですね。
で結局私の性格上も争いを好まないので。
だからその正しい、どれも正しいんだけど、じゃあその中から一つやっぱり答えを選択しなきゃいけないじゃないですか。
チームで動くってなったら。
その時のその基準の設定の仕方によってその正しさの何だろう。
基準、正しさのレベルっていうんですか。
なんか1のレベルでの正しさ、2のレベルでの正しさ、3のレベルでの正しさみたいな。
その正しさのレベルをこう上げていかないと、
なんかより真の正しい選択にたどり着かないのかなっていう。
もどかしさがあるんですか。
なんか真の正しい選択があるかわかんないけど、チームの正しい選択はやっぱりチームを形作ってる人。
作家で言うと誰なのか、監督なのか誰なのかちょっと僕はわかんないけど、
誰かがやっぱりその今言ったみたいな正しさの基準設定とか認識合わせみたいなことをしていくのが
チームをまとめる人の、作っていく人の役割かなと僕は思うんですよね。
さっき言ったみたいにこの世界は常に正しさと正しさがぶつかり合うものだと思っているから、
でも11人集まりましたよね。
まあ補欠の人とかもいたらもっといると思うけど、20人30人集まりましたよねと。
その人たちがある程度共通の正しさを持って戦わないと勝てない、
勝てないというか力が発揮されないと思った時に、
それを作り出すのが、監督とかコーチとか知らんけど、
その辺の人たちの役割なんじゃないのかなって僕は思うから、
その人たちの課題なんじゃないかな。
でも最近なんか多様性とかっていうのすごく言われるじゃないですか。
言われますね。
だからその多様性を重視しすぎて、
そのいろんな人の正しいを取り入れちゃうんですよ。
監督が?
コーチングスタッフが。
コーチングスタッフはチームだからそっちも。
あっちもチームなんで。
そうですね。
なので結局そのマジョリティを占める正しさが採用されたりするんですよね。
はいはいはい。
だからなんだろう、その多様性って言葉大っ嫌いなんですよ。
いいなあ。多様性って言葉が大っ嫌い。いいですね。
多様性じゃないんだよっていう。
チームの中においてはね。
そんなものを尊重してる場合じゃないんだと。
だって合わせなきゃ勝てないわけなんだから、
その多様性を尊重しすぎていたら、
一人一人が暴走するだけであって、
その規律もね、何もない。
変チェコリンな変チェコリンってこんなになっちゃうんですよ。
多様性の問題
そうだと思いますよ。だってチームで集まった時点でですよ。
チームかチーム以外かっていう線が引かれてるわけじゃないですか、その中で。
世の中のね。
もうそのチームです私たちは。
なんでですかってことになるから。
そこは多様でないはずなんですよ。
そこで集まっている何らかの目的を共有した人たちっていう以上は、
もう一定の多様さみたいなものを排除しないといけないとなるっていうか。
だからグループになってるじゃんみたいな話だから。
そうなんですよ。
この間の試合とか、
複数の選手が勝手に持ち場を離れて、
自由な行動をしてしまうんですよ。
多様性を重視するから。
言えないみたいなやつでしょ。
私は言えないんですよね。
多様性って言われちゃってるからね。
その選手に正しいポジションに戻れって言えないんですよ。
だからその選手に合わせて私が位置を変えるしかないっていう。
で迷惑こぼってるのはこっちなんですよ。
やったもん勝ちみたいな。
やったもん勝ちみたいになっちゃってるんですよ。
でそれをコーチングスタッフに、
この選手が自由に行動してるの分かってるよねって。
で分かってるんですよコーチングスタッフも。
なんで言わないのって。
分かってんだ。
分かってるんですよ。
その後はそこまで覚悟決めてるわけでもないんだ。
多様性だからねとかなってないんだそこは。
あれは戻った方がいいけどねって言ってんだ。
なんだコーチングスタッフ。
その選手が完全にストラクチャーっていうシステムっていうんですか。
形を壊してる。
明らかなんですけど、
スタッフも分かってるんですけどそれを言わない。
それは多様性を尊重しなきゃいけないからっていう、
世間的な、世界的なムーブメントですか。
多様性、難しいな。
目的達成のために集まっていますという大前提を考えると、
その目的達成を阻害するものは別に多様性というよりは、
邪魔者なんじゃないかな。
敵なんじゃないかな。
邪魔ですよ。敵ですよ。
敵なんですよ。敵が多い。
これは前も話した気がします。
敵が多いっていう。
確かにね。
敵だと思う。
そこはだからやっぱね、
コーチングスタッフと、
あとは採用してる人が同じなのか違うなのかにもなるけど、
採用してる人事というか、
採用チームの問題もありますよね。
チームがこういう方針で、
こういう風にしたいから、
それに沿った選手を取る、みたいな。
やれてるのかというのが一つだと思うし、
コーチングスタッフもこういうチームにして、
こういう戦術で戦いたいから、
戦術理解をちゃんとしてねと。
その上で、あなた方がどんな思想を持とうか、
どんなファッションをしようが、
もちろん多様でいいよみたいな。
戦術だからみんなで、
動こうねって。
ピッチの中での多様性はいらないんですよね。
そっか、でもすごいね。
そんだけ圧がかかってるんですね。
多様性に対する圧が。
結構すごいですよ。
面白い。
日本とかそんなことないと思う。
多様性とか言いながら、
ファッション多様性だから全然多様性がないみたいな。
やっぱりもうちょっと多様性を持たせてあげたらっていうぐらい、
締め付けてることってよくあるな。
アメリカのカルチャーもあると思います。
アメリカのカルチャー的にも、
個人を尊重するっていうのが元々あるんで、
個人の考え方であったり、
個人の行動であったりっていうのを、
なるべく尊重して否定をしないっていうのがあるがゆえに、
そういうスタイルが構築されてるんだと思うんですけど、
アメリカのサッカー的にも。
比率があまりないというか。
日本人の多様性についての議論
それが原因ではあると思うんですけど。
チームスポーツきついね。
すごくきついんですよね。
あまり縛られることにも慣れてないじゃないですか。
そういう何かに。
そういった意味では、
アメリカ人の人たちは、
自分が正しいと思ってることをとにかくやるから、
11人の正しいがピッチ上に存在してしまうっていう現象が起きてるわけですよ。
サッカーだとちょっといろいろ厄介だけど、
社会っていう意味ではすごい良い気がしますよね。
それぞれの正しさをちゃんと出し合えるみたいな、
意味ではすごく良いなと思うけど、
すごいグッと目的が絞られてるみたいな時には、
ちょっと厳しいって感じですよね。
大きな耳で言ったら、人生的な枠で言ったら、
自分が正しいと思う生き方をすればいいじゃんって思いますよ。
日本だと今度そこら辺がね、
積極的に乱す人っていないじゃないですか。
場の正しさってどこにあるかっていうのを探りに行くから、
積極的でないにせよ、
自然と連携の方に行っちゃうっていう。
乱さない方に行っちゃうっていうか。
それもまたそれで、
その先の進化がなさそうですもんね。
成長というか、組織としての。
目的としての連携じゃなくて、
手段としての連携みたいなね。
達成するために積極的に連携しようじゃないからね。
乱したくないみたいな動機だったりするから。
むずいんでしょうね。
その性質は私のにもあるんですよね。
その流れを乱す選択をするなよみたいなことを思うことが結構あるんですよ。
それって日本人気質なのかなっていう。
流れをもっと読めよとか、
空気を読めよ、今こういう空気だぞみたいな。
ピッチの中でやっぱあるんですよ。
それを読めないんですよね。
読まないんですよ、前提として。
読めないんじゃなくて読まないんだ。
読まないんですよ。読まずに自分の正しいをやるんで。
空気なのか、それとも文脈なのか。
流れっておっしゃいましたけど。
流れです。
流れだったらそこは読んでほしいよね。
空気は読まなくてもいいけど流れは読んでほしい。
今こういう流れだよねって。
ボールを繋いでる流れだよねって。
ここで今ボールを失ったらいけない流れだよねみたいな。
ここはもう仕掛ける流れだよねとかあるんですよ。
その流れを無視するかのように
その人の正しいをやるんだけど
でもその人にとってはそれが正しいけど
それは流れとしては正しくないよねってなるじゃないですか。
残りの10人からするとエネルギーが削がれますからね。
1人がエネルギーが出たかもしれないけど
10人のエネルギーが下がっちゃったらね。
チームとしてはどうしようもないよね。
自分その人にとっては正しかったかもしれないけど
他の10人プラスチームとしては正しくなかったってなったときに
それを正す人は誰なのかっていう。
正す必要あるのかっていうところ。
正す必要あるでしょ。
前提としてサッカーチームは勝っていこうみたいなのがあるわけでしょ。
勝たなくてもいいよ。
多様性を表現しようだったら別ですよ。
このリーグで参加することに意義がある。
多様性を私たちのチームは表現するんですっていうビジョンを掲げて
ひたすらね、戦術とかじゃないんだと。
サッカーのルールに則って
そのルールの範囲の中で多様であるんだ
みたいなことを表現してますみたいな。
個人が好きに勝って動いた結果生まれる得点を見てください
みたいなのだったらいいですよ。
表現としてのサッカーみたいな。
多様性を貫くとこうなりますみたいな実験ですみたいな
だったら全然面白いって思えるけど
価値にいってるんだと違いますよね。
もう正論でございますよ。
どう思わせないんですかね、コーチングスタッフ。
分かんないんじゃない。
多様性にいくつかのレイヤーがあるというか
レイヤーじゃないな。
オフィシャルな場での決定事項の必要性
ある状況において
多様であって良いってことあっちゃダメなところ
みたいなのがあり
もっと言うと多様じゃないみたいなことを
個人が恣意的に設定してるみたいなことが
多様性を阻害していて
多様じゃないって見えるけど
じゃなくて
それは個人で決めたようにしてるからそうなるのであって
チームとしてこうですよっていうのを
オフィシャルに決める場を作るとか
すればいいと思うんですよ。
例えばコーチングスタッフの何とか会議とかがあって
そこでチームの戦術の方針は決まりますと
決定事項だから
決定事項に対して選手が
私はちょっと多様でありたいとか言われても
これ戦術だからさ
チームの一員であるかないかを問われますよって話だからさ
多様であっていいけど
チームのその出て行くことも自由ですみたいな話じゃん
そうなってくると
でも私たちはこの戦術をやります
っていうのが決定事項として起きてくるみたいな
なんか決め方の
強引の取り方が
個人の意見みたいになっちゃったら
やっぱ多様性を排除することになっちゃうし
場としてオフィシャルに決めてます
だったらそれはいいんじゃんみたいな
場として決めてないから
がゆえの
チームで
ゲームとかのミーティングをやるんですよ
分析
あるシーンとか取り上げて
選手に意見を求めるんですよ
議論をして
どうすればよかったかっていうのを決めるんですよ
ものすごく時間がかかるんですよ
議論の文化っていうのがあるのでアメリカは
トップダウンで何かを
決めるっていうのが
ないんですよね
前の監督だった時は
やばい監督だったので
全部トップダウンで決まってたんですけど
その時は強かったんですよ
監督が変わってそれができなくなって
全員が意見を言うようになって
まとまらなくなって
答えも出ない
曖昧になる基準が分かって
最下位ですよ今
それでも監督責任問われるんじゃないの?
多様性とか議論とか言って
議論した結果
戦術が実行できませんって
最下位ですってなったら
それがやっぱり答えになっちゃうんじゃないですか
経営層からすると