1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #198 ふくすう・この不思議な..
2020-10-27 10:51

#198 ふくすう・この不思議な存在 from Radiotalk

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
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始まりました、志賀十五の壺。
みなさん、風邪をひかず、やってらっしゃいますでしょうか。志賀十五です。
みなさんは、和志賀清和先生っていう哲学者は、ご存知ですかね。
これはね、僕は、あの高校の時の現代文で教科書に載ってたんですよ。この和志賀先生が書いたものがね。
だから、同じような教科書を使ってた人は、1回ぐらい名前を見たことあるんじゃないかなと思いますね。
だから、入試の問題とかにもなってたりするんじゃないかなと思いますね。
その和志賀先生の出されている本で、わりと有名なものっていうかね、一般的に知られているものは、自分、この不思議な存在っていうものなんだと思うんですよ。
まあこれはね、面白いんですよね。僕はこの番組で言語学の話をしているんで、
まあちょっとね、言語学と接するっていうか、ちょっと関係あるような話も書かれてたりしてるんですよね。
自分とは何か、自分と他者とか、身体の境界っていうかね、まあそういうことなんですけど、
全然うまく、うまくっていうか全く説明できてませんけど、興味のある方はぜひ読んでいただきたいっていうのとね、
僕もまた読み直してみようかなと、最近ちょっとね、ふと思いました。
で、今日のトークテーマはですね、別に和志賀先生は関係ないんですね。
トークタイトルにちょっとお借りしたっていうだけで、今日のトークテーマは複数形についてですね。
この複数形っていうのは非常に、我々日本語母語話者にとって、特に英語学習とかね、そういうものの際ね、非常にめんどくさいものですね。
もっと言うと複数というよりは数という言語カテゴリー、文法カテゴリーが日本語母語話者にとってはちょっとなじみがないものなんですよね。
複数形と言われて思い浮かぶのは、名詞の後に基本的にsをつけるっていうものですよね。
発音は数とずっと濁ったりするっていうのもありますけど、つづりの上ではsとかesをつけるようなものですよね。
これは複数を表していて、数ですね、言語学で。数の文法カテゴリーの現れ方の一つであるということなんですね。
他にも数というのが現れるところは英語ではありまして、例えばこれも非常に厄介なもので、三人称、単数、現在、三単元とかいうやつですね。
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これのsですね。動詞にsがつくというものです。たまたま両方sですけど、全く違うものですね、これはね。
皆さんもね、中学の時とかテストで三単元のsがないとか言って罰くらったりした覚えがあるんじゃないですかね。
これは数だけではないんですよね。人称と時勢というのも関わっているんですね。
人称というのは一人称、二人称、三人称ということで、私かあなたかそれ以外かということですよね。
それ以外でかつ時間的に現在で、そして単数であるというこの限られた時にだけsがつくというルールになっているんですよね。
こういうのは日本語母語合わせにとってやっぱり面倒なところなんですよ。なぜなら日本語にそういうものがないからということですね。
この三単元のsから考えてみると、動詞に現在形と過去形があるのはわかる。
それで人称によって動詞の形が変わるというのもまあわかんなくはないんですよ。
というのが敬語というものが日本語にはあるので、例えばおっしゃったといった場合はこれ尊敬語ですから自分自身には使えないですよね。
逆に申し上げたというのは自分かあるいはその仲間うちかうちの関係とか言ったりしますけどにしか使えないと。
だから敬語というのはある意味で認証を表示しているとも言えるんですよ。かっこいい言い方すると。
なので現在か過去かみたいに時勢で動詞の形が変わるというのはまあわかる。
行く、行ったみたいに変わる変わる。
認証で変わるというのも今言ったように敬語というのがあるので、その人によって動詞の形が変わるというのもまあわかんなくはない。
日本語の場合もっと社会的な要因が関わってますけど理解できる。
数によって動詞の形が変わるっていうのは全くわかんないですよね。
一人だろうが二人だろうがまあ動詞の形は別に変わんないんですよね。
Cといえば殴り合うみたいにその相互の時は合うっていうのをつければある意味で複数性を表示しているわけですけど、せいぜいそんぐらいですね。
そして名詞の複数形っていうのもまあよくわかんないですよね。
これ何なんだって感じですよね。
1個だったらあをつけるのかとか、2個以上だったら名詞の方にエースつけるのか、これが前に出てきたものだったらあをざに変えるのかとかね。
もうごっちゃごっちゃしてるなって感じもしますが、まあでもこれは仕方ないですね。
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英語という言語はそういうことを気にする言語だということですね。
これは英語母語話者は逆に意識はしてないと思うんですよ。
なぜなら母語話者っていうのは自分がしゃべっていることに対して意識しなくても正しい形しか口から出てこないので、
英語っていうのはその数にうるさい言語ですけど、英語母語話者がそうかというとまあそういうわけでもないということですね。
自動的にそうなっちゃっていると言った方が実情に沿っていると思います。
では日本語でこの名詞の複数性を表すってことはできないのかというと、そんなこともないってことですよね。
例えばたちとか、私たちのたちですね。
あとらーとかね、俺らのら、どもとか、つわものどもとかですか、そういったものですよね。
こういうのをくっつければ名詞の複数性を表せるんですけど、ただね、これ生き物にしか使えないんですよね。
パソコンたち、パソコンら、パソコンども、もうなんだそれって感じなので、かなり目制限されてるんですよね、このたちらどもっていうのはね。
あるいは人々とか国々とか、こういうふうに繰り返すことによって複数性を表すってこともできるのかないですけど、これもね、かなり決まりきった表現しかないですね。
複数の本のことを、本本、なんじゃそりゃ、机机、厳しいみたいな感じで、こういうの生産性がないというふうに言いますけど、生産的ではないということですね。
なので、日本語っていうのは数に関しては非常に無頓着だということですね。
だからといって日本語母語話者が、その単数と複数を区別できないかという話では全くございませんのでね、当たり前ですけど。
今このたちとかの話で思い出しましたけど、久保田佐紀さんの異邦人っていう歌、有名な歌をご存知の方も多いと思うんですけど、この歌言い出しが、子供たちが空に向かい両手を広げって始まるんですよね。
子供たち。これよくよく考えたらおかしいですよね。
なんでかというと、子供。これでもう複数なんですよ。子にどもがついてるんだから。
さらにたちがつく。子複数複数みたいなことですよね。
だから二重複数とか確か言うんですよね、こういうの。
でね、これ面白いのは、英語のチャイルドの複数形ってチルドレンですよね。
これも二重複数らしいんですよ。
その英語の長い歴史の中で、どうやらチルドレンの最後のnっていうのが余計な複数らしいんですよ。
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それがなくても複数だったのに、余計に一個また複数がくっついちゃってるってことで、まさにチルドレンっていうのは子供たちと同じような構成になってるんですよね。
この理由としてはですね、子供って普通は集団で捉えられるものなので、子供っていうその複数形の方がデフォルトになっちゃって、
そうするとだんだん複数っていう意識がなくなって、子供たちっていう風にくっつくっていうことらしいんですよね。
これ面白いですね。日本語でも英語でも同じようなことが起こってると。他の言語でももしかしたらあるかもしれません。
他にもこういう例は日本語だと、友達たちとかですね。友達たちって言えなくないですね。
人によっては言いづらいって人もいるかもしれませんけど、言えると。
もっとわかりやすく言えば、一人の友達。友達が一人しかいない。
友達って複数形のはずなのに一人って言っちゃってるみたいなね。
これもやっぱ友達って普通は複数にいるってことが、それが普通だと想定されてるってことなのかな。そういうことなんだと思います。
というわけで、今日は日本語母語話者にとってはちょっと馴染みの薄い複数っていうものを軽くお話ししてみました。
もうちょっと本当は加算名詞不加算名詞とかそういう話にもなるかなと思ったんですけど、
この話はまた機会があればということにしようと思います。
というわけで最後までお聞きくださってありがとうございました。
よろしかったら番組フォローお願いいたします。ではまた次回。ごきげんよう。
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