1. 志賀十五の壺【10分言語学】
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2024-01-23 10:16

#619 日本語の主語はなぜ「省略」できる? from Radiotalk

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
00:07
始まりました、志賀十五の壺。
怪盗は鮮やかに獲物を盗み出す創造的な芸術家だが、探偵はその後を見て何癖つける。ただの批評家に過ぎねんだぜ。
怪盗キッドです。
日本語はよく主語を省略するとかね、言われると、言われてると思います。
皆さんもそういったことを耳にしたことがあると思うし、もしかしたらご自身でそういったことを言ったことがあるかもしれません。
過去にね、この日本語の主語についての話は、エピソードは配信したことがあって、なんか似たような出だしになってるんじゃないかなっていう気がしますね、なんとなくね。
ただ、本当に主語を省略していると言ってもいいのかっていうのは、そもそも問題で、なんというかな、省略っていうのはそこにあるべきものが出てこないみたいなことなので、
もしかしたら出てこないことによって、何か意味を表している、機能を果たしているっていうこともあると思うんですよね。
ゼロが意味を持っているということですけど、それは置いといて、それが省略かどうかは置いといて、確かに日本語の発話には主語っていうのがね、出てこないということがあります。
主語っていうのはそもそも何なのかっていうのもこれはまた難しい問題で、主語が何なのかっていう話も過去にエピソードで話したことがあるので、そちらも関連エピソードとしてまとめて概要欄に載っけておこうと思うので、全部できたら聞いていただけたらと思います。
例えば次のようなね、発話例を考えてみると、
僕は学校へ行った。文数を教わった。
よそ見をしていて叱られた。わからなかったところを友達に教えてもらった。
こういう一連の発話があったとして、主語っていうのが現れているのは最初ですね。
僕は学校へ行った。ここに僕はっていうのは出てきてますけど、それ以降に僕は文数を教わったとかね、僕はよそ見をしていて叱られた。
03:01
いちいち僕はっていうのは出てきていませんが、普通はすべて僕はっていうのがね、共通した主語として解釈されると思います。
もしかしたらそれは、それはっていうのは、僕はっていうのが後の方の文で出てこないのは、
日本人っていうのは空気を読むので、特に言わなくっても最初に出てきたものが主語であるっていうのがなんとなくわかるから出てこない。
そういう説明もあるかもしれませんが、もう少し言語学的に、文法的に言えることがあるんですね。
僕は学校へ行った。この文は置いといて次の文ですね。
文数を教わった。ここがもし、文数を教えたとなっていたら、この僕っていうのは先生として解釈されると思います。
文数を教わった、教わるという動詞を使っているから、生徒として解釈されているわけなんですよね。
こういうふうに日本語の動詞には、教えると教わるみたいに、動作の方向性っていうのがね、もうそもそも規定されている定まっているものがあります。
なので、文数を教わったといえば、その主語っていうのは教えられる側っていうのがすぐわかると、この場合僕と解釈されます。
で、この教わる、教えるみたいなものもそうだし、次の文もそうなんですね。
よそ見をしていて叱られた。これがもし、よそ見をしていて叱ったといった場合は、やっぱり主語は先生側ということになります。
これは教わる、教えるのペアと違って、叱るから叱られるという受動体とかね、受け身の形になっているんですね。
専門的にこういうのを派生という言い方をしますけど、動詞の形を変えることで、ある意味動作の方向性っていうのをひっくり返しているっていう感じですよね。
さっきの教わる、教えるっていうのは本来的にそういうペアなんですけど、叱るから叱られるっていうのは派生というプロセスを経ているということができます。
こういうふうに動作の方向性を変えるっていうプロセスは受け身文だけではなくて、日本語には叙々表現とかやりもらいと言われる、まあそういうプロセス、派生もあります。
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最後の分からなかったところを友達に教えてもらった、当然これが分からなかったところを友達に教えたとなっていたら、自分から友達に動作が向かっていると解釈されますよね。
これが教えてもらったになると、動作の方向性ががらっと180度変わって、自分がその動作を受けていると解釈されます。
まあそういった意味では受動体と何々してもらうっていうのは、機能は非常に似てますよね。動作の方向性を変えているので。ただやっぱりね意味合いは違って、よく言われるのはれるられるっていう受け身っていうのは迷惑っぽいね。ニュアンスを伴う。
何々してもらうっていうのは、その恩恵がある。こういった違いがあるとよく言われています。
仮によそ見をしていて叱ってもらっただと、叱られたことに感謝しているっていう含みがあるし、逆に分からなかったところを友達に教えられたというと、ひょっとするとね迷惑っぽいような含みが感じられるかもしれません。
いずれにせよ動作の方向性は変わっているという点では共通しているんですね。
こういう風に教わると教えるみたいに、本来的に動作の方向を逆転させるようなペアがあったりとか、れるられるとか、何々してもらうとか、こういった派生を使って同様に動作の方向を逆転させるものがあると。
こういうもののおかげで、日本語はある意味主語っていうのは出てこなくてもいいんですね。
もしそういう動作の逆転をさせるようなものがない場合、さっきの例は、
僕は学校へ行った。先生は僕に文数を教えた。先生は僕を叱った。分からなかったところを友達が僕に教えたっていう風に、僕先生先生友達みたいに、いちいちいち主語が変わってしまうんですよね。
そういったのはある意味で煩わしいものなので、いわば談話の中でピン止めをするっていう感じで、学校へ行った、文数を教わった、叱られた、教えてもらった、動詞の形を巧みに操ることで、最初に出てきた僕はっていうのをある意味ピン止めしてるんですね。
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これは別に日本語に限ったことではないと思います。どんな言語でも、やっぱりね、談話を通して主語、あるいは主題のこともあると思うんですけど、それを一貫させているっていうようなことはあると思います。
日本語の場合は特に動詞の形を操ることでね、共通した主語を出すことができて、そのおかげで後の方の文では主語っていうのが出てこないこともあるということでございます。
関連エピソードで似たような話はしていると思いますので、併せてそちらも聞いていただけたらと思います。それではまた次回お会いいたしましょう。お相手はシガ15でした。
またねー。
10:16

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