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2024-03-12 09:55

#633 日本語の「助動詞」のややこしさ:連辞関係と連合関係 from Radiotalk

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
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始まりました、志賀十五の壺。皆さんいかがお過ごしでしょうか。モーヒアスです。
この番組でも何度もエピソードで取り上げたことのあるソシュールですけれども、
そのソシュールから現代言語学というのは始まったといっても過言ではないんですよね。
そのソシュールの功績はいくつかありますが、その中でも今回は連辞関係と連合関係というものをテーマにお話ししていこうと思います。
連辞関係と連合関係。連辞と連合というのは日本語にしたときに結構ねじ面の上でも似ているし、
どっちがどっちだったっけみたいになることもあるかもしれません。
連辞も連合もちょっと別の言い方があったりするんですけど、今回は連辞連合という言い方で統一していこうと思います。
これは記号の関係なんですよね、両方ね。記号というのは言語記号のことですけど、
もうちょっと言うと単語、あるいは単語よりもう少し小さい形態層。
その形態層の関係の仕方に連辞関係と連合関係があるということなんですね。
でね、これは聞いてみるとそんなに大したことはないって感じがするかもしれません。
連辞関係っていうのはその発話した記号が、発話された記号がその並ぶ順番のことですね。
私はテレビを見た。
こう並ぶときに、こういう文というか発話があったときに、私はテレビを見たっていう風に記号が並んでいくんですよね。
見たっていうのはこれで一単語ですけど、より小さい単位にね、見と他に分けることができます。
で、日本語であれば、私はっていうこの並びは入れ替えることできなくって、
は私とかね、テレビをっていうのがおテレビとか、見たっていうのが民とかならないですよね。
当たり前と言えば当たり前ですけど、私はテレビを見たっていう風に、こういう風に線上に並べる必要があります。
さらに、これらの記号を一緒くたにバーンということはできないんですよね。
必ず形態素ごとにこう並べていく必要があります。
まあ当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、この線上性というのも、
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まあレンジ関係と合わせて非常に重要な言語の特徴なんですよね。
要はレンジ関係っていうのは実際に現れているというか、
顕在的な記号間の関係、順序とかそういうふうに言うことができると思います。
それに対し連合関係というのは、レンジ関係が顕在的だったのに対して、
連合関係は潜在的な関係ということができます。
例えば、私はテレビを見た。
この私のところには彼とかね、お父さんとかね、犬とか犬はテレビを見た。
こういうふうに、別のものも当然現れ得る。
そういった潜在的な要素のことを連合関係と言います。
それぞれの記号にはそこに現れることのできるいろんな候補があって、
そこから選ばれた一つだけが発話されて、レンジ関係として並べられているわけなんですよね。
これは助詞にも当てはまります。
私はのところをもに変えて、私もテレビを見たということができるんですよね。
あるいは、見たのこのたのところをるに変えることもできます。
私はテレビを見る。
つまりこのたっていうのはるっていう他の候補、選択肢があったと。
連合関係としてそういったものが存在していたということです。
この連合関係という観点から見ると、
我々が中学の国語で習う助動詞っていうのはかなりめちゃくちゃです。
いわば助動詞っていうのはレンジ関係でしか考えられてないんじゃないかなという感じがします。
動詞なり形容詞なり、名詞の場合もあるとも言いますけど、そういったメインの要素があって、
その後に付属してつくようなもの、
自立しない、付属語なんか言われたりしますけど、そういったものをまとめて助動詞と呼んでいて、
でも、活用する付属語のことを助動詞と言っています。
これがね相当めちゃくちゃです。
例えば、今回例に挙げている見たのたみたいなものも、過去の助動詞ってあっているんですよね。
これは相当むちゃくちゃですね。
さっきも言ったように、この見たのたっていうのは、見るのるっていうのと連合関係を成していますので、
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たが助動詞だったら、見るのるみたいな、いわゆる現在形っていうかね、
このるっていうのも助動詞にしないと、筋が通らないんですけど、そういうふうにはしてないんですよね。
あとは助動詞で代表的なものはれるられるとかせるさせるっていう受け身とか使役ですけど、
これもその連合関係で考えればむちゃくちゃといえばむちゃくちゃで、
見られるっていうのは見られたっていうふうに、るはたに当然変わるわけなので、
なんていうかな、その違う連合関係のものを一色たに入れちゃってるんですよね、助動詞っていう箱に。
れるられるっていうのは、るとかたより前に現れるものです。
で、るとかたっていうのは、より専門的な言い方をすると屈折と言われるもので、
なんていうかな、語を閉じるものなんですよね。
なので連合関係という点で言うと、
れるられるっていうのはルーターより前のところを占めているものなので、
これを一つの助動詞っていうのはかなり無理があります。
あとは助動詞にはね、ようだっていうのも入ってるんですね。
ようだっつってもスターウォーズの緑のあれではなくて、
さっきの例を使うと、テレビを見るようだとこうなるわけで、
見るっていう風に、
そのるっていうのがくっついた、ある意味完成した、
屈折し終わった単語の後にようだっていうのが出てくるので、
これも連合関係という点ではかなり無茶苦茶です。
さらに言うと、見られたようだみたいになるので、
られると過去のたとこの推定のようだっていうのは、
全く違う連合関係にあるわけですよね。
この推定のようだと連合関係にあるのは、
例えば、見たらしいとかね、あるいは見たはずだみたいに、
ようだ、らしい、はずだ、こういったものは連合関係にあるので、
そういったものを一つにまとめるのはいいと思うんですけど、
それが過去のたとかね、
福宮市駅と一緒になっているのは連合関係ではないので、
おかしなことになっております。
というわけで、今回は連字関係と連合関係、
どっちかというと連合関係の話をして、
その観点から見ると、日本語というか国語か、
国語の助動詞っていうのは非常に危ういというお話でございました。
国語の文法って相当ダメなんですよね、正直ね。
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過去にもそういったエピソードは撮ったことあるんですけど、
特に今回テーマにした助動詞っていうのは相当まずいと思います。
助動詞っていうのはあんまり安易に使えないんですよね。
ただ、こういう助動詞っていう考え方はダメだっていうようなね、
そういった反論ができて、そういった議論ができるという点では、
役に立っていると言えるかもしれません。
久しぶりにちょっと助動詞見直してみましたけどね、結構ダメですね。
というわけで今回はここまでということで、最後まで聞いてくださってありがとうございました。
また次回のエピソードでお会いいたしましょう。
番組フォローも忘れずよろしくお願いします。
お相手はしがじゅうおでした。
またねー。
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