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はい、えー、今晩もリノベの時間をやっていきたいなというふうに思っています。
今晩は、えーっとー、上場企業の代表の方から話を聞けるという、僕も非常に期待といいますか、ありがたい話なので、いろんな話を聞いていきたいなというふうに思います。
じゃあ早速タイトルコールいきたいと思います。
リノベの時間!
この番組は、窓差し断熱計算でおなじみの桜東養生機株式会社と、建築建材といえば株式会社リクシルの提供でお送りします。
はい、えー、こんばんは。大阪港区でリノベーションをやっています。美想空間鯛島です。
こんばんは、アシスタントの末津部です。
お願いします。
久しぶりですね。
はい、お久しぶりです。
まあまあ、さっきも会社で会ってましたけどね。
今日は、なんでまた、ゲストさんへの思い入れみたいなのがあってということですかね。
もちろんです。
長年、愛用している。
今も、現在も、もうすぐ入ります。
聞くことたくさんありますので、やっていきましょう。
この番組は、全国のリノベーションとまちづくりで活躍する多彩なクリエイターや事業家をゲストにお招きし、トークセッションでお送りする30分です。
じゃあ早速、このゲストの紹介をお願いします。
はい、それでは早速今日のゲストをご紹介します。
株式会社さんわカンパニー、代表取締役社長山根太郎さんです。
こんばんは。
こんばんは。
よろしくお願いします。
いやー、本当によく来ていただきました。ありがとうございます。
ありがとうございます。
そんな大げさなもんじゃないですか。
言うて、兵庫県でご近所さんだし、会社も近いですし、僕らさんわカンパニーのレイちゃんとかっていう会話ってよくよくあるんですけど、代表の方が来ていただけるのは非常にありがたいので、いろいろ聞きたいと思います。
よろしくお願いします。
ご紹介を詳しくお願いします。
それではゲストのご紹介させていただきます。
山根太郎さん、1983年生まれ兵庫県のご出身です。
関西学院大学経済学部ご卒業後、2008年伊東中小寺株式会社繊維カンパニーに入社。
その後2014年4月に株式会社さんわカンパニーに入社し、同年6月に代表取締役に就任されました。
東小マザーズ最年少社長として注目を浴びる。
就任後、数々の改革を起こし、業界の常識を打ち破り、住宅設備機器の意思販売、モジュラー建築、クラスコなどの新事業、海外事業を本格展開。
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また、ご自身の事業継承の経験をもとに著書、後継が日本を救うの出版や、一般社団法人、ベンチャー型事業継承の顧問を務め、若手後継者の支援をするかたわら、ヘッド契約テニスプレーヤーとしても活躍中です。
静岡さん、緊張しません?
どこで息吸っているかわからなかったです。
山根さんは何とも思っていないと思いますが、やはり上場している会社は数百人のトップですから、たぶん目に見えるオーラがあると思います。
事務所では、サウンドカンパニーのやつもやっときーなーって言っている感じなのに、今なんか息継ぎおかしいなと思っています。
水族はわからなかったです。
ちょっとね、肩書きが変に多いんで、僕が小さい頃よく思っていた、肩書きが多くてよくわからない人みたいに、こういう顔になっちゃってますけどね。
たぶん肩書きというか、肩書きはサウンドカンパニー代表取締役じゃないですか、ただそこに至るまでのところとそこに至った流れとかが、まあ多分いろいろ分厚いんやろうなっていうのと、あと僕一個思っているのが、なんか落ち着いてはる感じなんですよね。
まあ今オフィシャルな場ですからね。
普段はどうなんですか?全然違うんですか?
普段は結構、なんていうんですかね、まあ元々いわゆる勝者マンなんで、パーティーボーイですね。
あー、これ僕の変形です。
漢学、まあちょっと言ったらエリート街道を、僕関西大蔵、カンクラ、よく比較されるんですよ。
漢学に行けるとこ、みたいな。
すげえね、この月のマークに対するあれが結構あるんですけど、息子がそっちに行ったんで、すごいええなと思った感じですけどね。
でもありますよね、色が。
いや、なんとなくね。
全然違うじゃないですか。
ちゃいますね、全くね。
カンクラの色、KGの色なんですよ。シュッとしてる感じ。
イメージ通りですよね。
僕は勝手に思ってるんですけど、漢学、在学中はテニスめちゃくちゃやってらっしゃった。
そうですね、テニス選手になりたいと思ってたんで。
今もですよね。それは元々どんな流れでテニスになったんですか?
消去法ですね。
元々僕は体弱くて実は、川崎病という病気の後遺症で、中学校2年生まで100メートル以上走れなくて、ドクターストップで走れなくて。
中学2年生で、その病気が治りかけたんで、運動したいと言って、当時スラムダンク世代だったんでバスケがやりたかったんですよね。
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バスケがしたいで。
だから、チーム競技だからダメだと。
1年生と同じ、ボール広いとフロア磨きからだったらいいけどって言われて。
次も3年生なのに、それきついなと。
そういうことか。2年から。
そうなんです。
剣道部と卓球部とテニス部とアメフト部、この4つの顧問の先生が、この中からやったらいいよって言ってくれたんで。
その中から一番モテそうなやつ選んだ。
モテそうな。
あとはメット被ってたりするじゃないですか。
でもテニスっぽいっちゃテニスっぽいですよね。
結果まあそうなったんですけど。
僕アメフトなんですよ。
アメフトっぽいですもんね。
ラジオでお届けするとアメフトっぽいかもですけど、実際会うと、うまかっていう話がよくなりますけどね。
消去法でテニスを選んで、全くスポーツができないの感じだったのが、ようなったからやりだしたのがテニス。
やったらハマって、高校、大学とガッツリテニスをやっていた。
それはもうプロ。
当時って誰、伊達紀美子とかですか?
当時のナンバーワンは。
松岡修造さんが引退した直後ぐらいだったんで、僕は被ってないんですよ。
伊達さんとも何回かテニスさせていただいたことあるんですけど、被ってはなくて。
そこ隙間世代で有名な日本のチャンピオンっていうのがいないんですよね。
松岡さんと西堀圭介選手の間っていう。
確かに。僕テニスプレーってそんなに知らないですけど、マッケンロとか。
無茶苦茶マッケンシーですけど。
あれちなみに何で0、15なんですか?
もともとあれね、時計なんですよ。15、30、40、45、時計が一周したら1ゲームっていう意味だったんですけど。
45っていうのが言いにくかったらしいです。
だからそこを40にして、というふうになった。
40ラブリーになったってことなんですか?
ごめんなさい、どうでもいい話ですが。
でもその時って、もともとサン・ワ・カンパニーは前身の会社があって、
それはお父様がやられていた会社ですよね。
それって小っちゃい時からずっと見てるってことですよね。
そうですね。
当時は子供の時にやってたお父さんの会社はどんなふうに見えてあったんですか?
ペルシャ絨毯輸入してる会社みたいな。
当時はペルシャ絨毯であったりとか、ギリシャから大理石の原石みたいなのを輸入してきて、
ゼネコンさんとかに提案営業をするっていう、普通のB2Bの会社だったんで。
ちなみにお父さんはもともとは何に従ったんですか?
もともとは西部百貨店の貿易部です。
そこからこの商材で独立してサン・ワの前身ができたみたいな感じですか?
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上司と殴り合いの喧嘩して即日解雇になったんで。
起業せざるを得なかった。
当時起業なんて言葉もなくて、脱サラって言葉しかなかったわけです。
中心雇用前提の時代なので、上司と殴り合いの喧嘩する人なんかもう転職先ないわけです。
ああ、なるほど。
もともと父親は広島出身で明治大学行って、
池袋の西部で働いてて、
要するに喧嘩して辞めたんで、同じ業界で起業しても先回りして、
あいつと取引するんだって言われてですね。
大阪に流れ着いてきて、大阪の中小企業のおっちゃんたちは、
なんかよくわからんけど、安くてええやないか、こうたるわって言って買ってくれたと。
だから、日本一中小企業が多い町だから、
社長さえ合サイン出したら買ってもらえるって言って大阪に降ろした。
てことは、全く大阪無縁というか縁がなかったんですね。
当時全くないですね。
さっきちょっと聞いたんですけど、
元々天ヶ崎がスタートってことですか?
当時だから、うちの母親と父親が結婚した後、お金がなくて、
家賃が安かったのが天ヶ崎だったというだけの話。
天ヶ崎でお父さんがペルシア絨毯の移入で起業されているを見てるけど、
テニスをやってて、その時は全くそれをどうするなんてイメージはなかったんですか?
手伝うとかってことですか?
手伝うとか継ぐとか。
継がせないって言われてたんで、
男たる者、いつかは一国一女の主になれって言われて育てられたんで。
正直親の後を継ぐのはカッコ悪いって正直思ってたんですよ。
そういう風に育てられましたし。
だから勝者に入った時も最初繊維なんですよ。
スポーツアパレルとかスポーツシューズバンカー担当してたんで。
ちなみに大学で経済学部。
経済学部に入ったのはテニスをずっとやってたから、
特に何かの勉学をするために行ったとかっていうわけでもなく。
中学から行ってたんで、受験しなくてよかったんですよね。
でも中学の時受験しましたね。
そう中学の時受験しました。
難しいですよね。
当時そうですね。
ですよね。僕落ちてるんですよ。
落ちてるんですよ。
いわゆるディープなインパクトですよね。
そうですね。
中学から。
特にやりたいことがないんだったら、
要するに経済学っていうのはマルクス以降変わってないと。
原理原則だから。
それは学んどいたらいいんじゃないかというアドバイスを親からもらって、
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小学部じゃなくて経済学部に行って。
授業はそれを取りつつ大学ではテニスをやって全く。
海外を転生してたと。
ガチのガチですね。
感覚スポーツなんでも強いですもんね。
分布量はどうだし。
で、就職をするタイミングが、
いとちゅうに就職をして繊維をやっている。
これはどれくらい、結構働いてるってことですよね。
6年ですね。
大阪2年、上海2年、東京2年。
2014年にサンワカンパニーに入社。
これはきっかけはどんな経緯だったんですか?
2012年に父親が他界しまして。
その時、私は上海に駐在していたんですけど、
電話がかかってきて、
実はこの電話を持っているのもしんどいくらい、
ちょっと気がんなんだと。
そんなに長くないと思うと。
最後に2つだけ言いたいことがあると。
1つはやっぱり最後に会いたいと。
もう1つは、
やっぱりお前しかおれへんねやわって言って、
サンワカンパニーに入ってくれた。
当時だからやっぱりっていうのは、
一応社内での昇格とか、
知り合いのコネクションの中から誰かを社長にするとか、
っていうのも考えたけど、
それも消去法で、
でもそれやったらお前の方がいいかなって思ったっていうことだと思うんですよね。
そこは詳しくは聞いてないんですか?
いやもう本当にその翌日に飛行機に乗って帰って、
帰ってきてくれたんか、
おれ本当はもっとやりたいことあってんけどなーっていうのを
最後に意識なくなっているので。
喋れてないんですよ。
ギリギリまで耐えて、
本当に最後に一言。
その時の会社、サンワカンパニー、
まだ前身の名前になるんですか?
その時はサンワカンパニーになってました。
サンワカンパニー、その時はどれくらいの規模感で、
どんな組織だったんですかね?
亡くなられたタイミングって言ったらいいですかね?
亡くなったタイミングは売り上げが大体30億円くらいで、
社員も40人くらいという感じですね。
流通商材としては、
2000、何年だろう?
12になくなってます。
やったらもう全然今のサンワカンパニーですよね?
ですよね。
普通に見て。
10年前?
ちょうど10年前くらいですかね?
社名変更してインターネット事業を始めたのは2005年くらいなので、
2000年ですね。
どのタイミングですかね?
どっかで一個ガチャってスイッチ。
僕らは感覚的には変わってるんですけど、
結構紙のカタログが強い時みたいなイメージもあったりするんですよね。
なんとなくなんですけど。
それで選んでウェブで見て、
ウェブ見にくいなーみたいな記憶は、
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たぶん2009年くらいかな。
その時はそういう商材の選び方をしてたんですね。
その時は今の事業のベースが出来上がっていたくらいの感じ?
そうです。
どうなるんですか?
亡くなられてから2年間は?
当時の専務がそのまま自動昇格で社長をやっていて、
これがちょっと問題で、
要するに我々、創業家側には代表権の優先順位が決まってるんで、
代表に有事があった時の2番手は専務が僕なんで社長やりますっていう風に、
僕らには説明したと。
だけど社内側には、
なぜあなたが社長なんですか?って聞かれたら、
社長の最後を見とったのは俺で、
社長をお前頼むなって言われたっていう風に社員には説明してたと。
でも明確に見とったのは僕なんですよね。
そうですよね。他人が見とらないですよね。
夜中12時回ってましたから、最後息が止まった時はね。
呼吸と鼓動が止まった時は12時確か回ってたと思うので、
他人が見とるわけないじゃないですか。
だからそれは明確な嘘なわけですよ。
適正があるかどうかなんていうのは無視した嘘で、
結果適正がなかったんですよね。
経営ステイックに当たっての適正ですね。
とある日に僕のサラリーマン時代のデスクに、
サンワカンパニーの社員代表っていう手紙が届いて、
今の社長は自分に株を発行したりとか、
自分の子供を留学させるためにシンガポールに会社を作って、
シンガポールに月一回行って、
イスカンダル計画がどうだとかっていうのをやってると。
このまま5年は、
5年後に息子が戻ってくると私たちは説明を受けてるんですけど、
5年も耐えられませんっていうのが書いてあって、
賛同する社員の名前がバーって書いてあったんですけど、
当時だから40人ぐらいの社員のうち、
30社地に書いてあったんですよね。
ほぼほぼ。
ほぼやんって言いまして。
これってでも社員と社長の目線が合わずに、
意見が食い違うみたいなことは往々にしてあるじゃないですか。
社長の意見も聞いてみないといけないということで、
その手紙が来たっていうことを隠して、
当時の社長と食事に行って、
いろんな話聞いたんですけど、
やっぱり事業家としてはちょっとダメだなっていう点がいろいろあったんで、
4月に入って、
その社長には海外事業担当の取締役で入るっていうふうに言ったんで、
海外で交渉しようと思ったら、
自分がサインできないと、その場でサインできないと交渉してくれないと。
だから最短で取締役にしてほしいって言って、
定時総会じゃなくて臨時総会を開いてもらって、
取締役になったんですね。
18:01
そのときは株主と役員構成ってどんなやったんですか?
株主は上場してたんで、上場1期目の話なんですよ。
上場1期目に半期決算のときに、6月に臨時総会で僕がなって、
本人には海外でしっかりやるためだとは言ったんですけど、
実際は取締役になってないと代表になれないんです。
だから実はその日、道義を出して自分が社長になるために、
臨時総会を開かせたっていうのが当時の経緯で。
めちゃくちゃドラマティックですよね。
日曜の夜9時ぐらいからできるんじゃないかと思ってるんですよ。
KBSでできそう。
社長代取りになって、
当時の社長さんというか、
元専務の方はどうなったんですか?
出てきましたよ。
永遠に続くんじゃないかっていうぐらい道義を出してから、
どうされますかっていうのを質問した後、
これ永遠に続くんじゃないかっていう沈黙が1時間ぐらい続いて、
最後、お前らに辞めさせられるぐらいだったら、
辞めたるって字表書いて出てきたっていう感じなんですね。
っていう前段があって、
改進劇って言うとあれですけど、
適正になって会社は順調に伸びていくみたいな感じってことですかね?
そうです、ストーリーとしてですね。
僕らが見てるところは、
岡山さんが疲れたその辺ぐらいからは、
1、利用者っていう目線もですし、
2014年って明確に僕らも会社をスケールさせていくっていうイメージを持ってたので、
経営者っていう見方も教えたし、
いろんな見方を教えたんですよね。
めちゃくちゃいろいろやっていくじゃないですか。
その辺のときの組織の話とかも聞きたいんですけど、
それはちょっと後でウラリノベの時に飯食いながら聞かせてもらおうとして。
そのタイミングで受け継いで大きく変えたことっていうのはあるんですか?
事業の内容というかとか、
ここに重きを置いていくとか、
ちょっとチャンネルを変えたみたいなのとかってあるんですかね?
はい。やっぱり会社があるべき姿に戻すっていうことですよね。
結局、経営の事業家としての資質がなかったっていうことの一番大きなところは、
理想とか未来を描く構想力がなかったっていうことだと思ってるんですよ。
21:02
どこを目指すのかとか、何のためにこの事業をやってるのか。
上場してて株主を満足させるんだっていうのは、
正直方法論の話で本質論ではないと思うんですよ。
株主が満足してくれて株価が上がるから、
より大きなお金が調達できて、
より事業が早く進められるってこういうロジックじゃないですか。
でも株主を満足させなあかんから売り上げ取らなあかんねやと言って、
せっかく先代が透明性っていうのを市場にもたらしたいと思って始めた、
いわゆるワンプライスを曲げて大量に割引をしようとしてた。
してなかったんですけど、しようとしてたとか。
過去、手形商売ですごい痛い目にあったんで、
基本的には前入金か法人間クレジットカードしかやらないって話だったのに、
売り上げが欲しいから売りかけどんどんどんどん受けるみたいな、
それによって小月期が起きるようなリスクが出てくるみたいな、
本質的じゃないと。
なぜこの事業をやったのかっていうのは、
やっぱり価格の透明性と残るべき公務店を残す、
残るべきリノベーション会社を残すっていうのが僕らのミッションだから、
ここだけは絶対曲げてはいけないというのでワンプライスを徹底して、
基本的にはよっぽど財務内容が良くなければ、
駆け売りもしないっていうので、
相当だからバッシングを受けたんですね、僕が。
なるほど。
あいつになった瞬間なんか偉い高めな会社になったと言われたんですけど、
あるべき姿に戻しただけというところで。
それって、僕ら公務店側からすると、
捉え方いろいろあるんですけど、
これでもちょっと話飛躍しちゃうかなと思うんですけど、
今僕、流通の話じゃないですか。
メーカーがあって、トーン屋さんがあって、
スポンサーさんもトーン屋さんの立ち位置もあるなって思ったんですけど、
そこも僕、理解してもらってるというところで、
直販のところにあるじゃないですか、
これってお客さんにとっては絶対そっちの方が正しいと思うんですよね。
中間に入る、一時どんや二時どんやみたいな、
この仕組みはいらないと思うんですよ。
メーカーさんが反射を持っていない場合は、
反射の機能として一つ商社がいるっていうのは、
僕はなんか理解はできるんですけど、
そこから仕入れて駆け売りみたいな、
定価があって、上代があって下代があってみたいな、
この設定って、もう今インターネットがこんだけ浸透した中で、
もうしんどいんちゃいますかっていうのが、
もうめちゃくちゃ思ってるんですよ。
でも公務店側で、
もしかしたら強豪になるかもなんですけど、
24:00
以前ツールボックスの社長アロカワさんに出てもらった時に話になって、
定期的に食事行く関係なので。
質問事項で公務店さんから、
俺、僕らツールボックスの商品を何本売っても、
それこそ3話カンパニーの商品を売っても、
定期が出へんねんけど、
これって卸売りをしてもらうことってできないんですか?
っていう質問をした公務店さんがいたかったんですよ。
イベント、公開収録みたいなのをさせてもらった時に。
で、それに対して、
僕も言ってることはわかるし、立場として。
だけど、なんかそれってモヤっとするのは古いよな。
でもこれ形にできないなと思ってたんですけど、
実際、たぶんもう今メーカーの金額に対して、
僕らの賭け率がトン屋さんからちょっと良くて、
最悪で儲けるっていうビジネスモデルって、
たぶんもう古くて破綻しちゃってるんじゃないのかなと。
僕らも今見積もりに対して、
お客さんには3話カンパニーの商品が良いか悪いかとか、
これが合うとか、
これとこれ合わせたらめちゃくちゃ良い感じになるけど、
これとこれ合わせちゃうとおかしくなるよねっていう、
これを選定するところにフィーをもらうべきだなと思ってて。
今のきの公務店、
まだ古い公務店って言ったら下ろしてもらって、
定価に対して、
例えば7掛けで買って、
定価で売って30%利益投げるみたいな、
これってたぶん古い公務店だと思うんですけど、
それって先言ってた守るべき、残るべき公務店とかっていうのは、
どういう意味を持って言うとあったのかなと思って。
そうですね、それ言うと、
今のようにブラックボックスを設けてやると、
意外良い公務店じゃなくて、数こなす公務店が残るんですよ。
バイイングパワーが強いじゃないですか。
そうすると、勝者に対して年間こんだけ買ってるんだから、
掛け率下げてよっていうようになると、
腕の良い公務店じゃなくて、
数こなせばバイイングパワーが強くなっていくので、
残っていけると。
かたやすごい良いものをやってるけど、
量がいかないんだっていう人に関しては、
バイイングパワーが強くならないので利益率が一向に上がらないってことになる。
そうじゃなくて、
本来であれば技術力とか過去のクレーム率をちゃんと出して、
安かろう悪かろうがいいんだったら、
手の悪い公務店さん行ってください。
僕たちは工事に自信があるのでこの金額しっかりいただきますっていう
公務店が残っていくべきだと僕は思ってます。
なるほど。
それをメーカー輸入販売、商品を売るっていうことのスタンスを取って、
実装していこうっていうのが3話カンパニーってことですね。
そうです。
なるほど。
でもそれって、
多分僕らの公務店側のところまで降りてきていない、
もしかしたらマインドで、
27:00
もしくは何しはエンドというか、
そこまで多分特にエンドの一般ユーザーまではなかなか落ちてないかもしれないですよね。
それは我々の力不足のところがあって、
それもあって今回社名を変えるという意識をした。
そこの話ね。
ちょっと来週引き続き聞いてもらうような感じで。
番組へのリクエスト、質問、感想など皆様からのメールを待っております。
メールアドレスはリノベーションタイムアットマークyesfm.jpです。
またスマホアプリFMプラプラからもメッセージが送れます。
リノベの時間Xからもお気軽に感想DMをお待ちしております。
またアーカイブは毎週月曜日18時にYouTube Stand FMにて配信しております。
これまでのゲストの方々のアーカイブも残してますのでぜひお聞きください。
そこってすごい難しいところかなと思うんですよ。
来週にお世辞様子宮みたいな言葉があったり、
結構これって一般的にもなってきてますし、
僕ら公務店側がどういうふうに考えて捉えて、
それを次やっていかないといけないのかって、
多分インターネットでこんだけ情報が透明化になっているので、
最近出たブラックボックスもどんどんなくなっていくだろうというところの話を
両側からできたらなというふうに思います。
来週またよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。