1. はじめる radio キャンパス
  2. cpl. s1 #7 自分の人生をふり..
2023-07-29 50:27

cpl. s1 #7 自分の人生をふりかえりはじめる

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1963年10月生まれ。ことし還暦を迎えます。
残りの人生なにをしようか。なにをすべきか。なにをしたいか。
自分の人生をふりかえることで見えてきたこと。そんなお話。

#7-1 こんな人生もある
#7-2 幼少期から大学入学まで
#7-3 マジメちゃん卒業/わがまま宣言
#7-4 自分探しと根源的な問いかけ
#7-5 根源的で反抗的な大学院時代
#7-6 そして音大へ/音楽と政治学
#7-7 音大改革の21年/学長6年
#7-8 そして札幌へ/学長4年/リタイア

サマリー

はじめるラジオキャンパスシーズン1のエピソード7では、たかはしはじめさんが自分の人生を振り返りはじめることをテーマに話しています。彼の生い立ちや学生時代に触れられ、自由な大学生活が彼にとっての転機となったことが明らかになります。このタイトルのセグメントでは、大学生活を終えて大学院に進学し、根源的な問いを考える時間を過ごしたこと、それから音楽大学で新たな世界に飛び込むことになったことについて話されています。たかはしさんは音楽大学で21年間勤め、最後の6年間は学長として学園改革に取り組みました。しかし、音楽大学の問題点や大学運営の難しさに直面し、札幌の音楽学科と美術学科を持つ大学の学長に呼ばれることになりました。このエピソードでは、たかはしさんが自分の人生を振り返り始めたことについて話されています。

はじめるラジオキャンパスシーズン1のエピソード7
はじめる ラジオキャンパス シーズン1のエピソード7、7番目のエピソードを作ります。
自分の人生を振り返りはじめる。
たかはしはじめは 1963年の10月に生まれたんですね。
今年が2023年ということで、10月には還暦、満60歳を迎えます。
これ昔の数え年でいうと、もうすでに正月に還暦を迎えていることになるんですよね。
なので、ちょうど60歳、60年ということで、人生、昔は60年ぐらいで終われたんですけど、今は
人生100年とか言ってますけど、まあでも 男性はね
やっぱ70代か、長生きしても80ちょっとぐらいですよね。 なので、そんなに長く
生きたいという気もあまりしていない。75ぐらいまででいいかなと、本人は思ってるんですけど、こればかりは
自分の意思でどうこうできるものではないので、わかりません。
いずれにしても60年生きてきたということで、ちょっとは自分の人生を振り返り始めてもいいのかなと思ったりしてるわけです。
実は今年の正月あたりにそんな思いを強くして、
それで実は
オンラインの世界ではnoteという SNSに目をつけて、そこをプラットフォームにここに自分を表現していこうと
いうふうに決めたわけですね。しかもオンライン上のコミュニケーションのベース、 オンライン上のコミュニティのベースをこのnoteを中心に置こうと決めたわけです。
そこではもう、60になったので、過去を隠してもしょうがないので、いろんなことをすべて書けるものは書いていこうと
いうふうに思ったわけですね。 そこで最初に書いた記事が
「こんな人生もある」ということで、 私の幼少期からの
なんでこんな人間になってしまったのかということを、結構1万5千文字ぐらい書いたんですかね。
「こんな人生もある」ということで、自分の反省を振り返ってみたわけですよね。
それでちょっと見えてきたことっていうのは、書くことでね。 見えてきたことはちょっといくつかあって、これまで漠然と
感じてたことではあるんですけど、やっぱり文章にしていくと、 とてもそれが改めて自己認識ができるというか、客観化できるということですよね。
文字にして書くってことは、自分から一回切り離して、 文字という外の世界に表現するわけですから、他の人も読めるように表現するわけですから、
客観化する、客観視するという、そういう作業でもあるわけですよね。 文章にする、文字にするということはね。
だからそれを自分の振り返りとして、人生の振り返りとして、 やっぱり書くべきだなと思ったので書いてみました。
書いているうちに1週間ぐらいかかって、1万5千文字ぐらいになっちゃったんですけれども、 やっぱりそのことでいろいろ見えましたね。
次に自分が何をやったらいいのかということも逆に見えてきました。
残り15年ほどになるかわからない人生、何をやろうかという時に、 やっぱり60年間を振り返ったことで、見えてきたかなと思っています。
まあそんなことで、このエピソード7、ラッキーセブンということで、 これはもう自分の人生を振り返りはじめるという、そういうエピソードにしましたので、
これからこの話を少しね、していこうと思います。 興味のある方は聞いてください。ではまた。
自分の人生を振り返りはじめる
はじめるラジオキャンパス エピソード7
自分の人生を振り返りはじめるということで、ラッキーセブンということでね、 自分の人生の振り返りをエピソードにするわけですけど、
最初のセグメントでは、還暦迎えたこと、それからnoteにね、
自己分析の、こんな人生もあるっていう記事を1万5千文字以上書いたよ、なんて話をしたんですけど、
書くことで、やっぱりね、この次、残りの人生やることも、ちょっとは見えてきたかな、なんていう話をしたんですけど、
まあせっかくなのでね、実際に人生を振り返ってみたいんですけど、
まあ私、1963年にね、3人兄弟の真ん中ですね、男3人の真ん中です。 これ男3人の真ん中ってなかなか大変なんですよ。
上との関係、下との関係ね。
常に調整役になる、上からのプレッシャー、下からのプレッシャーね。 まあこれ、
3人兄弟の真ん中の人はね、 おそらく共有してくれると思うんですけど。
高度成長がまだ続いている時期に生まれたわけですよね。
我々の世代は、ちょうど共通一次世代。 あとは新人類なんてね、呼ばれたのが僕らの世代ですね。
昭和で言うと38年組ですね、38組とも呼ばれたわけです。
まあ僕自身はとにかく、何でしょう、宿題も大っ嫌いで勉強があんま好きじゃなかったんですけども。
幼稚園も嫌いだったし、小学校行くのもあんまり好きじゃなかったんですが、 なぜかね勉強だけはちょっとできたので、まあそれはだから
唯一学校に行く 動機づけになってたのかなと思います。
ただ何か小っちゃい頃からね、一つのことを究めるというよりも、 とにかくいろんなことに関わるというのは、
もう小学校時代から始まってましたね。 なんか一つのことに集中してやるっていうタイプでは全然なくて、
まあいわゆるマルチタスクな人生は小学校時代から始まったってね。 だからまあ自分はスペシャリストにはなれない、専門家にはなれない。
むしろジェネラリスト的な体質なんじゃないかなっていうふうに。 まあその頃からやっぱり思ってましたね。
要するに平均点の子供ですっていうね。 ドリフターズの歌もあったんですけど、まさに平均点の子供でしたね。
中学高校時代は、とにかく勉強せずに部活ばっかりやってましたね。
宿題もやらない、家に帰っても勉強しない。 授業中以外は勉強したことなかったですね。
中学高校の時も結局、高校受験の時も受験勉強はした、最後までやらなかったですね。ギリギリになってちょっとやりましたけども。
大学受験に関してもやっぱりあんまり受験勉強はしてなかったんで、成績がどんどん下がって
さすがにちょっとこれじゃまずいと思ってね。 ちょっとガリ勉を
高校2年の終わりから高校3年の頭まで 3、4ヶ月だけガリ勉をしたということですけど、それで成績がちょっと戻ったので、もうそこからはまた
辞めちゃったという、受験勉強ね。 そんな感じでしたけど。意外とそういうところは
何でしょう、さらに上を目指すというあんまりモチベーションというか、そういうインタレストは働かない人ですね私はね。
名古屋の大学、国立大学に進んでなんとなく法学部に行って、学生時代はやっぱりいろんなことがありましたね。これはね。
でもやっぱり一番大きかったのは、一人暮らしをして、24時間自分
がすべて 自分の頭で考えて使うという。これはやっぱり大きかったですね。
学生時代は本当に自分の自由でやりたいことをやる。ただこれがなかなか、一言でやりたいことをやると言っても
逆に困ったのは、実際自分は何がやりたいのかがわかんなくなっちゃったんですよね。 それまでは、なんとなくまあ
そこそこの成績をとって、そこそこの評価を受けて、そこそこの満足を得ていたので、そうやってレールに乗ってたのが、大学に入って、
まあそのままレールに乗るということでもよかったんですけど、やっぱり自由が与えられて 、ある意味レールを外れて走り始めたという。
レールを外れて走り始めたら、どこに走っていいのかわかんなくなっちゃったっていうのがね 、これが私の学生時代ですね。
なので大学は結局 6年間いましたね。
まあ留年をしたというその辺の話はまた次のエピソードで 学生時代の話をしたいと思います
ではまた。はじめるラジオキャンパスシーズン1のエピソード7
ラッキー7ということで自分の人生を振り返りはじめる という
テーマで話しているんですけどもその3つ目ですね。セグメント3ということです。
学生時代と自己の発見
ちょっと学生時代まで話は来た。学生時代ですね。 私は結構その
小中高とやっぱり真面目だったんですね。自分で言うのもなんですが、名前ははじめって言うんですけども、友達から真面目ちゃん真面目ちゃんと呼ぶ人も
結構たくさんいましたね。真面目な、クソ真面目な優等生。
でもこれはですね、ある意味、本当の自分ではなかったというか。 結局、
その自分の過ごす、学校が主ですけど、その社会の中で ある意味ちょっと仮面をかぶってクソ真面目にしていたということなんですよね。
今から考えると。もうそうするしかなかったということなんです。
まあその理由はねいくつかあるんですけれども
これは大学に入ってそのことに気づいたわけですよね。 一体、自分はなんで
何がしたくてどうやって生きてきたんだろうということですね。
つまり 僕は本当に学校とか幼稚園とかあんまり好きじゃなかったんですよね。そこに縛られているのがすごく嫌で。
縛られている時間はもう我慢するしかないから。 そこで歯向かってもしょうがないので、だからある意味
クソ真面目にしていた。 波風立たないようにね。
そういうことだったんだなあっていうことに気づいたのは これやっぱり大学生になってから。
しかも大学入って2年目ぐらいからですね。なんでそれに気づいたかっていうと
結局もう家で縛られ 学校で縛られ時間に縛られ
自分の自由はやっぱり効かないというね。そういうのに従っていくしかないっていう そういう世界だったのが、
大学に入って結局一人暮らしして、意外と自由な大学だったんで、授業もあんまりだんだん出なくなって
そうするともう24時間 全部自分の時間になるんですよね。 何をしてもいいと。
つまり社会の決められたルールや時間に従わないでも生きていけると、そういう状況に置かれて初めて気づいたのは、
一体自分はじゃあそういう外からはめられた枠の時間やルールや規則がないときに
どうやって生きていったらいいんだろうっていう。それがあったから
あのその枠内で生きてこれたのが、それがなくなった瞬間に わかんなくなっちゃったんですよね。
結局、一体自分は何がしたいんだ
ということを考え始めちゃった その一番の
きっかけは失恋なんですよね。まあ大学入ってちょっとねやっぱり自由になって一人暮らしだから色々興味もあるわけですよね。
そういう女性と付き合うということにもね。それでちょっと付き合った子がいたんだけれども
それがなぜか振られてしまったわけですよね。しばらく付き合った後に。それが何で振られたのかわからないっていう。
いくら考えてもわからない。そんなにダメな人間じゃないと思うんだけど、なんで振るんだろうと。
その時はもうそのことばっかり考えてたわけですよね。結局、自分は
何がしたくてどうやって生きていくんだっていう。 それから、
なんていうのかな、いわゆる周りの枠に従うのをちょっとやめようと。とにかく1回。とにかくもうとことん、やりたくない時はやらない。
いろんな
時に、もう社会のルールに必ずしも従わないと。 やったのがわがまま宣言ね。
わがまま宣言っていうのをしたんですよね。これから僕はわがままに生きます。もう真面目ちゃんはやめますと。
そう言ってもう自分のやりたいようにやると。ところがこれはそう簡単にうまくいかないわけだよね。それまで
レールに乗っかってきちゃったわけだから。これ前の話でもちょっとした。レール外れた電車はどこに走っていけばいいのかわからない
ということで、相当5年間ぐらい暴走し続けましたね。 どこ走ってるのかわからない
状態が実は続いてた。そんな中でなんとかこう
もう一度こう自分の接点、世の中との接点っていうのを
あるいは自分の皮膚感覚とか体の感覚、本音の部分っていうのを確認しながらね、
つなぎ直す作業っていうのをやった5年間でしたね。抽象的でわかりにくいかもしれないんですが。この辺の話ね、
話すと長くなるので これぐらいにしたいと思いますが。まあとにかくそんな感じで、学生時代は送りましたね。
まあこの話はまたちょっとあれですね。エピソード改めて話したほうが良さそうですね。 これだけで結構、膨らみを持っちゃいそうです。ということで、とりあえず、今は自分の人生を
振り返るということで、まぁ学生時代はそんな感じだったなぁということだけに留めておきたいと 思います。ではまた。
学生生活と根源的な問い
はじめるラジオキャンパスシーズン1のエピソード7ラッキーセブンですね。 エピソード7は「自分の人生を振り返りはじめる」ということで、まぁ今まで3つの
セグメントお送りしてまいりました。4つ目ですね。
まあこの前の話としては、まあ結構ずっと真面目 クソ真面目に生きてきてしまったけど、それは本当の自分じゃなかったということにまあ大学に
入って気づいて、 そこから始めたのがわがまま宣言
というね話をしたんですが。 やっぱり大学に入って結局、
そこから始まったことは、わがまま宣言はいいんだけれども、じゃあどうわがままにしていいのかが今度わからないわけですよね。
とにかく始めたのは、なんで?
どうして? いろんなことに対してこう
疑問、根源的にというかな。 なんでだろうと突き詰めて考えるよう
なってったし。周りに対しても、みんなそうしてるけど、それはでもなんで?どうして?
別にそうじゃなくてもいいんじゃないか。っていう、そういうこうなんていうのかな、ちょっと天邪鬼的にいろんなことを疑問に
付していくっていうかな。そういうことを始めたんですよね。 それはなんでそうなっていったかというと、結局、
自分の意見 っていうのがないことに、これ入学してすぐですよね、
あの意見を求められたんだけど、ありきたりのまあ要はその辺に転がっている みんなが言ってることしか
考えてなくて。 自分の意見ていう
ものがないことに気づくわけね。それまで
まあいろんな 場面で、まあこれがいいとか
こういうのが好きとかいうのはあったけれども、それやっぱり自分の意見じゃなくて、 単に好みであってね。本当に自分はこう考えるから、こうなんだ。
みんな世間はこう考えてるけども、いや自分はこう思う。そういう意見がね、やっぱりあんまり作ってこなかったんですよね。
当時、私1982年に大学入ったんですけど、 ちょうどこう日本社会ちょっと価値観揺らぎはじめる時期なんですよね。
フェミニズムなんかも出てきた時期なんですが。出てきたっていうか、それ以前にもあったんですが。結構盛んになった時期なんですけど、
当時流行った言葉で、これ上野千鶴子とかも言ったしいろんな人が言ったんですが、自分探し っていう言葉がね。
流行り始めたのが、この1980年代ですよね。 1980年代っていうのはやっぱり、男女間の関係とかも含めてですけど、
大きくやっぱり世の中が、縦型の社会からちょっとフラットな社会に変わっていくようなね。 人間の関係性が変わっていくようなそういう時期でもあったと思うんですけども。
ちょうどそういう時期に学生時代を送ることになって、 私はとにかく、
そもそも人生って何とかね。 人間って何とか。人類社会って何。
いわゆる哲学的な問いですよね。 これはまあ昔だったら、学生みんなそういう根本的な問いを考えるっていう人は一定数いたんだけど、
最近あんまりそういう人は見かけなくなっちゃって、 これが良いのか悪いのかよくわかりませんが。
とにかく私は大学に入って、 失恋もきっかけなんですが、とにかく自分の存在っていうものをちょっと根源的に、
根本からいろいろ問い直すみたいな作業を
結構やったような気がしますね。 だから本も
高校まではそんなにたくさん本読まなかったけど、やっぱり大学に入ったら授業出ずに本ばっかり読んでたし、
いろんな人と議論ばっかりしてたし。そこではとにかく
根本的な根源的な問いかけで突き詰めて考える。そんなことばっかりやってましたね。
それが大体、学生時代で。
そんなことやってたもんだから いわゆる一般企業に行くというか、
就職活動もちょっとだけはやったんですけども。
それよりも大学院、もうちょっと考えたいなと。
やっぱり結論出てないまま社会に出れないなって思ったので。 内定はちょっともらったんですけど、
それは断って。 断ってなかったらまた違う人生になってたんですが、断って。
1年大学院試験の浪人をして、 それで大学院に進学したっていうね。
大学院に入って、 そこからは研究者人生ということになるんですけれども。
大学院時代、助手時代の話、 そしてその後は、僕の音大人生が始まるわけね。 まさか25年も続くと思わなかったんですが。その後に
私の音大ライフが始まるわけですけれども。
まあその話はまた次の機会に。 ではまた。
はじめるラジオキャンパスシーズン1のエピソード7 ラッキー7ですね。
「自分の人生を振り返りはじめる」というタイトルの セグメント5つ目ですね。
このエピソードはちょっと長くなりそうですね。学生時代を終えて大学院に進学したんですね。
まぁなぜ大学院に行ったかっていうと、
この前の放送でお話しした通り、やっぱりこう いろんなものを根源的に問い直すということになっちゃったんだよね。
いろんな意味でね。 人間について、社会について、世の中について。 私の専門は政治学だったんですけど、
そういう意味では政治について。 まあ政治ってのは人間が行う
かなり重要な営みなんですけど、結構 難しい領域なんですよね。政治学っていうのはね。
それでまあ人間の
行うことのいろんな面を
まあいろいろ考えるわけです。根源的にね。 大学院時代は、
まあ ある意味楽しかったですよね。その
もう時間
のある限り考えていればいいとね。 他の実践をしなくても基本的には考えていればいいと。
ここでいわゆる理論、理屈と実践という問題が出てくるんですが。 私はまあ理屈っぽい部分もあるんですけど、結構実践的な
性格なんですよね。やってみなきゃ気が済まない。 まあそうは言っても大学院時代は、結構やっぱり研究室にこもってね、本ばっかり読んで、人と
議論ばっかりして、いろんなことを根源的に問い直すということをやりました。 だから政治学だけじゃなくて、記号論とか言語学とか哲学とかね。
歴史とか社会学とか心理学とか。 人類学的なものとか。
とにかくありとあらゆるものをね。その自分の問いに答えてくれそうなものは、とにかくジャンル関係なく、
分野関係なく読み漁り、人と議論し、
違う分野の人とも議論をしてた。そういうタイプですね。
音楽大学への挑戦
まあそういう意味ではね、意外と学者に向いている部分もあるんだけども。学者っていう のは意外とね、
あんまり根源的に問いすぎては、学者は務まらないというところがあってね。 その辺はちょっと割り切ってこう論文を書かなきゃいけないんですけれども。
根源的に問い詰めすぎるとね、論文が書けなくなる。
例えば、修士論文書いたんです。これはとても 評価されて、よかったんですね。もう僕ももうこれで認められなかったら大学院やめて
やろうぐらいの 勢いで書いたので。
そういう意味では自分の存在をかけてちょっと書いた部分があって。当時ですね。 それが非常に評価を受けたわけね。
その論文を指導教官のところに持ってって、その後アルバイト家庭教師に行って、大学に戻ってきたんじゃない、先輩から電話があって、
たかはし研究室の前に指導教官先生の張り紙があるぞ。 すぐ来られたし。
これはね、きっと論文を読んで、こんなんだめだと言って怒られるんじゃないかと思っていたら、恐る恐る電話をしたのね、先生の家にね。
そうしたら、いや良かったよ あれでいいよって。こことここだけ直しなさいと。偉い褒められて、すごいホッとした記憶があるんですが。
その後、その修士論文を今度はもう活字にしていいと。いわゆる論文集、紀要って言いますけど。大学の
紀要に載っけていいと。修士論文をそのまま載っけていいっていうのは、なかなか滅多にないんです けど。
載っけろと言われたのを、私は拒否したんですね。 まだ満足いかないんで、載せませんと。これが私のちょっと道を誤った
最初の一歩かな。まだ自分としては納得いかないんで、
活字にはしませんって。 それでアメリカに行って、
ちょっと1ヶ月ぐらい調べごとして、それで持ち帰ってきたら、また根源的な問いが続いてしまって、なかなか書けない。今度はね。
結局、助手論文までまともに書けなかったんじゃないかな。3年間ね。そんな
思い出がありますね。 あと途中で、大学院の博士の2年ぐらいのときかな、
その指導教官の先生が、アメリカでこういう留学の話があるから行かないかって言われて、それも拒否したんだよね。
いやですと。私のやりたいことと違いますと。これもね、
だからまあ今ちょっとね、ここまで人生を送ってきて、60年。思うのは、あの時活字にね、ああそうですか、ありがとうございます、出させていただきますと。
余計な抵抗せずに素直に出して、留学の話もね、 わかりました。行かせていただきますと言ってれば、
別の大学で別の形で別の政治学者をしていたんじゃないかなと、未だに思いますけどね。
まあそれはさておき。大学院時代、助手時代はかなりどっぷりとね、根源的なことばっかり考えて 生きていれた
ある意味、贅沢な時間でしたね。 その後、私は助手3年、大学院5年助手3年終えて、
音楽大学に就職して。これがまた運の尽きだったというね。 運の始まりとも言えるんですけど。運の尽きだったのか、運の始まりだったのかは、この次の
セグメントでお話したいと思います。ではまた。 はじめるラジオキャンパス
シーズン1のエピソード7。ラッキーセブンですね。 ラッキーセブンは「自分の人生を振り返りはじめる」というタイトルにしたんですけれども、
これはこのエピソードは長くなりますね。さすがに60年生きてきたので。ようやく大学院助手時代が終わって、
これがセグメント6つ目、6個目のセグメントですが。ようやく私は音楽大学という世界に
飛び込むことになるわけですね。
私の専門は政治学で、しかも法学部という一番その文系の中でもさらに理屈っぽいね
学部で過ごしてきたわけです。しかも それが何年間だ。
15年ぐらいいたのかな、 法学部にね。どっぷりと15年ぐらいいたわけですよね。
それが まさか音大という世界に
入ってきた。 これはまあちょっと天と地がひっくり返るぐらいの衝撃でしたね。
言葉が通じないと最初思いましたね。 理屈が通じない、言葉が通じない、一体どうやって喋ったらいいんだろうっていう。
まあそれまで法学部の 大学院の連中と、あるいは大学院の先生とかと、もう理屈っぽい話がツーカーで通じる
わけですよね。それがもう普通になっちゃってたわけで。
そんな私が音大という世界で、そこの音楽の先生方とか、学生とか、話をしても通じない。なんでこっちは当たり前のことを言ってるのに、通じないんだ。
向こうからするとね、相手からすると、何この人は理屈っぽく、偉そうに喋ってんのかしらなんてね、思ってたみたいですけれども。
これは非常に困りましたね。コミュニケーションがとれない。最初の1年は相当悩みましたね。
まぁ私は最初はだから、いやこれはもう音大はちょっとダメだなぁと。
理屈も通じないし、まあ大丈夫かと。いろんな意味でね、思ってしまったわけで。ところがね、1年ぐらい過ごしているうちに、
あの意外とじゃなくて、あの要するに、自分が 自分がずっと暮らしてきた世界の方が実は、世界、
世の中全体、日本社会全体から見ればむしろ、特殊な世界で生きてきたのは私の方かもしれないと。
音大で生きている人も結構、特殊な世界で生きているなと思ったけど。お互いに 特殊な世界で生きてきただけだと、いうふうにちょっと妙な割り切りができてね。
しかも音楽っていう世界と政治学。音楽と政治っていうのはある意味、真逆のようなところが あるんですが、ところが実は音楽と政治っていうのは密接に結びついてたりも
するんですよね。私は政治学は、人間社会のアートだって言ってるんですけどね。
音楽は別の意味でアートなんですよね。 どちらもリベラルアーツとして、古代ギリシャからの起源を持っている。
政治学、哲学、音楽ね。それからいわゆる美術ね。
天文学、数学っていうのは、本当に古い歴史を持つリベラルアーツ学問の起源を成してて。その中の一つなんですよね。政治学。私は結構、そういうリベラルアーツ的なところ、
政治学とか哲学とか天文学とか数学とかね、そして音楽とか、 あるいは絵を描いたりするっていうことも好きでしたし、これは全部つながってんだと。
おおもと。人間にとってはとても大事な大本の学問。大本のこう なんだろうな、
知識というか学問っていうのは、やっぱり音楽も政治学も同じように並んでたんだっていうね。
あと体育ですね。だからこういったリベラルアーツっていうことで見れば、もう全部身につけなきゃいけないし、
古代ギリシャ人は全部身につけてたんだっていうふうに、まあ一つ割り切ったんですよね。 だからそこでコミュニケーションがとれないっていうのは、相当どちらも人間として偏っていると
いうような妙な 感覚と。もう一つが、
私、政治学者だったんで、 日本社会とか世界の政治とか論じてるくせに、
音大一つ変えられなかったら、政治学者を廃業しなきゃいけないなっていう。
政治学を語る以上はここの音大自体が 動向できなければその政治学とはもう理屈だけで頭の中だけで現実に役立たない政治学じゃないかっていう
これもまた妙な思い込みをしてしまったわけですよね。 だから、政治学者としてのプライドをかけて、この音大をなんとかしてやるというふうに思っちゃったのが、運の尽きだっていうことですね。
音楽大学での学園改革
ということでその後、何があったか。 音大に就職して、
15年後には学長になってしまったんですけれども。 何があったのかって話は、この後話していきたいと思います。
ではまた。はじめるラジオキャンパス シーズン1のエピソード7
ラッキー7は「自分の人生を振り返りはじめる」これは、私の人生60年経つので、長くなります。
今セグメントこれが7つ目になりますね。 ちょうど音大に就職したっていう話をして、そこで出会うね、
いろいろ思ったことをお話ししたんですが。その音楽大学、
私は
まあ できれば3年長くて5年で次の大学へ移ろうと。
就職した当初は思ってたんですが。 そうもならずに、どっぷりと浸かっていって、結局21年間勤めることになってしまった。
最後の方の6年間は、学長という 立場で音大に関わったわけですね。
まあ何があったのかということですけど、私がその音大に就職したのは1996年。 その頃はもう少子化が、2000年に入るとやってくると
いうことで。まあすでに始まってたんですが、それ以前の時代はもうとにかくある意味 何もしなくても受験生が来た時代が終わって、
まあいわゆる定員割れがささやかれ始めた頃ですよね。音大も何か変わらなきゃっていう、気持ちはあるんだけれどもどう変わっていいのかが
わからない。あるいは 変わることに対する抵抗もあると
いう中で、とにかくその時期に遭遇してしまったわけですよね。 まあたまたま
まあ私と一緒に その音大に就職した
先生が、まあ私より30歳上なんですが。 1年後には学部長になり、3年後には学長になりと。
6年間学長をやられたんですが。その時に
結局、私は一緒に音大改革に取り組む形になるんですね。これはもうとにかくありとあらゆることをやりましたね。
まあカリキュラムからコンピューター関係、 コンピューター教室作る、新コースの設置、
それからいろんな定員の問題、大学院改革、それから建築問題ですね。キャンパスがもう本当に
何も考えずに建増ししてきたという迷路みたいなキャンパスで。学生の動線も何も考えていない。
これをとにかく再開発しなきゃっていうのは、もう就職してすぐ気がついたんです けど。
まぁ図面、 キャンパスの図面に勝手な画を描いてたんですが。まぁそれが
10数年後には実際に実現していくわけですけど。まぁとにかく、とにかくありとあらゆることというか、ほぼすべてのことに関わりましたね。
まあ すごかったです。
21世紀に入る時。それから入ってからですね。 その後は、学生募集やら、
そして学園全体の仕事にも関わっていくと。かなりどっぷりと関わっていきますね。 そんな動きの中で、
学園全体もやっぱりねいろいろ危機の時代を迎える中で、新しい方向を目指そうとして。 たまたま私がいた音楽大学は、
他に美術系の大学ともう一つは福祉系 仏教系の大学をもってて。3つの大学を持って
るっていうちょっと珍しいんですよね。普通は一つの学校法人で、大学はまぁだいたい一つ、多くて二つ。
3つ持ってたと。これはやっぱり音楽大学という看板、それから美術・造形大学という看板、
これが 必要だったんですよね。当時ね。
立ち上げの時期にはね。その看板をどうすんだっていう。つまり3つ持つのは不効率だっていう話になってきて、
これを一本にしよう という話が出てきて。これが統合問題ですね。
札幌の音楽学科と美術学科
この統合問題が起きたから、ある意味、私は46歳で若いうちに学長に押し上げられたという
こともあるんですよね。これはもう本当に、学園にとっての危機というか、岐路ですよね。そこに完全にはまってしまって。
この統合問題の解決に、学長6年のうちの最初の2年は、完全に
すべてのエネルギーを奪われて。それがまあ終わって、よしこれから飛躍だということでね。 まあいろんなことをやりました。
音楽祭を始めてみたり、ホームカミングデイを始めてみたりね。まあそれまでにもいろんなことやってきましたけど。
まあとにかく今に続く いろんな礎はね、
その音大21年勤めたことで、たくさん残せたんじゃないかなと。まあ私自身は思ってますね。ちょうど学長任期の終わりがけには、
創立50周年の記念式典も無事に終わって。
まあ私のやることはまあほぼ終わったなと思ってたところに、札幌のとある音楽や美術を持っている大学から、学長として来てくれという
話。声がかかっちゃったわけですよね。これはやっぱり名古屋での音楽大学での 私のやってきたことっていうのは、まあ何らかの形で伝わってたんでしょうけどね。
まあとりあえず音大時代は語ることいっぱいあるんですけども、これでその話は終わりにして、また別立てでね。
音大の話をしたいと思いますが。札幌にそして移ることになったっていうのは、これ次のセグメントでお話したいと思います。
はじめるラジオキャンパスシーズン1の エピソード7。7番目のエピソードですね
「自分の人生を振り返りはじめる」の8つ目のセグメントになります。まあ名古屋の音大
の後ね、学長を辞めて1年音大にいたんですけど。
札幌の、音楽学科を唯一
持っている北海道の大学から、まあ学長として来てくれという話があって。
これは 結局、音楽系美術系
芸術系ですよね、の大学って結構難しいんですよね。 あの
まあこういう時代なので、少子化も進行し、経済先行き不透明ということになると、まあ音楽美術デザインやってれば、まあデザインはまだいいけどね。音楽、美術やってる
場合じゃないだろうっていう話にもなりかねない。やっぱ職業とね、
密接に結びつけて大学進学、進路を考える人がほとんどなので。特に 親ですよね。親がやっぱり子供の心配をして、そういう
進路選択を あまりさせたがらないというね。
音大美大に行ってどうするのという話になりがちなんですよね。まあそういう問題もあるし。もう一つは、
「日本の音大の未来を憂慮する」という エピソードでも喋ってる通り、
特に音楽系、まあ美術系もそういうとこあるんですけども。 やっぱりこう大学として、
特に音楽ですね、やっぱり狭く専門分野を捉えすぎてることで、
ニーズに応えきれてないという音大があったりして。なかなか大変なんですよね。美術系 音楽系芸術系の大学運営っていうのは。
まあそういうこともあって まあ札幌
でまぁなぜか呼ばれたわけですが。ここで結局、 札幌の大学はね、学科が4つあったんですけど。
私が一番やっぱり気になったのは、その4つの学科がそれぞれバラバラでバラバラだ というね。
壁を取り払い新しい可能性を生み出す
結局、もっとお互いに壁を取っ払って、 分野超えていろんな
相乗作用、シナージ効果ね、生み出せばいいのに。そうじゃなくて、自分の専門領域に 閉じこもってしまう。
むしろ他の学科を批判するという。
どこが足引っ張ってるとか、そういうレベルの話になってくる。 これは実は音大でも経験したことで。学科の壁、専攻の壁っていうのは、結構あったんですよね。
過去の話ですけど、最初びっくりしましたね。
なんでこんな狭いとこで、足引っ張りあってどうするんだという ふうに思った。
これは名古屋でも札幌でも体験したことで。私の役割は壁をぶち壊すことですね。 壁を壊すことが、
まあ僕の役割だと思って。それはもう名古屋でも経験したことなので。 壁さえ取っ払えば、だいぶ新しいものが生まれるし、新しい可能性が生まれるし、
学生も生き生きしてくるしね。その壁を誰が作ってるかっていうと。教員と職員。教員は学科専攻の壁を作り、
職員は部署ですね の壁を作ると。
学生に対しても壁を作る場合が多いですね。職員はね。今はだいぶ状況変わったと思うんですけれども。
やっぱ学生を中心において、学生のために教員も職員も働いているんだっていう、当たり前の姿をやっぱり実現する。そのためにはいらない壁は全部取っ払うと。
部署間の壁、学科間の壁、こういった壁はもう学生にとっては迷惑でしかないので。全部取っ払うということが大事だと思って、
まあそういうことを結局、札幌でもやりました。 あとは
各学科ごとに新しいコース作れという話をして、必ず作れと言って。それは何でかというと、同じ領域だけでやっててもダメだし。しかもそれが全然、
普遍的じゃないので。もっとウィング広げないとダメだということで。それに応えた学科と、応えなかった学科と、無理矢理従わせた学科とあったんですけども。
まあでもそれでちょっとね生きながらえたと。延命措置だけは施したかなと思ってますけどね。
よく言うのは、首の皮一枚繋がってないよという風に言って。やってきて。首の皮だけなんとか繋げて。首の皮だけじゃ困るんで、 血管何本か繋いで。
でも、首本体が繋がったかっていうと、微妙ですけどね。それは後の人に任せるしかないと思ってますが。
まあそんなわけで、とにかく4年でやることやったので。
まあしょうがないですね。あとは後の人でやるというので。じゃ頑張ってやってくださいと言うしかなかったことですけどね。
まあこのあたりの経緯は、また詳しく話すこともあるでしょう。とりあえず今は札幌で、無職でお金もなく。わんこと暮らしてるというね。
そういう人生になってるんだけど。この先 まだ60なので、最近はみんな80、90まで生きるんだよね。
あと20年も30年もあんまり生きたくないなと思いながらも。 まあどうしようかと。
年金をもらいはじめるかどうしようかと。 民泊といってもね そうそう
ねということだし。 まあどうしましょうかね。 いろいろ考えてますけれども。
自分の人生を振り返り始め
まあそんなラジオです。「自分の人生を振り返りはじめる」ということで、まあいろいろ振り返って。
振り返っているばかりじゃしょうがないので、前を向いてですね。まあ私にできることをいろいろやっていこうかなと思ってますので、
まあ何か こういうのやってくれとか、こういう仕事あるよとか、
あれば言ってくださいね。オンラインで対応できるのが一番嬉しいですけどね。まあそんなことで、自分の人生を振り返りはじめる。
エピソード7。あのポッドキャストとかラジオ配信あるいはnote配信はまだまだ続きますので
まあこれからも、まあちょっと人生とかキャリアとかに絡んだ話で、いろんな 皆さんの
なんだろうね、関心のあるテーマに応えられるものがあれば、取り上げていきたいなと思いますので、 ぜひ
あのSpotifyの方は投票機能っていうのがあるのでね。 投票とかもちょっとポチってほしいですし、あとは感想も書けるのでね。
感想書いてくれると嬉しいです。まあそんな感じで、ライブもスタンドFMで始めますので。
まあしばらくはこんなことをやりながら、 何かにつながればいいかなと思っているのが、
現時点ですね。ということで このエピソードはコンプリート。「自分の人生を振り返りはじめる」。
ではまた
50:27

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