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じゃあ、読みますね。
ちょっと飛ばしますよ。
それにしても、亡き子の詩集を前にして、この跡書を書くことになるとは何たることでしょう。
抑えようとしても抑えることのできない思いが、めめしくも突き上がってまいります。
しかも、マザウミの詩は、私にとって生きることの苦を見つめ、その底から生きているものとして追い求めるにふさわしく、
また、その生を支えてくれるものと考えられるものを考え抜き、ようやくそれを生きることの意味と題する本にまとめて半年余りのことでした。
もし、これが人生の皮肉というものであるなら、これ以上に残酷な皮肉もないと言えます。
生きることの意味など考えないで生きてたほうが良かったのでしょうか。
私は、マザウミの自主を私に与えられた罰と受け止め、私の書いた本との関連においても考えずにはおれませんでした。
そして、今、いくつかの思いに行き着いております。
マザウミの刺繍の跡書きのこの場にその一端を書き表したとしても、それをマザウミもまた許してくれるでしょう。
これ、甲子明さんって生きることの苦があったわけですよ。
それと向き合い続けて、その底から生きているものとして追い求めるにふさわしい、その生を支えてくれるものを考え抜いた人なんですよ。
それを日に出してたんですよ。
生きることの意味と題する本にまとめて出してたんですよ。
やっぱり在日としての苦しみとかもあったわけですよ。
それはすごい大事なテーマなんですけど、その生きることの意味っていう、その苦しくても生きるっていう、
この本を出した半年後に息子が亡くなった。
自死で亡くなった。
ということです。
題する本にまとめて半年余りのことでした。
息子が亡くなった。
もしこれが人生の皮肉というのであるなら、これ以上に残酷な皮肉もないと言います。
生きることの意味など考えないで生きてた方がよかったんでしょうか。
っていうふうになるじゃないですか。
今、息子の自死を罰だって受け止めてられるんですけど、
それを生まれて、この生きる生とは死とはみたいなことにもう一段も二段も深まったっていうことがあるんですよ。
それを、その一端を書かせていただきますってことで、ここから生きることの意味みたいなことが書かれていくんですよ。
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そこから?
そこから。
ぜひ読んでもらって。
そうですね。読者に読んでもらう。
あれなんですよ。
これさっき紹介したようにね。
この詩集、まさみが書いた死の手帳の表に書かれてあった言葉が、
この詩の表にも書いてるんですけど、さっき読んでた。
一人ただ崩れ去るのを待つだけっていうね。
まさに死ぬのを待つだけみたいな感じがあるんですけれども、
これ一方で、逆のことを書いてる作品もあるんですよ。
その死の手帳の中に。
ここにも収録されてます。
僕だけは絶対に死なないっていうふうに言ってる作品もあるんですよ。
矛盾した両方がこの子の中にあるんですよ。
でね、この本の一番好きな一節があるんです。
それをちょっと読みたいと思います。
読みますね。
人間は誰もがその胸の底、胸に本人ともそれと意識されない一粒の涙を抱いています。
それは、人が悲しい時や辛い時に流す涙とは違い、どんな人の胸にも、人として生まれ落ちた時、その胸底に震える雫のように置かれた涙です。
その涙は、人が悲しみや苦しみに襲われ、言葉をなくして泣く時、涙を流すその人の内にあって、共に泣いてくれる涙です。
人の優しさとは、人がこの涙と向き合うことができた時、自ら人の内に湧き出して、人の生と死を共に包み込んでくれる力に他ならなかったのでした。
そうだとするなら、人が精いっぱい生きるとは、外に向かって、その背丈いっぱいに生きようとするだけではなく、その外への歩みが同時に、人の根本的不幸への目覚めにも向かう歩みでなくてはならないと言えます。
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この前半は、いわゆる悲しい時や苦しい時に流す涙とは違う。
もう涙も出ない涙ってものがあるわけですよね。
だしさっき言ったように、普段笑ってる人の奥に、今も息づいてる悲しい涙ってものがあるわけですよね。
だから、その人が生まれ落ちた時に、その人の内にあって、共に泣いてくれるっていう、共に寄り添ってくれてるっていう。
急に泣いてくれるっていう。
さっき、寄り添ってしまうのですって言ってたのがまさにそうだと思うんですよ。
それが時計の働きというか、その苦しみに寄り添いたいという慈悲の表れか、お時計じゃないですか。
だからそういうものが、人の心にはあるっていう。
仏性があるってことだと思うんですよ。
後半のところは、「人が精一杯生きるとは、外に向かってその背丈いっぱいに生きようとするだけではなく、
その外への歩みが、同時に人間の根本的不幸への目覚めにも向かう歩みでなくてはならないといえます。」
そこはまだすっとわかってない。
これはね、読むとだんだん伝わってくるんですけど、
外に向かって背丈精いっぱいにっていうのは、どっちかっていうと、
光と闇でいう光の部分なんですよ。
生と死でいうと生の部分なんですよ。
幸か不幸かでいうと幸の部分なんですよ。
それだけじゃなくて、同時に人間の根本的不幸への目覚めっていう。
闇とか死とか幸っていうこと。
この人はさっき生きるっていうことに対して書いてたときに、
自分はやっぱりどこか苦しんでたから苦しみのこと書いてくれてるんだけども、
まだまだ見えてなかったことに気が付かされたんですよ。
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この苦しみとか悲しみの深さに対して。
だから、この人の胸の内にある涙っていうものが寄り添うごとく、
人の苦しみや悲しみに寄り添う優しさっていうものを真に育むためには、
この人間が持つ根本的不幸の目覚めがなくてはならないっていう。