1. 「大人の近代史」今だからわかる日本の歴史
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2021-12-07 32:35

第47回「渋沢栄一」近代資本主義の父

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日本に資本主義と道徳の大切さを訴えた渋沢栄一。
一橋家に仕えていたある時、フランスで行われたパリ万博博覧会に衝撃をうける。
その後、実力が評価され明治政府の民部省(大蔵省)へ。
さらに、実業家としての道を歩み、今も続く多くの会社設立に力を注いだ。
なぜ今、渋沢栄一が注目されるのか?その意味を考える。
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趣味のある行動であれば、必ずその仕事には心がこもる。
始まりました、「大人の近代史」よろしくお願いします。
よろしくお願いします。なんかあれだね、こう聞いてすぐわかる言葉だったね、今のは。
ああ、そうそうそう。これは渋沢栄一の「論語とソロ版」っていう本に載っていたものなんですね。
そうそう、これそのまんまというかさ、趣味ってさ、聞いてさ、他の人もさ、なんかいい言葉じゃん、趣味って。
自発的でさ、なんか他人からこう強制されてないような、そういうイメージだよね。
ああ、まあそうだね。
そう、だからこの行動で仕事にも接しすれば、そこになんかこうやってみたいとか、理想とか、そういうものが付け加えて、より良いものができるんじゃないかって言ってるんだよね。
なんかすごい渋沢栄一っぽい言葉な気がする。
ね、でもなかなかさ、仕事趣味みたいな感覚でできるって、むずいよね。
むずいね、だって仕事やってるとさ、どうしても仕事になるじゃん。
ね、いや俺その感覚欲しいわと思った、本当に。
ね、なんかそこには絶対義務感が出るしさ、やりたくないことも絶対出てきちゃうしさ。
うん。
なんかその会話してると、うちら本当サラリーマン感出ちゃうね。
出ちゃう出ちゃう。
だから強制的な感じだよね。
うん、まあ暗い話になりそうだよ、これ。
そうそう、朝起きてさ、トイレ行くのが趣味なんだよねってないじゃん。
ないね。
習慣だよね、それは。
そうそう、だから趣味って奥が深いね。
あ、そっち?
まあいいや、ちょっとそんなこんなで、渋沢栄一の明治に入ってからというか、近代の渋沢栄一を今回は話したいと思います。
はい、お願いします。
はい、これ27歳の時なんですね。
それまで渋沢栄一は幕府一蔦系に勤めていたんですよ。
うん。
で、その1867年になってフランスでパリ万博博覧会っていうのが催されたの。
そこに徳川義信の代理人として弟の13歳だった秋竹っていうのをパリ万博に派遣するっていうことになったのよ。
で、渋沢栄一っていうのはなんと世話役会計係として抜擢されたんだよね。
そう、これが渋沢栄一にとって本当に大きな経験というか初めての海外だったの。
でね、この万博博覧会にもちろん日本が参加するってこと自体も初めてだったの。
まあだよね、鎖国してたんだもんね、なんつったって。
そうそうそうそう。何か画期的な出来事というか、随員としてさ、33名ぐらい。
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その秋竹についてったわけよ。結構大勢で行ったの。その中の一人渋沢栄一がいたっていう。
そもそもさ、これなんで招待されたんだろうっていう理由なんだけど、
フランスってさ、その当時幕府側についてたというか、
逆にさ、薩摩とかはイギリス側についてたっていう構図があったんだけど、
そういった点からフランスから日本にね、中日大使が来てたんだけど、レオン・ロッシュっていう人がいて、
この人が万博博覧会がフランスにあるっていう話を誘ったんだよね。
日本の代表として徳川義信の弟秋竹が行ったっていうね。
その後ね、秋竹はね、留学をヨーロッパでするっていうことで滞在もするんだよ。
で、そこにも渋沢栄一っていうのはついていくっていうね。
で、パリに行ったんだけど、フランスの。
日本にさ、もし渋沢栄一がそのまま残ったとしたら、幕府と新政府の戦いがこの後起こるわけじゃん。
だからいたら命を落としてたかもしれないねって言われてる。
まあそうだよね、確かに。
そうそう、渋沢栄一もさ、農兵とかさ、兵を集めたりとかそういう活動もしてたから、
真っ先にその率先して戦いに行くんじゃないかって言われてたから。
そうそう。
だけどまあなんだろう、時代ってそう不思議なものでさ。
これに行ったことで渋沢栄一は生きているっていうのもあるよね。
まあそうだよね、それは運命だったのかもしれないしね。
ねえ、なんか不思議。
でね、このヨーロッパに向かうっていうのもさ、当時だったら結構大変じゃん。
ああ、そうだね。
で、船でさ、まあ行くわけよ。
で、ヨーロッパ渡るときに、今だったら飛行機で行けちゃうけど、
まあ飛行機はないから海で船で行くわけじゃん。
そうするとさ、エジプトの辺りでさ、今はさ、スウェズンがあってさ、突っ切れるようになってるんだよ。
エジプトからそのヨーロッパに向かうところ。
で、もしさ、突っ切れなかったらアフリカの下の方回んなきゃいけないじゃん、船で行くとしたら。
ああ、そうだね。
それって現実的じゃないから、当時はそのエジプトで一回鉄道に乗るのよ。
で、あのヨーロッパ側に出るの。
っていうのがあって、そこで初めてね、鉄道にね、乗るんだよ、渋沢栄一は。
そうそう。で、またその鉄道の素晴らしさっていうのも知って。
ガラス張りだったのね。
もちろん今、電車とかみんなガラスだけど、
そこにね、仲間がみかんを食べてて、
みかんの皮をね、ポイって捨てたわけよ、外に。
そしたらさ、ガラスだから跳ね返ってきたの。
要はガラスを知らなかったんだよ、みんな。
ああ、そうだよね。ないよね。
これ透明なのがガラスなんだっていう。
で、それがしかも跳ね返って、
みかんの皮がそこに乗ってた乗客にぶつかるっていうのがあって、
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そのコーロになってさ、喧嘩になっちゃったぐらい。
そんなエピソードがあるんだけど。
そうそう。ここでなんかガラスの大切さっていうのも知って、
後々ね、渋沢栄一ってガラス関連の会社も作ってんだよ。
で、そんな発見がありながら、このスウェズ運河っていうのは結構ね、
渋沢栄一にとっては感銘を受けて、
スウェズ運河って完成するちょうど2年前だったの。
その作業現場を鉄道から見ることができたの、窓から。
で、これさ、工事の主体っていうのはフランスのレセプスっていう民間の一企業がやってんだよ。
それにね、まずびっくりしたわけよ。
こんな大規模な工事を民間の一企業がなんでできるんだっていう。
それは今で言うこの株式なんだよね。
民間から集めたお金で成り立ってるわけよ。
こういうのって今までの日本にはもちろんないから、
すごいそこも感銘を受けて、
会社っていうのは個人の利益のためだけじゃなくて、
こういった公共の事業にも行うっていうことも学んでたんだよね。
そうそう、すごいよね。
ちなみにさ、岩倉施設団とかはもうスウェズ運河が開通した後に行ってるから、
スウェズ運河通ってるんだよね。
なるほどね。
ちょうど境というか、スウェズ運河を工事中だったっていうね。
目的はフランスのパリで博覧会に行くんだけど、
この博覧会で実はね、サツマハンも独自に出展してたの。
そうなんだ。
これちょっとびっくりで、サツマハンってさ、
若者たちとかがすでにヨーロッパとかに渡って、
ヨーロッパとの関係を模索してたというか、
あと勉強もあったんだろうけど、
行き来してたんだよね。
で、このバンコク博覧会って日本っていう特設コーナーはないんだけど、
アジアのその一つみたいなところで日本の枠があったんだけど、
実は、だから渋沢栄一なんかがいる徳川義信の弟の秋丈のブースと、
もう一つサツマハンのブースが別であったの。
っていうね、なんか不思議な構図。
ヨーロッパにとってはね、そんなにね厳密にわかってないというか、
あと幕末の混乱の時期でさ、
要はちょっとごっちゃになってるとこがあるんだよね。
そこにもちょっと幕府の統率力の無さっていうのも見え隠れするんだけど、
そんなのがありまして、この後留学もしていくんだけど秋丈っていうのは、
スイスとかオランダ、ベルギー、イタリア、イギリスとかいろんなとこ訪問して、
ほんと語学を学んだりとか勉強していくんだよね。
それに渋沢栄一は世話役として結構ついていくっていう。
渋沢栄一がここで衝撃を受けたことが、案内役のフランス銀行家のフェリエーラールっていう人がいたの。
この人がね、ビレット大佐っていう人とある日話してる会話を聞いて、
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要はさ、日本で言えば物資と商人なわけよ。
だけど日本では完全に物資が威張って、商人は減り下るような構図なの、完全に。
だけどヨーロッパはそうじゃなくて、もう対等に話してる姿が、そこに衝撃を受けたんだよね。
株式、さっき言ったスレズンガの件でも言ったけど、株式の仕組みが成り立ってて、ヨーロッパではすでに。
誰でも参加できるし、しかも匿名性というかのもあって、参加しやすいわけ。
それにその個人が、その奨学の資金でも出資が可能なわけじゃん。
だからそういったので、これを本当に画期的だし、この後ね、日本でも渋沢栄一はそれを実現させるんだけど。
で、こんなヨーロッパを受けて、もともとさ、渋沢栄一ってちょっと前までは上位、上位って外国を排除しようって言ってた人じゃん。
それがさ、もうここでガラリと完全に変わるわけよ。
尾高潤中っていう、6歳の時から学問を教えてもらってた人にね、手紙書いてるんだけど、
結局外国に深く接して学び取り、我が国のためにするほかなく、以前の考えと反対のようですが、今更日本が孤立することなど思いもよりませんって言ってんだよ。
完全にね、今もう上位っていう考えなくなってるって感じだね。
だね。
このね、ヨーロッパに行ってる間に、実は幕府っていうのは大政奉還って幕府が天皇へ政権を返した。
で、そうしたことで留学してるわけじゃん。今徳賀義信の弟が。
そしたら幕府から留学費用が送られてこなくなるのよ。
いやもうそれどころじゃないよってことだよね。
まあそうだよね。
そうそう。だからじゃあ今ある資金でどうにかしてやりくりしていこうって渋沢栄一は考えない。
で、そこで銀行家が案内役だったから、その銀行家に相談して、だったらヨーロッパの国債とか鉄道の社債に投資すると今はいいよっていうのを教えてもらって、
実際にね、投資してね、それで利益上げてんだよ。
うわ、これ投資することによって金が増えるんだみたいな。
そうそう。で、こんな体験もね、すごく貴重な体験でこの後に大きな影響を与えるわけなんだけど、
結局さ、その滞在中に徳川幕府はさ、母親戦争が始まって戸場不死身の戦いで敗れて、その後明治政府ができるわけよ。
でね、もっとね、留学って長期で考えてたんだけど、結局そんなゴタゴタがあったから1年7ヶ月で帰らざるを得なくなるの。
まあそうだよね。
そう。徳川明竹が、水戸藩主のね徳川義也津って人がいたんだけど、その人が亡くなっちゃって、
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その後ね、明竹が継がなきゃいけないっていうのもあって、帰国したんだよね。
で、帰国して明竹は水戸の藩主になった。
で、徳川義之はどうしたんだろうっていうことで、渋沢一は徳川義之の元を訪ねるの。
現在の静岡市で寸布っていうところにいたんだけど、そこでね、相談されるのよ。
明治政府がね、その時に日本初の全国の共通紙幣っていうのを発行して、打状観察っていうのを発行したのよ。
これってなんか各藩ってその時結構財政難に陥ってるところがあって、
それを助ける目的で配って、しかもその返済に利子をつけるの。
だから一応もらえるんだけど、返すのにはその利子払わなきゃいけないから、
その利子が政府の資金源になるんだけど、
これをさ、どうやったら打状観察を使っていけばいいかっていうのを相談を受けて、
これただ使うだけだったら、後で利子もつくし返済が困るし、藩が破綻する恐れもあるわけよ。
なんでそこでヨーロッパで学んだ株式の仕組みだよね、
を取り入れたんだけど、それが商法解消っていうのを作ったの。
これは本当に株式にそのものなんだけど、
出資の希望者が誰でも参加できて、利益が出れば出資金額に応じて配当金が出るっていう。
株だね。
まさに株。でもこれってすごい画期的で、もともとなかったし、
日本発火っていうのはちょっと微妙なんだけど、
その頃にちょっと他でも同じようなのができたっていう戦って、
要は海外から同じように取り入れたっていう人もいたわけよ。
これ静岡ってさ、それで今お茶どころで有名じゃん。
この時にこういう商工会議所っていうのを作って、
資金を募って茶畑っていうのを開拓してたんだ、この時に。
だから今静岡ってお茶の名産みたいな。
これがきっかけの一つでもあるんだよね。
どんどん話は進んでいくんだけど、
こんな功績が明治政府の耳に届くのよ。
静岡藩のこの活躍だったり、
あとフランス滞在中に予算管理をしていたって実績があって、
それを知った明治政府が渋沢栄一を引き抜いて、
民部省っていうところに呼ばれるの。
それは後に大蔵省になるんだけど、
今でいう財務省か。
そこで上官が大熊重信だったんだけど、
渋沢栄一っていうのはそんなに別にそこでやるっていうつもりはなくて、
辞退する意思を伝えたのよ。
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だけど説得されて徳川家の名誉のためにもやらなきゃいけない。
ような形で言われるわけ。
渋々やったんだけども、
そこで結構功績を出すというか、
貨幣制度だったり郵便制度とか、
鉄道の不設とか、
いろんな事業に力を尽くして結果を残してるんだよ。
そこで一つ富岡製糸場っていうのもあって、
群馬県にあるじゃん、今でも。
世界遺産になった。
なったばっかだよね、確か。
そうそうそうそう。
渋沢栄一が全部やってるってわけではないけど、
一応設立に関わっていて、
そこの最初の初代工場長って、
渋沢栄一のずっと幼い時から学問を教えてくれてた、
小高隼一を抜擢したのよ。
初代工場長は小高隼一なんだけど、
その後、小高隼一はなかなか最初から売り上げというか、
業績が伸び、悩んだ中で結局辞めたわけなんだけど、
次に繋いで、どんどんそれが発展して、
近代をまさに引っ張るような富岡製糸場っていうのができてったわけ。
でね、ここの政府の流れっていうのは、
また後の別の機会で。
ここで廃販知見とかいろいろやってるんだよ。
でもなんだろう、それは渋沢栄一だけじゃないから。
ということで、ちょっとどんどん進んでいくんですが、
大倉庶を辞めた渋沢栄一は、
実業界になっていくんだよね。
これもすごいなっていう思った決断がね。
だってやっぱ、官っていうのは絶対だったから、その時って。
そこに入れるってこと自体もすごいし、
まるでその地位を捨ててさ、実業界になるっていうね。
でさ、これなんで辞めたかっていろいろあるけど、
明治政府って軍の予算にどんどん使い込んでいくっていうところがあったね。
そういうなんだろう、考え方っていうのも合わなかったし、
官の力が強すぎて、
民間企業がヘコヘコしてるというか、
今でこそさ、ベンチャー企業とかさ、
企業って結構ステータスがあるけど、
当時ってそこまで全然なくて、官が絶対という世界だったから、
それを変えたいって思いもあったんだよね。
で、なんだろう、そういう民間企業こそが、
国の基盤になるべきだっていうので、
自ら企業を作っていくわけなんだけど、
ただこの大蔵省にいた財任機関4年間だったんだけど、
この機関も結果さ、無駄じゃなくて活かしたわけよ。
この4年間でさ、例えばどういう条件を満たせば、
大蔵省とこの認可が受けられるのかとか、
あとどう接したらいいのかっていうのを学んで、
1873年に最初、第一国立銀行って今の水穂銀行だね。
この設立に関わるの。
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これ大蔵省自体から準備を進めてた案件で、
だから渋沢市ってすんなりそこに入ってったんだけど、
これ国立って名前なんだけど、
実は資本金っていうのは民間から出資されてる。
そうなんだ。
三井組、尾野組っていうのが各100万円出資してて、
当時の100万だから相当長くなると思うんだけど、
これ三井って尾野って江戸時代からずっと続いてる要は豪商なわけよ。
三井って今でも知ってるけどさ、
尾野組っていうのはこの後ちょっと破綻しちゃう。
なくなっちゃう。だからみんな多分聞いてる人知らないかもしれないですけど、
渋沢市っていうのはそこで4万円だけ出資した。
100万に対して4万だから結構比率ないよね。
そうそう。だけどこの三井組、尾野組が主導権を取り合ったのよ。
自分たちが主導権を取っていきたいっていう。
そこで結構揉めた中で、
どっちにも属さない渋沢市がトップというかにしようってことになったわけ。
なるほどね。中立的なね。
中立的な。彼だったら2人も納得するというか。
渋沢市はその後も東取になっていくんだけど、
その後尾野組っていうのは破綻をしちゃうわけなの。
これはまた別でいろいろあるんだけど、
国の政策にちょっとはめられた感もあるんだけど、
三井組っていうのは生き残って、第1国立銀行を三井で独占しようっていう狙いもこの後出てくるわけ。
だけど渋沢市っていうのは合本主義って言ってさ、
一つが独占せずにいろんな企業が資金を出し合った方がいいっていう考えだった。
これで反対して三井は別の私立銀行を結局作って、
現在のそれが三井住友銀行なんだよね。
っていう流れがあります。
これ数キリがないんだけど渋沢市って500ぐらいに携わってるのは企業設立とかに。
例えば東京ガスとか、これでガス島の普及とかしてるし、
あとは紙だね。
当時もちろんインターネットとかの時代じゃないから、
媒体としては紙、新聞だったり広告、紙幣なんかも全部紙じゃん。
それにやっぱ重要な消費会社っていうのを作って、
今の大地製紙だね。
あとはインフラで言えば海運業だね。
共同運輸っていう会社。
これもその後三菱と合併して日本郵船っていう風になるんだけど、
あとは日本鉄道会社、JR東日本とか。
こうやって見ると本当に日本の産業の基盤を作ってるよね、この人って。
そうだよね。
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もちろん渋沢一が一人でやってるってわけではないんだけど、
ハード部分を作ってるって感じがしない。ソフトじゃなくて。
大枠を。
もちろんフランスに行ってヨーロッパで見たものっていうのはかなり活かされてるんだよね。
なんかすごいなって。
本当にそうだよね。
だって今言った企業、有名どころ言っただけかもしれないけれども、
みんな知ってるじゃん、それぐらいは。
知ってる知ってる。
そういう企業の設立に携わってるってだけでもすごいと思うよね。
フランスとか、例えばうちらが海外行って、
これすごい日本にないわって思ったとしても、
それを実際にやろうって実現まで行くっていうのがすごいよね。
行かないよね。
行けないって言った方が正しいのかもしれないけど。
行動力と人望も扱ったんだろうね。
やっぱ行動してかつ能力もあってっていうところも。
そうだね。
1882年にずっとこの妻だった千代がね、
流行りのコレラにかかって亡くなっちゃうの。
それで翌年、カネコっていう人と結婚してるの。
2番目の妻なんだけど、
この人がね、なんか面白いこと言ってて、
渋沢一って冒頭でも言ったけど、論語っていうのに結構影響を受けてるの。
そのカネコが言ったのが、論語とは上手いものを見つけなすったよ。
あれが聖書だったら、天で教えが守れないものねって皮肉を込めて言ってるの。
これちょっとどういうことかっていうと、
渋沢一って女性関係が結構すごかったの。
その妻以外にできた子供って結構いるのよ。
女遊びで。それは妻の千代の時からもそうだったの。
論語っていうのはさ、確かに女性関係についての道徳心とかそういうのは書いてないのよ。
そういうことを言ってるんだけど。
それが聖書だったらって話したもんね。
そう、それが聖書だったら全然教えが守れてないよねっていう。
そんなエピソード。これね、おそらくまだわかんないんだけど、NHKの大河ドラマではここは多分描かないね。
NHKやんないよね。
あのね、女性関係とかなんだろう、そこ全然触れないね、多分。
あー、だろうね。
まあまあ、それはいいんだけどさ。
もうなんかそれは裏日本史だもんね、完全に。
まあね、そこを知ってどうするんだっていうのもあるのかもしれないけどね。
当時のスタンダードだからね、それは。
そうそう、だって一番目の妻の時にさ、別の愛人とその子供をいきなり家に連れてきて、一緒に住まわしたって言ってたから。
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えー、でもそれもさ、当時からしたらまああるんでしょっていうぐらいの話なんでしょ、きっと。
そう、当時はまだ第一夫人、第二夫人とかそういう知ってる人たちっていたんだよ。
そんな感覚で、でも今だったら考えられないけどさ。
今はそんなね、渡るやばいでしょ。
いや、俺はいいよ、もう。
でね、これ急速にさ、こうやって近代になって資本主義っていうのは進んでいったわけじゃん。
そうするとさ、お金が何より大事だって、お金を稼いだやつが幸せになれるんだっていう価値観がさ、一気に入り込んだのよ。
そうするとね、ある日ね、渋沢一がイギリス行った時に、商工会議所のね、会員からね、苦情を受けたの。
で、日本っていうのはさ、他人に対して約束を守らない人が多いって。
で、いわゆるもう信用がないって言われたのよ。
それにさ、ちょっと衝撃を受けて、渋沢一ってその道徳の必要性っていうのを日本中回って講和したんだよね。
だからこれがまあ論語とソロバンって、論語っていうのはさ、論語が道徳だとしたらソロバンが経済っていう見方があるんだけど、
まあ経済だけじゃなくて道徳も大切にしなきゃいけないっていうのを説いていったのよ。
ここがこの人の一つの特徴かなと思って。
で、その後も何だろう、この人ってやっぱり利益追求だけじゃなくて、
例えば福祉だったり、関東大震災が起こった時も救援活動も積極的にやってたりとか、
あとは日本とアメリカがその当時どんどん関係が悪化していった時期でもあったの。
晩年はね。そこでその交流活動、日本とアメリカの交流に力を注いだっていう人でもあった。
そんな中、91歳で渋沢一っていうのは亡くなってしまうんだけれども、
彼が取り入れたその資本主義っていうものって近代になって一気に日本に入ってきたわけじゃん。
それまで爆反体制だったわけだから、
これ例えばロシアも資本主義を取り入れた時に大抵そんなにうまくいかなくて、
資本主義が一部の国家権力と結びついて独占するというかうまくいかない結果に日本はならなかったわけじゃん。
そういうのも渋沢一の影響もかなりあるかなと思って。
長丸はどうでしょうか。
渋沢一って言うとさ、俺のほんとに第一の印象って実業家っていうところがあったからさ。
そうだよね。
いろんな会社の設立に携わってたっていうのももちろん聞いたことはあったし、
あとは印象としては大蔵省にいた印象が強かったのかな。
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お金にすごい強い、経済に強い人っていうイメージはやっぱあって。
確かにこの人ってひとつばし家でも財政管理してたりとかさ、
そっちの方が才能があって抜擢されてるんだろうね。
結局さ、金鑑上のできるっていうのは経済に強いっていうか、
経済って言うとちょっとあれだけど、要は商売人なんだよねきっと。
そのセンスをいかん中発揮できて実業家として成功した。
実業家として成功したっていう言い方が正しいのかちょっとわからないけど、
そういうところで自分の才能を発揮できてた人なのかなっていう感じはするね。
確かに。
だってこれが例えば商人として才能を発揮できたわけじゃん。
でもさ、時代が違えば全然そんなことはできなかったわけでさ、
例えば江戸時代がずっと続いちゃうとかさ。
要は武士の時代だったらこの人たぶん埋もれて終わってっちゃったんだろうなっていう気もするしさ。
確かに。
だからほらだって別に剣術の腕がすげえめっぽ強くてさ、
それでもう名を馳せてたとかっていうレベルではないわけじゃん少なくとも。
確かに。
だからそういう意味だと才能を発揮できたのはやっぱり実力ももちろんあったけど、
すごい運の要素も強かったんじゃないかなってその時代っていうところ。
確かにそうだよね。
留学のくだりもそうだけどさ、留学できてたからたぶん戦争に行かなくて済んだとかさ、
そういうこともあったと思うし。
だからやっぱり成功するには運も必要なんだなっていう気はちょっと思っちゃったね。
これ歴史をちょっとやっててさ、歴史の流れがやっぱあるじゃん。
今言ったみたいに。
渋沢一ってさ、最近結構ホットな話題になってきたじゃん。
ちょっと前までさ、渋沢一って何した人だろうっていう感覚って結構多くの人持ってたと思うんだよ。
何なら知らなかったんじゃないのかな。
そうだよね。
教科書には載ってるんかな、たぶん載ってるけどそのレベルでしょ、たぶんきっと。
そうそうそう。
でさ、2024年1万円札にもなるわけじゃん。
かつては伊藤博文と争って負けちゃって慣れなかったって時期もあったらしいけど。
まあ伊藤博文じゃな勝てねえよな、確かにネイルバリーじゃん。
それは色んなヒゲがなかったとかそういうのもあるんだけど。
そうなの?
まあそれもあるんだけど、なんでここでさ、今例えば渋沢一がスポットを浴びてるのかって考えるとさ、
なんか例えば今さ、利益だけ追求するっていうんじゃなくてさ、
企業ってさ、社会的責任とか結構意識が高まってきてるわけじゃん。
あとアメリカでも日本でもそうだけどさ、優秀な人って結構ベンチャーで自分から会社を作っていくっていうような流れがあるよね。
なんかそんなことでさ、渋沢栄一って人が今この時代になってまた呼び戻されてきたんじゃないかなって。
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あーちょっとスポットライトをまた浴びることになったって感じかな。
そうそうそう。だから吉田松陰的に言うんだったら、
なんで今渋沢栄一がこうやって注目されているのか、その意味を深く考えるって感じですね。
まあなんかでも言わんじゃしてることはわかるというかさ、なんか俺もそれはそう思うね。
なんだろうな、バブル時代とかさ、要はちょっとそれよりも前の時代ってさ、
なんていうんだろうな、会社のさ、結局犬というかさ、サラリーマンで稼げっていった時代じゃん結局。
どんどんいれば消去していくしさ。
でも今ってもう別に給料なんて上がんないでしょ、普通にサラリーマンやってるだけじゃん。
確かにね。
だからそういう能力があっても給料上がんないからっていうんで、自分でじゃあ起業しよう。
さっきの話になっちゃうけどさ、起業しようだなんだっていうところで、
ベンチャースピリッツ見せたりっていう感じになるんだけど、やっぱ時代がそっちなんだろうね、今。
渋沢栄一が多分それでさ、クローズアップされたっていうのもあると思うよ、確かに。
面白いよね、歴史の流れね。
だからこれがね、全然また時代が違えば渋沢栄一何それみたいな感じにまた戻っちゃうかも。
確かに。そんなこんなで結構考えさせられるような渋沢栄一でした。
最後まで聞いていただいてありがとうございました。
ありがとうございました。
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