1. ゆいなわさんの「聞く人」ラジオ
  2. V.54 安西農園・安西淳さんに..
2023-11-26 1:05:04

V.54 安西農園・安西淳さんに聞く「俺は人が好き」

今回は、安西農園・安西淳さんにお話しを伺いました。
千葉県館山市で6代続く農家を営まれている安西さん。
元は農業が嫌いだった、という、「え、そうなの?」というところからお話しははじまり、百貨店の丸井でお仕事をされていたことや、好きなこと、これからの生き方についてなど、様々にお話しをいただきました。
安西農園:⁠https://anzai-farm.com/
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ゆいなわさんの聞く人ラジオ 皆さんこんにちは、ゆいなわさんの聞く人ラジオのお時間です。
今回は、安西農園・安西淳さんにお話を伺いました。 千葉県立山市で6代続く農家を営まれている安西さん。
元は農業が嫌いだったという、「えっ、そうなの?」というところからお話は始まり、百貨店の丸井でお仕事をされていたことや、好きなこと、そしてこれからの生き方についてなど、様々にお話をいただきました。
お仕事ですね。それの話をする前段階というか、なぜ今農業をやっているかというと、私もここの土地に生まれ育って、農業者として我が家6代目になるんですね。
家業なんですよ。明治の時代くらいまで家計図をさかのぼってみるとやっておりまして、当時明治時代なんかは、ひいひいひいおじいちゃんくらいですか、今は冬場なんかは種を蒔いて芽を出させるのに温度が足りないんで、電熱栓とかで芽を出してるんですよね。
熱で。電気なんかないじゃないですか。
明治時代はなんと、牛糞とか馬糞の発酵熱で芽を出したり、あるいは当時日本は石炭に結構偏ってまして、石炭でいろんなものを動かしたり、熱を作ったり。
その後はクンタンっていって、石炭の燃え残りみたいなものを熱で植物を発芽させたりして、それが6代前くらいの。
なので、かなり優秀だったらしく、俺と違って。
そんなこんなで農業家庭に育って、皆さん見てわかると思うんですけど、農業の盛んな地区で、立山市の中では一番農業の盛んな地区なんですよね。
この地区で小学校、中学校ということで、ここの地区で長男に生まれると、我々の時代ギリギリかな、親は洗脳してくるわけですよ。
03:04
お前は長男だよ。お前は農業をやるんだよ、みたいな。
しかしながら、なんで私が最後だというかというと、私以降の人間たちは、親の先導がないんですね。
何が言いたいかというと、親御さんたちは、これからの農業はダメだと。自分たちがやっても大して儲からないから、農業をやらずにサラリーマンになりなさいと。
そういう親の教えになっていったんですね。
ユーチューバーは逆だったんで、逆に俺はそれを突っ跳ねようとして、東京に行って働く。
10年間、駅のそばのマルイというデパートで、マルイの社員だったんです。
1987年に入社しまして、最初は新宿のファッション館と言いまして、伊勢丹のマルイマル。
そこに入社で3年半、不塵用品部門で働きまして、その後、茨城の水戸店がリニアロープを迎えると。
そこで新開店プロジェクトとして、水戸には5年いましたね。新開店して2年。
水戸で結婚してるんです。いわゆる社内恋愛でした。
今もそうなのかな。マルイという会社はわりと古風なところもあって、同じ店で結婚すると、移動させられちゃうんですよね。
漏れなく私も結婚を川崎店に移動しまして、うちの妻が国分寺店に移動しました。
それが入社して8年目、9年目くらいでしたね。
1年間川崎店でやって、やった頃から、ちょうどゴールデンウィークでした。
父親が脳梗塞で倒れたと。入院したんですぐ見舞いに帰ってこいという連絡が親戚からありまして。
で、帰ってきて、もうワッて言っても過言じゃないですよね。お前どうするんだと。
農業をやるのか、それとも実家に帰ってきて他の職業をやるのか、帰らないのか。選択しなさいと。びっくりだった。
実は自分としては農業が嫌いだったんです。
なんで嫌いかっていうと、当時昭和ですと農業の良くないほうの産経って言われるとね。
きついとか。
そういうことも言われてた時代なんで。正しくそうで、小学校の頃を思い返すと、
夏休みとかサラリーマン家庭ですと家族旅行とか当時ぐらいから行ったりしてるんですよね。
06:01
ただもう農業家庭ですと家族旅行すらない。親と泊まりの旅行なんか1回もないですね。
それほどやっぱり日々の仕事が大変なのと、重労働でそれどころじゃないと。
それにしてはサラリーが低いというような状況だったんで、それを目の当たりにしてたんで、こんなのはもう絶対嫌だった。
俺は東京に出て人肌あげるんだと。そんな感じだったんですね。
しかしだからその親父の病気で帰ってこざるを得なくなった。
むしろ洗脳が効いてたわけですよね。
親も嫌いじゃなかったですし、この土地も嫌いじゃなかったです。
ただ農業はどうするかというところで、実はいろんなメディアなんかの取材では言ってるんですけども、
最初今100床目ってあったじゃないですか。
俺帰ってきたの今から26、27年前なんですね。
その当時立山市にはコンビニが1軒しかなかったんです。
コンビニ建ててやろうと思ったんです、あそこで。
あ、そうなんですね。
実は丸井の同期の和世田から来た方で、島さんっていう方だね。
すごく仲良くしてもらってた方がいて、その方が丸井を辞めてセブンイレブンジャパンの本社に行ったんですよ。
その方にどうかなって話したら、
当時は割と無償で交通料のセブンイレブン独自の調査みたいなのをしてくれたんですね。
調査した中では車の数はローカルにしてはあると。
ただ、下りの方があるんで。
下りだとそこカーブきついんで止められないと。
ああ、場所の速度の問題ですね。
なのでちょっと厳しいんじゃないのって言われて諦めました。
その後に、あ、そうだ、観光地。
当時1980年くらいから90年にかけて、観光で宿泊するって、ちょっとお金持ってるとホテル、お金持ってないと民宿、あるいは旅館。
その後にペンションっていうのが現れそうになって。
今でもここの土地、ペンション。
ペンションはかっこいいよね。
確かに。
3000万くらい借金して、あれしたらできるのかなっていう話を、この近くのペンションオーナーに聞いたんですね、飛び込んで。
そしたらもう、受注客声を揃えて、今からはやめろと。
なぜか、アクアラインができて、ここの土地も被害の土地になってきたと。
泊まる客が少なくなってきたのと、バブルもはじけていて、景気がこれからどんどん悪くなるであろうと。
そんなのを踏まえて、ペンションって作りが作りですので、わりと修復するところが多いらしいですね。
それさえもできないことになるよっていう話をされたので、ペンションダメかと。
09:03
そういうふうにやってる中でも農業を少し手伝ってたんですね。
感じたことが、やっぱり自分が思ってた通り、なんてずさんだ商売なんだと。
簡単なところでいくと、うち今からレタス畑になるんです。
隣の隣の農家さんが今レタスを植えつけてます。
この辺一旦レタス畑になるんですけども。
なんと、レタスのシーズンが終わるまで、今年はどのくらい儲かったか分かんないんですよ。
なんとなく儲かってるなっていうのはいいんですけど、計算しないんです。
計算しないとどういうことが起きるかというと、
レタスを作ってるんだけども、このレタスは1個あたりいくらの原価でできてるかっていうのが分からないんです。
ただ農業は少ししょうがないところがあって、いわゆる相場制って言われてるように、自分で価格をつけられないんですね。
市場がセリで落とした金額が、そこから何パーセントか引かれた金額が自分の収入になるから。
今年はレタスたくさん植え付けたから収入も上がるぜじゃなくて、
その年に例えば台風とか何もなく豊作だったら、需要と供給のバランスが崩れて100円するものが50円になる。
そういう形になるので、そんな商売あり得ないと。
やっぱり自分で作ったものは自分で価格を決められなければいけないというところで、
20代後半だったので、この辺の外食とか宿泊業で野菜を使うところに飛び込み営業をしたんです。
なわんけ30件近くやったんです。
もう断られることを覚悟で言っているのと、当時丸井で売り込みをしていたので、断られてもダメージが低いんです。
そうかそうか、経験があるから。
そんなところで30件、1件ぐらいしかヒットしませんでした。
しかしその1件は今でもお付き合い頂いています。
で、何がダメなんだろうなと。
もう話がボンボン流れていっちゃいますけど、すみません。
なぜやったかというのは、あまりにも農業がずさんだったから、
俺がここの土地の農業で流通を変えてやろうと。
まあね、若いからこそそういう無謀なことが言えたんでしょうね。
それで父親はもう杖、その後は車椅子になってしまったので、農業の勢力としてはゼロでした。
で、母親がまだ元気でしたので、母親と祖母がまだ収納したばかりの時に生きていました。
祖母、母、自分と、あとうちの妻が多少手伝ってくれて。
ほぼ3.5人ぐらいの力ですかね。
12:01
農業を始めて、やっぱり祖母も母も農業をしていたんですけども、
基本的な大事なところは全部父ばかせだったんで、やっぱり俺がやろうとすると失敗の連続でしたよね。
ぶっちゃけ10年近く赤字でした。
人件費を換算すると赤字でした。
何がダメなんだって赤字の時にずっと考えてたんですよね。
ちょっとこれからの農業は自分で作るだけでなく、売らなければいけない。
売るということは自分の、一応やってきた前職の職業でもある。
そこをクローズアップして考えていくと、
そうか、やっぱり自分、安財農園というものをもっと世に知らしめなきゃいけない。
いわゆる販売促進ですよね。
たまたまですけど、収納して2年目に中央市場という東京の一番のちょっと偉い方から、
イタリアの空豆の種をもらったんですね。
イタリアの空豆。
ファーベっていうんですけど、他も作ってないですね、ファーベは。
日本の空豆ってこのぐらいの粒で、さやの3つぐらい。
そういう感じですね。
イタリアの空豆はこんなに長いんですよ。
粒は小さいんですけど、8粒とか9粒とか大きいのが入っていて、
それをイタリア人は生で食べるんですね。
ちょっと味の濃いヤギのチーズとかで流し込んで、ワインで。
それが初夏の風物詩らしいんですよ。
そんなことを市場の仲介さんから聞いて、嘘だと思ったんですけども、
お前東京設立してるんだったら、千歳のイタリア人オーナーシェフのお店行こうぜ。
そのオーナーシェフに大絶賛されたんですよ。
これが日本で買えるのか。
お前ぜひ頑張って作ってくれ。
その後に、日本農業新聞という業界誌がありまして、
農業新聞にそういうことを記事してもらったんですね。
その農業新聞を見て、NHKさんが当時、
今やってる番組ですけど、金曜日の夜10時半くらいからやってる
王様の食卓という番組がありまして、
当時、今でも現役でやってるおじいちゃんアナウンサーで、
クリーンアナウンサーというアナウンサーと、
アシスタントがジュディオームさんでした。
その番組にそら豆で出てくれと。
どんな番組かというと、ある農産物一つをクローズアップして、
食べ方だとか、調理方法とか、保存法とか、
産地はどこでどういうふうに作られてるみたいな話をね、
取材する番組で。
35分番組で、俺、VTR10分くらい流してたんですよ。
当時、クリーンアナウンサーが、
こなまえきだったからでしょうね。
面白いと。
もし東京を制圧して渋谷のNHKのスタジオに来れるんだったら、
15:02
遊びにくいって。
この番組は35分くらいだとNHKは一本撮りやるんだと。
一発撮りなんで。
それはすごくためになるから、見に来いって言われた。
俺も生意気だったけど、クリーンアナウンサー、俺見に行くから、
スタジオ弁当増やしてくれよ。
そんな話をして、渋谷にうちの妻と行きました。
たまたまその時のゲストが、
イタリア人って結構豆が好きで、
イタリアの豆、イタリア人、思い浮かぶのが一人いると思うんですけど、
チョイワル親父のパンセタ・ジローラモさん。
ジローラモさん、当時まだチョイワルとか言われてなかった時代です。
まだね、イタリア語講座やってるくらいかな。
その時のゲストがジローラモさんで、
収録終わった後にジローラモさんが近づいてきて、
お前がこの種作ってるのかと。
そうですと。
やっぱりね、この豆っていうのはすごくイタリア人にとってはソウルフードだし、
イタリアの若者たちも今ね、ワインのために一生懸命ブドウ作りやってると、
お前も日本で一生懸命頑張れみたいなことを言われて、
今度なんか機会があったら一緒に仕事できたらいいねって言われたんですよ。
ただまあその時は芸能人社交じりだろうなぐらいにしようと思ってなかったんですよね。
ただそこから半年後に、
ジローラモさんがプロデュースするCSのテレビだったんですけど、
スローフードっていう言葉が当時流行っていたんですよ。
どんな言葉かというと、
我々はよく、例えばマックとかそういうもの、ファーストフードとかですね。
スローフードってそれの範囲語ではなく、
もうちょっと意味合いが違って、
食に対してこだわるとか、
食に対してじっくり会話も交えてゆっくり食べるっていうよりも、
楽しむっていう方なんですよね。
それ英語ですけども、
イタリア初のことなんで、
割とその時ブームで取り出されてました。
その番組を作るのに、
こだわりの農家っていうところでテレビを出させてもらったんですね。
それが2本目だったかな、NHKの次に。
そうするとちょっとわかったことがあって、
テレビに出ると、
当時はまだネット社会ではなかったので、
20、25年くらいかな。
電話とかがすっごい取り出せなくて、
うちにちょっと商品を入れてくれんの。
いや、俺金額付けられないから、いくらでもいいから。
いいねなんですよ。
日本でなかなか買えない。
じゃあ普通のそのままキロ500、600円だけど、
1000円でいい?
1000円なら安い。買うと。
このテレビ出演って、
お金のかからない販売措置じゃん。
気づきましたね。
実はそこから、
18:00
今年にかけても、
NHKあるいは民放送も含めて、
38本テレビで。
わーすごい。
皆さんのご存知な番組、
例えば鉄腕ダッシュとか、
夜の番組だと、
夕方の相場学ぶとか、
金スマとか、
昼間の昼なんですとか、
ご飯ジャパンとか、
それはダメとか、
ほぼほぼそういうの出てるんですよ。
あとニュースで特訓する人とか、
その度その度に問い合わせで、
お客さんが増えるんですよ。
そうか。
面白いなと。
で、俺はちょっとそこでも理念があって、
俺はそこでテレビに出るときに、
もちろん安財農業を広めるために出てるんだけど、
それだけじゃ面白くない。
この地域をコマーシャリングしたいなと思って、
試すんですよ。
こういうふうに取材があるでしょ。
取材の中で、
これずっと立山って言葉を20回以上使おうと。
ああ、なるほど。
頭に入れて。
実はですね、私が住んでる立山がですね、
この立山の大地をね。
意識的に入れていくわけですね。
そうなんです。
それを続けていったんですね。
で、みんなそれ知らないんですよ。
また安財がテレビ出やがってと。
だから間接的に地域をコマーシャリングしたいし、
プラスこんなことがあったんですよ。
この辺で取れるレタス、
一応ブランディング一生懸命して、
カンベレタスっていう。
ああ、もちろん知ってます。
ありがとうございます。
カンベレタスって昔言ってなかったんです。
そうですよね。
今から20年前は、
カンベのレタスとかね、
そういう言い方。
カンベさんのレタスかな。
実はカンベレタスって、
私とそこに大パピラージュっていう知覚的物があるんですけど、
そこの社長とブランディングして作った。
あ、そうなんですね。
これあんまりね、
市民で知らないんですけど、
農協さんも後出しじゃんけんで。
ああ、そうなんですね。
で、まあまあ、
そのカンベレタスという名前を、
俺は広めたいと。
レタスに関しても取材がうちに来る。
テレビに出る。
その時に、
俺は立山の冬レタスとか、
安財農園に作るレタスと言わないで、
もうね、本当に30回くらいカンベレタスって言ってたんですよ。
ああ、はいはいはい。
したら、
閉めたと思うことが起きたのが、
よくテレビ番組って、
料理番組、
あるいはその、
なんだろうな、
地方の、
なんか特殊なものを放映する時って、
上の方に顔写真が出て、
要するにコメンテーターみたいな。
ワイプみたいになるんですね。
専門職の人が、
よく喋るじゃないですか。
その時は料理研究家の男性の方が、
ここのワイプで、
喋ったんですね。
野菜はこういう風に食べると美味しいんですよ、みたいな。
その人が、
21:00
なんと、
このレタスはですねって言わずに、
このカンベレタスですねって言ったんですよ。
よし、ここまで来たなと思いましてね。
そんな楽しみも自分の中だけで探りつつ、
自分をブランディングしていきながら、
商品を広めていったというような経緯があります。
やっぱり自分も何年かやっていると、
いろんなところに呼ばれて、
ちょっと話してくれみたいな時には、
先ほど言ったように、
工業製品はやっぱり販売元が金額を決めるんだと。
農産物もこれからは自分で金額を決める世の中にして、
自分で金額を決めなければいけないのは、
絶対に創液の分岐点を下回っちゃいけないんだよと。
利益は取らなきゃいけない。
利益を取ろうとして付けた値段で、
もし売れなければ何かが悪いんだと。
儲けすぎなのか、
こだわりがないのか、
販売の仕方が悪いのか、
どこかしらですね。
値段を下げるのは簡単だと。
そうではなくて、
どこが悪いんだってことを考えることを、
農業もしなきゃいけないんだよっていうことを、
いろんなところで講演で言い続けてきたから、
結構面白がられて、
そのとき30半ば過ぎでしたからね。
いろんなところで講演しました。
そんな感じで農業を始めました。
長いですね。
これだけで15分しかかりました。
ああ、そういうことなんですね。
じゃあもうやっていく中で、
試行錯誤を重ねていきながら、
例えばレタスというものをブランニングしていったりとか。
そうですね。自分のトウモロコシをブランニングしたり。
そっかそっか。
もうそこの時点では、
しっかりと農業をやって、
その前の丸井の経験も活かしながらって、
そこの経験は大きいですよね。
大きいし、
俺は他の人と違うことをやれているのは、
全て丸井さんのおかげです。
俺実は、
大好きな会社だったんです。
俺ここで、
今コーヒーやってますけど、
父が倒れてなかったら退職までいようと思って。
まあまあ考察で入ったんですけど、
そこそこ出世頭で、
例えば当時80年代後半に、
新宿店で自分が、
丸井行かれたことあります?
もちろんです。
丸井のカード持ってらっしゃいます?
カードも持ってないですけど。
さすが。
いや、断るの大変なんです。
丸井のカードを、
俺月にお客さんから、
120何枚獲得してるんです。
そんなのギネス持ってたんです。
今ほら、カードの携帯も変わっちゃったみたいで、
取り消されてるんですけども、
当時90何年まで、
丸井新宿店ファッションカーの安西潤が、
ギネスをずっと、
抜かれてなかったんです。
24:01
そんなことだったり、
丸井って、
面白い話なんですけども、
今はどうだかわからないし、
大丈夫だと思うんですけど、
昔は今みたいに、
セッカラ、パワハラ、コンプライアンスなんか、
ゆるいもんで、
丸井も当時は、
ノルマがすごいきつかったです。
洋服を売らなければいけないセクションにいながら、
エアコンをなきゃいけないです。
すごいですよね。
丸井ってやっぱり、
なんであれだけ、
いけたかっていうのは、
一つにやっぱり、
ブームに乗れたっていうのもありますよ。
DCブランドでね。
ブームに乗れたっていうのもあります。
それより何より、
カードの会社で、
キャッシング、
クレジットの支払いっていうところも大きいですよ。
それより何より大きいのが、
物販を何とか伸ばそうっていうところでの、
既存の社員にかなりノルマがあった。
そういうことですね。
5月、6月で、
エアコン1人1台売らないと評価が落ちるんです。
ボーナスに影響するんです。
そんなことがあったんですか。
だからみんな、
雑貨売り払うだろうが何だろうが、
エアコン売れないと自分で買うんです。
当時インバーターエアコンが、
安くても25万くらいする時代です。
俺も18、19で入社して、
売れるわけないじゃないですか。
ちょうどその時姉が結婚したんで、
結婚の祝いとして、
インバーターは買えなかったんですけど、
17、18万のエアコンをプレゼントしましたよ。
思いました。
こんなことやったらこの会社に入れないと。
何とかしなきゃと。
何とかしなきゃと思ってる時に、
やっぱり性格はこんななんで、
東京の新宿にいたらチャラチャラ遊んでるわけですよ。
仲間もたくさんいまして。
遊んでたあることに気づいたんですね。
当時はディスコブームでもあるし、
夜通し遊んだりすると、
女の子たちの友達が、丸以外のね、
職種が割と限定してくるんです。
看護師、今の。
なぜ看護師か。
実は看護師って、
やっぱり東京の方だと、
総合病院で大きい病院だとかだと、
2抗体、3抗体の病院で、
夜中勤務しなきゃいけない。
そうすると当時20代でもかなりいい金もらえてたんですよ。
家庭がいいんですね。
プラス、みんなそうすると人入り暮らしをするんで、
当時はマンションアパートって、
エアコンって標準装備じゃなかったんですよ。
自分で入れなきゃいけないんですね。
なるほど。
昼間寝なきゃいけない。
3抗体で、夜出勤しなきゃいけない。
それを知っちゃって、
やっぱりね、
27:01
清水会っていう催し物があるときに、
電話隊とか組まれて、
今はね、割と電話でいろんな、
おしゅうりに分かってくるじゃないですか。
それもどきを丸々やってたんですよ。
それは丸井のカードの顧客に対してだから、
割と喜ばれるんですね。
あるとき上司に、
ちょっと売り場での時間、
案内1時間抜けさせてくれと。
俺今年必ず、
ここの自分のセクシャンの女の子たちの分のエアコンも、
必ず制約させてあげると。
だから上司に頼むから、
2週間でいいから、
1時間ぐらいくれと。
本当は今は絶対やったらこれなんですけど。
当時丸井ってカードの会社なんで、
カードのデータがごっそりあるわけですよ、情報が。
それで、
アパート、一人暮らし、看護師。
それも、
中堅より大きい病院。
それのデータを1000件ぐらいゴソッと抜いてきて、
1件です年は。
それすごい。
それで20歳でやりました。
1000件以上かけたかな。
1週間やったんで。
そしたら、
当時チャラっとした部分もあったんですけど、
若い子たちなんで、
30人ぐらい来店してくれたんです。
来店しても買う制約率は全然低いわけじゃないですか。
最初のうちに来店したら電球売り場に預けてきたんですけど、
やっぱり電球売り場の人たちのセールスの力が弱いなっていうことが分かったんで、
ある時から、
そのお客さんが帰るまで、
電球売り場に俺も一緒にいたんです。
なるほど。
あいづちと、
もう対抗ですよ。
褒め言葉と、
ぜひこれでもう夜中ガンガン働きますよね。
昼間寝られる。これ最高ですよね。みたいなイメージをね。
スケジュールをわっきんで、もう対抗です。
その20歳の年、
エアコン11台売ったんですよ。
すごい。
20歳で。
その年、
当時まだ丸岩本社ビルなかったので、
中野が本社だったので、
中野サンプラザで、
そういう記念パーティーとかは、
入社式もサンプラザでした。
で、
エアコン達成なんとか記念パーティーで、
全店で、
2番か3番でした。
で、表彰されて社長から。
で、
商売ってこういうものなんだ。
やったらこういう風にバックになって、
今回その時はずるいことだったけど、
頭を使って、
30:02
そういうコツさえわかれば、
こんな楽もない俺でも、
立ち打ちできるじゃんと思いまして、
そんなことがあって、
それをやらせてくれた上司もありがたかったし、
こんな俺に一生懸命、
自分の時間を作って、
教育してくれた上司達にも感謝ですし、
なんせ社風がすごく良くて、
本当に楽しい時間を10年過ごさせてもらった。
なので、
丸井出の10年は、
俺の中では宝です。
そうですね。
今でも、
例えば大学の、
ゼミの生徒たちが、
うちに農園に来ました、研修。
あるいは企業研修も俺は受けてるんです。
いろんな会社の企業研修生の人たちに、
丸井出の引き出しをあげて、
そこからの知識、知恵をその人たちに与えると。
昭和の時代の知識、知恵でも、
教育という部分だと割と通用するんですね。
そうですね。
そうなんです。
って話をいただけるんで、
本当にありがたい会社でした。
そっかそっか。
やっぱりそれが今のお話が、
今の農業にもすごくつながってますし、
丸井さんが実際に、
すごく戦略的にちゃんと考えて、
戦略的かどうかは分からないですけども、
とにかく当時は、
本当に新宿店の同僚、
同じ売り場の同僚で、
新入社員なんか、
俺のすぐ近くにいた先輩は、
先輩って同期なんですけど、
年先輩じゃないですか。
千葉大で、
板垢役させてもらってたのは和瀬だと、
日大の人もいたけども、
あと、
整形の人がいたり。
なんかボロボロすげえ大役なんですよ。
そういう人たちと対等とお話させていただいたのと、
そういう変な、
言いにくいとかね、
これ言ったらカッコ悪いだとかなく、
何でも聞けましたね。
よく先輩に言われました。
今しかないんだぞと。
お前が年を経てから、
知らないことを聞くのは恥ずかしいことだと。
だから若いうちに何でも聞けと、
よく言われたんですよ。
安西、お前見てると思うよ。
馬鹿さと若さは紙一重だなと言われてね。
いい言葉じゃん、先輩。
そっか。
そんな経験をさせていただいて、
そういうお付き合いをさせていただいているので、
今でもそういう方々とつながっています。
36、37年経つんですけども、
今でも年に1回、
何年かに行って、
その先輩たちに会いに行ったり、
あるいは会いに来てくれたり。
そうですね。
本当にだから、
33:01
そこでですね、
本当にそこがなければ、
例えばそのまま高校を卒業して、
ここで農業をやれば、
それはまた全然。
失礼な話かもしれないですけども、
胃の中のカーズになってしまって、
いくら何を言おうと、
外を知らないということはやっぱり、
なんか小さいことにね。
大きい商売をしても、
小さい考えになっちゃうのかなと思っていて。
そうですね。
そんな形で農業をしているんですね。
そういうことですね。
なるほど、すごく。
よくわかったって言ったらあれですけど、
やっぱり丸いに行った時には、
その後の農業のことにつながるとは、
当然思っていないわけですし。
やろうとしてませんでしたからね。
そうですね。
それがやっぱり後々に生きてきて、
今はすごく生きてるっていうお話が、
そうかっていうのはすごく思いましたね。
今でもやっぱり課題はいっぱいあるわけじゃないですか。
そうです。
そういうものに対して、
ちゃんとアンテナを張って、
安西さん自身がアンテナを張って、
考えていくうちに、
ちゃんと気づきがあって、
これはこういうことかもしれないぞ、
それにちゃんと行動に移して、
やっていく中で解決していくということが。
もともと何だろう、
課題に対して一生懸命本を開いて勉強するとか、
あるいはそうだな、
カチャカチャカチャカチャパソコンで検索する、
今は少しやりますけども、
当時はそういうことがあんまり好きではなかったので、
人から学ぶ、
人から盗む、
もう本当に職人肩着の学習の仕方で、
あの人ってすっごいものがいるけど、
何だろうね、
覗き込んで、
それで、
これが俺より優れてる、
これが俺がやってないこと、
なんであそこのレタスがうちよりいいレタスなんだ、
この人手間かとか、
ここを気をつけて日光を渡るようにしている、
本当に当たり前のことかもしれないんですけど、
やっぱり人間、
基本的にはめんどくさがる動物ですので、
そこをどこまでめんどくさがってよくて、
どこまで手をかけなきゃいけないかという、
その分岐点が先輩を見たり、
できる人たちを見ると、
よくわかります。
そうか。
じゃあもう今はそうやってやってきても、
でも、
何だろう、
いろいろ、
僕を紹介してくださった岡本君とか、
やっぱりいろいろお世話になってますんで。
そうですね。
岡本はね、
本当に、
何だろう、
一番最初は、
俺多分この地区で岡本、
農業始めようと決意して、
こっちにまだ引っ越さずに、
四国にいるときに、
彼と俺会ってるんです。
そうなんですね。
どんな話かというと、
彼が農林水産省を退社して、
36:00
農業面白そうだな、
着手したいと、
それで俺素人だから、
有機栽培やるためにはどうしたらいいか、
四国のほうって結構盛んで、
そこで、
有名なとこですよね。
有機塾じゃない、
ずいぶん有名なところで修行してきたんですよね。
高知の。
高知の。
で、
修行してる最中に、
立山ってどういう農業やってるか、
あるいはどんな人がいるかっていうところで、
農業の技術機関で、
千葉県農業事務所っていうのが、
阿波の合同調査の中に入っていまして、
そこに岡本が訪れたんですよね。
で、
その農業事務所の職員が俺を紹介したんですよ、
はなし君なら。
岡本君よりちょっと年老いだけど、
安西君のとこ行ったらどう?
で、電話がありまして、
何月何日何時ごろいいですか、いいよって。
彼その時に、
さなぐらかなんか住んでたんですけど、
自転車で来たんですよ、ここまで。
え?
それもママチャリで。
え?
うわ、やべえ、変わったやつだった。
こいつがあんまり関わりたくないなと思いましたね。
で、
話していくと、
いや、そうじゃなくて、
根っからの天然で、
何もかもがゼロベースだから、
こういうことができちゃうんだなって気づいて、
よし、なんかあったらアシストするから、
困ったら言ってくると。
ただ、俺と岡本は農業の形態自体が違うので、
技術的なことはだめだけども、
例えば農業資材とか畑管理とかは、
有機栽培だろうが、こういう観光栽培だろうが一緒だから、
なんかあったら言うところで。
そうですね、
いろんな団体でイベントをするときとか、
岡本と一緒にやったり、
あるいは岡本は今南坊主オーガニックっていう団体に就職していて、
彼は一周回って、またそこの町をやってるみたいなんですけど、
それは立ち上がったときに、
彼が一番最初にオーガニックのトップをやってたんです。
なので、当時は割とオーガニック仲間も多かったので、
いろんな人たちが集っている中で補助金とかも取ってきて、
公演やるんだけど喋れる人がいないので、
安西さんと一緒にやってくださいと。
こっちからもそれをオファーした。
本当にタイムリーな話ですけども、
先週の金曜日か、ちょうど1週間前ですね。
夜、岡本小泉ちゃんと娘ちゃんと、
39:04
一緒にご飯を食べながら飲んだんですよね。
知ってました?今、立山でさえ沖縄の店ができたの。
知らないですよ。
知らないですよ。
下町になるのかな、そこ。
そこにできまして、岡本が行ってみたかったんだみたいな話で。
小泉ちゃんもやっぱり沖縄の諸島の方らしいけど、
旅したことがあって、沖縄料理が好きでみたいなことで行ったんですね。
本当に結婚したい、自分の子供が欲しいっていうことをずっと言い続けていて、
みんなからいろいろ言われたり馬鹿にされたり、そんな経緯の中で、
自分で見つけて、ああいういい子と結婚して、子供を作って、
その子供が歩けて喋れて、ギャーギャー騒げてっていうところを目の前にしたときに、
もうなんか泣きそうになりましたよね。
しみじみしちゃって。
そっか。
岡本、本当に良かったなっていう気持ちになれて、
なんだろうな、美打ちのような気持ちになれて。
彼はほら、そういう空気感持ってるじゃないですか。
うん、わかります。
優しい、なんだろうな、独特の。
俺はそういう岡本の空気感で癒されて、それをもらってるから何か返したい。
返すためには何かなっていうところで、そういうふうに仲良くして、
何かあったら一緒に楽しんで一緒に苦労したいなっていうのがあって。
そうか。
実は40代の頃とかはいろんな野望もあったし、
いろんなことに取り組んで、例えばNPO法人を起こしたり、
今リンダッターになっちゃったんですけど、
いろんなことを仕掛けてきたんですけども、
この50代に入って、すぐに自分の妻が癌になって、
糖病生活で1年半で亡くなって、
そのものが失われた部分で見えてきたところもあったんですね。
俺ってやっぱり発泡美人、いいカッコいいのところがあって、
自分の時間、家族の時間を割いてでも誰かのために何かしてあげたいみたいな。
それは農業者であっても、他の普通の仲間であっても、そうしてきちゃっていたんですね。
それが俺はいいことだと思って、美徳だと思ってたんです。
自分の妻を亡くして、自分を見つめ直した時に、
いろんな人からもいろんな話を聞きました。
やっぱり仕事をやらなかったところがもう数ヶ月続いたんで、
42:01
いろんな人とこういうふうにお話しに行ったんですね。
ある人に言われたんですね。
何かに言われました。
安沢君は生き急いでるよと。
なんでそんなにバチャバチャ生き急ぐんだと。
もっとゆっくりゆったり生きて、自分らしく生きてみればどうだと。
別に誰にもいい顔しなくたっていいじゃないかと。
なんかこの人付き合いづらいなと思えば、別にフェードアウトしたっていいし、
この人といると上がるな、この人といると利益になるなと思う人と一緒にいて、
自分を高めればいいじゃないかみたいなことを言ってくれたんですね。
そこでハッとして今それを実践し始めると、本当に楽しいんですよ。
そういう心意気というか、精神状態でいるから、
岡本先生の時にそういう気持ちになれたのかなっていうところもあって、
やっぱり妻が命かけてそういう財産を俺に与えてくれたなと思って、
多分ね、いろんなことを端折っちゃってるんで、今俺。
言う人は、あいつ何やってんだ、これもやりもしないでみたいなことも言われたり、
あいつやり方なんだよ、あいつのやり方はとか言ってる人もいるかと思います。
現に多少話も聞こえてきます。
ただ以前はすっごいそれや話が聞こえると憂鬱になったんですよ。
今は全然憂鬱にならないですね。
申し訳ないと。申し訳ないっていう真摯的なスタンスはとるけども、
申し訳ないけど俺もうできないよと。
俺は俺の生き方で生きるから。
それで付き合えるとこだけ付き合ってください、すいませんって素直に謝れて、
素直に自分の行動に自信を持てるようになりましたね。
50代になってそれができるようになったのはすごく大きくて。
だからこそ、今実はすごい忙しいんですよ。
なんですけど、昨日丸一日、あるいは今日の午前中まで行ったりできるような時間をあえて取れるような。
もちろん今後の野望もあるし、やりたいこともたくさんあります。
そんな中で、さっき言った、俺は農業者であることは今後も続けなきゃいけない中で、
やっぱり今は教育って言ったらおかしいんですけど、研修等で子どもたちと仲良くなって。
面白いんですよ。今の学生たちってお利口さんっていうか真面目な子たちが多いんで。
例えば明治大学の子たちとか、3年生からゼミが始まるんです。
3年、4年ってだいたいそうですね、うちで来る子だと5、6回その2年で来るんですね。
45:01
そうすると、4年生で後半になると、
安西さん、ゼミ関係なく俺個人的に行っていいですか?とか、
私ちょっと相談があるんですよ、彼のことで。
個人的にいいですか?とか、その代わりは条件二つ。
一つは、うちの手伝いは半日以上はしろ。
もう一つは、お前は泊めてあって、飯もご馳走してやるから金使うな。
竹山に来て金使うな。その二つは守れ。
いうようなことをずっと、自分でも嬉しいなと思うのが、卒業してからも来るんですよ。
安西さん、今忙しいっしょ。
一泊二日でいいから行っていいかな。その代わり、彼女連れて行くからちょっと家泊めてな。
なるほど。
そういう時には大宴会ですよ。
そういう関わりもあるので、俺もたまには子どもたちのとこ行かなきゃな。
それが始まった時期は、皆さんもご存知だと思うんですけど、
2019年の台風。
あれで学生ボランティアが、俺数えたら11校内に来てるんですよ。
変わってるとこだと、国際キリシスト大学ICUとか。
あんなとこ農業関係ないじゃないですか。
あと、東大の法学部とかね。
あとは、ちょっとお利口さんだと、上智も来てるし、慶応も来てるし。
わすらは来てねえんだよな。
西大の農学部出た女の子2人は、1人は全然違う職業で、東京消防庁に勤めてるんですけど、年2回は必ず来て。
海が好きな子なんでね、手伝っていってくれたり。
そんな、もう一番上の世代は27くらいに、26になるくらいで、
年間何日くらいだろう。
延べ、学生相手するの、20日くらい。
もちろん仕事の中ですからね。
それが楽しいのと、それが楽しい理由はもう一つあって、
自分も実は、子供が実はうち4人いるんですよ。
で、実は長男、長女は双子で、23歳で。
長女が今、いろいろあったんだよ。妻のこととか。
まだ大学、23だけど3年生で。
渋谷の青山学院に大学に帰っていって、
息子が、俺はもう勉強なんかしたくないって。
彼は卒業して、東電のグループ会社で、東京エネシスとかいう会社で、
48:02
火力・水力・原子力の建設とメンテナンスをする会社らしいんですけど、
だから彼は一生懸命図面引っ張って、
親切なとこで、現場監督みたいなことを若い時からやって、
下請けのオッサンドも使うの大変でしょうけど、
休みもなく働いて。
でもね、びっくりしたのが、また親若いなんですけど、今23歳で、
実はね、うち長男と、今家にいる19歳の次女は、中学不登校してるんですよ。
半分ぐらい行ってないです。
でも長男は、高校はここから立山総合高校、どこにあるか分かりますよね。
大体分かりますよね。
あの、なんて言ったらいいのかな。
えっと、夢庵。
夢庵、はいはい。
自転車で3年間通ったんですよ。
それもママチャリで。
うわ、またそこにもママチャリの人。
で、まあそれだけで、
友達がいたんで、友達と3年間通えてよかったねっていうところで、
いろいろなところを開館したんですよね。
で、まあ就職してから、
あ、高校の時バイトしていて、
で、まあまあ就職の時に、
いろいろ買うものは買い揃えるよと。
プラス、最初の給料が出るまでお金ないだろう。
20万ぐらい元気なの持ってくかって。
何言ってるの、お父さん。
俺バイトしてるからお金あるよ。
でもまあ5万とかそのぐらいだろう。
よく、高校の時ちょっと使ったけど、
それでも30万ぐらいあるかなと。
え、30万ぐらいお前持ってるの?
持ってる。
持ってると。
すげえなと思って。
で、まあ下の娘たちに買っちゃったりしてるんですよ。
で、就職してから、まあ優しい男なんで、
帰ってくれば下の娘たちがねだるんで、
こんなことがありました。
去年ぐらい。
今の若い子ってさ、車に興味ないんですよ。
分かります、それは。
我々時代はすごい興味ない。
違いますよね、そこは。
でも去年の夏ぐらいに、
ようやく車に興味が出て、
お父さん、松田のCX-5とかあれかっこいいよね。
いわゆるクロカンと言われる。
あれお前みたいなの似合うんじゃねえ。
欲しいの?って言ったら。
ちょっと欲しいと思ってて。
で、中古で、
それだったらちょっといいの、
もう22があるんだから買えばいいんじゃねえかと。
俺半分ぐらい出してやろっかと。
51:00
欲しかったら230万したんですよ。
そしたら、え、いいよ。
キャッシュで買うから。
ちょっと待ってろと。
230万キャッシュって、
お前さ、去年4年目だったんですよね。
就職4年目で、どのぐらいもらってんの?って言ったら、
俺仕事さ、休みはねえんだよね。
でもお前ブラックブラック言ってんじゃん。
それでも仕事休みなくて、
30ぐらいもらってんの。
何言ってんの、先月は、
残業代ボロっと入って42万とか言ってて、
なんだそれみたいな。
そうなんですね。
使うことは使ってるんですよ。
人に対して投資もしてるし、
車はキャッシュでキャッシュしてる。
そのぐらいちゃんとお金にしてる状態があって、
まあちょっとね、長寿金使い主なんで、
青箱だし。
で、まあ事情が今ちょっといろいろあって、
家でバイトで、
で、下はまだ中3で。
一番下はね、ちょっといろいろ前に出ることが好きで、
生徒会やったり、
バスケットでキャプテンやったり、
頑張っていて、
まあ引退して、
進学進路ですけどね。
そういう子供たちと接してると、
やっぱり今の大学生って同世代じゃないですか。
その勉強になるんですよ。
こいつみたいなやつってこうなんだ。
じゃあこういうふうに接してみればいい。
自分の子供に対してはこう言えば納得できる。
そっかそっか。
で、その中でもちょっとこいつ優秀だから
うちの娘と話しさせてえな。
そういうね。
なんで、今や俺の若い子たちの仲間、ブレンは、
優秀なやつ東大の方学部から出たやつから、
東京消防庁がいるし、
それこそディズニーランドの中で働いてるのもいるし、
いろんな方面で活躍されてて、
六本木である飲食店長やってるのもいれば、
すごく幅が広がったし、
子供たちに紹介して、
子供たちも今後、
お父さんそういうふうに仲良くしてくれててありがとうと、
すごくこの人たちと付き合うとプラスになるなってことは言ってくれるのかな?
思ったんですけど、
皆さんってやっぱりこういうことやってるんだって聞き上手ですからね。
急に?ありがとうございます。
はいはい、一応こんな感じなんで。
やっぱ話しやすい人たちもいるじゃないですか。
すごい上手ですね。
54:00
あと一つぐらい質問していただいて。
じゃあ、好きなことって?
好きなことですね。
何ですか?
今までやっぱり学生時代から社会人、
結婚して子供ができてって、
いろんな趣味も持ってたし、
いろんな好きなことがありました。
でも、総称すると、
もちろんこういう体してるんでスポーツも好きです。
ただ、一言で言えば、
俺は人が好きですね。
よくいろんな人に、
人ったらしって言われるんですよ。
そういう言葉が今使われるじゃないですか。
俺わからなかった、意味わからなかった。
人ったらしって女ったらしみたいな。
女ったらしだからしょうがないかみたいな。
そんなですけど、
逆に今は人ったらしって言われることがちょっと嬉しかったりして、
人と関わるのが好きで、
もちろん人と関わった時には、
昔はね、孫徳なしに関わって、
それでいいじゃないかなって。
今はお互いに、
俺と関わることで、
あなたも何かプラスになることがあって、
俺もあなたと付き合ってプラスになることがあって、
その中で仲良くなる。
この仲良くなったのからどんどん輪を広げていって、
あなたとは全く関係ないところで、
ここで仲良くなった人がいるんだけども、
あなたとすごく合いそうな人がいるみたいな。
そういう人の、
プロデュースじゃないですけど、
ご縁をつなぐというか、そういうことですね。
それが割と楽しかったりしますよね。
学生同士をつないで、すごく仲良くしてもらってもいるし、
やっぱりできる人を見てると、
そういうことが上手ですよね。
やっぱり今回お世話になった明治大学の本庄教授、
本庄ゼミの先生も、
やっぱりそういうプロデュースが上手で、
同い年なんですよ。
同い年ですけど、
あまり秘的な存在というよりも、
やっぱり仲間という感じではあるんですけども、
優秀すぎるので、
本当に学ぶべきところがたくさんある仲間。
本当に尊敬できます。
本庄先生も安西さんみたいな、
そういう農業って本当はかっこいい職業なのに、
かっこ悪く見せちゃってる大人たちがいると。
でも、かっこいいんだよって見せてくれる大人って素敵なんで、
学生を連れて行きたいんですっていうことを言ってくれたり、
俺はこれでいいんだなって思わせてくれたり。
なんで自分も上がるし先生も上がる。
57:02
これはすごくお互いにいいよねみたいなところで。
あとはね、好きなこと、良しとすること。
よく格言であったり座右の銘であったり、
そういう話ってあるじゃないですか。
こういうインタビューでもよく聞かれるんですけども。
例えば、仕事で行くと、
これやっぱりマルイの時から、
自分と座右の銘にしてる言葉がありまして、
気を見るにびんっていう言葉で。
気を見るにびん。あんまり聞いたことないと思うんですけど、
ググれば出てきます。
これは諸説あるんですけども、
中国の当時ね、昔の戦国時代の武将が言ったとか、
日本の戦国時代の武将が言ったとかいう話であるんですけど、
どういうことかというと、
気を見るに木は機械の木です。
びんはびん商。
商品のびんです。
要するに、チャンスっていうのは毎回巡ってこない。
ここチャンスと思ったら、
ああ、そういうことか。
チャンスと見極めたら、
何も考えず行けば。
そのタイミングはその時しかない。
気を見るにびん商に。
春びんに。
それは商売において本当にあるなと。
もちろん、現在情報社会においても、
どんどんいいものが変わっていく。
あるいは人間も変わっていく。
ここだと思った時に、
動ける人間でありたいなというところで
稀にいる頃から、
それが商売としての機材なんですね。
そっかそっか。
あと、自分が今、
いろんなこういうプロデュースしたいんですとか、
こういうふうな販売促進してますとか、
こういう仕事ぶりです、
人を連れますみたいな話の中で、
そこでの格言じゃないですけども、言葉は、
大見商人が発した三方よしっていう。
ああ、三方よし、はい。
有名な話なんですけど、
よく今ね、仕事の現場、ビジネスでは、
それだとウィンウィンな関係でいれるよねと。
ウィンウィンですと、やっぱり
二方向がいいっていうだけじゃないですか。
やっぱり世の中は絶対、
線じゃなくて面で動く。
やっぱりこことここがあったらもう一つがあって、
やっぱり面で動いていかないと、
組織も動いていかないんじゃないか。
あるいはお客さんもちゃんとつかめないんじゃないか。
例えば、自分が物を作る。
自分が託す業者がいる。
お客さんがいる。
三者がいいねと。
例えばそのいいねが、
金銭的に儲かっていいねもあれば、
買って満足度でいいねもあると。
1:00:02
いいね満足っていうのは、
いろんな意味合いがあるので、
そこで3人がいいねを出せば、
3ポイをして出るよねっていうところで、
そこはいつも、
いろんな人が持ってくる企画だとか、
あるいは自分が打ち出そうとする企画、
仕事に関して、
まずそこを考えますね。
これって誰がいいと思う?
俺?
あと誰?
業者の違う3つが、
いいねと思ってくるんだなと思ったら、
よしそれ。
そういう考え方で動いてますね。
あとやっぱり物の見方で、
これは丸井の時にね、
上司に教わった話で、
やっぱり物って遠くから、
近くで一生懸命こういうふうにね、
細かい物を見た後は、
必ず遠くから見なさいと。
ミクロとマクロとかね。
そういう言葉で教えられたんですけども、
そうすると物の本質が見えてくるよ、
っていう言葉だったり、
あるいは何かをやる時には、
人、物、作であったり、
人、物、金であったりね、
それの順番で物事を進めていきなさいと。
案罪なんで、
最初どっちも人が来るか分かるかと。
一番人が大事だからっていうことをね、
教えられたり。
そうか。
あとはやっぱりね、
あれです。
それこそみんなマルインの女子の話なんですけどね。
結局、
自分が何かしたいとか、
動かないと周りの人はやっぱりね、
見てくれないというか、
まずは自分でやりなさいと、
チャレンジしなさいと。
それがチャレンジで、
動けた、チャレンジできる形になった時と、
チャレンジし終わった時、
要するに結果が出ても出なくても終わった時には、
絶対に感謝しなさいと。
これは上司に本当にたどきこまれて、
失敗してもうまくいかなくても絶対感謝しなさいと。
当時、やっぱり子供だから分かんなかったですよね、その見合いが。
今は本当によく分かるんですけども、
感謝しなさいと。
あと、やっぱり仕事っていうのは、
段取り。
計画7部、実行3部とか言うけど、
当時の上司は、
段取り8部、実行2部だと言ってました。
とにかく全ては段取りで決まると。
それだけ頭を巡らせて、
こうなったらこう、ああなったらああ、
いろんな形を想像して、
段取っておきなさいということは習いましたね。
それは仕事でもプライベートでも全て一緒で。
1:03:04
いろんな言葉を教えてもらったこととかが、
ものすごく安西さんの中に入っていって。
そうですよね。
それを実行して成功すると、こういうことかって。
そうですよね。
しつこいようですけど、あんまり勉強してこなかったので。
体験しないと。
失敗しないと。体験して失敗しないと覚えない。
そうですよね。
自分の体を通って出て、体験し始めていく。
いい言葉だと思います。
すごい。
いやいや、全然すごくはないですよ。
素晴らしい。
いいことって何がいいんだ。
悪いことって何が悪いんだということの本質を見ていけば、
それは人間が悪いんじゃなくて、その事柄が悪いわけで。
人間ってもうね、大悪党っていうのは何かいるかもしれないですけど、
そんなに南暴走にはいないし、自分の付き合いをやる人はいないと。
だったら、よくなかったことはちゃんと客観的に見て、
真摯的に対応して、後々続くようにしていこうよっていうところが。
おっしゃる通り。
それでもダメで、いいかなと思うところはね、
この年になると結構ありますけど。
そうですね。
丸井での経験を生かし、安西さんならではの農業を続け、
今では多くのメディアにもご出演をされています。
そして、「俺は俺の生き方で生きる。今は素直に自分の行動に自信を持てる。」
と力強くお話しくださった安西さんの言葉がとても印象的でした。
安西さん、ありがとうございました。
それではまた次回、結城直さんのキクヒトラジオでお会いしましょう。
01:05:04

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