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幕末に徳川家の家臣として数多くの重要な役職に付き、活躍した「小栗忠順」
特に西欧列強を参考に日本の近代化の基礎を築いたと評価されている
ただ最後は討幕派に捕らえられ、斬首という悲劇的な最後を迎える
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00:04
スピーカー 1
大隈しげのぶは言った。我々が今やっていることは、小栗の模倣に過ぎない。
始まりました。大人の近代史、よろしくお願いします。
スピーカー 2
よろしくお願いします。
ああ、なんかもうこれ今日のテーマは、大隈しげのぶとか?
スピーカー 1
いや、違う。
スピーカー 2
あ、違うの?
いや、もうみんなちょっと期待してると思うよ。
スピーカー 1
これは、あの、さっき小栗のって言ったんだけど、小栗光助之助、忠政です。
スピーカー 2
誰だっけ、それ。
スピーカー 1
そうなんだよね。あんまり知らない人は知らないかもしれないっていう感じの。
ちょっとね、あの、個人的に今、ベロの裏側をね、切っちゃって、ちょっとね、喋るのつらいんだよね。
スピーカー 2
ベロの裏側?なんでそのとこ切る?
スピーカー 1
いや、なんか食べ物で切っちゃったんだよね。
本当に食べ物かな?
スピーカー 2
なんだ、それ。
小ヶ太郎と言ったら舌使いのね、名手じゃないか?名下?と言われてるからね。
スピーカー 1
いやいや、なんでちょっと聞き苦しいところがもしかしたらあるかもしれないんですけども、
まあ、いつもあんまり滑舌そんな良くないんで、まあ大丈夫かもしれないですけども、よろしくお願いします。
スピーカー 2
了解です。
スピーカー 1
はい。
ということでね、この小栗光助之助、忠政っていうのは、
幕末に徳川家の家臣として、数多くの重要な役職について活躍した人物で、
特に西洋列強参考に日本の近代化の基礎を築いたっていうふうに評価されている部分があるんだよね。
ただ、この人で最後は明治政府に捕らえられて、残死となって殺されちゃってるんだよね。
火災道具なんかも多くが没収されちゃって、彼に関わる資料の多くが残ってないのが現状なんだよね。
これね、死後84年後にね、群馬県で小栗の日記や家計簿なんかが見つかったっていう出来事があって、
そこにね、ネジ2本が見つかったんだよね。
スピーカー 2
ネジ?
ネジ。
スピーカー 1
ネジって回すあのネジ?
そうそうそう。そういうの大切に保管してたんだろうね。
うん。
そんなところから物語はスタートしていきたいなって思ってます。
ということで、この小栗っていうのは旗元の家に生まれるんだよね。
旗元ってさ、国高でいうと1万石未満で、将軍にお目見えできる立場なんだよね。
で、お目見えできない家臣っていうのは御家人っていう扱いになるんだけども、
この小栗はさ、一般の旗元と違って数多くの役職に就いてるってところが特徴なんだよね。
外国武行にしても環状武行、陸軍武行並み、軍艦武行とか海軍武行並み、他にもね、たくさんの役職に就いてるんだよね。
彼ってその率直な言動から役職を避免されるってことも多々あったんだけども、有能なためまた役職に就いてたりするんだよね。
03:07
スピーカー 1
しかもね、環状武行に関しては4度も任命されていて、こういう人っていうのは幕府でも結構異例なんだよね。
そんな彼が一体何をしたかっていうのを、彼のやった主な功績というかところを絞って話したいなって思ってます。
1つ目が彼は日本とアメリカとの通貨の交換比率問題に対する対応を行ったんだよね。
これはね、1858年の日米収購通商条約、不平等条約と一般的に言われるもので、この時に領事裁判権とか関税自主権がないっていうところがよく取り出されるんだけども、条約の中には貨幣の同種同量交換っていう条項が盛り込まれてるんだよね。
これは何かっていうと、同じ種類の通貨は同じ量で交換するっていうような内容なんだよね。
例えばアメリカの銀貨、当時はメキシコドルなんだけども、この4枚のドルを日本の銀貨に交換するとして、
日本の銀貨っていうのは一部銀貨っていうのが使われていて、これと4枚のドルを交換すると、銀の量からいって12枚の一部銀貨になるんだよね。
で、この12枚の一部銀貨を日本の金貨であるコバンと交換すると、コバン3枚になるんだよね。
で、この3枚のコバン金貨をもう一度ドルに戻すとどうなると思う?
スピーカー 2
金が増えるでしょ。
スピーカー 1
そうそう、12枚のドル銀貨になる。
4枚のドルだったものが12枚になっちゃうっていう、もう3倍のドルとなって帰ってくるっていう謎の錬金術が行われてたんだよね。
これは一体何が起こっているのかっていうと、この問題は日本の一部銀貨の価値が正しく扱われてないことによるんだよね。
ちょっと時代を遡ると、17世紀後半には幕府の財政が逼迫してきて、これは金銀の産出が減少したことだったりとか、将軍の浪費とかもつながって財政が逼迫していたんだよね。
そこで幕府は一部銀貨の銀の量を少しずつ減らしていったんだけども、価値はそのままにしたんだよね。
あくまでも一部銀貨は金貨の代用で補助的な役割だから、この一部銀貨に幕府の犯罪をしてあれば銀の量に関係なく価値があるっていうことにしたんだよね。
これって今の紙幣の考えと同じで、紙の材質量で見たら1万円の価値はないけど、国が1万円だと認めて、それをみんなが1万円だと信用しているから1万円なわけなんだよね。
06:07
スピーカー 1
江戸時代にすでにこういった先進的な価値観で貨幣を運用していたんだよね。
これは当時幕府は金銀の採掘権を握っていて、一般に金銀が出回ることもなかったし、幕府という絶対的な信用があって成立してたんだよね。
だから日米収購通商条約を結ぶ際に、日本側はこの貨幣の同種同量交換を提案された時に反対をしたんだよね。
だけど交渉約のタウン・ゼント・ハリスをはじめ、アメリカにはその考えが理解できずにそのまま条約はアメリカの主張で押し切られちゃうんだよね。
この時期でイギリスフランスが真と第二次アヘン戦争をしている最中だったし、そういった武力行使の恐ろしさっていうのもあったかもしれないし、そういったわけでいわゆる不平等条約というものが結ばれたんだよね。
結果、開港した横浜港では外国商人らが大量にドルを日本の通貨と交換し始めたんだよね。
日本の小板金貨が海外流出してしまうという事態が起こって、または日本の商品をそのまま3分の1の値で買いちゃうっていうのもあったりとかして、すごく幕府を悩ませたんだよね。
これちょっとエピソードがあって、日米州交通省条約の交渉約でもあり、その後初代中日領事として日本へ滞在したタウン・ゼント・ハリス本人の記録なんだけども、
ハリスの年望は当時5000ドルだったんだって。で、貯蓄として年額6000ドルをニューヨークに送金していたって自分で記録を書いてるんでね。
収入より貯蓄が上回ってるわけ。ハリスは合衆国との交わせ相場のおかげって言ってるんだけども、これは要するに明らかに日米の通貨交換によって設けていた証拠なんだよね。
で、この日米通貨の交換比率の問題は幕府はずっと抱えていたまま、1859年に日米州交通省条約の批准書の交換を行うために日本の施設団がアメリカへ向かうってことになったんだよね。
批准書っていうのは、条約に対する国家の同意を示す文書を交換し合うみたいな、そんな感じなんだけども、
そこに政史・新民正之と副史・村垣則政で、目付けに小栗忠政が選ばれたんだよね。
幕府はこのアメリカ行く機会に日米交換比率の調査を小栗に依頼をしたんだよね。
これは新民とか村垣じゃなくて、あえて小栗に頼んで、なぜだったら彼だったらその通貨の本質を理解してこの問題に向き合えるんじゃないかっていうところを評価されたんだと思うんだよね。
09:09
スピーカー 1
ちなみに目付けって、施設団のそれぞれの仕事ぶりを見て、例えば徳川将軍に報告する役目を担ってたんだよね。
元々は江戸時代より前から目付けっていうのはあって、戦場の手柄を本人が自己不信国しただけだと恩賞に預かれなくて、目付けが観察役として戦場全体のバランスから判断して手柄を保証するっていう役割があったんだよね。
昔からこういう目付けっていうのが根付いている日本なんだけども、アメリカではこの小栗の目付け役っていうのが理解されずに、当初は新聞でこれなんて訳されてたと思う?
目付け、え、わかんない。
これでスパイって訳されてたんだって。
この目付け役ってなんだろうっていうのは当時もアメリカは結構不思議がってたんだよね。
これ思ったんだけど、今では企業とかでも監査する部署とか監査法人なんかあるじゃん。
まさにこれって目付けがやってたことに近いんじゃないかって思ってきちゃって。
スピーカー 2
監査が近いだろうね、イメージ的には。
スピーカー 1
そうだよね。日本はそんな昔からやってたんだっていうね。
スピーカー 2
将軍に報告するっていうあたりがちょっとあれだけどね。
スピーカー 1
確かにね。この日本の施設団って万円元年憲兵衛施設って言われる施設団なんだよね。
川崎沖からアメリカの軍艦のポーハタン号に乗って出発をするんだよね。
その日の空はよく晴れ渡っていました。
スピーカー 2
このワードはどっかで聞いたことあるな。
スピーカー 1
どっかでね。
スピーカー 2
天気のこと言ってた気がする。
スピーカー 1
そう、これが本当に書いてあった。
このポーハタン号に随行して出発した関林丸。
こっちの方が結構有名なんだよね、今だと。
今日は関林丸じゃなくて、ポーハタン号に乗ってる小栗の方に注目をしたいんだけども。
彼ら施設団っていうのは、サンフランシスコからパナマ経由で東海岸側のワシントンへ行って、
それでホワイトハウスに行って批准書を渡してるんだよね。
それからフィラデルフィアの造兵局にも訪れる機会があって、
ここで小栗の裏の目的っていうか、通貨の交換比率の調査を行ったんだよね。
アメリカ側は日本が単なる視察だと思ってて、
そこに小栗は日米通貨の分析比較試験を行うことを主張したんだよね。
彼には考えがあって、日本の補助通貨である一部銀貨の量を、
12:00
スピーカー 1
日本の本位通貨であるコバン金貨とアメリカのドル金貨、金貨同士で比較分析したいっていうふうに伝えたんだよね。
アメリカは、これただ分析の方を知りたいだけなのかっていう、ちょっと分かんなくて、
両国の金貨の一部を削り取って分析しようとしたんだよね。
そこに小栗は金貨一部じゃなくて、両国の金貨を丸ごと要解して成分比較を行うことを要求したんだよね。
これにアメリカは動揺して、なぜならドル金貨っていうのは銅なんかの不純物が多く含んでいることを知ってたから、やりたくなかったんだよね。
アメリカ側が分析には時間がかかるって言って、逃げようとするんだけども、
小栗はそこで何度も粘り強く交渉して、何度もNOって突きつけたわけよ。
まさにNOと言える日本人だったんだよね。
スピーカー 2
小片郎も言えるもんね。
スピーカー 1
NOと言える日本人、言えないよ。
この粘り強い交渉の結果、翌日から金貨善良の分析実験が行われることになったんだよね。
小栗は分析は朝から夕方までかかったんだけども、その間その場から離れずに、昼食もその場で食べたぐらいなんだよね。
さらに小栗は天秤ばかりを持ち出して、同行している仲間の一人はソロ版なんかを出して複雑な計算をし始めたんだって。
これにアメリカ側は驚かされて、ニューヨークタイムズの当時の記事なんだけども、
彼らの一貫した忍耐強さは鋭さ、知性、集中力と相まって現場にいた人々に感銘を与えたっていうふうに書かれるぐらいだったんだよね。
金貨の分析実験が終わって、その結果は両国の金の含有量は両方ともほぼ同じだったんだよね。
ただ、日本の金貨にはアメリカの金貨より銀が多く含まれていて、そのため少しだけ価値が高いってことがわかったんだよね。
だからアメリカの通貨が日本で通貨交換することで3倍の価値になってしまうっていうのはおかしいことを証明したんだよね。
ただ、小栗はそれ以上の通貨の交渉までは委任されてなかったから調査だけして帰国するってことになった。
ここで重要なのは、アメリカ側に通貨交換比率の矛盾点を認識させた点と、
日本人が通貨に対して高い分析能力があるってことを示したことなんだよね。
ただ、その後一度結んでしまった条約の貨幣の同種同量交換っていうのはやっぱり覆すことができなかったんだよね。
そこで幕府は対応としては、小判の金の含有量を約3分の1にした万円小判と呼ばれる金貨を発行することで対応したんだよね。
15:09
スピーカー 1
ただ、これをしたことで日本国内の貨幣のバランスが崩れちゃって、物価が上昇しちゃうっていうことになったんだよね。
これが彼のやったことで有名な一つ目なんだけども、二つ目が横須賀造船場の発案と計画実行したことで、これが一番最も有名かもしれない。
これも私節団としてアメリカへ小栗が行った時に、いろんなものを見たのがきっかけなんだけど、その中でワシントン海軍造船場を見学したんだよね。
ここには船体とか蒸気エンジン、ボルトとかナット、砲弾、ドアノブにしても、艦船に必要なあらゆる鉄製品が製造されてたんだよね。
日本は昔からタタラ製鉄っていう、少量ながら鉄は作ってたんだけども、アメリカのように大量の鉄を反射炉とかで溶解して鉄を量産できる施設はなかったんだよね。
さらに驚いたのは蒸気船の動力は蒸気機関なのは知ってたんだけども、その蒸気船を作る工場の動力もまた蒸気機関だったんだよね。
これはアンパンマンを作ってるジャムおじさんもまたパンが好きみたいな感じなんだよね。
スピーカー 2
それは全然わかんないんだけど。
スピーカー 1
この時にオグリーがボートで行ったネジを持ち帰ったんじゃないかって言われてる。
他にもこのアメリカではあらゆるところに鉄が使われていて、施設団として同行してた木村鉄太っていうのがいるんだけども、
彼が記録したのにホテルの垣根はすべて鉄でできてるっていうふうに驚いた様子で書かれてるんだよね。
日本ではこういったのって竹とか木の板なんかで作ってたから結構いろんなところに鉄が使われてるってことに驚くんだよね。
個人的にちょっとここで驚いたのは名前がこの人さ、鉄太って鉄に太いって書くんだよね。
なんかすごくない?
スピーカー 2
今言ってもそんなにああそういう人なのねぐらいじゃないの。
スピーカー 1
なんかこれうまくできてるなと思ったの。本当にこれ見た時。
スピーカー 2
鉄話題だからっていうことかな。
スピーカー 1
日本に帰ってきたオグリーっていうのはその後環状部業になるんだよね。
幕末には幕府は外国で作られた軍艦をいくつか保有するようになっていて、
その軍艦が故障したら日本には修理する造船所がなかったから上海とかジャワとかに船を運んでいたんだよね。
これだと大変な時間とか費用がかかる。
そこでオグリーは自国で造船所を建設するってことを構想するんだよね。
18:02
スピーカー 1
これに爆心には造船所建設に反対する意見っていうのも多くて。
勝海舟なんかその代表なんだけども、彼はまずは船を運用する人材を育成するべきだっていうふうに主張したんだよね。
何より造船所には莫大な費用がかかるわけで、幕末の幕府にはお金がなかったんだよね。
これは将軍家持ちの上落費用だったり、生麦事件でイギリスへの賠償金もあったし、第二次長州征伐の費用もあったし、
ドーラの中の軍事物資の購入にも多くのお金を割いてたんだよね。
こんな状況下で幕府存続自体も不安視されていた時代に、オグリーが言った有名な言葉があって、
これがね、いずれ売り出すとしても土蔵付き売り屋の栄養が残るっていうふうに言ったんだよね。
スピーカー 2
全然よくわからなかった。
スピーカー 1
これどういう意味かっていうと、売り出すっていうのは徳川政権を手放すっていう意味なんだよね。
徳川政権がたとえなくなったとしても、造船所っていうのが土蔵付き売り屋だと思ってもらって、
この造船所を一緒に残してやれば、きっとそれは徳川の栄養になるよっていうふうに言った言葉なんだよね。
ちょっと諸説はあるんだけども、大体こんな感じだと思うんだよね。
これって、目先の自分の利益じゃなくて、日本全体の未来のために言ってるような言葉なんだよね。
彼は資金は環状物業の責任でなんとか苦免するっていうふうに主張して、
結果、小栗の主張が認められて、幕府は正式に造船所建設を決定したんだよね。
場所は横須賀に決まって、ただ日本人だけでこの造船所を作るっていうのは無理だったから、
技術力の高い列強諸国のどこかに頼む必要があったんだよね。
そこで検討していく中で、まずアメリカは南北戦争に突入してて、とてもじゃないけど地獄のことでいっぱいだったんだよね。
イギリスは、アヘン戦争とか生麦事件の件もあったし、印象が良くなかったんだよね。
ロシアにしても、少し前に津島を占領したっていう事件があって、これも印象が良くなかった。
オランダは、鎖国時代からも貿易をしている友好国だったんだけども、
一時期の繁栄児より衰退している国だったんで、ちょっとこれも違うだろうってことになったんだよね。
これは消去法って言われてたりするんだよね。フランスだったらいいかなっていうところで決まったとも言われてるし、
さらにこの時期、幕府が小角丸という蒸気船の修理を横浜に停泊中だったフランス軍に依頼してたんだよね。
この修理の様子を小栗自身も見に行って見学していて、その修理の出来具合の素晴らしさに関心をしていたっていうのも、
21:06
スピーカー 1
フランスに決めた影響もあるんじゃないかって言われてる。
ここでフランスに造船所の依頼を正式にして、フランス海軍の技師のベルニーっていうのが派遣されたんだよね。
彼は29歳って若いんだけども、豊富な知識と経験を持っていて、献身的に日本の造船所の建設に貢献してくれたんだよね。
例えば造船所の見積もりは幕府の予想より3分の1ほど安いっていう良心的な値段で出してきてくれたんだよね。
今までオランダとかイギリスに蒸気船の建造費頼んでたんだけども、その3隻分ぐらいの値段で造船所自体ができちゃうっていうような価格だったらしいんだよね。
単純に今までイギリスとかオランダにぼったくられてたかもしれないんだけども、そういうのもあったし、
またフランスから国営工場3年以上の技術の高い職人を呼び寄せてくれたんだよね。
こうして工事が進められて完成したのは明治4年なんでね。
もう幕府は崩壊しちゃった後なんだけれども、ただ幕末に開始したからこの時期にできたっていうのもあるんでね。
この横須賀造船所の凄さっていうのはいくつか紹介したいんだけども、
まずは当時国内最大の規模なんだよね。
動力は蒸気機関を動力とした工場っていうのも国内初だったんだよね。
幕末には佐賀藩とか薩摩藩が反射炉を備えたりとかして近代化を推進してたっていうのもあったんだけども、
それは動力源はあくまで川の落差を利用した水力だったから、初めからこうやって蒸気機関を動力としてるっていう点があるんだよね。
あとはその船だけじゃなくてさ、多くの工業製品を作ることができる総合工場を作ったんだよね。
あとね、待遇の面でも月給制とか残業手当なんかも採用したのもこの横須賀造船所なんでね。
この造船所のおかげで、例えば国内外の艦船の修理で明治以降膨大な国の収入をもたらしたんだよね。
それと日本の主力産業として活躍した富岡製糸場ってあるじゃん。その機械部品もここで製造してるんだよね。
あとは日露戦争の駆逐艦とか魚雷艇の建造もここで行われてるし、
そういった面からも日露戦争時の連合艦艇の司令長官の東郷平八郎が日露戦争後に小栗家の遺族を自宅に招いて、
横須賀造船所の建設をしてくれたことの感謝を述べてるっていうエピソードがあるんだよね。
まさに幕府が土蔵付き売り屋として残したものが明治政府に引き継がれて日本の近代化に大きく貢献したっていう一例なんだよね。
24:07
スピーカー 1
他にも兵庫商社の設立案っていうのも彼は行っていて、
これは大資本の外国商社との競争に勝つために大阪の豪商20人ほどに出資をさせて商人組合を設立したんだよね。
一株いくらで希望者を民間から募って、その組合を通して貿易をするってことをしたんだよね。
この利益でガス棟の設置とか郵便とか電信制度、鉄道付設をしていくっていう計画をしてたんだよね。
これは活動開始から半年も経たずに母親清掃が起こっちゃって活動を休止しちゃってはいるんだけども、こういう計画を立案してたんだよね。
あとは築地ホテルっていうのがあって、日本初の本格的な洋風ホテルの建設を小栗が推進したんだよね。
これ22階建てで水洗トイレシャワー付きで客室は102室あった。かなり大きなホテルなんだよね。
これも民間から出資金を集めて建設して、その後の出た利益を株主に配当するっていう株式会社の概念を導入したものなんだよね。
ただこれは明治5年の火災で全焼して亡くなっちゃってるんだけども、こんな風に幕末においても西欧列強参考に近代化を進めていたんだよね。
小栗地震はその後どうなったかっていうと、幕府側と新政府側との争いが激化していって、戸場不死身の戦いが勃発をして、
これに幕府軍が大敗をして、将軍らが大阪城から江戸城へ退去したんだよね。
そこで今後について爆心の中で話し合いが行われて、環状部業と陸軍部業、その時小栗は兼任していて、
彼は主戦論っていうのを唱えたんだよね。徹底して新政府と戦うってことを主張したんだよね。
かつ改修なんかはその矯順派で、これで意見が対立をしてて、矯順っていうのは新政府とは戦わずに命令に謹んで従うっていうような態度なんだけども、
この矯順を将軍の得害をしのぶっていうのも選ぶんだよね。だから小栗は幕府からは厄介払いじゃないけど役職を批免されちゃうんだよね。
その後小栗も将軍の意向に従って矯順の道を選ぶんだよね。
そこで幕府から与えられていた領地である常州のゴンダ村っていう、今の群馬県の方だね、に移住をするんだよね。
村内で村の中で暮らすために屋敷を建設していて、そこに新政府側に目をつけられちゃうんだよね。
彼が厳重な拠点を構えて、そこに包帯も築いて、新政府に対抗しようとしてるんじゃないかっていうふうに疑われるんだよね。
27:06
スピーカー 1
視察に来た新政府側の使いには、これって自宅を建設してるだけで、包帯も正道性の飾りのものが自宅にあったんだけども、包帯もないし、ただの飾りっていうことを確認してもらったんだよね。
処置していたいくつかの少女も全てその時差し出していて、ただそれでも後日、小栗とその家臣は捕らえられてしまって、一切の取り調べもなく全員残死になってるんだよね。
これって武力抵抗せずに矯準した爆心の中で唯一殺された人物なんだよね。
こうして彼は42歳の生涯を終えているんだけども、この処刑の理由っていうのは未だに謎が多いというか、理由として考えられるのは小栗は幕府の中枢で活躍していて、新政府とは最後まで徹底的に戦うっていう主戦派の代表格だったんだよね。
その分、新政府側から恨みを買っていたっていうのもあったかもしれない。
2つ目は幕府の環状部業を何度も勤めたっていうところで、幕府の資産を隠し持ってるんじゃないかっていう噂が広がっていたんだよね。
実際に残死直後に小栗邸の火災道具っていうのは大規模に略奪を受けてるんだよね。
残死されてから84年目、戦後の1952年になって群馬県の渋川市で小栗の直筆の日記と2つのネジが見つかりましたっていうお話でした。
いろいろ考えさせられるなと思うんだけど、日本の近代化って明治になって明治政府によって始まったって思われがちだけど、幕末の幕府においても結構近代化に力を入れてたんだなっていうのが分かったし。
その中心人物だったのがまさにこの小栗忠政で、冒頭で明治政府の重鎮である大熊重信も言ってるんだけども、我々が今やってることは小栗の模倣に過ぎないっていう言葉が印象的な人だなって思いました。
いかがでしょうか。
スピーカー 2
そうだね。直接この人聞いたことあるかなぐらいにしか知らなかったから。幕府でそれだけ重要なポジションにいた人っていうところで、もし幕府が続いていたら多分もっと活躍できたんじゃないかなっていう人だと思うんだよね。
スピーカー 1
そうだね。
スピーカー 2
これも時代というか運命のいたずらというか、だから名前が埋もれてしまっているのはやっぱりもう一人で運がなかったとしか言いようがないのかなと思うんだけれども。
確かにね。
歴史の中にはこういうすごい能力があっても埋もれちゃう人っていうのがいるんだなって改めて思いました。
スピーカー 1
これさ、小栗光漬之助、忠正って光漬之助ってついてるんだよね。中心柄で有名なキラ光漬之助の光漬之助と一緒なんだよね。
30:10
スピーカー 1
これね、実際に阿光老子に殺されたキラがさ、その家自体断絶になったってことでさ、それ以降さ、江戸時代において縁起が悪くて光漬之助って名乗る人ってそれまで一人もいなかったんだって。
で、そこで周囲の心配をそに、名前で人が変わるものかって笑ってこう言って、小栗は光漬之助をつけたっていうエピソードがあって。
結果さ、キラとさ、同様首を切られて亡くなるっていう、なんかこう偶然とはいえ縁起が悪いよねって思って。
スピーカー 2
確かにそうだね。小ヶ太郎の使命の歴史のところでもね、あんま関係ないかそれは。
スピーカー 1
名はタイを表す。
スピーカー 2
タイを表してないけどさ、なんかね、ちょっと通ずるものがあるのかなっていう気はしちゃったよね。
スピーカー 1
いやね、まさにね、歴史って何が起こるかわかんないなって思って。
まあそんなわけで、今回は小栗光漬之助忠正についてやりました。
はい。
ということで、大人の近代史、YouTubeがですね、あとちょっとでなんと1000行きそうなんで、ぜひね、みなさん最後の1000人目になっていただければ嬉しいです。
スピーカー 2
最後の1000人って言っても、それ以上増えねえじゃねえかよ。
確かに。
やめてくれ、やめてくれ、増えて。
スピーカー 1
YouTubeもね、カテゴリー分けされてたりね、戦争ものとか確かね、昭和とか明治とかでもしてるんで、自分の興味あるものが探しやすかったりするんで、ぜひ見てください。
スピーカー 2
はい、もうメンバー登録お願いします。
スピーカー 1
はい、それでは最後まで聞いていただいてありがとうございました。
ありがとうございました。
32:01
コメント
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