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それでは、ガラテア人への手紙3章、25節から29節です。
しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
あなた方は皆、信仰によりキリストイエスにあって神の子供です。
キリストに就くバプテスマを受けたあなた方は皆、キリストを着たのです。
ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。
あなた方は皆、キリストイエスにあって一つだからです。
あなた方がキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
以上です。
今日はこのところから、キリストを着ると題して見言葉を取り付けます。
みなさん、おはようございます。
5月ですが、なんと熊谷では35度以上になるんじゃないかという、
本当に今日は暑い日になって、急遽冷房も入れましたが、
その中ですけれども、5月最後の聖日ともに礼拝を守れることを感謝しています。
さて、パウロはずっと立法と信仰によってリードされるということを、ガラテヤビデの手紙の中で語ってきました。
今日はこの立法と養育係という、先週もお話ししましたけれども、
その話からまた始まりまして、イエス様によって解き放たれた、
養育係、立法から解き放たれた祝福について語ります。
その中で、よく有名なイエス様を着るという、そういう話と関連づけながら、
クリスチャンに与えられた祝福を語っています。
今日はその着るという言葉をもとに、2つのことを語りたいと思います。
まず最初はですね、窮屈ではない、キリストを着せられたということなんですね。
どういうことか、神様の目から私たちは、イエス様を着ているのでイエス様に見える。
だから私たちはクリスチャンとしてのふさわしい言動を気にしないでよいと、極端な言い方ですけれども、そういうことなんです。
どういうことでしょうか。私たちはですね、クリスチャンになった後、
この自分の言動がクリスチャンらしいかどうか、気にしながら生活する、すごい窮屈に感じます。
そして時にですね、人から見て自分の言動がクリスチャンらしいのかどうか気にして、
またそのようにですね、クリスチャンクリスチャンでない人を問わず、
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あなたのやっていることはクリスチャンらしくないよと、
教会用語で言えば裁かれてですね、窮屈な思いを感じたり、傷ついたことがあるかもしれません。
実はそれはですね、ガラティアのクリスチャンがユダヤ人のクリスチャンに裁かれた、
立法をもとに裁かれたことと大変似ているんですね。
もしそのように立法によって、立法のもとに置かれたりですね、
自分がクリスチャンとしてふさわしい言動をしているかどうかということにビクビクしているならば、
まだパウロが言っているように、養育係の下に生きている、それと変わらないんだよ。
約束の子として生きているのと違うんだよと、パウロは言いたいが如くなんです。
しかし、パウロは続けるんですね。
ちょっと読んでいられる方は、この3章27節前の言葉を読んでみましょう。
キリストに尽くバブテスマを受けたあなた方は皆、キリストを来たのです。
このキリストに尽くというのは、元の言葉でいうと、イエス様の中に浸されたという、
水の中にちょうど1年前にバブテスマが入りましたけれども、
イエス様の中に私たちは浸されて、そしてどうなったかというと、イエス様を来たというのです。
そのイメージをよく覚えておいてください。
これは当時の演劇のイメージで、当時の役者は、今もそうですけれども、
特集メイクなんかして、本当にその役になりきる。
当時はその役の服を着て、その役になりきって演者は演じたわけです。
当然聴衆からは本物のその人物に見えたわけです。
同じように私たちはイエス様を来ています。
それはどういうことを言いたいのか。
それはですね、人がどう見ようとも、神様の目から見たら私たちはイエス様に見えるということなんです。
聴衆が演者をその人そのものと見るように、私たちは神様から見たらイエス様に見えるというのです。
イエス様の服を着ている。そのように神様の目に私たちは映っています。
当時のユダヤ人クリスチャンの中にですね、
ガラデア人をはじめ違法人クリスチャンに何度も言っていますが、
活霊を中心とする立法を強要した人たちがいたんですね。
そしてユダヤ人になりなさいと強制した。
それはあたかも、違法人クリスチャンにユダヤ人の服を着て生きろと言っているようなものです。
ユダヤ人の服を着せようとした。
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それはですね、あたかも養育係の下にいる子供に子供の服を着せるのはいいんですけど、
大人になっても養育係が大人の私たちにですね、子供の服を着なさいと。
この服を着なさいと、そうやって強制しているようなものです。
そういう小さい服というのは窮屈ですよね。
私も教会のある集まり5年前に参加して、あえてSサイズのTシャツを買ったんですね。
本当にもうきつくてですね。
でも着てもちょっとピチピチで嫌だからこう、もう返筆したんですけども、そういうものです。
大人になってもこのような小さい服は着れないように、
この違法人クリスチャンに対してユダヤ人の服を、窮屈な服を着せていたユダヤ人クリスチャンがいました。
私たちがですね、先ほどから繰り返しているように、
クリスチャンらしい言動を無理にしようとしたり、
そして自分の言動がクリスチャンらしいのかどうか気にしたり、
ときに人からクリスチャンミシン者を問わずそういうことを指摘したり、
またそれを恐れているときに、
私たちは似合いもしないちっちゃな子供の服を着せられて、
窮屈な生活をしているようなものなんですね。
しかし聖書、パウロはこう言うんですね。
これ読んでみましょうか。ガラティア3章26、27節。
繰り返しになりますが、3、はい。
あなた方は皆信仰によりキリストイエスにあって神の子供です。
キリストに就くバブテスマを受けたあなた方は皆キリストを来たのです。
イエス様を信じて神様を信頼してイエス様にあって神様の子供になった。
先ほども言いましたが、私たちは神様の目にはですね、イエス様に見える。
大事なのはですね、元のギリシャ語を見ると、
ここにある神の子供の子供という言葉は、
特別な言葉、元の言葉ではヒュイオスという言葉。
直訳すると息子なんですね。
これは神はその実に一人子を使わせたほどによく愛されたという、
イエス様に使われた特別な神様の愛する言葉の時に使うヒュイオスという言葉です。
難しいことを言うと複数形なんですね。
男性も女性もヒュイオイという。
神の目から見たら私たちは男女問わずこの神の尊い一人子、イエス様のように見える。
それはつまりですね、ちょっと難しいことを言うと、
立法全うした義なるイエス様と等しく神様の目に映っているんですよ。
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火の打ちどころのない正しい人として神の前で映っているんですよということになるわけなんです。
そういうわけですから、私たちはですね、
この自分の言動がクリスチャンらしいかどうかビクビクして生きる必要もないし、
人から後ろ指を支えることを恐れずに生きていてよいということなんです。
このキリストを斬るということの背景にある旧約の御言葉をちょっと一つ読んでみましょう。
デカリア書3章4節ですね。
読んでみましょうか、3回。
2よ、私はあなたの不義を除いたあなたに礼服を着せよう。
汚い服を脱がせてきれいな礼服を着せるように、
神様は私たちの罪をイエス様にやって取り除いて、
イエス様ご自身を着せてくださった。
それをぜひ心に留めていきましょう。
2番目、イエス様というのは何にも見劣れしない洋服だ、服だということなんです。
何にも見劣れしないキリストを着せられた。
パウロが3章28節でこのように宣言しています。
ちょっと何回もありますが読める方読んでみましょう。
3、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、
男と女もありません。あなた方は皆、キリストイエスにあって一つだからです。
ここの言葉の背景はですね、
当時、立場や地位によって教会の中でも優劣が存在して問題となっていた。
そのことにパウロは反論しているんですね。
ここの3つのペアがあるんですけれども、
一番最初のユダヤ人とギリシャ人というのが民族的なペアです。
前も述べましたけれども、国籍や民族の問題でギリシャ人というのは違法人全般を表しています。
何度も言っているように、ユダヤ人クリスチャンが違法人クリスチャンに対して優位な立場を主張していた。
お前たち滑稽を受けて立法を守らなかったら本当のクリスチャンじゃないんだよ、そういうことですよね。
2番目の奴隷と自由人というのは職業ですね。
大きく当時、奴隷か自由人かというふうに分けていたんですけれども、職業を代表する社会的な地位です。
そして男女、これは性別に関わる社会的な地位や上下関係の問題を指摘しています。
この3つのことからですね、パウロは、そういう社会的な地位、国籍や民族、また性差、男女の差、そういうものに優劣がないということを言っているんですね。
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ここで面白いのは、キリストにあって一つだからですというのは、元で見るとイエス様にあって一人の人だということを言っている。
あなたはイエス様にあって一人だ、それを今日は詳しく言いませんけど、教会が一人のイエス様の身体だから、そこにあるそれぞれは皆優劣上下ないよ、一人の身体の部分だよということを言っています。
そしてイエス様にあるということがもう唯一の人の立場なんだと言っているんですね。
いろんな地位や立場に関係なく、パウロから言えば一種類の人しかない、イエス様にある人、そういうアイデンティティしかないと言っているんですね。
最初のポイントで服の話が出たので、また服の話に少し戻って例えて言いますけれども、実は人というのは着る服によって優位に立ったり、反対に見下されたりしてしまいますよね、こうかこうか。
そして仕事によって着る服が違います。
私平日普通の仕事をしているのを皆さんご存知ですが、制服、作業着ています。
そうすると良い悪いは別として、スーツ、背広い着た人の前では何か気遅れするようなことは正直あります。
あるいは余談ですけれども、制服着ていますから、時々昼休みにコーヒーを飲んだりするんですね、マクドナルドとかで。
パソコンを持って皆さんメールしたりするんですけど、その時は制服着ていると誰かわかっちゃうから、上の制服脱いで普通の服に着替えてですね、上着だけでちょっと一般人になってですね、お店に行ってこういうパソコンで作業したりするわけです。
このように制服というのは立場を表すわけですよね。
ただですね、この制服や仕事から話させますけど、最近話題になっているのは、同じ職場で働いていても、契約社員か正社員かで賃金の格差があったり、あるいは同じ制服着て同じ仕事をしていても、やはり雇用形態によって、悪く言うと待遇の優劣が生じてしまっている。
それが今の社会問題になるわけですよね。
服装に関して言えば、男性女性というアイデンティティも服装によって表す。
これも余談になりますけど、前のスプリングセミナーに来たトランスジェンダーの男性ね、体は女性ですけど、トランスジェンダーの女性の寺田さんはですね、あえて精査がわからない服を着ているとおっしゃって、そういう格好をされていましたけどもね。
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洋服というのはやっぱり性別を表す手段になる。
そのような自分の立場を表す洋服ですけども、先ほども言いましたが、着ている服によって優位になったり、見下されたりしてしまう。
その子に絡んだ社会的な立場などによって、自分の地位が上がったり下がったり感じる場合があるわけですよね。
けれども、ここでパウロが言うように、私たちがイエス様を着せられているならば、このイエス様というこの洋服は、この世のどのような服にも見劣りしない素晴らしい服だということなんですね。
なぜなら、イエス様というのは、この世で私たちが見聞きするあらゆる地位や立場を、超越した立場を私たちに保障してくださる。
それは、神様の前での揺るがない立場をイエス様が保障してくださるからなんですね。
それはですね、義人という言葉に言い換えることができるんです。
よく義とされた、神の前で義とされたと言いますけれど、今日はそれを優しい言葉で言い直すので、ぜひ覚えておいてください。
それはどういうことかというと、義というのは、私たちの神様の前の立場に関わる言葉です。
義人というのは、義と認められるとは、神様の前の私たちの立場と、神様と私たちの関係が正しいと認められているんです。
あえて仕事の話で言うと、職場では自分の立場が正社員、あるいは契約社員というかもしれません。
でも、神の前では、ちょっと無理があるかもしれませんが、私たちの立場は、揺るがない、正しい、絶対的な立場が与えられている。
しかも、良好な関係がいつも保たれているんですね。
それが、義と認められている。
神の前での揺るがない立場が与えられていて、神様との揺るがない関係の中に置かれているというのが、義と認められている。
自分が仕事の中で信頼できる上司に何でも話せる。自分を信頼してくれる上司がいる。
あるいは親子の関係や家族の関係で、自分を本当に信頼してくれる家族がいたり、自分が信頼できる家族がいる。
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そういう良好で壊れない関係が神の前で保証されているというのが、義と認められているということなんです。
なぜその立場が与えられるかと言えば、それは私たちがイエス様を着ている、イエス様と一つになっているからなんですね。
繰り返しになりますが、この世の中での私たちの地位や立場が上がったり下がったりして、それは私たちのコントロールできない領域なんですよね。
ある程度できるかもしれませんが、究極的にはできない。
でも神様の前に私たちが義と認められるというのは何度も繰り返しますが、神の前で揺るがない絶対的な立場が与えられていて、
揺るがない関わりの中で私たちが生かされているということなんです。
今日はキリストを着せられた、キリストを着たという中で、この社会の関わりの中で私たちが生きている課題とちょっと関わる話をしました。
そういう中で、この社会との関わりが切れない中で私たちはクリスチャンとして生きていますが、
その中で私たちはこの神様の約束を信頼して、このイエス様によって授かった揺るがない神様にある立場、
神様との良好な関係が与えられているということを心に留めながら、そしてそれを味わいながらですね、
神様とイエス様との信頼関係の中に生き続けていく、それが幸いなことですね。
その幸いをぜひ私たちがこれからも知り続けていきたいと願うわけです。
最後にまた今日の御言葉に関することを二つ読んで、御言葉を読んで終わりにしましょう。
これ先ですね。
五位座谷書の61章の十節ですね。最初読みますね。
私は主によって大いに楽しみ、私の魂も私の神によって喜ぶ。
ここから読んでみましょうか。
主が私に救いの衣を着せ、正義の街灯をまとわせ、
花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
五位座谷61の十。
そして今日の御言葉、最後の約束を読んで終わりにしましょう。
三、あなた方がキリストの者であれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
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五位座谷3の29。
イエス様によって約束されたものが私たちに与えられました。
その祝福、相続分の栽培を知りながら歩んでいくお互いでありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
私たちはこの世の中で生きている限り、様々な価値覇基準の中で右往左往することがありますが、
イエス様を着せられた者として、神様の前の揺るがない立場、あなたとの関わりの中を、
その幸いを生きることができるように、その幸いを、その喜びを知ることができるように、
どうか御精霊をもって私たちを導いてください。御言葉をもって私たちを教えてください。
日々の生活の中にその祝福を、私たちにあなたが明らかにしてください。
これらの願いと感謝を、私たちの救い主、シューイエス様の名前によって祈ります。
アーメン
それでは1分ほど御言葉に応えて祈る時間を持ちましょう。