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聖書2017年版でお読みします。 ガラディア3章19節
それでは、律法とは何でしょうか。 それは、約束を受けた子の子孫が来られる時まで違反を示すために付け加えられたもので、
見つかりたちを通して仲介者の手で定められたものです。 仲介者は当事者が一人であれば要りません。
しかし、約束をお与えになった神は唯一です。 それでは、律法は神の約束に反するのでしょうか。
決してそんなことはありません。 もし、命を与えることができる律法が与えられたのであれば、
義は確かに律法によるものだったでしょう。 しかし、聖書は全てのものを罪の下に閉じ込めました。
それは、約束がイエス・キリストに対する信仰によって信じる人たちに与えられるためでした。
信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来られるべき信仰が掲示されるまで閉じ込められていました。
こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。
それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。 以上です。
では、このところから、律法の役割と題して、御言葉を分かち合います。
おはようございます。
先週、厚生労働省から、外ではマスクを外してもいいということが発表されました。
屋外で散歩とか、すれ違っても会話をしないのであれば、マスクはいらないという発表がされました。
これは、規定が明言される、そしてライフスタイルが変わるという事例です。
ある権威あるところから何か決まりが発表されると、そしてそれにみんな従う。
今までマスクどうだって議論がありましたけれども、とりあえず国の発表では、外でマスクしなくても大丈夫だよ。
でも電車の中や部屋の中ではマスクをしてねと、それがなかり取ったわけですね。
コロナ対策のマスクなどに対して、こういうことが良いか悪いか、いろいろ議論がありますから、
その良いか悪いかは別として、とにかくこれはある規定が明言されると、いろんなものが見えたり分かったりするという事例です。
実はそのことは、今日の取り上げた聖書の箇所と似ています。
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パウロはこれまでのお話の展開から、ある誤解が生じたんじゃないかという心配が湧き起こったんですね。
それは、神が与えてくださった立法が悪者なのか、そういう疑問を抱く人が出てきた。
それをおもんぱかって、「いや、そんなことはありません。」
パウロは21節で、こう切り出していますね。
それでは立法は神の約束に反するのでしょうか。
決してそんなことはありません。と明言しています。
どういうことかというと、立法も神様の御心の通り、神様の約束の中できちんと捉える。
それが必要であって、必ずしも悪でないということがわかるわけです。
そんなことから先週に続いて、私たちは立法をはじめ、旧約聖書の戒めをどう捉えるべきか、
あるいは立法の正しい役割について知って、3つの点から学んでいきたいと思います。
まず最初、立法の役割の第一番目は、罪を明らかにする。
復讐のためにあえて言いますけど、ここで言う立法は、
当時のユダヤ人・クリスチャンがユダヤ教から守り続けてきた食べ物の規定。
何を食べてはいけない、これは食べていいという食べ物の規定。
それと関連して、いわゆる偶像に捧げられた肉を食べてはいけないという規定があった。
だから違法人と一緒にご飯を食べないということまで発展した。
そして男子は契約の印の割れを受けなさい。
これが主なる立法の内容ですけれども、それも含めて、
広く孟子の実戒から始まった旧約聖書の立法ということを考えていってください。
実はですね、ちょっと難しいんですが、ここにありますように、
パウロ研究の第一人者が立法の役割についてこう言っているんですね。
立法とは、罪とは何かを決め、それを人に違反として意識させ、
その違反を断罪する役割を持つんだということなんですね。
実はユダヤ人というのは、この点について間違って立法を捉えていたんです。
ユダヤ人の考えはですね、立法は私たちに与えられた神からの特別なものであって、
その立法によって、立法が与えられているか守るかどうかによって、
神の民と穢れた違法人を区別するものだ、
区別のための立法というふうに捉えたんですね。
だから、違法人であってもイエスさんを信じて神の民になるんだったら立法を守れ、
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私たちの側に入ってこい、そういう立法の誤解した捉え方をしていたわけです。
その間違いをパウロは念頭に入れて、立法の正しい意味をここで伝えています。
それはですね、立法によってユダヤ人も違法人も区別なく神の前で罪がある、
神の前で罪人だということが示された。
区別するのではなくて、ユダヤ人も違法人も一緒に罪人の中に入ったんだ、
区別ではなくて一つ罪人になった、されたということをパウロは伝えているわけです。
今日の3章22節でパウロはこう書いているんですね。
ちょっと読める方、最後のここの部分ですね、読んでみましょう。
聖書はすべてのものを罪の下に閉じ込めました。
そう言われている通りです。
これちょっと例えて話しますね。
例えばですね、皆さんどうかわかりません?
私野球よく見るんですけど、大谷翔平のホームランを打つかって毎日ニュースになりますけど、
ホームランを打ってベースを回った時にですね、
昔こういうことがあったんです、ある人が。
3塁を踏まないでホームに入ったんです。
そしたらヤシュがボールを受け取って3塁ベースを踏んだら、
そのバッターはアウトになってホームランが無効になった。
それはそういうルールがあるからですね。
ちなみにですね、話をとりますけども、
高校野球の正式名称は何というかというと、
全国高校野球選手権大会。
前身は全国中学校野球選手権大会というんですね。
その創設者は、その大会を行うことを決めた人はこの男性なんです。
袴姿。村山隆平と言って、朝日新聞社の社長さん。
彼がやろうと言って始まった。
実はこの写真は何かというと、
第1回中学全国大会の始球式。始球式で創設者が投げたわけです。
例えば、その高校野球の決勝で、
最後に球界の裏に負けているチームが逆転ホームランをバッターに打って、
さよなら勝ちをしたとします。
でもそのバッターが、さっき言ったように3塁を踏み忘れてアウトになったら、
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その勝ちがなくなるわけです。
たとえそのホームランを打ってベースを踏み忘れたバッターが、
この村山隆平さんの子孫だとしても、アウトはアウトなんです。
俺は村山隆平の子孫だぞ。何でそれでアウトになるんだ。
俺の先祖がこれを始めたのか分からないのか。
どんなに凄んでも、ルールがあるからアウトですよね。
何が言いたいかというと、きちんとしたルールや決まりがあると、
この欠縁とか人間の立場とか関係なく、
アウトはアウト、ダメなものはダメ、罪は罪だということです。
つまりこの立法というのは、
神の前で人間がどれほど神から離れているか、
神の基準に達しないかということを明確にする。
人間の罪を明確にするのが神の前の立法なんです。
そこには神の民もユダヤ人も区別がないんです。
パウロは別の歌詞でこういう風に言っているんですね。
ローマ4章15節ですね。
読める方はちょっと読んでみましょう。
立法は怒りを招くものであり、立法のないところには違反もありません。
こう言っているように、立法は神の怒りを招くものである。
立法のないところには違反もない。
逆に言うと、神の立法があるから神の前の違反が決まるんだと言っているんです。
先ほども言いましたが、立法とは神様の求める基準から
人が大きく外れていることを明確にするという役割があるわけです。
言い換えれば、聖書の言葉を通して私たちは自分の罪が示され、
神の基準から到底離れているということがはっきりする。
罪人だということがはっきりするわけですね。
それが第一の役割です。
2番目、加えてパウルは立法は養育係であるという言い方をしています。
読んでみますね。3章23節。
信仰が現れる前、私たちは立法の下で監視され、来るべき信仰が掲示されるまで閉じ込められていました。
こうして立法は私たちをキリストに導く養育係となりました。
それは私たちが信仰によって義と認められるためです。
この絵はローマ時代、パウルが聖書を書いた時代の典型的な家族の様子だそうです。
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この様子にありますが、この実際の親のほかに養育係というのがいたんです。
養育係というのは奴隷なんですね。
奴隷というと、僕の世代も皆さんの世代もね、ルーツという映画が話題になった悲惨な奴隷ということを思い浮かぶかもしれませんが、
この養育係の奴隷は、言い方変ですけど、待遇が良かった。
主人から信任を受けて、主人の子供たちの面倒を見る、しつける、教育するのがこの養育係の奴隷の役割でした。
何をするかというと、この子供が親の相続財産をきちんと預かって、
仕事なり相続財産をきちんと責任を持って、自由に執行できる。
そういう成人に育てるために養育係というものがいたんです。
具体的にはですね、学校の送り迎えをした。
伸び止め小学校ありますけど、学校に行った。
それだけじゃないです。学校で子供がクラスが終わるまで待機してたんです。
奴隷の待機室というのが特別にあったそうです。
そういう待機室がない養育係はですね、なんと教室に入って、教室で授業参加みたいにしてですね、この授業が終わるのを待っていたそうです。
そして、その主人の子供と一緒に下校したわけですよね。
家に帰ると、この子供が学校で勉強したことをちゃんと習得したかどうかテストをしたりですね、
ちゃんと習熟度を測るやりとりをきちんとして教育したそうです。
いろんなしつけということも受け負っていたようですね。
何が言いたいかというと、この先ほども言いましたが、主人の子供が成人して、心も体もきちんと大人になってですね、
親の相続分をきちんと責任を持って引き継いで、それを執行できるようになる。
そこまで養育係を育てて、その上でこの養育係からの観察の下から離れて、子供は自由になったというんですね。
パウロは今日のところでそういう様子を見言葉から書いていますけれどもね。
実はこれと似たように、旧約聖書の立法というのは何か。
それはですね、孟子によって与えられた、今日のガラッタヨビトの手紙ではですね、仲介者によって与えられた、
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旧約聖書の伝統では密会が仲介者なる孟子に教えた、そして民に伝えたというのが立法だそうですが、
この孟子の時代からイエス様が来る時代まで立法というのは、神の民を導いて整えるという役割があったそうです。
大事なことはですね、養育係と本当の親には違いがあるということですよね。
この養育係というのはあくまでも子供の成長のための補佐にすぎません。
本当の親は別にいたわけです。
そして財産を授けるという約束もこの親から与えられているものです。
ましてやですね、奴隷がその子を産んだわけではなくて、その子を産んだ、その子の命は親から授かっているという、そういう違いがあるわけです。
この養育係はあくまでも補佐にすぎない。
それを念頭に入れておきましょう。
このようにですね、立法もあくまでも補佐にすぎない。
命と約束の相続を神のために与えるのは神様ご自身だったということなんです。
養育係は神の民を補佐するにすぎないんだということなんですね。
パウルは今日の3章21節でそのことを指摘しています。
立法はあくまでも補佐、相続を与えるのは、約束を与えるのは神ご自身です。
3章21節のパウルの言葉をもう一回読んでみましょうか。
前に示してあります。
3、もし命を与えることができる立法が与えられたのであれば、義は確かに立法によるものだったでしょう。
これは逆の言い方をすると、このですね、命を与えたのは神であって、
立法は命を与えるものではないということを言っているわけです。
ここでユダヤ人が勘違いしたこと、先ほども言いましたが、
それは立法を守ることによって神の約束の祝福に預かれると思っていたわけです。
これは勘違い。
そこから今の私たちが学ぶべきこと、
それはですね、クリスチャンとなった私たちが学ぶべきことはですね、
旧約聖書の教えもしっかりですが、新約聖書にある教えも、
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私たちを神の民として教育するものであるということなんです。
大事なことはですね、本当に私たちにクリスチャンとしての命を与えて、
聖霊をはじめとする約束の祝福を与えるのは神様ご自身だということなんです。
言い換えれば、たとえ聖書の教えを守れないことがあっても、
私たちは命を失うことがありません。
養育係のですね、言い付けを子供が守れなかったとしても、
その子は親から感動されるわけでもないし、
親の相続を取り消されるわけでもないわけですよね。
また親の許しを得ながら、また新たにですね、
この相続者としてふさわしい訓練に携わっていく。
それは子供ですね。
私たちも同じように、たとえですね、間違いを犯したとしても、
神の許しを受けて、また神の教えの道を歩んでいくわけです。
何度も言いますけれども、聖書の教えというのは大事ではありますが、
私たちがその教えを守れないことがあっても、命を失わない。
なぜなら、イエス様の十字架の上がりを私たちは知っているからです。
実はパウルは立法と比べてですね、
イエス様の十字架による、この信仰による義人ということを
ここで強調してきたわけなんですね。
次です。最後。
ではどうなのか。
立法に導かれて、神との信頼関係に生きるよう、
私たちは見せられているわけです。
繰り返しになりますが、この冒頭3章24節をもう一回読んでみましょう。
こうして立法は、私たちをキリストに導く良いくわかりとなりました。
それは私たちが信仰によって義と認められるためです。
最初に第一の点で学んだように、
私たちはこの聖書の教えを通して、自らの罪を知りますね。
いくらですね、皆さんはそういうことないと思いますけれども、
人が自分の正しさを誇ってみても、
神様の求める正しさの基準には達しないということを、
聖書の基準によって思い知らされるわけですね。
そのことをローマ23節で、こういうふうに言っているわけです。
読めるかと読んでみましょう。3、はい。
立法を誇りとしているあなたが、どうして立法に違反して神を侮るのですか。
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これ第一義的にはですね、ユダヤ人に言ってるんです。
あなたたちは立法を誇りとしていますけれども、
あなたたちはその立法を守れていないじゃないですか。
そうやってあなたは神を侮っていますよと言っています。
言い換えれば、どんなに立法を誇っても、
それを守れないということを認めなさいと言っているわけなんですね。
このようにですね、私たちは立法や聖書の教えの厳しさを知るときに、
私たちはですね、神様の前で自分の誇りを砕かれるわけです。
つまり一人の罪人として、イエス様の十字架の前で減り下るしかないわけですね。
自分の力で神の前で正しく生きることができない、
イエス様の十字架が私の贖いの頼りですと、十字架の前で減り下るしかないわけです。
当然、自分が支払いきれない罪の罰をイエス様が十字架の上で背負ってくださったんだ、
そういう信仰にも導かれているわけなんです。
先ほどですね、養育係の監視の下にある子どもの話をしました。
さっきも言いましたけれども、たとえ子どもが養育係の言い付けを守れなかったとしても、
彼とあるいは彼女と親との関係はなくならないわけです。
その主人である子どもの親はですね、
子どもを愛して自分の約束の相続を継がせたいという思いは変わらないわけなんですね。
失敗してもその親から何度も許され、何度もやり直しをして、そして成長していくわけです。
そのやり直ししている間もずっと相続の約束は保たれているわけなんですね。
それは私たちが信仰によって神様の前で義と認められているということと似ています。
私たちは何度も言いますが、クリスチャンであっても正しく生きることができないということがよくあるんですね。
しかしですね、イエス様の十字架の贖いがあるから、神様との関係は断ち切られない。
自分の償いきれない罪をイエス様が十字架の上で担ってくださったから、
私たちは神様との関係から断ち切られない。
神の前でずっと正しい関係を保ち続けることができる、義という立場で生き続けることができるということなんですね。
そして当然神様の祝福の約束も変わらないということなんです。
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このようにですね、私たちを神様はイエス様へに正しいものだとずっと認め続けてください。
そして私たちを祝福してくださる、その神様の約束に私たちは信頼し続けるということが、
このクリスチャン生活でとても大事なことなんですね。
私たちを正しいものと神様はイエス様に会って認め続けて、私たちを祝福してくださる、
その神様の約束に信頼し続けていくということ。
それがですね、義人は信仰によって生きる。
神の前に正しい人はですね、神を信頼して生き続ける、そういう意味であるわけなんです。
初めてクリスチャンになった時にイエス様を信じますというだけではなくて、
私たちはこのようにですね、クリスチャンになった後であればこそですね、
イエス様の十字架にすがり、神様のこの約束に信頼し続けていくということが必要であるというわけです。
最後にパウロの別の見方を読んで、説教を終わりたいと思います。
ローマ書3章27節28節ですね。
それでは私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。
それは取り除かれました。
どのような種類の立法によってでしょうか。
行いの立法でしょうか。
いいえ、信仰の立法によってです。
ここから読んでみましょう。
人は立法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると私たちは考えているからです。
神様を信頼し続けてですね、神の前でその歩みをやめない、そのようなお互いでありたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
ユダヤ人に立法を授け、またそのことを通して私たちに罪というものをあなたは明らかにして下さいました。
それによって私たちはイエス様の十字架のありがたさを知り、それを信じ、あなたの前で義とされていることを感謝いたします。
どうぞイエス様を信じた今も、このあなたの祝福の約束、あなたへの信頼によって生きる生き様、その人生へと歩みを進めていくことができるように、
あなたを信じないして生きるその幸いをどうか、これからも教えて下さるようにお願いいたします。
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この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。
それではしばらく神様の御言葉に応答して、黙祷する時間を持ちましょう。