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今日は、新約聖書、「殺さえ人の手紙」1章21節から23節です。
新約聖書、「殺さえ人の手紙」1章21節から23節。
あなた方もかつては神から離れ、敵を抱き、悪い行いの中にありましたが、
今は神が御子の肉の体において、その死によってあなた方をご自分と和解させて下さいました。
あなた方を、聖なるもの、傷のないもの、責められるところのないものとして御前に立たせるためです。
ただし、あなた方は信仰に土台を据え、家族たち、消えている福音の恵みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。
この福音は、天の下のすべての作られたものに述べ伝えられており、私パオロはそれに使えるものとなりました。
以上です。
今日はこのところから、未来と現在と題して御言葉を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
昨日まで少しすっきりしない天気でしたけど、今日は本当に秋晴れの朝となったことを感謝です。
本当にその中ともに礼拝できることをありがたく嬉しく思います。
さて先週ですが、和解について学びました。
私たちの罪ゆえに私たちと神様との間に和解が必要だった。
そしてその罪ゆえに万物がその罪の影響を受けた。
その万物と神様の和解が必要だった。
その和解の道を神様はイエス様の十字架によって私たちの罪を償って和解を成立させてくださった。
そしてそれゆえにイエス様を信じた私たちが神様との和解の道を歩むことができる。
今日はその与えられた和解からさらに先を見越した話をパオロが展開しています。
和解がもたらされたその先には目的、目指すべきものがあったわけです。
それは未来志向ですね。
その未来に向かっていくために今を大切に生きるようパオロは話を展開しています。
ところで10月13日の火曜日に日本の偉大な作曲家のスチミ・キョウヘイさんが亡くなりました。
レコード大賞というのをやっていまして、去年のレコード大賞の大賞はフーリンですね。
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米津玄師さん。
ちょっとさかのぼってみたらですね、78年、第20回日本国語のレコード大賞、その時は大賞はピンクレディのU4です。
たぶん高校生は知らないと思います。焼きそばかなんかと思いますけど。
その年ですが、このスチミ・キョウヘイさんは、この野口五郎のグッドラックという曲、金賞をはじめ、
このスチミ・キョウヘイさん、昭和の大作曲家の曲がですね、5曲もノミネートされていました。
たぶんジュリオングに見せられています。そこです。
そこの同じ年の最優秀新人賞に渡辺マチ子さんが取ったんですね。
知らない人が2名かいらっしゃる。
ちなみにスチミ・キョウヘイ、あんまり縁がないと思いますけど、調べたら、
サザエさんのオープニングのテーマソングも彼の作曲だそうです。
この時にですね、最優秀新人賞を受けた渡辺マチ子さんの最初のシングルの名曲が、
迷い道ですよね。
その歌い出しは、全然知らない高校生、ごめんなさいね。
歌い出しは、現在過去未来という歌い出しです。
現在が最初に来ている。なぜかと思ったらですね、現在が一番大事だからなんです。
ということで今日は、未来について1つ、現在について大事な現在について2つの、3つの点から学んでいきます。
最初はですね、まず未来について学んでいきましょう。
それは神様の前に立つ希望という、そういう未来志向についてまず見ていきます。
このパウロは22節でこう述べています。
ちょっとここに記事を記しました。読んでいますね。
今は神が御子の肉の体において、その死によってあなた方をご自分と和解させて下さいました。
その目的は、あなた方を聖なるもの、傷のないもの、攻められるところのないものとして、
御前に立たせるためです。
これは、やがて私たちがこの間のテサロニキの人の手紙でもあなりましたが、
イエス様とお会いする時に神様の前に立って、私たちイエス様を信じた者が、
罪も穢れもない聖なるものとして神の前に出る。
そのために神様は和解させて下さった、ということがここに書かれています。
このイメージは、こういうイメージです。
一人の国民、あるいは国民のグループが国家元首の前に出る。
総理大臣や大統領の前に出るという、そういうイメージがここにかぶせられています。
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今、アメリカ大統領選が間近に迫っていますし、
各国でもコロナの対応で国家元首が注目されています。
先週もニュージーランドの首相が、世界でも稀に見るコロナ対応で成功して、
彼女の率いる政党が第一党になったということがニュースになっていました。
いろんな国家元首が注目されていますが、
もし皆さんに権利を与えられるとしたら、
どの大統領やどの総理大臣の前に出たいと思いますか?
どの国家元首の前に来たい?会いたい?
下手をすると、自分の健康や命が損なわれる可能性がありますから、難しいかもしれませんが、
私はメルケルさんに一回会ってみたいと思います。
私たちが、皆さんが、首相や総理大臣の前に出る、大統領の前に出る、
それはですね、今でこそいろんな国家元首問題がありますが、本来は厳粛なことですね。
身の引き締まる思いをすることです。
パウルの時代は今以上にですね、皇帝カイザルの前に立つということが恐れ多い、厳粛なことだったわけです。
ましてや今、イエス様を信じて私たちは神様の民とされました。
その私たちがやがて神様の前に立つ、そのことを考えるとどのように思うでしょうか?
その神様の前に立つ、あるいは国家元首の前に立つ、その時に少し想像してほしいんですが、
やっぱりそれにふさわしい洋服を着たり、立ち振る舞いをしなければいけませんね。
私は大学4年生の時に就職活動をして、ある朝面接のために背びろを着ていこうと思ったんです。
成人式の背びろを久しぶりに引っ張り出してですね、履いたらズボンに虫こわれて穴が開いてたんですよね。
でもしょうがないからそのズボンを履いていけないので、別のズボンを履いて出ていきましたけれども、
就職活動だけじゃなくて偉い人の前に出る時にはそれにふさわしい服装をして、そしてふさわしい立ち振る舞いをしなければいけません。
私たちが人間とは違って罪のない神様の前に立つ日、あるいはこの世の試験者に比べ物にならないほど偉大な神様の前に立つその厳粛な時を覚える時、
私たちは身のすくむような思いをするかもしれません。
でもそのような聖なる偉大な神様は、愛の神様、慈愛の神様です。
そして私たち一人一人に目を止めてくださる神様なんですね。
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そしてそのような神様は私たちに目を止めて、神様ご自身の前に出られるように、
神様自らが私たちを聖なるもの、傷のないもの、責められるところのないものとして立てるように選んで、そして今準備しようとしてくださっているわけです。
将来そうやって神の前に私たちは申し分のない姿で立てる、それは私たちの希望になるんですね。
皆さんどうも分かりませんけど、大統領や首相に関するニュースが飛び交っている中、どういう気持ちになるでしょうか。
私は正直に申し上げるとですね、すごく気持ちが重くなります。
こういう人が国の代表なんだな、実はすごくがっかりするんです正直に。
でも私はですね、その時に、でも私の本当の王様はイエス様であり、本当の仕えるべきお方はイエス様である。
その神様に将来会えると思う時に、将来に希望を見据えながら、今心を安らぐことができるわけです。
そして私たちはその神に会う、幸いだけではなくて神様に会った時に、罪がない身体を与えられます。
実は私たちが完全に罪がない身体、イエス様と同じような身姿で完成されるということをですね、専門用語で栄華と言います。
栄光のように栄光の栄に変わる。栄光の身体に変えられるということで栄華ということを覚えておいてください。
ですから私たちの神にあるゴールは、神の前で栄華されることだということですね。
そしてこのように神様の前で礼拝を捧げるということはですね、やはり神様の前に出るということの欲望演習です。
神の前に出るとき私たちは神様に礼拝を捧げるわけです。
そういう意味でこれは神の前に出る横演習としての礼拝であり、また私たちの未来には神が待っておられるということを忘れないための場所としての教会礼拝であるということも覚えておいてください。
未来について神の前に立つ希望ということでお話ししました。
2番目は現在について、それは過去に戻らないようにということです。
パウロはその将来を見据えつつ、現在の私たちの在り方についてこう語ります。
前に提示しました1章23節
ただし、あなた方は信仰に土台を据え、固く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく信仰にとどまらなければなりません。
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神様は完全に私たちを罪から解放して、栄華を保障してくださっています。
でも同時に私たちはその希望を持ちながら、実は神様に忍耐をもって、私たちの方も神様に外れることなく、神様に従い続けることを神様は期待しておられるんですね。
自分の意思で神様に従うということを期待もされているわけです。
ここの信仰にとどまらなければいけませんの信仰はどういう類の信仰か。
それはですね、信仰生活、イエス様を信じ続ける人生というそういう前半を表す信仰です。
だから天国の旅路を続けながらずっとイエス様を信じて生き続ける生活、そこにとどまりなさいとパウロは言っているわけです。
クリスチャン生活を続けているときにですね、私ももう30年近くイエス様を信じていますけれども、今でも古い自分に引き戻されるような誘惑を感じることがあります。
そしてパウロ自身もその力を知っていました。
そしてその過去の自分に戻らないように警告しながらこの言葉を述べています。
今日の冒頭ですね。
あなた方もかつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありました。
このように過去の姿をパウロは指摘しながら、そしてそこに後戻りしないように私たちに、この際の人々に警告しているわけです。
パウロも先週ですね、ローマの7章の御言葉を引用しました。
自分の中には罪があってしたいことができないという、
その彼が実感しているように、
人間の内側には、たとえイエス様を信じても、
罪なる生活に引き戻す力が働く、
そのことを彼は知っていたわけです。
イエス様を信じても私たちの中に残る性質、
それをですね、この聖書では古い性質と言ったり、
ここに表している肉という言葉で言います。
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英語でフレッシュって言うんですね。肉。
この肉というのは何度も言いますが、
私たちの中にあってイエス様を信じても、
この罪に誘う、そのような罪に誘われる部分を肉という言葉で、
聖書はまたパウロが表現しているわけです。
このようにですね、私たちが実は肉体という言葉があるように、
体を持って生きている限り、
この肉とは、肉から自由になることができないんですね。
ちょっとイエス様寒くないですか、寒いから。
大丈夫ですか。
私たちはこの体を持って生きている限り、
この罪に誘う性質の肉とは、
肉から自由になることができないんですね。
肉と罪の性質は切っても切れない。
肉体と肉は切っても切れない関係にあります。
教会でですね、がん哲学外来カフェというのをやっていますが、
このがん細胞の問題は、
異常に増殖し続けていってしまうことですね。
そして増殖し続けていって、残念ながら最後は、
正常な臓器にまで蝕んでしまって、
宿主とともどもですね、がん細胞も死んでしまう。
そのようなことがもたらされる。
それががんの問題です。
宿主が死ぬと同時に、実はがん細胞も死んで終わりを迎えるわけです。
誤解を受けてほしくないのはですね、
ここで当然がんと罪は同一視してもいけませんし、
人間の病気を罪の結果という風に考えても、
決してなるわけではないんです。
でも例えとして今申し上げますけれども、
人間の肉体が死を迎えると、がん細胞も死を迎えるように、
実は人間の罪とまた肉の性質も、
その人間が死んでしまえば滅んでしまって、
その肉の活動も終わるということが、この聖書の教えなんです。
実はここにイエス様の十字架の意味があるんです。
今日パウロがこのように述べていますね、この22節。
今は神が御子の肉の体において、
その死によってあなた方をご自分と和解させて下さいました。
これはどういうことかと言いますと、
イエス様は十字架の上で文字通り、
この体を捧げて、血を流して、
罪をあがなってくださったわけです。
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そしてその時に何が起こったかというと、
ここにその同じ肉という言葉が書かれていることに注目したいのですけれども、
実はイエス様には罪がありませんでした。
でもこの私たちの肉の性質をその体に引き受けて、
イエス様が肉体を持って死ぬことによって、
神様の目からですね、そのイエス様の肉体と同時にですね、
肉なるものが死んだと見なされるということが起こったんです。
それがあがないなんですね。
イエス様がご自分の体を死に委ねることによって、
あがないが成立しました。
そして何が起こったかというとですね、
生きている私たちがその体を持って十字架の上で死んで、
罪を償ってくださったイエス様を信じる時に、
私たちの体は死んでいないですけれども、
神様の目から見たら、
私たちも実は一緒にイエス様ともに死んだと見なされて、
私たちの肉の性質も死んだと神様に見なされているということなんですね。
そしてそのようなことをパールはこのように書いています。
神はご自分の御子を罪のために、
罪深い肉と同じような形でお使わしになり、
肉において罪を処罰されたのです。
イエス様が体を持って十字架の上で死ぬことによって、
イエス様がその肉体を持って、
そしてその肉の性質とともに処罰を受けてくださった。
私たちの身代わりになってくださった。
それが十字架の上がりの意味なんです。
その微妙な点を注意しながら、先ほどの癌の例になぞれるならば、
例えば癌細胞を持っていても、その癌によっては死なずに、
天寿を全うしてこの世の生涯を終えるならば、
私たちはやがて新しい体を、
病のない体に引き換えることができるわけです。
そのように、私たちはイエス様を信じるならば、
罪によって私たちは今すぐに死ぬこともなければ、
罪によってイエス様に裁かれることがないわけです。
そして、たとえ私たちはこの世の地上の生涯を終えて、
罪を持ったまま死んでしまったとしても、
イエス様と共に蘇らされて、
罪がないイエス様と同じ体として蘇って、
神の前に出ることができる。
それが福音であり、希望なんですね。
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そのように私たちは今、たとえこの世の中、この世に生きていて、
肉の性質に誘われて、罪に気持ちが誘われたとしても、
イエス様の十字架を信じているならば、
その肉において死んだものとして、神の裁きに遭わない。
それが福音だということを覚えておいてください。
それでは最後、さらにこの現在について、
このイエス様の許しを覚えて、
私たちは堅固な建物を建てるように生きなければいけないということなんです。
このイエス様の十字架の上がないの効力は、
信じる私たちに今も影響を与え続けています。
そんな中で私たちは、慣れ合い、信仰に慣れてしまって、
締まりがなくなって、罪に身を委ねてはいけないんですね。
許されているからと言って、
縄々になって、罪に身を委ねてはいけないわけです。
しかし私たちは、たとえ自分が縄々にならなかったとしても、
イエス様に精一杯従っていこうとしても、
時には肉の力に負けて、
自分をこの罪に委ねてしまうことがあるわけです。
それこそパウロが言う、
したいことをできないでしたくない悪を行ってしまうということが、
残念ながらこの生涯の中で起こってくるわけです。
でもたとえ肉の誘惑に負けて、
罪に身を委ねたとしても、
自分を責める必要がないんです。
その時は、イエス様の十字架を思い出して、
こう祈りましょう。
レジュメにも前にもこのように記しました。
イエス様、十字架の上でその体をもって、
私の罪をあがなってくださったことを感謝します。
どうぞ、ご精霊によって、
これからも私をあなたのように変え続けてください。
このような祈りです。
イエス様の十字架のあがないを思い出して、
罪の許しを感謝する祈り。
そして、新しく精霊が与えられていますから、
その精霊にまた座って、
イエス様の身姿に変え続けてくださるように願う祈り。
このような祈りをもって、
この世の旅路を新たに歩み続けることができるわけです。
これを続けていくときに、
罪の性質が残りながらも、
私たちはこの世において、
イエス様と同じ姿に変えられ続けていくんです。
これを、キリスト教の専門用語では、
聖歌と言います。
聖書の聖に分ける。
24:00
さっきは英歌ですね。
天国に行ったら、
罪なき者として完成するのが英歌です。
私たちはこの地上のプロセスを通して、
立場だけじゃなくて、
実際に清められ続けていく、
それが聖歌の歩みということです。
それを覚えておいてください。
そして実はそれが、このパウロが、
今日の23節で、
私たち、この際の人たちに進めている生き方です。
こう述べていますね。
あなた方は信仰に土台を据え、
固く立ち、聴いていれ福音の望みから、
外れることなく、
信仰にとどまらなければなりません。
少しこれを詳しく話しますけれども、
これはですね、
土台を据えという言葉でわかるように、
家を建てるイメージと語られています。
先に言いますけど、
外れることなくというのはですね、
これは揺り動かされるという意味です。
地震や台風で家が揺れますよね。
そういう言葉なんです。
だからあなたは揺り動かされてはいけません、
とパウロが言っているんですね。
これを一個ずつ分析して説明しますと、
信仰に土台を据えというのはですね、
これは土台はイエス様と、
イエス様の言葉は聖書です。
家を建てるときに地盤調査をするんです。
すごく深くまでですね、機械を持って、
地盤をですね、
どんな地層にどんな粘土があるか、
どんな石があるかってことを
奥深くまで調べて、
十分な深さまで杭を打ち込むんですね。
その土台がしっかりしなければ、
家の基礎ができないわけですけど、
私たちの信仰の土台は、
イエス様ご自身、
さっき言った救い主イエス様と、
聖書の言葉が土台です。
この固く立ちというのはですね、
土台のように立て上げることです。
昔は橋だとかありましたね。
古い家には大黒柱がありましたけど、
今は通売法なんていうのは、
壁自体がこの建物されています。
教会の壁を見てください。
この剣道軍の横と後ろに
十字のこれが入っていますね。
これはですね、
大新北京のために、
後で入れたものです。
そこの後ろにも入っています。
ここにもそのようにですね、
大新北京のために入っています。
これもですね、
大新北京のために入っている、
柱の一種ですね。
ですから土台をしっかりして、
ちゃんと支える柱を立てないと、
建物というのは安定しないわけです。
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そのように私たち自身がどう生きるか、
固くそのような良いものを立てる。
そして福音から外れることなくというのはですね、
いろいろな人生の台風や地震、
あるいは罪の誘惑が訪れてもですね、
揺さぶられて崩れることがないように、
そういう家をクリスチャンとしてあなたは建てなさいと、
パウロは現在の私たちにチャレンジしてくるわけですね。
つまりイエス様や聖者の言葉を土台に、
自分の内側の肉の問題とか、
外側から私たちを罪に誘う誘惑があったとしても、
崩されずに信仰生活を続けなさいと、
パウロは今を生きる私たちに、
そして殺さない人たちに進めているわけです。
そしてそういう人たち、私たちが一人の国民として、
この地上を歩みますし、
そしてこの一人一人がですね、
神の国の議事大典として集まっている場所が、
教会側であるわけなんですね。
そしてそういうイエス様と聖者を土台にした、
揺るがない教会を建て上げなさいと、
パウロは言っているわけです。
このように私たちは現在生きる中で、
イエス様その御御霊を土台にして、
良い家を建てるようにしっかりと揺さぶられることなく、
この地上の障害を歩むように、
聖書から進められているわけです。
そしてイエス様は、
例えでもこのように述べておられるわけですね。
少し長いですけど引用しました。
マタリの福音書から引用しました。
だから、私のイエス様のこれらの言葉を聞いて、
それを行う者は皆、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って、洪水が押し寄せ、
風が吹いてその家に打ちつけたが、
それでも倒れませんでした。
岩の上に建てられていたからです。
私のこれらの言葉を聞いてそれを行わない者は皆、
砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
雨が降って、洪水が押し寄せ、
風が吹いてその家に打ちつけると、
倒れてしまいました。
しかもそれはひどい倒れ方でした。
マタリの7章24から27です。
イエス様の十字架の許し、
またイエス様と神様の御言葉を土台にしながら、
私たちは神の民として自分の人生において、
また教会において、
しっかりとしたものを建て上げていくお互いでありましょう。
お祈りします。
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天の神様、皆を賛美いたします。
あなたがパウルを通して、
私たち神にあって備えられた素晴らしい将来を、
その希望を押し出してください。
感謝いたします。
この世の現実に直面するときに、
そのようなものを見失うがちになりますけれども、
どうか御言葉を通して、
教会の生活を通して、
そのイエス様にある栄華の希望を忘れることがないように導いてください。
どうかまたこの地上の旅路を日々歩むときに、
あなたの御言葉、あなた御自身に無礼を据えながら、
しっかりとした家を建て上げ、
あなたに従っていくことができるように、
どうか導いてください。
罪の許しが必要なときにはどうか、
イエス様の十字架の裂かれた身体、
流された血を思い出し、
あなたのその福音に
拠り所を施すことができるように導いてください。
この願いを私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それではいつものようにしばらくお祈りしましょう。
御言葉に応答し、また献金の祈りはありませんけど、
まさに一緒に歩んでいく、
その自ら捧げる祈りとともに、
しばらく黙祷の時間を持ってください。