2020-10-11 33:55

#27/20/10/11 和解と教会

コロサイ-20からのメッセージ。2020年10月11日録音。分断の時代に考える、贖い、和解、教会。
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コロサエギトの手紙の1章、18節から20節、新海耶生書2017年版でお読みします。
また、巫女はその身体である教会の頭です。巫女は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。
こうしてすべてのことにおいて、第一のものとなられました。 なぜなら、神はご自分の導いたものをすべて巫女の内に宿らせ、その十字架の地によって平和をもたらし、
巫女によって巫女のために万物を和解させること、
すなわち、天にあるものも、地にあるものも、天にあるものも、巫女によって和解させることを良しとしてくださったからです。
以上です。今日は和解と教会と指して、このところから見事を忘れています。
おはようございます。10月第2週になりました。先週は台風14号の接近が心配されましたけれども、
本州上陸を免れて、伊豆大島など、伊豆諸島など少し大変なところもありますけれども、
去年のような災害はとりあえずなくて安心して、しかも少し晴れてきましたね。
暖かい晴れやかな中で共に礼拝できることを感謝しています。
この際見ての手紙をずっと学んできました。この際は日本から見てこの辺ですね。
パウロの連動旅行の、エペソにパウロが滞在していたときに、ここに集っていたエパフラスという人が、
言葉を聞いてイエスさんを信じ、このエペソから少し150、160キロの中に入ったこの地域で、
彼はエパフラスが伝導しできた教会です。
いろいろ、イケオトとかですね、ギリシャ哲学の影響などが強い、そして揺さぶられた信仰があった教会です。
いつも言っていますけれども、いわゆるイホウ人と言って、ユダヤ人じゃない、神の民でなかった人がクリスチャイになったという、そういう課題が当時ありました。
そしてその中でですね、今日のテーマの一つとそれと関係していますけれども、和解という問題がありました。
英語でリコンシリエーション、和解ですね。今日のテーマは和解です。
まず、罪を犯した私たち、そして、今日は後で詳しく見ますけれども、その罪の影響にある神様の秘蔵物、万物を神様がご自身と和解させる、
その深い計画があって、そのためにイエス様が十字架の上で死んでくださったというのが、今日のミコトバのようやくです。
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で、そのイエス様が命をもって罪を償うという行為をあがないと言います。
今日の箇所の少し前ですね、1章の14節、ちょっとここには表示してませんが、1章の13節から読んでいますけど、こういう信仰が背景にあります。
道地は私たちを暗闇の力から救い出して、愛する巫女のご支配の中に移してくださいました。
そして、この巫女にあって私たちはあがない、すなわち罪の許しを得ているのです。
このあがない、罪の許し、神との和解ということが今日のテーマです。
ところで、このあがないという言葉を理解するために、架空の材料があります。
よくないことですけども、ある事件が最近ニュースで話題になっていますね。
それは、コロナ禍の中でテレワークが増えました。
いわゆるインターネットを使って会社の資料を出し入れするんですけども、
その中から社員や会社のコンピューターに悪意のある人がコンピューターウイルスを送りつけます。
そして何が起こるかというと、このようにパソコンを開くとロックされちゃうんです。
鍵がかかっちゃう。
この鍵がかかっちゃって、ビクッとするかもしれませんけども、鍵がかかってしまう。
このウイルスのシステムのことを英語でランサムウェアと言います。
どういう意味か。
このランサムウェアというウイルス。
それが入るとコンピューターが動かなくなって、日本の一流企業でもそういうことが起こりました。
そしてコンピューターをもう一回動かすために、犯人は身のしろ金を要求するんです。
どういう形か分かりませんけども、それ相応の高額な身のしろ金を払えば、
このプログラムを解除してやるから、どことこの口座に送れということをして、
高額なお金を払ってこのプログラムを犯人に解いてもらうというのがこのランサムウェアのやり方です。
実はこのランサムという言葉は、身のしろ金という意味があるんです。
まず名詞で。
実はランサムという英語の動詞は、あがなうという動詞なんです。
つまり聖書の時代よく言われたのは、奴隷が自由の身になるために、
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善意のある人にお金を払ってもらって、身のしろ金を払ってもらって、自由にしてもらう行為をあがなうと言います。
時代劇でもよく、ちょっと語弊あるかもしれませんけど、吉原の人たちが身受けをしてもらうってありますね。
そのお金を払って自由にしてあげる行為をランサムあがなうと言うんです。
実はこれがイエス様の十字架の意味、十字架の血の意味だと言うんですね。
イエス様が十字架で死んで血を流してくださった。
そしてお金ではなくてご自分の命をもって、私たちを罪の奴隷から、黒闇の支配からあがないだしてくださった。
それがあがないであり、また神様の怒りから私たちを救い出して、神との和解を成り立たせてくださったというのが今日のテーマです。
このような和解というテーマを今日は三つの点から学びます。
まず私の和解、あなた自身の個人の和解からだんだん広げていきます。
そしてそれが私から教会、そして教会から全世界や全宇宙という万物という、この三段階で今日は学んでいきます。
まず最初の点ですね、私たちのあがないということです。
今日読んだ聖書の故事をもう一回復習しますが、19節20節を抜粋して書いてあります。
なぜなら神は、御自分の満ち満ちたものをすべて御子の内に宿らせ、その十字架の地によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させることを助手としてくださったからです。
ここではですね、先ほど言った平和、神様との間の平和、和解を成り立たせたイエスタムの十字架がありますけれども、万物と神との和解の中の万物に私たち一人一人がまず含まれているわけです。
皆さん、あなた一人が万物のうちの一人です。
なぜそれが必要か、それは私たちに罪という問題があるからです。
神との和解が必要なのは私たちに罪がある、そしてその罪がある動かぬ証拠をパウロは別の聖書の図書でこう述べています。
ローマ人の手紙の7章15から17、ちょっと読んでいますね、前に出ていますが、
私には自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
もし自分のしたくないことをしているとすれば、立法、つまり神の立法は良いものであることを認めているわけです。
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ですから、それを行っているのはもはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです、と言っています。
私の中に罪がもう住みついている、そして私の意思にそれが打ち勝ってですね、自分がしたくないこと、憎むことを行わせている、それは罪の性質です。
ただその後の箇所で私は無力な人間ですとさえ告白しています。
そのような罪の悩みは皆さん、私たちそれぞれ共通しているかどうかと思います。
残念ながら私たちにはその行動の罪や思いの罪、あるいは気づかぬ罪、いろんな具体的な罪があるかもしれません。
しかし、罪の本質は何でしょうか。
罪の本質、それはですね、私たちを作り愛してくださっている神様を無視している、またその神様の愛に気づかず、知らない間に神様を傷つけているという、それが罪の本質です。
ですから、あえて厳しいことをパールは言っていますが、別の聖書の箇所で、私たちは本来神の怒りを受けるべき対象でしたと言っています。
なぜか、強い神様は罪を放っておけない。
罪を放っておいて人間をそのまま受けてしまえば、神の正しさと矛盾するから。
残念ながら私たちは、罪ゆえに神の怒りの対象だったとパールは言うわけです。
しかし、ここで大事なことはですね、ちょっと人間関係を考えてみてください。
もし、私が誰かを傷つけた場合、私を許すというのは、その許す主導権はどっちにありますか?
相手にありますよね。
先週、ちょっと具体的に言うのもなんですけれども、生きる袋のある事件が、交通事故が話題になりました。
で、裁判なんかいろいろ定義で報道されますけれども、いわゆる訴えられている被告がですね、
無罪訪問になるためには、自分が刑罰を受けるか、あるいは訴えている方の原告ですね。
訴えている方がもう許して訴えを取り下げる。
そうしない限り、訴えられている被告は罪に問われるわけです。
だけどそれは、被害を被っている方が許すという主導権を持っているということです。
それはつまりどういうことかというと、私たちを許す主導権は私たちではなくて、
神様との関係においては、神様の方に主導権、イニシアチブがあるということです。
その神様は実は、その主導権を怒りを下す罰に委ねないで許す方へと働かせてくださったのが福音なんですね。
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神様ご自身が私たちの許しのための道を開いてくださったということが福音です。
それが実はイエス様の十字架だということですね。
先程も言いましたけれども、神の主導権を持った許しの業がここに記されています。
今日の歌詞をもう一回読みますね。
神はご自分の導したものをすべて御子の家に宿らせ、その十字架の地によって平和をもたらし、御子によって御子のために万物を和解させました。
と言っています。
先週のテーマ、来なかった方はレジュメで復習してみてください。
先週のテーマはですね、イエス様は見えない神のアイコンだ。
見えない神が100%神であり人間となったのがイエス様だということでした。
今日はそこから派生してですね、そのイエス様が神として地上に来られた、あるいは父なる神様がイエス様を地上に送った最も大事な意味。
それが今日書かれています。
それはここです。
十字架の地によって和解をもたらすためだと言うんです。
本当は罪がない方が十字架の上に死んだ。
罪がないからこそ罪ある人間の身代わりになれた。
そういう真理もあるんですけども、
今日一番大事なことは、この神様ご自身が主導権を持って、
神様ご自身の満ち満ちた神のご性質を宿したイエス様が十字架で血を流すことによって、
私たちの身代金が払われ、赤縄れ、和解が成立したということです。
もしですね、自分が被害者であれば、時としてですね、
嫌々ながら許すことがあると思います。しょうがないから許すように。
でもですね、神様は喜んで許しの道を開いてくださって、
イエス様も喜んで私たちのために十字架の上で死んでくださったということが、
実は今日の御言葉をよく見るとわかるんです。
実は今日の御言葉の、ここのですね、前半の部分は日本語に訳しされていないんですが、
ギリシャ語と英語で見るとわかります。
言語ではですね、この、神は御自分の導したものを全て喜んで御子の地に宿らす、
この喜んでという言葉がですね、元の言葉に入っています。
For God was pleased to have all his fullness dwell in him.
神様は喜んでイエス様に御自身の性質を宿らせ、喜んで人間を贖われたというニュアンスが入っています。
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ちょっと難しいことでですね、この言語はエウドキアといってですね、
クリスマスの天使のメッセージで、
糸高きところには栄光が、地に住む人々には平和がありますようにというですね、
そこにも訳しされていない言葉なんですけど、地に住む人々、神が喜ぶ人々には平和があるようにという、
この神の無情の喜びがここに込められた、そういう言葉が入っています。
何度も言いますけども、私たちへの神の許しの行為というのが喜びの行為なんです。
じゃあどう言えますか。
私も皆さんと同じ地上を旅するクリスチャンですが、やはり今でもまだ自分の罪に苦しんだり悩んだり、
行動に起こさなくても、思いの中で悪しきことを考えてしまう罪の性質に失望することがあります。
でもイエス様を私たちが救い主と信じたならば、
もうすべての罪の身の白金は神様に対して払われている十字架道に。
しかも神様は喜んで私たちを許してくださる、許してくださっているお方なんですね。
そしてイエス様が死にの中から最初に復活したように、死者の中からの復活に私たちも預かるわけです。
そして私たちはイエス様とともに新しく神の家族に生まれた、いわゆるボーンアゲインにしたわけです。
そのように今私たちは神にあって喜びをもって許され、喜びをもって神の家族の一員とされている。
そのことをまず覚えておきましょう。
2番目、神と和解した私たちと教会の関係です。
今日読んだ箇所の冒頭でワクを述べていますね。前に掲示しました。1章18節。
2個はその体である教会の頭です。こうしてすべてのことにおいて大事なものとなられました。
この大事なものというのは先週見たイエス様の超越性ということで関係しています。後で復習してみてください。
ともかくここでの強調点は、イエス様は体である教会の頭だというんですね。
新しく生まれた赤ん坊に家族があるように神様を信じ新しく生まれた私たちには神の家族としての教会があります。
今コロナの中で個人主義ということが突き進んでいると同時に新しく絆ということが見直されていますね。
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そしてこの教会というのは絆という部分に関係してくる部分です。
私たちはもしかしたら自分の意思でクリスチャンになったとかアブディセムを受けたと考えるかもしれません。
それも間違いではないんですけれども、それ以上に私たちは神に選ばれ、そして一人で生きていくのではなくて
キリストの体である教会に組み入れられたものなんですね。
そのことをこのパウロはここでも言っています。
先日お話した2種類の教会があるとお話ししました。
1つは分かりやすい地域教会、英語で言うローカルチャーチ。
例えばこのニーザ式バブティスト教会とか、世田谷教会とかいろいろあるわけじゃないですか。
その地域教会という考え方が1つ。
そしてもう1つは普遍的教会、ジェネラルチャーチという考えです。
それがここの部分に反映されています。
つまりそれはパウロから、使徒の時代から始まって教会がずっとできてきました。
その歴史上全ての教会を含む教会。
そして日本だけじゃなくて、あるいは埼玉だけじゃなくて、国境を越えた1つの教会。
つまり時代と地域を越えたですね。
それ全部で1つの教会だという考えがここにあります。
そしてその頭は牧師でも妻子でもなくイエス様だということなんですね。
実はそのイエス様が頭であって、私たちは1つの教会の民だということを
パウロは同じコロサイトの手紙でこう表現しています。前に掲示しました。
3章11-12、前にあるのを読んでいますね。
新しい人、私たち新しい神の民は作り主の形に見せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
その次です。そこにはギリシャ人とユダヤ人、カツレーノーム、ミカエ人、スクテア人、奴隷と自由人というような区別はありません。
キリストは全てであり、全てのうちにおられるのです。
コロサイト3-11-12、ここにありますようにこの当時から国境や人種に関係なく私たちは
1つの神の国の民、1つの教会の民だということが言われています。
最近もう一つ話題になっていることがアメリカの大統領選挙ですね。
こないだの副大統領の討論会でアメリカ人のコメンテーターがね
前回の大統領選よりずっとまともで安心しましたって言ってるのを見て笑ってしまいましたけれども
21:00
このアメリカの今の大統領の問題や、あるいは日本の首相の問題をあるコメンテーターがこう言っていました。
その2人の特徴は分断を生み出すことだと言います。極端なことを言って分断を生み出すこと。
そしてアメリカの教会がですね、実はトランプを支持しています。
福音派と言われる教会の中であります。非常に残念です。
誤解を恐れずに言いますけれども、私たち、このうちの教会も日本で言うと福音派なんです。
でもですね、翻訳の問題で福音派と言ってもですね、アメリカのトランプを支持している教会とは違いますから、そういう意味では安心してください。
アメリカのキリスト教徒の学者でさえこう言うんです。
トランプ大統領を無批判に支持している教会は、教会本来のあり方や使命を忘れているという学者がそのように批判しています。
ともあれ、アメリカの大統領はですね、例えば極右のプラウド・ボーイズという団体を抑えるどころか、その働きを借り立てるような発言をしてですね、
まさに悪党のお頭、悪党のヘッドみたいなですね、そのような大統領ですけれども、教会の本当の頭はイエス様である。
私たちが忠誠を尽くすのはイエス様である。
そういうことを忘れてはいけないんです。そしてその本質は和解にあるわけです。
油断ですけれども、日本でもですね、第二次世界大戦中、健全な教会は国から目をつけられました。
国体に背いて、キリストを神とするのか、キリストの王国を信じるのかということで、投獄された牧師やクリスチャンがいました。
今、朝ドラでエイルというのをやってますけれども、あそこで非常に珍しいのはですね、この戦時中に、いわゆるキリスト教徒が簡単な剥愛にあったという、
そういうことをですね、一般のドラマでやっている、すごく非常に珍しく貴重なケースだと思います。
ちなみに、あそこのキリスト教の交渉をしている人はですね、立教大学のキリスト教学の先生ですね、西原先生という先生ですけれども、
何やともあれ、日本でもかつてそういうことがありました。
そして私たちの本当の使えるべきお方、頭、王はイエス様だ、そういう国民が集まっているところが教会だというところです。
そしてそのイエス様を王として頭とする、歴史的に一つの教会に私たちは属している。
それはですね、新しい国の民になった、新しい国に属しているという意味にもなるわけです。
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ニーザの教会に属している、そこの礼拝に出席しています。
でも実は私たちの本質はですね、国家や歴史も超えた、一つの大きなキリストを貸したとする、
王とする、神の国としての教会に属する、神の国の民だということを忘れないでください。
もう一つ先週の10月9日にニュースがありましたが、ノーベル平和賞をですね、WFPが受賞しました。
この世界食糧計画が選ばれたニュースでですね、このWFPのアフリカ出身のスポークスマンが普通の話をしている時に
臨時ニュースとしてですね、ノーベル平和賞を受けたということを聞いてすごく喜んでいた、
その映像が印象的でしたけれども、その受賞の経緯について、ノーベル平和賞の選考委員会、ここに述べているんですね、
WFPはワクチンができる日まで、食糧こそが本当に立ち向かう最も良いワクチンだとして、
世界的な大流行の中でその取り組みを強化するために目覚ましい努力をしてきたといって評価されているわけです。
実はこのノーベル平和賞、歴史を遡るとご存知ですよね、マルチン・ルサー・キング博士は1964年にノーベル平和賞を受賞しました。
その15年後の1979年にマザー・テルサが同じノーベル平和賞を受賞しました。
ノーベル賞を受賞すると、去年日本人を受けましたけれども、日本人として喜ばしいですし、誇り高いことであるかもしれませんよね。
同じように私たちはですね、同じ一つの神の国の民として、同じ国民のキング博士やこのマザー・テルサがノーベル平和賞を受けたということを喜ぶことができるわけです。
私の国の民がとかですね、私の国民がとか、私の兄弟姉妹がノーベル賞を受けたというぐらいですね、私たち彼らと彼女らと教会にあって一つの国家族としてつながっているわけです。
名誉あることなわけです。
このノーベル平和賞のことを例えましたけれども、そういう意味でも私たちはキリストを頭とする一つの教会に属するということは誇り高いことである。
私たちの拠り所であり、アイデンティティなどということを覚えておいてください。
そして、実は文壇ではなく、この世界的な和解ということの印としての教会が存在し、その使命が私たちにも委ねられているわけです。
最後の点、世界的・宇宙的和解ということを見ていきましょう。
パウロは先ほど述べましたけれども、1章20節でこう述べています。
その和解、それはすなわち、天にあるもの、地にあるものも、天にあるものも、巫女によって和解させることを神が良しとしてくださったということですね。
27:11
この御言葉によると、イエス様の贖いの技、和解の計画は私たち個人にとどまるのではありません。
イエス様の贖いの効果と規模は、地球規模にまで及ぶ、もっと言うと宇宙規模にまで及ぶ、そのように万物と言っていますからね。
そのような範囲までイエス様の贖いと和解が及ぶ、それが神の計画だ、私たちの想像を超えたものです。
どういうことでしょうか。
そういうことですので、簡単に、今皆さんに知ってもらいたいがために簡単に例を挙げて説明します。
聖書によればですね、神に作られた秘蔵物、世界も宇宙も、罪の影響の中にあって苦しんでいて、贖われることを求めて埋め入っていると言っているんですね。
パールがこのように述べています。前に掲示しました。
ローマ8章21-22
秘蔵物自体も滅びの束縛から解放され、神の子供たちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは秘蔵物全体が今に至るまで、共に埋めき、共に産みの苦しみをしていることを知っています。
ローマ8章21-22
どういう仕組みか、詳しく今説明しません。しかし、聖書によれば、神が作られた秘蔵物はですね、人間の罪によって、その秘蔵物自体も苦しみを埋めているというわけです。
例えばですね、数年前、ストローが刺さってウミガメのことが話題になりましたね。
急に店頭からストローがなくなりました。
ドリンクバー行ってもですね、今ストロー置いてない。
あるいは、先週もう一つのニュースは、北海道のある町がですね、原発の処分場の第一審査に名乗りを挙げた。
原発の核のゴミが無毒化するまで何年かかるか知ってます?
調べたらですね、20万年かかる。
で、昨日別のテレビで大島のことやってましたけど、伊豆大島が噴火して今の形の原型になったのが、18000年前なんです。
伊豆大島で18000年前なのに、原発のゴミが無毒化するまで10万年かかるわけですよね。
そして宇宙に目をやれば、このようにですね、今、宇宙ゴミということが問題になっています。
これ絵にありますけれども、大型バスぐらいの衛星が捨ててあったりとか、
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ソフトボールよりちょっと大きいぐらいのゴミがですね、宇宙に2万3000個少なくとも散らばっている。
これ時速ですね、2.8万キロで地球の周り、このゴミが全部回っているんです。
それが衛星にぶつかったらとんでもない事故になる。
このようにですね、いろいろ環境破壊、環境汚染のことを例に挙げましたけれども、
被造物があがなれる日を待ち望んで埋めているということが何となく分かるのではないかと思います。
そして先ほども言いましたが、これらの苦しむ被造物を、
罪の影響からあがない救うところまで、この神様のあがないや我が家の計画は至っているということです。
そしてそれはですね、聖書が述べている新しい天と地、再創造ということと関係しています。
ちょっと理解に苦しむ範囲の大きいことかもしれませんが、
そのような信仰というか伝統が聖書にあるということを皆さんぜひ知っておいてください。
さらに実はその和解の使命を神様は私たち教会に委ねてくださいました。
この神のあがないと和解がやがて来る、起こっているということを示すために、
このようにクリスチャンが存在し、またこのように民が教会に集まり礼拝を捧げている、
そのように私たちが選ばれているということをぜひ知ってください。
理解することが難しいかもしれません。
しかし私たちがここにいること、神を礼拝しているということ自体がその神の存在、
全世界的なあがないの証になっている、そのこともよく知っておいてください。
最後に新しい創造の御言葉を読んで、説教を終わりたいと思います。前に掲示しました。
神様の御言葉です。
私の創る新しい天と新しい地が、私の前にいつまでも続くように。
手紙告げ、あなた方の子孫とあなた方の名も、いつまでも続く。
イザイアル66-22
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
私たちをあがなうために、神なるイエス様をこの地に使わし、
十字架のあがないその尊い父をによって、私たちの罪を許してくださったことを感謝いたします。
どうかそのあなたとの平和の歩み、あがないの幸いを、
私たちがさらに深く、また広く知ることができるように導いてください。
弱い影のある私たちですが、どうかそのあなたの和解の福音を明かしするべく、
33:05
私たち一人一人をまた教会をお持ちください。
この願いを、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それではしばらく祈りましょう。
神様の御言葉に導かれて思うところをどうぞ神様にお祈りください。
33:55

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